途轍もなく不思議な魔物

滑る床の上で身体の安定を保つために、リュカたちは大きな矢印のような記号が描かれる床の上で四つん這いになって体勢を保っていた。前を行くプックルもどうにか体勢を立て直し、低い姿勢で、赤い尾も下に這わせるようにして立っている。しかしその姿が唐突に消えた。目を疑ったリュカたちが瞬きをした瞬間に、リュカたちもまた前方にぽっかりと口を開けていた穴へと飛び込まざるを得なかった。
いつか旅した湖底に続く洞窟内のトロッコほどの勢いではないが、勢いそのままに階段を転げ落ちるには十分な速度だった。まるで予期していなかった下り階段に、リュカは近くにいたビアンカやポピーを庇う暇も与えられずに、先に落ちて行ったプックルの元へと転がり向かった。プックルは猫の特性を以てして、唐突な落とし穴のような下り階段にも対応するように、身を翻して階段の下に着地していた。その隆々とした相棒の脇腹に、リュカは突っ込んでいったのだ。そしてティミーもまた同じように転がり落ちてきた。ピエールは緑スライムの身体の弾力に救われたように、ぼんっぼんっと階段を下りて来る。そしてビアンカとポピーは、滑る床の力から解放されると同時に飛び上がったアンクルの両脇に抱えられていた。
「いててて……。ティミー、大丈夫か」
「いててて……。うん、大丈夫だよ。ケガはしてないみたい」
「悪いな、リュカ。咄嗟に抱えられたのはコイツらだけだった」
「いや、助かったよアンクル」
階段を転げ落ちたとは言え、ここはエビルマウンテンの山中に作られた洞窟で、その天井はたとえ巨人でも屈まずに歩けるほどに高い。リュカたちが今いるのは下り階段の半ばを降りたところで、まだ下へと階段は続いている。
階層の異なるこの洞窟にも明かりは灯されており、リュカたちが落ちてきた階段の他にも、上階へと続く階段がいくつかあるのが見て取れた。階段を降りた先には、上階と同じく特殊な力を持つ床がこちらも迷路の如く並べられているのが分かる。そのような全体の景色を見るリュカたちの目に再び、あの銀色の素早い魔物の姿が映り込んだ。それは階段の下に降りたところの、明々と燃える火台の脇に隠れるようにして、リュカたちをこっそりと見つめている。その目に敵意は感じられない。むしろそのはぐれメタルは先を案内するためにリュカたちを待っているような雰囲気さえ表している。
プックルがまだ階段の途中に立っているというのに、見えるはぐれメタルに向かって姿勢を低くし、頃合いを見計らって駆け出そうとしている。リュカは尻尾をむんずと掴んでプックルの動きを抑えた。はぐれメタルを見つめていたプックルの表情は決して牙を剥き出しにするような敵意丸出しのものではなく、ただ青い目を好奇心に満ちた様子できらきらと光らせている。まるで遊びのような感覚で追いかけようとしているだけなのだ。それと言うのも、階段を降りたこの階層にも、悪しき魔物の気配は感じられず、どうにも警戒心が緩んでしまうという現状があった。
「キュルッ、キュルッ!」
「あっ! あの子もあんな鳴き方をするのね~」
「かわいい~……」
「あの子も遊びたいのかな?」
「そうなのかも知れないけど……」
ティミーの言葉に応えるリュカだが、その目は今は離れたところに見える別の魔物へと向けられている。明らかにその姿は魔物だが、やはり悪しき気配が感じられず、しかし決して善の雰囲気が感じられるわけでもないために、他の仲間たちは初め気付かなかった。グランバニアに待つ仲間のガンドフにも似た姿のその魔物は群れを為す習性でもあるのか、四体が揃って、滑る床の上でつつつ~っと移動をしている。滑る床の上での移動が楽しいのか分からないが、四体揃って笑顔で横向きに移動していく様を見ると、リュカはその異様さに思わず身震いした。
「……何でしょう、あれ」
リュカの視線を追って気づいたピエールが、同じように異様を感じたような訝し気な声で呟く。言葉にはしないが、気味が悪いと言っているのだとリュカにも通じている。
