かつての栄光に縋る者ども

 

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まやかしの壁を、敵となる魔物らは抜けてこなかった。壁に激しく当たるような音は響くものの、その姿は壁に見えるものに阻まれ、リュカたちに追いつかない。明らかに魔力の込められたその壁は、この壁を通ろうとする者の意思を試すかのような術が施されているのだろうかと、振り返り壁を見るリュカはそう感じた。目の前でリュカたちが壁を通り抜けるように過ぎたというのに、後を追おうとする魔物らは、そんなことよりも目の前にある壁の存在を信じ、通り抜けられないでいる。
「妙なモンだな」
「ああ。でも油断は禁物だ。早いところ行こう」
「がう」
何かの拍子に敵の魔物らがこの壁を突破してこないとも限らないと、リュカは皆と共に広い通路の向こう側に広がる空間へと目を向ける。床も壁も平らな石で整えられ、まるで人間が生活するような建物だと感じる。このエビルマウンテンの中にはいくつもこのような整然とした大広間が存在したが、その中でもこの場所には特別にその空気を感じた。
広い通路を出たところには、真四角に区切られた部屋が広がっていた。しかしリュカたちの視界にはその先、真四角の部屋を抜けた先にもまた異なる空間が広がっている景色が見えている。先は非常に暗く、リュカには見通すことができなかったが、その隣でプックルがリュカに知らせるように一声小さく鳴いた。
「行き止まり?」
リュカがそう言うと同時くらいに、彼らの目の前にある空間が歪んだように見えた。途端に気配が濃くなる。歪んだ空間に姿を現したのは壁の向こう側に留められていたはずのエビルスピリッツだ。三体のエビルスピリッツはその者自身がこの状況を理解していない様子で、しばしその場で驚き戸惑うように留まっていた。自分の意思とは関係なく、何者かによってこの場所に召喚されたような状態なのだろう。
無暗に敵を攻撃することに気が進まないなどとは言っていられないと、リュカはすぐさま敵の群れに斬りかかった。敵が召喚された場所はあまりにも目と鼻の先で、逃げるにも危険な距離だった。またあの黒い霧を吐かれ、呪文を封じ込められてはたまらないと、リュカの素早い攻撃を見たプックルもピエールもそれに続く。不意打ちを食らった一体の敵は訳も分からないままにその場に倒れた。無理やりに合成された悪魔の魂の魔物が一体、それぞれの魂に分裂し、浄化されるかのように宙に消え去った。
残り二体に向かって、ティミーも剣を構える。アンクルもデーモンスピアを構えると、ビアンカとポピーが素早く二人に呪文を放つ。この敵を相手に時間をかけてはいられないと、バイキルトの呪文を受けて攻撃力を高めたティミーとアンクルが、それぞれ別の敵に向かって攻撃を仕掛けた。それに続いてすぐさまプックルとリュカが援護に入る。
敵も攻撃を仕掛けようと、後方で守りを失った二人の女子供へと飛びかかろうとする。しかし二人を守りに入るピエールがそれを阻む。ビアンカもポピーを守るためにと、マグマの杖の杖頭で目くらまし程の火花を散らす。それで十分だった。
皆の一斉攻撃に、残りのエビルスピリッツもその命が尽き、魔物の魂は宙に消え去った。だが、息つく暇もなく、再び目の前の空間に歪みが見られた。もしかしたらこの現象に終わりはないのかも知れないと、リュカは一度この場を離れることを決める。素早く辺りを見渡し、移動する場所を判断する。三方向、真四角の部屋から別の場所への通路が開けている。正面はプックルが行き止まりだと教えてくれた。右か左か、正しい方向がどちらか分からないということは、どちらでも良いということだ。
「みんな、左へ行くぞ!」
ただの直感に過ぎなかった。方向さえ決めてしまえば、後は動くだけだと、リュカたちは一斉に真四角に区切られた部屋の左へと駆け始める。リュカたちの走る床の下から、何やら不気味な声が聞こえたような気がした。真四角の部屋の一部、床に大きな穴が開いている。駆けながらのために十分には確認できなかったが、その穴は二か所、まるで何かの模様を象るかのように開いていた。
真四角の広い部屋を抜けたところには、まるで同じような真四角の広い部屋があった。一切の飾りもない殺風景な部屋だが、その中央にぼんやりと光る正方形の床が誰の目にも映った。このだだっ広い真四角の部屋の真ん中にあるものとしてはごく小さなもので、しかしそのぼんやりと光る床の景色を、誰もがどこかで見たような気がするというように見つめながら、走り近づいて行く。
今リュカたちが入り込んだ真四角の部屋には、通路と見られる場所が二か所ある。たった今リュカたちが通り抜けてきた箇所と、そこを抜けてきた場所から見て右手にも、一か所通路が開いている。他二方向にはただ何もない壁があるだけで、ここからどこかへ移動するのだとすれば、その道は自ずと決まった。が、その前に確かめなければならないと、リュカたちは一様に光る床に近づき、それを見下ろす。
「これは……天空城にあったものと似ている気がしますが」
ピエールの言葉に、リュカたちは各々驚きの表情を以て床を見つめた。天空城の動力部に、これと似たような床があったと誰もが記憶している。リュカたちは実際にあの不思議極まりない床の動力を操り、天空城を操ったことがある。神の力、竜神の力を以てすればあのような不思議極まりない装置を作ることも可能なのだろうと、自身を言い聞かせることもできたが、今彼らがそれと似たような床を目にしているのはエビルマウンテンの大魔王の居城内だ。
「がうっ!」
リュカたちを追ってきたエビルスピリッツが二体、同じ真四角の部屋へと入り込んできた。戦うべきか、若しくはもう一つ空いている通路へと逃げるべきか。リュカが一瞬逡巡する間に、ティミーがもう一つの方法があると言わんばかりに、元気いっぱいにその方法を試した。
「きっと何かが起こるに違いないよ!」
ティミーは純粋に、天空城にあった動力と同じような神力を信じたのだろう。何かが起こるという内容は、彼にとっては何か良いことが起こるに違いないという意味と同義だった。恐怖も躊躇いもなく、ティミーはぼんやりと光る床の上に飛び乗ると、それ自体が大きなボタンのように僅かに沈み、光が強まった。
真四角の部屋中に得体の知れない魔力が満ちるようで、リュカたちも、部屋に入り込んできたエビルスピリッツらもその場に固まり、身構えた。ゴゴゴゴという地鳴りのような音が辺りに響いたかと思えば、四角の広間の景色自体が歪んだように見えた。しかしそれは気のせいで、よろめくリュカたちを乗せたまま、この四角の広間自体が動き始めたのだ。バランスを失ったティミーが光る床から下りても尚、光は止まず動きも止まらず、先ほどリュカたちが抜けてきた空間に向けて四角い大広間が動いている。
