戦士の視線の先に

 

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「あら、お目覚めのようね。お水を飲んだらいいわよ」
ちょうどリュカたちの座るテーブルに、空になった食器を片づけにきた女店主がそう声をかけた。両腕を枕にしてテーブルに突っ伏して眠っていたリュカは、しばらくの間覚束ない暗い視界に目を馴染ませ、今の自身の状況を思い出す。ジャハンナの町の地下にある“おしょくじどころ”で、店で唯一提供される“サケ”を注文して口にして間もなく、心地よい眠りに就いてしまっていたようだった。目覚めても頭がすっきりとしていることはなく、目の淵が熱を帯び、全身は妙にぽかぽかと温かい。
「ほら、リュカの分はここに残しておいたわよ」
「お父さん、疲れてるのね……。もっとしっかり休んだらいいと思うの」
「さっきだってボクたちを守ってくれたんだもんね」
顔を上げたリュカの前には、様々な料理の乗せられた木皿が三枚、並べられていた。温かいものはすっかり冷めていたが、料理を目にした途端に空腹を感じ、リュカは徐に残されていた料理に手をつけ始めた。
「がう~?」
「ふふっ、プックルはさっきあれだけ食べたでしょ」
あればいくらでも食べられるのだと言わんばかりに、リュカの脇からプックルが大きな顔をテーブルの上に見せるが、ビアンカがその頭を撫でて彼の食欲を宥めてやる。テーブルの上はほとんど片付けられ、リュカにはプックルがどれだけの食事をしたのか分からないが、ビアンカに頭を軽く撫でられて大人しく退がるほどだから相応に食べたのだろう。
「ごめん、待たせちゃったよね」
「いえ、我々も今しがた、食事を終えたところです」
「大して時間も経ってねぇからな」
大した遠慮もないアンクルがそう言うのだからそうなのだろうと、リュカは急ぎ気味に食べ始めていた手を少し緩める。皆は既に食事を済ませてしまったようだが、それと言うのも店の料理が美味しく、見る間に食べてしまったからに違いない。宿での食事よりもはっきりとした味付けで、食事の合間に飲む水もそのお陰かどうなのか分からないがより美味しく感じられる。皆も恐らくこうしてあっという間に食事を済ませてしまったのだろうと、寝起きにも関わらずリュカもまた見る間に食事を終えてしまった。
「全く平気そうね。一応、お水を多く飲んでおきなさいよ」
はい、と渡されたグラスに残った水をリュカが一気に飲んでしまうと、ビアンカは店主の女性に声をかけて水のお代わりを頼んだ。プックルもアンクルも店での食事に満足している様子を見ると、すっかり目の覚めたリュカには新たな不安ごとが胸に生まれる。今ビアンカが頼んだ水にしても、この店で無料で提供されるものではなかったはずだ。
「あの、ビアンカ、みんなの食事代は払えそう?」
「ああ、その事ね。それなんだけど……」
「お代はいらないって奥さんに話しておいたのよ」
大きな水差しを持ってきた店主の女性が、よく見れば健康的でやや逞しい腕を以てしてリュカのグラスになみなみと水を注ぐ。
「話を聞いたらあなたたちってマーサ様の様子を見に行ってくれるって話じゃない。マーサ様が今どこにいらっしゃるのかも、私には分からないんだけどね」
そう言ってリュカにグラスを渡した女店主は、今になって初めてリュカの顔をまじまじと見つめた。魔界の町、しかも地下にあるこの店は明かりをテーブルごとに置いていても尚暗く、はっきりと相手の様子を確かめることはできない。しかしその状況でも彼女はリュカの黒々とした瞳に魅入る。ひと時見つめただけで、リュカの瞳の中に恩人の姿を見つけ、彼女は思わず嬉しそうににこりと微笑んだ。
「あなたならきっとやってくれそうよね。だって、あなたって……」
彼女がそう言ったところで、店内に新たな客が姿を現した。店主の女性は「いらっしゃいませー」と小気味よく声をかけ、いそいそと新たな客のところへ歩いて行く。男性客は小脇に一冊の分厚い本を抱え、身なりにも気を付けている様子で、黒茶の髪も櫛が入り、丁寧に横に分けられている。大所帯で店にいるリュカたちを見て少々目を見開いて驚きを見せたが、すぐに落ち着いた様子で女店主に指で席を指し示すと、リュカたちとは離れた店の隅にある席に着いた。青年の年頃だろうか、見るからに真面目そうな彼は席に着くなり脇に抱えていた本を開き、熱心に読み始めた。
「ポピー、さっきの杖を見せてよ」
店主の女性はそのままカウンターの中に入り、新たに客に提供する品を用意し始めたようだった。リュカの食事も間もなく終わろうとする頃に、ティミーが両親を挟んでその隣に座るポピーに、テーブルの上に身を乗り出して話しかけた。彼の隣に座るビアンカもまた「あっ、私ももうちょっと見てみたいわ」と乗り気になり、その手は自然とティミーの頭を撫でる。
「はい、どうぞ。でも乱暴なことはしないでね」
「しないよ。何だよ、いちいち文句みたいに言ってさ」
「文句じゃないわよ。ただ杖を大事に思ってるだけなのよ。ねえ、ポピーは優しい子だもの」