「ガンドフと同じ種族なのかも知れねぇけど、気っ持ち悪ぃなぁ……」
アンクルがはっきりとそう言うのは、ガンドフと同じような姿形をしているにも関わらず、その身体の色は明るい橙の火の光に照らされても怪しい紫の体毛に覆われ、大きな一つ目にもどこか危うい爛々とした光を帯びているからだ。姿は仲間のガンドフに似たものだとしても、遠くに見えているその姿にはどこか計り知れない危険があるのだと嫌でも感じさせられる。
「何となくだけど、近づいちゃいけない気がする」
「仰ること、分かるような気がします」
「あの目のヤバさは、何するか分かんねぇヤツだろ」
リュカたちが目で追うその不気味な四体の魔物ムーンフェイスは、滑る床の上の終点まで進むと、先頭の一体が床から弾かれ、二体目も弾かれ先頭にぶつかり、三体目も弾かれ団子になり、四体目も弾かれぶつかり四散した。その後何事もなかったかのように四体揃って起き上がり、笑顔の無表情で顔を見合わせ、そして一列に並んで歩き出した。リュカはその先頭に歩くムーンフェイスと目が合い、明らかにこちらへ向かって歩いてくるその不気味に、思わず息を呑んだ。
「何となくなんだけど、近づいちゃいけない気がするんだ」
「仰ること、よく分かります」
「そんならとっとと逃げようぜ」
「でもお父さん、ここって逃げられるのかしら」
「本当だ。周り中、あの床みたいだよ」
「どこかに乗ってみればとりあえずは逃げられるんじゃないかしらね」
「がうっ、がうっ!」
リュカたちの会話を耳にしながら状況に気付いたビアンカたちもまた、奇妙な四体の魔物がこちらへ向かってくる様子を見て危険を感じ、周りをぐるりと囲まれた滑る床を見渡す。プックルはプックルで、未だリュカに掴まれたままの赤い尾をぶんぶんと振り、離せと吠えている。プックルの目は今も尚、きらきらとした光沢を放つはぐれメタルに向けられている。そしてはぐれメタルもまた、プックルのきらきらとした視線を受けるように、適度な距離を保ったままその場に待ち構えている。もしかしたらティミーの言う通り、ただ遊びたいだけなのかも知れないが、マーサと共にこの場所に生きていたと言うことは道案内を務めてくれる可能性もあるとリュカは都合よく解釈し、掴んでいたプックルの尾を離した。
プックルが駆け出す。リュカたちも後を追う。はぐれメタルは逃げる。そのまま滑る床の上へと乗る。キラキラとした銀色が床の上を移動し始める。プックルが今度は転ぶことなく床に飛び乗り、差の縮まらない滑る床の上を進み始める。リュカたちも次々と床の上に乗り込み、進んでいく。試しにと、床の上に描かれた大きな矢印に逆らうように、アンクルが宙で羽ばたこうとする。しかしやはり床の魔力は垂直方向へも影響を及ぼし、アンクルはただ宙にもがくだけの格好となった。
角をかくんと曲がる。慣性の法則で身体がよろめくが、魔力の働く床から弾き出されることはない。矢印はまだ続く。速度が上がることはないが、馬の駈足ほどの一定の速さで淡々と進んでいく。途中、リュカたちのいる場所へと歩いてきている四体の不気味で不思議な魔物ムーンフェイスと向き合いながら、リュカたちは横向きに滑る床の上を流れて行った。先ほど、あの四体が揃って横向きに床の上を流れて行った状況を、今はリュカたちが体験しているというわけだ。
角を四つ曲がった。リュカたちが下りてきた階段は周りをこの滑る床に囲まれていた。図らずも一周してきたのだと気づいた時、はぐれメタルが滑る床に囲まれている内側へと弾き出された。プックルも同じところで、元いた場所へと飛び出した。その後に皆が続いてドドドドッと滑る床から弾き出され、前を行っていたプックルが既に駆け出していく後姿を見る。
「プックル、待て!」
