水車小屋の番人
ジャハンナの町の根幹を為すとも言える巨大水車へと向かう途中、地上の建物ではなく、地下へと下りる階段をリュカたちは目にした。ただでさえ暗い景色の中に浮かび上がるようにも見えるその階段は、やはりアンクルほどの大きな魔物でも入れるほどに入口も広く作られている。階段の先を少し覗いてみても、暗くて中の様子を確かめることはできないが、鼻に感じるのは何かを煮炊きするような良い匂いだ。
「がう……」
「プックル、さっき宿で食べたばかりなんだから、我慢するのよ」
思わず涎を垂らしそうになるプックルの背中の赤毛を撫でながら、ポピーがそう宥める。地下へと下る階段の脇には立て看板が置かれ、看板には子供の様な字で“おしょくじどころ”と書かれていた。
「でもさ、気になるよね。後で行ってみようよ!」
「せっかくこうして魔界の町に来たんだもの。できる限り色々と見ておかないといけないと思うわ」
そう言いながらティミーとビアンカはまるで同じような好奇心に満ちた表情で、暗がりの階段の奥を覗こうと両膝に両手を当てて屈んでいる。そんな二人を見て、似た者母子だと思わずリュカは小さく笑ってしまう。
「そうだね、後で寄ってみよう。でもとりあえず先に、あっちへ」
気になる地下の“おしょくじどころ”を過ぎ、リュカたちは予定通りにと巨大水車の場所へ向かう。振り返ると、町の中心の憩いの場の広さを改めて感じる。巨大水車近くにまで来て、振り返り見る町の様子は、広くもまとまりあるものに見えた。ここに来るまでの道がやや上り坂であることも、広く景色の見える一つの要因だろう。この場所からは、町全体の様子を眺めることができる。
ジャハンナの町の人の言葉によれば、この町はマーサが地上から導いた聖なる水の恩恵で保たれているということだ。マーサの力が大きく町の成り立ちに関わっていると思えば、リュカは今、自身が立つ場所から見る景色に、故郷グランバニアの景色が重なるのを止められない。母マーサは、グランバニア国王であったパパスの隣で、王妃として、グランバニアの国を見つめていたのだろう。このジャハンナの町の、高い城壁に囲まれた中にまとまる町の様子を見れば、そこにマーサのグランバニアへの思いを感じるのはただの気のせいとも思えない。
束の間思いを馳せたリュカだが、恐らく母マーサが最も関わっていたに違いない巨大水車に向かうべく、再び進む方向へと歩き出す。魔物の仲間たちと歩くリュカたち一行は、それだけでジャハンナの町では目立つ存在となっている。人間が四人、それに対し魔物も四体、おまけにその中には機械兵であるキラーマシンもいる。しかしいたずら心にリュカたちに話しかける者はいない。ほとんどの町の住人は、リュカたちを珍しい旅人の一行として疑うこともなく、そして善い人間としての誇りを持つことで、静かに受け入れている。
巨大水車を目の前にして、リュカたちはそのあまりの巨大さ故に、しばし立ちすくんだ。霧のような細かな水滴を顔に浴びながら、この水がジャハンナの町全体を包み守っている聖なる水だということをその身に感じる。ゆっくりと回る水車の様子を近くで覗き込むと、町を囲む広い濠のような水路に流れる水が絶えず水車の羽に乗り、水車を動かしているように見える。しかし濠に流れる水の勢いはそれほど強いものではなく、果たしてこの巨大水車を動かせるほどの力があるのだろうかと、リュカはふと不思議に感じた。
巨大水車の中央下部に、この水車を支える木造の太い柱があるが、それは一本の太い柱と言うわけではなく、木組みで作られた大きな柱だ。それ自体は、水の流れに回転するこの水車本体を支えるためのものだろう。その柱とは別に、水車の中央部から、巨大水車の背景と化している大岩へと伸びる別の木組みの柱が渡されている。大岩に目を向ければ、それはこの町の宿屋同様、いくつかの覗き穴のような窓が開けられている。その小窓の中にリュカは何者かが通り過ぎるのを見たような気がした。
「あの岩の中、何者かがいますね」
リュカとほぼ同時にそうと気づいたピエールが、兜の奥から目を凝らして大岩に開けられた小窓のその奥を見通そうとする。
「誰かがいるなら、あそこにいけるはずだよね。どうやって行けばいいんだろう」
「まさか濠に飛び込んで、この水路を渡るというわけでもないでしょう」
リュカとピエールの会話に首を突っ込むように、身を乗り出して巨大水車と周囲の様子を見渡すティミーもまた、彼なりの提案をする。
