悪事を働くのは
大岩の中に作られた水車小屋の頼りない足場の上を歩き、外へと通じている扉もない大穴を抜けると、そこには広く平たい岩場があった。端に丸みを帯びた岩場は常に水に濡れているためか苔むし、うっかり端にまで歩けば滑り落ちてしまいそうだった。用心して先に進むと、岩場は粗雑な造りながらも階段状になっており、そこから下の水場へと下りられるようになっている。ジャハンナの町全体が青白い聖なる光に照らされているとは言え、深い濠となっているこの場所は陰になり、目を凝らさねば辺りの様子を細かく見ることができない。
「お父さん、下へ下りるの?」
階段の下の水場で、人間の姿になることを願う魔物たちは身を清めるのだろう。その場所はもっと光り輝くような場所なのかとリュカだけではなく、ビアンカも子供たちも当然のようにそう想像していた。しかし人間になりたいと夢見る魔物にとって、輝くような光の中に唐突にその身を置くことは危険なことなのかも知れない。敢えてこの暗闇に包まれたような水場で、魔物としての己の心を見定める時が与えられているというようにも考えられた。
「いや、下りないよ。僕は人間だからね」
ポピーの心配そうな声に向き合うように、リュカは笑みを浮かべてそう返した。しかしこの暗がりでは互いの表情をよく見ることはできない。
「明かりが必要ね」
そう言うと、ビアンカは魔力を温存するためか、装備品のマグマの杖を手に取ると、通常杖頭に閉じ込められているマグマ部分に小さな火を灯し、杖を松明代わりにする。今は暗がりを照らす明かりとして、杖頭のマグマからぼうぼうと火が燃え、周囲を赤々と照らし出す。皆の顔が火の明かりに照らされ、目にするだけで、心の中に安心感が沸く。
しかし後ろを振り返ってリュカが目にしたのは、家族の姿だけではなかった。その後ろに、黒い影が素早く動き、マグマの杖を高々と上げるビアンカに迫るのが分かった。
「みんな、伏せろ!」
リュカの言葉に即座に反応できるのは、寄せる信頼の厚さ故だった。微塵も疑うことなくリュカの言葉通り、ビアンカは子供たちを後ろから抑えるようにして冷たい岩場に素早く伏せた。ビアンカの手にしていたマグマの杖に灯る明かりの力が弱まり、リュカの視界は再び暗がりの中に閉ざされる。しかしそれは相手も同様で、動きに戸惑いが出たのをリュカは感じた。
左手にドラゴンの杖を構える。父の剣は手にしない。相手が何者なのかはっきりとしない。傷つけるのも止む無しの相手かどうか分からず、咄嗟にリュカは攻撃よりも家族を守る体勢を優先させる。
伏せる三人の上を飛び越え、リュカは暗がりにすぐさま慣れた目で、相手の動きを捉えた。相手もすぐに目が慣れたらしく、的確にリュカへと攻撃を仕掛けてきた。体格の良い男のようだが、その手にする武器は杖のようだ。振り下ろされた杖を、リュカがドラゴンの杖で受け止めると、金属のような音を響かせながらもさほど重々しい一撃には感じられなかった。杖を武器にしている相手だが、どうやら扱いに慣れていないらしい。
状況にすぐさま思考の追いついたビアンカが、子供たちの前に立ちつつ、マグマの杖の火を前へと掲げる。ティミーとポピーも跳びはねるように起き、何事かと身構える。明かりに照らされた体格の良い人間の男らしき者が、さほど大きくもない、軽い金属でできた杖を両手で持って構えている。その男の腰には、本来その者が武器として手にしているはずの斧が提げられている。
「……し、しまった! 見つかったか!!」
顔は覆面に隠されている一方で、大柄で筋肉質な身体は自慢なのか、どうだ見てみろと言わんばかりに露出している。覆面にマント、丈夫な革製のズボン、使い込まれたブーツと言った軽装で、その大柄な体躯にはあまり似つかわしくない身軽さを重視した格好だ。リュカは男の姿を見ながら、どこかで見たような思いにも駆られたが、思い出せなかった。
「でも盗んだ宝は返さないぜ!」
男はそう言って、手にしていた軽金属製の杖を腰のベルトの間に挟むと、戦闘態勢を整えるように腰に提げていた斧をさっと手にした。このジャハンナの町で、明らかに人間の姿をした男が、明らかに悪事に手を染めている。水車小屋の中には一度人間の姿になれたものの、再び魔物の姿に戻ってしまったアンクルホーン、ネロがいる。
