聖
永遠の時を刻む潮騒が、この海辺の修道院に流れ着く。
静かに緩やかに、荒れることを知らない波を見ていると、つい先日までいたあの地獄の日々が嘘のように思える。
いや、自分の地獄が始まったのはあの奴隷の地からではない。
地獄の始まりはもうずっとずっと前のことだ。
記憶もない赤ん坊の頃に実の母親を亡くした。
数年後、父王がきらびやかな新しい母親を連れてきて、異質感を覚えた。
何にも知らない赤ん坊の弟が無邪気になついてきて、責任感を知った。
継母の影響は大きく、時期国王が弟のデールだと噂されると、途端に減った友人に疎外感を感じた。
七歳の時、いつものように新顔の子供にいたずらを仕掛けたら、訳も分からず連れ去られ、その後味わった絶望は今でも身体に心に刻みつけられている。
そして一つ年下の子供と連れ去られた神殿と嘯かれる場所で、十年以上もの時を過ごした。
それは永遠のようで、振り返れば一瞬で、しかし思い出したくはない時だ。
毎日朝が来るのが恐ろしくて、寝て起きたら朝が来ているのが耐えられなくて、一晩中起きていたこともあった。
悪夢からは解放されるものの体力の消耗が激しく、そんな日は決まってぶっ倒れていた。
食事などとは呼べない食べ物が配給され、水だって競い合ってようやく手に入れられるような貴重なもので、人間の醜さを知る一方、限界を超えた人間の未知の可能性を知り得た。
一緒に連れ去られた子供は父親を目の前で殺され、しばらく茫然自失としていたが、彼は未知の可能性を信じ続けた。
最後まで自分を守り通した父の背中を信じ続けなければ、きっと彼は生きることを否定しただろう。
そして彼の信念がなければ、今こうして平和の音を耳にすることもできなかったはずだった。
「ヘンリー、もう大丈夫だよ。戻ろう」
「もう少し自由ってのを味わっておいた方がいいんじゃねぇか?」
「これからおつりが来るくらい味わうだろうから、今のところはこのくらいでね 」
五日間も意識不明の状態が続いていた一つ年下の青年リュカは、まだ動きもぎこちなく、ヘンリーの肩を借りながら砂浜を立ち上がった。
地獄の日々から脱出し、生きたままこの海辺の修道院に流れ着いた。奇跡的にも手に入れた自由を噛み締めたいと、リュカが砂浜に行こうと言い出し、二人で飽きもせずにずっと繰り返す波を眺めていたのだ。
自由は広く果てしなく、とても自分の手ではつかみきれないもののように思えた。
手に入れた自由で、友人への償いをしていかなくてはならない。
自分は一生リュカに罪を負って生きていくのだ。
自分のいつものいたずらがきっかけで、彼の父が命を落とした。
友人の父のためにもここで人生を終わらせてはいけない。
水平線に夕日が滲み、海に溶け込んでいく時分。
背後で教会の古い鐘の音が響いた。
ヘンリーはまだ足元に不安の残るリュカを支えながら、しばらく世話になる修道院へと戻っていった。
教会ではシスターらが一日の勤めを終え、これから彼女らの自由時間が始まる。
シスターとは言え、彼女達ももともとは普通の町娘であったり、親を亡くした子供であったり、家庭内の問題でこの修道院へ逃げてきた妻だったり、それぞれ理由がある。
いくら洗礼を受けたからと言って、突然立派なシスターになれるのではなく、彼女たちはやはり普通の女の子であり女性だった。
男子禁制とまでは行かないが、ここは女性ばかりの修道院だ。
いつの間にか大人になってしまった彼ら二人が、いつまでもこの修道院で世話になるわけにはいかず、近いうちにこの修道院を出る必要があるのは明白だった。
ヘンリーは一人、時折修道院に保蔵されている書物を見開き、リュカがまだ安静にしている間にも調べを始めていた。
しかし修道院に置かれている書物は大方古く、古代の言い伝えには通じていても 現代の情報にはさほど通じていなかった。
