2017/12/03

塔の鍵

 

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旅の扉の渦を抜け出たリュカだが、まだ抜け出た実感も沸かず、ただただ目を回しながらはいつくばるように外に出た。周りの景色を窺う余裕もなく、四つん這いになって呻きながら移動する。先が石段になっていることにも気付かないまま伸ばした手が宙をつかみ、バランスを崩してそのまま石段を転げ落ちてしまった。身体のあちこちを打ったが、その痛みに呻くのではなく、ただ胃の中が掻きまわされる気持ち悪さに、ひたすら低い声で唸っていた。
背を丸めて横になっていたリュカの近くに、勢いよく転がってきた者がいた。リュカと同じように石段を落ちてきたようだ。しかしリュカのように床に寝転がって唸り続けるでもなく、ヘンリーはすぐに身体を起こし、打った腕をさすっていた。
「ヘンリー、よく起き上がれるね……」
「相当気持ち悪かったけどな。あんまり使いたくはないな、この旅の扉ってやつは」
「僕はしばらく動けない気がする。うう、吐き気がする」
「吐くなら俺の見えないところでやってくれ」
「そこまで連れてってよ」
「本末転倒だ、そんなの」
転げ落ちてきた石段に背を持たれながら、ヘンリーはぼんやりと辺りを見渡す。リュカも身体をくの字に曲げて寝転がりながら、細目で周りの様子を窺った。幸い、辺りに魔物の気配はない。旅の扉がある石段の周りを囲むように、大きな石柱が何本も立ち、円形にぐるりと囲んでいる。そのすぐ外側には、水の流れる音が聞こえた。その爽やかの音に呼ばれるように、水の力で何とか気分を清めようと、リュカは石床を這いながら移動していった。
しばらくして気分も落ち着いた頃、二人はこの場所の独特な雰囲気にようやく気がついた。円形に囲む石柱には長い年月が感じられ、立派な白大理石の石柱にはところどころ苔むして緑色に変色している個所もあれば、風化に耐えきれずに折れて倒れている石柱もある。その一本一本が荘厳さを感じられるもので、石柱に囲まれたこの場所は何か神聖なものが祭られているのだと、誰もが気付くほどの特有な空気に包まれていた。
かつては信仰深い者の手でこの場所も守られていたのだろうが、昔よりも魔物の多くなった今ではこの場所に近づく人もおらず、人の手を離れたこの大きなほこらは時の流れるままに風化していった。ただ守る人がいなくなってもこの場所に魔物が入り込まないのは、ほこらの真ん中にある旅の扉の異質な空気が魔物を遠ざけているのかも知れないと、リュカは仰向けになりながらぼんやりと考えていた。旅の扉は恐らく、古代の人々が作り上げた魔力の結集のようなものなのだろう。古代の人間の強大な魔力を、周囲にうろついている魔物は本能的に嫌がっているのかもしれない。
「まだお昼くらいだったよね」
「そうだな」
「あの日記からだと、ここから北に向かった方がいいんだよね」
「修道院か」
「知ってる人がいるんだから、話も早いよ、きっと。早速行こう」
「動けるのか、お前」
「大丈夫だよ、たぶん」
そう言うと、リュカは勢いをつけて床から起きあがろうと上半身を起こした。しばらくそのままの体勢でいたリュカだが、急激に気持ち悪さがこみ上げてきたようで、今度はほこらを囲む水に頭から突っ込んだ。ガボガボと水の音をさせるリュカを横目に見ながら、ヘンリーは「どこが大丈夫なんだよ」と呟きながら、真上に輝く太陽を眩しそうに見上げた。



森に囲まれていたほこらを出て北に向かうと、間もなく何もない土地が広がっていた。風が吹けば砂塵が舞う。荒れ果てた土地が行き着く景色、砂漠がずっと遠くまで見渡せた。夏に近づく太陽の熱は、昼頃の今が最も容赦ない。しかしこの砂漠を越えなければ修道院には辿りつけないと、なるべく服やマントで肌身を隠しながら二人は砂漠に足を踏み入れた。
砂地はそれほど深くはなく、足を取られる心配はないが、木も岩も何もない見晴らしの良い砂漠の景色の中には魔物の姿をはっきりと捉えることができた。二人の目に魔物の姿が明らかということは、魔物も二人の人間の姿を認めているに違いない。しかし逃げようにも、身を隠す物影などは何もない。必然的に、魔物と遭遇する確率は高くなる。
「あまり戦いが好きじゃない魔物だといいんだけど」
「楽観的過ぎるだろ。戦いが好きじゃない魔物がどこにいるんだ」
「そうだね。それに、もうこっちに近づいてきてる」
「いかにも人間と戦うのが大好きだみたいな悪そうな面してるな、ありゃ」
北を目指す二人に向かってくるのは、二足歩行で進んでくる狼のような顔をした魔物の姿だった。どこか人間に憧れているのか、服を身につけ、腰からは手ぬぐいのようなものを提げ、武器には剣を手にしている。しかしピエールのように日々剣を磨いているわけではなく、刃零れしているのも気にならないと言うように、粗雑な扱いをしているのが遠目にも分かる。