「どういうこと……? あの人、人間だよね? なのにどうして悪いことしてるの?」
ティミーもまた同じように、その点の疑問を抱いていた。ジャハンナに住む元々魔物だった人間たちは皆、良き人間でいられるようにと、その心を再び魔物の世界へと染めないようにと、注意して生きているはずだ。そしてもし、その心が悪に埋もれるようなことがあれば、恐らくネロのように魔物の姿へ戻ってしまう。
「……人間だって、悪い奴はいるさ」
そう呟くリュカは、腰に収めていた父の剣を静かに抜いた。目の前で斧を構える者は、元から人間だった者だ。何故この町に、リュカたち以外の元人間が入り込んでいるのかは分からない。しかし世の中には偶然というものが当然のようにある。この町の宿屋で看護されている天空人もまた、その一人だ。そのような偶然を自ら掴んだ一人が、目の前に立つこの男なのだろう。
覆面の中から覗く目は欲望に満ちた人間の目だ。リュカは過去にもこのような目をしたものと遭遇したことがある。腕が激しい痛みを思い出して疼くような気がした。男の持つ斧の刃が揺らめく火の明かりに煌めき、今度こそリュカの腕を斬り落としてしまおうとしているように見える。王家の証は今、グランバニアの国王私室、執務机の引き出しにしまわれている。
大きな体躯の割に素早い動きを見せる男、大盗賊カンダタの子分はリュカの先制を許さないと言うように、斧を大振りすることなく的確に細かく薙ぎ払ってくる。リュカの後ろには三人がいる。リュカは決して後ろに退くことなく、横に避けることなく、全てを払いつつも受け止める。
カンダタ子分の狙いは分かっていた。宝を盗んだのなら、本来は早々に逃げるはずだ。盗賊の本業は盗むこと。目的は達成している。しかし男が逃げないのは何故かと思えば、それは男の覆面から覗く視線に表れている。
欲望に塗れたような盗賊の目が狙うのは、女だ。その目は明らかにビアンカ、そしてポピーをも狙っている。その意図に嫌でも気づけば、リュカの心身から激しい嫌悪の感情が噴き出る。
ティミーがリュカの、家族の護りを固めようとスクルトの呪文を唱える前に、リュカは間髪入れずに目の前の敵へと飛びかかった。カンダタの子分もまた攻撃態勢を取っていたが、まるで野生の獣の如く息つく間もなく間合いを詰めて来たリュカの攻撃に、圧倒された。男から見れば、火の明かりを後ろに受けるリュカの姿は、まるで影だった。真っ黒な影が飛び込んでくるその恐怖に、思わず息を呑み、岩場に着く両足が縫い留められたような状態に陥った。
瞬時頭に血が上っていたリュカだったが、それは男に剣を振り下ろす間際にさっと引いた。相手は人間なのだ。そして己の後ろには家族がいる。子供たちがいる。彼らの目の前で人を殺めることを今してはならないという思いが脳裏を過った直後、リュカは右手に持つ剣を引き、左手に持つドラゴンの杖を下から斜めに薙ぎ払い、男の覆面に包まれた顔を殴りつけた。覆面に隠れた顔を手で押さえ、斧を持つ手の動きが完全に疎かになる。その隙にリュカは、容赦なく男の身体を蹴り倒し、ドラゴンの杖を軸にして男の腕を後ろ手に固めた。勝負はついている。怒りが完全には収まらないリュカの力で、男の腕は後ろに強く締め上げられる。太い悲鳴を上げる男は手にしていた斧を掴んでいられず、落としてしまった。
「ぐうぅ、チクショウ……盗みだけでとっととズラかりゃ良かった……」
その弱音さえもリュカは信用していない。かつてリュカが王家の証を手にする際に遭遇したカンダタという大盗賊も、最後の最後までそれまでの己の悪の所業を顧みることなく、深い暗闇の底へと沈んでいった。その大盗賊の姿を真似て、恐らく今も心酔しているのであろう子分もまた、口先だけでは何とでも言うに違いない。
「盗んだ……って、どこから? 盗まれた人、困ってるよね……」
悪事は一つも見逃さないのだという意思を素直に口にできるポピーは、己が盗みの対象にされていたことには気づいていない。その事にリュカは思わず小さく安堵する。
地面に倒し、後ろ手を締め上げる男の腰ベルトに差してある杖を、リュカはじっと見る。その視線に気づいたティミーが、両手の塞がるリュカの代わりにと、制圧されている男の近くに素早く近寄り、腰ベルトの差してあった杖を取り上げた。男は悔しさに身を捩りリュカから逃れようとするが、一層強く後ろ手を強く引き上げられると、再び悲鳴を上げて冷たい岩肌の上に張り付く。
