暗雲渦巻く世界

 

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遥か上空、暗雲の上を行く竜神の姿がある。飛行しながら下方に向ける竜神の琥珀の目に映るのは、分厚い雲のその下にある、まだ薄く靄のかかる大森林の景色だ。竜神の力を以てすれば、暗雲のその下にある景色を望むことなど造作もないことだが、自然に発生したわけではないその暗雲を吹き飛ばし、取り去ることはできなかった。暗雲の下には、地上世界における貴重な人間たちの国、グランバニアがある。竜神がその息で、大森林を意図的に覆う暗雲を吹き飛ばそうものなら、グランバニアごと壊してしまいかねない。
暗雲の中から、飛び出してきたものがある。飛行可能の魔物の群れが、相手をマスタードラゴンと知りながら、襲い掛かって来たのだ。その光景は正気の沙汰ではない。地上世界を統べるとされる竜神に向かって行く魔物の群れは、正気を失っていると言っても決して過言ではない。実際、魔物の群れの目は残らず、常軌を逸するものだった。
相手が竜神であろうと果敢に挑む、という勇敢な類のものではない。ただただ、衝動に圧されるかの如く、魔物の群れは巨大な竜神に向かって突っ込んでいくのみだ。マスタードラゴンは密かに琥珀の目を細める。その表情には、深いやりきれなさが含まれていた。
数十年ぶりに再び大空を行くようになった竜神は、空の果てまでも飛び上がりそうなほどに高くに舞い上がり、一見では敵の群れから逃れるかのようだ。猛進してくる敵の群れは迷いなく、高くに舞い上がる竜神の姿を追う。しかしあまりの高度に耐え切れないものは、己の身体の異変に気付くこともないままに、そのまま気を失い、落下していく。その中でも猛進してくる魔物の群れに対し、竜神は今度は急降下し、向かってくる敵の群れの目前で大きく羽ばたいた。竜神の起こす豪風が、東から朝日の昇ってきた青空の中で渦を起こした。遥か上空に上っていたにも関わらず、グランバニアの大森林を覆う暗雲ごと、魔物の群れを吹き飛ばしてしまった。大森林の木々の葉が、まるで海原の波のように一面に揺れる。竜神の目に映る景色は小さく、グランバニアの森の木も、まるで人が道の脇に見る雑草のようだ。それ故に、人間らに害を為さぬよう、高く高くへと飛び上がったのだ。竜神は己の力を使いたくはなかった。
マスタードラゴンがこの地上世界で、人間か魔物か、どちらかの味方となり、どちらかを攻撃することはできない。竜神が明確な意図をもってどちらかを攻撃した時から、地上世界は大混乱の状態に陥ってしまう。この世界は、この世界に生きる者たちの手に委ねられるものであり、竜神自ら手を下すことはできないのだと、彼は己の力の強大さを十分に理解している。
マスタードラゴンは眼下にある、暗雲もすっかり晴れてしまった人間の国グランバニアを見下ろす。大森林に囲まれたこの国には今、国の主はいない。しかし主はいなくとも、主と思いを同じにする者たちがいることを、神とされる竜は知っている。マスタードラゴンは、人間と言うものは良いものだということを知っており、そうだと信じている。人間が神に祈りを捧げるように、神もまた、人間に祈っているのだと、人間の滅びなど迎えることのないようにと今は大森林の上空を広く旋回する。



頭上から強烈に押さえつけられるような風が吹き、ドリスもピピンもその瞬間、地に伏せざるを得なかった。グランバニア城そのものが押しつぶされてしまうのでないかと思うほどの風で、しかし決して攻撃的な性格を有さないその風に、グランバニア城も周りを広く囲む大森林も、風の収まった時には何事もなかったかのようにその場所に立っている。一体何事かと、文字通り飛び起きたドリスはすぐさま空を見上げた。つい先ほどまで辺りは暗く、朝日を拝めずに暗い朝を迎えていた。しかし今では頭上を覆っていた暗雲は見事なまでに吹き飛び、大森林の上には雲一つない青空が広がっている。そしてその青空の中を、東からの陽光を受けてその身を光らせる竜神が悠然と飛んでいるように見えた。
グランバニアの上空を竜神が飛ぶ姿を目にして、ドリスは安心するのではなく寧ろ、強烈な不安を覚えた。竜神は何度も何度も、この場を離れることなく、グランバニアの様子から目を離さないかの如く大空を旋回し続けている。何のためか。
ドリスが目前にしているグランバニアの城門の向こう、南側に広がる大森林の中から魔物の咆哮が響いた。グランバニアには仲間の魔物も多くおり、森林の中に入り込んで国の警備に当たっているアームライオンのアムールらもいる。しかしドリスの聞いた魔物の咆哮は仲間のものではない。強い攻撃の意図を持った、敵の魔物の咆哮であるのだと、ドリスは己の肌が粟立つ感覚に必然とそう思った。
「ピピン! ほら、行くよ!」
「は、はい!」
ドリスの声に漲る緊張感はまるで隠されておらず、その緊張感はピピンにも当然伝わった。南に見えている森の木々の間に、見たこともないほどの敵の姿が見えている。既にグランバニア国の兵士らは敵の魔物との戦いの中にある。しかしグランバニアを守ろうと戦う兵士の数に対し、森の中に見えている敵の数は圧倒的に多いのだと、ドリスは身体を震わしながらそう感じた。
しかしその状況だからこそ、己の手でこの国を護らなくてはならないと、今は城を留守にしている国王であり従兄であるリュカに心の中で誓うように、ドリスは駆け出した。優れた武闘家としての自信もある。ただ強いだけで、その力をこのような時に使わないで一体何の強さかと、激しく自問しながらドリスは駆ける。
足の速いドリスに追いつくように、ピピンもまた駆け出す。いつもの明るい調子のドリスではなく、駆ける後姿にはもう決して後ろなど振り返らないのではないかと思えるほどの切羽詰まった表情が見えるようで、ピピンもまた口を引き結んで駆ける。
幼い頃から、父パピンの兵士としての姿に憧れ、立派な兵隊さんになるのだと夢見ていた。父はこの国の兵士長なんだという誇りも当然のように持っていた。絶対に死ぬことなどないと思っていた強い父だったが、以前グランバニアが魔物の襲撃を受けた際に、命を落とした。同じ戦いの場に出ていたにも関わらず、ピピンは父の死をその目にしたわけではない。父の死を実感したのは、皆が父の死を悲しんでくれた葬儀であり、初めて母が悲しんだ顔をした時だったのかも知れない。
ふざけたような性格は変わらない自負はあるが、あの時からはっきりと変わったことは、自分は自分のために生きているのではないと言うことだ。口ではふざけたことを言っていても、今のこの時、ピピンは一人の国の兵士として、迷いなく森での戦いに向かうことができる。兵士として生きるということは、その手に多くの人々の命を抱えていると言うことだ。ましてや兵士長だった父パピンの背には更に多くの人々の命が乗っていたに違いない。そしてその全てを抱え、背負うのが、今はこの場を離れている国王リュカだ。聞いた話によれば、リュカは今、この地上世界にはいないらしい。信じられない話だが、あの王様ならば何があっても信じられると、ピピンはこの大森林の上を旋回する竜神をちらりと見上げる。
一人一人が為すべきこと為すのだと、ピピンはあくまでもこのグランバニアの一兵士として、この国を護ることだけを考え、先に駆けて行ったドリスに追いつくほどの勢いで駆け抜けていく。