砂漠の砂を蹴散らすように歩いてくる風貌は、まるでやさぐれた人間の姿だ。話も通じなさそうな相手を見て、リュカもヘンリーもデールよりもらいうけた剣を両手で構えた。装飾品にしてはそれなりに重いが、何度か剣を振るとすぐにその重さにも慣れた。
「こんなところで時間を食ってられない。容赦なく行けよ」
「分かったよ」
そう言いながらリュカが剣を構える姿を、ヘンリーは横目に見る。何かを思い出すように頭の中に映像が巡る。檜の棒を持つリュカの姿には慣れていて、剣を持つリュカの姿を見るのは初めてのはずだが、そんな彼の姿をどこかで見たことがあるような気がした。もしここが視界も利かないような暗い洞窟だったら、ヘンリーはリュカの姿に過去の記憶を重ねることができたかも知れなかった。
「こんなところに人間がいるとはなぁ」
人間の言葉を話せる魔物だったが、口から覗くぎざぎざの牙や相手を脅しつけるように剣を振り回す姿を見ては、到底話ができる魔物ではないと、リュカは魔物に話しかけるのを諦めた。
代わりに口にしたのは、呪文の言葉だった。リュカが呪文を唱えると、辺りの砂が突然舞い上がり、すぐに砂嵐となって彼らの視界を一面茶色く染めた。大きな剣を構える三体の魔物は、目の前を舞う砂から顔を背け、砂粒が目に入らないように後ろに下がり出した。その直後、砂を巻き上げた目に見えない刃が、魔物たちに襲いかかった。そしてその刃を追うような勢いで、リュカはすぐさま手にした剣で攻撃に移った。
茶色く濁る視界の中、ヘンリーも続けて剣を振う。三体の山賊ウルフはリュカの放ったバギマの呪文に傷を負ったものの、戦い慣れている彼らにとっては大したダメージとはならなかった。砂の中を突っ込んできた二人の人間に、刃零れした剣で応戦する。力は強いようだが、剣技はさほどではない。
ただ力任せに振われる剣は、一度受けてしまうと致命傷になりかねなかった。耳元で風の唸るような剣の風圧を感じながら、リュカもヘンリーもどうにか魔物の攻撃を避けて行った。
「避けるしか能がねぇのか、お前ら。それでよくこんなところを歩く気になったもんだな」
そう言いながらも、魔物は肩で息をしている。砂漠に照りつける太陽の力は容赦なく、ここに棲みつく魔物でさえもじりじりと体力を奪われてしまう。リュカとヘンリーに至っては、既に剣を持つ手に上手く力が入らなくなり始めていた。
このままでは魔物との戦闘中に干からびてしまうと、リュカは剣を握り直し、魔物の群れに突っ込んで行った。余りにも唐突なリュカの行動だったが、ヘンリーもそれに続いて短めの剣を両手で持ちながら砂地を蹴った。
二人の突然の攻撃に、山賊ウルフたちは見るからにひるみ、剣を構えることも忘れて慌てて逃げた。急に弱腰になった魔物の状態を見て、リュカは更に剣を突き出しながら魔物の中に突っ込んで行く。リュカの頭がどうかしてしまったのかと訝しみながら、ヘンリーも彼に合わせて攻撃の手を緩めない。こちらが攻撃の姿勢を見せればそれだけ、山賊ウルフたちは逃げ腰に拍車がかかる。表情も先ほどまでの自信に満ちたチンピラの様相から、大きな肉食獣に追いかけられる小動物のような必死さを見せている。
リュカの振う剣が山賊ウルフ一体の腕を掠めた。灰色の毛に覆われた魔物の腕から、一筋の赤い血が流れ落ちる。大した怪我ではないはずだが、剣の攻撃を受けた山賊ウルフは大仰に痛がり、精一杯顔をしかめながら傷口を抑える。
「いてぇいてぇ~、何してくれんだよ」
「そんな傷くらい大したことないはずだよ。僕たちは命を賭けて戦ってるんだから、それくらいで痛がらないでよ」
「いてぇもんはいてぇんだよ。ああ、こんなに血が……ひでぇ傷だぜ」
「んなもん、舐めときゃ治る程度のもんだろ」
あまりの痛がりよう、騒ぎように、リュカもヘンリーも困ったように攻撃の手を止めた。隙を見せる人間を見て、他の二体の山賊ウルフが攻撃を仕掛けてくるかと思えば、仲間の腕の傷を見て明らかに怖気づいていた。その証拠に、構える大きな剣先がぶるぶると震えている。
「きょ、今日のところは見逃してやるよ。今度あったらタダじゃおかねぇからな」
「じゃあここを通ってもいいの?」
「仕方ないだろ、通してやる。だが今度会った時にはなぁ……」
「今度会った時は俺たちも本気で戦ってやるよ。今は手加減してやってるんだ、ありがたく思えよ」
「な、なんだと、手加減?」
「そうかもね、呪文はそんなに使ってないし、この剣もまだ使い慣れてないからね。ピエールに手入れの仕方を教えてもらわないとなぁ」
「そう言えば、あいつらを置いて来ちまったな」
「とりあえず修道院に着いてから考えよう。早いところこの砂漠を抜けないと」