ティミーが口を尖らせて機嫌を損ねかけると、すかさずビアンカが子供たちのそれぞれの思いを汲み取って言葉を添える。恐らく双子だけならば喧嘩に発展していたかもしれない事態だが、それを流すように回避するビアンカの声掛けに、リュカは無意識にも感心する。
リュカの目の前を通って渡されたストロスの杖に、当然リュカの視線もその杖に注がれた。杖を手にしたティミーが「本当に軽いよね、これ」と杖を持つ手を上下に軽く振ると、ビアンカもまた「でもとんでもなく固いみたい。ほら、この音」と言って、拳を裏返して杖をノックするように叩いてみる。ストロスの杖を叩いた軽くも硬質な音に、店の隅の席に座っていた男性客が何事かとゆっくりと視線を向けて来た。
「僕にも持たせてもらっていいかな」
そう聞いて、ポピーの許可をもらったリュカはティミーからストロスの杖を渡してもらう。持っている感覚がないほどに軽く、しかし指先で杖をつついてみると感触も音も硬質なものと分かる。そしてリュカにも杖の魔力は特別感じられなかった。家族の中では唯一、ポピーのみがストロスの杖の特別な魔力をその身に感じられるようだ。
「ポピーはこの杖にどんな魔力を感じるのかな」
「どんなって……どうだろう。私、回復呪文は使えないけど、もし使えるとしたらこんな感じなのかなって思うの。手から体全部があったかくなる感じ、かな?」
「そうなんだね。多分、その温かさが相手にも伝わるんだよ。僕も何となくだけど、覚えてるよ」
リュカの言葉にポピーが驚きの眼差しで「ホント!?」と声を上げる。ストロスの杖を手にしていながらも、ポピーが杖の力を放出したのは、リュカを石の呪いから解放したあの時だけなのだ。
彼女は主に旅の中で持つ武器として、ストロスの杖を持ち歩いており、それも敵を積極的に攻撃する武器ではなく、護身用に近い武器だった。まだ幼い双子を連れて旅をしていたサンチョが魔物との対峙の際には先頭に立ち、ティミーもまだ戦いの補助をするに過ぎず、ポピーに至ってはサンチョの厳しい言いつけを真面目に守るように、魔物と遭遇した際には絶対に前に出ないようにしていた、というリュカもビアンカも知らない彼らの過去がある。
リュカのすぐ近くで、プックルの低く唸る声が聞こえた。ごく小さな声だったがその異変に気付いたリュカが後ろを振り返ると、少し前に店に入って来た青年がリュカたちの様子を訝しむように、窺い見るように歩き近づいて来ていた。その表情に敵意はないが、ただにこやかさとは無縁の、どこか鬼気迫るような真剣味を帯びているのが雰囲気に知れた。
「あ、あの、その杖は……」
まだテーブルに食事も運ばれていない彼だが、分厚い本もテーブルの上に広げたままで、リュカたちの座るテーブルの傍に立つ。リュカが手にしているストロスの杖をまじまじと見つめると、間違いないと言うように真顔で息を呑んだ。
「どうしてマーサ様の大事な杖を貴方がお持ちになっているんですか……!」
その声に明らかに怒りが滲んでいる。彼もまた、他のジャハンナの住人と同様に、マーサの手で魔物から人間へと姿を変えた者なのは間違いない。マーサ様の敬称を自然と用いていることにも、その過去の事実が現れている。そしてその変身の儀式とも言えるその時に、彼はこのストロスの杖を目にしていた。
服装こそ普通の町人のような軽装だが、近くにきた青年から仄かに香る独特の匂いに、リュカは彼が神職に従事する者だと感じた。テーブルに置いてある分厚い本は恐らく神官や神父などがよく手にしている書の類なのだろう。その格好からも神に使える者特有の落ち着きや、ある種の覚悟を備えた雰囲気を感じる。しかし同時に、まだその若さ故に、落ち着きよりも勝る情熱が今は表に出てきている。
「一体マーサ様はいつまで大魔王を抑えていられるだろうか……」
その呟きにリュカのみならず、テーブルに着く家族も仲間も一斉に青年を凝視する。テーブルの端に立つロビンまでもが、リュカたちの真似をするように赤い一つ目を青年へと向けた。
「マーサ様の命の灯が次第に小さくなってゆくのが私には分かります」
ストロスの杖を持つリュカの手の力がぐっと強まる。目を閉じ、その場で神への祈りを捧げるように両手を合わせる青年は、決してはったりを言っているのではない。青年の手は怖れや苦しみ、苛立ちや悲しみのせいで僅かに震えている。神職を目指す者としてはまだ未熟とも言えるその反応はむしろリュカたちに危機感を抱かせる。
「ああ! 誰か早く何とかしなければっ!」
今はまだ情熱の方が上位にあるのだろうその若者の一言で、リュカたちの囲むテーブル席の空気は凍り付いた。リュカのみならず、皆が皆、青年の言葉が本気のものであることを感じ取っている。第一、このジャハンナに住む元魔物である人間が、故意に嘘偽りを口にすることはないだろう。その上彼は、それこそ魔物とは正反対に位置するような聖職を目指して日々研鑽を積んでいるような身であることがその様子から窺える。嘘や偽りや邪悪なものから最も遠ざかろうとしている人物の真に迫る声音に、一斉に家族や仲間の視線がリュカへと注がれた。
「そんなの……いや……。お父さん、早く行かないと」
