2017/12/03
古代呪文の復活
ふた月ほど前に出発した時と、町の様子はさほど変わりはなかった。相変わらず入り組んだ道が町全体に走り、道の途中で迷って戸惑っている旅人の姿もある。しかしリュカ達がルラフェンの町を初めて訪れた時よりに比べ、旅人の数はかなり減っていた。恐らくポートセルミとビスタ港での船の往来がまだ復活していないのだろう。
季節も確実に進んでいた。リュカ達がルラフェンの町を出て、ルラムーン草を探しに西へ向かった時は、冬真っ盛りの季節だった。ルラムーン草を探しに行く間に、何度となく雪に降られ、思うように旅程を進めることができない日もままあった。あれからふた月ほどが経ち、ルラフェンの町にはどことなく春の雰囲気が漂い始めている。それは道端に解けた雪だったり、民家の庭に植わる木に芽吹く蕾であったり、頬を撫でる風の優しさであったり、そこかしこに春の気配は感じられた。
町の人々がどことなく初春の温かさに浮かれ気味になっている中、リュカはげっそりした様子でマーリンの肩を借り、やっとの思いで歩いていた。ルラフェンの町を出て、ルラムーン草を見つけて持って帰るまで、もう少し早くに町に戻れるつもりでいた。
帰り道は少し短く済ませようと、リュカは行きには通らなかった大きな台地の上を通ってルラフェンの町に戻ることにした。しかしそれが失敗だった。確かに旅程を短くすることはできたが、そこにはパペットマンと呼ばれる人形の形をした魔物たちがわんさか棲みついていた。森林地帯である台地ではなく、行きに通って来た平地であれば魔物の群れを巻くこともできたのかもしれない。しかし、台地の上は馬車が通るのがやっとの森林が続いていて、追いかけてくる魔物の群れから逃げ切ることは不可能だった。
結果、目の前に現れる敵全てと戦うことになってしまった。魔法力を下げる踊りを踊るパペットマンの動きを見てはいけないと分かりつつも、相手を見ないで戦うこともできず、数日かけて森林地帯を進み切った後、リュカたち一行は皆、魔法力を切らしてしまっていた。唯一、魔法を使わないプックルと、馬車を引くパトリシアだけがパペットマンの不思議な踊りの影響を受けず、大きな白馬とキラーパンサーとで馬車を進めると言う、傍目には異様な光景がしばらく続くことになった。
「マーリンも疲れてるのに、ごめんね」
「わしは馬車で大方休んどったからの。お主はずっと出ずっぱりじゃったから、かなり消耗したじゃろ」
パペットマンの群れから逃れた後も、ルラフェンに戻る途中では、多くの魔物と遭遇した。まるでリュカが手にするルラムーン草が魔物を惹きつけているのではないかと思えるほど、行きと帰りでは魔物との遭遇率が違った。
そもそもルラフェンの町から西に向かう旅人はリュカ達を除いて他にいないほど、西の果てには何もなかった。リュカの持っている地図にも、特に町や村の印はなかったが、ルラムーン草という特殊な草が生える土地ということで、リュカはそこに集落があるのではと期待していたが、見事にそれは裏切られた。ルラムーン草の生える土地には、昔そこに人々が住んでいただろうという建物の残骸らしきものは見られたが、人の気配は皆無だった。
そんな何もない土地に向かうリュカ達に、魔物たちは目をつけていたに違いなかった。そう考えると、帰りの魔物との遭遇率にも頷けた。西に向かう時点で、リュカ達は多くの魔物の標的となっていたのだ。
「これで呪文が復活しなかったら、ショックだな」
「何としてでもあのジジイに復活させてもらわねばの」
春の兆しが見える町だが、まだまだ日が落ちるのは早い。夕闇が迫る頃、マーリンが慣れた様子で宿のチェックインを済ませ、リュカと共に宿の一室に向かった。締め切られた部屋の窓は曇り、部屋が外よりもいくらか温かいことに、リュカはほっと息をついて、ベッドに身体を投げ出した。