部屋の動きと共に、入り込んできたエビルスピリッツとの距離が一気に縮まった。宙にあるエビルスピリッツは妙な景色の変わりように束の間その場に留まり様子を見ていたようだが、それが仇となった。近づいた敵に向かい、プックルが飛び込み、アンクルもまた槍を突き出す。エビルスピリッツは咄嗟に宙高くに逃げようとしたが、プックルの跳躍力はそれを逃がさず、アンクルは自らも宙を飛べる者として敵を追い、攻撃を加えた。しかし反撃に食らった噛みつき攻撃に、眠りに引きずり込まれる甘い息に、プックルとアンクルは食らった攻撃の痛みも麻痺するほどの眠気に襲われ、床に落ちてしまった。
間髪入れずに追撃をと、リュカとティミーが各々の敵へと剣を振るう。食らった攻撃による損傷にいくらか下方へと落ちていたエビルスピリッツを二人の剣が捉える。激しく斬りつけ、魔物らはその場に消え去ったが、またしても近くに歪んだ空間が生まれ、とめどなくエビルスピリッツが生み出される。
「リュカ、あっちに逃げましょう!」
この場で戦い続けていても終わりはないと、部屋の景色を見渡していたビアンカは指差し進む方向を知らせる。大きな真四角の部屋、リュカたちが進むべき方向は先ほどリュカたちが通過してきた場所しかなかった。不思議な部屋の移動により、もう一つ開けていたはずの道は閉ざされてしまっている。
幸いにも、新たに現れた敵は唯一の出口とは反対の場所に生まれていた。これを逃す手はないと、リュカはビアンカの言葉通りにすぐさま移動を始める。眠りから覚めたばかりのプックルとアンクルも強く頭を振って意識を確かに持ち、リュカの励ましも受け、皆と共に唯一の出入り口へと向かう。
扉も何もない出入り口は通路と等しく、大型の魔物でも出入り自由なほどには大きい。その向こう側に、リュカは既に魔物の気配を感じていた。それはポピーも同じで、見えない魔物を牽制する呪文を放つのは、ポピーの方が速かった。
詠唱にも時間はかからず、敵を牽制するにはちょうど良いと、ポピーは通路となる出入り口を前にイオの呪文を放っていた。爆発の向こう側に、三体のエビルスピリッツが軽く吹き飛んで行くのが見えた。敵らは不意打ちを食らったようなもので、何も構えていない状況で食らわせた爆発の威力は予想よりも大きかったようだ。
まるで同じ部屋に移動したかのような錯覚が起きるが、今度は向かって左側に別の出入り口となる暗がりが見えた。新たな部屋に移動したような気がしないが、その僅かにも異なる景色を見て、リュカは進むべき方向へと目を向ける。同時に、部屋の中央にはまたしてもぼんやりと光る床がある。しかしそこに向かえば、せっかくポピーが放ったイオの呪文のお陰で空いた敵との距離が縮まってしまう。ここは好機を逃すまいと、リュカたちは意を同じくしてすぐさま見える別の出入り口へと駆け始めた。
リュカたちを追って来た二体のエビルスピリッツと、イオの呪文によって遠ざけられていた三体のエビルスピリッツが各々、リュカたちを追いかけて来る。今のこの状況に、リュカの脳裏には危険な未来図が浮かび始めていた。一体この宙に唐突に現れる魔物らはどれほど存在しているのだろう。
今度もまた、ポピーが牽制のためのイオを放つ。彼女は確実に、まだ見えない隣の部屋にいるであろう魔物の気配を感じているのだった。またしてもイオの爆発に吹き飛んだ魔物が、今度は四体。ポピーの放つイオの爆発だけでは到底倒せない魔物エビルスピリッツらが吹き飛び、束の間リュカたちとの間を空けるが、今度は敵らが吹き飛んだ先に道が開けている。対峙せざるを得ない状況になったと判断したリュカが、最も近く宙に浮くエビルスピリッツに狙いを定め、それを先んじるようにプックルが疾走する。
前に立ちふさがる四体のみ相手にするのならまだ余裕はあった。しかしリュカたちを後から追ってくるエビルスピリッツが五体、計九体のエビルスピリッツらと対峙せねばならない状況に、ビアンカはアンクルに呼びかけ揃って呪文の構えを取る。
彼らが標的とするのは、後から追って来た五体のエビルスピリッツだ。息の合った二人は交わす言葉も特にないまま、ほぼ同時にベギラゴンの呪文を放ち、合わせることでその威力を増幅させた。しかし具現化され合成された悪魔の魂は炎に対する耐性でもあるのか、強烈な火炎の中にも沈むことなく、まるで炎の中から生まれたかの如く、アンクルとビアンカへと飛びかかってきた。
それを阻むのは、ポピーの放ったマヒャドの猛吹雪の力だった。強烈な火炎は猛吹雪に包まれ、五体のエビルスピリッツもまた猛吹雪の中へと放り込まれる。熱も冷気も、悪魔の魂には感じないのだと言うように、エビルスピリッツは五体揃って再び吹雪の中から生まれ出るように飛び出した。
「お父さん! お兄ちゃん!」
ポピーは火炎と吹雪の入り混じったその空間に生まれている水の気配に、父と兄を叫び呼んだ。彼女は初めからそれを想定していた。先ほど、兄ティミー自身が実際に目の前で見せてくれたことを、再び起こせばよいのだと辺りに漂う水の気配を肌に感じている。
娘に呼ばれたリュカが振り向き、すぐさま状況を理解するも、目の前で戦う一体のエビルスピリッツに行動を縛り付けられている状態だ。ティミーもまた同様、一体の敵と対峙しており、反応できない。
その時、リュカとティミーの間に入り込むように滑り込んできたピエールが、ドラゴンキラーを振りかざしつつも、もう片方の手で呪文を繰り出した。放ったイオラの呪文で、リュカとティミーと戦っていた三体のエビルスピリッツが吹き飛ぶ。合成された悪しき魂は爆発にも耐える力があるのだろうか、やはりそれほどの損傷もなく、ただ一時敵との距離を空けたに過ぎない。しかしその一時の対応で、リュカもティミーもすぐさま後ろを振り向き、互いに目すら合わせないままに為すべきことを為そうとする。
リュカが放つバギマの呪文に、宙に残る水の気配は舞い上がる。激しく渦巻く水蒸気の中に、ティミーは勇者たる力を生み出し、雲の中に稲光が見える。広いとは言え、真四角の部屋の中で放たれたギガデインの呪文は音も響きも凄まじく、九体のエビルスピリッツを一掃するのと同時に、リュカたちもまた部屋の中に木霊するような雷の音にしばし身体を硬直させてしまった。
「……私たちは、平気なのね。不思議だわ……」