グランバニアの北側、朝靄もすっかり晴れ、朝の光が森の中に差し込んでくれば、敵の姿ははっきりと見て取れた。グランバニアの兵士長ジェイミーは兵らを指揮し、常とは異なる凶暴さにある敵の魔物らを抑え込もうとしていた。夜明け前から森の中には不穏が漂っていた。国王リュカがこの城を留守にして以来、グランバニアの護りは以前よりも更に固くしてきた。その堅固な護りは全く無駄ではなかった。
人間の兵だけではないのが、グランバニアと言う国の特別なところだ。アームライオンであるアムールとシンバがその巨体で敵である魔物らを牽制する。彼らの最大の武器は、その見た目だ。ライオンの猛々しい胴体を持ち、四本の腕を四本の足を駆使して、敵となる魔物を主に撹乱する。その隙を見て、ジェイミーら人間の兵士は敵の動きを完全に封じるために剣を振るう。この大森林の中では、馬は寧ろ邪魔になると、グランバニアの兵士らはその身一つで戦う。木が乱立する中でも動ける騎馬があるとすれば、それはリュカとプックル以外にはいない。
素早い撹乱の動きと、敵を倒す攻撃の動きとを、互いの協力によって為せばよいと、乱立する木々の中を飛んで移動する一人の武闘家の姿がある。かつてグランバニアの国を窮地に陥らせる切欠を作ったと自責しているトレットが、身に着けた一流の武闘家としての力を駆使し、素早く敵の中を飛び回り、敵の目を引きつける。
元々このグランバニアの大森林に生息する魔物の類が、凶暴化しているという状況だった。普段ならば、敵となる人間をどこまでも追いかけ回すように攻撃を仕掛けてくるような魔物たちではない。魔物たちにとっても、人間と戦うことは少なからずリスクであることには違いない。相手となる人間が女子供のような弱者であれば、簡単に襲い掛かることもできるだろう。しかし相手が人間の国の兵士という戦闘の修練を積んだ者であれば、返り討ちに遭うことを恐れ容易には襲い掛かれないはずだった。しかし今は、敵の魔物らにその判断が無いように見えた。ただ何かに憑りつかれたかのように、勢いだけでジェイミーのような手練れの兵士長にも飛びかかって行く。敵の行動があまりにも直線的で、ジェイミーら兵士たちにとっては戦い易いとも思える状態だが、問題はその数だった。この大森林に生息する全ての魔物らがわらわらとどこからともなく姿を現わしてくるのだ。大森林の上空を覆う暗雲は取り払われ、東の空からは朝日が差すという明るい景色の中でも、魔物の悪しき力は弱まることがない。一見して異常と分かるような状況に、誰よりも長身のジェイミーはその高い視線で辺りを見渡し、戦闘力を注力するべき場所を見定めようとする。
しばらくは持ち堪えることができると踏み、ジェイミーは兵らに檄を飛ばしながら自らも剣を振るい続けた。一方、頼りの要を失うわけには行かないと、当然のようにジェイミーを守りながら戦う兵士たちがいる。凶悪な目つきをしたオークキングやストーンマンの攻撃を受け、傷つき倒れる兵士らの手当てを、回復の要を務めるベホズンが引き受けている。この体勢ならば、誰もがしばらくは持ち堪えられると信じられた。しかし、あくまでも“しばらくは”という限定的な感覚だった。
グランバニアの城をぐるりと守るように、東にも西にも戦いの音が響いていた。朝の陽ざしに照らされ、明るく見通せる東の森の中では、兵士らと魔物の仲間たちであるマッド、キングス、ロッキーがその場所に就いていた。兵士らを強化するのはキングスの唱えるスクルト、敵の動きを封じるのはマッドの吐きつける焼けつく息、敵が群れとなればそれを牽制するのは爆弾岩であるロッキーそのものの存在。むやみやたらと爆発する必要などなく、敵である魔物らも当然のように爆弾岩の危険を知っているために、ロッキーが近づくだけで距離を取ろうとするのだ。凶悪化した魔物らと言えども、爆弾岩に対する恐怖は強いもののようだ。ロッキーは不敵な笑みを浮かべながらただただ敵に体当たりを食らわせていた。
また西側で兵士らと共に戦う魔物の仲間は、スラりんにガンドフ。スラリンもまたキングスのように兵士らの護りを強化するためにスクルトを唱え、同時に敵の群れにはルカナンを放った。小さな身体を生かすのがスラりんの得意とするところで、敵の魔物の群れは何だか訳の分からない内に、草むらの中から放たれたルカナンの呪文でその防御力を剥がされていた。ガンドフはつぶらな大きな一つ目をパチリと瞬かせ、眩しい光を放って敵の目を眩ませた。その隙に兵士らが敵を倒す。敵の魔物にグランバニアの兵士が傷を受ければ、すかさずガンドフは回復の役へと回った。
兵士たちと魔物の仲間たちの連携は良く取れていた。連携した戦いにおいての綻びはなかった。しかしやはり敵の魔物はどこからともなくわらわらと姿を現わし、この戦いの終わりは見えない。その異様とも言える状況に、スラりんは草むらの中に身を潜ませながら、ふとリュカのことを思った。リュカたちの身に何かが起こったのではないかと不安を覚えたのは決してスラりんだけではなく、ガンドフもまた同様だった。魔物の彼らでも分からない魔界と言う場所で、何かが起こったのではないかという想像が勝手に働く。しかし今はとにかく、目の前の状況に相対しなければならないのだと、彼らはリュカと旅した時と同じように、当時よりは多く身に着けている特技を生かし、戦い続ける。



転じて南、敵の群れが最も集中している場所だった。グランバニアの城は周囲を頑強な壁に守られ、唯一南にある城門が出入り口だった。敵となる魔物らの多くは明らかに南の城門を目指し、動いていた。この大森林に生息するオークキングにストーンマンの他、南のチゾットの山からぞろぞろと姿を現わしてくるのは、メッサーラにミニデーモン、メイジキメラと、通常はこの大森林にはほとんど姿を見せない魔物らだった。
南の城門から飛び出してきたドリスとピピンが目にしたのは、メッサーラ同士、ミニデーモン同士が戦うような光景だった。しかしそれはすぐに、決して奇妙な状況ではないと分かった。サーラとミニモンが、同族でも構わずに敵対している姿に他ならない。その状況を理解した上で見れば、サーラとミニモンの動きが明確に見て取れた。メッサーラもミニデーモンもメイジキメラも全て、背に翼を持っているために、地に足着けて森の中で戦う人間の兵士の頭上を飛び越えて、グランバニアの城を目指すことができる。今までそのような行動に至らなかったのは、単に彼らの生きる場所は暗くじめじめしたチゾットの洞窟の中であり、そこを離れて手間をかけて人間の国を落とそうなどという考えが頭の片隅にもちらつかなかったからだ。そして今も決して、この堅固な護りの中にある人間の国に攻め込もうなどとは露ほども思っていない。しかし彼ら敵の魔物を操る抗えない力のために、チゾットの洞窟の中から姿を現わし、悪魔の身を焼くような朝の陽ざしの中で動きを鈍くしつつも、戦いの場へと出てきたのだ。
敵の数が知れず、どれほどこの戦いが続くのかも分からない状況で、サーラは魔力を温存するためにも、宙でひたすら格闘していた。幸いに敵の動きは朝の光を浴びているためか、鈍い。サーラは一体一体を倒す目的ではなく、ただ森の中へ敵を放り込むという体で戦っていた。翼を持ち、宙を行ける者として、とにかくこの中空を守らねばならないと、並び飛ぶミニモン、メッキーと共に戦う。