「お父さん! すぐに行こうよ! おばあ様を助けないと!」
それまで和やかに食事をしていたことなど忘れたように、妹ポピーの怯える声ごと救うかのごとくティミーが声を張り上げる。神職を目指す元魔物の青年の表す情熱よりも余程ティミーのまだ幼心に育つ勇者としての心の方が熱に勢いはある。しかし突っ走るだけの情熱は危険極まりないものだ。こうしてティミーが先頭切って情熱を顕わにしてくれるからこそ、リュカは親として、一人の人間として冷静になることもできる。
「そうだね。あまりのんびりはしていられない。でも絶対に失敗は許されない」
「リュカ殿のお母上がこの町にいらっしゃらないと言うことは、再び町の外に出る必要があると言うことです」
「なるべく食いもんを多めに持って行きたいけどよ、この町、あんまり保存食ってなさそうなんだよなぁ」
「がう~」
「お母様を急いで助けるためにも、準備はしっかりして行かないとね。それにロビンの腕も直してあげなきゃ。町の武器屋さんで見てもらえるって話だったから、寄るんでしょ?」
「そうだね。ロビン、忘れてるわけじゃないからね。後でちゃんと君の腕は見てもらうから」
そう言ってリュカがロビンに話しかけると、ロビンは「ワカリマシタ」と言うように赤い一つ目を一度、瞬きして見せた。ロビンの反応が早く、その上周囲の空気に流されることもなく淡々とした機械特有のその様子を見ると、リュカの心もその感情には流されない機械に準じて心落ち着かせることができる。
「あの、貴方がたは一体……」
リュカたちの会話を傍で聞いていた青年が不思議そうに尋ねる途中で、言葉を切った。青年と目が合ったリュカが少々困ったように小首を傾げながら微笑むと、その表情に驚いた青年が息を呑み、目を見開いた。皆の言葉でリュカたちの素性は知られたようなものだったが、それよりも疑いようもない真実がリュカの顔つきに表れていた。何せリュカは幼い頃から、母マーサに似ているとサンチョに言われているのだ。
「マーサについて知っていること、教えてくれませんか?」
ジャハンナの町でマーサに敬称をつけない者はいない。もし不遜にもそのような呼び名を口にすれば、誰ともなく咎めたり、嫌な顔をされたりするのだろう。しかしリュカが呼ぶ“マーサ”の名は青年にとってももはや特別なものだった。咎めるも嫌な顔をするも、そんな態度を取るには陥らない。むしろ憐れみの表情すら見せながら、青年は己の食事のことも忘れてリュカたちと話を始めた。
しかし彼もまた、マーサが今どこにいるのかははっきりとは分からないということだけを口にする。リュカは青年の話す様子に僅かだが怯えを見て取る。仲間に目を向けると、ピエールも静かにその青年の様子を感じ取っているように見えた。知っていても口にはできない恐怖が彼にはあるのだろう。
彼は魔物から人間に姿を変え、善良なる人間として神職を目指している途上にある若者だ。そんな彼を脅迫してまでも真実を語らせるほど、リュカは我儘にはなれないし、それが正しいことだとも思えない。そして母マーサもまた、リュカにそのような利己的振る舞いを求めていないだろう。
リュカは青年に礼を述べ、冷めない内に食事をしてくださいと席に戻ることを勧めた。青年と交わした会話の中で、リュカたちがこの町まで旅をしてきたその時の様子を青年に話して聞かせた。その中でキラーマシンであるロビンを連れて来たという事実に彼は驚きでしばし声も出せない状態だったが、あまりに危険極まりない旅をしてきたリュカたちに思わず町の武器防具屋、それに道具屋にもぜひ立ち寄ることを勧めてくれた。聞けばこの町には魔物にも手にして装備できるものが作られているらしい。それを聞いたアンクルがふと興味が沸いたように「どんな武器があるんだよ」と大きな身体で身を乗り出して青年に問いかけたが、青年は臆することもなくアンクルに説明をしていた。
少々“おしょくじどころ”で時間を取り過ぎたと、リュカたちは急ぎ地下のこの場を出ることにした。食事代を女店主はいらないとビアンカに伝えていたが、礼の意味も含めて少しだけ置いていくことにした。しかしそれを上回るような量の食糧の補充を彼女に約束され、リュカもビアンカもただただありがたく彼女の厚意に甘えることにした。ジャハンナの町の皆が、マーサの帰りを待っている、そういうことなのだとリュカもビアンカも当然のようにそう感じていた。
しっかりと腹を満たして休んだリュカたちはすぐに、町の武器屋へと向かった。先ずはロビンの腕を直すべく、武器屋の主人に相談するのが良いという助言に基づき、地下の食堂を出て左前方へと見える景色を目指して歩く。町の中は特別に舗装されたような道もないが、生える草を荒れ放題にすることはなくしっかりと刈り取られ、しかもこの暗い世界にあって大小様々な花も咲いているのだから、この町には不思議が詰まっているとリュカは改めて思う。この暗い世界にあっても、水や草花が彩る町の景色は美しいもので、その景色が魔物から人間へと姿を変えた者たちの心を知らず知らずのうちに清めて行く。