ティミーがギガデインの呪文を放ったその時、ビアンカは敵の攻撃を食らっていた。床に座り込むビアンカの腕からも足からも血が滴り落ち、それはポピーを守ろうと身を挺した彼女が敵に噛みつかれたためだった。それでも必死に離さず、彼女は賢者の石を手にしていたが、敵が一掃されたのを目にした途端に力が抜けて床に座り込んだのだった。それでもどうにか皆の回復をと、ビアンカは賢者の石を掲げることもできないまま、ただ青の宝玉に片手を当てて強く祈った。亡きマーサの母としての思いが、ビアンカの母としての思いに乗り、大事な仲間たちを皆我が子の如く慈しむように、祈りは癒しの力となって皆へと広がった。
ビアンカの他の仲間たちも、ティミーが放ったギガデインの雷の餌食になっていた、はずだった。激しい電気の力が身体の中を駆け抜けたようにも感じた。しかし誰一人、ティミーの放ったギガデインによる損傷を負ってはいなかった。ティミーの放つ雷の呪文は、彼が勇者という存在に基づいた力に依るものだった。彼の生み出す雷には悪しき者を打倒するべしという勇者の強い意思が芯にあった。その意味で、ティミーの生み出す雷は、勇者ティミーそのものとも言っても間違いではない。
賢者の石の癒しの力により、リュカたちは凡そ負っていた傷を癒すことができた。そしてやはり、息つく間もなく目の前の宙が揺らぎ始めるのを見て、のんびりしている時は一切ないのだと再び身体に緊張が漲る。まだ母を心配しているポピーの意を汲むようにリュカはビアンカにベホマの呪文を唱える一方で、素早く動けるプックルが部屋の中央にあるぼんやりと光る床の上に飛び乗った。部屋は動かなかった。ただ静かにその場に留まるのみで、変化は見られない。
「がう?」
「ボクが乗っても……ダメだ、動かないみたいだね」
プックルに続いてティミーもまた床の上に乗り、数回ぴょんぴょんと跳ねてみたものの、やはり真四角の部屋に異常は見られない。しんと静まり返る部屋の中で唯一異常が見られるのは、今にも宙に姿を現わそうとする魔物の気配だ。
「リュカ殿、あちらへ行きますか」
「うん、そうしよう。みんな、あっちの通路へ」
走って移動した先にはまたしても同じような真四角の部屋が待ち構えていた。真ん中には同じように光る床、通じている道は通ってきた箇所ともう一つ。のんびりしていては再び敵との交戦になると、リュカはただ先に通じている通路へと足早に向かう。その途中に、物は試しと中央に位置する光る床を踏み込んでみる。僅かに沈む床だが、それで何かが起こるわけでもなく、辺りは静まり返ったままだ。ただ起こる変化と言えば、宙に揺らぎが見え、ここにも新たに魔物が召喚されようとしているということだけだった。
「ああ、もう、こんなの戦い切れないよ!」
そう言いながらティミーは手にする天空の剣の剣先を、宙に揺らぐ空間へと向ける。忌々しいと言わんばかりのティミーの表情に合わせて、天空の剣が神々しく光る。暗い真四角の部屋の中でぼんやりと光る中央の床のそれを凌ぐように、神の力を宿した天空の剣が勇者の意を受けて光り輝く。悪しき者に強く反応するその剣は、宙に揺らぐ悪しき空間に向けて凍てつく波動を放ち、その揺らぎごと消し去ってしまった。まさか召喚の源ごと消し去ってしまうとは思っていなかったティミー自身、起きたその現象に目をぱちくりとさせていた。
「やっぱり凄いのね、その剣って……」
「助かったよ、ティミー」
「い、いやあ、まさか消えちゃうなんて……」
「ラッキーだったな。んじゃ、今のうちに行こうぜ」
「お兄ちゃんってそういうところ、あるよね」
「王子の存在そのものが運をも惹きつけるのでしょう」
「がう」
交わす言葉もそこそこに、リュカたちは速やかに通路の向こうに今度こそは異なる空間が現れるであろうと期待しつつ、暗い通路を抜けて行った。



「ずっと同じところをぐるぐる回ってる気がするよ……」
「でも出口の場所が違ったりするから、同じじゃないはずよ……」
ティミーとポピーがそう言葉を交わすのは、全く同じ広さの同じ形の広間を、これまでに三度、四度と通り過ぎてきたからだ。その度に部屋の中央に位置するぼんやりと光る床の上を踏んづけてみたりもしたが、一度も反応を示さなかった。
言葉は交わすものの、どこにおいてものんびりはしていられない状況だった。まるでリュカたちの隙を窺うようにして、宙に揺らぎが現れ、魔物が出現しようとするのだ。その度にティミーが神の力を得た勇者として天空の剣から凍てつく波動を放ち、揺らぎを抑え込む。しかしそれで場が収まりきることはなく、少しすれば別の空間に歪みが生まれ、新たに魔物が出現しようとする。天空の剣に念じ、凍てつく波動を放つティミーにも当然のように疲れが生じてきていた。
「がう~」
ぼんやりと光る床が反応したのは、これまでに一度だけだった。先頭を行くプックルは半ば惰性の如く中央の床に近づくと、気のない様子で前足からその上に乗り込んだ。まさか動くとは思っていなかったプックルは、次の瞬間に体勢を崩し、彼には珍しく床に転んだ。不覚と言わんばかりにすぐに起き上がったプックルを含む一行を乗せた広間が、大きな音を立てながら動いて行く。
床の動きが止まると同時に、リュカたちは広間の景色が先ほどと変わったことに気付く。広間に入った時、リュカたちはプックルが床を踏む一方で既に先に向かうための出口を見据えていた。しかし今、その出口は塞がれてしまったのだ。移動するとすれば、つい今しがたリュカたちが進んできた通路を戻らねばならない。そう言う間にも、広間の中央近くに既に空間の歪みが生じている。
「戻ろう」
「そうするしかないものね。行きましょう」
急いで広間を出たリュカたちが見たのは、広間とは異なる景色だった。区切られた空間は広間と同じく広い真四角の形をしているものの、中央にぼんやりと光る床などなく、代わりにあるのは何かを象るような床の穴だ。そして数ある広間を抜けてきたリュカたちが一様に感じたのは、ここがどこの広間よりも一回り広いという感覚だった。見れば壁に囲まれたただのだだっ広い広間にも感じられたが、ここは恐らく広間と広間の間にある“空いている場所”ということにふと気づく。
「これって、パズルなのかな」
ポピーが暗がりの中にも景色を見渡しながらそう呟く。並ぶ魔像の通路を抜けて初めに入り込んだ場所にも、床には左右対称にも思われる形の穴が床に大きく開けられていた。思えばあの場所も、壁に囲まれた一つの広間などではなく、ただの空いている場所に過ぎなかったのかも知れない。
「魔物たちもよくこんなしかけ考えるなあ……」
絶えず天空の剣を手にしているティミーは、いささか疲れたような声でそう呟く。天空の剣を操り、凍てつく波動を放つことの疲れなど、ティミーにしか分からないことだ。そう言葉を零している間にも、またしてもリュカたちの目の前の空間に歪みが生じ、ティミーは己の役割を全うするべく天空の剣の剣先を歪みに向けようとする。
