女王の援け
周囲を広大な砂丘に守られるように建つテルパドールの国は、砂漠の土地を旅する者に容易にその姿を見せない。その立地のせいでかつてのリュカたちも、ただでさえ砂漠の旅の過酷さに音を上げそうになっていた中、なかなか砂漠の城を目にすることのできない状況に目指すテルパドールの国が本当に実在するのかどうか何度も不安に駆られていた。
今は遠く離れたグランバニアからでも、リュカの移動呪文でひとっ飛びで訪問が可能となった。もしリュカもポピーも誰もがルーラを使えない状況で、もう一度この砂漠の国を訪れる必要があるとすれば、必死になってその必要性に繋がる理由を潰しにかかるだろう。二度とこの広大な砂漠を旅するのは御免だと、リュカはその身にこれでもかと過去の砂漠旅の辛さを刻んでいる。
「まだ朝早い時間よね? それでもこんなに暑いのね~」
そう言いながら砂漠の城の前に立つ彼女は、過去この場所を訪れた時よりも体力気力共に充実しているように見えた。砂漠を照らす日差しは暑いというよりも、痛みを感じるほどだ。この地上を遍く照らす陽光だが、この砂漠という地域に在っては光も熱も強さを増しているのではないかと思うほどに、攻撃性を感じてしまう。しかしその強さを全身に浴びても尚、ビアンカは溌溂とした様子で手をかざして陽を避け、水色の瞳を輝かせて砂漠の地に立つテルパドールの城を見上げている。
「お母さんはずっと前にお父さんとここへ来たことがあるのよね?」
「そうね、十年以上前。ティミーもポピーも生まれる前にね」
「ボクもポピーも、サンチョやみんなと色んな所を旅してたけど、砂漠を旅したことはないんだよね」
それは敢えて砂漠を避けていたのだろうと、リュカはかつて孤島の屋敷に双子を連れて来たサンチョの事を思った。二人の子供を連れて世界を旅すること自体、サンチョはかなり無理をして続けていたに違いない。本当ならばグランバニアの王子王女である二人を、それこそグランバニアの城に縛り付けておいてでも残しておきたかっただろう。
二人の子供を連れて世界を歩き、父母であるリュカとビアンカを捜す旅をしていたのは間違いないだろうが、その目的のためならばどこへでも行くという危険を、サンチョを始めグランバニアの者たちは決して望んではいなかっただろう。彼らはただ、リュカやビアンカが旅をして目にしてきた世界の一端を、ティミーとポピーにも見せたかった。実際、リュカやビアンカを捜索するのに、グランバニアの兵士たちも別に動いており、彼らはラインハットへ捜索の足を延ばしたこともあると聞いている。行方不明となった王と王妃の捜索に、グランバニアの国は総力を挙げて取り組んでいたのだ。
「砂漠の旅はお勧めしないよ」
「そうねぇ。とにかく暑くて参っちゃうものね」
「プックルも馬車の陰に入ってどうにか凌いでたしさ」
「ピエールなんてあの身体だから、砂漠を歩くなんて無理だったもの。大体馬車の中に入っていたわよね」
「ピエールが馬車で休むなんて意外だな~」
「砂漠でも何でも、真面目に頑張って歩きそうだものね、ピエールって」
「初めはそのつもりだったんだろうけど、僕たちが止めたんだよ。だって早々にピエールの色が変わりそうになってたもんね」
「ピエールの……色? ピエールって色が変わることがあるの?」
「そんなの見たことないよ! どうやったらピエールの色が変わるのか、今度ちょっと試しに……」
「試しに何をするつもりかは分からないけど、悪いことはしちゃダメよ」
ティミーが空に輝く太陽を仰ぎながら呟く一言に、ビアンカはすかさず釘を刺しておいた。息子が悪いことをするとは思っていないが、自身では悪いことをしていないつもりでも相手が傷ついたり怖がったりすることは往々にしてあることだ。一つ釘を刺しておくことで、ティミーは相手を慮ることに心を傾けることができるだろうと、ビアンカは息子の素直さや純粋さを信じ、判断は彼に委ねる。
「お母さんがここへ来た時も、天空の兜ってこのお城で守られてたのよね?」
ポピーの言う天空の兜は今、グランバニアの城で主の身に着けられる時を待っている。しかしこの世に再び勇者が現れるまでは、長い長い時をテルパドールの国に守られ安置されていたのだ。こと勇者という伝説においては、テルパドールを超えてその伝説を守り続けている国はない。
「そうね、リュカと一緒に来たわ」
その時のことを思い出そうとすれば、ビアンカの脳裏には当時の記憶がありありと蘇る。アイシス女王に案内された勇者の墓と聞いていた場所には、遠い過去より引き継がれた竜の羽を象る装飾を施した天空の兜が台座の上に置かれていた。中央に光る青の宝玉には、誰もが感じられるような不思議な魔力が宿り、兜自体は見た目の脆さとは異なり確かな守りの力が備わっているのだろうと思わせられた。
アイシスはリュカに、天空の兜を装備してみて欲しいと願い出て、実際にリュカは伝説の兜を頭に被ってみせた。しかしそれがリュカと言う人物を拒むようにただの重しになってしまえば、リュカは立っていられないほどのその重みにたまらず天空の兜を脱いだのだった。
「あの時はね」
ビアンカは天空の兜を被ろうと両手に持ち頭上に掲げたリュカの姿を思い出す。天空の剣も盾も装備できないことは知っていた。しかしそれでも彼女はまだ、リュカに可能性があるのだと思いながら、固唾をのんで夫が天空の兜を頭に被るのを見ていた。過去に父パパスと死に別れ、その後も苦しい時を過ごしながらも生き延びたリュカは、もしかしたら神様が勇者としてこの世に生かしてくれたのではないかと、ビアンカはリュカが天空の兜を被った時にそう感じていたのだ。
「リュカが勇者かも知れないって、思ったの」
たとえ天空の剣も盾も装備できなくとも、天空の兜が手に入ればそこで初めてリュカは全てを装備できるようになるのではないかと、天空の兜が手に入っても無理ならば、最後の防具である天空の鎧を手にして、天空の武器防具を全て集めた時に初めて勇者としての力が目覚め、リュカが勇者として認められるのかも知れないなどと、ビアンカは朧げにそんなことを思っていた。しかしその時、果たしてリュカが勇者であったとしたら、彼がその運命を背負うという現実に自分は覚悟が出来ていただろうかと思えば、それには自信がない。
夫リュカは勇者ではなかった。しかし息子ティミーは勇者に生まれた。勇者の母として覚悟を決める余地もなく、彼女自身の十年の月日が失われている間に、勇者ティミーは双子の妹ポピーと共にすくすくと育ち、しかしまだ子供の姿でビアンカの前に現れた。夫リュカが、その父パパスが追い求めていた勇者の血筋がまさか己の身に流れていようとは微塵も思いが及ばなかった。