目の前の魔物には目もくれない状態で会話を始める二人の人間に、山賊ウルフたちは再び剣を構えようとしたが、すぐさま応戦の姿勢を取るリュカとヘンリーに、すぐに及び腰になった。
「ところでこの砂漠ってどれくらい歩けば抜けられるのかな」
まさか人間に質問されるとは思わず、山賊ウルフたちはしばらくぽかんとしていた。リュカの言葉に誰も反応しないのを見て、怪我を負った山賊ウルフが事態に気付く。
「え、ええと、人間の足だと二日はかかるんじゃねぇかな」
「二日? まじかよ。修道院に着く前に死んじまうぞ」
ヘンリーが不安そうに空の太陽を見上げる。空に輝く太陽は一面真っ青な空に浮かび、砂漠には当然木々などの植物の姿は見られない。日中通してこの砂漠を歩き続けるのは、今のリュカとヘンリーにとっては到底不可能に近いことだった。旅の最中、水と食料を積んでいる馬車は今、ラインハットの脇に止めてある。
「でも行かないと。急げば少しは時間を短くできるよ、きっと」
「魔物だっているんだぞ。そんなに上手く行くもんか?」
「この辺って魔物は多いのかな。どう?」
またしてもリュカに問い掛けられ、山賊ウルフは調子の狂うような微妙な表情をしながら、それでも応える。
「砂漠に好き好んで棲みつく魔物はそんなにいねぇよ。俺たちだって普段は北の橋を渡ったところの山に……」
「この砂漠を越える道を知ってるんだね。じゃあそこまで連れてってくれると助かるんだけど」
「……相変わらずだな、お前」
その後、一日半ほどをかけて、二人は山賊ウルフ先導のもとに砂漠を越えた。橋を渡り、少し進むと今度は山道が始まった。無言で進む彼らの頭上には今、月が浮かんでいる。砂漠での夜を体験してきた二人にとっては、山道での夜の過ごし方は幾分楽だった。日中は日照りに苛まれ、夜には寒さに悩まされる砂漠地帯に今度足を踏み入れる時は、万全の準備を整えてから行こうと、リュカもヘンリーも言葉を交わすこともなく各々肝に銘じていた。
夜の山道は魔物たちが行動していることが多いと、すっかり道案内役になった山賊ウルフが忠告してきた。二人はそれに頷いただけで、足を止めようとはしなかった。リュカとヘンリーが最も欲しているものは、水だった。山には川があるはずだと耳をそばだて、からからに渇いた喉を少しでも守るために、言葉すら交わさない状態が続いていた。
「じゃあ、俺らはこの辺で。頑張れよ」
リュカに手当てしてもらった腕の傷の辺りをさすりながら、山賊ウルフは少々名残惜しそうに二人の人間と別れた。たった一日半の行程を共にしただけだったが、人間の言葉を話せるだけあって、情が移るのも早かった。しかしリュカたちの仲間になることはなかった。彼らには彼らの生き方があるらしい。
魔物と別れた後、リュカもヘンリーも共に同じ時を思い出していた。あの大神殿建造の地から逃れ、樽舟に乗り波に揺られ、海辺の修道院に流れ着くまでの死にかけたあの時だ。あの時は運良く修道院で介抱を受けることができたが、山道を進む二人の視界は山道に遮られ、前を見通すことができない。修道院にたとえ明かりが灯っているとしても、この険しい道ではその明かりを見つけることは困難だろう。
だから二人はとりあえず、川を見つけようとした。水を体内に取り込まないと、このまま身体がばらばらになり、地面にこぼれていきそうだと思うほど、全身がカリカリに乾いているような感覚があった。
川は突然目の前に現れた。川とは呼べない沢ほどの小さな水場が足元に現れ、それに気付かないリュカが足を踏み入れ、転んでしまったのだ。リュカが転んだ音よりも、水が跳ねた音に耳が反応したヘンリーは、泥水になった沢の水を構わず口に含み、何度もそれを繰り返した。リュカに至っては沢に顔をつけたまま、水をごくごくと飲んでいる。
「泥水ってこんなに美味いもんだったか」
「僕たち、それを知ってたはずなんだけど、忘れてたね」
山道は木々に覆われているため、月明かりが地表を照らしていてもその明かりがさほど届かない。しかし水を得た人間二人は、ただそれだけで身体の様々な機能が回復したように、視界すらも利くようになった。生きるとはこういうことなのだと、木になる果物の実を見つけた時、リュカもヘンリーもそんなことを思っていた。
ごく細い月は明かりにも乏しいが、その小さな光が足元の水場に反射して揺れている。沢には流れがあり、流れる先を辿って行けばこの山道を抜けることもできそうだと、リュカとヘンリーは細い水の流れにぴったりと寄り添うようにして進み始めた。
人の踏み入れるような道などないような山だが、しばらく沢伝いに下りて行くと、いくらか人の足で踏み固められたような歩きやすい道に変わった。ヘンリーが周囲の様子を窺いながら指先に火を灯すと、森の様子は荒れたものではなく、人の手が入っていくらか整えられている様子が分かった。山に茂る山菜が丁寧に刈り取られている跡があったり、酢漬けにするための小さな実も、特定の場所だけが収穫されている。一日に採る量は決まっており、無駄に多くを必要としない修道女らしい作業がそこに見えた。