町の武器屋にも店の存在を示すように、遠くからでも分かるような看板が提げられていた。ただやはり他の店と同様にどこか幼稚さが見られ、武器を示す絵も強い武器を表すのではなく、可愛らしささえ漂う絵が描かれ、その上には別の板で“ぶきや”と書かれていた。
歩き向かう途中にも数人の町の人とすれ違う。人々は明らかに旅人であるリュカたちの様子を物珍しそうに見遣りつつも、その足を止めて話し込むような行動は起こさない。ただ遠くもなく近くもない場所から、リュカたちを見守っているだけだ。
その中で一人、他の人々とは異なる雰囲気を醸している男の視線に出会い、リュカは思わずその視線を受けて歩みを緩めた。町の警備に当たっているのだろうか、鎧兜に身を固め、眉庇を深く被るその奥に、鋭い瞳の力を感じる。腰に剣を下げ、いつ何時でもすぐさま剣を抜けるようにという気構えを遠くからでも感じる。その警戒の目はリュカたちがまだ遠くを歩いている時から、向けられていたようだった。
リュカは男のその警戒の態度に、むしろ安心をしていた。魔界に唯一あるというこのジャハンナの町に暮らす元魔物の人間たちは皆が皆、善良な人間であろうとするためなのか、他者への警戒が薄いような気がしていたのだ。町の外で多くのゴーレムたちが町を守護してくれており、町全体が聖なる水の力で外の魔物を寄せ付けない環境であるとは言え、それで町の人々が全く気楽に平和に暮らしてよいというわけでもない。視線の合う彼のような、余所者を警戒する態度を取る人間がいなくてはならないのが当然の姿勢でもある。人間の善良とは、決して全てを許して受け入れることではないはずだ。
目が合って、その視線の強さに静かに逸らすわけにもいかないと、リュカは敢えて自ら警戒怠らない戦士に歩み寄って行く。戦士が腰の剣に手を伸ばすことはない。警戒の目を向けてはいても、これだけ堂々と町中を歩くリュカたち一行を真っ先に敵対する者として扱うようなことはしない。一方で、腹の内で企みごとがあるわけでもなく、幼い頃から父に連れられ旅をしていたリュカにとって、見知らぬ人に話しかけることは造作もないことだ。
「こんにちは、でいいのかな?」
リュカが笑みを浮かべて挨拶の言葉を投げると、戦士は眉庇の奥に見える黒い目を瞬いた。束の間驚きの感情を見せた彼だが、すぐに「こんにちはでも、こんばんはでも、どちらでも構わない」と無表情のままにそう答えた。
「後ろにいる魔物らを、人間に変えるためにこの町に来たのか?」
リュカが何かを問いかけるよりも先に、戦士が聞き取りやすいような低い声でそう問いかけて来た。甲冑に身を包んでいるためにどれほどの年齢なのかは分からないが、リュカよりも年上であるような声音と落ち着きだった。そして日々真面目に務めを果たす性格であることも、積極的に見知らぬ旅人に関わる様子にそうと見られた。
「ここの水車で魔物から人間に変わることができると聞いて、どういうものなのかなってさっき見てきたんです」
「今はマーサ様がおられないから、そこの魔物たちが人間になることはできないぞ」
「あ、大丈夫です。彼らは人間になる気はないので」
「人間になる気はない? どういうことだ」
戦士のその言葉に、ジャハンナを訪れる魔物たちは皆が人間になることを夢見て、その為に町の奥にある巨大水車へと足を運ぶのが当然なのだろうと思わせられた。人間になる気がないのならこの町を、巨大水車を見る必要もないだろうと、戦士は怪訝な様子を隠そうともしない。
「我々はまだ、魔物としての力が必要なのだ」
主であるリュカに厳しい目を向ける戦士に応対するのは、ピエールだ。人間になる気のない魔物の心情を説明するのに、リュカの言葉を借りるわけにも行かないと、ピエールは自らの言葉で戦士に伝える。
「この方のお母上を救うために、この地を歩いてきた」
「がうがう」
「外はとんでもねえ魔物がうじゃうじゃいるじゃねえか。今オレらがニンゲンになるわけにはいかねえって……分かるだろ?」
ピエールが、リュカとそう背の変わらない戦士の正面に立ち、リュカを半身で庇うような体勢で相手を見上げる。兜の奥に覗く光を湛える黒い瞳を静かに見据えている内に、今は人間となった戦士が元は何者だったのかをその身に知ったような気がした。
「お義母様を救うためだけじゃないわ」
「そうよ。おばあ様と力を合わせて、地上の世界を守らなきゃいけないんだもの」
マーサを救い出すのは当然のことなのだと言い切るビアンカの言葉は力強い。それに呼応して、更にその先を見据える言葉を口にするポピーもまた、少女の身には重すぎる使命を言葉に表している。
「ボクは勇者だ。だからおばあ様も助けて、みんなと力を合わせて、必ず悪いヤツをやっつける。そのためにこの世界に来たんだよ!」
力強くそう言うティミーの姿を、目の前の戦士は驚いたようにまじまじと見つめる。育ち盛りの溌溂とした少年の姿をよくよく見れば、その身は立派な一人の戦士を思わせる雰囲気に包まれていることに気付く。兜に盾に、マントの内側には鎧を着こみ、背には神々しさを放つ竜の形を模した剣を負っている。ただ根拠もなく格好をつけて自らを勇者と名乗っているのではないことは、少年の姿に嫌でも表されている。