「……ねえ、リュカ。その人、どうするの?」
ビアンカの声音はどこか男に同情的でもあった。それと言うのも、盗んだものも取り返され、おまけに完全にリュカに身動きの取れない状態にされ、その上彼が生粋の人間だからだろう。しかしだからこそ、リュカはこの男を許すことができないのだ。
「ジャハンナの町の人たちのところへ連れて行くよ。罪を負った人をどうするかは、この町の人が決めることだ」
「そっか。それもそうよね」
「冗談じゃねえ! せっかくここまで来たのに、このまま捕まってたまるかよ!」
そう叫ぶと男は直後、何事か分からないほどに小さな声でぶつぶつと呟き始めた。力自慢の盗賊という偏見があったことは間違いない。それ故の油断がリュカにはあった。男の呟く言葉に反応するように、リュカの視界が途端にぐらつく。瞬時、男を抑える手の力が抜けてしまった。
逃げると決めたカンダタの子分の行動は凄まじく速く、僅かに脱力したリュカの拘束から逃れるや否や、岩山の影に身を潜ませ、姿を眩ませた。はずだった。しかしリュカもまた数々の経験を積んできた男だ。途端に襲って来た眠気を気を入れて吹き飛ばすと、男の気配の消えた場所に向かって飛び込み、手にしていたドラゴンの杖を突き出した。激しい打撃が男の後頭部に命中し、男はそのまま岩山の隙間から町の外へと落ちて行ってしまった。
「お、お父さん! 大丈夫!?」
「ああ、僕は大丈夫だ。だけど、逃がしちゃったな……」
「でも、あの男も無事じゃ済まされないわよ。こんな崖から転がり落ちて行ったもの」
その崖は恐らく、カンダタの子分である盗賊が苦労して上って来た町への侵入口だったのだろう。ビアンカの言う通り無事では済まないだろうが、この魔界という世界を一人歩いてジャハンナの町に辿り着き、尚且つ町への侵入に成功していたような盗賊だ。町の外へと放り出されても、逞しく生き抜いていく術を持っているのではないかと思える。
「お兄ちゃん、それ、ちょっと見せて」
ティミーが手にしているのは、先ほど盗賊が腰ベルトに差していた盗品だった杖だ。軽い金属製の杖の外見に、ポピーは見覚えがあった。強い解呪の魔力を秘めた杖は、ポピーが父リュカと出会う前まで、彼女の手に馴染んでいた武器と瓜二つだった。兄から受け取った杖をまじまじと見つめて、ポピーは思わず杖の表面を手で擦る。
「こんなところにもストロスの杖があったなんて……。またこの杖を持ててうれしいな」
「ストロスの杖って……ああ! あの時の、アレだ!」
ティミーの言葉が何の説明にもなっていないことに、リュカもビアンカも揃って首を傾げる。
「でもこの杖、盗まれたものだもの。盗まれた人に返さなくっちゃね」
「この杖を知ってるんだね、ポピーは。前に持っていたことがあるのかい?」
リュカがそう問いかけると、ポピーは今では笑顔すら見せて話しかけてくれる父の様子をじっと見つめ、にっこりと笑って言葉を返す。
「私にとっての天空の剣、みたいなものかな?」
そう言ってポピーはストロスの杖を軽々と片手に持って頭上に掲げると、普段の呪文とは異なる言葉を呟き始める。今はその時ではないと、杖はポピーの言葉に合わせたような反応を見せない。
しかしリュカはストロスの杖が放つ強い解呪の効果をその目にしたような気がした。杖全体から光の粒子が放射状に飛散し、優しいその光の粒子はことごとくリュカの身体を包み込み、今一度リュカの身体を石の呪いから解くような効果を感じさせる。冷たく何も感じなかった身体に、温かな血が巡り始め、徐々に命の息吹を吹き込まれるような感覚が蘇り、リュカは思わずポピーの手にする杖を瞬きをしながら見つめた。
「リュカったら不思議そうな顔してるわよ。この杖に何か思い出でもあるの?」
「この杖、ボクには使えないんだよね。呪いを解く呪文ならボクも知ってるのに、この杖だって呪いを解く力があるのに、ボクには使えないんだよ~」
そう言ってティミーは、未だに納得が行かないというようにポピーの手にある杖を口をとがらせて恨めしそうに見ている。その表情から、妹ポピーに父リュカの石化を解く機会を奪われたというような、悔しさが窺い知れる。その感情もまた、ティミーが勇者として持つ強い感情の一つだろう。しかしそれだからこそ、ストロスの杖が何故勇者ではなく、その妹であるポピーを使用者に選んだのかがリュカは分かったような気がした。