「ああ、疲れた。もう一歩も動けない」
長旅に汚れた顔を枕に埋め、リュカは靴も脱がないまま気を失うようにそのまま眠ってしまった。マーリンはやれやれと言った表情で、せめて靴だけでもと、寝ているリュカの足から靴を乱暴にはぎとった。
「身体だけは一人前に大人じゃが、まだまだ子供だのう」
百年以上も生きるマーリンから見れば、リュカはまだ赤子のようなものだ。リュカの靴をベッドの下に置くと、マーリンはリュカの道具袋からルラムーン草を取り出し、テーブルの水差しの中に入れた。夜にしか咲かないルラムーン草の花は今、閉じられている。東から迫る夕闇には、じきに満月が現れるだろう。満月にしか花を咲かせないルラムーン草は水差しの水に根を下ろし、今か今かと花を咲かせる時を待っているようだ。
「はて、花が咲いている時にしか呪文復活に使えないとなると、今晩、あのジジイのところに持って行ってやらにゃならん」
ルラムーン草があればそれで良いのか、はたまたその光が必要となると、今晩の満月の時を逃したら、また半月と待たなければならない。ベネットの家で見てきた書物にはそこまで詳しいことは書かれていなかったと、マーリンは後でリュカを起こして、今日中にベネットの家で向かおうと一人考えていた。
「こんな夜中に行っても大丈夫なのかな」
「あの研究ジジイに昼も夜もないと思うぞ。いつ行ってもおんなじことじゃ」
リュカ達の頭上には星空が広がり、満月の明かりが煌々とルラフェンの町を照らしている。町は寝静まり、外を出歩く者はリュカ達の他にはほとんどいない。たまにすれ違う町の人は、酒に酔っぱらっていて、果たしてリュカ達とすれ違ったことに気付いたかどうかも疑わしい有様だ。その他にすれ違う人はおらず、いるのは夜の散歩を楽しむ猫くらいだ。そのおかげで、マーリンが魔物であると言うことを気遣うこともなく、リュカはほとんど周りに警戒することもなく、町の中を歩いていた。
ベネットの家の煙突からは、相変わらずおかしな色の煙が出ている。煌々と照り輝く満月を時折紫色に染めるその煙に、リュカは不吉な物を見た気がして顔をしかめた。
あまり意味がないと分かりつつも、とりあえずベネットの家の扉をノックする。案の定、中から返事はない。リュカはこの夜中にも鍵のかかっていない扉をそっと開けると、中に向かって呼びかけた。
「ベネットさん、いますか?」
ベネットの家の周囲に民家はなく、リュカは小声にする必要もないと、普通の声でベネットを呼んだ。しかし家の中からは何の反応もなく、リュカはマーリンと顔を見合わせて首を傾げた。
「いないのかな」
「まだ寝ておるんじゃないかのう」
「えぇ、だって僕たちがこの町を出て二ヶ月も経ってるんだよ。その間ずっと寝てるって、それって……」
「ああいう奇特な研究者は何をやらかすか分からんぞ。自分の作った妙な薬で、眠り続けるということもあり得る話じゃ」
「そんな薬、あるの?」
「そんなこと、わしゃ知らん」
発言の責任など一切負わないマーリンだが、リュカは「それもある話かも」と、素直に部屋の奥へと入り、二階に上がる梯子を上って行った。まさか二ヶ月間ずっと眠りっぱなしということもないだろうが、リュカが二階に見たのは、二ヶ月前にこの部屋を出た時と同じ格好で眠るベネットの姿だった。信じられないその光景に、リュカは思わずベネットの息があるかどうか、手で確かめた。
「良かった、生きてる……。ベネットさん、起きてください。ルラムーン草を取ってきましたよ」
「なんと、ルラムーン草を持ってきたじゃと!?」