「人生って不思議ね」
まだ自身の身体は二十歳を超えたところで、人生を語るには少々若すぎる。しかしこの二十年、実際には三十年ほどで、自身の人生は何故か勇者の母親という立場に辿り着いてしまった。辿りついてしまったからには、その立場としての覚悟を決めなければならない。
「今になって思うんだけどさ」
テルパドールの、砂漠の景色の溶け込むような色味の城を見上げながら、リュカも妻と同様に当時の事を思い出しながら話し始める。
「あの時、アイシス女王はちゃんと勇者を感じていたんじゃないかな」
砂漠の旅は過酷なものだった。魔物の仲間たちがいなければ到底乗り越えられるものではなかっただろう。特に人間の女性であるビアンカにとっては尚過酷なものだったに違いない。
「だってその時にはもう……いたんだよね、お腹に」
テルパドールに着く前には既に、ビアンカはその身に子を宿していた。当時、彼女はリュカにも誰にもその事を知らせなかった。知らせてしまえば、妻ビアンカの身を第一に考えた上でこの旅を止めてしまうかもしれないと、彼女は夫リュカの旅を優先させるために決してこのことは言うまいと決めていた。
「きっと勇者の存在を近くに強く感じていたんじゃないかな」
「もしかしたら、そうかも知れないわね」
「それ……ボクのこと?」
そう言いながらビアンカを見上げるティミーの姿は、まだまだ幼い子供の様に見える。しかし一たび天空の武器防具に身を染めれば、まだ子供の域を出ない体格の彼も、世界にただ一人存在する勇者としての姿となる。
「ティミーかポピーか……まだ小さな命だったんだもの。どちらが勇者として生まれるかなんて、決まっていなかったかも知れないわよ」
「もしかしたら私が勇者だったかも知れないのかな」
「そうだね。きっとアイシス女王にもそれは分からなかったと思うよ」
そう言いながらポピーの頭を撫でるリュカだが、どちらの子供が勇者になったとて、親としての複雑な思いは同じだっただろうと困ったように微笑む。
「でもさ、ポピーじゃなくて良かったよ。だって高いところが苦手な勇者なんて、ちょっと頼りにならないじゃん」
「何よ、私だって勇者だったら高いところがキライになんてならなかったもん! もっとずっと強かったもん!」
「ふふっ、勇者だからってきっと完全無欠の人なんかじゃなかったのよ」
「そうだよ。勇者は一人で世界を救ったわけじゃないんだ。現にテルパドールの女王様の祖先はかつて勇者と一緒に旅をした一人だったらしいし」
かつて世界を救ったとされる勇者の伝説は、このテルパドールにおいても確かな記録は残っていないという。既に古くの危機の時から数百年が経っているらしいこの今の世界に、かつての勇者やその仲間たちは彼らの功績を後の世に刻みたくはなかったのだろうか。今となっては、かつての勇者もその仲間たちの事も、想像することで存在を感じることしかできない。
「ティミーが勇者に生まれたかもしれないけど、ティミーにも沢山の仲間たちがいるでしょ? 決して勇者一人が世界を救うわけじゃないのよ」
「勇者一人でも、勇者がいなくても、どちらも世界を救うには足りないんだ」
リュカたちは長らく行方不明となっていたグランバニアの王妃ビアンカの無事を直接知らせるために、再びこのテルパドールの地へ訪れた。女王アイシスに礼を述べたいという思いはリュカもビアンカも確かに持っている。しかしそれに併せ、彼らは勇者の再来を信じ続けたこの国の空気に歴史にもう一度触れることを望んだのだ。
ティミーは勇者として、ポピーは勇者と共に在る者として、そしてリュカとビアンカは勇者の守護者として、かつての勇者の伝説を守り続けてきたこの国に、今のこの機に訪れる必要があるのだと意識的にはたまた無意識のままテルパドールの城へと足を運んで行く。
このテルパドールにおいては勇者ティミーの存在は国中に知られている。事前に今回の訪問を知らせてもおり、リュカたちは今回の訪問では正装に身を包み、グランバニアの国王一家であり、彼らの望む勇者もいることを堂々と知らせるように、砂漠の城の正面から背筋を伸ばして入城した。入城の時から兵が付き、玉座の間にいるというアイシス女王のところへと案内された。
まだ朝の早い時間帯ではあるが、玉座の間には既に強い日差しが降り注いでいた。砂漠の只中にあるこのテルパドールでは、人々は日中外に出ることは少ない。日差しの強い昼に近い時間帯に外に出ることは体力の消耗が激しく、砂漠の民の生活様式はグランバニアやラインハットとは根本的に異なる部分がある。
アイシス女王も大抵は日差し降り注ぐ玉座の間ではなく、城内の地下に広くある庭園で過ごすことが多い。彼女はその血筋から、予言の力を有しているが、その力を大いに発揮できるのは夜空に月が輝き星が散りばめられる頃合いらしい。満ち欠けを見せる月を眺め、夜空一面に散らばる星々の一つ一つの輝きに、この国の人々の、この国の、世界の命運を見ることができるという。
リュカたちの訪問を、アイシス女王は砂漠の暑さ感じる玉座の間にて出迎えた。定期的に起こる砂嵐の気配はないらしく、風も穏やかな今は、玉座の間に広く天幕が張られている。非常に大きく丈夫な布で作られた一枚の天幕の布は、色こそ砂漠の城に溶け込むような地味なものだが、細かく見れば装飾が細かい。その天幕を見上げながら、リュカはこれはもしかしてオアシスに住む老人の作ったものだろうかと、あれ以来会っていない老人の事をふと思い出した。
毎回思うのが、アイシス女王ももしかしたら石の呪いを受けて時を止めたのだろうかと思うほどに、初めに会った時より年を重ねていないように見えるということだ。そもそも年齢不詳の雰囲気があり、二十と言われても三十と言われても四十と言われても、全ての年齢において彼女の存在は通用するような気がする。そして女性の割には長身であり、品よく金の装身具を首や腕に着け、頭には蛇を模した金の冠を戴く姿は、砂漠の民を束ねる女王としての品格を自然と醸している。身に着ける衣服はこの暑い砂漠の地にあって非常に露出度の高いものだが、そこにはいやらしさなどなく、代わりに神秘が内包されている。
「リュカ王、ようこそおいでくださいました」
アイシス女王の言葉を受け前に進み出たリュカが、彼女と握手を交わす。リュカはこれまでに何度もあっている相手だ。初めに会った十年ほど前には目線がそれほど変わらなかったような記憶があるが、いつの間にかリュカはアイシスを少し見下ろすほどに背が高くなったようだった。