「私、こういうの苦手だから、ここはリュカが頑張ってね」
そう言うビアンカはリュカに進むべき道を催促する。彼女の言い方は、他人から見れば無責任にも思えるようなものだが、リュカの決めることには従い、一切の不平不満など述べないという彼女の気持ちの表れでもあり、同時に皆を代表するリュカへの絶大なる信頼の表現でもあった。後は任せたという意味の彼女の言葉を受け、リュカもまた皆のためにとすぐさま進むべき方向を決める。
進める方向は二か所。直進してその先に通路、それと右手にも同じような通路が見える。距離と進みやすさとから、リュカはそれ以上のことは考えないままに直進することを決めた。
「あの先は位置的にも、先ほど我々が通ってきた広間に当たる場所でしょう」
「え? あっ、そうか」
冷静にそう話すピエールに、リュカは言われた初めて気づいたと言うように返事をする。床に広く空く穴を右手に見る形でリュカたちは進もうと目を向ける。その穴の上方の空間が歪み、今にも魔物が出現しようとしている。そこへティミーが天空の剣を向けていたが、そこから放たれるはずの凍てつく波動は不発に終わった。疲労から、ティミーの集中力が切れてしまったのだ。
「大丈夫だ、ティミー。先に行こう」
「う、うん!」
「お疲れさん。オレが連れてってやるよ」
ひょいとティミーの身体を持ち上げ、もう片方にはバランスを保つかのようにポピーを持ち上げ、アンクルは先頭を駆けるプックルを追う。その後をビアンカ、リュカ、殿にピエールがつく。間もなく中空に現れる魔物が、逃げるリュカたちの姿を目にするなり追いかけて来るのは間違いない。
何度も同じような広間を通過してきたために、ピエールが言うように先ほど通過してきた広間と同様かどうかはリュカにはよく分からなかったが、先に見える通路が右側の壁に開けているのを見ると、恐らくそうに違いないとまでは思うことができた。そうだとすれば、このまま見える通路を進んだところで、来た道を戻るだけだと、リュカは中央にぼんやりと光る床の上を目指して駆ける。
勢いよく飛び乗った床は、例の如く僅かに沈み、この真四角の広間もまた音を立てて動き出す。動き出す方向は、先ほどリュカたちが通り抜けてきた穴の開いた床のあった場所だ。広間が動くのが速いために、リュカもまたプックルと同じように床から転げてしまった。皆もバランスを崩して床に膝を突いたり、しゃがみ込んだりと、揺れに備える。動いている方向にあったはずの、床に穴の開いた空間を埋めるように広間が動き切ったところで、辺りに静けさが戻った。リュカたちを追ってくるはずの魔物の姿は見られない。想像するに、どうやら移動した広間の壁と他の壁とに押しつぶされてしまったのかも知れないと、リュカのみならず他の仲間たちも一様に顔をしかめた。
真四角の広間は確かに動いたものの、前と同じ個所に通路がどうやら通じている。今リュカの立つ場所から見て、通ってきたばかりの通路が前方、それから左手にも通路。リュカは左手にある通路を見つめた。広間が移動したというのに、左手に通路が通じていると言うことに、リュカはその先はまだ足を踏み入れていない場所に違いないと、ぐるぐる終わらない迷路にはまり込むよりは未踏の地を行くべきだと、皆に指示を出す。その間にもまたもや宙に歪みが現れ、リュカたちを足止めしようとする。その歪みから魔物が現れる前に、リュカたちは素早く今いる広間を後にした。
通路を抜けた先には、目の錯覚を起こすような同じ真四角の広間があった。中央にはぼんやりと光る床、通じる路は左手に一つしか見当たらない。プックルが中央の床に飛び乗る。反応はなかった。それを見てからリュカたちは一つ所に留まってはいられないと、すぐさま左手に見える通路へと向かう。
同じ真四角の大広間に入るだけで頭がおかしくなりそうだと、そう思いつつもリュカたちは一斉に広間の様子を見渡す。中央にはぼんやりと光る床、通じる路は左右にそれぞれ一つ。後ろからは出現したであろう魔物の気配。またしてもプックルが中央の床に飛び乗る。すると今度は大広間は音を立てて動き出し、リュカたちを部屋ごと運んで行く。後ろから追ってくる魔物の気配も遠ざかっていく。
移動する大広間が止まる前から既に、リュカたちは部屋の中に流れ込んでくる悍ましいほどの邪気を嫌でも感じた。ポピーが苦し気に呻く背中を、ティミーが落ち着くようにと擦ってやる。何かの扉が開いたかのような雰囲気の変わりように、リュカは邪気が流れ込んでくる出口を目指し向かう。
そこに真四角の広間はなく、真四角の床が広がる空間と、これまでには見たこともない形の通路が、広く空いた床の穴の向こう側に見えていた。床に空く穴も黒く、その先に見える通路はそれ以上に闇の濃い雰囲気がありありと漂っている。自然では発生しないような冷気が、見える通路の向こう側から流れ込んでくる。それがリュカたちに、進むべき方向を示しているようだが、床に広く空いた穴を飛び越えて行かねばならない状況に、リュカは自然とちらりと仲間のアンクルを見る。
しかしやはりそうはさせまいとするエビルマウンテンの意思が働くように、リュカたちが飛び越えようとする大穴の上方に、宙の揺らぎが見えた。間もなくエビルスピリッツを放出するであろう宙に、ティミーは天空の剣の先を向けようとするが、同時にリュカが見る景色に別の手段があることを見い出した。
「あっちへ行こう!」
目指す闇の濃い出口とは対となるような位置に、リュカはもう一つの通路を見た。ここにはいくつもの仕掛け部屋が並んでおり、その形は今のところ全て同じものだった。形は真四角、広さも同じ、中央にはぼんやりと光る床、それを踏んで反応すれば広間全体が動き出す。リュカが頭の中に思い描く景色は、向かう先に広がる広間の中央の床を踏み、真四角の広間ごと動かしてあの大穴を塞いでしまうというものだった。上手く行くかどうかなど誰にも分からない。しかし大穴の上方に現れる宙の揺らぎから一体どれほどのエビルスピリッツが出て来るのか、どのようなタイミングで出て来るのかも、誰にも分からない。どちらに賭けるかだけの問題で、リュカの誘導には強さと責任が感じられ、皆は一も二もなくそれに乗った。
