嘘つきは泥棒の始まり
この諺(ことわざ)がいつからあるのか分かりませんが、諺と言うものは本当にことごとく真実をあらわしているなぁと感じます。
噓つきは泥棒の始まり。誰でも聞いたことがありますよね、この諺。今の世の中、この諺が心に響きませんか? この諺通りの世界を想像すれば、嘘つきだらけの世の中というのは、イコール泥棒だらけの世の中、ということになってしまいますが、何だかそれもそうなのかもなぁと思っちゃうほどに世の中が荒んできているのを感じます。
この諺一つを見てみても、ミクロとマクロの見方が当然あって、どちらも相互作用しているものだと思います。たとえば、ミクロマクロの話で言えば、道に一つ菓子パンのビニールごみが落ちているだけで、少し残念な気持ちになることも、一つのミクロ事案。道の端にいくつかゴミが落ちていたら、「ああ、あれだけゴミを捨てている人がいるんだから、私も一つくらい捨ててもいいかな」と気が緩み、ついつい捨ててしまうことがあったりするのは、もう既にミクロの事案が広がり始めている現象。(私はゴミはその辺に捨てずにちゃんとゴミ箱に捨てるか持ち帰ります。一応言っとかないとね(汗)) それが末にはゴミだらけの町になって、汚い町を歩けばそれだけで嫌な気分にもなりますし、まだ嫌な気分で済めば良いのですが、それを通り越えるともう町を汚すことに何ら罪悪感も感じず、それがその町の常識になってしまいかねない。
そうならないために、町を掃除してくださる方々がいらっしゃるわけなので、私たちは掃除をして下さる方々に日々感謝しなければなりませんね。いつもきれいにしてくださってありがとうございます、と。大事なお仕事ですよ、掃除というのは。それなのに、私の子供が通う学校は放課後にその日の掃除当番が割り当てられた一つの箇所をちょろちょろっと掃除するだけのようで……それを聞いてなんだかなぁと思ってしまうのは、私が今どきの親になれていないってことなんでしょうか。親に今どきも何もない気もしますが。
ゴミの話はたとえ話ですが、たとえばそのような汚れた環境があったとして、大人ならばまだ自分でその汚れを掃除することで綺麗にすることもできるでしょうが、目の前に汚れた環境がある中で育つ子供はどうすればよいのか。はっきり言って、子供の育つ環境を守るのは、周りの大人の責任です。特に、親の責任が大きいです。大人に比べれば、まだ知識も経験も浅い子供たちに、手本を見せるのが大人の役目でしょう。
もちろん、大人にも色々な人がいます。良い人がいれば悪い人もいます。そりゃあそうなんですけど、まだ成長過程にある子供に対して、基本のキの字も分かっていないような子供に対して、「まあ、世の中こういうもんだからさ~」と初めから諦めたような言葉を吐くのは決して手本にはならないと思います。初めからそれを言ってしまうと、子供の立場からすれば「じゃあどうでもいいんじゃん」と、基本がないままに自由にどこへでも流されてしまいかねない。基本は抑えた上で、たとえばツライ境遇に追い込まれた時なんかに世の中を達観するのはアリでしょうが、初めから達観するようなことを言われても、地に足着かないまま放り出されるようなもので、子供自身が良い悪いも分からないまま、どこか分からないところへ行き着いてしまいます。何事も基本を押さえてこその話。善悪の判断は基本のキ。
こんな話をするのも、実際に息子の学校でそのような話をする先生がいたらしく、少し「ん?」と思ったもので。
子供に対して大人はあくまでもお手本を示さなくてはならない義務を負っているので、そういう意味では大人も決して自由ではないです。そもそも、自由って何よ?という問題がありますけどね。大分前から、自由がいい、自由でなきゃ、みたいな風潮がありますけど、各々が自由に行動したら、それは他人の自由を阻害することになりかねないでしょうがと、思うわけなんです。そんなことも想像できないで、勝手に自由だ自由だと騒ぐでない、と今の世の中にちょーっとばかし苛々しちゃうんですよね。最近流行りの多様性という言葉にも似た気持ちがあります……。多様性という言葉はあまり強く主張するものではないと思っています。強く主張すればするほど、多様性という言葉の意味は寧ろ、反対の方向へと流れて行くようにも感じます。
今はネットで繋がる世界があって、あっという間に広まってしまう環境がありますから、尚更自身の行動に気を付けるべき時代だと思います。面白ければ良い、人気が出れば良い、稼げれば良い、と言った短絡的な考えだけで記事や動画を上げることは、結果的には誰のためにもならないと思います。ネット上に上げるということは、誰かとの繋がりを求めていることであり、他の方の反応を見てみたいという期待があるわけでしょう。それか、この情報はどうしても皆さんに知ってほしいと切羽詰まった内容もあるかも知れません。最近は選挙などがあったために、そのような内容の動画もどしどし上げられていたように思います。