森の中へ落とされた敵らと、グランバニアの兵士らが戦う。その中にドリスが飛び込み、ピピンは敵と戦うのと併せて、姫を守らねばならないと、まだ少年の域を出ないその身体に見合わぬ大槍を振るう。父親譲りの剛力なのか、ピピンは兵士らの中でも珍しくこの大槍を振るうことができた。彼が大槍を好む理由は、剣よりも敵との距離が取れるという現実的なものだ。敵を近づけなければ、自らが傷を負う確率も減る。そしてドリス姫を守るためにも、大槍の長さを生かすことができた。敵の動きを牽制するにも、槍の長さは大いに役立つ。
森の中、ドリスは自らの素早さを生かし、なるべく多くの敵の魔物の足を狙う。魔物を倒すことが目的ではなく、ただグランバニアを守るために足を止めれば良いと、低い姿勢で敵の足元に炎の爪を向けた。敵であるオークキングが回復呪文ベホイミを唱える姿を見たが、それでも自身のすべきことはこの素早さを以ていかに多くの敵の足を止めるかなのだと、ドリスは森の中を疾走する。彼女の胸にはいざという時のためのキメラの翼がある。戦うことに固執してはいけないと、彼女は己の身にある意味を、一人の武闘家としての存在よりも、一国の姫であることの意味を弁えている。決して無理はしない、自身は何としてでもこの国に残らなければならない、万が一にもリュカたちが戻ってこない時のために。その思いが頭を過った瞬間に彼女は歯を食いしばり、一段と目の前の景色が明瞭に見えるのを感じた。
武闘家としてのドリスの身のこなしについてはいけないピピンだが、彼女は一国の姫であり、その身を守る兵士らはこの森の中多く存在する。ピピンはその兵士の一人なのだと、ドリスを守るという意思は変わらず、大槍を振るった。周りにはピピンよりも年長の兵士らがそこここで戦っている。その姿に心励まされるのはピピンだけではなく、多くの兵らも同様だ。戦う者たちの心は一つで、そこに疑いはない。ただただこのグランバニアと言う国を護るため、明らかに城を目指して歩を進めて来る敵の魔物らに剣を槍を振るう。
その時、森の上で予期しない大爆発が起きた。宙から攻めてきていた敵の魔物の群れに対し、ミニモンがイオナズンの大爆発を放ったのだ。サーラ、ミニモン、メッキーは一塊となり敵の群れを引きつけた直後、近づく魔物の群れ全てに対し、イオナズンの大爆発はその爆風を浴びせた。敵であるミニデーモンには一匹たりともその呪文を扱う者はいないが、ミニモンはグランバニアという人間の国を護るという意思を持った時から、ミニデーモンという魔物では不可能とされていたイオナズンの呪文の習得に至った。新たな、高度な呪文を習得するためには、その目的となるものがなければならないのだと、ミニモンは自らそう見い出したのだった。
イオナズンの大爆発に吹き飛ばされた魔物らが、大森林の中へと落ちて来る。グランバニア兵たちもドリスもピピンも、懸命に戦う。その中、一人の兵が背後の敵に気付かず、振り向くのが遅れた。ストーンマンの大きな拳が迫るが、その動きは途中で緩慢となり、そしてそのまま前のめりに倒れてしまった。呼吸を伴う者であれば、草地に倒れたその口からは安らかな寝息が聞こえたのかも知れない。
代わりに聞こえるのは、サンチョが激しく息をつく音だった。到底駆けることには向いていないその太い身体で、この場所まで駆けつけてきたのだった。倒れたストーンマン一体の他にも、三体ほどのストーンマンが森林の中の地面の上に倒れていた。横を向く顔を見れば皆、目の光は失せ、眠っていることが分かる。サンチョがラリホーの呪文を放っていた。
眠りから逃れたストーンマンに、グランバニア兵らが向かう。三人で一体を相手にする格好だ。その近くで、オークキングが槍を振るいながら回復呪文の手を伸ばそうとしている。しかしその手から呪文が放たれることはない。魔力がいつの間にか底を尽いている。木の陰に隠れつつ、マーリンがマホトラの呪文を唱え、敵の魔力を着実に削ぎつつあった。
兵らで倒したストーンマンの身体から、本来は生ける者ではないはずの魔物を支えていたであろう一つの小さな石が地面に転がった。命の石と言われるその石は、身に帯びているだけで己の身代わりとなるものだった。たとえ脅威の即死呪文ザキを食らっても、身代わりとなり砕け散り、持つ者の命を守ってくれる。
一人の兵がそれを素早く拾い、すぐさまサンチョへと渡した。これまでにも何度かこうして、ストーンマンを討伐の後にこの石を手に入れていた。サンチョ自身今も、一つの命の石を懐に収めている。他にも手に入れた命の石を、必要と考えられる者たちへ渡してある。
敵が群れになって一斉に襲い掛かって来る雰囲気はない。しかし後から後から敵は姿を現わすという状況。終わりは見えず、終わりはないのかも知れない。この状況においては己もまた一人の国を護る者として戦わざるを得ないと、サンチョは手に馴染んでいる大金槌を力強く振り回す。
その際にふと、森の木々の間から覗く、朝日に照らされる青空を見上げた。天空遥か高くに、竜神が大きく弧を描いて旋回している。しかしその姿は唐突に止まった。まるで思案するような間を見せ、直後、マスタードラゴンはグランバニアの上空を去った。その方角は北。サンチョの胸に去来するのは、生前の主と、その夫人。主は誰よりも勇ましく猛々しく、主が選んだ夫人は誰よりも美しく凛としていた。心から敬愛していた。夫人マーサはここより北、エルヘブンという村からグランバニアへ移ってきた方だった。サンチョは己の胸の中を突き刺されるような痛みを覚えたが、己の中の不安などに負けまいと、声を上げて大金槌を手に敵へ向かって行く。



か細い月が闇のような夜空に浮かんでいる。それでもこのテルパドールの広い砂丘を照らすには十分な役目を果たす。岩山や木々など、隠れる場所のないだだっ広い砂丘の中を動く悪しき魔物の姿を、女王アイシスは玉座の間から、その鋭い目に映している。動きは鈍い。しかし確実に、多くの人間が暮らすこのテルパドールへと各々の方角から向かってきている。
テルパドールは城の周囲に民が住まいを構え、暮らしているが、今は全ての民が城へと身を移している。万が一にもテルパドールの国の内部に魔物が入り込んだ時には国民を一人たりとも見捨てないのだと、アイシス女王は日が傾いた頃にはそう指示を出し、国民に周知していた。テルパドールと言う国は、国民からアイシス女王への敬慕の念が深く、一度女王からの言葉があれば民は疑いなくその言葉を信じる。それは伝説の勇者の供をした者の末裔がアイシス女王であるという誇りに満ちた歴史があり、国民はその歴史とアイシス女王自身の神性すら感じさせる外見や振る舞いに心酔しているという背景があるからだった。アイシスもまた自身の系譜に尊厳を感じ誇りを持ち、自らそのようにあるべきと常に意識している。
今、伝説の勇者の血を引く少年は、この世界を救うための旅の最中にある。あの父王が在る限り、勇者の少年の身は悪しき魔物に脅かされないであろうと、アイシスはグランバニア国王の優し気でありながらも、意志の強い漆黒の瞳を思い出す。その口からは一切の労苦は語られなかったが、彼の人生が波乱に満ちたものであろうことは容易に想像できた。ただでさえ彼は勇者の父親という立場になってしまったのだ。