大穴の上に生まれる宙の揺らぎから離れるように、一行は進むべき方向とは反対側へと駆け出した。暗い入口を入れば、真四角の広間があり、中央にも予想通りのぼんやりと光る床があった。プックルが迷わず中央へと走り、床の上に飛び乗る。広間は重々しい音を立てて動き出す。リュカたちが走り込んできた入口に向かって三体のエビルスピリッツが飛んで来るが、それを入口に立つリュカがバギマの呪文で封じ、敵の群れをこの広間に入れないよう制御する。強風の渦に煽られたエビルスピリッツらが、己の動きがままならないと言った様子で、広間の入口から見えない角度へと姿を消す。広間は床の大穴を塞ぎつつ、冷気の源となる闇の濃い通路へと近づいて行く。大広間の動きが止まった時、三体のエビルスピリッツの姿は見えなくなった。恐らくまたしても壁と壁との間に挟まれ消えてしまったのだろうと思いつつも、今度は広間の中央付近に生まれた宙の揺らぎから逃れるように、リュカたちは通じた闇の濃い通路へと急ぎ向かおうとする。
その時、濃い闇の中から現れた魔物の姿があった。見覚えのあるダークシャーマンが五体、太い大蛇の腕を前に突き出し、今にも呪文を放とうとしていた。リュカたちは対抗しようとするが、間に合わない。
一斉に放たれたベギラゴンの凄まじい火炎の勢いに、リュカたちは手段なく後退せざるを得なくなった。リュカたち自身が意思を持って後退するなどという悠長なことを言ってはいられず、実際にはベギラゴンの火炎の勢いに吹き飛ばされたような状態だった。併せて、凄まじい火炎に焼かれることを軽減するためにと放ったポピーとピエールのイオラの呪文が、寧ろ彼らの身体を後方へと吹き飛ばした。
文字通り吹き飛んだリュカたちは、広い真四角の広間の中央を越えたところまで退く羽目になった。五体のダークシャーマンらはその手を緩めることなく、広間の中に足を踏み入れ、リュカたちへの追撃を行う。体勢を立て直す余裕もない頃合いで再び息を合わせるようなベギラゴンの嵐を食らってはひとたまりもないと、再度、ポピーとピエールは同時にイオラの呪文を唱える。向かってくる火炎の嵐を弾き返すのと同時に、彼らはまたしても後方へと吹き飛ばされる。
真四角の部屋には、四方向全ての壁に通路となり得る穴が開いていた。リュカたちが吹き飛ばされた後方の壁にも穴が開いており、そしてそこは隣の空間へ移動できる通路となっていた。リュカたちは火炎の熱から逃れるように、後方に通じている広間の通路を抜けた。
通路を抜けたところに、大広間のような部屋はなかった。そこは真四角のただの広場で、その中央の床に十字を象るような大穴が空いている。十字の穴の上方、既に空間に歪みが生まれ、魔物が出現しようとしている。前方からリュカたちに接近してくるダークシャーマンらは、二度唱えたベギラゴンの呪文を唱える様子は見せないまま、真っすぐにリュカたちへと突進してくる。大蛇の両腕をまるで鞭のように振るい、今度は接近戦を仕掛けてきた。リュカにプックル、ピエール、アンクルがそれに対抗する間に、ティミーは空間に生じようとする歪みを消してしまおうと天空の剣を向ける。
ティミーの手による神の力により、空間に生じようとしていた魔物は無事に消え去った。振り返るティミーが見たのは、敵の大蛇の腕に弾き飛ばされたプックルが横を通り過ぎていくところだった。ダークシャーマンらを相手に、リュカたちはあっという間に後退させられていた。二体を倒したところで、敵の仲間のダークシャーマンが世界樹の葉を使い、倒れた同族を蘇生したのだ。十字型の床の穴はもはやリュカたちの背中にある。五体のダークシャーマンらの意図は、明らかにリュカたちをこの床の穴へと放り込むことにある。それ故に五体は、リュカたちを取り囲むように半円を描く形で迫ってきている。
呪文を放ってこない敵を見れば、それは魔力が底を尽いたからなのだろうと、ポピーは必然とそう考えた。母ビアンカは賢者の石を手に、仲間たちの回復にかかりきりだ。絶えず石に祈ることでどうにかリュカたちは戦い続けていられる状況だった。兄ティミーもリュカたちの戦いに加わる。敵の群れを押し返すのに、ポピーは自らの役目をと、両手を前に出し呪文の構えを取った。
その手を、捨て身の様相で素早く近づいてきたダークシャーマンが大蛇の腕で噛みつくように取った。痛みにポピーの顔が歪むのも構わず、大蛇はポピーの身体を軽々と振り上げる。リュカが鬼の形相で敵の腕を剣で斬り下ろしたが、切り離された大蛇はまだ命があるかのようにポピーの身体を十字の床の穴へと放り込み、大蛇もまた、十字の中へと消えて行った。
「ポピー!!」
リュカと同時に、アンクルがすぐさま矢のように飛んでポピーを追った。この隙を逃さないのは敵の群れだ。ダークシャーマンらは一斉に両腕の大蛇を振り回し、攻勢をかけた。十字の穴からアンクルが戻らない。迷っている一瞬もないと、リュカはビアンカの腕を掴みながら、皆に叫ぶ。
「穴に飛び込め!」
飛び込んで平気でいられる高さかどうかなど、分からない。しかし今のこの切迫した状況で、リュカは他に方法が思いつかなかった。何よりも、大事な娘を放っておくことなどできないと、リュカの脳裏には思考よりも感情が優先する状態が生じていた。冷静さを欠いていた。ただ、一人で先に穴に飛び込もうとしていたビアンカの腕を咄嗟に掴むほどには冷静さを持っていた。
次々と穴に飛び込んでいくリュカたちを見下ろすダークシャーマンらの覆面に隠れた表情を、窺い知ることはできない。敵の群れはただこの場での役目を終えたかのように、もう二度と十字の穴の中から出て来られないであろうリュカたちをその目に留めるだけだった。



先に十字の穴に飛び込んだアンクルは無事、ポピーを捕まえていた。激しく腕を噛みつかれ、全身を容赦なく揺さぶられたポピーは腕を折り、気を失っていた。ぐったりとしたポピーを小脇に抱え、飛び上がろうとしたアンクルだが、身体が重く、上に飛び上がることができない。明らかにこの空間に奇妙な力が働いていることを身体で悟ったアンクルだが、上から降って来る仲間たちの姿を目にして、何も考えられないまま仲間の救出に向かう。
本能的にアンクルが救出するのはティミーだ。先ずは子供たちをと、その感覚は彼の身体に染みついている。人間が飛び込んで平気な高さではないことはアンクルにも分かっているが、彼が二本の腕で救出できたのは双子の子供たちだけだ。
リュカはビアンカを片腕に抱えながら迫る床を見つめた。もう片方の手で呪文を放つ。バギマの呪文が、迫る床との間で緩衝の役割を果たし、リュカとビアンカ、近くに落ちてきたプックルとピエールにも影響を及ぼし、その誰もが大怪我を免れた。
ポピーの手当てをと目を向けた時には、既にティミーが妹の怪我を治癒していた。ベホマの呪文を施されたポピーは腕が折られてしまっていたことも忘れたような顔つきで目覚め、何が起こったのかと目の前の兄を見上げた。ティミーは妹の無事にただほっとしたような笑みを浮かべただけだった。
「この部屋は……何でしょうか」
「がうぅ……」