実際、私も自分の上げる拙い作品を読んで下さる方々がいらっしゃって、少しでも楽しんでいただければと思い、長らく書き続けています。少しでも読んで下さる方がいるというのはとてもありがたいことです。この場でも御礼申し上げたいと思います。いつも本当にどうもありがとうございます。
と、ここで先ほどの学校の話に戻りますが、先生ご自身が初めから諦めたようなことを仰られては困るなと。特に、小学校において先生の立場って、かなり大きなものなのは昔から変わっていないんじゃないかなと思います。生徒同士の喧嘩があっても、先生が一度立ち入ればそれで大体は収まるはずです。会社で言えば、平社員同士のいざこざを収める課長か部長か。それくらいの、いや、それ以上の差があるものでしょう。先生と生徒ですもんね。
先生が生徒に教えることとしては、親が子供に教えるものと似たようなもので、世の中善きも悪きもある中で、あなたには善い道を進んで欲しいと導いてやることでしょう。その為には善いお手本を示し、自らもお手本とならなければならないと言動にも行動にも気を付けるというのが常道だと思います。もちろん、絶対に善でなければならないほどに自分も子供も縛り付けるのではなくて、ただ「善いことは善いことだと教える」のが大事なんだと思います。
ただ、それを教える人がもし嘘つきだったら、そういう人の言うことを誰も聞きゃあしないでしょう。羊飼いの少年の童話に表されるように、オオカミが来たぞーと普段から嘘を吐いているような子の話を大人がまともに聞かないのと同じで、嘘つきの言うことには「信頼」がないために、誰もその人の言うことなどに耳を貸しません。聞くだけ無駄だと。
言ってみれば、嘘つきは泥棒の始まりという諺、嘘つきは周りにいる人々の信頼を泥棒しているとも言えるのかも知れないですね。それで結局孤立するのは、嘘を吐く人です。羊飼いの少年の童話も、話の最後は大変なことになりました。
嘘を吐いてしまうということ自体、事の大小はありますが、多くの人にあることなんじゃないかと思います。だけど大体の人は、嘘を吐くことに後ろめたさを感じるんじゃないでしょうか。問題は、嘘を吐くことに後ろめたさなど感じなくなってしまったら……くらいに嘘つき症状が進行してしまうことです。そうなる前に止めておかないといけないと、だからまだ子供の内にしっかりと「嘘つきは泥棒の始まり」ということを教えて、子供自身の心に染み込ませてあげないといけないと、そんなことを思っています。
その為に必要なのは、やはり私たち大人がそのお手本を示さないといけないということですよね。なのに、最近はなんだか残念な世の中になってきてしまっているように感じます。特に今は、嘘つきの最たる存在に政治家やメディアの存在があるというのが一つの大きな問題だと思っています。目覚めている国民の多くは、本気で怒りを感じているんじゃないでしょうか。ほんっとうにいい加減にしろよと。ここで何がとは言いませんけどね。(ここで言いつくせるほどに簡単な問題でもなく……怒りの原因となる事案は挙げればキリがない……)
ちょこちょこここで政治的な話をしていたりしますが、嫌な思いをされる方がいらっしゃればごめんなさいと頭を下げておこうと思います。が、国民が政治に関心を持たないことの方が本来おかしいんだということに、私もようやくここ数年で気づいたんですよね。一つ一つ、政治的なことを見て行けば、それほど難しいことはやっていないということにも気づけます。そして何より、架空のゲームも漫画も面白いけれども、それよりも断然現実世界に起こっていることを知る方が面白いし、身に迫ってくるし、何と言っても真剣に考えることができるようになります。だってこれは現実なんだから。現実故の怖さももちろんありますが。
政治を知れば知るほど、政治の力と言うのはとんでもなく大きなものだなと思い知らされます。そこに興味を持って、批判すべきは批判するのが、私たち一人一人の義務なんだと思います。あんたたちのこと、見てるからねと。今は色々と調べることもできるんだから、いつまでも国民をバカにしてんじゃないよと。
そういう動きの一つとして、実際に財務省のSNSが荒れているようですね。コメントの一つ一つを見てはいないですが、こういう動きが出てしまうのも、嘘つき政治に対する国民の怒りの表れでしょう。一つの大きな潮流ができているのを感じます。この流れを、無理に押し通すのではなく、しなやかに強かに持って行くのが一番良い流れなんじゃないかなと感じています。あくまでも一つ一つを丁寧に、誠実に、物事を進めていくことが、特に今の嘘に塗れた時代に求められていることなのではないかと思います。
嘘や欺瞞に対抗するには、その反対のことをするしかないでしょう。本来の日本人の性質で対抗することが出来れば、それを心情的に応援支援する人は必然と増えるものと思われ……これからが踏ん張りどころです、きっと。
善いものは善い、悪いものは悪いと、ちゃんと理由も示して言うことが、言う姿勢を示すことが、子供たちのためにも必要なことだと思うので、私個人としてもそのことに気をつけながらこれからも過ごしていきたいと思っています。先ずは私自身が手本を示さねばならん、という結論でした。ちゃんちゃん。