リュカの言うことを聞かないのは、プックルがこの場所にさほどの危険を感じていない証拠でもあった。先頭を進んでいたはぐれメタルがそれこそ光の速さで階段を上って行ってしまった。プックルはすぐさまそれを追いかけ始めたのだ。逃げる者を追う習性が素直に働いているのか、それとも単に楽しい追いかけっこをしているのかは分からないが、階段を上って行ってしまったプックルをリュカたちもまた追いかけていく。
最後尾で皆を見守るアンクルがふと、後ろを振り返った。滑る床に躊躇いなく乗るムーンフェイスの姿があった。滑る床に四角く囲まれた内側に位置する階段へとあっさり向かってくる四体のムーンフェイスの群れを見て、アンクルは全身に寒気を感じ、今見たことは見なかったことにしてくるりと前に振り返るとすぐさま階段を上って行った。
「おい、あのヘンな奴ら、追ってくるぞ」
しかしやはりなかったことにはできないアンクルは、危険かどうかは分からないムーンフェイスらが後ろから迫ってきていることをリュカに伝えた。リュカたちもまた後ろを振り返れば、階段を上へのっしのっしと上ってくる四体のムーンフェイスの大きな一つ目と目が合い、その目に何も特別な感情が感じられないことに寧ろ背筋に悪寒が走るのを止められない。
「見た目はガンドフと一緒なんだけどなぁ」
「色の違い……でしょうか」
「お、思い切ってお話してみたらどうかしら、リュカ」
「お父さんならどうにかできる、かも……?」
「モノはタメシだよ! おーい! ボクたちに何か用なのー?」
「あっ! バカッ、話しかけんなよ!」
勢いで話しかけたティミーの声に反応するように、階段を上って先頭を歩いてくるムーンフェイスが一度、階段の途中で立ち止まった。そして仲間のガンドフも時折そうするように、大きな一つ目を笑うように細める。ガンドフであればそれが笑っていると感じられるのだが、ムーンフェイスのその表情に純粋な笑みという雰囲気が感じられない。それが何故なのかは分からない。分からないが、感じられる不気味さを否定できる根拠もまた何もないのだ。
ティミーの呼びかけに応えようとしたのか、先頭に立ち止まっていたムーンフェイスが再び階段を上り始め、言葉を発しようと口を開いた。しかしそのにこやかな口から発された言葉は、ただの言葉ではなかった。ただ一人、リュカだけがその呪文を知っていた。
プックル以外の全員が、自身から何か不可欠なものが失われたような感覚に陥った。身体の中から何かが抜け出たような感覚に、皆は一様に眠気と空腹を覚える。この異常にいち早く思い当たったポピーが、試しにと隣に立つ兄ティミーに向かって呪文を唱えようとする。発動するはずのバイキルトが、ティミーの身体に効果を及ぼさない。ポピーは自分の両手を見つめながら、真っ青な顔つきで父リュカに状態を告げる。
「……お父さん、魔力が……なくなっちゃったみたい」
「ふむ……。リュカ殿、どうやら私もです」
「私も、かしら……?」
「あれ? ボクも呪文が使えないみたいだよ」
「もれなくオレもだな。リュカ、お前はどーなんだよ」
「うん、僕もだね」
引きつる顔で皆に告げるリュカは、構わず歩いてくるムーンフェイスのにこやかな表情に再び出会うと、引きつる顔のまま仲間たちに小声で「逃げよう」と指示を出した。ムーンフェイス自身はもしかしたら、会話をするために言葉を発しただけのつもりなのかも知れない。しかし彼らが口から発する言葉は恐らく、全て呪文に置き換わってしまうのだろう。しかもその呪文が、リュカがルラフェンの町に住むベネットじいさんに習得させられた謎の呪文パルプンテとくれば、まともな話ができるわけがない。
リュカたちがくるりと背を向けると、先頭を歩いていたムーンフェイスは純粋にショックを受けたように一つ目を大きく見開き、リュカたちの後姿を見つめる。しかしいくらリュカでも、その表情を目にしても彼らと話をする術を持たなければ、己らの身の安全を第一に距離を取るしかない。話が通じないと言うよりも、話すことによって自身らの身に危険が及ぶことは避けなければならない。第一今のリュカたちの状態は皆が皆、唐突に魔力が底を尽いてしまった状態なのだ。ビアンカがメラを唱えることもできなければ、リュカがホイミを唱えることもできない状況で、得体の知れない彼らに近づくことはできない。
