騎士

 

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聖なる力を留める青白い光の柱を背負うように、宿敵ゲマが祭壇の階段を静かに下りて来る。敵の後ろの祭壇の上には、未だ倒れたままのマーサがいるが、ゲマの邪悪を知るリュカたちは易々と彼女を助けに行くことができない。宙を行くことのアンクルも当然のように敵の隙を窺っているが、ただデーモンスピアを持つ手に力を込めるだけで、何もない宙に縫い留められたかのように動くことができないままだった。
祭壇の下にまで下りてきたゲマは、床に引きずるような長い濃紫色のマントを揺らし、邪悪をまるで隠しもせずに堂々とリュカたちの前に立つ。何もせずとも、奴の身体からは悪しき魔力が滲み出ており、濃紫色のマントでそれらを覆い隠している雰囲気さえある。同じ緑色でも、母マーサの身に着ける衣服と、ゲマの額を飾る宝玉とは真逆の印象を受ける。マーサの身に着ける緑のローブは自ずと、自然豊かなエルヘブンの景色を髣髴とさせた。陽の光に晒され、水も豊かな潤いある土地柄に、健やかに伸び育つ草木の逞しさを、母は常に思うようにその色のローブを身に着けていたのではないだろうか。それと合わせ、母は父と過ごし、子を授かったあのグランバニアの森深い景色を身に纏うように、ローブを身に着けていたのかも知れない。きっと母マーサの緑のローブは、地上世界に残してきた愛する思い出そのものだった。
それに対し、ゲマの額に光る緑の宝玉は、マーサの、人々の美しい思い出を、己が身に着けること自体で踏みにじるかのような、残酷な印象を与えた。そこには偽りが満ちているようだった。リュカは己もまた身に着ける命のリングに内包されている緑が、ゲマの額に光る宝玉と同類のものとは微塵も感じられなかった。
「さて……」
敵が一言発するだけで、リュカは身の毛もよだつような憎悪が身体を支配しそうになるのを止めなければならない。父の仇。母をも容赦なく傷つけた。それだけではない。一体地上世界の人間をどれほど傷つけてきたのかと思えば、リュカは自身の胸に沸き起こる憎悪は正当なものだと思わざるを得なかった。
「ついにここまで来てしまいましたね」
声に嘲笑うような音が混じるのは、恐らくゲマ自身にも止められないことなのだろう。それだけ敵は、今のこの瞬間が楽しくてたまらないのだ。思えば、エビルマウンテンの入口に浮かぶ小さな赤い火の玉から、ゲマの誘導は既に始まっていた。山の中へと足を踏み入れても、途中遭遇したシュプリンガーの群れは不思議な動きを見せ、結果的にはリュカたちに道を譲った。山中で遭遇したグレイトドラゴンらは絶えず、リュカだけに狙いを定めていた。巨大黄金竜が敵の一行を攻撃しようと思えば、口から炎を吐き散らせば良いものを、あの黄金竜らはそれをしなかった。竜はただ、リュカだけを攫い、マーサのところへ連れて行く目的を持っていたのではないだろうか。
ゲマに命令されたのだろう。この忌まわしき敵はその口で何度も「親が子を想う気持ちはいつ見ても良いものですからね」とリュカの前でその言葉を落としている。ゲマにとって人間の親子の情というものは、いかにも陰惨に踏みにじりたい対象なのかも知れない。リュカだけを攫い、母マーサと引き合わせた上で、ゲマは再会した母と子の愛情を引きちぎるように破壊したいのだろう。何故ゲマがそれほどに惨たらしいことを好んでいる理由などわからない。理由などそもそもないのかも知れない。かつては大魔王ミルドラースと同様、人間だったのだろうが、無垢な赤ん坊の姿に生まれた時から既に魔性をその身に持っていたのではないかと疑ってしまうほどに、ゲマの持つ邪悪は完全なものにリュカには見えた。
「リュカとその仲間たちよ」
そう言いながら濃紫色のマントをばさりと大きく振るうように両手を大きく広げる仕草は、この状況をまるで楽しんでいるようだった。自身がまさか倒されるなどとは微塵も思っていないのだろう。リュカたちは一度、地上世界に建つボブルの塔でこの仇と遭遇し、その時には手痛い傷を負わせ、ゲマを撃退したはずだと記憶している。しかし今、リュカたちの前に立つゲマには、その時の記憶自体がなくなってしまったのかと思えるほどに余裕の態度を見せている。そしてそれを裏付けるような敵の強い悪性を、広げられる濃紫色のマントからも滲み出ているように感じる。
「それに伝説の勇者までのこのこやって来るとは」