「あの水車のハネ?に飛び乗ったら行けるんじゃないかな」
「がう~?」
「プックルなら行けないことはないけど、止めておいた方がいいよ」
ティミーの言葉を受け、前足で地面を掻き始めるプックルにリュカは笑いながらそう言って止めた。
「アンクルなら飛んで行けるじゃない」
ビアンカが事も無げにそう言うと、アンクルは眉間に皺を寄せ、腕組みをしてうーんと唸る。水車の近くに寄れば嫌でも浴びる霧の水には、聖の力がその効力を周囲に与え、それは即ち悪しき力を遠ざける力を放っている。アンクルは自身が魔物であることを重々承知している。己が“聖”という力に強くないことを、今は身をもって感じている。
「ここじゃあ……飛べる気がしねぇよ」
「そう言えばアンクルってこの町では全く飛んでいないわよねぇ」
「アンクルは飛ぶのに少し魔力を使ってるよね?」
ポピーの指摘に、アンクル自身は相変わらず腕組みをしながらも、難しい顔つきで小さく頷く。彼の醸す気配に、どこか謝罪めいた空気がある。いくらリュカたち人間と共に行動をするようになったからと言っても、アンクル自身はあくまでも魔物の範疇に入ってしまうことには変わりない。このジャハンナの町には力強いほどの聖なる力が町中に満ちている。人間の仲間らと共に町中を歩く分には特別問題はないが、正しい“魔”の力を使って宙を飛ぶには、その力を削がれる反力を感じるのだと、アンクルは難しい顔つきのまま巨大水車を見つめる。
「まっ、そういうことだよ」
「うん……何となくだけど、分かる気がするの」
言葉に言い表せないと言うよりは、言い表したくないというのがアンクルに取ってもポピーにとっても本音だった。ティミーが首を傾げて更に彼らに事の本質を問おうという姿勢を見せるが、リュカはそれを柔らかく止める。
「この町に住んでるのは人なんだからさ、別に飛べなくってもあの場所に行く方法があるはずだよ。ちょっとその辺の人に聞いてみるよ」
そう言うや否や、リュカは仲間たちのところからさっと離れて、近くを通る人に話しかける。人間と魔物の旅人一行に大分前から目を向けていた町の人は、一人の人間の男が近づいてくると、その存在に疑念を抱くこともなく素直に応対してくれる。一言二言話して皆のところに戻ったリュカは、先ほど通り過ぎて来た“おしょくじどころ”に水車小屋への道があると言うことを皆に伝えた。
「がうがうっ」
「そうだよね、ちょっとコバラが空いてきたもん。ちょうどいいじゃん!」
「プックルは小腹どころじゃないって言ってそうな気がする……」
「“おしょくじどころ”が目的ではないので、食事をするかどうかはまた別の話になるかと」
「お代次第よね~。だって宿だってかなり高いわよ? 食事も、その、内容の割にかなり取られるんじゃないかしら」
真剣な顔をしてそんなことを言い出すビアンカを見ていると、とても彼女がグランバニア国の王妃という立場にある人だとは思えない。水の羽衣を身に着けて神々しささえ醸しているにも関わらず彼女は元々これほどに庶民的で家庭的で、そんな彼女が傍にいることで、何よりも得難い安心感を得ることができることに気付く度、胸の内は自然と温かくなる。
町の人に教えてもらった通りにと、リュカたちは来た道を引き返すように、“おしょくじどころ”へと向かう。明らかにプックルの足取りが軽やかな事にも思わず笑ってしまう。この魔界の旅の最中は皆が皆、食糧の残りを気にしながらの旅だったため、リュカとしても皆にはこの町で大いに英気を養ってもらいたいと、たとえビアンカが渋い顔をしても食事代くらいは奮発するつもりでいる。当然、彼女もまた家族や仲間たちの事を第一に考えているのは疑いないところであるため、それに反対することもないだろう。
立て看板“おしょくじどころ”の脇に、地下へと続く広い階段がある。やはりここも、アンクルやロビンが問題なく通れるほどに広い空間が整えられていた。人間の町の食事処で先頭をプックルに歩かせるのは流石に問題があるかと、先を急ぐような足取りのプックルの脇をリュカが連れ立って歩く。階段を降りる毎に、食事の良い香りが濃くなっていくのが分かる。