「プックル!」
リュカに呼びかけられたプックルはじりじりとはぐれメタルとの距離を縮めていた。はぐれメタルは決して一目散に逃げたりはせず、プックルと遊んでいる感覚なのか、どことなく笑みを深めてプックルを見つめている。プックルほどの速さで駆ける獣に対しても、逃げ切れる自信があるのだろう。凡そ考えられないほどの近さでプックルを待ち受けている。
「遊んでる場合じゃないみたいだ。行くぞ!」
「がう?」
元々魔力を持たないプックルには、リュカたちの状況が変化していることが分からないようだ。しかしリュカの思いがけない大きな声に驚いたはぐれメタルは、ズサササッという音を立てながら床の上を走り始めてしまった。間合いを一気に離されたプックルは一言「がうっ!」とリュカに文句を言ってから再びはぐれメタルを追いかけ始めた。
プックルがはぐれメタルを追いかけて駆け回るのは、滑る床に囲まれた広い床の上だ。その後をすぐ続いてリュカとビアンカが階段の上に出てプックルを追う。その後をすぐにティミーとポピーが続こうとしたが、慌てたポピーが階段の最後でよろけ、ティミーにぶつかり、後ろから支えようとしたピエールもまた同様にバランスを崩して、三人は一緒くたに滑る床の上に身体を投げ出した。何者かの侵入を察知したように、滑る床はすぐさまその魔力を発動し、ティミーとポピー、そしてピエールを床の魔力の中に取り込んだ。咄嗟に皆に手を伸ばしたアンクルもまた、滑る床の魔力の中にその身を置かざるを得なかった。
「うわあぁぁ~!」
ティミー達は連れ立って、滑る床に囲まれた広い床、ではなく、その外側へと弾き出されてしまった。外側の床へと倒れ込んだティミー達は、滑る床に囲まれる場所に残るリュカたちとは異なる場所に立っている。滑る床の壁に遮られ、リュカたちとティミーたちは引き離されたような状況だ。
階段を上り切ったムーンフェイスらは四体がそれぞれ、リュカたちとティミーたちとを交互に何度か見つめ、そして四体が頭を突き合わせて相談するように大きな一つ目をきょろきょろと互いに動かすと、その意を一致させ、くるりとティミーの方へと身体を向けた。どうやら直接話しかけてきてくれたティミ―に対してより希望を抱いたようで、再び一列になって滑る床の上へと足を踏み出した。
「こっちに来るつもりよ、お兄ちゃん!」
「魔力が尽きている今、魔物と対峙するのは避けねばなりません」
「とにかく逃げようぜ。ああいうヤツは関わっちゃならねぇ」
「で、でもやっぱりもう一度話してみれば分かるかも知れないし……」
「あの魔物さんたちは話をしたがっても、その話自体がきっと呪文になっちゃうのよ」
「なんと……! そんなことがあるのですか、ポピー王女」
「魔力がすっからかんになる呪文なんて、聞いたことねえぞ」
「魔力が底を尽く呪文だったら、もうボクたちには効かないんじゃないの? もう底を尽いちゃったんだしさ」
「何が起こるか分からない呪文なのよ! ねえ、そうでしょ、お父さん!」
ポピーは滑る床の壁に阻まれた向こう側にいる父リュカに、大声でそう呼びかけた。見えている場所にいるからとは言え、迂闊に滑る床を踏んでその先に行くことができない。見渡したところ、滑る床の配置は複雑に分岐しているようにも見え、考えなしに飛び乗った後でどこへ連れて行かれるかは未知数だ。
「みんな、逃げろ! その魔物はパルプンテの呪文を使うみたいだ!」
別の場所に立つ羽目になったティミーたちを見て、そしてそのティミーたちを追おうとしている四体のムーンフェイスらの行動を見て、リュカもまた大声で呼びかける。リュカたちの状況などお構いなく、はぐれメタルは自分から目を離さないキラーパンサーを焦らすように一定の距離を保ったまま、じりじりと横へ移動している。プックルはビアンカに叱られ、赤い尾を床に擦りつけてしょげた表情を見せている。まだ横目でちらちらとはぐれメタルの姿を見ているが、引き離されたような形になってしまったティミーたちのことに気付くと、プックルは守るべき対象の子供たちのもとへ行かなければならないと早足で向かい始めた。