夜空に浮かぶ細い月が、雲に隠れた。この地上世界広く、復活した竜神マスタードラゴンがその力を及ぼし、地上に生きる悪しき魔物の力を抑えているはずが、今はその偉大なる力にもアイシスは不安を覚える。月の明かりに照らされていた砂漠の景色が全て翳り、代わりに砂漠のあちこちに点在している魔物の目が怪しく光り、それらがすべての方角からテルパドールを目指し進んできている。アイシスはこれまでに、砂漠に生きる魔物の目がこれほどまでに爛々と光り、それら全てがテルパドールへ向けられている悍ましい状況を見たことがない。月を隠す厚い雲は晴れそうにもない。まるで巨大な魔物の手が伸びてきて、細い月を掴んでしまったかのように、月明かりは暗雲のその向こうに隠れてしまった。時折砂漠地帯に降る雨をもたらすような雲でもなく、ただただ人々の不穏を煽るような暗雲が空に広がり、合わせて悪寒を伴うような冷たい風を運んで来る。
未来を予知する能力を授かってしまったアイシスの脳裏にはほんの一瞬、地上世界全てがこの暗雲に包まれてしまうほどの異様の景色が映り込んだ。陽光も月明かりも星明りもない、どこまでも暗雲立ち込める空の下、人々は地に倒れ、世界に悪しき魔物が跋扈するその光景に、常に冷静沈着を保っているアイシスも堪らず息を呑み、眩暈を覚えたようにふらりと一、二歩よろめいてしまった。
仕えの女官の声に励まされるように、アイシスはすぐに集中力を取り戻すと、このテルパドールを脅かす魔物の群れに向かって、目を閉じ、遠隔呪文を放つ。彼女は自らの力が戦いの補助に留まってしまうことに今ほど悔しいと感じたことはなかった。勇者の供の子孫という肩書を持ちながらも、敵となる魔物に対して有効に使える呪文は眠りを誘うラリホーマという呪文のみ。勇者の供をした己の先祖がたった一つの呪文を操り、勇者を助けたとは思えない。しかし子孫として自身に継承された力はこの能力に限られていた。もしあのグランバニアの王女のような強力な呪文の使い手であれば、テルパドールの国をもっともっと力強く守れるものをと、女王の表情は悔し気に歪む。
しかしアイシスの遠隔呪文があればこそ、テルパドールを守る兵士らは戦うことができるのも事実だった。強烈な眠りの力に抗えずに砂漠に倒れる魔物は、戦う数から省かれる。その状況を武器にして、テルパドールの兵士や、同じくテルパドールの国を護ろうと剣を手に戦うシュプリンガーらが砂漠の中に戦っている。誰一人、たった一人で戦うものはいない。皆が皆、それぞれの形で戦い、支え合っている。
それはテルパドールと言う国に限ることでもないのだと、アイシスは空をすっかり覆おうとしている暗雲を見上げ、話に聞いただけの他国の事を思う。テルパドールの女王はその身に帯びる特別な能力により、今起こっている地上世界の危機を否が応でも感じている。この暗雲はテルパドールにのみ生まれているものではない。先ほど、脳裏を掠めた暗く荒れた地上世界の情景は、決してただの幻とは言い難いと思うのは、彼女が最もよく理解している彼女自身の能力故だ。
「……あくまでも、予知に過ぎません」
アイシスはこれまで己の脳裏を過る予知に疑う余地を持たなかった。その内容が良かろうが悪かろうが、信じ、冷静に対処してきた。しかしこの度彼女の脳裏に現れた予知の現象は、決して信じてはならないものだ。信じた先には、何もない。信じなければ、助かる道はある。
アイシスは生まれて初めて己の予知に蓋をし、テルパドールの民を守るため、遠隔呪文を使うために目を閉じ、その瞼の裏に砂漠の景色を広く映し出す。集中するアイシスの瞼の裏の景色には決して絶望的な予知の景色は映らない。



そろそろ夜が明けるはずだと、大聖堂にも見紛うような教会の窓を見るが、そこは暗く、朝の気配は見えない。夜も大して眠ることなどできないと、朝も明けぬほどの早い時から、フローラはまるで海辺の修道院での生活を思い出すように教会に足を運んでいた。本来であればルドマン家で面倒を見ている子供たちの傍にいるべきなのだろうが、彼ら彼女らには他にも面倒を見てくれる者たちがいる。フローラ自身、幼い頃に親元を離れ、海辺の修道院に預けられて暮らしていた。初めの内は当然のように、両親から遠く離れた場所に暮らすことに寂しさを感じないではいられなかった。しかし修道院に暮らす修道女らは一人として、フローラに辛く当たったりはしなかった。むしろ彼女らもまた各々事情を抱える身であり、それ故に幼くして両親の下を離れて暮らすこととなったフローラに情をかける優しさを持っていた。人は辛い経験をすればそれを糧に、他人の辛さに同情することもできるようになると言うものだ。
フローラが教会と言う場所に求めるのは、落ち着きだった。幼い頃の経験と言うのは大人になっても忘れず身についている。サラボナの教会の扉が閉ざされる時間はない。一日中、いつでも迷える子羊を迎え入れ、気の済むまで祈りを捧げることを許されている。しかし今、フローラは教会で静かに祈りを捧げているわけではなかった。
サラボナの町のごく近くで、町の自警団の者が数人魔物との戦いに傷を負い、教会で手当てを受けていた。神父もシスターも眠ることも忘れて怪我人の手当てにかかり、フローラもまたその手伝いをしている状況だった。フローラ自身、もしかしたら胸騒ぎを覚え、こうしてまだ夜も明けぬ時間に教会を目指し家を出たのかも知れないと、今になってそう思い至った。
夜明け近くになっているというのに、一向に夜明けの気配がない外の様子に、夜中に目を覚ましたフローラはその違和感に抗えないように家を出てきたのだ。夫アンディには正直にその違和感を伝え、彼はフローラを心配しつつも、彼女の行動を止めることはなかった。お淑やかに見えても頑固で、一度決めれば意思を曲げない彼女の性格を知っているが故に、アンディはただ杖をつきながら妻にお守り代わりにと自身が指にはめていた祈りの指輪を彼女に渡した。アンディ自身は呪文を使うことはできないが、フローラがいくつかの呪文を使うことを彼は知っている。決して回復呪文だけを身に着けているのではないことをアンディは知っていた。海辺の修道院で身に着けた献身の精神は、心優しいフローラにある種の行動力を与えた。魔物の行動が以前に増して活発化しているこの状況に、フローラは怪我人の傷の手当てをするに留まらない術を身につけたいと、日頃呪文書を手にして熱心に読んでいたことをアンディは夫として当然目にしていた。
教会に運ばれる怪我人の数は、今までに見たこともないほどに多くなっている。今ここに運ばれている人々が自警団から一時的に離脱しているということは、それだけ現場にいる町の守り人の数が減っていると言うことだ。フローラは今の状況にもどかしい思いを抱くと共に、常に旅人のような身軽な格好をしている友人でもあり、一国の王でもある一人の男性を思い出す。一国の王と言う立場にありながら、彼は自国の城に留まることなく、いつでもどこへでもまるで風のように移動している。彼のその行動の根底には、ただ困っている人を放っておけないという素直な思いがあるのだろう。夫アンディもまた、あの死の火山と言われる場所でリュカに助けてもらったという。
人に手を差し伸べるには、自身もまたそれなりの力を持っていなくてはならない。無暗に手を差し伸べても、それは時により相手に迷惑になるのだと、フローラはこれまではそう思い、分不相応なことなどせぬよう弁えてきた。しかし彼女の心の中にはいつもあの黒髪の友人の姿があった。今や愛だの恋だのと言う対象にはなり得ず、しかし心の中で常に彼は尊敬の的となっていた。一見すれば楽観的、しかしその楽観にもどこか内実が伴っているのだから、任せていられる雰囲気が漂っているのだ。