広い階段の下には、リュカたちの想像を遥かに超える広い地下空間が広がっていた。水差しに湛えられた聖なる青白い光だけではなく、人間が本能的に求めるような暖かな火の橙の明かりがいくつも灯っている。アンクルが身を縮こまらせる必要などないほどに広々とした空間に、テーブル席がいくつか設けられ、奥にはカウンター席も設けられている。ジャハンナの町での今の時間帯は食事時ではないようで、客の数は少ない。がらんとした店の中を見渡しつつも、リュカはカウンターの奥に立つ店主の姿を見て、話をしようと歩き近づいて行った。この“おしょくじどころ”に来た理由は、食事のためではないのだ。
「あの、すみません。ここから町の水車の奥に行けると聞いてここに来たんですが、どこから行けるんでしょうか」
率直にそう聞くリュカに対し、リュカと年も同じほどに見える女性は暗い店内でもはっきりと分かるほどに化粧を施した顔をリュカに向ける。そしてまじまじとリュカの顔を覗き込むと、鮮やかな紅を引いた口元に笑みを浮かべて、彼女の立つカウンターよりも更に奥に通じるであろう扉を指し示す。
「お仲間の魔物たちを連れて行きたいのね? それならこの扉を抜けて奥へ行けば、水車小屋に入れるわよ」
扉は宿屋と同じように、出来栄えなど気にしないと言った風で、端の切り揃えられていないような木の板を繋ぎ合わせて作っただけのものに見えた。よく見れば、この食事処に設けられているテーブルも椅子もカウンターも、造り自体は非常に乱雑なものだ。しかしその一つ一つに、元々魔物であった彼らとしての努力が窺えるから、リュカたちがその乱雑さに顔をしかめることはない。
「うーん、でもそちらのキラーマシンはどうかしらねぇ。機械の魔物が人間になれるっていう話は聞いたことがないんだけど」
「あ、大丈夫です。みんな、特に人間になりたいとは思っていないみたいなので」
「えっ!? なんで?」
ジャハンナの町に入ることが出来た魔物が人間になりたいとは思わないということが、これまでに一度もなかったということなのだろう。食事処の女店主の驚きの声に、店内に座る数人の客の視線が一斉にリュカたちの方へと向けられる。ただでさえ目立っていたリュカたちだが、人々の視線に疑いの気配を感じたリュカは、少々慌てて言葉を付け足す。
「あ、いや、今はあんまり思っていなくても、水車小屋の中に行けば気が変わるかも知れないですね……」
「後でこちらで食事をさせてもらいたいんだけど、後で寄っても良いかしら?」
「がうっ?」
「とにかくあっちに行くのが先でしょ、プックル。お食事はその後でも平気よね?」
ビアンカの提案に驚くプックルが、ポピーに宥められている。既に食事をするつもりでいたプックルは恨めしいような顔つきでビアンカとポピーを見上げるが、喉の奥でキューンと鳴きながら俯き、言うことを聞くといった風にビアンカとポピーの間で大人しく立っている。
「もちろんよ。魔物のお仲間さんにもちゃんとお食事出すからね、安心してね。久々にこんなに大勢に……腕が鳴るわ~」
顔に施した化粧はしっかりとしたものだが、いわゆるけばけばしい雰囲気は感じられない。彼女は人間の女性として、客の前に立つ礼儀やプライドのような気持ちで化粧を施し、身なりを整えているに過ぎないのだろう。身振りも手つきもどこか軽やかな女店主は、張り切った様子で食事の下ごしらえを始めた。
木の扉に鍵はかけられておらず、ただ軽く押すだけで扉は開いた。目の前が暗転したのかと思うほどに暗い。ただ奥には仄かな青白い明かりが差しているのが見える。足元が見えないと、ビアンカが指先に炎を灯し、皆の明かりとした。
扉の奥はこの店の倉庫となっており、乱雑に木箱や樽などが積み上げられている。ちらりと横目でその様子を見ながら通り過ぎて行くが、少し見ただけでも、木箱や樽を動かすことを考えたらあの女店主の力ではどうにもできないのではないかと思える。しかし彼女もまた、元は魔物だ。もしかしたら途轍もない力の持ち主なのかもしれないと、元魔物である人間につい過剰な期待を寄せてしまう。
倉庫の中を歩いて行くと、その最奥に上へ上る階段が見えた。階段の上には更に新たな空間が広がっているのが既に見えている。カタカタと何かがぶつかるような音が絶えず聞こえる。青白い光が差し込んでいたのは、階段の上に続く空間だ。そこが恐らく、水車小屋に繋がる場所なのだろう。リュカが先頭に立ち、階段を上って行く。
今度は眩しいほどの青白い光に照らされ、目がくらんだ。ジャハンナの町でこれほど光に照らされる場所があるのかと疑ってしまうほどに、水車小屋の中は聖なる光で満ちていた。それでも冷静に考えれば、地上の昼の景色には遠く及ばない。少しの間目を凝らせば、光に目は慣れ、水車小屋の中の景色を見渡すことができた。