まるで起きていたのではないかと思うほどのベネットの反応の速さに、リュカは身体をびくつかせて、声も出せない状態だった。一方のベネットは、老人とは思えぬ身軽さでベッドの上に身体を起こし、骨ばった足をローブの下に覗かせながら、裸足の足をベッドの脇にぶらぶらさせた。リュカの呼びかけで、一瞬にして完全に起きたようだ。
「どこじゃ、どこにある?」
ベネットの必死の形相に、リュカは慌てて道具袋からルラムーン草を取り出した。道具袋の中では少ししおれていたルラムーン草が、リュカの手の中で葉も茎も生気を取り戻し、ゆっくりと花を咲かせた。月明かりが入るだけだったベネットの家の中に、ルラムーン草の明かりが灯り、辺りに柔らかい黄色の明かりが広がった。その一部始終を、ベネットは瞬きもせずに見守っていた。
「これがルラムーン草か。あっぱれあっぱれ! 早速実権を再開することにしようぞ!」
老人のふりをしているだけなのではと思えるほど、ベネットは身軽にベッドから飛び起き、リュカからルラムーン草をひったくるように奪い、口にくわえながら梯子をタタタッと下りて行ってしまった。呆気に取られるリュカと、溜め息をついているマーリンがその後を追って梯子を下りる。
ベネットは家のど真ん中に構えてる大壺に立てかけた梯子を上ると、中の様子を覗きこんだ。煙にまみれるベネットは、それだけで病気にでもなってしまうのではないかと思えるほど咳き込んだ。しかしそれもいつものことらしく、ローブの中から使い古した一冊の小さな本を取り出すと、咳の合間合間にぶつぶつと独り言のような言葉を落として行く。
大壺の下まで来たリュカとマーリンは、ただそんなベネットのを下から見守るだけだ。ひたすらぶつぶつと呟くベネットは、既にリュカとマーリンの存在を忘れ、ただ大事そうに片手にルラムーン草を握りしめている。その力に、ルラムーン草が徐々にしおれるのを見たリュカは、慌ててベネットに向かって大声で呼びかけた。
「あの、ベネットさん、ルラムーン草が……」
「ええい、話しかけるでない! よーし今じゃ! ここでルラムーン草を……」
リュカ達が二ヶ月という期間をかけて苦労して手に入れたルラムーン草が、ベネットの手であっさりと大壺の中に投げ入れられた。リュカもマーリンも思わず「あっ」と声を上げたが、その直後にはそんな二人の声がかき消されるほどの轟音が家中に響いた。大壺がガタガタと激しく揺れ、立てかけられている梯子もそれに合わせて危なっかしく揺れる。梯子の上にいるベネットはそんな揺れなどお構いなしに大壺の中を必死に覗きこんでいるが、その下でリュカは必死になって梯子を体重をかけて抑えていた。揺れは徐々に激しくなり、マーリンは「これはマズイ」とぽつりと言うと、リュカを置いて部屋の隅に逃げてしまった。
「ベネットさん、下りてください!」
長年夢見てきた呪文復活の場面をこの目で見ようと必死になるベネットに、リュカの大声は届かない。リュカは上を見上げながら、自分も梯子を上ってベネットを下ろそうかとも考えた。しかし梯子を抑える手を離した瞬間、ベネットは梯子もろとも吹っ飛んでしまうと、結局梯子を抑えつけることしかできなかった。
家のど真ん中に置かれる大壺の揺れは、家全体に及び、そのうちベネットの古い家全体が揺れ出した。そこかしこでベネットの研究材料や書物が落ちたり雪崩を起こす中、リュカはもう上を見上げることもできずに、ただただ目の前の梯子にしがみつくように、梯子を掴む両手に力を込めていた。
直後、今までに聞いたこともないような爆発音が、リュカの頭上で鳴り響いた。耳をつんざくとはこのことかと思えるほどの、気を失いそうなほどの爆発音だった。その後、目の前が真っ白になり、気が付いた時にはリュカは床に倒れていた。