「そして、グランバニア王妃殿……よくぞご無事でお戻りになりました」
「ありがとうございます、アイシス女王。あの……私のこともビアンカで構いません。そんな呼び方をされると、何だか自分が呼ばれている感じがしなくて」
「ふふ、それならばビアンカ王妃、とお呼びしましょう」
そう言ってアイシスが手を出せば、ビアンカも応じるように手を出し、握手を交わす。この砂漠の暑さにあってもひんやりとしたアイシスの手に、ビアンカは思わず女王の顔を覗き込んでしまう。しかし女王は紅を引いた口を綻ばせるだけで、具合の悪い様子などは見られなかった。
「ティミー王子もポピー王女もようこそいらっしゃいました。ようやくご家族が揃って、本当に喜ばしいことです。心よりお祝い申し上げます」
そう言って長身のアイシスが身を屈め、二人の子供たちににこやかに笑いかけると、ティミーもポピーも揃ってお辞儀をした。勇者の伝説を守り、勇者という存在に対してひとかたならぬ思いのあるアイシスだが、今は二人の子供たちを等しく祝福する思いでティミーとポピーを思いやる。
「アイシス女王がこの時間に玉座の間にいるなんて珍しいように思いますけど、最近はここにいることが多いんですか?」
日除けの厚地の天幕を張っているとは言え、この玉座の間は外に晒されている場所であり、日中は非常に暑いのが常だ。正装に身を包んできたリュカも既にこめかみから汗が滲み始めている。ただこの気候に身体が馴染んでいる砂漠の民たちは、天幕の張られた日陰のこの場所には涼しさを感じるほどなのか、アイシスにも仕えの女官たちにも汗ばむような気配は見られない。
「ええ、そうですね。近頃は私自身、ここから外の様子を見ることが多いです」
そう言うと、アイシスはリュカたちから視線を外し、玉座の間から見渡せる外の広大な砂漠を眺める。リュカたちも同じように砂漠の景色を目を細めて見遣るが、恐らくアイシスの見えているような景色は望めない。
砂漠は一面、どこを切り取っても静かなようにリュカたちには感じられた。天幕の日陰の中を通り抜ける風は砂漠の熱を運んできて暑いが、アイシス女王の砂漠を見つめる横顔はどこまでも涼し気だ。その黒の瞳の力でまるで遠くを射抜くのではないかと思うほどの鋭さで、女王はただ遠くの一点を見つめているようだった。
「今日は西北の地に、群がっているようですね」
テルパドールの国は四方八方を砂丘に囲まれ、その地形に守られている形だ。外の広大な砂漠からはこの国は目にすることもできない。それは逆に、この国からも砂丘の外に広がる砂漠の景色を望むことはできないと言うことでもある。しかしアイシスには恐らく、外の砂漠の景色がその目に見えているのだろう。それは視覚ではないのかも知れない。彼女が持つ特別な力で、砂丘の外に群がる魔物の姿を捉えているのだ。
「以前も一度、この国は魔物の群れの襲撃に遭いかけましたが、その際にはティミー様のお力で魔物の群れを退けて頂いたのです」
「いや、ボクだけじゃなくって、というか本当はボクの力でもないかも……」
アイシスの言うテルパドールへの魔物の襲撃の時は、同時にグランバニアもラインハットも魔物の襲撃を受けた時だった。ティミーはその際、勇者の再来を信じ、勇者の伝説を守り続けてきたこのテルパドールを救うのは自分しかいないと思い込み、思い込んだが最後、彼は脇目もふらずに数体の魔物の仲間たちと共にテルパドールへと飛んで行ったのだ。
敵は手強かった。正面からぶつかり、最後までまともに戦っていたら、恐らく負けていた。しかし神の御加護か、ただの運か、どのような力が働いたのかは分からないが、ミニモンの唱えたパルプンテという謎に包まれた呪文の効果で突如砂漠に巨大な魔人が姿を現し、ティミー達と敵の魔物たちとの戦いをほとんど強制的に終了させてしまったのだ。今でもその巨大な魔人の姿を思い出すと身体が震えてしまうのは、月明かりに晒された得体の知れない黒く巨大な魔人の姿に怯えるのではなく、その魔人は見る者全てに底知れぬ恐怖を植えつけるような存在なのだろうと、ティミーは感じている。
「あの砂丘の向こうに……こちらに来そうですか」
「来るとしても夕刻近く、でしょうか。今すぐというわけではないと思います」
女王の表情にはそれほど切羽詰まった様子は見られない。あの砂丘の向こうに潜む魔物らの力ですぐにテルパドールが窮地に追い込まれるようなことはないと理解しているのだろう。しかし連日魔物の群れがこのテルパドールの城を標的に定めている状況と言うのは、一国の命運を預かる女王としてはその精神を徐々に蝕まれるに等しい損傷を受けているに違いない。
「少し遠ざけて……」
旅に出ている時のような気持ちでリュカは懐から魔法の絨毯を取り出そうとしたが、正装に身を固めている今、リュカは魔法の絨毯を持っていないだけではなく、腰に提げる父の剣もグランバニアの城に置いてきている。テルパドールの城を砂丘の向こうから見遣る魔物のところへ向かうとなれば、今は徒歩で向かうしか術がない。
「お父さん、私、やってみてもいい?」
父の様子を見て、自分にできることをと、ポピーは両手を北西の方角へと向けながらリュカに問いかけた。以前、アイシス女王が放った遠隔呪文を、ポピーはその呪文の才により習得している。しかし遥か遠く砂丘の向こう側にいるような、視覚に確認することもできない敵に対し、ポピーの発動する遠隔呪文が敵に届くかどうかは分からない。
「ポピー王女は非常に優れた呪文の使い手と伺っております」
ポピーの言葉に反応したのは、アイシスだった。女王は北西の方角へと向けられたポピーの両手を自らの両手に包むと、気品に満ちた笑みを見せる。
「私が貴方の目になります。それで貴方は得意の呪文を……できますか?」
「私の目に……どうやって?」
ポピーの戸惑いに、アイシスは少女の両手を優しく包みながら、再び北西の地へと目を向ける。一見すれば何の異変も感じられない。リュカたちには砂漠の上を描く砂の文様の違いも分からない。以前聞いた話によれば、砂漠の地に魔物の群れが存在する場合は、その周辺には異質な砂の文様が描かれるという。しかし今はその文様の変化もないようで、砂漠の丘の向こうに潜む魔物の群れは数も少ない小さなものなのだろうと思われた。
「ポピー王女になら可能でしょう。さあ、目を閉じてみてください」
言われた通りに目を閉じ、何も見えなくなった瞼の裏が途端にぼやける。ポピーはその違和感に思わず目を開けそうになったが、彼女の意識を誘うように瞼の裏に砂漠の景色が映り込めば、彼女はその景色に意識の中で目を向けることに集中した。