「うわ~、すごく大きい歯車だね」
ティミーの声は、広い水車小屋の上方へと向けられていた。皆が上を見上げる。そこにはいくつもの巨大な歯車が組み合わさり、互いの力を以てして動き続ける機械仕掛けの仕組みがあった。大きな歯車が小さな歯車を動かしているのかと思いきや、それは逆であったり、横軸に縦軸が組み合わさって動力が伝わっていたりと、その配置や大きさや向きなど、一体誰が考え作り上げたのだろうかと不思議が頭をもたげる。
ロビンが同じ機械としてなのだろうか、明らかに今までとは異なる反応を見せていた。大きな歯車、小さな歯車の動きを細かくその赤い一つ目に映している様子を見ると、彼が彼自身の内部にある秘密を垣間見たような驚きを表しているようにも見えた。
「いたた……。上見てたらクビが痛くなっちゃった」
そう言いながら遥か頭上をぐるぐると回る歯車から視線を外したポピーは、ふとその視線を別の場所へと移す。歯車を支える柱は凡そ木組みで作られているようだったが、一つだけ、巨大な石柱が小屋の中央近くに建てられている。ジャハンナの町のそこここで見るような武骨な造りではない。石柱とは言っても表面は滑らかで、形はところどころ美しい曲線を描いているような、芸術さえ感じられるものだ。
その石柱の中央に光輝く大きな緑の宝玉がはめ込まれていた。小屋内を照らす光はその宝玉から放出されているにも関わらず、宝玉自体の輝きは目に眩しいような鋭いものではない。ただ穏やかに柔らかく、この水車小屋の中を万遍なく照らす春の日差しのようにも思え、無意識にも表情は和らぐ。
「外の大きな水車は、あの緑の石の魔力で動いているようですね」
「あの石、とんでもない魔力よ。優しそうに見えるけど、とても強いわ」
ポピー同様、緑の大きな石に目を留めたピエールとビアンカがそう感想を漏らす。リュカも同じく、丸みを帯びた石柱にはめ込まれた緑の宝玉へと視線を向ける。優しく穏やかな光を生み出す、魔力を帯びた緑の宝玉に似たものを、リュカは今己の身に着けている。命のリングの小さな緑の石が今は目の前の巨大な緑の宝玉と呼応するように仄かに光っている。
緑の色が持つ力に、命そのものが持つ希望を否が応でも感じるのは、地上の世界でも、このジャハンナの町でも数多存在する植物が表す色だからだろう。水が命を生み出す源であるならば、生み出された存在が命そのものであり、それは生まれた瞬間から唯一無二の輝きを放っているのだと、石柱に埋め込まれた大きな緑の宝玉も、リュカの指にある小さな緑の宝玉もその輝きだけで雄弁にそうだと語っている。リュカ自身も父親として、命が生まれることがいかなる奇跡よりも奇跡的なことなのかを知っている。母の胎内で育まれることも、小さな小さな赤子としてこの世に生まれることも、赤子からすくすくと子供へと成長していくことも、全てが奇跡と呼べるものだ。
優しそうに見えるけどとても強いというビアンカの言葉が、命を生み出し、命を語る母の言葉のようで、リュカは無意識に指にはめたリングをもう片方の手で包んだ。小さな緑の宝玉自体が、仄かに温かみを帯びているような気がした。
「がう」
プックルの声と共に、ロビンが首を動かす機械音が聞こえた。仲間たちが見上げているものは、リュカたちが目にしていた強大な魔力を帯びた宝玉ではない。水車小屋の造りは、外側からは岩山に見えていたが、内部には木組みで柱や足場が組まれ、巨大歯車を横から上から見る位置にまで登ることができるようだ。その足場の上の一角に、彼らの視線は向けられている。
「あそこになんかいるぞ」
アンクルが怪訝な顔つきで見る場所に、明らかに魔物のものと思われる禍々しい羽の一部が動くのが見えた。思わずリュカは姿勢を低くし身構えたが、悪魔のような羽を持つ魔物がリュカたちに襲い掛かってくる様子はまるで見られない。木組みの足場の端からふらふらと大きな羽の一端だけが見えているが、その者は数ある歯車の具合を調べるように、のんびりと移動しているようだ。
「我々に気付いていない、ということもないはずですが」
「そうだよね。じゃあ呼んでみようよ!」
