パール・バックの「大地(一)(二)(三)(四)」を読んで

 

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単行本四巻からなるこちらの小説は、19世紀後半から20世紀初頭にかけての中国における王(ワン)家のお話が書かれたものです。王家三代に渡る内容で、読後の印象としては、初代で苦渋に満ちた生活からの脱出、二代目で怠惰・安定・冒険、三代目で若さと甘さ故に自由に猛進する様を感じました。

ただ人間だけを描いた物語ではなく、その時の人間を作るのには時代背景が大きく影響するということも大いに感じられました。彼らが生きる時代が彼らの人間性を細かなところから大きなところにまで作り上げ、そのような人々の関係が絡み合ってこのような物語が生まれたのだと思うと、当時の中国の状況を垣間見ることもできます。

現代では大いに問題になりそうな男尊女卑の模様も描かれたりしていますが、それはそれで当時の状況であり、冷静に読むことで当時の様子を冷静に感じることができます。ただこのお話を書いているのが女性であるために、それでも表現はいくらか柔らかいものではないかと感じました。

しかしその中でも、女性の強さもまた描かれています。その最たる存在として、私個人としては、初代王龍(ワンロン)の妻阿蘭(アーラン)であったり、二代目となる三兄弟の末っ子王虎(ワンフー)が初めに想いを寄せた李花(リホウ)を挙げることができます。

物語に登場する女性に焦点を当てれば、他にも様々な「女性」を象徴するような人物が出てきます。蓮華(リエンホウ)のような元娼妓、杜鵑(トーチュエン)は蓮華の召使として、この二人はやがて富豪となった王龍の家に入ります。蓮華は王龍の第二夫人となり、当然のように、第一夫人である阿蘭と蓮華との間には確執が生まれます。私のような現代で生まれ育った者としては、蓮華や杜鵑に対してはただ煙たい感情が生まれ、阿蘭に対しての労いの気持ちが強くなるばかりです。ただ、それさえも、この「世界」を達観して見てみれば、いかにも女同士のいざこざのようにも見えて、そしてそのいざこざを発生させた王龍のどうしようもないほどの男っぷりにも、理解したくはないものの、人間としての理解が及んでしまいます。

王龍の息子である長男王大(ワンター)、次男王二(ワンアル)のそれぞれの妻たちの間にも、外から見ればしょーもないような女同士の嫉妬や嫌味の応酬があったりします。育ちや性格の違いから生まれるそれらの感情はきっといつの世も変わらない女としてのものなのかなと、敢えて物語に入り込まずに、俯瞰するように覗いてみれば、思わず笑ってしまうようなものでもあります。物語全体としては決して笑えるようなところはないはずですが、私のように小さい頃からお笑いやコントなどを見ていた者としては、彼女らのやり取りにもコントじみたものを感じてしまいます。そしてそれら女同士の応酬を横目に見ている二人の夫たちにも、お笑いの要素があったりして、シリアスな物語ながらもこのような場面で少し笑えてしまうという一面も楽しめたりします。

李花(リホウ)という女性は、王龍が奴隷を売りに来た商人から買った女の子で、蓮華の傍仕えとして置かれるようになります。この李花は物静かな女性で、しかし筋の通った人で、そして優しくてと、ある種の理想が詰まったような人物として描かれています。博愛、とまでは行かないにしても、愛情深い女性として、物語を根っこの部分で支えている印象です。

また、物語が進んで、王龍の三男王虎(ワンフー)の息子である王淵(ワンユアン)の異母妹として愛蘭という娘が登場します。私の個人的印象としては、この娘は頭は空っぽで、楽しければいいじゃない、というような考えの人物に映りました。それもまた、数ある女性の中の一つの象徴として描かれているのだろうなと、自然と感じてしまうほどに自然に描かれています。そう感じるのも、読んでいていかにもそこにいそうだと思ってしまうからなのでしょう。私も一応、四十年以上の人生を歩んできて、それなりに色々な人と出会ってきた中で、きっと一人くらいはこういう人がいただろうなとか、思ってしまうんですよね。

併せて、この愛蘭の妹のような立場で、美齢(メイリン)が登場します。血の繋がらない、あくまでも養女としての彼女ですが、この娘がやがては王淵と相思相愛の関係となり、そこで大団円となります。
と、ここまでこの「大地」に登場する女性について数人取り上げてみましたが、誰一人として似た人はおらず、それぞれが個性豊かな人物です。その点において、やはり作者が女性であることにも起因しているのではないかと思ってしまいます。とにかく、心情についてが細かく書かれている印象の物語です。あらゆる登場人物の心の動きを細かく追っているように感じられました。それが故に、話にのめり込み、感情移入もさせられたのだろうと思います。

ただ、感情移入という点については、登場する男性陣にはあまりそれがなかったようにも思えました。登場する男性の人物のほとんどがどうにも子供っぽく、どこか女にだらしない。その中でも、王龍の次男である王二だけは、元気でさばけた性格の奥さん一人を大事にしていたようで、決して物語の中では目立たない商売人ですが、実は人間としての愛情の深さはなかなかのものだったのかしらと思えました。冷徹なイメージで描かれていたにも関わらず、奥さんが亡くなった時にはひっそりと涙を見せていたところもあるので、描かれないだけで実は、という期待が私の中にありました。

とにかく、焦点を女性に絞れば、王龍の妻である元奴隷の阿蘭(アーラン)がいなければこの物語は初めから頓挫していたに違いないと、それが一番の感想です。初代主人公である王龍が頑張った、というよりもむしろ、この阿蘭がとんでもなく有能で、働き者で、慎ましやかで、忠実でと、全てにおいて揃っている人物でした。ただ外見が醜いというだけで、王龍に蔑ろにされ、あまつさえ第二夫人である蓮華を家に連れて来られる憂き目に遭うのが理不尽で、しかしその理不尽も普通に存在したような時代だったのだろうと思うと、尚のこと情が湧きます。

阿蘭にとっては、奴隷の身分から抜け出した先で生きることに必死になった結果、このような人生を歩むことになったのだろうと、読者である私は彼女の人生をしっかりと見てあげたいと思ってしまいます。このような物語を読むとどうしても、スポットライトを浴びないまま、しかし縁の下の力持ちの役割をひっそりと果たしていた人物に注目したくなります。それが人情というものでしょう。ねぇ。

こちらの作品は、様々な人間の感情を疑似体験するのにも優れている作品と思います。実際の社会で様々な人々に出会う前に読んでおくと、ある意味で事前の社会勉強にもなるかも知れませんね。こんな人も、あんな人も、いろんな人がいるのねと。良い人にも、悪い人にも、その土台を作った歴史背景や、育った環境や、人間関係などがあって、二人と同じ人はいないのだなと心から分かることができるような気がします。

今回の感想は主に女性の登場人物に重きを置いたものになりましたが、この物語を中国の当時の歴史の片隅で起こっていた出来事と捉えれば、当時の中国の様子や、引いては当時の中国と外国との関係を見て感じることもできます。特に、三代目の王淵(ワンユアン)がアメリカに留学に行って生活をするところや、中国へ戻って来た時の彼の心境などは、どことなくアメリカや外国に憧れ続ける日本人にも似たようなところがあるような気がします。

様々な楽しみ方ができるこのパール・バック著の「大地」。ノーベル文学賞を受賞しているこちらの作品、一度読むことをお勧めします。私も義父に勧められて読んでみたので。

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