「近いね」
「見えないだけで、すぐそこなんじゃねぇのか」
「彼女らってそんなに遠くには行かないはずだもんね。もしかしたらもう修道院の敷地内に入ってるのかも」
「だけどこんな夜中に行くのも迷惑かもな。ここらでちょっと休んでから、朝になったら行ってみようぜ」
「ええ~、こんなところで寝るよりも修道院でベッドを借りた方がいいよ。ゆっくり休める」
「彼女らには彼女らの生活ってもんがあるだろが。邪魔しちゃ悪い」
「ヘンリーらしくないなぁ。君なら真っ先に『こんなところで寝るなんて冗談じゃねぇ、俺はとっとと修道院に行くぞ』って言いそうだと思ってたのに」
「ああ、やっぱり!」
「何がだよ」
「え、誰?」
二人の会話に混じってきた高い声に、リュカとヘンリーは身構えることも忘れて辺りをキョロキョロと見渡した。弱い月明かりの中に、人影がぼんやりと映っている。
「どうされたんですか、こんなところで。北に向かって行ったのではなかったのですか」
暗闇にはあまりにも似つかわしくない可愛らしい声に、ヘンリーは自分の気がどうにかしてしまったのかと頭を抱えた。火をともして声の主を確認しようともせず、ひたすら心を鎮めようと無言で呼吸を整える。
「ヘンリー、どうかしたの。とりあえず火をつけてよ。マリアさんの顔が見えない」
「リュカさんとヘンリーさんですよね。お声で分かります。お二人のことは一時も忘れることはありませんから」
「……俺の幻聴じゃなかったのか」
小さく呟いたヘンリーは、ようやく目の前に火を灯した。突然灯った橙の火に、眩しそうに目を細めるマリアの顔があった。二人の旅人の姿を見て、マリアは笑顔になるよりも先に、驚いた様子で二人の姿をまじまじと見つめる。
「一体何があったんですか、そんなにやつれた顔をして」
「久しぶりに飲まず食わずが続いちゃってね。とりあえず修道院で寝かせてもらえると助かるんだけど、いいかな」
「もちろんです。院の皆さんもお二人に会えるとわかったら喜ぶと思います」
「だけどこんな時間だ。みんなまだ寝てるだろ、さすがに」
「じきに起き出しますよ。修道院の朝が早いことはお二人も知ってらっしゃいますよね」
「それはそうだったけど、それにしても早起きだね、マリアさん。いや、早起きって言わないのかな、こんな時間じゃ」
三人の頭上にはまだ月が夜の闇を照らしている。木々の葉に遮られる月光は三人にはほとんど届かないが、月が白く輝いているのを見ると、夜の闇の濃さが一層深く感じられる。朝日が昇るにはまだまだ時間がかかりそうだ。
「修道女が夜更かしして院を抜け出すなんて、とんだ不良娘だな」
「不良娘だなんて、初めて言われました。でも、ヘンリーさんの仰る通りですね。こんなこと修道院長様に知られたら、追い出されてしまうかしら」
「修道院長様はそんなことしないよ。困ってる人を見たら、男の僕たちでも助けてくれるんだから。ということで、助けてくれるかな」
「もちろんです。ではお部屋の準備をして参りますので……」
ヘンリーの灯す火に浮かぶマリアの顔が消え、彼女は慣れた足取りで修道院へ戻って行く。しかし突然姿が消えたように見えたマリアの姿を追いかけるようなヘンリーの声が飛ぶ。
「マリアちゃん」
「え? あ、はい……きゃあっ」
暗がりに見えないマリアが草地に転んだのは、リュカにもヘンリーにも分かった。いくら慣れてるとは言え、明かりも何もない夜道を昼間のようには歩けない。起きあがるマリアの姿を、再びヘンリーが火を灯して確認する。
「大丈夫か」
「ご、ごめんなさい。いつも歩いてる道なのに転ぶなんて、お恥ずかしい」
「俺たちはここらで朝になるのを待つから、修道院の人たちが起き出したらまたここに来てくれるか」
「どうしてですか。お疲れなんでしょう?」
「いいから、そうしてくれ」
ヘンリーには決してマリアに命令したつもりはなかったが、マリアは彼の言うことに逆らえない威厳を感じた。親切心で逆らうこともできず、ただヘンリーの言葉に頷く。
「分かりました。ここは修道院の敷地内なので安心してくださいね。しばらくしたら、散歩に出かけたみぃも戻ってくると思います」
「ああ、あの猫だね。よく修道院の花畑にいたよね」
「そうです、夜になるといつもどこかに散歩に出かけているみたいなんですよ。猫の習性なんでしょうね」
「そっか。じゃあみぃが戻ってきたら一緒に遊んで待ってるよ」
疲れたとは言え、まだ余力のありそうなリュカの穏やかな声を聞いて、マリアは安心したように修道院へと戻って行った。ヘンリーが火を消すと、辺りは再び夜の闇に包まれた。細い月はまだ明るい。