そう言うなり、ティミーが大声で「こんにちはー!」と挨拶の言葉を投げてみる。もしかしたらこの水車小屋の中に絶えず響く歯車の回る音や、水車が運び続ける水の音で何も聞こえていなかったのかも知れないと、ティミーは呼びかけ相手の反応を待った。木組みの足場からひょっこりと姿を現したのは、アンクル、ではなく、一体のアンクルホーンだ。アンクルが口をぽかんと開けて、足場の上に見ているアンクルホーンを見つめている。同じアンクルホーンと言う魔物でも、明らかに足場の上にいる一体には人間の老人にも見られるような落ち着きと達観の気配があった。乾いたような青い口髭を小さく動かし、俄かに表情を緩めると、そのアンクルホーンはリュカに視線を定めて上へ上ってくるようにと、小屋の端に設置されている大きな梯子を静かに指差した。
「リュカ殿、我々はここで待っています。皆さんで話を聞いて来てください」
「がうっがう」
梯子の大きさはジャハンナの町の入口と同じように、非常に大きな造りをしている。今足場の上にいるアンクルホーンでも問題なく使えるほどの大きな梯子だ。仲間のアンクルもまた同じように問題なく上ることができるだろう。
しかし問題となるのは、木組みで作られた足場の上の状況だ。木の板を何枚も渡して作られた、到底頑丈には見えない小屋の足場の上に、もう一体のアンクルホーンや、ましてや重量のある機械兵ロビンを向かわせるのは危険だとピエールは常識的にそう思った。リュカと共にいれば問題ないロビンも、この水車小屋の中で少々離れるくらいであればそれも問題ないだろうと、変わらず落ち着いた様子のロビンの状態を見てピエールはリュカに提案する。
「ハシゴって、プックルもピエールも上りづらそうだもんね」
「すぐそこだし、みんなには待っててもらった方が良さそうね」
ポピーとビアンカもピエールに素直に同調し、リュカもその方が良さそうだと、魔物の仲間たちには皆下で待っていてもらうことにした。アンクルに目を向ければ、彼は上にいる同族が気になる素振りを見せつつも、あまり対面して話をしたいようには見られない。リュカが一度アンクルに目を向けたが、彼は眉をひそめながら小さく首を横に振っていた。魔物から人間に姿を変えた人々が暮らすこのジャハンナの町で、何故あのアンクルホーンは魔物の姿のままなのかを知りたくないとでも言うように、アンクルは無言のまま早々とリュカから視線を逸らしていた。
リュカが梯子を上り始めると、すぐ後にティミーが続く。その後すぐにポピーが続き、後ろをビアンカが支えるように梯子を上る。行きつく先はそれほど高い場所ではないが、同じ形に切り揃えられていないような粗雑な板を並べてあるだけの足場には、高所が得意ではないポピーでなくとも不安を覚える。不安を覚えても下で待っているとは言わないポピーを支えるように、ビアンカが明るい口調で娘を励まし、梯子を上って行った。
並ぶ板と板の間には隙間もあり、うっかりするとその隙間に足を取られそうになる。ただ分厚い板には頑丈さにおける安心感はあり、尚且つアンクルホーンという大きな魔物の重量をも問題なく支えている状況を見れば、特別不安に思うこともないのかも知れないと、リュカは慎重に構えることもなくすたすたと木造の足場の上を歩き始めた。
リュカたちを招き寄せたアンクルホーンの目つきは、とても静かなものだ。その目は集中して、回り続ける歯車の様子を確かめている。水車小屋の番人とも言える立場のものなのだろう。マーサにこの場所の管理を任されているのかも知れない。しかしそれが何故、人間に姿を変えた魔物ではなく、魔物の姿のままの魔物なのだろうかという疑念がつい顔に出てしまう。
「お仕事中ですか?」
「ああ、まあな。そんなところだ」
「お忙しいところすみません。少しお話を伺いたくて」
「もちろん。わしもそのつもりでお前さんをここへ呼んだ」
リュカの言葉に答えながらも、アンクルホーンの視線は回る歯車から離れない。アンクルホーンの視線を追ってティミーも大きな歯車に目を移すが、少し見ているだけでも目が回ると言うように、思わずふらついた身体をリュカに支えられながらティミーはすぐに歯車から目を離した。
「僕はリュカと言います」
「……良い名だな」
「あなたのお名前は……もし名前があれば教えてください」
「ネロだ」
人語を話せる魔物は、たとえ魔物であっても己の名を持つ者は少なくない。仲間のピエールもその一人だ。相手の名を聞くことだけでも、相手のことの一端を知ることができると、リュカは初めに名を問うたのだった。
「あなたはここに一人でいらっしゃるんですか? 他に人は……」
「おらん。わしだけだ」
「どうして一人で」
「わしがそうしたいと、願ったからだ」