すると、まるで光の速さで移動すると言っても過言ではないはぐれメタルが、プックルの行く先に滑り込むように姿を見せ、変わらない笑みを浮かべた表情でプックル、それにリュカとビアンカを見つめる。完全に遊んでいるのだと、リュカには感じられた。もしかしたらマーサの友達の一人だったのかも知れないと、こんな時にも関わらずリュカは思わず力が抜けたような笑みを返してしまう。
「遊ぶのは後でもいいかな?」
「キュルッ、キュルッ!」
「いい子だね。ありがとう」
「リュカ、早くあっちに行かないと……!」
「がうっ、がうっ!」
「……プックル、元はと言えばお前の……」
「キュルッ!」
はぐれメタルの声が非常に元気で、リュカには『任してっ!』と聞こえたような気がしたほどだった。その言葉が合っているのかどうかも分からないが、はぐれメタルは再びリュカたちを先導するように床の上を滑らかに移動し始めると、ひょいっと滑る床の上に乗り込んでしまった。ティミーたちのところへ出られるのかと思いきや、はぐれメタルはそのままつつつーっとあらぬ方向へ移動し始めてしまった。
その姿を目で追っている内に、リュカはふと、背後に忍び寄る影の存在に気付き、冷や汗を垂らしながら後ろを振り返った。階段の下にまだ他のムーンフェイスがいたのだろう。ぎりぎりまで全くその気配に気づかないのは何故なのか。一体この魔物らしきものは生き物なのだろうかという疑問さえ沸いてくるほどに、不思議極まりない存在だ。大きな一つ目を爛々とさせ、笑みを深めながら話しかけようと口を動かし始める様子のムーンフェイスから、リュカたちはとにかく逃げ出さなければならない。
咄嗟に動いた先には、当然のように滑る床の並びがあった。先ほどはぐれメタルが乗り込んだ近くの滑る床の上に、リュカたちはうっかり足を踏み入れてしまった。侵入者を感知し、滑る床は自ずと魔力を発し始める。リュカとビアンカ、プックルは揃って、先に行ってしまったはぐれメタルを追いかけるように、ティミーたちが立つ場所とは反対側へと進み始めてしまった。みるみるその姿が遠くなり、あっという間に角を越えたところで姿を消してしまったリュカたちと、それをふらふらと追いかけて滑る床に乗り込んだムーンフェイスの姿を見送り、ティミーたちは完全に父たちとはぐれてしまったのだと、顔から血の気が引くのを感じていた。
見えなくなってしまったものの、同じように滑る床に乗り込んでしまえば行きつく先は同じだと、アンクルが素早く双子を両脇に抱えて飛ぼうとする。ピエールが床に弾みをつけて跳躍し、アンクルの背に乗ろうとしたところで、ムーンフェイスが何事か言葉を発した。ティミーたちにはムーンフェイスが何を言っているのかは分からない。魔物が発する言葉にも聞こえず、もしかしたらこの魔物のように見える生き物たちは地上世界でも魔界でもなく、どこか異なる次元から現れたような者たちなのかも知れない、と思えるほどに、彼らについては何も理解が及ばなかった。
宙に飛び上がったアンクルのそのまた頭上に、黒い空間が開くのを、ピエールは見たくもないのに目にしてしまった。それが一体何なのかなど、何も分からないが、ただその黒い空間から幾つもの輝く光が覗いているのを目にして、感じてはいけない絶望を感じてしまった。誰もが魔力が底を尽いたような状態で、頭上広く覆う圧倒的な力に対抗できるわけがない。
「アンクル! 上から来るぞ! 避けろ!」
「なんだぁ?」
一言交わす間に、黒い空間から迫りくる無数の輝く光は、そこにまで迫っていた。逃げられないと感じたピエールはアンクルの肩にしっかりとへばりついたまま、剣を構える。ティミーとポピーを両脇に抱えながら頭上を見上げたアンクルと、同じように上を見上げるティミーとポピーもまた、予想だにできないその状況に、ただ息を呑む。