修道院の敷地内だと聞いて安心したリュカとヘンリーは、その場でごろりと横になった。じっとして耳を澄ませば、懐かしく感じられる静かな波の音が聞こえた。ゆとりのできた心で、ようやく潮の香りを感じることができた。
仰向けのまま空を見上げれば、木々の葉の隙間から白い月がきらきらと覗いた。周りには星も点々と輝いているようだ。夜空は晴れ渡り、雲ひとつない。このまま朝を迎えれば、浜辺から東の水平線に太陽が浮かぶのが見えるだろう。
心地よい一定のリズムを刻む波の音は、疲れた彼らに穏やかな眠りを与えた。そんな彼らの間に、散歩から戻ってきた猫がわずかな音も立てずに寝そべった。一度大きな口を開けて欠伸をすると、揃えた前足に顔を乗せ、目を閉じた。散歩から帰ってきた後、眠る場所はここに決まっているのだと、見慣れぬ青年二人に臆することなく、猫は彼らに並んでそのまま眠ってしまった。
彼らが起きる合図は、修道院の朝の鐘が慣らされる時だ。



「まあ、あなたさまはいつぞやの! よくぞおいで下さいました」
修道院入口には既に修道女の姿があった。朝の鐘が浜辺に鳴り響いて半刻ほどした頃、リュカとヘンリーは自ら修道院の入り口に向かっていた。
「マリアもきっと喜びますわ」
修道女の歓迎の言葉に、リュカもヘンリーも思わず首を傾げる。つい数時間前にマリアと再会を果たしていたはずだが、どうやらまだ彼らのことをマリアは修道院で話してはいないらしい。修道女たちが目覚め、朝の仕事をする時間になってもまだ知られていないことに、二人とも無言で眉をひそめた。
「どうかなさったのですか」
「マリアさんは、中にいるんだよね」
「はい、おりますよ。ただ、朝から何だかぼーっとした様子ではありましたね。熱でもあるんじゃないかって、皆心配してましたが」
「そうなのか、そんな状態だったのか、マリアちゃん。大丈夫かな」
「あの子はなかなか気丈な子なので、大丈夫ですと言ってお勤めには出ていますが」
修道女の言葉を受け、リュカとヘンリーは懐かしの修道院へと入って行った。建物の風化こそすれ、この修道院という建物は雰囲気を変えることはない。二人は第二の故郷に帰ってきたような気恥かしい気持ちで廊下を歩いて行った。
内部の広い講堂に入ると、すぐにマリアの姿が目に止まった。入口の修道女が言っていたように、どこか上の空と言った様子で、遠くを見つめる彼女がいる。
「マリアさん、おはよう」
さきほど会ったばかりのマリアに普通の挨拶をしたつもりだったが、振り返るマリアが驚く様子を見て、リュカも同様に驚いた顔つきになる。
「まあ! 神様が私の願いを聞き届けてくださったのかしら。リュカ様とヘンリー様にはまたお会いしたいと……」
「あれ? さっき外で会ったよね。会わなかったっけ。あれって僕の夢?」
「そうしたら俺も同じ夢を見ていたことになる。そんなことってないだろ」
「あら、では私も同じ夢を見ていたのかしら。修道院の近くで、まだ真っ暗な夜の道であなた方にお会いした夢を見たような気が……」
「そうか、だから迎えに来てくれなかったんだ。あれは夢じゃないよ。マリアさん、足を怪我してない? さっき外で転んでたよ」
リュカに言われ、マリアはおもむろに長いスカートを捲り上げた。右ひざの下に、擦りむいたばかりの傷跡がある。
「どうりで膝がひりひりすると思いました。でも私、こういう怪我はしょっちゅう作ってしまうので、特に何も思わなくて」
「あはは、マリアさんらしいや。でも女の子が傷跡を残しておくのは良くないって聞いたことがあるから、僕が治しておくね」
そう言いながらリュカはマリアの前にしゃがみ込み、彼女の膝に手を当てた。一瞬青白い光が灯ったかと思うと、直後マリアの傷は綺麗になくなっていた。
「ありがとうございます。そう言えば、あの時もこうして怪我を治してもらいましたね……」
「あの時って、いつだっけ」
「そんなことはいいだろ。それよりもマリアちゃん、大丈夫なのか。何だかぼうっとしてたみたいだけど。熱があったりするんじゃないだろうな」
ヘンリーがマリアの額に手を当てる。さほど熱いようには感じない。どうやら熱はないようだ。
「私は元気です。皆さんとてもよくして下さるし」
「君の『元気』はあんまり信じられないからな。くれぐれも無理するなよ」
「はい、ありがとうございます。あの、ところでどうしてこの修道院にいらしたんですか」
マリアに問いかけられるまで、二人は当初の目的を忘れかけていた。初めてまともな故郷に帰ってきたような気分になっていた二人は、帰郷したことで目的を果たしたような気にさえなっていた。それだけ、この海辺の修道院にはあらゆる人々を迎え入れる懐かしくも温かい雰囲気が漂っている。
「僕たち、これから南の塔に入りたいんだ。そこに入るには修道院の人たちが何か知ってるかと思って、来てみたんだけど、そういうことに詳しそうな人っているかな」
「修道院長様に聞くのが手っ取り早いか」