フローラもまた、回復呪文に留まらず、いくつかの呪文を身に着けることに成功した。呪文を使うことができるかどうかは、その者の生まれながらの才によるらしい。幸いにもフローラは呪文の才に恵まれていたようで、彼女は努力の末に回復呪文だけではない、他の呪文をも習得した。新たな呪文の習得により彼女は今までにない自信を持つに至った。
今のこの状況、町を守るために必要なのは、一人でも多くの戦いに赴く者だと、教会で怪我人が運ばれてくるのを待つ己の立場に留まるべきではないのだと、教会の扉へと目を向けた。時を空かずに再びそこから怪我人が運ばれてこないとも限らない。今の己はその怪我人を減らすことに助力できるのだと、フローラは颯爽と教会の扉を開き、外へと出て行った。
空を見上げれば、もう夜明けの時間になるというのに、一面の暗雲が空を覆っていた。朝の気配はまるでない。暗雲が完全に朝の光を遮り、さながらこの世のものではないような景色に見えた。それだけで全身に悪寒が走り、思わず教会を出たところで足を止めてしまう。しかしやはりと言うべきか、またしてもこの教会を目指して運ばれてくる負傷者の姿があった。簡易担架に乗せられて運ばれてくる負傷者は動かず、それだけで酷い怪我を負っているのだとフローラには見て取れた。己の回復呪文では彼の傷を癒すことは不可能だと、フローラの横を通り過ぎて行った彼らを見過ごし、彼女は小走りに町の外へと向かう。
町の外へ出る前から、魔物の咆哮が聞こえた。これほど近くに魔物の声が聞こえることはなかったと、フローラは覚えず身体を震わした。その一方で、魔物にも話の分かる者がいることを頭の片隅に冷静に思い出す。グランバニアの国王は、勇者として生まれた息子と、勇者と血を分けた双子の娘と、幼い頃から彼の心の拠り所となり、今は最も近くで彼を支える美しくも強い妻、そして彼の危険な旅を大いに助けている多くの魔物の仲間たちと共に今も危険な旅を続けている。魔物と言えども、全てを同じと見做すことは間違えているのだと、彼を助ける表情豊かな魔物の仲間たちの姿を思い出せば、今近くで聞こえる魔物の咆哮に無暗に怯えることはないと己に言い聞かせることができる。
町の外へ出る前に、当然のように町を守る兵によりフローラは外へ出ることを止められた。フローラがサラボナの町の大富豪ルドマンの一人娘であることを町の者たちは一人残らず知っている。フローラも無理を通して外に出るのではなく、落ち着いた説明と、二人の兵に守られての行動を承知した上で町の外へと踏み出した。
敵となる魔物の姿は、すぐ近くに見えた。サラボナの町を守ろうと、人々が手に剣を槍を持ち、戦っている。悪しき魔物なのだと、暗がりの中にも見えるその顔つきに、フローラは明らかにリュカたちが行動を共にしている魔物とは違うことを悟る。フローラは魔物と戦う術を身に着けているわけではない。しかし彼女は戦うサラボナの人々を援けるためにと、呪文の構えを取った。
彼女と夫アンディの間に、子はなかった。しかし世界的にも最も有名であろうルドマン家の娘に生まれた彼女は、町の外れに子供たちのための学校を作り、そこを孤児院の意味合いも兼ねて運営している。海辺の修道院で幼少期を過ごしたことは、彼女に献身の精神を身につけさせた。父ルドマンは恐らく、大富豪の立場におごることなく、常に人のために生きよということを身につけさせるためにも、大事な一人娘を遠く離れた海辺の修道院に預けたのだろうと、今となってはフローラは父のその行動に心から感謝している。
献身には行動が伴わねばならない。それは人のために祈りを捧げるのも一つだが、フローラはその先を求めた。世界を救うのだと常に先へ行くあの友人家族を知りながら、町の中でただ祈りを捧げているだけに留まるのは、彼女の考える献身の精神に比べれば不足していた。更に人の援けになることができるはずだと、彼女は今、二人の兵の守りの中で、戦う者たちの援けとなるように呪文を放つ。
敵である魔物の守りの力が削がれ、相対的に人々の攻撃の手が強まる。補助呪文の威力と言うのは兎角地味ではあるものの、見えない力で味方の戦力を底上げするという意味で、相手にとっては脅威そのものだ。敵である魔物は、フローラが唱えたルカナンの呪文の効果に気付くことなく、人間の兵たちによって倒されて行く。しかしまだ、敵の数は多い。
フローラは一度唱えたルカナンの呪文が成功したことで、己への自信を高めると同時に、気持ちは落ち着いた。習得した呪文は確実に戦いの中にある人々の力になるのだと、フローラは二人の兵の守りに入りながら休まず呪文の詠唱に入る。
眠りに落ち、戦闘から離脱する魔物、幻に包まれ、あらぬ方向へ向かう魔物、尚且つ味方である人々の攻撃の力を高めるためにも呪文を唱え、フローラは今己に出来ることの全てを出そうと、習得した呪文を全て駆使した。町の入口へと向かってきていた魔物の大勢を弱め、町を守る兵らの負担は見る間に軽くなった。
夜明けが来ない。空を覆う暗雲を見上げて見れば、それは空の端にまで届き、切れ目がない。見渡す限りの分厚い雲の景色に、フローラは思わず眉を顰める。サラボナの町の空に、これほどの暗雲が立ち込める景色を見たことがない。海も近く、一年を通じて陽気な気候に恵まれたサラボナの町に、これほどの冷たい風が流れてくるようなこともなかった。明らかに奇妙な兆しに、戦う兵たちにも不安めいた雰囲気が漂うが、フローラはそれすらをも払拭しなければならないと新たに呪文の構えを取る。
町へと向かってくる魔物の姿が見える。その目はこの暗い夜明け前の景色の中でも赤く爛々と光り、端からこの町を襲おうという意思をはっきりと見せている。今は魔物にも悪い者はいないという考えを忘れなければならないのだと、フローラは既に多少の息切れを起こしながら呪文の詠唱を試みる。
習得していたと思っていた呪文だった。彼女は人々を守るためには必要な力なのだと、その呪文を身に着けたはずだった。しかしその呪文の詠唱は、いざ魔物を目の前にして上手く行かなかった。魔物らが目の前で炎に包まれる光景を想像することに対し、彼女はまだ覚悟ができなかったのだ。放ったはずのベギラマの呪文は彼女の手に少しの熱をもたらしただけで、暗い夜明け前の景色に少しの明かりを灯すこともなかった。不発に終わったベギラマの呪文だが、相応の魔力を消耗したせいで、魔法使いとしては到底未熟なフローラの魔力は底を尽いてしまった。
この戦いには終わりがないのであろうと、町を目指してやって来る魔物らの姿を目にすれば、フローラはここで引き下がるわけには行かないと感じた。夫アンディから渡された祈りの指輪に、強く念じるように祈りを捧げる。魔力を有する祈りの指輪から加護を得たフローラは、己の魔力をいくらか回復させ、町を守るために戦う兵たちと共に戦いの場に留まる。
「私にできることをやらなくては……」
世界を救うほんの小さな一助をと、フローラはすっかり震えなくなった両足で地に立ち、放つ呪文の選別を、相対する魔物との姿形に、距離にと見定めようとする。



到底、昼を過ぎたばかりの長閑な時間帯とは思えないような、暗く染まった辺りの景色に、負けじと空色の目で辺りを見渡す。一時、この国は自らの悪政により、そこにつけ入った悪しき魔物の影響により、滅びかけた過去がある。しかし滅びる前に、手当てが間に合い、十年ほどの月日をかけて国は悪政前の状態にまで戻ることができたと言っても良いほどにはなった。二度と、この国を危機に陥れてはならないという思いを、彼は誰よりも強くその空色の目に露にしている。
