夏目漱石の「それから」を読んで
夏目漱石の三部作、「三四郎」、「それから」、「門」の内の、「それから」を読みました。
既に他の二作を先に読んでしまい、順番通り読んでいたらまた異なる感覚があったかなぁと思いつつも、またまた漱石ワールドに没入することが出来ました。
今回のお話は、一言で言えば不倫の話ですね。ただ、今どき(?)で考えるようなゴテゴテした不倫とは違い、あくまでも登場人物の精神面に深く入り込み、や当時の時代背景を細かく描きながら表現されているので、不倫という事柄が前面に押し出されてはいない雰囲気はありました。
主人公の名は代助。名前に「代」が使われていることにも、考え始めれば色々と考えさせられるという。深読みもしてしまいますが。
「代」という文字が使われる言葉としたら、「時代」とか「代表」とか「一代」とか「代金」とか。様々ありますが、「代わる」という意味合いがあり、何か「代助」を通して、物事の本質を見せていると言った現象がこのお話の中で起きているような気がします。「代助」がこの当時の世相の「代表」とでも言うような。
主人公の代助は、実業家の父と兄を持ち、生活にも困らずに職にも就かずにふらふらとしている次男坊の位置づけです。……もうこれだけで今に生きる人からすれば、どことなく許すまじの気持ちが出てきてしまい兼ねませんが、まあ、そういう荒ぶる気持ちはとりあえずその辺に置いておいて読むのをお勧めします(笑)
学生当時、同級生に平岡という男がおり、その妻となったのが代助の想い人である三千代。この関係だけを見ると、いかにも平岡が悪い奴~みたいな印象を受けるかも知れませんが、そもそも代助が平岡と三千代の結婚を斡旋しているという背景があり、別に平岡が悪い奴というわけではありません。平岡は新聞社に勤める人となり、一方で代助は職に就かずにふらふらとした立場にいたために、三千代を幸せにできるのは平岡だと、代助は半ば譲るようにして彼ら二人が一緒になることを勧めたという。……うーん、こじれてるなぁ。
平岡と三千代が結婚し、数年経って再会した代助と平岡の会話に、彼らがそれまで過ごしてきた生活の違いを見ることができます。当時、世の中は不況で、暗い雰囲気が漂う状況。平岡はその世の中で揉まれている苦労人という位置づけの一方で、代助は親の金で気ままに過ごすプータロー。だけどいっちょ前に学問は修めているので、頭だけは色々と回転します。
そんな代助が平岡に言った言葉に、次のようなものが。
”僕の知ったものに、丸で音楽の解らないものがある。学校の教師をして、一軒ぢゃ飯が食へないもんだから、三軒も四軒も懸け持をやってゐるが、そりや気の毒なもんで、下読(したよみ)をするのと、教場へ出て器械的に口を動かしてゐるより外に全く暇がない。たまの日曜杯は骨休めとか号して一日ぐうぐう寐ている。だから何所(どこ)に音楽会があらうと、どんな名人が外国から来やうと聞に行く機会がない。つまり楽といふ一種の美しい世界には丸で足を踏み込まないで死んで仕舞はなくつちゃならない。僕から云はせると、是程憐れな無経験はないと思ふ。麺麭(パン)に関係した経験は、切実かも知れないが、要するに劣等だよ。麺麭を離れ水を離れた贅沢な経験をしなくつちや人間の甲斐はない。君は僕をまだ坊っちゃんだと考へてるらしいが、僕の住んでゐる贅沢な世界では、君よりずっと年長者の積りだ”
……この代助の言葉を読んで、普通の、私のような一般庶民は「こ、この野郎……!」と思わずにはいられないでしょう(笑)
いや、彼の立場にしっかりと立ってみれば、この言葉が自然に出てきてしまうのも仕方がない部分もあるのでしょう。これってきっと、皮肉でも嫌味でもなく、ただの彼の思うところでしょうからね。
”麺麭に関係した経験は、切実かも知れないが、要するに劣等だよ”
これが色々な意味で刺さりますねぇ。
”麺麭を離れ水を離れた贅沢な経験をしなくつちや人間の甲斐はない”
いや、これも言いたいことは分かるし、全てが間違えているとも思わないけど(むしろ当たっているのかも知れないけど)、この立場の人がこの台詞を口にすると、それだけで内容が頭に入りませんよねぇ。んなこたぁ分かってんだよ、と乱暴に反論したくもなります。
で、そういう意味で、この代助という主人公には心底から感情移入することが難しいという、お話の主人公としては珍しい部類に入るんじゃないかしら。
お話自体は、代助がその内に三千代への想いを告白し、不倫の関係へと発展するようになりますが(ドロドロした感じはありません)、まあ、言って見れば代助という男は「言葉」や「思想」だけの男なので、実際に生活をするとなれば、親からも勘当され、平岡とも絶交となった後ともなれば、本当に一から始めるという境遇に陥ります。何もない所からのスタート。そして、このお話はそこで終わるという……。
故に「それから」どうなるの? ということで、次作の「門」に繋がるというわけでした。ははあ、なるほどねー。
この小説、もう百年以上前に書かれたものですが、百年経っても人間ってのは大して変わらないのねぇと思わずにはいられません。
学問を修めて、何かこの世の中を知ったような気になっている人って、今でも多分そこここにいるでしょう。別に偉ぶっている雰囲気などはなくとも、多くの事を学んで、自分のものにして、世の中を見ると様々な事象が理解できて、達観したような気分になる。
でもやはり水と麺麭がなくちゃあ人間生きては行けないと。今日、明日の水や麺麭に困るようなら、それを先ずはどうにかしないといけませんもんね。
そこで思ったのは、この「代助」に共感できる人が多くなる状況って、バブル期だったらそんな状況もあったのかななんて。一人一人に余裕ができれば、代助のような生き方もまたアリかも、なんて、いや、思わないかな。こういう本を手に取るのは凡そ庶民だろうから、やっぱり受け入れられない主人公かも知れないなぁ。
もう一つ、小説の中で、代助の家に住まう書生と小間使いの婆さんとのやり取りで気になった箇所を。
”いい積りだなあ。僕も、あんな風に一日本を読んだり、音楽を聞きに行つたりして暮して居たいな”
”御前さんが?”
”本は読まんでも好いがね。ああ云ふ具合に遊んで居たいね”
”夫(それ)はみんな、前世からの約束だから仕方がない”
”左様(そん)なものかな”
……前世からの約束と言い切ってしまう辺りの婆さんの達観ぶりに、彼女のこれまでの人生を見たような気がしました。諦めの境地に到達してしまった。
だけど私はまだ、この世の中を諦めたくはないなぁ。私はどうとでも良いけど、子供のためにね。なるべく良い世の中に向かうようにと、日々願っています、本当に。それこそ切実に。