子供の話に思うこと ⑦「不登校」

 

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昔に比べて圧倒的に多くなったであろう、不登校。私が学生の頃は、同じクラスに不登校の生徒がいた記憶はありません。一人もいなかった。たまに休めばそれは大抵風邪くらいのもので、長期にわたって学校を休み続ける生徒はいなかったと思います。

今、息子の通うクラスでは、三人の生徒が不登校状態となっているようです。あっという間に六年生になってしまったので、もしかしたらその三人は私立校を受験するために休んでいるのではと聞いてみましたが、そうではないらしいと。その内の一人は、六年生になる前からずっと学校を休み続けているとのこと。

今は昔に比べて選択肢も広がっているでしょうから、学校以外の場所を見つける子供も昔よりも多くいるのでしょう。しっかりと親がついて、そのような道を見つけるのもアリだと思っています。そのような意味ではとても良い時代になったと思います。学校に行きたくなくても、他に救いがあるのは良いですね。ただ、クラスに三人もそのような生徒がいるとも思えず(分かりませんが)、恐らく何かしらの問題を抱えつつ不登校となっているのかなと想像しています。

何がきっかけだったのか。たとえ他の人から見れば些細なことでも、本人にとっては非常に大きなことである、というようなことは往々にしてあると思います。感覚は人それぞれ異なりますからね。恐らく大抵の不登校の生徒は、小学校に入る時から不登校であったこともなく、小学校に通う中で何かしらの壁に当たり、心折れて不登校になってしまった子が多いのかなと思われます。かくいう私の息子も、一時期学校を休みがちで、親としては「まあ、子供が落ち着くまで見守ろう」と、正直内心焦りを感じつつも、なるようにしかならんと自分に言い聞かせて、成り行きを見守っていたことがありました。その間もなるべく学校に行けるようにと、言葉添えはしていたと思います。どうやら、本人も学校を休んでいるのは本意ではない様子だったので。

不登校となるきっかけとして考えられるのは、
・いじめ
・親の放任
・ゲームなどへの依存
・孤独
・コミュニケーションの不得手
など、これに限らず多岐に渡る要因があるのだと思います。

一つの原因で学校に行かなくなることもあるだろうし、これらの要因が複合的に重なって学校に行かなくなることもあるでしょう。原因は人それぞれ、なので本質的には一人一人に合う対応をしなければどうにもならないことと思います。

ただ、その中でも社会的に、一般的に醸成される”雰囲気”というのは、とても大きな要因の一つなのではないでしょうか。現代、学校に通うことに対して、それほど重きが置かれていない現状があるような気がします。昔ほど、「学校に行かなきゃ!」と思う生徒自体が減っているんじゃないかなと、そんな雰囲気を感じます。昔よりも自由度が上がり、学校に行っても行かなくても、周りの目はそれほど厳しくないという空気もまた、子供たちが学校に行かなくなる一つの要因なのかなとも思うんですよね。私自身も子供の時にそのような雰囲気が周りにあれば、結構簡単に学校を休んじゃうんじゃないかなぁと思ってしまいます。決して学校が好きで行っていたわけではないので……。

というか、学生時代に学校が好きで行っていた人ってどれほどいるんでしょうかね。学校って好きで行くのではなく、行くものだから行く、くらいのものなんじゃないかという感覚なんですよね、私としては。学校に行く動機なんて、それほどポジティブなものでもないんじゃないかな、そもそも。楽しければそれに越したことはないんですけどね。

休みたくないと思うのは、一日でも授業を休めば周りに比べて遅れてしまう、学校行事の練習についていけなくなる、自分のいない間に学校で起こるであろうことを想像して、休みたいけど休みたくないと、たとえ風邪を引いて鼻水ズルズルでも学校に行っていたという感覚なら今でも思い出せます。……今はそんなことをしたら、学校側から帰れと言われてしまいそうですね(汗) どうやら、コロナ禍を経て、色々と世界の常識が変わってしまったようなので。

一日、学校を休むと、次の日ってとても学校に行きづらくなりませんか? 私はそうでした。自分が休んでいる間に起こっているであろう学校の出来事を想像すると、それだけで学校へ足が向かなくなってしまう……。疎外感、というものでしょうかね。そんなん、自分で思っているよりも、クラスメイトは何も気にしていないものなんですけどね。場合によっては「昨日、休んでたっけ?」くらいに言われたりして、違う意味で傷ついたり(笑) 休みを認識されていなかったという。……まあ、そんなもんなんですよね、普通は。

まあ、それでもただでさえ学校に行きづらくなるという気持ちに加えて、今は自由度も上がって、学校に行かない選択肢も増やされている雰囲気があるのなら、特別に学校に通わなくても構わないと思うのも、ある意味で自然の流れなのかなと思います。学校以外の受け皿(子供に自由に選択させるという雰囲気)があれば、子供自身も頑張って学校に行こうという意思は決して強くは持てないでしょうね。

一人一人、事情があり、その事情に寄り添うのが良いというのは分かります。しかしそれに合わせて社会全体にある種の歪みが生じてしまうことは避けるべきかと思います。個と全体、どちらも寄り添わなければならないことだけど、どちらを優先するべきかと問われれば、止む無く「全体」を選ばざるを得ないでしょう。個を優先して全体が崩壊したら、恐らく取り返しがつかない。

だから、あくまでも理想ではと言うことになってしまいますが、個々の子供たちに寄り添い、なるべく「学校」という組織に通うことを勧めるという雰囲気を、世の中全体で支えるのが良いのかなと思っています。もちろん、本当に深刻な事情があって学校に通うことはできないという子供は、無理に学校に通うことなど勧めず、他にその子にあった道を見つけて歩んで行ければ良いと思います。ただ、「何となく不登校」という状況にある子供は恐らく健全な状態ではないと思うので、そのような消極的不登校はなるべく無くしていくのが当人にとっても良いのではないかと。