以前、ラインハットの城より見える北西の大平原で、魔物の大群と戦闘を繰り広げたことがあった。その時からまだ一年も経っていないが、今また魔物の群れがラインハットと言う人間の国を目指して、方々から姿を現わしていた。現れる魔物の顔ぶれを見る限り、そのものらは全て元よりこの地に棲息している魔物たちだった。いつもダンスを踊っているような陽気なダンスニードル、ドラゴン族の中では非常に小さいベビーニュート、身体だけはやたらと大きいが逃げ足の速いお化け鼠、体毛で顔を隠しつつ大きな木づちで戦うブラウニー、そしてただの敵とはどうしても思えないスライムナイト。それらが特別なまとまりもなく、しかし明らかにラインハットの城を目指して近づいてきているのだ。
ラインハットを守る兵たちも当然日々訓練を積んでおり、これらの魔物に対して早々倒れることなどない。魔物にも命に対する恐怖と言うものがあり、戦う術を身に着けた人間の兵士相手に無暗に戦いを挑むなどと言うことも、本来ならばないはずだった。しかし今の魔物らの目には、ある種の狂気がはっきりと見て取れた。魔物自身は恐らく、自らの意思で戦いたいとは思っていないに違いない。しかし彼らの意思など関係ないというような、何か圧倒的な力が働いているのだと、ヘンリーは周囲にいる兵たちと意を同じくして魔物らの様子を見つめていた。
ヘンリーが馬上から振るうのは、ラインハットの王族としてはお忍びで通っていたカジノで手に入れたグリンガムの鞭だ。彼は自らが重量ある剣を振るうほどの腕力を持ち得ないことを悟っている。流石に三十路を過ぎて今更劇的に筋力が向上することなどなく、また男の中では華奢な部類に入るであろうことを、一つ年下の親友の成長ぶりに嫌でも自覚している。かつて奴隷の身に落とされていた頃はそれを散々受ける立場にあったが、それ故か、ヘンリーは鞭の扱いを身に着けるのにそれほどの時間をかけなかった。何事の経験も無駄ではないのだと、内心苦笑いしながら彼は鞭を振るう練習を重ねたものだった。
ラインハットを脅かそうとする魔物らの脅威は、正直なところ万全の体制を敷いているラインハットにとってはそれほどのものとはならない。敵である魔物らは決して連携を取ることなく、散発的にラインハットに近づいてきて各々に攻撃をしかけてくる。当面はその攻撃にこちらも各々対応していれば済む話だと理解しつつも、脅威となるのは、それに終わりが見えないことだ。
昼過ぎという時間帯にも関わらず、空を覆う暗雲は一向に空一面に留まり、まるで動く気配がない。見える動きと言えば、ただ不穏に蠢くだけと言った表現が正しいような、不気味極まりない光景が見れるだけだ。この暗さだけで、本能的に陽光を望む人間の力は弱められ、本能的に陽光を嫌う魔物の力は強まる。ラインハットの兵士たちが簡単に倒れることはまず考えられないが、それはあくまでも今の時点での話に過ぎない。ラインハットへと近づいてくる魔物の数に終わりが見えない状況を嫌でも考えれば、人間側の立場は徐々に不利に追い込まれて行くのは避けられない未来だ。
同じく馬に乗り戦う兵たちの間を抜け、ヘンリーは苦戦している戦いの場へと駆けつけた。この辺りに棲息する魔物の中では、スライムナイトという魔物は厄介な部類には違いない。回復呪文の使い手でもあり、剣技もそれなりの腕前を持っている。しかしヘンリーにとって、このスライムナイトらの強さは鼻で笑うほどのものだと感じた。
左手で手綱を操りながら、右手に持つグリンガムの鞭を鋭い音を立てて振るう。三叉に分かれた鞭の先は、五体いるスライムナイトの群れに余さず攻撃を加える。魔力を帯びている気配はないが、まるで鞭の先が自ら得物に狙いを定めるように奇妙な動きで敵に当たりに行くのだ。そしてその打撃の威力は剣にも劣らず、五体のスライムナイトの内四体を一度に地に伏せてしまった。
残る一体が、倒れた仲間に見向きもせずに、しかし仇を打つとでも言うように、ヘンリーと対峙する。決して逃げようとはしないその姿勢に、ヘンリーは僅かに親友を主と慕う彼を思い出すが、その彼とは決定的に異なる行動をするスライムナイトに厳しい表情を示さずにはいられない。
「あいつなら、先ずは仲間を回復するだろうな」
ヘンリーが一挙に地に伏せた四体のスライムナイトは決して命を落としたわけではない。グリンガムの鞭の激しい打撃にただ気を失っているだけだ。回復呪文が使えるスライムナイトならば、ホイミの呪文で仲間を助けることができる。そしてヘンリーの知るピエールというスライムナイトならば、既に隙を見て回復呪文を施していたようなタイミングだった。
馬に乗る人間の言葉を理解していないはずもないが、残って立つスライムナイトはやはり気を失っている仲間には目もくれず、ヘンリーに向かって突進してきた。しかし振り上げた剣が相手に届く前に、ヘンリーが振るう鞭の先がスライムナイトの兜を上から打ちつけた。鞭の先についた鏃が激しく当たり、スライムナイトの被る兜に亀裂を生じさせる。打たれたスライムナイトは頭部を撃たれた衝撃に参ったのか、兜の中に響く轟音に堪らず目を回したのか、他の四体同様にその場に倒れてしまった。
後ろから兵の声がかかった。振り向くと同時に馬の首を引き、乗る馬を束の間立ち上がらせる。馬の足元に木づちを構えたブラウニーが向かってきていた。ブラウニーは振り上げた木づちを馬の足を目がけて振り下ろそうとしていたのだ。しかし避けられ空振りをし、バランスを崩してそのままブラウニー自身が地面に倒れてしまった。ヘンリーがその魔物にも攻撃をと思った時には、兵が先に武器の木づちを蹴り飛ばし、敵の魔物の攻撃力を物理的に削いでしまった。
空に立ち込める暗雲の中、北の方角から三つの黒い点が見えたのを、ヘンリーは誰よりも早く目にした。目にするよりも先に、その方角から迫る激しい悪寒を覚えたのだ。ラインハット城の北には高い山々が聳え、そこらの魔物が越えて来られるようなものではない。飛行可能の魔物であっても、わざわざこの山々を越えて来るまでもなく、少々迂回すれば山を避けて城に近づくことができる。
ヘンリーが悪寒を感じたのも無理はなかった。一度はあの青い巨大鳥の死の呪文の前に倒れた。しかし彼は覚えた悪寒の衝撃をすぐに克服するように、寧ろラインハット城を目指して飛んで来るホークブリザードに立ち向かうべく、単身城の裏手へ向かって馬を走らせ始めた。国の兵たちが主であるヘンリーを放っておくはずもなく、すぐさま五騎が後をついて行く。
三体のホークブリザードは迷うことなく、ラインハット城の最上部を目指し滑空していた。三体の目には人間の城の最も重要な箇所しか映っていない。ある種隙だらけの三体の行動を封じるように、空中で唐突に爆発が起こった。馬で駆けながらヘンリーが放ったイオの呪文が、ホークブリザードの群れの中で爆発を起こしたのだ。
イオの呪文ごときで敵が倒れるとも思っていないヘンリーは、その後も冷静に敵の様子を窺っていた。案の定、爆発を食らっても尚、中空に留まるホークブリザードの姿に、ヘンリーは再び呪文を放とうとはっきりと武器を手にしたままその手を敵に向け、構えを見せる。ヘンリーが使用できる攻撃呪文は初級の爆発呪文イオしかない。たとえイオを五発十発放ったところで、ホークブリザードが地に落ちることはないだろう。