アンクルホーンのネロの答えは端的だ。しかしその端的な言葉の中に、彼の抱える様々な気持ちが含まれているようだった。それらを全て露にすることがリュカたちの目的ではない。心と言うのは人に覗かれたくない部分も大いにある。下手な詮索などしない方が良い。
「この場所を一人で見て管理するなんて、とても大変そうです。すごいですね、こんな複雑な仕掛けを一人で管理できるなんて」
「機械仕掛けの、定まったものを見るだけの仕事など、複雑なことはない。人間の心や感情の方がよほど複雑なものだ」
そう言ってネロは正面に立つリュカの顔をじっと見つめる。アンクルホーンという魔物ではあるが、その目に怖さは感じられない。ただ真剣で切実で、人間と言う生き物をどうにか見定めたいという彼の思いがその目の中に詰まっているような気がした。
「ネロさんは人間になりたくてここにいるんじゃないの?」
ジャハンナの町に住む人間の姿をした住人は、皆が皆元々は魔物だった者たちだ。そんな彼らはこの巨大水車近くで清き水に身を浸し、マーサの力を以てして魔物から人間へと姿を変えることができたとリュカたちは聞いている。当然、水車小屋にひっそりといるこのアンクルホーンもまた人間になることを目指しているに違いないと、ティミーは疑いない眼差しでそうネロに問いかけた。
「お兄ちゃん、ネロさんはここでおばあ様を待っているのかも知れないわよ」
ポピーの小声の言葉も、ネロの耳にはしっかりと届いているが、彼は特別言葉を返すこともなくリュカからの次の言葉を待っている。少女の何気ない一言で、リュカという人物の素性を知っても尚、彼はただ落ち着いた眼差しでリュカを見つめている。
その時、ネロがふと己の頭に手をやり、そしてはっと気づいたような顔を見せて、慌てて手を下ろした。彼が頭に手をやった時、彼の手が触れたのは当然のように大きな角だった。魔物の彼には頭部の左右に二本の大きな角がある。仲間のアンクルに、その角は見慣れている。しかし今ネロが表した行動は、まるで頭部に角が生えていることを忘れているような仕草だった。彼の大きな手は、人間が困った時にそうするように、頭に手を当てるような仕草に思えた。何気ない気持ちでそうしたら、思いがけずに頭に生えた角に手が当たったというように、リュカには見えていた。
「貴方はもしかして……一度人間に?」
リュカは相手の様子を窺うように、小さな声でそう聞いた。リュカを見返すネロの視線は揺れ、潤むその目に僅かに悲しみが漂う。その間にも大きな歯車が絶えず回り続ける音が、水車小屋の中に機械的に響いている。
「お前さん、人生に後悔してるか?」
リュカの言葉に応えることのないまま、ネロはリュカに別の問いを投げる。問いかけの内容は非常に抽象的で、リュカはその内容に対して、すぐさま返すことはできない。
人生に後悔しない者などいるのだろうか。どうすれば後悔しない人生を送ることができるのか、リュカには分からない。あの時ああしていれば、こうしていればと、一つもそう思わない人生を送れている人間に出会ったことはないように思う。
リュカ自身、己の人生を振り返れば後悔だらけだ。家族や仲間を連れて魔界などと言う未知の世界へと足を踏み入れていること、妻ビアンカの石の呪いを解くのに十年の歳月を費やしてしまったこと、子供に勇者などと言う肩書を背負わせてしまったこと、可愛かったであろう双子の成長を見ることができなかったこと、ビアンカの村での平穏な暮らしを壊して過酷な旅へ連れ出してしまったこと、親友に一生をかけて償うような罪を背負わせてしまったこと。枚挙にいとまがない。
そして、父を死なせてしまったこと。母を知らずに育ったこと。まだ生まれたばかりの時から、リュカの後悔は始まっている。それ故に時折、自分が生まれなければという思いが脳裏を過ることもある。思っても仕方のないことが脳裏を過る時は、心が弱っている時だ。
しかし後悔は希望と表裏一体で、後悔の裏側では希望が息づく。母を必ず助け出す。父の遺志を必ず遂げてみせる。親友となった彼を絶対に裏切らずに支える。今も傍にいる家族から絶対に離れることなく守り続ける。多くは成り行きだったが、仲間として共にいてくれる魔物たちとこれからも、人間と魔物として互いに助け合って生きて行く。今、リュカの胸中に浮かび上がる出来事や思いだけで、これだけのものが生まれてくる。
「後悔しない人生はきっと、人生とは呼べないでしょうね」