「小屋に戻ってネロさんにこの杖のことを聞いてみよう。何か知っているかも知れないよ」
「ポピー、ちょっと私にもその杖を貸してくれる?」
ビアンカが興味本位でそう言い、ポピーが杖を渡すと、ビアンカはストロスの杖を軽く回してみた。彼女には杖の持つ特殊な魔力をまるで感じない。ただやたらと軽い金属でできた杖であることは手の重みに分かるが、それ以上の特別な雰囲気をビアンカは感じ取ることができなかった。
「私にも使えそうもないわね。でもそうだとしたら、一体この杖、他に誰が使えるのかしら?」
「お母さんもそうなの? ……ならボクも使えなくってもいいや」
ビアンカとポピーは似たような魔法使いとしての性質を持っている。それ故にビアンカは自身も娘と同じようにストロスの杖を使うことができると考えたが、そうは行かないようだった。母から返された杖を大事に両手に持ち、ポピーはかつて手に馴染んでいた杖の感触を確かめている。その杖は彼女が、父を救い出すまでずっと大事にしてきた唯一無二の杖だったのだ。
絶えず動き続ける水車の音と水の音を耳にしながら、来た道を戻り始めた。暗い中だが、扉もない入口は大きく開いており、そこから水車小屋の中の光が漏れ出している。周囲に悪しき者の気配もなく、リュカたちは難なく水車小屋の中へと再び戻った。
「リュカ殿、無事ですか」
リュカたちの立つ木の板を並べただけのような足場の下から、ピエールが声をかけてくる。外での騒動の音を、魔物である仲間たちは当然のように耳にしていたのだろう。しかしリュカたちの力量を信じ、問題ないとして、大人しく事が収まるのを待っていたというところだった。ピエールの声は至って落ち着いている。
「うん、大丈夫。悪い奴は逃がしちゃったけどね」
「悪い奴? この町にそんな悪い人間がいたのか」
訝し気な顔でそう言葉にするのは水車小屋の番人であるアンクルホーンのネロだ。彼は今も魔物の姿をしているが、魔物特有の鋭い感覚は大分薄れているようだった。それと言うのも彼が常に人間になることを目指しているからなのかも知れない。
「この杖を盗まれそうになっていたんです」
ポピーが差し出して見せるストロスの杖に、ネロが驚きで目を見張った。
「そ、その杖は、マーサ様の杖だぞ。いつもマーサ様がお持ちになっているはずなのに、どうして……」
「えっ、そうなの!?」
思いがけないネロの言葉に、今度はポピーが驚きの表情で声を上げる。今手にしている杖が普段マーサが扱うものだと聞けば、杖自体がほんのりと温かみを帯びるような気がしてくる。杖を扱う祖母マーサの心に触れるような気にもなり、ポピーは思わず杖を胸に抱いた。
「お義母様……マーサ様はこの杖をどんな時に使っていたのかしら。まさか、魔物と戦う時に?」
「いやいや、マーサ様はその杖を、魔物が人間に変わる時に用いられていた」
ネロの話によれば、水車小屋裏の水場で魔物だった者は人間に変わることができるが、そのためには長い間水の中に入り、身を清めなければならない。その際、強力な聖の力を持つ水の力に耐えられず、尚且つ冷たい水の温度に耐えられず、その場で身体に痺れを起こして水の中に沈んでしまうものもいるという。杖の効果は身体の痺れを回復させることができるというものらしく、ネロ自身も以前その力に救われたことがあるらしい。
「その杖の力はな、あったかいんだよ。全身に血が行き渡るような、生き返るような、そんな感じなんだ」
「僕にも分かります、その感じ」
ネロの説明にリュカは心から同意するように頷いた。彼の言う通りの効果をリュカは石の呪いから解かれる際に経験している。
「でもおばあ様の杖なら、やっぱりここに置いておかないとマズイよね」
「そ、そうよね……ちょっと、残念な気もするけど……」
そうするのが正しいと分かっていても名残惜しい気持ちを隠し切れないポピーが、手にしていたストロスの杖をネロに渡そうと差し出した。四人の人間の家族の様子を、ネロは静かに見つめた。これまで彼は、当然のことだが、人間の家族と言うものを間近に見たことはない。一人一人は身体も細く、アンクルホーンのような大型の魔物と比べれば非常に頼りない存在にも思える。しかし見えない絆で互いに結び付けられた人間の家族と言うものは、見えない力を伴って強大な力を発揮するのではないかという怖れすら感じさせる。そして今、ネロが目にしている家族はまさしくジャハンナの町の救い主の血に繋がる者たちだった。