上で何度も見ていたような真四角の広間ではないが、落とされたこの場所にも人工的な建造物の景色が広がっていた。周りを見渡すと、リュカたちがいる場所を中央として、十字に空間が伸びていた。暗い中にも明かりは灯り、その明かりはリュカたちの立つ場所を囲むように配置された台座の上に並べられた燭台の上でゆらゆらと揺れている。ただ奇妙なのは、その明かりが生命をまるで感じられない青色をしていることだった。
「気味が悪いわね。お化けでも出るんじゃないの?」
ビアンカはその言葉を笑いながら言うつもりだったが、その顔は引き攣るだけだった。口にした言葉が決して冗談には留まらないことを、彼女は辺りに漂う雰囲気に嫌でも分かってしまったのだ。
四つある台座の上の、燭台の青の火が一度、大きく上へと跳ねるように伸びた。その火の明かりに照らされて、何者かの影がリュカたちの目に映った。つい一瞬前までそこに立っていなかったはずの者が、青の火に呼ばれてこの場に現れたかのような現象だった。ビアンカがお化けが出るとつい口にしたのも、自然のことだったのかも知れない。
四つの台座のそれぞれに、朽ちた服とマントを身に着けたような、かつては人間だった者たちが立っている。肌も肉もなく、顔も手足も骸骨で、しかし身に帯びている朽ちた服には高貴な雰囲気が今も残されている。そうと感じられる要因として他に、その者らが頭に乗せる王冠がある。かつては煌びやかな光を放ち、埋め込まれる宝玉にも鮮やかな色が表れていたのだろう。しかし今はそのどれにも色などなく、ただ青の火に照らされ、生命を感じられない青の色に染まるだけだ。手には王者の証とも見られる杖が握られ、しかしその杖に身体を預けるようにして立つその姿に、王者としてのかつての威光は感じられず、むしろかつての威光に縋るかのような執着を感じる。
「昔は……昔どこかにあった国の王、だったのかも知れない」
「そうですね。しかしそれも昔のことです」
この世に何かしらの未練を残し、死んでも死にきれない思いを抱いたまま死に至り、魔の力を受けることでこの世に死んだ生を繋ぎ止めているかつての王。その姿を目にしながら、リュカは思わず自身のことを考えてしまう。家族を思い、仲間を思い、国を思いながら、その思うものを守り切れないままに自身が死に至ることがあるとすれば、今目の前に見る魔物と同じ姿になり果てるのではないかと、そう感じざるを得なかった。
「がうっ!」
「おい、とにかくこいつらをどうにかするんだろ!?」
仲間たちの冷静な呼びかけに、リュカは無意識にも憐れみを浮かべていた表情を引き締めた。あの仇敵ゲマでさえも、魔物となり果てた戻れない道筋があった。恐らくこの魔物ワイトキングらにもまた、魔物となり果てる何かしらの道筋があったに違いない。しかしそれはもはや誰にも確かめることなどできない。今は為すべきことを為さねばならないのだと自身に言い聞かせ、リュカは剣を構える。それを見てアンクルはビアンカと目を見合わせ、背中合わせになるようにしてそれぞれ二体ずつのワイトキングに向かって両手を向ける。
「私たちで送ってあげましょう」
リュカの内心を汲み取るようなビアンカの言葉に、アンクルも振り返らないまま小さく頷く。生に執着し、死んだ後もその朽ちた姿を晒しながら、今では魔の力の言いなりになっているワイトキングを葬るのが良いことなのだと、ビアンカとアンクルは同時にベギラゴンの呪文を放とうとした。が、呪文が発動しない。
十字型に広がる広間の一角に、もう一体のワイトキングが静かに立っていた。杖を振り上げ、発する言葉もないままに、その者は杖の魔力を放出させていた。魔封じの杖から放たれた力がリュカたちに及び、その力から逃れたのはティミーとポピーだけだった。双子が身に着けるエルフのお守りが、淡く緑の光を放ち、魔封じの効果をその宝玉の中に吸い取ってしまったのだ。
今、十字に広がる広間の三方向に、計五体のワイトキングが立っている。凡そ呪文に頼ることが出来なくなったリュカたちは、プックルが飛び出したのを切欠にして、リュカもピエールもアンクルも、台座の上に立つ四体に向かってそれぞれ攻撃を仕掛ける。魔封じの杖を使うことのできるワイトキングは、恐らく強力な呪文をも使いこなすのだろうと、その時間を与えないことを目的としてリュカたちは四体同時に攻撃を仕掛けたのだ。
しかし敵は五体。余る一体が、十字の中央に残されたビアンカとポピーを狙うように床を滑るように素早く移動してくる。母と妹を守るようにその場に残るティミーが、天空の盾を構え、敵の攻撃に備える。防御呪文スクルトを唱える余裕はなかった。しかし一方で、守られるポピーは混戦するようなこの状況での最善は何かと、本能的に補助呪文ルカナンの呪文を発動させた。が、ワイトキングらに防御力剥がしの呪文は効かなかったようだ。呪文の力が弾かれるような感覚に、ポピーはそうと悟った。
プックルは台座の上に立つ一体のワイトキングを体当たりで吹き飛ばした。しかし攻撃が届いたのはプックルだけだった。次の瞬間、リュカたちは唐突に目の前に生まれた暴風に行動を阻まれた。プックルが吹き飛ばした以外の四体が同時に、バギクロスの呪文を唱え、リュカたちは残らず暴風の中に閉じ込められてしまったのだ。
床に両足を踏ん張り、その場に耐えることもできず、息もできないままに暴風に身体ごと持ち上げられる。大きな渦を巻く暴風の中に在っては己の行動など一つもできないまま、リュカたちは皆渦に飲み込まれる。
かつては高名な魔法使いでもあったワイトキングは生前であれば他にも操れる呪文が多数あった。しかし死後も生にしがみつき、魔の力に頼ったがために、その術は辺りに存在する空気を操るだけに留まることとなった。新たに何かを生み出すことのできない弱まった己の能力に苛立ちを覚えるように、ワイトキングの放つバギクロスの威力はリュカの放つそれと比べ強烈なものだ。身を縮こまらせ、呼吸を確保しようとするも、息ができない。この竜巻が止むまでただただ耐えるしかないと、皆が皆身体を必死に丸めているが、螺旋を描いて竜巻の中に閉じ込められる遠心力に身体がばらばらになるように骨が軋む。
ワイトキングは完全に竜巻を操っていた。そこに、プックルが吹き飛ばしたはずの一体が加わる。威力が増幅し、目を開いて確かめることもできない中、ビアンカは気を失い、辛うじてティミーと繋いでいたポピーの手も離れた。全員がてんでバラバラに竜巻の中を回る状況を、誰一人その目に確認することもできない状態だ。
風の向きが急激に変わる。重力を感じる間もなく、リュカたちは今度、竜巻の中心部から真っ逆さまに押しつぶされるかのような豪風に晒された。正面からの風が止んだと、リュカは薄目を開けたが、迫るのは遥か下に見えていたはずの床だ。この勢いで床に叩きつけられては無事ではいられないと、リュカは咄嗟に自身も呪文を唱えようとしたが、封じられている呪文は当然発動しなかった。