ゲマの手にする死神の鎌が、その魔力に操られるように宙に浮かび、鋭い刃先が勇者ティミーを指し示す。横に立つビアンカがティミーを庇おうと息子の前に立とうとするが、それをティミーが遮る。無言のまま母ビアンカの手を抑え、ティミーは自ら一歩進み出るように立ち、ゲマを見上げる。透き通るような水色の瞳に射抜くように見られるゲマは、いかにも鬱陶しそうに勇者の目を見返す。ティミーの視線は決して、恨みつらみに憑りつかれたような濁ったものではない。その目は、勇者と言う宿命を背負った者として、目の前のこの敵を許すべきではないという、正義に駆られたものだ。
ゲマの口元に浮かんでいた笑みが、一層深くなる。笑う顔つきと言うものにも正邪があるのだと、その笑みを見て思う。邪悪と言うものが笑みを浮かべたなら、それがゲマという存在になるのだろうと思うほどに、邪悪とゲマとは一体化していた。
「……しかしすべてはこの地で夢と消えるのです」
夢と消えるなどと、まるで他人事のように言うゲマを見ながらも、リュカは常に右手に構える剣に込める力を緩めない。夢と消えるのではない。夢と消し去ってしまおうとしているのはお前だろうと、リュカは今にも飛び出しそうになる足をどうにか抑えていた。
リュカの獰猛とも呼べる目つきを見下ろすように、ゲマは階段から魔力によって浮かび上がると、濃紫色のマントの内側から空気を孕み、黄金色ローブの裾をはためかせる。マントの内側に身に着けるローブは、本来ならば神々しい黄金色にも見えるものだが、悪しき者が身につければそれはたちまち黄金に憑りつかれた卑しき者の如く目に映る。この者も、魔物となる前には人間であったのだろうと、それだけで想像できてしまうことが腹立たしい。
「もはやミルドラース様にお前の母の魔力などいりません」
宙に浮かぶゲマに向かって、ビアンカもポピーも呪文の構えを取っている。しかしそれはあくまでも敵の発するであろう攻撃に備えるものだ。ゲマの周りには既に呪文反射の膜が張られており、一切の攻撃呪文を受け付けない状態となっている。ただ、今も祭壇の上で倒れているマーサを襲った巨大火球メラゾーマに備え、彼女らはすぐにでも呪文を発動できるようその身に呪文の空気を既に帯びている。そして隙さえあればいつでも、マーサを救い出すために動くのだと、この状況の中でも冷静に周囲を見ている。
宙に浮かび、空気に揺れていたゲマのローブもマントも静まり、敵の持つ死神の鎌がゆっくりとリュカたちに向かって構えられた。ゴレムスがビッグボウガンに番えた矢の鏃をまっすぐとゲマに向けている。いつでも矢を放つことのできる状態だが、この位置からゴレムスが矢を放つことはない。宙に浮かぶゲマの背後には、祭壇の上に倒れるマーサがいる。ゲマはそれを理解したうえで、剣でも矢でも呪文でも、攻撃するならすれば良いと、挑発するように宙に浮かんでいる。ゲマが攻撃を避けた直後に、その攻撃はそのままマーサに向かうのだと、この仇は息をするように人質を取るような真似をするのだ。
「今ここで私がお前たち親子を永遠の闇へお送りしましょう」
ゲマは恐らく、リュカをこの場に呼び寄せ、母と子で感動の再会を果たさせた後に、じっくりと地獄を見せてやろうと、この場所でリュカを待っていた。何がこの者をそのような非道に走らせるのかは分からない。もはやそのような非道を行うこと自体が、ゲマという魔物の存在意義なのかも知れない。この仇自身、恐らく目的らしい目的など、ないに違いない。ゲマと言う魔物が生まれた時には持っていた理由など、今はもうないようなものなのだろう。
濃紫色のマントが激しくはためいた。ゲマの身に、強烈な魔力を感じた。宙に浮かぶ敵の攻撃に、地に足着けるリュカたちは身構えるしかない。唯一、宙を行くことのできるアンクルだけが動き出そうとしたが、強烈な魔力の波動に、宙に磔にされるように動けなかった。
元来人間であったことなど忘れたのだと言うように、ゲマは人間らしからぬ大口を開けると、凄まじい勢いで息を吐き出した。強力な魔力を伴う敵の焼けつく息が、宙に留められたアンクルも含め、リュカたち全員に吐き散らされた。服を身に着けていても、マントでその上から覆っていても、白銀の鎧兜を身に着けていても、誰もが露にしている顔に一たび息がかかれば、そこから痺れが全身へと広がった。一歩駆け出したプックルの足もその場で膝を折り、床の上に投げ出されるように身体を横たえた。苦し気に呼吸を繰り返すのがやっとの状況に、誰もが追い込まれた。
皆が麻痺に耐えられずその場に崩れる中で、リュカは一人、己を縛り付けようとする痺れを、身体の内側から溢れ出てくるような力で払い除けてしまった。顔から首へ肩へ胸へと忍び寄ろうとしていた麻痺の感覚が一気に弾き出され、それらは周りの水気を含んだ空気に霧散した。聖なる気を纏う水の空気に紛れた痺れの魔力は、そのまま消え去った。
リュカは低い姿勢で、剣を構え直した。いつもは左手に持つドラゴンの杖を、今はベルトに収めていた。ゲマに対する憎悪は、今は両手で父の剣を持つことで否応なしに増幅する。リュカはその力が必要だと感じた。この仇は、父の剣を手にして、父を奪われた恨みをありありと思い出すことで討つのだと、ゲマに向かっていく。