「いや、これもマーサ様の思し召しだろう。娘さん、あんたがその杖を持つ。それが良いってことなんだろうさ」
女性でも子供でも、手軽に扱えるような軽金属で作られたストロスの杖を、マーサはどこへ行くにも持ち歩いていたはずだった。それが今はこのジャハンナの町に、まるで家族がこの町にやってくることを予言していたかのように留め置かれている。
「本当に? 私が持っていていいのかな? ネロさん、後でおばあ様に怒られない?」
「怒られても構わんよ。あの方の怒っているところなど見たことがないから、むしろ一度見てみたいものだ」
笑いながらそう言うネロの言葉に、リュカは思わずまだ見ぬ母の姿を想像する。この町にはエルヘブンとはまた異なる母の姿が散りばめられていて、その欠片に触れるだけでもリュカの心はストロスの杖の力を借りないでも温かくなる。
「良かったね、ポピー! おばあ様の杖なんて、スゴイじゃん!」
「ポピーもそのうち、この町に来る魔物たちを人間に変えることができるようになったりしてね。お義母様の血を受け継いでいるんだもの、可能性はあるわよ~」
喜ぶ家族の姿を見て、照れくさそうにしているポピーを見て、リュカはほとんど無意識に娘の頭を撫でる。それら人間の家族の姿を目にしながら、ネロは人間になることへの憧れを一層強め、心の中に願う。非常に穏やかな表情で見つめるネロの視線を受けて、リュカは今度こそ彼は本当に人間になることができるのだろうと期待する。深い後悔と反省をその身に帯びた者の心は、順風満帆に生を送った者の心よりも余程強固で、揺るがないものになるという実感を、リュカ自身が経験しているからだ。
「あら、お帰りなさい。食事していくんでしょ? じゃんじゃん頼んでね~」
水車小屋を出て、地下に広々と構えられた“おしょくじどころ”に戻ると、カウンターの中に入る女店主が気前よくリュカたちを迎え入れてくれた。大所帯のリュカたちのために席も広く取ってある。席を必要としないプックルも、いくつかのテーブルを並べ合わせた脇に立ち、赤い尾をふりふりビアンカを見上げている。
「ただねぇ、ソチラのお客さんには何をお出ししたらいいのか分からないから、教えてくれると助かるわ」
女店主がそう言う相手は、ロビンだ。人間の“おしょくじどころ”で機械兵であるロビンが必要とするものはないだろうと考えるのが普通だが、もしかしたらとリュカは店のカウンター脇に置かれているお品書きを見てみた。そして予想していた通り、食事一つ一つの値段に思わず顔が引きつる。この町では全てにおいて、高い金を払うことを覚悟しておいた方が良さそうだと、リュカはこっそりとビアンカを見ると、彼女もまたお品書きを見つめて厳しい顔つきを表していた。
「ロビンの食べるものは魔力だもんね。だったらボクたちがおいしいものを食べれば、ロビンにあげる魔力だっておいしくなるよ、きっと!」
「まあ……そういうこともあるかも知れませんね」
「宿でもそうだったけどよう、やっぱここじゃあ肉は食べられないんだな」
「がう~……」
「お魚なら置いてるわよ。でもこの値段ってことは数がそれほど取れないってことなんでしょうね」
「宿でいただいたお魚、美味しかった。きっと水がとてもキレイだからなんだと思うな」
「この町だけで全てを賄ってるんだもんね。物が少ないなら、値段が高くなるのも仕方ないのかな」
リュカの声を聞きながら、ロビンは皆と同じようにお品書きの板を赤い一つ目で見つめている。書かれている文字はそれほど綺麗なものではなく、外に出ている店の看板のように拙い様子が見られる。
「がうがうっ」
「そうよ、プックル、お魚も美味しいもんね。一緒に食べよ?」
「とにかくたらふく食えりゃ、大体のことは気にしねぇって言ってんだろ、プックルは」
「私は穀物たっぷりのスープを、数皿頂ければ十分です」
「魚は小さい骨がノドに引っかかるのがイヤなんだよなぁ。味は美味しんだけどさ」
「あ、ビアンカ、お酒も置いてるみたいだよ。頼んだら?」
「でもねぇ、一人で飲んでてもつまらないじゃない。一緒にどう、リュカ?」
