「吾輩は猫である」を読んで
え、今更? みたいなタイミングですが、なにせ古典を読んで来ないまま大人になってしまったので、今になって色々と読んでいる次第であります。
夏目漱石の著は、やはり日本人として読んでおかねばなるまいよと、先ずは猫ちゃんを読んでみました。
冒頭の文は有名ですよね。「吾輩は猫である。名前はまだ無い」この冒頭からして、この猫における背景がちらちら分かるのが素晴らしいなぁと思います。自分の事を「吾輩」と呼ぶ辺り、気難しそうな猫だなと思わせられ、しかし「名前はまだ無い」の現実は、可愛がられている風ではないが、野良猫と言うわけではなく、「まだ」という言葉には、これから名前が付けられるかもしれないと言う期待もありつつも、それでもやっぱり「吾輩」と自らを呼ぶその性格から、名前がないことにも冷めている風でもあると・・・たったこれだけの文で多くの事を想像させられるので、更に先を読みたいと思わせる楽しさがあります。
登場人物・動物も、皆が個性的で面白いんですよね。猫が暮らす家の主人は、珍野苦沙弥という中学校の英語教師。ちんのくしゃみ、ですよ? くしゃみをちーんとするような・・・これだけで、どこか落語の世界をにおわせるのがたまりませんね。
彼の友人には、迷亭(めいてい)という少し(かなり?)ふざけた美学者。名前が迷ってますからね。酩酊の方とかけているのかしら。
苦沙弥先生の教え子に、水島寒月。なかなかのイケメンのようです。それでも、彼の先生が苦沙弥先生だから、まあ彼もそこそこ抜けている感じを受けます。
その他にも、かかりつけ医の甘木先生(縦書きで読むと某先生と読めるとか・・・)、金持ちの金田さんにその妻で鼻が特徴的な金田鼻子、その娘に金田富子。そのままだ。珍野先生には妻子がおり、三人の娘はとん子にすん子にめん子。・・・いいですねぇ、名前からはっきりとふざけていて、気持ちが良いほどです。こんな面白い名前をつけているような本だったんですね、「吾輩は猫である」は。
そんな人間たちを、猫目線でひたすら観察するというお話。明治の世に、こんなに面白いお話ができていたなんて、それだけでぐっと胸に詰まるものがあります。面白い中にも、しっかりとした皮肉がたっぷり詰め込まれているのがたまらないところです。人間観察が鋭く、かなり上から目線で書かれていることに、実は猫ってこんな目線を持っているのかも知れないと思わせられます。偏屈で頑固な苦沙弥先生のところに暮らす猫ちゃんだから、こんな皮肉めいた視線を持つようになったのもあるんだろうねぇ。飼い主に似るって、こういうことなのかも。
どこを取っても面白い話なんですが、その中でも一つ、猫が運動する場面があり、そこが私としては声を出して笑ってしまったところで。とても説明が細かいんですよ。描写には圧巻で、その言葉遣いがまた噴き出してしまうような表現で、あっという間にその場面を読んでしまいます。一つ一つ、頭の中で想像してみると、何とも滑稽なんです。垣巡りという、垣根の上を歩いて行く運動で、向こうに三羽の烏が止まっていて、邪魔なので声をかけてどいてもらおうとしたけど・・・という話が、もう最高でした。動物がする動きそのものを表現しつつ、そこには実はこんなやりとりがある、という想像がおかしくってたまりません。烏って昔からこんなヤツだったのねと。今に繋がるそのような雰囲気もまた楽しめます。
日本人として、一度はこのめちゃくちゃ有名な本を読んでおくことをオススメします。・・・まあ、もうかなり前に読んだわ、と思う方が多くいらっしゃるかとは思いますが(汗)
それも、私としては、できるならちゃんと文字を通して読んでいただきたい。文字の一つ一つにも皮肉が込められていますから。ここが日本語の面白いところです。言葉を表す文字を実際に目にすることで、ふわふわっとした想像ががちっと固定されることがあります。そういう感覚もまた、面白いですよ。
そして今は、夏目漱石の「三四郎」を読んでいます。義理の母が昔読んだことがあるとかで気になったので。こちらの方がお話としては短いのかな。
子供が成長して、大分落ち着いてきたので、私も落ち着いて読書ができるようになってきたと言うものです。読書、特に古典となるような本は名作しか残されていないと思うので、時間が許す限りは何かしら読んでいきたいと思っています。久々にまともに読書、楽しいです。