リュカを待ち構えるかのように、ゲマは宙から下り、地にローブの裾をつけていた。揺れるローブの裾から、ゲマの足を見たことはない。宙に浮かんでいた際にも、ローブとマントの裾が揺れるだけで、足はちらりとも見えなかった。もしかしたらゲマの足は存在しないのかも知れないと、リュカはあくまでも愉悦で笑みを浮かべる悪魔のような敵の顔を見つめている。
地に足をつけたゲマを狙い、放たれた一撃は、一本の矢だった。ゲマが口から吐き散らした焼けつく息をものともしなかったゴレムスが、常に狙いを定めていたビッグボウガンの引き金を引いたのだ。本来ならば彼はこの状況で、倒れて動けない仲間たちを守るために、無暗に攻撃に加わることはない。言葉を持たないゴレムスはいつでも冷静に見え、そして実際冷静だ。しかし、今はその常を離れ、はっきりとした戦闘の意思を見せている。その証拠に、ゴレムスの目は今までに見たこともない赤みを帯び、リュカに負けず劣らずの熱量で宿敵ゲマを見下ろしている。
ゴレムスの放った矢は、咄嗟に矢を躱すゲマの濃紫色のマントに突き刺さり、そのまま床を破壊しながら床に突き刺さった。マントを床に縫い留め、ゲマの動きが瞬時止まる。逃さないと言うように、リュカが飛び出し、ゲマの正面から剣を突き出す。ゲマはマントを引きちぎる勢いでその場から退き、横へ飛ぶ。その動きにリュカは食らいつく。この敵に対しては一切の同情が生まれない。それほどにゲマと言う存在は、リュカの憎悪を育て上げてしまった。
リュカの振るう剣を、ゲマは死神の鎌の長い柄で弾く。そのまま鎌の刃をリュカへと向ける。屈んで避ける鎌の刃は、リュカの頭上で鋭く弧を描く。同時に、ゲマの足元を斬りつけるように、リュカは父の剣を横へと薙いだ。黄金色のローブが横に切り裂かれた。しかしやはり、そこにゲマの足は見えない。この悪魔とも死神とも呼べる宿敵には、どうやら足がない。地に足をつけているように見えるが、ゲマは常に宙に浮いて移動しているのが分かった。
近づきすぎたと、一度距離を取るべく足を踏ん張った瞬間、リュカの頭上が赤く光った。呪文の気配はない。しかし熱が生まれている。見上げた正面、ゲマの口から激しい炎が吐き出される直前だった。
両腕で顔を覆った。同時に、バギクロスの呪文でできうる限り炎の威力を削ごうとした。しかしゲマの攻撃が速い。リュカが呪文の構えを見せる前に、ゲマが吐き出した激しい炎がリュカの両腕を焼いた。
火傷の痛みに怯むよりも、尚の事頭に血が上る。傷の痛みは思考の外に追い出され、リュカは手にしている剣を握り直す。炎を浴びながら、負けじと剣を振るってくるリュカに、流石のゲマも意表を突かれたように息を呑んだ。
下から斬り上げたリュカの剣が、ゲマの喉を切り裂いた、ように見えた。しかし仰け反るゲマは寸でのところで剣先を避け切り、そのまま宙へと逃れた。焦りがあった。ゲマは上から伸びて来る巨人の手に気付かなかった。
ゴレムスがその巨体に見合わない速さで左手を伸ばしてきていた。ゲマの身体を手に捉えようとする。ゴレムスの手の中に収まるほどには、ゲマの身体は小さくはない。しかしこの邪悪な敵を手に掴み、握りつぶしてしまえという意思が、ゴレムスの左手に働いている。
そのゴレムスの手に向かい、ゲマは死神の鎌を躊躇いなく振るった。一体何で出来ているのかも分からない大振りの鎌は、硬い石で出来ているゴレムスの左手の指をあっさりと切り落としてしまった。指を失いつつも、それで怯むようなゴレムスでもない。そのままの勢いで、拳を当てるようにゲマの身体を殴りつけた。吹き飛ぶゲマだが、直前で衝撃を和らげたか、床に倒れるようなことはなく、そのまま宙に留まる。
床近く、宙に留まるゲマの近くに、倒れているティミーがいた。焼けつく息を吸い込んだために、全身に麻痺が行き渡り、肺までも傷つけ、未だ動くことはできない。彼の近くにはうつ伏せに倒れながらも杖に手を当てている妹のポピー、ポピーの背に手を当て、どうにか娘を守ろうとする母ビアンカ。彼女らも同じように、まだ痺れから逃れてはいないようだ。
ゲマの邪悪な笑みが口元に浮かぶ。ポピーの方を向きながら横向けに倒れているティミーに、敵のその表情が見えていた。ゲマの非道な行動には迷いがない。ティミーを人質にしようと、まるで血の気のない真っ青な腕を伸ばしてきたところを、ティミーは動く瞳で冷静に追っていた。ゲマの方が冷静さを欠いていた。