後悔を後悔だけで終わらせては、そこから生まれるものはないに違いない。後悔を後悔だけで終わらせないから、そこから人生が生まれて続いて行くのだ。
ネロの魔物としての目が、リュカの漆黒の闇のような目を見つめる。ネロは当然、リュカの正体に気付いている。自身を一度、人間の姿に変えてくれたマーサの血縁の者であり、その漆黒の目を見ていれば、そこに否応なく彼らの血の繋がりを感じる。自身にどれほどの悲しみや苦しみが襲おうとも、決して他者を労わる心を忘れないような慈しみを湛える彼の目を見ている内に、ネロは己だけでは気づくこともなかった我欲の一端に気付いた。
ふとネロはリュカたちに一度背を向けると、ぐらつく足場を慣れた足取りでひょいひょいと歩いて行き、壁の一部に手で触れた。どうやらそこには小さな棚のように、窪みが掘られており、歯車を管理するための様々な道具が揃っているようだった。その中で彼は工具類ではなく、何やら筒状のものを手にして戻ってくる。
「だったらこれを持って行け」
そう言うと、ネロは手にしていた筒状の古びたものをリュカの方へと差し出した。元は白に近い色だったのだろうが、今や火で焙ってしまったかのように茶色く変色している。しかしその素材自体は耐久性のあるものらしく、手にした途端にボロボロと壊れてしまうようなことはなかった。
「ジャハンナに伝わる話を書いた禁断の巻物だ」
巻物と聞いて、リュカは閉じられていた紐を解き、巻物をゆっくりと広げてみた。古びて見えていたのは外側だけで、巻物の中は驚くほどに綺麗に保存されていた。今のリュカには読めないような古代の文字が書かれている一方で、誰にでも分かるようにと簡略化された絵が鮮明に描かれている。その絵から読み取れることは、魔物から人間へと姿を変える過程が見える、ということだった。細かなことを知るには、リュカたちには一切読むことのできない古代文字を解読しなければならない。
ジャハンナの町には元々魔物だった者たちが、人へと姿を変えて、暮らしている。ネロが禁断の巻物とリュカに手渡した内容は、魔物が人間へと姿を変えて行く過程が絵でも描かれている。そしてこの町の人間としての住人は全てが、リュカの母マーサの力によって人間への変貌を遂げた者たちだ。
何故この巻物を“禁断”のものと呼ぶのかを考えると、それが今現在も魔物の姿をしているネロに表されるような気がして、リュカは巻物を手にしながらもふっと目の前のアンクルホーンへと目を向けた。相変わらずネロの目には後悔の中にある悲しみが浮かぶが、リュカに巻物を手渡したと同時にいくばくかその悲しみも薄れたようにも窺える。今まで禁断の巻物を手にしていたこと自体が、彼にとっての大きな後悔を表しているのだと感じられる。
「かつて神になりたがった人間がいた……」
その言葉は、本当の意味ではネロ自身のことではない。しかし多かれ少なかれ、重なった部分があるのだと、彼の声音にそうと気づかされる。
「しかしその者は心の邪悪さ故に魔物になってしまったのだ」
誰の事を言っているのか、リュカにはすぐに分かった。ネロがその者の名を口にしないところを見れば、名を口にするだけでも何かの祟りに遭うのではないかという底知れぬ恐怖があるからだろう。リュカも敢えてはその名を口にしないで、続く言葉に耳を傾ける。
「その邪悪な心を振り払うためエルヘブンの民が立ち向かったが、あまりに心の闇は深く……もはや人間に戻すことはできなかったという」
ネロから語られるのは、地上の世界にあるエルヘブンの昔の話だ。それだけで彼が、エルヘブンに生まれ、生まれながらにエルヘブンの長としてあの閉ざされた村に生きて来たマーサから話を聞いていたことが分かる。その話自体はマーサも生まれるずっと昔のことなのだろう。しかしその昔話と共に、エルヘブンの民たちは生き、今もあの村で暮らしている。
エルヘブンの民は魔界の扉を管理する責務を負う者たちとして、今も外界から閉ざされたような、断崖絶壁に囲まれた谷底の地で、ひっそりと生き続けている。彼らの祖先となる者たちがかつて、神を崇めるだけでは物足りなくなった、己が神になることを求めた人間を、この魔界という世界に封じている。彼らは初めから、魔物となった人間を倒すことを目的としていないのは、ネロの言葉にも現れている。過去のエルヘブンの民らは、悪しき魔物となってしまった人間をただ、元の人間に戻そうとしただけなのだ。