リュカは目の前の戦士の瞳が、兜の奥ですっと細められたのを見た。その目つきは、目の前に立つ少年勇者を賞賛するものではなく、むしろ少年勇者の実力を推し量ろうとするような、慎重な視線だった。そして戦士の光ある黒い瞳は、安堵するような、絶望するような、複雑な色を見せた。
「母は……マーサは今、どこにいるんですか」
この町に住む元々魔物だった者たちは皆が、マーサの特別な力によって、人間へと姿を変えた。人間となった町の住人は一人残らず、マーサを知っている。しかし彼女は今、この町にはいない。それだけで自ずと、リュカのみならず皆が実は、彼女の居場所を凡そ推測できていた。
戦士はその問いに答えるように、リュカから視線を外すと、町の奥にある巨大水車へとその視線を向ける。リュカは彼の視線を追う。決して巨大水車そのものに戦士の視線が注がれているわけではない。彼の目線は更にその遠く、巨大水車の背に聳える岩山を抜けて離れ、リュカたちも旅の途中に目にしたひと際暗雲立ち込める、険しい山々が聳えるその地へと注がれているのだと分かった。
かつて母マーサは魔物の手によって魔界へと連れ去られてしまった。地上の世界と魔界とを繋ぐ門を開く力を唯一持つ者として、魔界に居する大魔王に必要とされたからだ。魔界の扉を開き、地上の世界へと手を伸ばしたいと企む大魔王は、扉を開く鍵を持つマーサを失うことはできない。
戦士は当然、今目の前に立つのがマーサの息子だということを理解している。しかしその事実にもはや驚くことなく、彼はリュカにマーサの居場所を静かに視線だけで教える。ただし言葉ではっきりと伝えることはしない。
「大魔王様はこの町の北、エビルマウンテンの頂に住んでおられる」
戦士の光る黒い瞳が、兜の奥に潜みながらも、非常に澄んでいることをリュカは感じていた。その澄んだ目はてっきり、マーサの力により人間の姿となり、人間としての純粋な心持ちから生じているものだと思っていた。しかし戦士の言葉に初めてその意味に気付く。
「あのお方は偉大だ!」
微塵の疑いもない尊敬の念が、勇者が打倒を目的としている大魔王へと向けられている。彼の思い自体は至って純粋なものだ。リュカたちにとって、敵となる大魔王への心からの崇拝の心情を目の当たりにするのは初めてのことだった。ピエールが思わず右腕にドラゴンキラーを装着する素振りを見せるが、リュカはそれを静かに止める。ピエール自身も、目の前の戦士がこの町の中でよもや襲い掛かってくるなどとは思っていない。しかし念には念をと、用心深いのがピエールと言う仲間なのだ。
「たとえ伝説の勇者と言えどもあのお方の足元にも及ばないであろう」
その雰囲気から手練れの戦士を思わせる彼の言葉に、勇者ティミーが思わず表情を固くする。戦士の言葉には嫌味や揶揄というような意味合いは感じられない。ただ純粋に、天空の武器防具に身を固める少年勇者を目の前にして、大魔王を知る戦士はそう評価せざるを得ないというだけの雰囲気を見せている。
リュカの身を守るかの如く、半身前に立つピエールもまた同じように巨大水車のその向こうへと視線を向けている。兜の奥に光る黒い瞳を持つ戦士に並び、ピエールもまた同じように兜の奥に潜む真剣な眼差しを、大魔王が住むというエビルマウンテンへと向けている。大魔王を崇める人間の戦士の姿に、長らくリュカを信じて共に剣を振るい続けるスライムナイトの姿が、まるで鏡合わせのように重なるのを感じる。信頼や忠誠と言った意義にあっては、恐らく彼らは理解し合えるところがあるに違いない。
「私は人となった今でも、大魔王ミルドラース様だけは尊敬しているのだ」
少年勇者を前にして、尊大に構えることもなく、または怖気づくことなど尚更なく、戦士は明快にそう言い切った。戦士のあまりにも純粋な態度を見てしまうと、この魔界を統べる位置に立つ大魔王に対してのリュカたちの感情は、途端に定まらなくなる。マーサの手によって魔物から人間へと姿を変えた戦士の口から、後ろめたさなどと言った負の心情もなく、ただ大魔王の賞賛の言葉を聞かされれば、もしかしたら大魔王と言えども話をして分かり合うことができるのではないかと、仄かな期待さえ芽生えてしまう。
この町にいないマーサは今、戦士の言うエビルマウンテンに囚われている、と言ったところであることは間違いない。大魔王に囚われているという現実だけを見れば、そこには絶望を感じるはずだ。しかしリュカは、戦士が大魔王を尊敬するという言葉の中に、母マーサはただ“囚われているだけ”なのだと感じた。
他者からの尊敬を得るという者がどのような者かと考えれば、それは決して卑怯、卑劣、狡猾などとは無縁の者であるに違いない。大魔王という悪の存在でありながらも他者からの尊敬を得るような者が、徒に捕らえた対象を傷つけるようなことはしないと、リュカは元スライムナイトであったに違いない戦士の姿にそう信じる。
「それならばどうして貴方は人間になったんですか」
リュカはそう問いかけると同時に、何故母が彼を人間に変えることを善しとしたのかが気になった。大魔王を尊敬するような魔物を人間の姿に変えてしまうことは、表面的に見れば矛盾しているようにも思える。
「マーサ様にもそう問われた。“あなたが人間になる必要があるのか”と。しかしあの方は、私の答えを知っていながらそう聞いたようだった」