ティミーの手は既に天空の剣を握っていた。問題なく力を込め、剣の柄を握り込むと、ティミーは敵の腕を払い除けるように、剣を下から斬りつけた。流石に避け切れなかったゲマの腕から、青の血が吹き飛んだ。ティミーはその場に飛ぶように立ち上がり、父リュカを苦しめるこの敵を倒そうと、振り上げた剣を今度は振り下ろす。が、咄嗟に後ろへと飛び退いたゲマは、神の加護を受けた剣の一撃を濃紫色のマントに受けるだけだった。
「……小癪な……」
宙へと逃げたゲマは、同じく傍に立ち上がった女二人をも憎々し気に見下ろしていた。ポピーが手に取っていた杖は、ストロスの杖。マーサがその杖を手にしていた姿を、ゲマはこれまでにも見ている。破邪の力を持つストロスの杖には、傷を治癒するような能力こそないが、人間の心そのものに力を与える力を持つ。たとえ身体が恐怖や絶望で石のように固まり、動けなくなった時にも、ストロスの杖はその恐怖を和らげ、絶望から這い出るような力強い精神力を授けてくれる。
ゲマはストロスの杖が持つ本来の力を知っている。そしてゲマ自身、焼けつく息で敵となる者どもの動きを封じる力を持っている。更には、その力を高め、対象となる者そのものを石化してしまう力をも持っている。その力で一度、リュカとビアンカを石の姿に変え、数年の絶望を与えた。
「私たちの邪魔をしないでいただきたいですね」
そう言うと、ゲマは再び焼けつく息を吐きつけてやろうと、大きく息を吸い込んだ。身体全てを覆い隠すローブとマントの内側で、ゲマの体内に石の呪いの力が溜まる。破邪の力を持つストロスの杖ごと石に変えてやるのだと、その赤い目がティミー、ポピー、ビアンカを見据える。
吐きつけられようとする石の息は、寸でのところで止まった。ゲマの背後から猛然たる勢いで飛びかかってきたのは、リュカだ。敵が宙に留まろうがどうしようが、リュカは敵が仇であると言うことだけで、無謀に動くことを止められない。宙に留まり、剣の刃が届かないのならば、己の手から放てば良いと、リュカは父パパスの剣を宙のゲマに向かって投げつけたのだ。
リュカの想いが乗る、というよりも、本来の剣の持ち主の想いが乗った。父の剣は長年、パパスの手にあったものだ。父の想いを継ぐ意識で、リュカは普段この剣を手にしているが、現実のこの剣が直面してきた歴史を知っているわけではない。ただ、父パパスの生き様をその背中に見ていたリュカは、母を救い出すことを死ぬまで諦めなかったパパスの意思を決して忘れないようにと、父の愛用していた剣を手にしている。
リュカの思う父パパスの意思は、まだ十分とは言えないものだった。ゲマは背後に迫る凄まじい気配に素早く振り向く。その狂気の赤い目に映るのは、飛んで来る剣ではなく、剣を手にして、高く跳躍して飛びかかってくるかつての勇猛果敢な戦士の姿だった。雄たけびを上げるかのように大口を開けて飛びかかってくるパパスの姿を見たゲマには、向かってくるその者の叫びが音になって聞こえてくるようだった。
死神の鎌で払うように、一直線に飛んで来るパパスの剣を弾く。しかしただ弾かれたはずの剣は軌道を変え、あり得ない軌道でゲマの脇腹を狙ったように見えた。濃紫色のマントの内側に入り込み、黄金色のローブを深く切り裂く。ゲマの身体を斬りつけ、黄金色のローブに青い血が滲み、それはすぐに黒に染まった。ゲマが背中を丸め呻くのと同時に、パパスの剣はそのまま力を失ったように床へと落ちて行く。
音を立てて転がる剣を追ったリュカは、すぐに追いつき剣を再び手にすると、まだ宙へと逃げているゲマに向かって剣を構える。リュカにも、この剣を握り、ゲマへと向かう父の後姿が見えていた。そして剣の柄を握る自分の手と同じく、更に力を込めて剣の柄を握りしめる手の気配を、今も感じるのだ。
「父さん……父さん……絶対に母さんを……」
リュカの人生の大半は、父パパスの遺志を継いだものだった。父の遺志を継いだことには微塵も後悔はない。寧ろ人生の目的を残してくれた父に感謝の念を覚えている。これ以上ないとも言えるような、人生の指針がリュカにはあった。その目的に向かう中で、リュカは世界を旅し、様々なことを知り、肌に感じる中で、当初の目的に更なる意味を見い出していた。
父も母も、単に家族のことを思っていたわけではない。二人はグランバニアの王として、エルヘブンの大巫女として、世界のために為すべきことを為さねばならないと覚悟して、生きていたのだろうと、今ならばそうとリュカは考えることができる。
だから父は、最期に幼い息子に、母マーサの救出を諦めるなと言葉に遺したのだ。それは息子を母に会わせてやりたい親心でもあり、何としてでも妻を救い出したい己の望みであり、この地上世界をこれからも守らなければならないという一国の王の立場からの義務感によるものだった。エルヘブンの大巫女として生まれ育ったマーサをグランバニアと言う国に王妃として迎えたのと同時に、パパスはエルヘブンの村が負う重い役割を共に背負うことを覚悟したに違いない。