顔を起こすと、目の前にあった梯子がなかった。腹這いの状態で、慌てて辺りを見渡すと、ベネットの上っていた梯子が屋根に突き刺さっていた。信じられない思いで、リュカはその梯子をぽかんと見上げると、すぐに我に返ってベネットの姿を探した。
部屋の隅に、二人の老人が折り重なるようにして倒れていた。上から降って来たベネットを、図らずもマーリンが受けとめた格好になったようだ。大爆発で家の屋根に大きな穴があき、そこから眩しいほどの満月の明かりが届く。月明かりに照らし出されるマーリンとベネットの倒れるところに、リュカは周りに散らばる瓦礫をかき分けながら進んだ。
「二人とも、大丈夫?」
「リュカよ、とりあえずこのジジイをどけてくれい。苦しくて仕方がない」
下敷きになったマーリンが、苦しそうな声でリュカに訴えた。リュカが慎重にベネットの身体を持ち上げると、マーリンがローブを手ではたきながら起き出した。
「マーリン、怪我は?」
「ワシは平気じゃ。そっちのジジイの方が大変じゃろ。あの爆発をまともに食らったんじゃなかろうか」
マーリンの言葉に、リュカは持ち上げたベネットの様子を恐る恐る見た。するとベネットは何事もなかったかのように、リュカに持ち上げられながら顎に手を当て、唸っている。
「ふむ……。おかしいのう……。わしの考えでは今のでルーラという昔の呪文が蘇るはずなんじゃが……」
爆発の影響で顔を真っ黒にし、髪も焼け焦げてしまったベネットだが、何故だか身体はピンピンしているようだ。もしかしたらベネットは人間ではなくて魔物なのではないかと、リュカはしばし疑いの目をベネットに向けた。
「お前さん、呪文が使えるようになっていないか、ちと試してくれんか」
「え、僕がですか? 試すってどうやって……」
「そんなこと、わしは知らん。なんせわしは呪文が使えんからのう」
ベネットはあくまでも呪文研究者であり、実際に呪文を使うことはできないらしい。呪文が使えないだけに、その神秘の力に惹きつけられ、こうして呪文の研究を続けているのかも知れない。
「ルーラという古代呪文は、遥か遠くの場所まで一瞬で移動できるという呪文なんじゃろ?」
呪文の復活を楽しみにしていたもう一人の老人マーリンが、期待感たっぷりの雰囲気でベネットにそう問いかけた。
「そうじゃ。この呪文を使うことができれば、それまで行った場所をじっと思い浮かべるだけで、その地へと移動できるはずじゃ」
「リュカよ、お主、ラインハットへ行きたいと言っておったではないか。その景色を思い浮かべてみるんじゃ」
「ラインハットの景色……」
マーリンに言われ、リュカは目を瞑って数ヶ月前に旅立ったラインハットの城下町や城の中、水路、厨房、王室など、様々な場所を思い浮かべた。しかしどこもぼんやりと瞼の裏に映るだけで、今一つ記憶がはっきりとしない。一度目を開け、深呼吸をしてから、リュカは再び目を瞑った。
小さい頃のプックルの後ろ姿が見えた。プックルがいるのは、ラインハットの城下町の入り口近くだ。石畳の上に立つ小さなプックルが、赤い尾を揺らしながら、後ろのリュカを振り返る。そしてまた前を向くと、ついてこいと言わんばかりの雰囲気で城下町の出口に向かって歩き始めた。
リュカを置いて行ってしまった父パパスを追いかける時の記憶だった。どうして数ヶ月前の記憶ではなく、十年以上も前の記憶が鮮明に蘇ったのかは分からない。一瞬、その記憶から逃げ出したくなったリュカだが、目を開けるのを堪え、瞼の裏に映るプックルの後ろ姿を素直に追いかけ始めた。
「今の僕なら、父さんを助けられるのに……」
小さなリュカの独り言はマーリンにもベネットにも届かないまま、散らかった部屋の床に落ちた。瞼の裏に映る記憶がラインハットの城下町を出た瞬間、リュカの身体がまるでルラムーン草のような仄かな黄色に光り出した。