ヘンリーが派手に馬で駆け、攻撃の意図を示して手を向けているのは、敵に対する挑発の意味が大きい。ラインハット城の最上部に敵を向かわせるわけには行かない。幸いにも、彼の意図通りにホークブリザードは三体ともその注意を馬で駆ける人間へと変えた。冷気の中に生きるような真っ青な身体をした巨大鳥だが、その目だけが赤く爛々と光っている。敵の目に現れる明確な殺意に、ヘンリーは全身が粟立つのを止められないが、それでもついてきた五騎の兵たちを城の陰に隠れるように誘導し、自らはまるで単騎でいるように振る舞い、三体のホークブリザードの注意を引きつける。
向かってくるホークブリザードは既に死の呪文の気配を隠しもせず、三体揃ってヘンリーを標的に飛び向かってくる。あまりにも攻撃的で、半ば我を失っているように見えるホークブリザードらの目に、陰に控える五騎の兵たちの姿は映っていない。ヘンリーは手に武器を構え、兵たちは敵との距離を冷静に計り、青い巨大鳥は滑空の最中に一人の標的に向かって死の呪文を放った。
三体の内、一体の死の呪文はヘンリーの命には届かなかった。しかし他の二体の死の攻撃が、ヘンリーの息の根を止めるために彼の命の在処を探る。同時に敵の群れはそのままヘンリーへと突っ込んでくる。控えていた五騎の兵たちが駆け出す。ヘンリーの左胸の辺りで、パリン、パリンと立て続けに何かが割れるような音がしたが、この状況でその音を耳にした者は誰もいない。己の命は確かに守られていると信じているヘンリーは、馬を操りながら、グリンガムの鞭を唸らせ、突っ込んでくる敵に対して鞭を構える。
ホークブリザードの表情には攻撃の意思しか見られなかった。それ故に、ヘンリーもまた武器を向けることに何の躊躇もなかった。しかしヘンリーは戦士としての己の非力さを誰よりも自覚しており、それ故に思考は人よりも現実的だ。武器を掲げながらも彼が取る行動は、敵の目を眩ませることだった。
幻惑の呪文マヌーサの効果に閉じ込められた二体のホークブリザードが、中空で急停止し、あらぬ方向へ攻撃の嘴を向けた。駆けつける五騎の兵らの剣が届くほどの低空にまで飛び込んできた敵に対し、当然の如く騎馬兵たちの剣が閃く。残る一体の攻撃を、ヘンリーは正面から受けることなく躱し、ラインハットの城から遠ざかるように逃げる。敵の目は赤く光り、既に当初の目的であろうラインハット城への直接の攻撃という意義を忘れている。空には変わらず暗雲が一面に立ち込める。魔物の攻撃性が高まっていることと関係しているのだろうと言うことは、誰の目にも明らかな状況だ。
追ってくるホークブリザードから再び、死の呪文の気配を感じた。ヘンリーは手綱を引き馬を止め、馬の首を返す。同時に放つのは、イオの呪文だ。小さな爆発でも、敵の足止めにはなると放ち、同時に武器を構える。少しでも敵に冷静さがあったら、ヘンリーはこの場で倒されていたかも知れなかった。しかし敵の目は何かに操られているかのように赤く染まり、到底その目に冷静さは戻ってこない。対してヘンリーは寧ろ敵のその目を見て落ち着き、狙いを定めてグリンガムの鞭を振るい、その先の鏃がホークブリザードの喉元に命中した。一撃で地に落ち、間もなく絶命したホークブリザードは、寧ろ己が死の呪文を食らったようなものだった。
五騎の兵たちも二体の魔物を倒し、ヘンリーの下へと駆けつける。ヘンリーは再び空を見上げ、新たな敵の気配がないことを確かめると、己の左胸に静かに手を当てた。左胸のポケットに、小さな石がぶつかり合うようなジャラジャラした感触がある。それは交流あるグランバニアの古くからの従者より“お守り”として贈られたものだった。命の石と呼ばれる、いざという時に己の身代わりになるとされる特別な魔力を秘めた、指の先程の小さな石を三つポケットに忍ばせていたのだ。ラインハットで以前、死の呪文を操る凶悪な巨大鳥が現れたことをグランバニアの従者は耳にし、すかさずメッキーに命の石を託し、ヘンリーに渡していた。グランバニアの周辺ではこの貴重な石を持つ魔物がいるらしく、手に入れた命の石の内の三つをラインハットへ送りつけてきたらしい。その全てをヘンリーが所持しているのは、渡そうとしたラインハット王、王姉、王子の三人に断られたからだった。彼らが口を揃えて、これを持つべきは王兄であると譲らなかったために、ヘンリーはその全てを自らの身に着けることとなった。そして今、その内の二つを失った。
兵から声をかけられた。兵たちもまた、ヘンリーが命の石を身に着けていることを知っていた。それ故の、ホークブリザードとの戦い方だった。ヘンリーは胸ポケットの中でいくつかの石が割れたのを知っていたが、確認はしなかった。いくつかは割れただろうが、いくつかは残っている。お守りは残っているのだと信じるだけで、彼は再び死の呪文に立ち向かうことができると感じた。元来、お守りというのはそのようなものなのだろう。お守りがあるから守られるという単純なものでもなく、お守りがあるから守られると信じるから守られる、と感じるのが正しいはずだと、ヘンリーは命の石を授けてくれた親友の父親代わりとなる人に心の中で感謝を述べつつ、五騎の兵らと馬を並べ戦いの場へと早足で向かう。
彼らの頭上で、暗雲はますます厚くなり、地上にいる魔物らの凶暴さは徐々に増していく。状況は悪くなる一方で、この地上世界に魔物がいる限りこの戦いに終わりが見えない。ヘンリーは今は、妻のマリアを見習うように、ただこの地上世界が滅ぼされないように祈りを捧げる。そして、地上世界にはいない親友家族の無事と、勝利の運命を信じる。



村に朝が訪れない。しかし村人たちは一人として眠ってはいなかった。ある者は外に出て暗雲渦巻く空を見上げ、ある者は寒さを紛らそうと焚火をし、ある者は家の中に籠り静かに祈りを捧げる。
まるで一本の巨大な樹のように見えるエルヘブンの村の、その頂上に、祈りの塔がある。その上方を中心として、厚い暗雲が渦巻き、今にもその渦の中心が口を開こうとしているように見える。
祈りの塔の内部、四人の村の巫女が東西南北の位置に各々座り、その中心に大きな水晶玉が据えられている。微かに鈍く光るオーブの中に映し出される景色は、四人の巫女であっても僅かに見える程度のものとなってしまった。オーブの力の源を支えていたに等しい大巫女が、この世から消え去ってしまった。
四人の巫女たちはその瞬間を、夢の中に見ていた。命が尽きる大巫女マーサの想いを、エルヘブンに残された四人の巫女たちは揃って受け取っていた。そこにあったのはただの哀しみではなかった。たとえ命が尽きようとも、その命が帯びていた想いは決して消えることはないのだと、想いを継ぐ子らに託すマーサの安堵を、エルヘブンの巫女たちは夢の中に感じていた。まるで悲観を感じなかったのだ。マーサという偉大な存在がこの世から消えたというのに、微笑みさえ浮かべて、四人の巫女たちは夢から覚めた。目尻から涙は流れていたにも関わらず、彼女たちは意を同じくして、託された希望の想いを守らねばならないと、いつもと同じくオーブに祈りの力を向ける。
鈍く光るオーブの中に映る景色は、このエルヘブンの村の上空に渦巻く暗雲と同じく、ただ濁った灰色が靄のように漂っているだけだ。巫女たちの祈りの力はひたすら純粋で、そこにマーサを悲しむというような沈んだ思いはなかった。巫女たちはいつもの通り、いつもより強く、オーブへと祈りを向ける。邪魔をする靄はところどころ、晴れて行く。