パルプンテという謎の呪文の効果というのは一体どこまで及ぶものなのか、頭上から降り注ぐ流星など一体誰が想定できるというのか、しかもここは洞窟内で頭上に空が広がっているわけではない。何もかもが滅茶苦茶だと、ピエールは剣と盾を構え、降り注ぐ流星を、まるで投げられた石つぶてをすべて叩き落す勢いで弾き返そうとする。しかしそんなことで対抗できるわけもなく、降り注ぐ流星の勢いに負け、双子を両脇に抱えたアンクルも、その肩に立っていたピエールも、ただただ床へと倒され、為す術もなく瀕死の重傷を負わされる。アンクルがどうにか己の身体を以てして守っていたティミーとポピーもまた、守ってくれていたはずのアンクルの重さに耐えかねるように、床の上で二人揃って気絶してしまった。
床の上で動かなくなってしまった者たちの傍らで、ムーンフェイスらもまた同じように床に倒れている。訳の分からない流星による身体への損傷はティミーたちと同様に酷く、立ち上がれないようだった。しかしその状況においても、四体は互いに一つ目を見合わせ、同時に首を傾げる。
アンクルのすぐ傍に倒れているピエールは辛うじて少し動ける状態ではあったが、魔力が底を尽いている状態では誰の怪我も回復しようがない。あわよくばこのまま動かず、敵となるムーンフェイスらが興味を失ってどこかへ立ち去ってくれることを望みつつ、じっと耐えようかとも考える。
しかしその横で、アンクルが装備する力の盾の回復力を迷わず発動させた。この危険極まりない生物からどうにか逃げなくてはと、己の体力を回復し再び双子を両脇に抱えようとする。ティミーもポピーもぐったりとして動かず、その姿を見たピエールが思わず口から出そうになる悲鳴をどうにか飲み込む。
そこでまた、他のムーンフェイスが何事かを口にする声が聞こえた。聞こえる声はたとえて言うならば、キラーマシンのロビンが発するような機械音に近い。到底生き物から自然と発せられるような音ではなく、生き物からそんな音が出るということ事態そのものに、ピエールもアンクルも総毛立つような感覚に陥る。
「……あ、あれ……?」
「……何? 何かあったの……?」
アンクルが両脇に抱えていたティミーとポピーが、何事もなかったかのように目を覚まし、辺りをキョロキョロと見渡している。訳の分からない流星の影響を受け、皆が揃って瀕死の状態にあったにも関わらず、双子たちだけではなく、アンクルも、傍にいるピエールもいつの間にか負っていた傷が回復している。魔力は完全に底を尽き、何も呪文を唱えられる状況ではなかったはずだ。ティミーがベホマラーの呪文を唱えたわけではない。ピエールも回復呪文を唱えていない。アンクルは己の怪我に力の盾での回復を試みたものの、力の盾にこれほどの高い治癒力はない。
夢でも見ているのかと思う状況だった。パルプンテという不可思議極まりない呪文を使うことのできるリュカにも、恐らく想像も及ばない影響が出ているに違いない。つい先ほどまで息も絶え絶えの状況だったアンクルたちは、今やかすり傷一つついていないような状態にまで完全回復を遂げていた。落ち着いて辺りを見れば、先ほど間違いなく宙に黒い穴が開き、そこから無数の流星が降り注いできたはずだったが、辺りの床もまた傷一つなく、降り注いだはずの流星の影響などどこにも見当たらなかった。おまけに床に倒れていた四体のムーンフェイスらも起き上がり、己らの身体が回復していることを確かめるように四肢を動かして試している。この状況を目にすれば、見た景色は夢だったか、それともムーンフェイスが無意識にも唱えているパルプンテの呪文が現実に流星を異空間から呼びこんだ後に、ティミーたちのような生命体の傷を治すだけではなく、辺りに及んだ損傷までをも直してしまったということになる。どちらが信じられるかと言えば、これは夢だと言われた方が信じることができると言うものだ。