妙な浮遊感に包まれたリュカは、思わず目を開けた。ラインハットの城下町の景色は消え、代わりに月明かりに照らされるベネットの家の中の様子が眼下に広がった。二人の老人が、同じように口をぽかんと開けながら、リュカを見上げている。先ほどの大爆発で開いてしまった屋根からも飛び出し、リュカの視界にルラフェンの町の様子が入る。真夜中の時間帯だと言うのに、町の家の明かりがいくつもついていた。恐らく先ほどの轟音で、町の人々が目覚めてしまったのだろう。
「これって、ルーラ?」
「リュカよ、無事に戻ってくるんじゃぞ」
マーリンが一言そう声をかけるなり、リュカの身体はまるで放たれた矢のように、一直線に東に向かって飛んで行った。爆発で開いた屋根からは、美しい白い月と周りを彩る白や赤や青の星だけが覗く。
「おお! おお! やったぞ! やったぞ! よし、この調子で次の呪文に挑戦することにしようぞ!」
「何? 次の呪文じゃと? 次はどんな呪文を復活させる気じゃ」
呪文復活に成功し、興奮しきりのベネットに、マーリンがまるで同じような様子で話しかける。二人の老人が二階の部屋へ上る梯子に手をかける頃、リュカの身体は既にルラフェンの東の森を過ぎていた。
周りの景色が目にも留まらぬ速さで跳び退って行く。ルラフェンの東に広がる森の上を風のように過ぎ去ると、雪の残る平地の上を抜け、あっという間に海の景色が眼下に広がった。月夜にきらきらと光る海は、まるで一面の星空のようだった。
「リレミトの呪文と似てるかも」
ヘンリーとサンタローズの村の洞窟に入り、洞窟から脱出する時に使った呪文がリレミトという移動呪文だった。あの時も呪文を唱えた瞬間、ヘンリーと共に洞窟内を飛びすさぶように移動し、あっという間に村へ戻れた。その時の浮遊感に似ていたが、違うのは風を全く感じないことだった。とてつもない速さで移動していると言うのに、リュカは普段通り呼吸をすることができるのだ。まるで自分の周りだけ何かに守られているかのような、見えない防御壁があるようだった。
目の前に鳥の集団が迫っても、ルーラの呪文の効果は鳥たちを巧みに避けて行く。凄まじい勢いで迫る空を飛ぶ人間に、鳥たちが驚いて不意に散り散りに飛んで行ってしまっても、リュカは鳥にぶつかることはなかった。地形に対しても、呪文の効果は現れた。行く先に森があれば、森の上を飛び、高い山が目の前に迫っても、山の斜面に沿って上って行ったり、緩やかに下りて行ったりと、決して何かにぶつかることはなかった。
海の上を進んでいる時、天気が急変した。リュカの身体は暗雲に飲みこまれ、目の前の景色は全てなくなってしまった。突然視界が遮られたことに一瞬慌てたが、その気持ちが呪文の効果に通じたのか、リュカの身体は暗雲の下に抜け、再び海の上に出られた。どうやらルーラという移動呪文は、呪文の途中でも何かを念じることで、さらに効果を追加できるようだ。
雨が止んだかと思ったら、今度は朝が訪れた。進む方角から昇る太陽は、水平線からみるみる姿を現す。東に矢のように進むリュカは、自ら朝に近づいているのだ。眩しさに目を瞑ろうとした時、再び陸地が見え、あっという間に海を抜けてしまった。平地を進んで行くと、眼下に人間の姿が見えた。多くの人々で賑わう町のようだ。その町で最も大きな宿屋の建物を見て、リュカは「アルカパだ!」と叫んだ瞬間、もうアルカパの町を過ぎてしまっていた。景色を楽しむ間を与えないルーラの呪文に、リュカは次に見えるかも知れないサンタローズの村の景色に備えて、よく目を凝らして前を見つめていた。しかし村の上は通り過ぎなかったのか、気付いた時にはもうラインハットの関所が建つ大きな河を越えていた。
ルラフェンの町を出て、ずっと同じ速さで進むリュカは、ふとあることに気がついた。