リュカは剣の柄を強く両手で握り、ゲマの前に立つ。リュカの後ろには、ティミーが同じように剣を右手に持ち、構えている。あまりにも似たような父と子の姿に、宙に浮かぶゲマの顔つきが苦々し気に歪む。そしてその二人を後ろから支えるように、賢者の石を手にするビアンカが恐れを知らぬ堂々とした表情でゲマを見上げる。
一人いないと、ゲマが気づいた時には、その後ろに既に魔物の影が迫っていた。宙を飛ぶアンクルが、デーモンスピアを手にしつつも、まるで音を立てず静かにゲマの背後にいた。気配に気づいたゲマが振り返るのと同時に、アンクルがデーモンスピアをゲマの胸へと突き出した。
狙いは正確だった。しかし運がなかった。振り返ったゲマの姿勢が狙いを外させ、大槍の先はゲマの肩を掠めるにとどまった。左肩を覆うマントと、内部のローブを一部鋭く引き裂き、傷も負わせたに違いないが、ゲマの動きが鈍るほどの損傷とはなっていない。ただ、ゲマは不意を突かれたという事実に高いだけの誇りを傷つけられたように、忌々し気に死神の鎌でアンクルの動きを打ち払った。死神の鎌の脅威を知るアンクルも無理はせず、一度引き下がるように宙に後退した。
アンクルも他の仲間と同様、麻痺の力で動きを封じられていた。自然と麻痺を回復したのではない。麻痺の回復の切欠を得たのは、リュカの攻撃の最中、その隙に機転を利かせて一人動いたポピーがいたからだ。ストロスの杖を持つポピーが、麻痺から逃れられない魔物の仲間たちのところへ素早く移動し、仲間たちの痺れを解いた。強大な魔力を持つゲマのこと、派手に仲間たちを癒せば確実に気づくに違いないと、ポピーはゲマの死角に入るよう、敢えて一人で小さく行動していた。
四つ足で立つプックルが、頭から背中へと生えている赤毛を怒りに任せて逆立てている。それに呼応するように、魔界の空に漂う暗雲が渦巻き、小さな光が既にいくつか閃いている。魔力に頼らないプックルの放つ稲妻を、呪文反射の膜を帯びたゲマは跳ね返すことはできない。今は隙だらけのプックルに死神の鎌を振るうことは容易い。しかしプックルの前にドラゴンキラーと風神の盾を持ち構えるピエールが鬱陶しい。
多勢に無勢のゲマだが、その状況を全て反転させる力を持っているのも事実だ。空から落ちんとする稲妻など恐怖の対象ではないと言うように、更に高みに浮かび上がると、ゲマは素早く息を吸い込んだ。
空から轟音と共に、一閃の稲妻が落ち、確実にゲマの身体を直撃した、ように見えた。しかしゲマは変わらず、宙に浮かんでいる。ゲマの手から僅か離れたところに、死神の鎌もまたその意思を持っているかのように、浮かんでいる。プックルの放った稲妻は、ゲマの身体ではなく、死神の鎌へと落ちたのだ。その証拠に、鎌の柄の先から煙が上がっている。自身が宙に浮かび上がることのできる魔力を有するゲマにとって、死神の鎌を宙に留まらせることなど訳はない。傷一つついていないような死神の鎌だが、ゲマはそれを身代わりにして、己への稲妻の直撃を避けた。
空から落とされた稲妻の轟く音に、一人、目覚めた者がいた。祭壇の上に倒れていたマーサが、空気を裂くほどの轟音と振動に、身体を横たえながらもうっすらと目を開けた。
ゲマの放つ火炎の魔力をマーサは知っていた。彼の放つメラゾーマの気配を感じるや否や、マーサは己の身の周りに見えない水のベールを張り巡らせていた。マーサにとって水は神聖なものであり、命の源であり、親しみを覚えるそれは仲間や友達と言っても間違いではないものだった。破壊的な熱を持つメラゾーマに倒されるわけにはいかないと、仲間の力を借りたのだった。
祭壇の下に感じる気配に、半ば絶望を感じる。それはこれまでにも何度も感じたことのあるものだ。決して慣れることのない感覚だが、そこで絶望に打ちひしがれるような精神力に収まっている彼女ではない。何が起ころうとも、諦めるわけにはいかないのだと、マーサは小さく息をつくと、落ち着いて自身の負った火傷の怪我に集中し始める。集中のために両目を閉じ、己の身体の状態に向き合うだけの姿は、ゴレムスと似ていた。



ゲマの口から生み出されたのは、炎ではなかった。まるで悪しき敵の身体はそのまま温度の無い異空間に繋がっているのではと思わせられるほどに、リュカたちの周りは突如として真っ白に輝く空間へと変えられた。