「これが私の見えている景色です」
アイシスがそう言うなり、ポピーの瞼の裏に映る砂漠の景色は紗がかかったようなものとなる。はっきりとは見えない景色だが、黄土と青空の二つしかない景色の中では、その中に他のものが潜むのを見つけるのは容易い。砂漠の黄土の中に、明らかに自然の景色とはなり得ない動くものが見当たる。メラメラと揺れる赤の色と認識すれば、それは感覚的にも炎であることが感じられる。熱いほどに太陽の照るこの砂漠の只中で火を起こす人間などいないだろう。しかもそれは、何者かが起こした火などではなく、燃え上がる炎そのものが黄土の砂地をあちこちと移動しているのだ。
「熱そう……何あれ……」
「恐らく炎の戦士と呼ばれる魔物でしょう」
「あまりいないみたいですね」
「数は少ないですね。多くが集まらない内に一度退けておけば、またしばらくはここへも近づかないかと思われます」
ポピーとアイシス女王が何を見て何を話しているのか、リュカたちにはまるで分からない状況だ。ただ二人のやり取りを遮ることは憚られ、リュカもビアンカもティミーもただ彼女たちの会話を静かに聞いているだけだ。
「やってみます」
「貴方ならできます。お願いいたします」
ポピーはアイシスの両手に己の両手を預けながら、呪文の詠唱を始める。間違って手から呪文を発動しないよう、瞼の裏の浮かぶ朧な砂漠の景色に集中する。炎と思われるメラメラと動くものが落ち着きなく砂漠の只中を動いている。閉じる目の視界に映る砂漠の景色は思ったよりも広い。敵の魔物はそれだけ散在していると言うことだ。その広範囲を包み込むような呪文を、ポピーは閉ざした視界に映る砂漠の只中に放つ。
炎の戦士らは唐突に目の前に現れた巨大な氷柱に面食らった。今はまだ天に日の照る時間だ。それを抜きにしても、いくら夜の冷え込む砂漠と言えども、これほど巨大な氷柱が唐突に宙より矢のように飛んでくることなど万に一つもない。燃え上がる炎を消し去ってしまおうと、巨大な氷柱が四方八方から飛んでくる状況に、炎の戦士らはたまらず悲鳴を上げながらその場から逃げ出した。逃げ損ねた敵は容赦ない氷の攻撃を正面から受け、その場で激しい蒸気を上げながら、宙に溶け込んでしまった。この砂漠に天変地異でも起こったのかと訝しむように空を見上げる残った炎の戦士たちの目に映るのは、変わらず灼熱の日差しを地上へと届ける太陽だ。
「もう一度、やってみます」
「ポピー王女、無理はなさらず」
「これくらいなら大丈夫です。問題ありません」
「……ふふ、末恐ろしい魔力ですね。私の方が持つかしら」
ポピーの凄まじいまでの魔力をその両手に感じるアイシスは、どうにか身体が震えるのを止めているような状態だった。女王自身も呪文の使い手だが、彼女は攻撃呪文を使うことはできないのだ。そしてポピーが散在する敵に放つのは、氷系呪文の最大威力を持つマヒャドだ。ポピーが放つマヒャドの呪文の力は、アイシス女王を経由して離れた敵の元へと届いている。身も心も凍りつき、気を保っていないと瞬時に命を取られてしまいそうな極寒の感覚に耐えられるかどうかを考えれば、王女の手を離してしまいそうだと、アイシスは今の自分は灼熱の砂漠の只中にあることを想像した。己の身は、砂漠の熱に守られていると強く思念する。
二度目のマヒャドが唱えられれば、もうその場に留まろうとする炎の戦士たちの姿はなくなった。紗のかかったような砂漠の景色の中には、メラメラと燃え上がる炎と思しき敵の姿はない。それらはマヒャドの威力に飲まれて、炎が尽きるように消えてしまったか、怖れを為して遠くの地へと逃げ去ってしまったかしたようだ。この砂漠の地には起こりえない現象を前にして、敵はしばらくの間は様子見を続けることになるのかも知れない。再び奇襲の如く、どこからか巨大な氷柱の矢があちこちから飛んできてはたまらないと、特別深いことは考えていないであろう炎の戦士たちでも、その本能に恐怖として頭か胸かに刻みつけられたに違いない。
「きっともう大丈夫です」
そう言いながら目を開けたポピーの前で、アイシスは顔色悪く小刻みに身を震わせていた。呪文を唱えている時には気づかなかったアイシスの手の余りの冷たさにポピーは息を呑み、アイシスの顔を覗き込んだ。
「あの、大丈夫ですか、アイシス女王様」
「ええ……御心配には及びません。もう、私は砂漠の熱の中にあります」
その言葉を解しているのはポピーのみで、砂丘の彼方の景色を知らないリュカもビアンカもティミーも、女王と王女が静かに敵を退けたのだとだけ思っていた。
「人間がこれほどの凍てつく力を発することができるなど……想像したこともありませんでした」
砂漠の国で女王という立場にいるアイシスだが、彼女の治める国で氷の呪文の使い手は一人もいない。そもそも人間で氷の呪文を使う者がいるという話も彼女は聞いたことがなかった。温かな血の通う人間がこれほどまでの凍てつく力を生み出せるものだろうかと、アイシスは思わずまじまじと目の前のポピーを見つめる。
「やはり勇者様のお力は間違いなくポピー王女にも受け継がれているのでしょうね」
女王の言葉に、リュカは今この場で何が起こったのかを目にせずとも、女王がポピーの途轍もない魔力をその身に感じたのだろうと悟った。
リュカはこれまで凡そ二年の間、子供たちを連れ、魔物の仲間たちと共に世界を旅してきた。人間の力など到底及ばない魔物の仲間たちの並外れた力を目にすると、思わず子供たちの力を正確に見ることが出来なくなってしまうが、それでも時折勇者であるティミー、その彼と血を分け、双子の妹として生まれたポピーの持って生まれた能力に目を見張ることがある。
アイシス女王の言葉を受け、ポピーは思わず口元に笑みを浮かべている。それは、彼女の希望する言葉が女王から得られた喜びに依るものだった。決して兄ティミーだけが勇者として生まれ、たった一人で運命を背負っているわけではない。勇者を象徴する者として、ティミーは選ばれた。しかし同時に、勇者の運命を背負う者としては、妹である自分もまた選ばれたのだと、ポピーはアイシス女王の言葉にその意味を肌に感じ取り、そしてその意味に彼女は喜んだ。
「私たちもとんでもない子供たちを持ったものだわ」
双子の母であるビアンカは決して子供たちの運命を否定しない。その強さにリュカはいつでも救われる。彼女は、子供たちの運命を認めた上で守ることを、既にその心に深く決めている。腹を痛めて産んだ母親がその決意を見せているのならば、父親である自分はそれら全てを守り、戦うことを選ぶのみだと今一度強く心に思う。