「これって、下りる時はどうするんだろう」
口にした瞬間、リュカは自分の顔が青ざめるのが分かった。今の速さのままでは、どこへ下りるにしても無事ではいられない。地面に叩きつけられるのも、岩山に叩きつけられるのも、この速さでは大した違いではない。考えてもどうしようもないと分かりながらも、リュカはどうにか無事に下りられる体勢を想像し、頭の中で実践した。結果、身体を丸めておくのが最良だと、リュカは両膝を抱えて身体を丸め、頭を両膝の内側に折り込むように入れた。
すると今度は景色が見えず、不安が更に増した。リュカは恐る恐る頭を上げ、周りの景色を窺い見ると、懐かしいラインハット城の姿が目に飛び込んできた。城の周りには城下町が広がり、昼前の太陽の光を浴びるその光景に明るい雰囲気を感じた。思わず笑顔になるリュカだが、呪文の効果で急に身体が止まるのを感じ、一瞬息が止まった。
宙に留まったリュカの姿を見た者はいないようだった。たとえ見たとしても、それは一瞬で、何かの見間違いと思ったに違いなかった。宙に留まったリュカの身体は、次の瞬間、地面に向かってスーッと降りて行き、まるで背中に羽が生えたかのように軽やかに地面に降り立つことができた。
リュカの目の前には昼間のラインハット城下町が広がっていた。ルラフェンの町を出た時は真夜中の時間帯で、ベネットの家の屋根からは満月が覗いていた。ルーラでラインハットまで猛スピードで移動して行くうちに、月は西に沈み、東の空から太陽が昇り、あっという間に昼になってしまった。みるみる時間が過ぎて行くことに身体がついて行けず、リュカはまだ頭がぼんやりした状態で、夢の中でラインハット城を見ているような気分だった。
「ルーラを唱えた夢を見てるのかな」
リュカの独り言に応えてくれる仲間はいない。先ほどまで隣にいたマーリンは、今ルラフェンの町でベネットと古代呪文が記載されている書物に目を向けている。外にいると言うのに、スラりんもピエールもガンドフもプックルも、馬車もない。たった一人でラインハット城を前にしている現実に、リュカはまだ信じられない思いで周りの景色を眺めながらも、城下町に向かって歩き始めていた。
「夢だったら、多分、あの時の記憶が……」
ラインハット城下町での記憶。それは、幼い頃に父に連れられ、初めてこの地を訪れた時の記憶。連れ去られたヘンリーを追いかけるために、父にこの城下町に置いて行かれた時の記憶。大きな期待と大きな不安が混在する記憶は、リュカの身体に染みついている。ルーラの呪文を念じた時、頭に思い描いたのが当時の記憶だった。
ラインハット城の城門へと真っ直ぐに伸びる大通りを、かつて父と共に歩いた。初めてお城の中に入れるとあって、リュカは当時興奮気味に城下町を見渡していた。その時と同じように、リュカは城下町を眺めた。
生活感漂う町の人々の雰囲気は、かつてのものとは違った。当時の町の人々の雰囲気がどうだったか、はっきりとは思い出せないが、それでも今リュカが目の前にしている町の雰囲気は、どこか華やいでいる。町の人々の表情が明るく、皆上を向いて歩いている。そのことに気付いたリュカは、当時のラインハットの人々が、既に国を恐れていたのかもしれないと思い至った。まだヘンリーの父である前王が存命だった頃、ヘンリーが城の中で孤独だった頃、このラインハット城下町は国の異変に既に気がついていたのかも知れなかった。
大通りを歩いていると、昼間から堂々と酒を飲み、赤ら顔でふらふらと歩いてくる男がいる。町の人々もその男を避けて通るが、男は特に迷惑な行動をするわけでもなく、ただ気分良く酒を飲んでいるだけのようだ。
「ヘンリー様が帰って以来、この国はいいことだらけだ。ありがてえこったなぁ!」