リュカが手にしている巻物には、その秘密が古代文字に説かれ、鮮明な絵で説かれている。マーサはエルヘブンの村の中で最も力のある人間として、唯一魔界の扉を封じることができると言われている。そしてこのジャハンナの町に住む者たちは皆が皆、マーサの手に寄って魔物から人間の姿に変わることができた。
リュカは思った。母マーサはエルヘブンの民として、今では大魔王となってしまったミルドラースをも人間の姿に戻そうと考えているのではないだろうか。魔界に連れ去られ、魔界の扉を開くことを求められても応じず、一方で母は世界を恐怖に陥れようとしている大魔王との対話を止めずに、魔物となってしまったその者を人間に戻すことを今も諦めていないのではないだろうかと、そこまで考えが行き着くと途端に視界が明るくなったような気がした。
「この巻物……本当に僕がもらってもいいんですね?」
「ああ、それがいい。そうするべきだろう」
「ありがとうございます。大事にします」
リュカはそう言うと、受け取った巻物をくるくると元のように閉じ、腰のベルトに提げた道具袋に静かに入れた。それまで後ろから巻物の内容を覗き込んでいたポピーが、興味は収まらないと言うようにリュカの道具袋に視線を移していた。
「ねえねえ、お父さん、あっちに別の出口があるみたいだけど、行ってみてもいいのかな」
後ろからリュカに呼びかけるティミーが指差すのは、リュカたちが足場にしている木造の板の並びの向こうにある、扉も何もないぽっかりと開いた大きな穴だ。水車小屋の中が明るく照らされ、大岩に空いた穴から見える外は暗いために、外の景色を見ることはできない。しかし空いた大穴からは絶えず水の音が流れ込んでいる。
「そっちは心身清浄の場だ。魔物が人間になる前の試練の場と言ったところだな。そこで水に浸かって、魔物としての穢れを取るんだ」
「水に浸かるって、どれくらい浸かればいいのかしら」
「それはそれぞれ魔物による。しかし最低でも一日はかかる」
「えっ!? 一日中水に浸かりっぱなしなの?」
「最低でも一日、だ」
「人間だったら凍えてしまうわね。とても耐えられそうもないわ」
ビアンカとティミーが二人して水に浸かり続ける状況を想像して身を震わせる。人間は水の冷たさだけでも到底耐えることはできないだろうが、魔物にとってはその上に聖なる水と言う障壁がある。それを乗り越えられた者にのみ、人間になる機会を与えられるのだ。
「少し見てもいいですか」
「ああ、問題ない」
リュカと言葉を交わし続けたアンクルホーンのネロは今や何かの淀みがなくなったように、心持ちすっきりとした顔つきをしていた。もし今度彼が人間になることを望んだ時には、再びその願いは果たされるのではないだろうかと思いつつ、リュカはネロに会釈をしてから家族と共に見える大穴の出口へと歩き向かった。
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bibi様
ティミーとビアンカ、やはり親子ですね〜。
それと気になったのですが、bibi様はいまのパーティはどんな構成ですか?
これからのお話、楽しみにしています。
今のパーティー構成は、家族4人と、プックル、ピエール、アンクル、ゴレムス、それにロビンを連れています。ゲームだと、一人多いじゃん!という感じですね。……お話なので、どうかご容赦いただければと思います(汗)
bibi様。
bibi様の今回のお話で思い出しました。
ゲームに居ましたねアンクルホーン、名産品きんだんのまきものをくれますよね。
久々の名産品の描写だったので名産品じたいのことを忘れてました(苦笑)
巻物はゲーム本編に関わる内容ですもんね、 DSとPS2でリメイクされてから新たに含まれた重要な話ですよね巻物。
bibiさま、水車小屋のアンクルホーンの台詞は、どこまでがゲーム本編で、どこまでがbibiワールドでしょうか?
次話更新されてますね、さっそくルーラです!
ケアル 様
コメントをどうもありがとうございます。そうなんです、ここにアンクルホーンがいるんですよ。奇遇ですね~。彼にはニ体目に仲間になったときの名前で登場してもらうことにしました。セリフは…はじめの方のいくつかだけですね。後悔してる? とか、かつてエルヘブンの民が封じようとしたとか、そのあたりですね。あとは私の妄想の産物ということで。
禁断の巻物は内容からしてかなり重要なものだったりするんですよね…。深堀りすれば、DQ5の根幹を支えると言っても過言じゃないくらいに…。