「テルパドールでお金を稼ぐのに、働いていたこともあるって言うのにね。普通の旅人だったんだけどな~、私もリュカも」
「今思えば、我々はグランバニアの王と王妃を町や城で働かせてしまっていたのですね……」
「元々私は町の宿屋の娘ですもの。身体を動かして働くのは嫌いじゃないんですよ」
「お母さん、お城でもよく動き回ってるもんね~」
「お父さんはその時、お城の学者さんのお手伝いをしてたんだっけ?」
「そうだったね。初めは嫌だな~って思ってたけど、やってみたらそうでもなかったんだよね」
「いっつも遅くに宿へ戻って来たじゃない。リュカのことだから一度夢中になったら時間も忘れて没頭してたんでしょ」
「うーん、そんなものだったかな」
ポピーの呪文による牽制で、砂漠の城を遠くから睨む魔物の群れは遠くへ去って行ったようだった。それを見て、女王アイシスはグランバニアからの訪問者である王族一家を地下庭園へと誘った。既に訪問者を歓迎する場所は準備が整っているようで、アイシス女王の指示の下、女官に案内されるようにリュカたちは地下庭園へと足を運ぶこととなった。
玉座の間からは広く砂漠の景色が見渡せる。リュカは玉座の間を離れる前にもう一度、砂漠の景色を見渡した。そこには明らかに人間ではない者の姿がある。翼を持ち、この暑い砂漠の地をあちこちへ移動している。それはこの砂漠の国を守る意思を持つ、シュプリンガーの兵だった。テルパドールを訪れているグランバニア国王一家の存在には気づいているようで、遥か遠くからこの玉座の間を見遣るシュプリンガーの視線が一度、リュカの目と合ったのだろう。それまで移動していたシュプリンガーの動きが束の間ピタリと止み、その後間もなく再び動き出した。何かしらの挨拶をしてくれたのだろうと想像したリュカは、己は見えなくとも相手に伝わるようにと、頭を下げ礼を以って返した。
「魔物の数は明らかに増えています」
地下庭園に移動したリュカたちは、瑞々しい花の香りが漂う中で、砂漠の女王との対話の時を持った。水の流れる音が清かに耳に聞こえ、花の香りを支える土の香りもまた、砂漠と言う土地に住む者にとっては安らぎの香りだろう。アイシス女王の大いなる希望の一つには、この地下の緑を地上へと広げたいという思いがある。その為にも彼女は今に残るこの地下の緑を残すために、仕えの者たちに丁寧に草木の世話をさせている。一度枯れ果ててしまえば、そこから再び立ち戻るには果てしもない時間が必要となる。そもそも元に戻るかどうかも分からない。繋ぐ命は一度でも絶やしてしまってはならないのだと、アイシスはこの乾いた土地に残る緑の景色を大事に地下で育み、管理させているのだ。
「リュカ王は先ほどご覧になられたようですが、リンガー達にも大いに国を守護してもらっています。しかしそれでも、時折敵は守護を突破してきます」
「えっ」
「国の兵たちも、以前よりは傷を負うことが多くなりました。まだ回復が追いついているために大事には至りませんが、このままでは……少し難しい局面を覚悟しなくてはならないでしょう」
敵の魔物らは今のところ、統率の取れていないような有象無象の集まりと言えるのだと、アイシス女王はその言葉に含めているとリュカは感じている。しかしもし、敵の魔物らの中に一体でも二体でも、統率者なる者が現れ、群れを率いてこのテルパドールに攻め込んできたならば、この国は耐え切れないかもしれないと女王は冷静に自国の状況を見ているのだ。彼女の表情は非常に落ち着いている。しかしそれは国の主を務める者としての役割の一端が現れているだけなのだろう。国の民からの信頼厚い彼女は何があっても、取り乱すようなことがあってはならない。
「一つ、言っておきたいことがあります」
決して不安を見せないアイシスだが、その心は恐らく不安に満ちているに違いないと、リュカは彼女を落ち着かせるためにも、そして自分の言葉は確かなものだという自信を見せるように、微笑んで言葉を口にする。
「今のところ、敵が人間の国を亡ぼすということはないです」
リュカがそう断言するのは、セントベレスで遭遇した仇の言葉によるものだ。残酷非道な仇ゲマは『今は好きにするがいいでしょう』とリュカたちに告げた。敵は今、人間たちを地上の世界で泳がせているような状況なのだろう。
『その方が後で一層悲しみを味わうことができますからね』と続けて口にしたその言葉に、ゲマの目的が詰まっている。今は勇者の光とやらに縋り、そのささやかな光にでも照らされていれば良い。空には天空城が数百年ぶりに浮き上がり、果ては竜神の力をもリュカたちは復活させた。確かに地上の魔物の数は多くなっているのかも知れない。しかし今のこの人間界の状況で、敵は敢えて、人間たちを照らす光が強くなるのを黙って見ているのだ。
そして時が満ちた時には迷わず、敵はこの人間たちが暮らす地上の世界に襲い掛かってくるのだろう。時が満ちる時とは即ち、勇者の存在が滅びた時。
ゲマの言動に、行動に、リュカはゲマがあっさりと勇者の存在を滅ぼすとは思えない。あの残酷な敵は、勇者や竜神などを神々しく際立たせ、地上に生きる人間たちを光に照らし、そうして出来上がった光をこれでもかと粉砕してしまうことに喜びを見い出すような外道に違いないのだ。
「ただ油断はできません」
たとえゲマがそのような考えを持っていたとしても、彼の敵もまた、魔界に潜む大魔王の配下に過ぎない。現に、セントベレスの山頂で光の教団の教祖として多くの人間たちを捕らえていたイブールは、いともあっさりとその地位を失い、そして立場としては下にあったゲマの手によってこの世からもあの世からも葬られた。この地上の世界を脅かしている元凶の大魔王という存在を、リュカたちは実際に知っているわけではない。しかし何かが起これば、ゲマの存在など飛び越えて、大魔王自らこの地上の世界を直接に脅かしてくる可能性は大いにあるのだ。
「だから僕たちは、魔界に囚われた僕の母マーサを救い出し、再びこの地上と魔界とを隔てる扉を固く閉ざすことを考えています」
じっくりと話を聞いているアイシスに、リュカは自身の母の話を細かく説明した。エルヘブンと言う村に育った娘であり、この地上界と魔界とを隔てる門番の役割を果たす唯一の人物であることをリュカの口から語れば、アイシスは目を閉じながらその説明を頭の中で反芻するようにして理解した。代々に渡って過去の勇者が残した伝説の兜を守り続けてきた国の長は、魔界の扉の番を永らく続けているエルヘブンという村が存在することをも即座に受け入れた。勇者の伝説を信じ続け、現実に勇者の存在を目の前にしている女王は、魔界の門番という役割を負う名も知らぬ村にもすぐに理解が至った。