魔界の暗黒に包まれていたはずの空間が、反転するように真っ白な光の中に閉じ込められ、リュカたちは一斉に視界を奪われた。目に眩しい光の嵐に温度と言う温度がなく、その嵐の中でリュカたちは息をすることもできなくなった。呼吸を止めざるを得ない状況に、ただひたすらにその場で耐える。衣服やマントごと凍てつかせる力を持つゲマの輝く息に、たちまち凍傷になるのを防ぐこともできず、とにかく痛みと苦しみに堪える。凄まじい冷気の力を弱められるのは自分しかいないと、ティミーの脳裏にはフバーハの呪文が確かにあるが、呪文を唱えるために解かなければならない防御の体勢を崩すこともできない。第一、既に手も足も凍り付くような痛みに襲われている誰もが、その場から動くこともままならない状況だった。
輝く息が収まったことに気付かず、ただ体中が凍てつく感覚に閉じ込められたまま、リュカたちは皆その場から動けない。その中で宙から飛びかかってくる敵の気配だけは感じた。まだ感覚も戻らない中で、リュカは己の後ろ首を掴まれることから避けようもなかった。骨ばった大きな手がリュカのマントの襟首を掴むと、そのまま宙へと持ち上げられそうになった。
しかしそれを遮るように、リュカを連れ去ろうとするゲマに向かって小さな火炎が一つ、放たれた。凍ってしまったように身体が動かないながらも、せめてもの抵抗だとビアンカがメラの呪文を放ったのだ。当然のように、己を守る呪文反射の見えざる膜で、ゲマは小さなメラの呪文を跳ね返した。炎が目の前で跳ね返されたのを見て、リュカは自らその炎に当たった。凍てついた身体にメラの炎は温かいほどだった。そしてそのお陰で、生きている己の血潮を感じた。
温かみの戻る手に力を込め、手にしていた剣をゲマに振るう。既にリュカの身体はゲマによって持ち上げられ、宙に浮いていた。リュカの振るう剣を、ゲマはその腕を掴み止める。掴まれた腕を支点に、リュカは身体を反転させ、ゲマの後ろ首に蹴りを繰り出した。体術を見せるリュカの動きを予想できず、ゲマは後頭部に強烈な蹴りを食らうと、たまらずリュカの後ろ襟首を離した。が、敵も身体を反転させ、すばやく鎌を向けて来る辺りは、全く油断ならない。リュカの濃紫色のマントの端を斬りつけた死神の鎌は、そのままマントの切れ端をこの世から消し去ってしまった。
二か所で同時に、激しい炎の明かりが上がる。ビアンカとアンクルが息を合わせたように、ベギラゴンの呪文を唱えていた。凍てついた身体を温めるには非常に荒療治とも思えたが、すぐにでも動ける身体を取り戻さなくてはならないと考え、強烈な火炎呪文を放つのは二人の性格から仕方のないことだった。
全てを溶かし、ゴレムスの足元を凍り付かせていた氷も解け、皆が再び動けるようになる。宙に浮かぶゲマを見上げる。忌々し気にリュカたちを見下ろし、再び息を吸い込んでいる。今の今、もう一度輝く息を吐かれたならひとたまりもないと、ゲマの様子を見たティミーが冷静に皆を守るための呪文を唱えた。
フバーハの防御を施せば完全に防げるものでもないのは分かっている。再びゲマの口から吐き散らされた輝く息の威力は、一見には先ほどと何も変わらないのではと感じられるほどに厳しいものだった。真っ白な世界に閉じ込められ、目の前に何も見えない。寒いのか熱いのか分からない中で、身体は動かなくなる。しかし心の内側まで凍てつかせるものではない。
負けてなるものかと、リュカはその中でもゲマの様子を確かめるべく上を見上げた。すぐ目の前にまで迫っていた。輝く白い世界が途絶えた。代わりに、死神の鎌が大きく振り上げられていた。その刃先が狙うのは、リュカではなく、ポピーだ。
剣を握る力が、明らかに増していた。自分には父パパスがついていると感じている。しかしそれだけではない。全身に漲るいつにも増した力は、明らかに呪文の効果によるものだった。ポピーが誰に知られることもなく、隠れるようにしてバイキルトの呪文を唱えていた。近くにいるティミーもまた、勇んだ表情でゲマを見つめているのは、同じように攻撃力を高めた状態となっているからだ。
ポピーに振り下ろされる死神の鎌を、ティミーが天空の剣で堂々と受ける。ゲマはポピーの行動を見ていたに違いなかった。小賢しい小娘を先に片付けようとでも思ったのだろう。併せて、リュカの大事なものを一つ、あっさりと奪ってやろうという考えに、内心悦に入っていたのかも知れない。
力の弱い者を全力で守るのは、リュカたちの間ではただの常識だ。その想いがあるからこそ、踏ん張りの効かないような極限でも踏ん張ることができる。自分自身のために発揮する力には、限りがある。しかし大事な者を守るための力には、限りはないのだと、リュカたちは誰から教えられることがなくとも経験にそうだと知っている。
ティミーが声を上げながら、ゲマの死神の鎌を打ち払った。ゲマは宙に浮かびながら、くるりと回転させる死神の鎌を再びティミーに向ける。今度はこの生意気な勇者を仕留めてやると、鎌の刃先はティミーの首に向かう。