エルヘブンの村の近く、村を守るゴーレムたちが戦っている。空は暗い。まるで夜かと見紛うほどに暗い中、ゴーレムたちは異様に攻撃性を増した魔物と対峙している。暗い中で、敵となる魔物の目は赤く光り、相手が手強いゴーレムということなど関係なく、ほぼ考えなしに攻撃の手を強めて来る。ゴーレムたちの護りの手だけでは足りず、戦う術を持つ村人たちも村の外へ出て武器を手に戦いを始めていた。
エルヘブンの村の自然豊かな森にも川にも、人間の目には映らない者たちが存在している。この地上世界には気ままに姿を現わすだけで、彼らの本来の生きる場所はこことは異なる場所にある。しかし今、妖精たちは誰の目にも映らないことを武器に、草の中に隠れ、木の幹に隠れ、岩の陰に隠れながら、この戦いに手を貸していた。敵となる魔物らが唐突に奇妙な行動に出るのは、その為だった。ゴーレムに向かってきていたかと思えば、途端に向きを変え、何もない場所に攻撃の手を向ける。敵の知らぬうちに、その硬い身体の防御の力を弱め、ゴーレムたちの攻撃力を強める手助けをしている。妖精たちは元来、いたずら好きで、その性格からか幻惑呪文マヌーサや、敵の防御力を削ぐと言ったルカナンのような補助呪文を習得する者が多い。直接敵と戦う力はないものの、妖精にできることをと、この地上世界の危機に姿を見せずとも共に戦っている。唯一、そんな妖精の存在に気付いているのが、オーブを通して景色を覗いている四人の巫女たちだった。
ふと、地上の暗がりが明るく照らされたような景色が映る。暗雲渦巻く空の中に、その暗雲をかき乱すような巨大な竜の姿が見えた。南の彼方からやってきたマスタードラゴンが、エルヘブンの窮地を知ったのであろう、地上を覆おうとする黒い暗雲をその身で散らそうと、空を切り裂くように鋭く飛んでいる。マスタードラゴンの存在そのものが、人々に活気を与える。エルヘブンの民らもまた、直接に空を行く竜神の姿を目にし、それぞれに心の中に勇気が湧くのを感じる。
しかしそのマスタードラゴンの巨大で強大な竜の身体を真似るように、しかしなり切れずに蛇のような形を象り、黒い暗雲が意思を持つように黒蛇の口を竜神に向ける。ただの暗雲ではないことは、誰もがその身に感じていた。しかしたかが暗雲もどきに、マスタードラゴンが倒されるなどとも思わない。暗雲が形を変えた黒の大蛇が、竜神と戦うのではなく、竜神の巨大な竜の身体を全て飲み込んでしまうように、巻き付く。あくまでも、実体のない暗雲だ。しかし消えては現れ、消えては現れる黒の大蛇の執拗さに、竜神は己が竜神だと言うことも束の間忘れ、大口を開けて攻撃を仕掛けそうになった。その瞬間、エルヘブンの村にまでも、竜神が口から吐き出しそうになる業火を思わせる炎の熱が届き、村ごと溶けてしまうような光景が一瞬、多くの村の民の脳裏に過った。竜神は口の中に生まれていた炎を己の中に圧しとどめ、どうにか黒の大蛇を身体から引きはがそうとする。竜神の力は凄まじく、たとえばその口から一度炎を吐き出そうものなら、竜神が眼下に望むエルヘブンの村は瞬く間に消え去ってしまう。竜神自ら、この地上世界で力を発揮するわけには行かないのだ。もしその力が放たれる時があるならば、この地上世界を破壊しなければならない時だ。しかし、そんな時は決して来ないのだと、竜神自身が人間を信じている。
四人の巫女たちが竜神の姿に強い加護をその身に感じつつ、中央に据えるオーブへと祈りの力を向ける。マスタードラゴンの羽ばたく翼の向こう側、竜神が守ろうとするこの地上世界の向こう側へと通じる扉の光景がぼやけて見える。
それまでは長らく、膨大な聖なる水の流れる滝の裏側に隠されていた場所だった。魔界に通じる扉は、エルヘブンの大巫女であるマーサにのみ開けることができるものだった。しかし、この扉の封印を、マーサではない者が破り、魔界へと足を踏み入れた。彼女の息子であるリュカだった。幼い頃より尊敬する父と共に世界を旅し、長らく旅をする中で手に入れた炎のリングと水のリング、そして最後の鍵となっていたマーサの持つ命のリングをも手に入れ、彼は魔界の扉を開き、見も知らぬ魔界という場所へと足を踏み入れた。
今、エルヘブンの北東に位置する海の神殿では、二体の女神像の手の上に炎のリング、水のリングが乗せられ、マーサが持っていた命のリングは息子リュカが母の形見の如くその手にしている。一つの鍵を外された魔界の扉は、それまでならば聖なる水の力の中で大人しく扉を閉じているはずだった。しかし魔界の底からの禍々しい力は凄まじさを増しており、扉を隠す滝の水の量が減り、その流れは弱々しい。
並ぶ三体の女神像の、中央の女神像の前に、一人、両手を組み合わせ祈りを捧げるような女性の後ろ姿がオーブに映る。その姿に、四人の巫女たちは見入り、息を呑む。この世から肉体は消えても魂は消えないということを、その後ろ姿は示している。
まだエルヘブンの村に暮らしていた頃のマーサは、エルヘブンの大巫女としての責務を一身に背負うように、この海の神殿へと足を運んでいた。数百年の単位で魔界の門の封印を守る役目を負っているエルヘブンの大巫女という存在は、代々この海の神殿の封印の力を弱めないように絶えずこの場を訪れていた。その時のマーサの幻影が、三体の女神像の前に両膝をつき、深い祈りを捧げている。三体の女神像の内二体は、その手に炎のリング、水のリングを乗せ、まるでマーサの幻影に応えるように赤と青の強弱ある光を放っている。その強弱の様子は人の鼓動のようでもあった。
オーブの中の景色が一瞬、赤と青の光に包まれ、混じり、紫の色を放ったかと思えば、女神像の前で祈りを捧げる姿を見せるマーサの幻影はほとんど消えかけてしまった。その姿は微かに浮かび上がるほどで、代わりに女神像の後方に流れる大滝の力は見るも明らかに弱まった。
封印の中に在るはずの、大滝の裏に隠された魔界の扉が、黒い口を細く開けて見せている。もう一つの扉の鍵である命のリングがない今の状態で、魔界の扉の封印は解かれるはずはないのだ。しかしもはやマーサという大巫女を失った今では、そのような封印の力など無駄なのだと、扉をこじ開けることもできるのだと言わんばかりに、二体の女神像の手に乗る炎のリングと水のリングが否応なしにその力を引き出されようとしている。四人の巫女たちが囲むオーブが紫に染まり、もはやその中に景色を見ることは叶わなくなった。
海の神殿の祭壇の間に、赤と青の混じり合った紫の景色が広がる。まるで魔界から地上世界への侵入者を歓迎するかの景色が整い、それに合わせて大滝の勢いは愈々弱まり、魔界は地上世界と混じろうとする。
消えかけていたマーサの幻影が再びその場にはっきりと映し出されたのは、彼女の想いを継ぐ者たちの強力な意思によるものだった。魔界にいる彼らは誰一人、何事も諦めていない。たとえ目の前で大魔王なる者が凶悪な変貌を遂げようが、それが事を諦める理由にはならない。今更何を恐れるというのかと、彼らは皆心を一にして、自ら破壊者となろうとする者と向き合う。その意思そのものが、生きると言うこと、命ということなのだと、彼の手にある命のリングは、今は魔界の奥底で強く緑の光を放つ。
海の神殿に安置される、中央の女神像の全身から、指輪もないのに鮮やかな緑の光が迸った。神殿の祭壇の紫に染まった景色を塗り替え、そこには眩く白い光が満ちた。まだ持ち堪えられると、マーサの幻影は変わらず両膝を着き両手を組み合わせ、彼らを信じて、祈り続ける。

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