二人の話に、マリアは困ったような表情を浮かべる。
「生憎今日は修道院長様はお出かけになられていて、お戻りになるのは早くても三日後くらいになるかと……」
修道院長は年に数度、修道院を空けて北の町オラクルベリーに行くことがあった。町の教会で現状を聞いたり、実際に町の中を歩き、困っている人を見かけたら手を差し伸べ、南の修道院に招き入れることもある。そして今となっては大都市に発展したオラクルベリーで、世界事情を聞き出してくるのも修道院長の仕事の一つだった。孤立無援のように見える海辺の修道院だが、院長の働きかけにより、町との繋がりを保っているのだ。
以前、リュカとヘンリーがこの修道院で世話になっていた時に、このような形で修道院長が院を空けることはなかったが、年に何度かそのようなことがあることを二人とも話には聞いていた。運が悪いとしか言いようのない事態に、リュカもヘンリーも苦笑いを浮かべる。
「あ、でも副院長様なら何かご存じかも知れません」
そう言うなり、マリアは講堂の中を歩き始めた。マリアが向かう先には、古びた修道院の中でも立派なパイプオルガンの置かれる講堂の一角だ。古びてはいるが毎日丁寧に手入れされるパイプオルガンの傍には、リュカたちよりも二回りほど年の離れた背の高い女性が立っている。修道院長のような柔らかな威厳とは違う、多少固く、刺のある威厳を身にまとっているのが感じられる。マリアが見慣れぬ青年二人を連れて歩いてくるのを、副修道院長はしばし厳しい目つきで見ていた。しかし彼らがつい最近まで修道院にいた二人だと分かると、一変して笑顔を見せ、自ら旅人に近づいてきた。
「あら、思いがけぬお客様だこと」
副修道院長の言葉に、リュカとヘンリーは軽く頭を下げる。そんな二人を見ながら、彼女は何故すぐに彼らに気がつかなかったのかをふと考えた。
修道院を旅立った時、彼らは明るい未来を思い描いていたはずだった。十年余りの苛酷な人生から抜け出し、ようやく自分の足で歩ける人生を手に入れたはずだった。しかし今、再び修道院に現れた彼らの周りには、希望に満ちていた未来への思いに影が差しているように見えたのだ。
まだ修道院を出てさほど経たないうちに、一体彼らに何があったのかと、修道院長は思案顔で二人の顔を覗きこむ。
「でもお顔が……。何かお困りごとですか」
そう問いかける彼女の顔つきは、紛れもなく人々の悩みを聞く修道女の姿だった。厳しい雰囲気をまとう彼女だが、人々の悩みを聞き出して解いていく術は、他の修道女よりもよほど長けているのは事実だ。
副修道院長に勧められ講堂の長椅子に座ったリュカとヘンリーは、静かに待つ彼女にゆっくりと話し始めた。
「まだ旅を始めたばかりなんですが、旅に必要なものが出て来て……。そのことについてお聞きしようとここに来たんです」
「ここから南に行ったところに、塔があるだろ。そこにある鏡が欲しいんだ」
「不思議な鏡がまつられている南の塔に入りたいと?」
「そうなんです。でもそこに入るには僕たちだけでは無理だって本に書いてありました」
「塔に入る鍵は修道僧が持ってるって本に書いてあったから、修道院の人たちなら何か知ってると思って来てみたってわけだ」
リュカとヘンリーの話を聞きながら、副修道院長は内心首を傾げていた。どのようにして彼らが旅の途中で真実を映し出す鏡のことを知り得たのか。海辺の修道院より南に位置する塔には、世界の密やかな伝説とも呼べる真実を映し出す鏡がまつられている。ラーの鏡と呼ばれるその鏡を知るものは、今やこの世にはほとんどいないはすだ。たとえ知っていても、魔物の出る外界を旅し、命の危険を冒してまで手に入れる必要もないような代物だ。
副修道院長は二人の青年の顔をまじまじと見つめた。その鏡が何故必要なのか、彼らに問い掛けてもおそらく二人は答えないだろう。もし言えるような理由ならば、彼らは初めにそれを話すはずだ。だが悪い理由ではないことは彼女にも分かっている。旅に出て何があったのかは分からず、彼らの雰囲気にいくらか影が差しているのは事実だが、その目は濁ってはいない。
強い意志の感じられる彼らの目を見れば、ラーの鏡が長い時を経て役目を果たす時が来たのかも知れないと、彼女は隠すことなく話し始めた。
「それは困りましたね。あの塔の入り口は神に仕える乙女にしか開くことはできないのです」
「神に仕える乙女? 修道僧じゃないのか」
「男性ではあの塔の鍵を開けることはできません。純粋な乙女の祈りでしか、塔の封印を解くことはできないのです。とは言え、魔物の出る中、女の足であそこまで行くのは……」
副修道院長は南の封印の塔の場所を記憶していた。ここから歩いて行くには、南の砂漠を越え、険しい山道を行き、数日をかけて旅をしなければならない。魔物の出ない昔であれば、ある程度体力のある娘にはそれも可能だった。しかし魔物が増えた今となっては、本当に命がけで旅をしなければならない。