男の大声に、リュカは目が覚めた思いがした。ラインハット城下町の大通りを、まだ子供の頃の記憶のまま歩いていたところに、酒に酔った男が現実を見せてくれた。今、目の前にしているラインハット城には、十余年の時を共に過ごしたヘンリーが戻っている。
そう思った瞬間、どこかぼんやりと見えていたラインハット城の姿が、はっきりとリュカの目に映り込んだ。ルーラという古代呪文を使ってルラフェンの町からここまで、間違いなく飛んできたのだ。リュカは大通りを歩く酒飲みの男に近づくと、両手を握って「ありがとうございます」と礼を述べ、ヘンリーのいるラインハット城へと足を速めた。男は風にように過ぎ去ってしまった旅人の後ろ姿を、ぽかんと見つめていた。
城の前には大きな立て札がある。古くから立てられているその立て札の近くに、老人が一人、ラインハットの城を見上げながら立っていた。物思いに耽るような老人の後ろ姿に、リュカは思わず「どうしたんですか?」と話しかけていた。
「羨ましいのう……」
「え?」
ほうと溜め息をつく老人は、まるで恋煩いをしているような雰囲気さえ漂っていた。しかしその雰囲気に気付かないリュカは、ただ不思議そうに聞き返すだけだ。
「ヘンリー様の奥様は本当におやさしい人じゃ! わしもああいう人と結婚したかったのう。もう遅いけど……」
老人の言葉に、リュカはルラフェンで聞いた噂を思い出した。ヘンリーが結婚したという噂が町に流れていたが、リュカはどうにもその噂を信じられなかった。しかしラインハット城を目の前にして、ラインハット城下町の人間である老人からそんな言葉を聞けば、ヘンリーが結婚したと言うのはどうやら事実のようだと、リュカは心がふわふわ浮くような感覚を得た。
「おじいさん、ヘンリーが結婚したって、本当なの?」
「ヘンリーじゃと!? 我が国の王子を呼び捨てにするなど、言語道断じゃ」
老人の怒り方が、どこかヘンリーを小さい頃から可愛がっていたような感じがして、リュカは思わず微笑んでしまった。幼い頃から孤独だったヘンリーは、実は昔から人々に愛されていたのかもしれない。
リュカは続けて老人に問いかけようと口を開いたが、出てくる言葉がなかった。何を聞いても、ヘンリー本人に会わなければ心の底から信じることはできないだろう。ラインハット城は目の前に見えている。ここまで来て、ヘンリーに会わずに帰ることなど考えられない。
「おじいさん、僕ちょっと確かめてきます」
「確かめる? 何をじゃ?」
「僕の友達が本当に結婚したのかどうか。会って話してきますね」
老人が首を傾げるのも構わず、リュカはラインハット城に向かって歩き出した。城へ続く大きな跳ね板橋を、町の人々が自由に行き来している。その大半は城の中の教会に通う人々なのだろう。まさかふらりと王室に立ち寄るような町の人はいないに違いない。城へ向かう一人の旅人の姿を見ながら、老人もまさかこの青年がラインハット王の兄と知り合いだとは思いも寄らなかった。
城を囲む大きな堀に架かる橋を渡り、リュカはラインハット城の城門を真っ直ぐに見た。城門脇には衛兵が立ち、一見物々しい雰囲気が漂うが、今も城の中から出てくる町の住人に笑顔で会釈をしている。かつてのラインハット国の影は、欠片も見えなかった。つい数ヶ月前まで魔物に乗っ取られていた国とは思えないほど、ラインハットはみるみる復興を遂げていた。
「まだ信じられないなぁ」
結婚など、リュカ自身とは縁遠いもので、それはヘンリーも同じだと思っていた。ラインハット復興に忙しくしていた彼が結婚するとなった経緯を、リュカは何一つ想像できなかった。弟のデールが結婚するという話の方が、よほど信じられる。
リュカはまだ夢見心地のような気分で、開かれたラインハット城へとゆっくり歩いて行った。