戦士はリュカの目を見ながら、微かに笑みつつもそう言葉を返す。戦士が今、目にしているのはリュカ本人と言うよりも、今はエビルマウンテンの地に囚われたマーサなのではないかと、そう思わせる雰囲気が見られる。
「大魔王様は元々、人間だったお方だ。私はただ、人間を知りたかったのだ」
戦士のその言葉だけで、彼の純粋さを理解できた。マーサが彼を人間の姿に変えることを善しとしたのも、彼の一言で分かったような気がした。
「人間になってみて、何か分かったことはありますか?」
戦士の純粋に合わせるように、リュカもまた純粋な気持ちでそう問いかける。人間から魔物へとその身を落としてしまうことがある現実は、リュカも知っている。彼が語るように、大魔王もまたその一人であり、地上の世界に生きる人型をした魔物の多くは、元は人間だった者たちだ。
魔物から人間へと姿を変えることで、戦士の心はすっかり清らかに洗われた、とはリュカは思っていない。魔物が悪、人間が善ではないとリュカは知っているからだ。
「正直なところ、尚更分からなくなった、と言えるかな」
口元に仄かに笑みを浮かべながらそう答える戦士に、リュカは思わず頷いていた。彼の感覚そのものが嘘偽りないものだと受け取れる。人間が知りたくて人間の姿になることを望んだものの、自身が人間に変われたことですぐさま人間が理解できるわけではない。その上、彼はこのジャハンナの町で、魔物から人間に姿を変えた者たちだけをその目に見ている。地上の世界に数多暮らす生粋の人間を見ていない彼が、人間への理解を深めるためには、魔界から地上の世界へと出て、多くの人間をその目に見る必要があるのだろう。
「いつか一緒に、地上の世界へ行けたらいいですね」
リュカは思わずそう口にした。しかしそれ以上のことは言えなかった。リュカたちは今、マーサを救い出し、再び魔界の扉を封じることを目的としてこの魔界の町に逗留している。おいそれと夢や希望に満ちたことを大きく話すのは無責任というものだ。しかし夢や希望を全く失ってしまっては、それもまた人間らしくはない。
「地上の世界か。ふむ。一度はこの目に見てみたいものだな」
そう言って兜の奥に黒く光る目を真上に向ける戦士の姿に、リュカは自身の胸に新たな希望が生まれるのを感じた。ジャハンナの町に生きる元々魔物だった人々をいつか、地上の世界へと導き、そこで共に暮らす。そう考えたところで、それは母マーサも考えていたことなのではないかと思い、改めてこの町に母のいた影を見た気がした。
元スライムナイトであったに違いない戦士と別れた後、リュカたちは再び先に見える武器屋へと歩き進んでいく。その途中、ポピーが後ろを振り向き、今はリュカたちに後姿を見せている戦士へと視線を向ける。その表情は困惑したもので、どこか恐怖に怯える様子さえ見せている。
「どうしたんだい、ポピー?」
気付いたリュカが話しかけると、ポピーは少々躊躇した様子を見せながらも、リュカに小声で思いを告げる。
「人間になったのに大魔王を尊敬してるなんて、おかしい……よね?」
それはリュカに問いかけるというよりも、彼女自身の胸の内に問いかけているような雰囲気があった。常識的に考えておかしいと思ったことをただ口にしているはずだが、口にしながらもポピー自身がその考えに疑問を抱いているのは明らかだった。しかし聡明な彼女でも、常識的におかしいと思うことと、今は少し離れた場所に立つ戦士の嘘偽りのない態度とが結びつかず、頭の中でまとまり切らないのだ。
「それでも彼は人間になることができたみたいだね」
「……どうして? どうしておばあ様はあの人を人間にしてあげたんだろう。私、よく分からないよ」
「そういうことなら直接おばあ様に聞いてみたらいいのよ。ねっ。それがいいわ」
結局のところビアンカの言う通り、マーサに直接理由を聞いてみなければ真実は何も分からない。そして今はこのジャハンナに住む魔物だった人々の事を深く知ることは、世の中の善悪の基準そのものが極端に不安定になることに繋がる。マーサを救うために魔界に入ったリュカたちは今この時に、心情を不安定に揺らしている場合ではない。ビアンカは無意識にもその状況を避けようとしていた。
「大魔王か……。きっとすごく強いんだろうね」
戦士の言葉に影響を受けたのはティミーも同じだった。ただ彼は妹のポピーと対を為すように、まだ見も知らぬ大魔王への打倒の意志を固くしたようだった。ティミーは純粋な少年だ。純粋故の正義感に溢れている。そして同時に、勇者という自身の存在を誰よりも深く自覚している。人間と姿を変えた戦士の、大魔王への尊敬の念を耳にして尚、大魔王と言う存在を倒さなくてはならないのだという覚悟が改めてその瞳に宿る。
「でもボク、絶対にあきらめないよ!」
真剣なティミーの表情を見れば自ずと皆の心も彼を中心に一つにまとまる。皆を導くようなティミーの言動に態度に、リュカは息子の中でみるみる大きくなる勇者の光を見る。我が子を親として、世に放り出すべき勇者と認めるわけには行かないという思いはどうしたって消えることはない。しかし彼が勇者の宿命を背負った理由にはどうにか心が追いつきそうだと、リュカは一人静かに感じていた。