その軌道を、リュカが止めた。父パパスの剣がまるでゲマに掴みかかるかのように、鎌の刃に剣の刃がぎりぎりと食らいつく。一度は、この仇の手によって折られた剣だ。しかし折られた後に再び鍛え上げられ、蘇生を果たし、以前にも増した強さを身に着けた剣だ。それが再び息子リュカの手に収まり、復讐を果たしてやるのだと言うように、悍ましいほどの力でゲマの死神の鎌に食い込み、敵の動きを宙に止めた。その間、ティミーは己の役目を悟り、集中し、仲間に癒しの呪文ベホマラーを唱えた。
リュカに集中しているゲマの背後から、飛びかかって来るものがある。デーモンスピアを手にしたアンクルが、翼をはためかせ、宙に留まるゲマの斜め上方から襲い掛かった。翼を大きく広げたアンクルの姿は、ゲマの身体の何倍もの大きさに見えた。ゲマは上方からの攻撃を躱すべく、止むを得ず鎌の長い柄から手を離し、その身だけで下方へと逃げる。
逃げた先には、疾走してくるプックルの姿があった。
復讐の怒りに燃えているのは、プックルも同じだ。あの日あの時、この者の出現で、プックルの生きる道は反転した。まだ身体も小さかったベビーパンサーの時分、全身を炎に焼かれ、気を失い、気づいた時には、小さき戦友も、その父も、助けたはずの子供もいなかった。ただ石の床には不気味な焼け焦げた跡と、少年の父が常に持っていた剣が落ちているだけだった。何度鳴き声を上げて呼んでも、応える声はなく、石造りの不穏な遺跡の中にはただの静寂が満ちていた。目の前に起きていることが何一つ信じられないものだったが、とにかく体は火傷の痛みが残り、疲れ切った身体は休息が必要だと、小さなプックルはただ残されたパパスの剣の傍で猫のように丸くなり、眠り、小さき戦友を待った。
その後リュカを求めて旅を始めるのに、時間はかからなかった。腹が減り、このままでは飢えて死んでしまいかねないと、その場から動かざるを得なかった。少年が誇りに思っていた父が身に帯びていた剣を咥えて持てば、それだけで己も強くなったような気がした。パパスの遺した剣を持って行ったのは、プックルの本能での判断だった。これは己が持っていなければならない、これを失くせば、生きる意味を失くすのと同じことだと、プックルは少年が誇りに思っていた父親が長らく使っていたであろう剣を手放さないことを決めた。
再会を果たした少年は、すっかり姿を変えていた。しかしそれは己も同じだった。互いに成長し、再び共に旅をすることになり、その後に恩人である少女とも再会を果たすことになった。運命とは不思議なもので、青年と娘は家族になり、旅の一つの終着地ともなった森に囲まれた大国で、彼らの間には小さな二つの命が生まれた。守らねばならない命が増えたのだと、プックルは元気に泣く赤ん坊の顔を舐め、大人しく眠る赤ん坊の頬に鼻を寄せた。
そんな折に仇は再び奪って行った。夫婦となった戦友と恩人の二人を石の呪いに閉じ込め、彼らをあらゆるものから引き離してしまった。己の痛みには耐えられる。しかしリュカとビアンカが何よりも大事にしていた双子から引き離された激しい痛みに、耐えることは困難だった。行方不明となってしまった二人の代わりにできることは、残された双子を守ることだった。その間にも、プックルの心に積もる後悔の念と憤怒の思いは止まることがなかった。
何年をもかけてようやく、彼らはこうして共に在ることが出来ているのだ。もう二度と、彼ら家族を引き離されてなるものかと、下方へと逃げてきたゲマを捉える。ローブに隠された敵の足は見当たらない。狙うのは敵の身体の上部に限ると、プックルは高く跳躍し、確実に仕留めるべくゲマの首に食らいついた。
呻くゲマ自身、執念の塊の存在だ。元人間だった敵は、悪しき力を手に入れたと同時に、己は不死身だと信じている。こんな下等な獣ごときに倒されるはずがないというゲマの信念は深く、それが善であろうと悪であろうと、ゲマの心身にどこまでも染み入っている。痛みを余所にやる。死神の鎌をただこの獣に振るえば良いと、首に食らいつかれながらも、魔力により鎌を動かそうとする。
プックルの目にはしっかりと見えていた。この仇に、己と同じように後悔の思いを深くしているもう一人の戦友が、ゲマの背後に迫っている。
跳躍した影が、竜の分厚い鱗をも断ち切る剣を、マントとローブに厚く隠されたゲマの背中へと突き刺した。ピエールは己の中に込められたこれまでの贖罪の思いを凝縮させた力を手に込め、ゲマの背中に突き刺したドラゴンキラーを更に深く突き通した。
二度と、主は幸せを奪われてはならない。一体主が何をしたというのか。悪いことなど一つも起こしていない。ただひたすらに、愚直に、お父上の遺志を継ごうとしてきただけだ。我ら魔物に対しても情を傾け、分かり合おうとする姿勢に嘘はない。厳しい旅の最中でも、主はいつでも心の中に相手と分かり合おうとする思いがあった。それがお母上に通じるものなのだと言うことを、今は祭壇に倒れている女性を目にして、ピエールは改めて人と人との間に起こる継承の奇跡を感じた。