「かつてのパパス王の遺志を今も貴方が継いでいる、と言うわけですね」
アイシスは以前にリュカとビアンカがこの国を訪れるそれよりも前に、旅人から東の国グランバニアにおける話を耳にしたことがあった。魔界に連れ去られた王妃を救うために、王は幼子を連れて世界を旅していると。奇しくもその幼子が成長し、若者となったリュカに、アイシスは十余年前に遭遇したのだ。リュカと言う一人の旅人に明らかに他の者たちとは異なる特別な力を感じたアイシスは、彼にグランバニアという国の存在を教え、向かうことを勧めた。
「そうですね。……でも、それだけじゃないです」
リュカの心には父パパスの生前の想いが確実に根差している。しかしリュカもまた成長し、妻と共に生き、子供たちと共に生きる上で、その思いは明らかに形を変えていた。
「僕自身、母に会いたいと思っています」
父が死に際に、それまで一切リュカには話さなかった母のことを口にした。その時はあまりにも唐突で、父の言葉に頭は追いつかなかった。ただ父の母への深い想いの一端を、父自身が息子と母を会わせることのできなかった無念を、まだ幼かったリュカがその全身に浴びたのは間違いなかった。
それからは父パパスの無念を晴らすべく、リュカは見も知らぬ母を求めた。自分は死ぬわけには行かない。父が命を賭して子を守ろうとしたのだから、子はそれに応えるのが当然だと、リュカは考えもせずにそうと思い込んだ。その執拗なまでの生への執着と、時の運が、自分をこれまで生かしてくれたのだろうとリュカは感じている。
そして人間は成長する。永遠に続くとも思われた奴隷としての過酷な生活は、恵まれた運により唐突に終わりを告げ、それからリュカの人生は急に動き始めた。まさか自身が結婚するなど露ほども考えていなかった。その上子にも恵まれるなど、苦労しかなかったような時を過ごしたことを忘れてしまいそうになるほど、幸せが彼を包んだ。
生まれたばかりのティミーとポピーを、リュカは不思議な思いで見つめた。愛しいという思いが自ずから胸の内から沸き出してくる感覚は、初めてのことだった。妻ビアンカを大事に思うのとはまた別の感情だ。妻は守る対象でありながらも、背中を預けられるような頼れる存在でもある。しかし目の前の双子に関しては、何が何でも親である自分が守らねばならないものなのだと、考えるのではなくその胸に感じてしまうのだから、拒みようがなかった。自分が親になって初めて、父パパスの想いに自身を重ねることができた。父がこのような想いを抱えていたのだと知れば、あの時の父の無念をより深く知ることができた。敵に滅ぼされる前に恐らく父は、子の前から離れることに、胸も身体も全てが引き裂かれるような想いを抱いたことだろう。
そしてまた八年、絶望の時を過ごした。子供の頃から過ごした奴隷としての暮らしも口には言い表せないほどに酷いものだったが、石の呪いの中に閉じ込められた八年はそれを超えるもののように思えた。セントベレスの山頂の寒さでも、極限に腹を空かせて目が回る感覚でも、看守が浴びせる鞭の痛みでも、何でも良いから感覚を得たいと思ってしまうほどに気が狂いそうになった。
何よりも、手も足も動かせない状態で、残してきた愛しい双子の子供たちのことを考えるのが最も辛い時だった。考えることだけは止めずに続けてきたが、それも終いには放棄しそうになった。視界だけは残された感覚で、目の前で一人の子供が魔物に攫われる場面を目にしたところで、リュカの絶望は一層深まった。考えれば考えるほどに、絶望しかない想像が容赦なくリュカの頭を支配しようとする。考えることをリュカは、放棄しかけていた。
そこにまさか成長した子供たちが、供のサンチョと姿を現すなど、誰が予想できるだろうか。再びリュカの時が動き出した。しかし妻ビアンカの行方が未だ知れない状況と分かれば、それは即ちかつての自分と父パパスの状況と同じではないかと、胸の中がすっと冷たくなるのを感じた。何が何でも子供たちを母に会わせたいという思いをリュカは抱き、そしてそれは再び父パパスの歩いてきた道を通ることになるのだろうかと、朧げにそんなことを感じた。
しかしそれは全く違っていた。子供たちは父であるリュカの事、そして母であるビアンカの事を、まだ赤ん坊の頃からグランバニアの人々によって知らされていた。確かめてはいないが、恐らくサンチョやオジロンが中心となってそのように考え、グランバニアの王子王女に父であるリュカ、母であるビアンカの話を柔らかく伝えてくれていたのだろう。
リュカは母マーサの事を一切知らされていなかった。しかしティミーとポピーは幼い頃より父リュカと母ビアンカの事を知らされていた。その違い一つで、リュカの胸の内には根差していなかった子の母への想いというものを、ティミーとポピーはその心に育て、そして十年の時を経て母ビアンカとの再会を果たした際には、その思いを溢れさせた。
それからも母子はことあるごとに同じ場所で同じ時を過ごしている。今まで離れ離れだった時を埋めるように、どこか必死になっているように見えることもある。そんな時にリュカは、セントベレスの大神殿深くで聞いた母マーサの声を思い出す。
「母に会いたいと……そう思ってしまったんです」
もう自身は子供ではないのに、ティミーとポピーがようやく母ビアンカに会うことが叶い、仲睦まじくしている様子を見ると、それを共に喜ぶ父としての感覚と同時に、その状況を羨む子供としての感情が姿を現してしまう。母マーサは魔界には来るなと言った。しかしリュカはその母の言葉に愛情を感じると共に、本当は母の声で「会いたい」と言って欲しかったと後になって気づかされた。
言葉の途切れたリュカの手に、隣に座るビアンカがそっと自分の手を乗せる。子供じみた発言をする自分は父親として間違っているのではないかと思うリュカの心を、ビアンカは間違っていないのだと否定するように、まるで子供にするのと同じようにぽんぽんと落ち着かせるように叩く。
「魔界の扉の番人の役を負うていたとは……それこそ遥か昔より、過去に勇者様がこの世界をお救いになった頃より務めてこられた役なのでしょうね」