いくら彼らのためとは言え、修道院に住まう娘をそんな危険な旅に出すわけにはいかない。しかも今は修道院長が留守をしているのだ。副修道院長の頭の中には体力のありそうな数人の修道女の顔が思い浮かんでいるが、まるで娘のように、妹のように思っている彼女らを危険な旅に出す気持ちにはなれなかった。
その時、リュカの隣に座っていたマリアが、突然立ち上がった。驚いたリュカが見上げると、マリアは強張った面持ちで叫ぶように言った。
「私に行かせてください!」
「マリア……!」
マリアの震えるような真剣な顔つきに、副修道院長が続く言葉を失う。まだ幼ささえ残るマリアだが、今の彼女には幼さやあどけなさ、頼りなさなどは微塵も感じない。
「この人たちは私にとても親切にして下さいました。今度は私の番です」
マリアはまだ修道院に来てから日も浅いが、他の修道女に引けを取らぬほどに信心深く、子供のような純粋な心を持っている。塔の封印が純粋な乙女の祈りによって開かれるという意味は、マリアのような娘の祈りのことを言っているのかも知れないと、副修道院長は真剣な面持ちを崩さないマリアをじっと見つめた。
「それに試したいのです。この私にも塔の扉が開かれるかどうかを……」
「ダメだ」
マリアの真剣な思いを打ち砕くような言葉を、ヘンリーは口にした。リュカは手前のヘンリーを視線を向けた。彼の後ろ姿から、今まで感じたこともない不思議な怒りの雰囲気を感じた。
「何を考えてるんだ、マリアちゃん。外は魔物も出る。歩く道は砂漠だったり山道だったり、君みたいな子が行けるようなところじゃない」
「そんなこと、分からないじゃないですか。私、お二人のためなら命を賭けることだってできます。あの場所から逃げ出す時、お二人はそれこそ命を賭けていたじゃないですか。そうして私も助けていただいたんです。だから……」
「だからって、俺たちの旅に巻き込むなんてことはできない。君はこの場所で守られた暮らしをしているべきだ。それが君の幸せなんだから」
「私の幸せをヘンリーさんが決めないでください。私のことは私が決めます」
「俺たちはヨシュアさんに頼まれてるんだ、君のことを。マリアちゃんが無事でいてくれないと、俺たちはヨシュアさんの願いを裏切ったことになる」
兄の名を出され、マリアは思わず息を呑んだ。兄ヨシュアのことを思い出さない日はない。毎日夢に出てくるほどだ。その度に目覚め、寝られなくなり、夜中に修道院の外を歩くこともある。あの大神殿建造の地を抜け出せたのは、紛れもなくヨシュアの尽力だが、あの場所で途切れた兄妹の互いの思いは、無事再会を果たすその時まで永遠に続く。
しかし兄は妹に、自分の意志を封じてまで自らの幸せを掴めという思いでマリアを逃したのだろうか。兄が望む妹の幸せがどのようなものなのか、マリア自身にも分からない。しかしここでリュカとヘンリーの旅の助けとなることができれば、マリアは自らの幸せを一つ掴むことができるのではないかと、感じていた。
「兄はきっと、私の思いを分かってくれるはずです。困っているあなたたちを見て見ぬふりすることなんて、私にはできません。……リュカさんも反対されますか? 私が一緒に行っては迷惑でしょうか」
見たこともないマリアの鋭い視線に、リュカはたじろいで言葉を詰まらせた。ここで彼女の意志に反したところで、彼女は恐らく彼らの話に耳を傾けないだろう。それくらいの頑なさをマリアに感じていた。
「僕は反対しないよ。マリアさんが来てくれるのなら助かるし、マリアさんなら塔の封印も解けると思う」
「では……」
「ただ僕たちの旅って本当にいつでも死ぬ覚悟が必要なんだ。旅の最中は絶対に死ぬもんかって思ってるけど、人間ってさ、意外にあっけなく死んじゃうこともある。一緒に旅に出るからには、マリアさんにもそういう覚悟をしてもらわないといけなくなるよ」
「私にはその覚悟はあります。一度失くしたような命ですもの、いつ失くしたって……」
「マリアさん、そういうことじゃないよ」
立ち上がったままのマリアの言葉を柔らかく遮りながらも、リュカは真面目な顔をして彼女を見上げる。リュカの雰囲気は穏やかなままだが、彼らの周りに一瞬、時が止まったような緊張感が漂った。
「いつ死んだっていいなんて思って欲しくない。そうじゃなくて、絶対に生きてやるって思ってて欲しいんだよ」
死ぬ覚悟は必要だが、端から死ぬつもりでいるのと、何が何でも生きてやると思って死ぬ覚悟を決めるのとでは訳が違うのだというリュカの考えは、ヘンリーにもマリアにも副修道院長にもすぐさま伝わった。リュカの根底にある考えに、マリアは己の魂までも見透かされたような気持ちになり、力なく長椅子に腰を下ろす。ふらつくマリアの身体を、ヘンリーが手を添えて支えた。