Comment

  1. ケアル より:

    bibi様。

    リュカ、長い間、眠っていたわけじゃなかったんですね。
    リュカが酒を飲んだらマーサに近づくことができる気がする…そんな気持ちの描写の表現、うまいですねぇ、母がジャハンナを作って魔物たちを人間にしたこの街、リュカがお酒を飲んでみたくなる…bibi様、ん~絶妙です。

    リュカ、ストロスの杖のこと、身体で感じ取ったんですね、ジージョの屋敷で8年間石像にされ、ジージョが攫らわれたのはおまえのせいだと蹴飛ばされ倒され、意識があるのに何もできない…リュカの気持ちがボロボロになってしまった時にポピーのおかげで石化解除。
    あの時の、杖のぬくもりや聖なる力を今のリュカは感じたんですね。

    ポピー、8歳の時、リュカを探して本当にたいへんなおもいをしていたんでしょうね。
    まだ8歳、サンチョがティミー・ポピーを庇いながら旅をして…魔物が現れても何もできずに、呪文もヒャド、マヌーサ、ルーラのみ。
    ちなみにリメイク前のSFCはヒャドは覚えてないというか覚えない。
    bibiワールドはDSだから、8歳のころのポピーはサンチョに言われ後方待機であまり先頭に加わっていなかったんでしょうね。
    そんななか回復呪文に憧れていたポピーに石化解除の杖が手に入ったんですもんね、ポピーの劣等感を補ってくれたストロスの杖…。
    bibi様、ストロスの杖とポピーの心情、リクエストに答えてくださり、本当にどうもありがとうございました!