リュカたちの着くテーブルの他にも数人、席に着いた人々が食事をしている。元々魔物であったであろう人々だが、人間になるとそれこそ人間らしく魔物を怖がることもある様子で、プックルの鋭い眼光に出遭うと途端に目を逸らして身を震わせている者もいる。
近くのカウンターから身を乗り出すように、女店主がリュカたちの話を興味津々に聞いていたが、口を挟まずにはいられないと言った様子で会話に横入りしてくる。
「お酒を飲みたいの?」
そう口にする女店主の表情はやや曇り、リュカたちも思わずその表情に釣られるようにふっと表情を失くした。
「でもやめておきなさい。水車小屋のおじさんみたいに後悔したくなかったらね」
「あら、でもそちらの方はお酒を飲んでいるようだけど」
ビアンカがちらりと視線を向けるのは、一人テーブルでちびちびとグラスの液体を飲んで、気分も良さそうににこやかにリュカたちの方を眺めている客だ。グランバニアの兵士長ジェイミーと同じ年ほどの男性で、焦げ茶色の短髪に、口だけは大きなあっさりとした顔つきをしている。
「え? お酒なんて飲んでないよ。そんなことしてまた魔物に戻っちゃったりしたらイヤだからなあ」
「えっ、お酒を飲むと魔物に戻っちゃうの?」
「ふ~ん……この世界でのお酒は特別な意味を持っているみたいね」
ティミーが驚き、ビアンカは眉をひそめて裏メニューのようにお品書きの隅に書かれた文字を眺める。店に置かれているということは、頼む客がいないわけではないのだろう。
「酒を飲むこと、って言うか、飲んで酔っちゃうと何かマズイことをしちゃうんじゃないかな」
リュカ自身は酒の飲めない体質だが、酒類を飲んだ人間がどうなるかは様々見てきている。グランバニアで行われる祝い事の際になど、その様子を見ることができる。決して本人は悪気はないのだろうが、酒の力は人間の判断を鈍らせ、大らかになって見せたり、怒りっぽくなったり、話が止まらなくなったり、訳も分からず泣き出したり、すぐに寝てしまったりと、その効果は多岐に渡る。考えてみればこの状況は、リュカやミニモンが使用する呪文パルプンテにも通じるものがあるような気もしてくる。何が起こるか予期できない怖さがある。
「飲んじゃダメなら酒場がなかったらいいと思うの」
元を断てば問題は無くなるというポピーの意見はもっともにも思えるが、一つの問題を強く潰してしまうと、今度はその余波が他の場所へと移動する原理もある。それに人間という生き物にとって、ある程度の“緩み”は必要という側面もあるのが現実だ。
「でもねぇ、マーサ様が人間の世界ではこうしたお酒をお店で出すのは普通なんだって仰ってたのよ。飲み過ぎなければいいんだって話だけど……飲み出したらなかなか止められないみたい」
「そうだよ、あの時だってネロの奴、次から次へと飲んじゃって、他の奴と喧嘩になってさ……それで、あのザマだ。せっかく一度人間になれたってのに、人生をフイにしちゃったようなもんだよ。もったいない」
彼らのその話だけで、リュカたちは凡その状況を掴んだような気がした。今ではその時のことを深く後悔しているアンクルホーンのネロだが、酒の入った状態で気分もかなり高揚していたのだろう、我を失って手を出してしまったに違いない。
「ふん。ケンカなんて、人間だってするじゃねえか。たったそれだけで魔物に戻るんなら、元々人間のヤツらだってみんな魔物になっちまう」
アンクルの言葉は単に地上世界に住む人間のことを語るだけではなく、同族であるネロのことを思いやっての心情も込められていた。寧ろこのジャハンナに住む元々魔物だった人間たちよりも、地上に棲む元から人間だった者たちの方が悪であることもあるのに、何故ネロがそれほどの仕打ちを受けなければならないのかと、納得の行かない顔つきで腕組みをしている。
「それだけ魔物が人間に変わるということは、障害が多いということなのでしょうか」
「がうがう……」
リュカはプックルの言葉に一人小さく頷いていた。『人間はそんなに大したものじゃない』というプックルの感想は、リュカの思いと一致している。人間に大きな憧れを持ち、人間になることを夢見る魔物たちにとって、それこそ人間という生き物は完全に善いものだと思っているのだろう。しかし本当の人間はそれこそネロのように、時折羽目を外したり、魔が差してつい悪いことをしてしまったり、ちょっとした疲れでも怠惰な気持ちに負けてしまったり、完全とは程遠い存在だ。中には利己的な考えにのみ囚われた人間が、魔物に魂を売って悪事を働くこともある。よほど生粋の人間の方が悪者なのではないかと思えるほどだ。