ある時、私の子供が通う学校であったことですが、不登校となっている生徒たちに、同じクラスの生徒たちが手紙を書くということを担任の先生から求められたことがあったそうです。その際、教室にいる生徒たちは正直に、何を書けばいいのかわかんない~、と不満(不安でもあるかな)を漏らした際、担任の先生は怒ったんだそう。どうして優しくできないんだ、と言うような感じで。

それを聞いた時、こりゃあやっぱり大人側にも問題があるなぁと感じてしまいました。学校に来ている生徒からすれば、長いこと会っていないクラスメイト(一度も会ったことのない生徒もいる)に何を書けばいいのか分からない、というのは少し想像すれば分かりそうなものです。しかし、大人は子供に理想を見ているんですよね。その目線もよく分かるんです。まるで道徳の教科書に書かれているような模範が、目の前の子供たちの中には存在している、というような理想。現実を見れないのはどちらかと言えば、もしかしたら大人の方かも知れません。

担任の先生はこの時、もしかしたら不登校の生徒と事前に会って話をしていたりしたのかも知れません。それ故に、先生の気持ちは不登校の生徒の側に重きが置かれていた状態だったのかも知れない。想像するだけで、何も確たることは分かりませんが、先生側にも事情があったのかも知れない。けれど、その時にその内容で怒ってしまっては、教室にいる生徒たちは驚くし、不満は寧ろ高まってしまいそうです。……何とも人の心の機微は難しいものです。

また、別の話ですが、実際に不登校気味の生徒さんの保護者の方で一人、お子さんの不安を和らげるためにと、学校の授業中も一緒に教室にいてあげていたことがあったそうです。このお話を聞いた時も、結局は保護者が究極にまで寄り添うことが、子供たちにとっては必要なんだろうと思いました。その生徒さんは今は学校に通えています。これはあくまでも一例ということになりますが、子供の不安を落ち着かせるのはやはり最も身近にいる保護者なんだろうと、私自身肝に銘じるようなお話として耳にしました。

結局は、子供たちの間に起こる様々なことには、大人が程よい距離感で介入せざるを得ないものと思います。この距離感というのも決して一定というわけではなく、一人一人で異なる距離感というものがあるんでしょう。一人一人、性格が違いますからね。これに最も近くに寄り添えるのは、寄り添うべきなのは、保護者を置いて他にないです。担任の先生に任せてしまっては、先生たちがただただ疲弊してしまいます。先生方は本当に真剣に、真面目に、子供たちに向き合ってくださっていると思います。たまに、どこぞの教師が良からぬ事件を起こしてニュースに上がったりしますが、あれで最も被害に遭っているのは他の多くの真面目な先生方だと思います。たまりませんよね、本当に。真の敵は身内にいる、というのは結構よくあることでもありますが(悲)

子供たちの不登校について、世の中が問題にしてきていますが、その解決を目指すのであれば、社会全体の雰囲気作りや、大人たちがどこまで子供たちに寄り添えるかが肝になるのかなと思います。ただ、現代は両親ともに働くというご家庭が増えてきて、寄り添おうにもその余裕がないという現状もあるかと思います。だからやっぱり……各ご家庭がそれぞれある程度の余裕を持つことが必要なんだろうなと思うわけです。みんな余裕がなくなっているから、世の中がギスギスして、その影響が子供たちに及んでしまうという悪循環。

それと、先生方の地位向上も一つ、考えた方が良いのではと思います。どうすれば先生方の地位が向上するかと考えれば、様々方法はあるのでしょうが、ここでは一つ、戦後教育の見直しなのかなと。特に、歴史の授業においては大いに見直ししないと、結果的に先生方が子供たちに嘘を教えてしまうことになってしまうという……先生だってそんなことは望んでいないに違いありません。戦後80年が経ち、流石に所謂”戦後教育”からは脱しないと、それこそ子供たちの尊敬を得られないのではないかと、結果的に先生方の尊厳を傷つけてしまうことになるのではと心配です。今は色々な媒体で、色々なことを知ることができる世の中なので、教育のアップデートも必要なのは間違いないでしょう。(税が財源だということを教えるのも、止めてほしいなぁと……ボソボソ……)

と言うことで、どうにかこの余裕のない世の中が、余裕のある世の中に変化していかないと、本質的な問題解決は難しいのではないかなと少々絶望しております……。様々要因はあるでしょうが、その中の一つの大きな要因である各家庭の生活のゆとりが生まれればと思えば、必然と国に対して恨み言も言いたくなってしまいます。どうしてこんな世の中にしたんだと。失われた30年だなんて、軽々しく言うものじゃないと。これは私のようないわゆる氷河期世代の方々には内包されている恨み言なのではないかと思っています。世の中を知れば知るほど、よくもやってくれたなぁと、怒りが沸いて来てしまう。

……と、まあ、そんなことを言っていても始まらないし、もう過去は取り戻せないので、どうにかこれから良い方向へと行けるよう、国には頑張って、踏ん張って欲しいと思っています。やるべきことはものっすごくたくさんあると思いますが、一つ一つの問題を潰して行って、その中でこの子供たちの不健全な不登校も少なくなっていけばいいなと思っています。この子供たちの不登校という問題も、現代に蔓延するこのそこはかとない社会の暗さの象徴になってしまっているように思います。暗い社会なんて、誰も望んでいません。やはり誰だって、明るく生きたいものですもんね。

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