ここで敗れるわけにはいかないのだと、ピエールはゲマの背中から突き通したドラゴンキラーを握る手を緩めない。仲間のその姿を見ているリュカもまた、ゲマの死神の鎌をこのまま剣で叩き割り、無用のものにしてしまおうと、更に力を込める。
その時、宙に浮き、デーモンスピアを構えていたアンクルがふと、何かが動く気配を感じた。その方を横目に見ると、祭壇の上に両膝をつき、両目を閉じ祈りを捧げるリュカの母マーサの姿があった。リュカの母というだけで、絶対に生きていると信じていたが、その女性が今、エルヘブンの大巫女として、リュカの母として、必死に祈りを捧げていた。彼女の祈りの力は周囲へと及び、祭壇を囲む水の気配を強く神聖なものへと変えて行く。
魔界へ足を踏み入れた目的は、マーサの救出だ。アンクルはただ冷静に、当初の目的を頭の中に反芻し、今この場で自由に動けるのは己しかいないと、祭壇の上を目指して飛び向かおうと一度大きな翼をはためかせた。
「……まだ、だ……」
本来ならば、プックルに喉元を噛みつかれ、声も上げられない状態のゲマが、声にもならない声でそう言った。リュカが剣で抑えていた死神の鎌が、外れた。その瞬間もリュカは逃すまいと、すぐさま剣を振るう。死神の鎌はゲマの魔力により、宙を回転し、リュカの剣を受け、弾く。死神の鎌の刃には、リュカの剣による傷が深く刻まれたが、持ち主同様、鎌の刃はしぶとく粘り強いように、決して折れない。刃の鋭さを保ったままの鎌は、ゲマの魔力による動きで、余裕なくリュカの首を狙い始めた。母子の愛情を褒め讃えた上で、それを打ち壊すのを楽しみにしていたゲマだが、今ではその血に染まったような両目はただの憎しみに駆られたように、リュカだけを睨みつけている。
プックルは食らいついていたゲマの首を、獣がそうするように、嚙み千切ってしまった。首から青い血が噴き出すが、ゲマは変わらずリュカを見て、まるで呪いをかけるようなおどろおどろしい顔つきで死神の鎌を操り続けている。凄まじいまでのその形相に、プックルはゲマの身体に爪を立て圧し掛かりながらも、思わず息を呑んだ。
ゲマと言う魔物は、一体何者なのか。そんな疑問が初めてプックルの脳裏を過り、それは同じく、リュカの頭の中にも生まれていた。決して分かり合うことなどできない仇であることは違いない。しかしそれを越えたところで、この者が一体何者なのかという純粋な疑問が生まれたのは、初めて敵の表情の中に、どこまでも深い怨念のような感情を見たからだ。その感情を持っているのはリュカであり、プックルであり、言うなればこちら側が持つものだとばかり思っていた。それを憎き仇から向けられることに、リュカもプックルも違和感を覚えずにはいられなかった。
己だけに向けられる怨念のような感情を沈めるためには、己を差し出せばよいのだろうかという、理不尽だが合理的な考えが、リュカの頭の片隅に浮かんだ。そのような思いが一瞬でも頭の中に存在してしまうこと自体が、油断そのものだった。一瞬の油断も見せてはならない時だったというのに。
常にリュカの首を狙っていた死神の鎌が、素早くリュカの首近くで向きを変えた。それだけで、リュカは己の首が飛んだように感じた。逃げることのできない間合いだった。防御のために剣を向けることも、腕を出すことさえも間に合わない。
いつでも陰で支えてくれる者がいた。リュカが追い込まれている最中、常に入る隙を窺っていた。ゲマの背中にドラゴンキラーを突き刺しながらも、それだけでは倒れる気配もないゲマの動きを、ピエールは一瞬の隙もなく見ていた。
ゲマの背中からドラゴンキラーを引き抜き、瞬時にリュカの前へと飛び込んだ。そのままリュカを突き飛ばし、己は風神の盾を構える。リュカを仕留めようと渾身の力が込められていた死神の鎌は、逃げたリュカの首を掠め、ピエールの風神の盾に食らいつく。ゲマの執念、怨念、憎悪、あらゆる負の感情の詰まった鎌の攻撃を、ピエールは防ぎきれない。
風神の盾が、死神の鎌に切り裂かれた。ピエールの身体が、死神の鎌に切り裂かれた。リュカの目の前で、二つに切り裂かれてしまったピエールの姿が宙に飛んでいる。
「……リュカ殿、ご無事……」
ピエールの言葉は、そこで途切れた。死神の鎌の餌食となった者の行方。ピエールの身体が、宙に消えていく。まるで、ピエールの存在自体が幻だったのだと言うように、最も信頼するスライムナイトが今、この世からも、あの世からも、消えてしまった。

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