次々と激しく床に叩きつけられたリュカたちは、誰もが無事ではなかった。しかし誰もが命を落とすことにはならなかった。繋いでいた手が離れたティミーとポピーは二人とも、この状況で皆を救うことができるのは自分しかいないと、互いに意を同じくしていた。リュカと同じく、ティミーも薄目を開けて危うく全滅となりそうなこの状況を見ていた。状況を確かめることのできないポピーは、その力を兄ティミーに託そうと、両目をきつく瞑ったまま遠隔呪文の力を放った。
ティミーとポピー自身に、以心伝心の力があることの自覚はない。しかしその無自覚故に、彼らは双子の勇者として確かに繋がっていた。ティミーが目を閉じたまま放ったスクルトの呪文が、ポピーが目を閉じたまま放った遠隔呪文の力を借りて、確実に仲間たちの身体を守る。気を失い、頭から落ちてしまったビアンカの命も辛うじて守られ、しかし受けた損傷の大きさにリュカたちが体勢を立て直すにも時間がかかってしまった。
立ち上がるよりも前に、リュカは視線を巡らし、仲間たちの状況を確かめた。唯一その場からぴくりとも動かないビアンカが、頭から血を流し倒れている。リュカは咄嗟に回復呪文を唱えようとしたが、呪文は封じられている。彼女が手にしていた賢者の石が離れた場所に転がっていた。それを手に取るためにリュカは身を起こすなり駆け出そうとしたが、損傷大きく駆けることができない。
再び辺りに風の気配が巻き起こる。このまま再び嵐の中に閉じ込められればひとたまりもないと、ティミーもポピーもまだ起き上がれないながらもできることをと目をきつく閉じて集中する。ポピーが遠隔呪文を放つ際に脳裏に浮かべる景色が、ティミーの脳裏にも映り込んでくる。ティミーはそれを不思議にも思わない。何も考えないままに、ティミーは己の力に頼るのではなく、父や仲間たちの力に頼るように、ベホマラーの呪文を放った。
プックルがその場に飛び上がり、床を踏みしめるなり、轟くような雄叫びを上げた。既に嵐は起こり始めていた。嵐がプックルの上げた雄叫びの音に震え、その振動に気圧されるように二体のワイトキングの放つバギクロスの威力が弱まった。
激しい嵐の中に道を見い出したプックルはそのまま一体に突進し、床に倒した。獣そのものの如く敵の骨の首に食らいつくが、損傷を与えるような肉がないために首の骨そのものを砕かねばならない。その為の時間を敵に与えてしまい、痛みなど感じないワイトキングは手にしている魔封じの杖の先で激しくプックルの脇腹を突いた。刺さる杖先に思わず食らいつく敵の首から離れ、痛みに一瞬の叫び声を上げるプックル。しかしそのまま痛みを堪え、両前足を振り上げ、炎を上げる爪で窪んだ敵の両目に攻撃を加えた。ワイトキングの人間としての生前の記憶だろうか、目の前を炎が覆う景色に本能的に狼狽え、その隙を逃さずプックルは脇を血に染めながらももう一度敵の両目に炎の爪の攻撃を加えようとした。その攻撃を必死に避けようとしたワイトキングが頭を動かした拍子に、プックルの炎の爪が敵の頭部に乗る王冠を引っ掛けた。ぴたりと一体となっていたかのような頭部と王冠は切り離され、今や色を失ったような王冠が床の上を吹っ飛んで行く。と同時に、プックルの下敷きになっているワイトキングの動きは止まった。
ワイトキングはもはや自身が王座に在った証である王冠にのみ、その存在を残していたようだった。王冠が外れた瞬間に、そのワイトキングは死して尚得たであろう命すら、あっさりと放り出してしまったようだ。ワイトキングが死の後に、魔の力に頼り得た邪悪な命は、その身体にではなく、その王冠にのみ宿っていたのだろう。そのような敵の事情などプックルには興味もなく、当然思い至るわけでもなく、ただ吹き飛ばした王冠のところへ近づくと、床に転がる王冠を更に遠くへと思い切り蹴飛ばし、床に叩きつけられるような金属音を以て仲間たちにその事象を知らせる。直後にプックルの脇腹に刺さっていた敵の杖が床に落ち、ようやく彼は痛みに素直になるように身体を曲げた。
嵐の気配は確実に高まるが、それが先ほど五体のワイトキングが揃って発動したバギクロスの威力に比べ半減していると感じたのはリュカだけではなかった。敵がそう来るならと、ティミーがマホトーンの呪文を唱えていた。残る四体の内、一体に効果が出たようで、その両手から発動するはずのバギクロスの呪文は押さえ込まれていた。しかし呪文を封じられた当の敵はその事態に気付いておらず、いつも通りに呪文を唱えているものだと思い込んで杖を持つ手を誇らしげに高々と上げている。
豪風が吹き荒れる気配が生じていたが、それを力でねじ伏せるように、ポピーの唱えたイオナズンの呪文が大爆発を起こした。起こりかけていた大嵐の予兆は霧散し、不当に力が削がれたと感じたのか、四体のワイトキングの暗い視線が一斉にポピーへと注がれた。力を行使して良い者は王座に在る者だけだという傲慢さをありありと見せるように、ワイトキングは子供にも容赦はしないと言った風で杖を振り上げてポピーを標的の中心とする。
結果的に、ポピーが敵の注意を引きつける形となった。隙を見たピエールとアンクルが敵の死角から飛び込み、一気に敵の力を削ぎに行く。その一方で、ティミーのベホマラーの治癒で意識を取り戻したビアンカが、こめかみから頬にかけて流れた血の痕を残しながらも、床に転がっていた賢者の石を再び手にした。まだふらつく身体のためにそのまま床に倒れ込んだビアンカだが、懸命に賢者の石に祈りを捧げ、大事な仲間たちの身体を癒す。
回復に力を漲らせ、ピエールとアンクルは冷静に敵の頭部を狙った。死者となっても不当に命に縋り、邪悪な手段を以て得たワイトキングの命は、その身体でも頭でもなく、ただの王冠に宿っている。一体何のためにこの者はこの世にこのような姿で留まろうとしているのか。ただ大事な者のために、自身ではない他者のために生きようとするリュカたちには到底理解できない生き方だった。
命への執着を感じさせるワイトキングは王者としての証である杖を振り上げ、ピエールとアンクルの攻撃を防ぐ。見た目には襤褸ついたマントに服に、体は骸骨の敵だが、王冠に宿るかつての王者としての誇りは強く、王冠に残るその誇りだけでピエールとアンクルの攻撃を弾き返してしまった。