「ヘンリーさん、どうかされましたか」
リュカと部屋に戻る途中、立ち止まったヘンリーに声がかけられた。
修道服を身にまとった小柄な少女が目の前で彼を見上げている。
「いや、何でもないよ」
「あの、もしよろしければお食事のご用意をさせていただきますが、お部屋にお持ちしてよろしいでしょうか」
黒に程近い濃紺の修道服は彼女には少し大きいようで、袖を一度折り返して着ている。
そんな姿の彼女、マリアを見るのはまだ新鮮だった。
あの奴隷の地での垢をきれいさっぱりと洗い落とし、修道院で洗礼を受けた彼女は輝いて見えた。
一緒に逃げてくる時は互いに必死で、正直相手の顔もあまりまともに見ていなかった。
それを今こうしてゆっくりと見てみると、彼女は修道院に寄贈されている女神像にも引けを取らないほど洗練され、神聖な雰囲気を自然と作り上げていた。
「お腹、空いてませんか?」
知らぬ間にぼんやりとマリアの小さな顔を見つめていたヘンリーは、控えめにそう問いかけてきた彼女に慌ててぶんぶんと首を横に振った。
隣で身体を支えられていたリュカは「痛いよ」と呟きながらヘンリーの緑色の髪を払ったが、ヘンリーはそんなことにはお構いなしに余裕のない笑みを作ってマリアに言う。
「こいつを運んだら後で俺も手伝いに行くよ。だから無理して二人分なんて運んでくるなよ」
「あ、はい。あの時はごめんなさい」
リュカが目覚めた日、マリアは彼ら二人のためにと盆の上に乗り切らないほどの料理を部屋に運ぼうとして、彼らの部屋の前で見事にすっ転んでしまったことがあった。
折角作った料理は台無しになるわ、床は汚れるわ、ついでに彼女の真新しい修道服も汚れるわで、マリアはその日の朝から晩まで勤めに精を出し、自ら罰を受けていたのだった。
部屋に戻った二人は、止むことのない潮騒を耳にしながら再び寝入ってしまった。
窓からはからりと乾いた潮風が入り込み、部屋の中を一周してからまた出て行く。
心地よい眠りから覚まされたら決まって機嫌が悪くなるヘンリーだが、部屋の外から聞こえるマリアの声にベッドの上に跳ね起きて、考えもまとまらずに緑色の髪を撫で付ける。
「何してるの、ヘンリー」
「何だよ、起きてたんなら起こせよな」
「だって気持ちよさそうに寝てたから、起こしたら蹴られると思って」
「蹴らねぇよ」
「よく起きたね。マリアの声で起きたの?」
「……そうだ、俺、食事を運ぶ手伝いをするって言ってたんだった」
バツが悪そうに頭をかくヘンリーを苦笑交じりに見ながら、リュカは「どうぞ」とドアの外で戸惑っているマリアに声を掛けた。
「お休み中でしたか? お食事お持ちしましたけど、召し上がりますか」
「悪い、マリア。俺、手伝うって約束してたのに……」
「いいえ、まだお疲れですものね。ゆっくり体を休めていてください」
「マリアも一緒に食べるんでしょ?」
「はい。ちょうどお話もありますし、お邪魔させてもらいますね」
マリアが運んできた食事は量も少なく、味付けもほとんどなく、まさしく修道院という慎ましやかな環境で提供される自然食そのものだった。
シスターたちは「男性には足りないし、美味しくない」と懸念していたようだが、地獄の生活を味わってきた三人にとってはまるで天にも昇る気持ちになれるほどの食事だった。
食事を終え、マリアは二人のグラスに水を注ぎながら話し始める。
「私、この修道院に残ろうと思っているんです」
彼女が自ら洗礼を受けたいと言い出し、修道服に袖を通した時から、リュカにもヘンリーにも彼女の意思は分かっていた。
修道院での生活に彼女は笑顔を見せる回数が多くなった。
それは彼女が心身ともに回復している証拠なのだとリュカもヘンリーも気づいていた。
しかし、回復こそするが、彼女の心の傷が完全に癒されることはない。