    ゲームでもエビルマウンテンのことを教えてくれる戦士いましたね。
    bibiワールドではスライムナイトから人間になったんですね、ピエールは向かい合った時に感じ取ったんですね。
    ミルドラースが人間になったから自分も人間に…けっきょく答えはでないまま…。
    bibiワールドでも、グランバニア元大臣やデールの母、カンダタのような悪い心を持った人間、フローラやアンディ、ヘンリーやマリア、リュカの周りにいる善良な人間もいて、bibi様の描写どおり、人間が悪か善か魔物が悪か善か…難しいとこですね。
    戦士スライムナイトにとって答えを見つけることは難しいかもしれないですね…。
    ケアルもマーサに聞いてみたいです、なぜ大魔王を尊敬するスライムナイトを人間にしたのか…答えが出ない戦士スライムナイトをもう1度魔物に戻さない理由を…。

    次回は武器屋かな、もしくはまだまだ街の人たちとの会話になるのか。
    ジャハンナにモンスター爺さんがいますが会話があるのか?
    次話お待ちしています(礼)

    • bibi より:

      ケアル 様

      コメントをどうもありがとうございます。
      今回はすぐに起きてもらいました(笑) 毎度毎度ぐーすか寝ていては、父としての威厳もなくなりますからね。
      ジャハンナの町に対するリュカの態度はちょっと特別です。町の至る所に母の影響を感じて、自分の知らない母の情報を蓄積しています。

      リュカと出会う前の双子とサンチョの旅は、そこはそこでまた想像が膨らむところです。「天空物語」という素晴らしい作品があるようですね。私は残念ながら読んでいないのですが、そちらで双子とサンチョの旅が描かれているとか。うん、そういう補完のお話、好きです。ドラクエ5は時間の流れも膨大なので、想像の余地があっちこっちへと広がり、忙しいです。年表を作りたくなってしまいますね。

      ジャハンナの兵士はその様子から、ピエールと重なるなぁと、同じ種として話をしてもらうことにしました。なのできっと彼の名はアーサー。人間は必ずしも善いものではないし、悪いものでもない、というのは、それこそDQ4から引き継ぐテーマだと思っています。そう言えばつい先日、ドラゴンクエストモンスターズ3が発売されたようで。主人公がピサロなんですよね。・・・それだけで色々と考えさせられてしまいます。うーん、ドラクエは奥が深い。

      マーサは魔物である当人が「人間になりたい!」と願えば、それを拒みはしないという態度です。人間になれるかどうかはマーサの力もありますが、多くは当人の精神に依るものかなと私は思っています。みんながみんな、なれるわけではない。人間だって様々な者がいるのだから、大魔王を純粋に尊敬する人間がいてもいい・・・のかな?(汗) まあ、あれですよ、純粋な悪であればスーパーサイヤ人にもなれるという、その論理です(笑)

  2. ホイミン より:

    bibi様
    お話読ませていただきました!!
    リュカの母マーサに近づいている感じがしますね。
    街歩きもそろそろ終わりでしょうか?神父はbibi様の中だとどの魔物ですか?
    そうそう、bibi様のコメントの通り、ドラゴンクエストモンスターズ3 魔族の王子とエルフの旅が発売されましたよね。体験版は遊んでみたのですが、製品版を買う勇気が・・・
    bibi様は買う予定ありますか?

    • bibi より:

      ホイミン 様

      コメントをどうもありがとうございます。
      街歩きはもう少し続きそうです。今回のお話で出会った神職目指す若者は、私の勝手な想像では元ケンタラウスです。毎度、モンスター一覧表を見ながら、町の住人の元々の魔物の姿を想像しています。楽しいです(笑)

      ドラゴンクエストモンスターズ3の体験版で遊んだんですね。私は最近(ここ十年以上・・・)まともにゲームをプレイしていないので、そもそも最近のゲーム機も持っておらずという状況です。こんなサイトを運営しているにもかかわらず、自分の子供にはゲームをお勧めしていないので、親の私もゲームは封印しています(苦笑) 子供自身も特別ゲームに興味はないようなので、恐らくこのままゲーム機は買わないまま過ごしそうです。なので、新しくゲームが発売されても、買わないんですよね~。こんなサイトを運営してるのに(笑)

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