「大丈夫か、マリアちゃん」
ヘンリーが呼びかけても、マリアは返事をせずに俯いたままだ。自身でも気がつかなかった気負いが、リュカの一言で露わにされたようで、しばらく言葉も出せなかった。
「僕にもそれができてるか分からないけど、でも命がけで旅をするっていうのはそういう覚悟をするってことなんだと思う」
リュカの言葉の全てに、亡き父への想いがあるのだと、ヘンリーは気が付いていた。リュカの父パパスの本心は今となっては知る由もない。しかしリュカが手にした父からの手紙には、当時幼いリュカを連れて旅をしていた時のパパスの覚悟の一端が表れている。幼い息子を残して死ぬことはできないが、万が一のことを考えてパパスは息子に遺言とも呼べる手紙を残していたのだ。
「私、絶対に生きてみせます。あなたたちとご一緒して、塔の封印を解き、無事に修道院まで戻ってきます」
身体も小さく華奢なマリアだが、彼女が背負っているものは大きい。未来、会えるかどうかも分からない兄から『幸せに生きろ』と願いを託されたことを、彼女は今、素直に受け止めようと考え始めた。リュカの言葉を聞くまでは、己の幸せを考えるなど罰が下ると、周りにいる人たちの幸せだけを考えようとしていた。しかし周囲の人々の幸せと、己の幸せが重なり合うことが一番なのだと、自己犠牲の精神を取り払う覚悟を決めようとし始めていた。
「分かりました。そこまで言うのならもう止めません」
信心深く、勉強熱心で、一途なマリアが初めて見せた我儘に、副修道院長は不安になるどころかむしろ安心したように、マリアの旅に許可を下した。今ここに修道院長がいても恐らく同じ決断を下すに違いないと、副修道院長は想像した。
「リュカさん、どうかマリアを連れて行ってくださいましね」
「はい……ええと、ヘンリーもいいよね?」
ずっと怒ったような表情で黙り込んでいたヘンリーの顔を、リュカは同意を求めるように覗きこんだ。ヘンリーは床の上に視線をさまよわせただけで、ごく小さな声で「いいよ」と呟いただけだった。
「私、できるだけ足手まといにならないように気をつけます。では、行きましょうか」
「ちょっと待って、マリアさん。このまま旅に出たら、僕たち明日には干からびると思う。ちょっとの間だけ、また修道院でお世話になることはできるかな」
意気揚々と講堂の出口に向かおうとするマリアに、リュカは慌てて声をかけた。今朝、修道院近くに生き倒れに近い状態で辿りつき、修道院に入って何食わぬ顔をして話をしていたリュカとヘンリーだが、体力は限界に近付いていた。話をするだけしたら、忘れていた疲れが飛び出してきて、リュカは今すぐにでも修道院の水場に走って行って、瓶に溜まっている水に頭から突っ込みたい気分だった。
「マリアちゃん、旅支度もしないでそのまま修道院を出ようとするなんて、俺たちでもやんないよ。南には砂漠が広がってるんだ。そこを渡るにはまず馬車を引いてこないとならない」
「馬車、ですか。修道院にはないので町に行かないといけませんね」
「お城に置いて来ちゃったから呼んで来ないとね。もう一回あっちまで戻るのか……今は考えたくないから、とりあえず何か食べさせてください」
「そうだな、考えるのは後だ。とにかく休みたい」
二人が揃ってうなだれるのを見て、副修道院長は慌てて彼らに寝食の準備をしようとマリアに客室の用意を命じた。マリアもパタパタと小走りに講堂内を走り、二階にある客室に向かって階段を足早に上って行った。
「ちょうど朝食の準備をしているところですので、お二人の分も用意しましょう。少ししたらお部屋に食事をお持ちしますので、二階で休んでいてもらえますか」
「助かります」
「まともなベッドは久しぶりな気がする。ゆっくり休ませてもらうよ」
南の塔に向かうと言う、旅の当面の目的ははっきりしているが、それ以外のことはまだ何も考えていない。ラインハットに置いてきてしまった魔物の仲間たちをどう呼び寄せるために再び北に向かわなくてはならないこと、その後馬車を連れてまたこの海辺の修道院に戻ってこなくてはならないこと、その期間はどれくらいになるかということ、全てが二人の頭の中に巡っていた。しかし旅の進め方云々よりも今は、二人の鼻に朝食の匂いが辿りつき、彼らの頭の中に巡る景色は湯気の立つ朝食にとって代わられた。
まるで幽霊のように食堂に向かいかける二人に、副修道院長は苦笑しながら呼びかけた。
「朝食は一番美味しい状態でお持ちしますから、とりあえず二階に行っていてくださいな」
副修道院長の言葉に二人は夢から覚めたように瞬きをし、互いに笑った。講堂内をゆっくり歩き、二階に上がる階段の手すりにもたれかかりながら、どうにかして二階の客室まで上って行った。

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