彼女の心には、今でもこれからもずっと、あの奴隷の地に残してきた兄ヨシュアや他の奴隷たちの存在があり続ける。
兄が身を挺してまで救ってくれた自分の命は、果たしてそんな価値のあるものなのか。
多くの奴隷の人々を残して運良く救われた自分の命は、これからどうあり続けるべきなのか。
死んではいけないことは分かっている。
しかし、このまま生き続けても、兄の望んでいた「幸せ」を心から感じることはきっとないだろう。
「私はここで、残された方々のためにずっと祈りを捧げます。私にできることは それくらいしかないから」
そう言って顔を上げた彼女の顔はあどけない少女の顔ではなく、決心を固めた一人の女性のものだった。
口角を上げて微笑む表情にすら、彼女の意思の強さが感じられる。
そんな彼女の意思をリュカもヘンリーも曲げることなどできないし、むしろ彼女の心の強さに言葉も返せなかった。
「お二人は旅をされるのでしょう。私はここからお二人の無事をお祈りしています」
そう言いながらテーブルの上の食器を片付け始めるマリアの横顔を、ヘンリーは直視できなかった。
自分の人生と向き合う年下の彼女が、ただ羨ましかった。
その夜、ヘンリーは初めて修道院の奥にある祭壇に向かった。
ヘンリーは子供の頃から神様の存在などちっとも信じてはいなかった。
教会で祈りを捧げる大人たちを見て、唾を吐きたくなるほどの嫌悪感を抱いていた。
神様がいるならどうしてこの世の中に魔物が増えた?
神様がいるならどうして継母のイジメを受ける俺を放っておいたんだ?
神様がいるならどうしてリュカを俺の道連れにしたんだ?
神様がいるならどうしてマリアにこれほど苦しい思いをさせるんだ?
神様がいるというだけで、世の中は矛盾だらけだ。
それなのに、マリアはこの修道院で、これから何年も何十年も、ずっと祈りを捧げる覚悟でいる。
それはどれだけ彼女の心を苦しめるのだろう。
常に自分の兄と残された奴隷の人々を思い出さなければならないのだ。
一体彼女は何に対して祈りを捧げるのだろうか。
神様に祈ったところで、世の中の矛盾が一つ増えるだけだというのに。
夜の静かな月明かりが細く入り込み、修道院内の景色がうっすらと浮かび上がる。
一番前の長椅子に、月明かりの弱い光を帯びる小さな頭が見えた。
彼女はただひたすらに祈っていた。
小さな肩が小刻みに震え、声だって涙声になっているというのに、彼女は神に祈りの言葉を伝えようとしている。
そんな彼女の隣に、言葉もかけずに腰を下ろした。
気づいたマリアは慌てて修道服の袖口で涙を拭う。
「ヘンリーさん、まだ起きていらっしゃったんですか」
ヘンリーは頼りない声でそう言うマリアの肩を抱き、まるで子供をあやすようにぽんぽんと叩く。
「マリアは神様を信じてるんだな」
否定的な意味を含めたつもりはなかったが、ヘンリーが培ってきた神への不信が、その声に表れていた。
マリアはそんな彼の気持ちを否定することはなく、祭壇を見上げた後、自分の膝に視線を落とした。
「自信はないんです」
彼女の言葉の意味が分からずにヘンリーは首を傾げると、マリアは言葉を探しながらぽつぽつと話し始める。
「もしかしたら神様はこの世にいらっしゃらないのかもしれません」
ヘンリーは自分の気持ちが外に出てしまったのかと思い、焦った。
「もし神様がいらっしゃるなら、兄も奴隷にされた方ちもお助けにならないわけがありません。世界にはきっとそんな矛盾が数え切れないほどあるんだと思います」
自分と同じことを考えていたのだと、ヘンリーは驚きの表情を隠さずにマリアを見つめた。
しかし彼女が選んだ道は神に祈りを捧げる修道女としてのもの。
「私はきっと神様に祈りを捧げているのではなくて、「聖」に祈りを捧げているんだと思います」
マリアは涙で濡れた目を瞬かせて、隣のヘンリーを見上げる。