尚且つその杖から呪文を発動させようと、杖先をピエールとアンクルへと向ける。しかし発動させようとする呪文は杖先から出てこない。かつては高名な魔法使いでもあったワイトキングの操る呪文は、魔物となり果てる前には多岐に渡るものだった。しかし今ではその力には限りがあり、辺りにある空気を操るに留まる。杖先から生み出される力に反応するように、空気が渦を作り始める。本来ならばその杖先から生み出されるのは火炎であったのかも知れない。王者としての誇りが弱々しい呪文に留まることを許さないようで、その渦はみるみる大きくなっていく。しかしどうしても、バギクロスの威力にまで高めるには時間がかかり過ぎる。
二度と敵に呪文を唱えさせまいと、ピエールにアンクル、そしてリュカとプックルも各々でワイトキングに接近戦を仕掛け続ける。敵の呪文の詠唱は中断させられる。しかし接近戦でも魔物となった王はすぐに倒れることはない。リュカたちの攻撃を巧みに王の杖で避けて行く。
十字の部屋の中心部に、ティミーがビアンカとポピーを守るように立っている。そこへまたしても宙の歪みが現れるのを、ピエールは横目に見た。その瞬間に彼に隙が生まれた。ワイトキングの杖がピエールのドラゴンキラーを大きく弾く。腕に装着しているドラゴンキラーがピエールから離れることはないが、敵の攻撃にピエールの体勢は大きく崩れた。そこに尖る杖先がピエールの首に迫る。
ピエールは崩れた体勢のまま辛うじて左腕の盾で杖先を受け止めた。盾の表面に現されている風神が、迫る敵を見定めるように鋭い目をワイトキングへと向ける。とうに寿命を終え、しかしただ己の命にしがみつくように愚かにも生き続けようとするかつての人間の王の罪を暴くように、盾の風神が眼光を鋭くしてその者を見据えた。
自ら邪悪となり果てた愚王を許すまじと、盾に象られる風神が眩い光を放った。闇に染まり、元には戻れないワイトキングの襤褸ついたマントの端から飲むように、光が闇を飲み込もうとする。自らが闇に染まっているとは露ほども感じていないワイトキングは、何が起こったのか分からない様子のまま、風神が放った光の中に飲まれて姿を消してしまった。
宙に生まれた渦の中に、またしてもエビルスピリッツが生まれようとしているのを、ティミーたちとピエールは目にしていた。ティミーは先んじて天空の剣の先を向け、凍てつく波動を放ち、その歪み自体を抑え込もうとしたが、抑えきれなかった。押さえ込まれようとしていた歪みの隙間から、三体のエビルスピリッツが飛び出し、すぐさまティミーたちを標的にして飛び向かう。彼らを守るためにと、ピエールも駆け出す。
一対一で対峙するワイトキングはことのほか強かったが、リュカが左手にしているドラゴンの杖を振り上げた時、その動きは目に見えるほどに鈍った。竜神の力を宿した杖に対し、魔に魂を委ねたワイトキングが抗うことのできない力を受けているように、リュカには見えた。
神への畏れを見せるワイトキングを前にして、リュカは手にするドラゴンの杖に感じる竜神の悲哀を見たような気がした。マスタードラゴンは決して人間を嫌っているわけではない。寧ろ人間という生き物に対し好感を抱き、自らが人間に姿を変え、プサンという名を名乗っていたほどだ。竜神はその目で数多くの人間を見てきたのだろう。その中には、今目の前で敵対している魔の王がかつて人間の世界の王であった時をも見てきたのかも知れない。竜神の目にこの者は一体どう映っていたのだろうか。
リュカが左手にするドラゴンの杖を、正面に構える。それだけで対峙するワイトキングは身体を縮こまらせ怯えるように、ただ自身の身を守りたい一心で魔封じの杖を控えめに構える。
「王が独りで生きて何になる」
この者が人間の王であった頃の国の民らはとうに滅んでいる。それにもかかわらずかつての王だけがこうして死を死と認めずに無様に生にしがみつこうとする姿は、それだけで国の民らを裏切るようなものではないだろうかと、リュカは地上世界に生きるグランバニアの人々の事を思う。
「誰よりも誰かのために生きるのが王じゃないのか!」
そう叫ぶリュカの姿が、ワイトキングには目の前に堂々たる雰囲気で立つ竜神に見えていた。その証拠に、ワイトキングの視線はリュカよりも遥か上に向けられ、そして震える手で持っていた魔封じの杖をも取り落とし、その場に腰が抜けたように座り込んでしまった。残る二体のワイトキングにもそれと同様のことが起こっていた。現在に生きる王であり、竜神の力が宿る杖を手にできる唯一の存在であるリュカに、既にこの世のものではないかつての王らは今にして王としての拠り所を失ったように、床に力なく座り込み、頭を垂れた。がくりと垂れた頭から、その者が執着していた命が抜け出して行くように、被る王冠が自ずと外れ、床に音を立てて転がる。そしてワイトキングは長い年月を経てようやく自ら本来の死に辿り着くことができた。
ティミーたちに襲いかかろうとしていたエビルスピリッツに、ワイトキングとの戦いから解放されたプックルとアンクルが向かう。しかし彼らの助けを待たずして、ポピーのバイキルトを受けたティミーと、再び風神の盾を構えたピエールによって敵の群れは倒された。聖なる力を弱点とする悪しき魂に、ティミーの天空の剣の攻撃も、ピエールの風神の盾から放たれるニフラムの呪文も、その効果は抜群だった。しかしここでゆっくりもしていられないと、皆は一斉にアンクルの傍に寄る。落とされた上階の床の穴に向かって飛び上がり戻るべく、アンクルは先ずビアンカ、ティミー、ポピー、そしてピエールを先に上階へと連れて行く。先ほどまで働いていた上から押さえつけるような見えない力はなくなり、アンクルは無事に彼らを上にまで連れて行くことができた。十字の広間に縛りつけておくように働いていた力は、ワイトキングらによる呪いだったのだろう。
十字を象る形の部屋の、かつての王者の墓場に入り込んできたのは、現代に生きる人間の王族らだった。そしてその王族の王たるリュカは、竜神の力を宿した杖を手にする唯一の者だった。天地がひっくり返っても抗いようのないその者に、生前に身に帯びていた王冠に縋るだけのワイトキングらはただ屈するだけだった。もし彼らに民を思う王としての心得があれば、たとえ相手が竜神であろうと堂々と正面に立つことができたのだろう。しかしワイトキングとなったかつての王らが拠り所とするのは、ただの己の身だけだった。
アンクルが矢のように戻ってきた。上には既に魔物が待ち構えていた。一刻を争う時だと言わんばかりに残るリュカとプックルを抱えると、再び矢のような勢いで上の階へと飛んでいく。その際にリュカは一時、下の階に広がる十字型の広間を見つめたが、今にしてそこがようやく本当の王者たちの墓となったのだろうと、静まるその景色にそうと感じていた。

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