「それでご注文は? どれもオススメよ」
そう言って注文を待つ女店主に、リュカは思ってもいなかった言葉を口にする。
「“サケ”をください」
「えっ?」
最もその言葉を予想していなかったビアンカが思わず声を上げる。
「ちょっとリュカ、あなたお酒は飲めないじゃない。止めた方がいいんじゃないの?」
「一杯だけだよ。まあ、一杯も飲めるかどうか分からないけど」
「え~、お父さんがお酒を飲むなんて、ボク初めて見るかも」
「お、お父さん、魔物さんに戻っちゃうの……?」
「ポピー王女、リュカ殿は元々魔物だったというわけではありませんから」
「がう~?」
「だっはっは! ヘーキだろ。リュカが暴れようもんならオレたちが全力で止めるからな!」
リュカが酒を飲むという言葉を口走ったのには、この店で僅かばかり提供されているそれにマーサの思いが乗っていると感じたからだった。そしてその酒を口にすれば、恐らくすぐに酔ってしまうリュカの微睡みの中にマーサが姿を現してくれるかもしれないと、どこか子供じみた期待もあった。
他にも様々料理を注文し、カウンターの奥へと再び戻って行く女店主の姿を見送りながら、リュカはテーブルの端に静かに立ち続けるロビンを見つめた。ロビンはただ大人しく、共に食事をするわけでもないのに、リュカたちの賑やかな様子を赤い一つ目でじっと見守るように眺めている。リュカと目が合うと、赤い一つ目を瞬かせて、目が合っていることを知らせてくる。
「ロビンみたいなロボットこそ、人間になれたらいいのにね。そうしたら一緒に食事もできるのになぁ」
そう考えるとやはり人間の姿となって、人間同士で食べ物飲み物を分かち合うという行為は、それだけで互いの絆を深めることにもなるのかも知れないと、リュカは母マーサの思いが一部でも理解できたような気がした。
運ばれる料理に手をつけつつ、リュカは恐る恐る木の器に注がれた水のような透明の液体に鼻を近づけてみる。明らかに酒と分かる匂いに、思わずむせそうになるが、隣で心配そうな、はたまた揶揄うような視線を向けているビアンカに対抗するかのように、一口“サケ”を口にしてみた。リュカに酒の味などは分からない。ただ喉から奥が一気に焙られたような熱さを感じただけだ。
「うわ~、これ、とっても強いお酒よ。大丈夫、リュカ?」
「うん、特に何ともないよ」
そう言ってもう一口、リュカは酒を口にする。甘みがあって、まるでジュースのような飲み口に、水車小屋のネロがつい飲み過ぎてしまったのも分かるような気がする。女店主が少々不安そうにカウンターの向こう側からリュカの様子を見ているのが分かる。先ほど話に加わって来た男は男で、実は自身も飲んでみたいという欲求をその目に表しながらリュカのことをまじまじと見つめている。
楽しい食事だった。皆の声がリュカの両耳によく響く。しかし一人一人の言葉は何を言っているのか、よく聞き取れない。ただ楽しそうだという雰囲気だけが、徐々にリュカの周りを包んでいく。いつの間にかロビンの赤い一つ目がぼやけて見えるようになった。
「やーっぱり寝ちゃうのよね、リュカは」
呆れるようなビアンカの声が間近に聞こえたような気がしたが、リュカは今もまだ皆と一緒に食事をしているつもりだった。ただその視界から首を傾げるロビンの姿が消え、一切が暗闇に閉ざされても尚、食事をしているつもりだという意識があるということは、彼が少量の酒に酩酊してしまったと言うことを表していた。
体中がぽかぽかとして気持ちが良い。おまけに頭を撫でられるのだから、これで寝られない訳がないと、リュカは無意識のうちにテーブルの上に突っ伏して寝息を立て始めていた。浅い眠りの夢に、母を見たかどうかは分からなかったが、身体の内側から温めてくれる魔力を持った酒の力は、今のリュカに心地よい休息を与えてくれたことには違いなかった。
Comment
bibi様
ホイミンです。
お話読ませていただきました。
ストロスのつえ、ポピーは武器として使うのですか?
誰かが麻痺になったときにつかうのですか?