「うまく言えませんけど、世界には悪いこともたくさんあるけど、良いことだってたくさんあるはずです。人の心にも動物だって 植物だって、生きとし生けるものには全て「聖」の部分があるはずで、私はそんな「聖」を信じて祈りたいんです」
そう言いながら再び祭壇を見つめるマリアの顔は紛れもなく修道女の顔だった。
神様になど祈らなくても、彼女はその「聖」に対する思いを確かに持つだけで誰にも負けないほどの修道女の顔をしていた。
「修道女なのに神様を信じていないだなんて、バチが当たりますよね……」
「そんな神様がいたら、俺がぶっ飛ばしてやる」
「まあ。そんなことをおっしゃるとヘンリーさんにまでバチが当たっちゃいますよ」
「別にいまさら。ガキの頃はいたずらばっかしてたんだ。少しくらいバチが当たってくれなきゃかえって不安になるくらいだ」
マリアの笑う顔を見ながら、ヘンリーは案外「聖」が身近なところにあるものなのかもしれないと、言葉には出さずにその考えを胸にしまった。
きっとこれからも、神を信じることはないだろう。
しかし、彼女の言う世の中の「聖」を信じてみるのは良いのかも知れないと、ヘンリーは生まれて初めて教会という場所で本心から祈りを捧げた。
今まで、悪いことばかりに目を向けてきたことに気づいた。
悪いことがあれば、良いこともある。マリアの言う通りだと思った。
そして、それのどちらに自身の心を傾けるかは、結局は自分次第なのだと、修道女としてここに残ることを決意したマリアに教えられた気がした。
Comment
bibiさん
マリアの想いに共感出来る人は多いでしょうね。
抽象的ですが神様よりはよっぽど信じられる物です。
メタ的に考えても、この世界の神様は今頃…(笑)
ピピン 様
信心深いだけに、一度裏切られ、今度は本当に信じられるものを見つけた、というところでしょうか……。
そうです、この世界の神様はこの時、無限ループにはまって……(笑)
bibiさん
…この話を読ませて頂いた後だと尚更、bibiさんが神様を小説内でどう調理されるのか気になるところではあります(笑)
と言いながら書いてて思い出したのですが、小説版では修道院が信仰してるのは竜神じゃなく女神だったり、ゲームリメイク版でも木彫りの女神像が貰えたりしますよね。
それを踏まえるとまだ救いがあると思いました。
あと今回改行や余白が利いてて凄く読みやすかったです。(^-^)b
ピピン 様
DQ5の神様はあのバーテンさんですからね……どう調理したらよいのやら、考えてしまいます(笑)
そうですか、小説やリメイクでは女神信仰の設定があると。ふむ。ということは、やはり神様とは言っても、一つではないのかな。日本なんかは「やおよろずの神」ですもんね。神様はそこここにいらっしゃると。個人的にはこういう考え方が好きです。最も穏やかに過ごせる気がします^^
今回は余白が多かったですね。こっちの方が読みやすいですよね~。本編は読みづらくてすみません>< 本編はどうしてもこのライトな感じを出したくなくて……あえての改行少な目です。ご了承くださいませm(_ _)m
bibiさん
シリーズでも何人かいますもんね。文字通りの「神様」も(笑)
ドラクエで女神というとルビスを連想しますが、6でも海底神殿に健在なので、それが5の時代まで信仰されてるのかなと考えると凄くワクワクしますね。
そうなのですね。それなら仕方ないです( ´∀`* )
ピピン 様
シリーズものの関連って、ワクワクしますよね。6からの4、4からの5と、その間のことを考えると色々と楽しいです。地形が変わり過ぎているので、その間にどんな天変地異があったんだと想像してしまいますが……。
確かに仰る通り、ドラクエで女神というとルビスを想像しますね。ドラクエ3でのあの笛の音を思い出します^^