「キツネにつままれたような気分です……」
「どういうことだよ、それ……」
「お話ができる相手じゃなさそうよね……」
「とにかくお父さん達を追いかけないと!」
しかし四方を取り囲まれているような状況で、ティミーたちは危険を冒してこの不思議生物と対峙し、その隙間を抜けることができない。不運にも今は皆の魔力が底を尽いてしまっている状態だ。いっそ夢ならば魔力も回復していていいはずだったが、どうやら夢ではなかったらしく、彼らは些細な呪文も唱えられる状況ではなかった。
そんな状況の中で、残りの一体のムーンフェイスが機械音のような声で何事かを発した。その音を聞くだけで、ティミーたちは悪寒を覚えるようになってしまった。自身らにとって良いことが起こる可能性もあるようだが、悪いことが起こった時にはあまりにも内容が酷いのではないかと、ただ恐怖と共に身構えることしかできない。
ティミーたちの頭上に再び、不穏な気配が立ち込めた。恐る恐る上を見れば、そこには先ほども見た黒い空間が口を広げ始めていた。あれが何なのか、誰にも、恐らくムーンフェイス自身にも分かっていない。しかし紛れもなく異空間への扉が開き、そこから再び流星が降り注ぐのだろうかと、ティミーたちは出来得る限り身を寄せ合って、互いの被害を最小限にしようと努める。
しかしその空間から顔を覗かせたのは輝く無数の星々ではなかった。開く黒い空間から、更に真っ黒な何かがこちらを覗いている。覗いているとは言っても、目があるわけではない。しかし確かに“見られている感覚”があった。黒い空間そのものが目であるような気もするし、黒い空間に目の一部が入り込んでいるだけとも思えた。なんにせよ、それは言うなれば、「とてつもなくおそろしいもの」だった。
この時に初めてムーンフェイスの悲鳴を聞いた。それもまた激しい機械音のような声だった。「とてつもなくおそろしいもの」は見る者それぞれにとっての恐ろしいものだった。ムーンフェイスにとってそれが何だったのかは分からない。しかしティミーたちにとってもまた、それぞれに恐ろしいと思えるものが目の前に現れたのだ。
ティミーの目には、黒竜へと姿を変えた父リュカが自身を敵として襲い掛かって来る光景が映っていた。最も信頼している父が息子である自分を忘れ、ただ目の前の勇者である少年へとまるで悪しき魔物の如く襲い掛かって来る情景が目の前に迫り、ティミーは現実にも見えるようなその情景に激しく身を震わせた。ティミーは勇者としての自負を持ち、どんな敵にも果敢に立ち向かっていく勇気を備えている。しかし誰よりも頼りにしている父に裏切られ、敵に寝返ったリュカが黒竜となって勇者である息子と対峙することがあれば、ティミーにとってそれほどこの世で恐ろしいと感じることはない。
「お……お父さん……」
父に対して剣を振るうことなどできないと、ティミーは手にしていた天空の剣を床に落とした。あまりの無情な光景に、ティミーの全身から力が抜けていく。すぐ近くでは妹のポピーが金切り声を上げて、凡そ冷静さを失わない彼女にしては珍しく取り乱したように、どこかへと駆け出してしまった。何かから逃げるようなその行動に、彼女の見る“とてつもなくおそろしいもの”は、彼女を追いかけて来るなにものかだったようだ。
そしてポピーは完全に取り乱した様子で、迂闊にも滑る床へと足を踏み入れてしまった。ティミーも何の躊躇もなく襲い掛かって来る黒竜から逃げるように駆け出し、ポピーに続いて滑る床の上へと飛び込んだ。彼らの乗り込んだ滑る床の行く先に、父母とプックルはいない。全く別の方向へ向かうと見られる滑る床は、ただ機械的につつつーっと双子を運び始めた。そして彼ら二人を追うように、アンクルも彼自身に見えている“とてつもなくおそろしいもの”から逃げるように、半ばその場で気絶しかけているピエールをむんずと掴むと、そのまま滑る床の上に文字通り飛び込んでいった。