続き、楽しみにしております。
ホイミン 様
コメントをどうもありがとうございます。
今後のストロスの杖は追い追い考えて行こうかと思います。麻痺に効果がある・・・その内出番があるかも知れません^^
bibi様。
このたびは、ストロスの杖のリクエストに答えてくださいまして、本当にどうもありがとうございました。
無理な要望なのに…本当に感謝感激であります!
え~と…どこから話をしましょうか…。
カンダタこぶんをどのように登場させるのか気になっていました。
ゲームのようにすみに隠れていて…みたいな描写かなと思っていましたら、まさかのいきなり襲いかかってきた!
ゲームでは、この時点でパーティレベルが高いから1ターンで終わりますが、bibiワールドでも1ターンでしたね(笑み)
まさかラリホー使って来るなんてしりませんでした、だって、ゲームでだいたい1~2ターンで終了しますよね。
カンダタこぶんの情報、ドラゴンクエスト大辞典のURLリンクしますね。
https://wikiwiki.jp/dqdic3rd/%E3%80%90%E3%82%AB%E3%83%B3%E3%83%80%E3%82%BF%E3%81%93%E3%81%B6%E3%82%93%EF%BC%88DQ5%EF%BC%89%E3%80%91
それと、bibi様の小説、カンダタとシールドヒッポ戦の小説のURLリンクしますね。
読み返したんですが、リュカ、ピエールのイオラで死にかけたんですね(汗)
https://like-a-wind.com/text27-9/#google_vignette
ポピーの嬉しい気持ちの描写、本当にほっこりしました。
「わたしにとっての天空の剣かな」
この台詞に、一撃モエモエであります(笑顔)
そして、なんとマーサがストロスの杖で魔物から人間にするために使用していたbibiワールド設定に「おお!」と共感しました。
ポピーの感情表現おみごとです!
杖を返さなくても良いとなった時の照れくさそうに笑うポピーが目に浮かびます(笑み)
リュカはストロスの杖のことを思い出した…ていうのは違うか…ポピーから説明ないですが、ちゃんと理解したんでしょうか?
ネロの過去、そういうことで魔物になってしまったんですね…。
でも、リュカの回想にもあるように、ラインハットのヘンリーの義母でありデールの母親、グランバニア大臣、二人とも自分の欲求から魔物に心を売り、あんな結末に…。
アンクルの一言が正当であり、ネロもまた人間に戻れたらと自分も思いますね。
そんな中のリュカの飲酒発言にびっくり(笑み)
ポピーの一言
「お。お父さん魔物さんに戻っちゃうの?」に爆笑しました(笑い)
bibi様、プックルのお酒発言の時の
「ガウ~?」は、何の問いかけだったんでしょうか?
リュカお酒飲んでだいじょうぶなのか?
リュカが魔物になるのかぁ?
そんな意味で捉えて良いでしょうか?
水のリングをサラボナに持って帰って着た時、ビアンカといっしょに食事して、お酒を飲んでビアンカに対する気持ちを爆発させた、あの時のbibi様の描写を思い出しました。
リュカ、夢の中でマーサに会えたでしょうか…(願)
このたびは本当にリクエストに答えてくださり、どうもありがとうございました!
満足しました(笑み)
ストロスの杖、ゲマ最終戦でどのような活躍をしてくれるか楽しみにしています。
次回は、リュカの二日酔いからでしょうか(笑み)
次話お待ちしています。
ケアル 様
コメントをどうもありがとうございます。
カンダタ子分はこの時にはもう弱い敵なので、戦闘はあっさりと終わらせました。町中で派手に暴れられないですし。ラリホーを使うらしかったので、それで敵には逃げてもらいました。ああいう輩は何ともしぶとく生き残るもんですからねぇ。
カンダタ戦、懐かしいですね。ピエールのイオラで瀕死にはなったものの、あれがなければリュカは地の底に落ちていました(汗) あれもギリギリの戦いでしたね。よう書いたわ、私(笑)
ポピーも存在としては天空の勇者と同一みたいなものですからね。ストロスの杖はあんな場所に置かれていたので、マーサが使っていたものかも、と思い、そのようなお話にしてみました。リュカはなんとなーく、感覚で杖の事を理解した感じです。ああ、あの時の?みたいな。
リュカも酒を飲みたくなる気分になることもあるということで。プックルは「リュカが魔物に戻って暴れたら、抑えられるかなぁ?」と、ポピーのようにとぼけたことを言っている感じですかね。
ストロスの杖、せっかくここで手に入れたので、今後も活躍させることが出来ればと思います^^