そう言って、アイシスは静かに目を閉じる。彼女の身に着ける装飾品が地下庭園に灯る明かりを受け、きらりと光る。呼吸も留めているかと思われる静かな瞑想の時間を、女王はしばしの間過ごした。彼女もまた、代々特別な能力を受け継いできた一人だ。未来を読むことのできる能力を有する彼女は今、瞑想の中に新たな未来を読もうとしている。
再び目を開けた女王が初めに見たのは、勇者ティミーだ。勇者の再来を信じ続けていたテルパドールの国は、代々守り伝えられていた伝説の兜を、その時が来るまではと大事に大事に守り続けてきた。その勇者が今はもう目の前にいる。しかしその姿は誰もが想像するような頼れる大人の男ではない。これから青年になろうとしている少年で、世界を救うにはまだ力が及んでいないのだと、アイシスの目にも映る。
勇者の再来を信じ、勇者は再び世界を救うことを信じ続けてきた砂漠の女王だが、ようやく家族が揃い、体格は以前よりも成長しているに違いないティミーの表情が、幼い方向へと戻っているような雰囲気に思わず一人の人間として胸を打たれる。今しばらくは父と母の下で子供としての時間を過ごすべきではないのかと、そう思考を巡らせば、彼女の優れた占術の能力は鳴りを潜める。
「……魔界に囚われたリュカ王の御母君をお救いになり、そして魔界の扉を再び固く封じること、これに私は賛同いたします」
未来を予知する能力を有するアイシスでも、再来した勇者が確かに世界を救うかどうかという未来を読むことはできない。それもそのはず、彼女は世界を統べる神ではない。たとえ神であっても今後の人間の未来がどのような形になるのかなど決して描いてはいない。人間たちの住む世界の平穏は、人間の手に委ねられている。その一つが勇者という存在であり、そして勇者を取り巻く一つ一つの関係がその存在を支えている。全ては相関関係の元に成り立っている。
「そしてその上で、機を見定め、勇者様はこの世界をお救いになるでしょう」
アイシスのこの言葉は、彼女の占術の結果に出ているものではない。目の前のどこか心細げな少年を見れば、アイシスは一人の大人として、少年の心を励ます言葉を口にせざるを得なかった。しかし今のティミーに必要なのは、自身の自信になるような人々の心だった。特に未来を見定める能力を持つアイシス女王のこの激励の言葉は、ティミーの心にもしっかりと響いた。
この砂漠の国を治め、民からも信頼厚く、代々に渡り古の勇者を信奉し、伝説の兜を数百年に渡り守護し続けてきた砂漠の女王の言葉は重いが、同時にティミーに勇者としての自信を取り戻させた。彼女はただ勇者と言う存在に期待しているだけではない。かつての勇者と共に旅をしたと言う導かれし者たちの末裔として、勇者という存在そのものを支えてくれているのだと、今リュカは感じていた。
「先代のパパス王の悲願をどうぞ成し遂げて下さい。御母君が救われることを祈念いたします」
「ありがとうございます」
「しかし決して無理をしてはなりません。貴方がたの危険を望まぬのは誰よりも貴方の御母君です。何があろうとも貴方がたの無事を優先させるのですよ」
「……何だかアイシス様がリュカのお母様みたい。お母様も同じことをリュカに言うわよね、きっと」
ビアンカの砕けた一言が、彼らの場の空気を瞬く間に和ませてしまった。妻の言葉にリュカは眉をひそめながらアイシスを見つめ、アイシスは困ったように笑いながらリュカとビアンカを見遣る。
「私がリュカ王の母君になど、畏れ多いことです。それに……そこまで年を重ねてはいないつもりなのですがね」
「えっ? いや、そういうつもりで言ったんじゃないんです! あの、本当に失礼しました……私ったら何てことを……」
「ふふふ、良いのですよ。城の者たちにも年齢不詳だと噂されることがありますから」
「アイシス女王様はそんなことを言われてイヤじゃないんですか?」
女性の年齢について何事かを噂することなどマナー違反だと知っているポピーは、正直な気持ちでそう女王に問いかける。少女の純粋な瞳を向けられ、アイシスは微笑みながらこう返す。
「多くの者たちは私の年齢など知らずに噂しているだけですからね。若く見られているのだとしたら女としてはそれで良いですし、上に見られているとしたらそれだけ女王としての貫禄が出ているのだろうと。どちらでも私は嬉しく思っていますよ」
そう言ってアイシスはただ微笑むだけだ。彼女はただ民の声に耳を傾け、その中にこの国に対しての、この世界に対しての不安や不満があるかどうか、凡そそれだけを注視しているのだろう。自分の容姿については何を言われようが構わないが、容姿が女王と言う立場の者の信頼の一つとなり得るために、彼女は日々身だしなみに注意を払っている。
「お父さん」
ティミーの落ち着いた声に、リュカは息子を見る。声の感じから真剣な表情をしているかと思った息子の表情は、明るい笑顔を見せていた。
「ボクたちで絶対におばあちゃんを助けようね!」
そこには勇者としての自信を少なからず取り戻したティミーの姿があった。何度も言われていたことだったが、勇者には仲間が多くいることを改めて強く感じさせられた。ティミーは家族や自国の人々だけではなく、このテルパドールの人々は今までもこれからも勇者と共にあり続けるのだということを、アイシス女王の対応に感じた。それがまた、ティミーを支える大きな力の一つとなる。
「そうよ! 私もおばあちゃんに会いたいし、お父さんにもおばあちゃんに会ってほしいもの」
兄ティミーが元気を見せれば、妹ポピーも兄の元気を貰い、自らも明るい顔を見せるようになる。そうして妹が元気を見せれば、それを受けてまたティミーは更に心を明るくする。この双子はこうして相乗的に互いを高め合うことができるのだろうと、子供たちの優しく明るい表情を見ながら、自らも元気を貰うように笑顔で頷いた。
テルパドールの国を去る際には、地下庭園に咲く花々といくつか束にして土産に持ち帰ることとなった。花束を手にするビアンカは「ドリスが喜んでくれるわ」と、既に自らも喜び笑顔を見せていた。異国の香り漂う花々を土産に持ち帰れば、その香りを嗅ぐだけでドリスも異国情緒に浸ることができるだろう。
昼の時間に近くなり、玉座の間を砂漠の熱が厳しく取り巻くような状況となっていた。アイシスや女官らは涼しい顔をしているが、リュカたちは忽ち顔に首に背中にと、汗が伝い始めるのを感じていた。リュカの移動呪文ルーラで玉座の間から飛び立つのが良いとこの玉座の間へと再び足を運んだが、先ほど追い払った敵の魔物たちの姿はその気配もないようだった。天幕の張られた日陰から砂漠の丘を見遣るアイシスの表情にも、特別影が差し込むことはない。
辺り一面に強い日差しが照りつける砂漠の上に、一瞬陽光を遮る影が通り過ぎた。リュカが天幕の下から空を覗き込むと、そこには青空を悠々と飛んで行く竜神の姿があった。テルパドール訪問の最中、リュカはドラゴンの杖を持参しては来なかった。しかし空を行く竜神はテルパドールにいるリュカの存在に当然のように気づいているようで、挨拶をするように大きく空を旋回して見せると、そのまま南へと飛んで行ってしまった。
「今日のこの日にマスタードラゴン様の御姿が拝めるとは……やはり貴方がたは選ばれし者たちなのですね」
感嘆するようにそう言うアイシスは、南へ飛んで行く竜神の姿に恭しく頭を垂れていた。側に仕える女官らも一様にして頭を垂れ、マスタードラゴンへの敬意を静かに表していた。
「あの竜が……マスタードラゴンなのね……」
あっと言う間に遠くへと姿を小さくする竜神を見ながら、ビアンカはぽつりとそう呟いた。彼女が竜神の姿を目にしたのはこれが初めてだ。勇者の子孫として何か感じるようなところがあったのだろうかと思ったリュカだが、それを彼女に聞くようなことはしなかった。どうせ今度、彼女と子供たちを天空城へと連れて行く。その時に彼女が何を思うか、どんなことを感じるのか、そしてそれは彼女自身が知ればいいだけのことだ。
竜神が飛んで行く彼方、砂漠の地を超えた海上の彼方には広く雲が広がっているように見える。その雲のどこかに隠れるように天空城は浮かんでいるのだろう。竜神はその雲の中へと姿を消した。この世に勇者が存在し、この世に竜神が存在しても尚、この世界の未来がどうなるかなど誰にも分からないという現実を、リュカは虚しい思いで雲に消えた竜神に問いかけるが、当然神は答えない。答えなど、今は誰にも分からないのだ。
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bibi様
こんばんはご無沙汰しております。テルパドール訪問でしたかアイシス女王はまさに年齢不詳ですね。
おそらく身体に良い事を沢山やっていることでしょうね。いやあ彼女は長生きしますよ。ポピー王女との連携も素晴らしかったですし。ビアンカ王妃とのやりとりもいいですよね。リュカ国王にとって母親のような存在感も感じる事が出来ました。ティミー王子のこれからの決意も感じ取れるところもありました。
話は前回からの感想と続けてですが前回は少し緊迫した場面での家族会議でしたが、ビアンカが雰囲気を和ませる場面がまたいいですね。彼女は王妃でありながらも家事全般は積極的なところもあり、グランバニア国民と常に寄り添う所が本当に国民と同じ目線に立っていることが良いですね。
町の宿屋の娘として生まれてきたから民衆の苦労がわかる王妃様なんだなあと感じました。
ビアンカはこれからもグランバニア国民にとっていつまでも好かれる王妃様でいることは間違いないです。
歴史上でフランス革命で断頭台の露と消えたマリーアントワネットとは全然違うところがありました。マリーアントワネットは育ってきた環境がビアンカと違って生まれた時からオーストリア王家のハプスブルグ家で屋敷の中で外の世界を全く知らないで育ってきた残念な人だと思うところがあります。おそらく周りがそうさせてはくれなかったのでしょう。すみませんビアンカとマリーアントワネットを比べてしまって、自分はどちらかというとビアンカの方が好きですね。
王妃と聞いたら歴史上でアントワネットの事を聞いてあまりいい話は聞かなかったのですがドラクエ5のビアンカ王妃の行動を知った時は自分の事を決して棚に上げない気取らない常に国民目線で家族思いの優しいお母さんだなと思っています。ポピー王女もビアンカ王妃と似ることは間違いないですね。
さてついこの間年が明けたと思ったら明日で1月が終わりですね。新年明けましておめでとうという言葉と新年会の行事は20日と今回は21日の土曜日を過ぎ後半になると段々と薄らいでいく事が殆どです。年は2023年ですが、年度は2022年度です。学業や社会や政治経済等世間一般では4月1日が新年度のスタートで翌年の3月31日が年度の最終日となります。世の中の動きも色々とありました。岸田総理大臣が5月8日からコロナを季節性インフルエンザと同じ5類にすると言っていましたね。極端に気温の変化が激しくなっておりますが体調に気をつけて万全にお過ごし下さい。
tomo 様
コメントをどうもありがとうございます。お返事遅れてしまい申し訳ございません。
アイシス女王は色々と秘密のベールに隠されているところが良いなぁと、そのような雰囲気で書いています。暑さ寒さの厳しい場所に暮らしているので、きっと身体も強いでしょうね。ビアンカとアイシスに会話をしてもらいたかったので、このお話を書けて良かったです。ティミーにも必要な場所かなと、勇者として。
実在したマリーアントワネットも、かの有名な台詞「パンが無ければお菓子を・・・」ということは本当は言ってないらしいですね。詳しくは知らないのですが、彼女の地位や周囲の環境などで、色々と話にも尾ひれがついていたのかなと想像します。屋敷の中で外の世界を知らないで育ち、世間を全く知らないではいけないと、娘に外の世界を見せたのがドラクエ5で言えばルドマンと言うことになりますかね。・・・まあ史実とゲームを比べても、比べられるものではないでしょうが、ドラクエ5にはそんなメッセージもあるのかなと思ったりします。
私の勝手な想像ですが、グランバニアは国としてかなりアットホームな雰囲気があり、対してラインハットは規律に厳しいイメージがあります。それ故に、ビアンカはたとえ宿屋の娘だったとしても、彼女の強さもあり、心地よくグランバニアに受け入れられたという一方で、ラインハットでは実はマリアは色々と苦労している・・・なんてことを考えていたりします。本当はラインハットのその辺りの話をどっぷり書いてみたい思いもあるのですが、そちらに割く時間もなく・・・いつか書けることを夢見ながら、本編をこのまま進めて行きたいと思います(笑)
もう2月に入ってしまいました。いやあ、早い早い。現実の世の中も、目まぐるしく色々と動いていますね。とりあえず、現実に生きるのに必要な知識は頭に入れておかないとと、ニュースは逐一見ていたりします。5月8日から・・・そこまで延ばす理由とか根拠って、何かあるんですかね。何となく、雰囲気でやってそうでちょっと怖いんですよね、最近の政治・・・。tomo様もどうぞ風邪など気を付けてお過ごしください。まだまだ寒い日が続きますので。