母を想う
竜神が向かう先は、リュカたちの帰る場所グランバニアなのだろうと、皆そう思っていた。竜神の背中はあまりにも広く、容易に眼下に広がる世界地図のような地上世界の景色を望むことができない。ただその速度は凄まじく、まるで大空のどこまでも続くような空気を切り裂くように移動する。そのどこまでも青い景色が、まだリュカたちには眩しい。白い雲よりもさらに上を行く竜神の背の上で浴びる陽光も強く、熱いほどの日差しを浴びれば、あの暗闇に包まれた魔界での記憶は一気に薄まっていくようだった。が、リュカは決してあの場所を忘れたりはしないと、自ら強く思い決めている。
竜神が少しずつ下降を始めた。日は西にやや傾きを見せているが、まだ空は青く明るい。下降をする竜神の身体は広く行き渡る白い雲の中へと入りこんだ。しかしそれもすぐに抜け出した。ポピーがまたリュカにしがみつき、表情を硬くさせている。リュカも、この胃が上へと持ち上がるような竜神の下降の動きは好きではないというよりも、気分が悪くなる。相変わらずビアンカとティミーは元気で、悲鳴でも何でもない悲鳴を上げて楽しんでいる。ピエールは平静を装っているが、恐らく必死になって竜神の背に緑スライムを張り付けて踏ん張っている。今度はプックルがうっかり竜神の背から飛び上がりそうになるのを、アンクルがその赤毛の背中を上から押さえた。
グランバニアの大森林の景色を想像していたリュカたちだったが、彼らの目に入ったのは、天を衝くような尖塔のある景色だった。近くには小川が流れ、草原も森もあるような自然豊かな景色だが、それらがあるのは深い深い谷の中だった。グランバニアではないこの景色を見ても、リュカの胸の中には“帰ってきた”という感覚があった。それはリュカ自身が故郷に帰ってきたのではない。きっとリュカの指に光る命のリングに、その想いが宿っているのだろう。
エルヘブンの村人たちの姿が小さく見えた。彼らの目にも当然、大空を飛ぶ竜神の姿が見えている。まだ小さな点ほどに見えている人々の姿を目にしても、リュカたちにはその表情の明るい雰囲気を感じることができた。
「おい、リュカ。このでっけえ神さまは、あの近くに降りられんのか?」
アンクルの言葉に、竜神が人間世界に容易に足を踏み入れられないことに改めて気づく。あまりに大きな竜神はその大きな身体ゆえに、少しの動きでも地上世界への影響力を持ってしまう。できる限り地上世界を荒らしたくはないと考える竜神の降りるべき地というのは、城一つが建つような広さが必要になるのだ。
「あっ、そうだ」
エルヘブンのどこか懐かしさが胸に迫る風景を見つめながら、リュカはふっと思いついたような声を上げた。この村を初めて訪れた時、リュカはマーサの子として迎え入れられた。リュカが村に来る前からそれを予期しており、落ち着いた様子でリュカたちを快く迎え入れてくれたのは、巫女たちだけではなく、村人たちも同じだった。リュカが当時まだ厳しい旅を続けていることを案じるように、彼らは村の宝をリュカたちに譲り渡したのだ。世界に二つとないに違いない、魔法のじゅうたんが今もリュカの懐に小さく折りたたまれて収まっている。
「これで下に降りよう」
リュカは懐からまるで紙を折りたたんだだけのようなものを取り出すと、それを広げ始める。それはリュカが広げようとせずとも自らの役割を知っているかのように、自ら徐々にその面積を広げていく。間もなく、竜神の背の上にふわふわと浮かぶ魔法のじゅうたんが、それこそ故郷に帰ってきたと言わんばかりに波打ち、リュカたちが乗り込むのを待つ。
「うわ~、なんだか久しぶりだね!」
「大丈夫かな……」
「大丈夫よ、ポピー。これだけ広いんだもの、落っこちたりなんかしないわ」
先ほどまで小さく折りたたまれた紙のように見えていただけの魔法のじゅうたんだが、今はもう立派に丁寧に織り込まれた一枚の巨大なじゅうたんに変身している。そこに飛び跳ねて乗り込むティミーも難なく受け止め、魔法のじゅうたんは彼の身体を波を起こして飲み込むように受け入れる。ポピーは遠慮がちにそっと乗り込み、ビアンカは娘を支えるように手を添えながら自らも乗り込んだ。プックルはじゅうたんに気遣うようにしっかりと鋭い爪を隠し、ピエールはポピーと同じような不安な様子を隠さないまま静かに乗り込んだ。
「オレは横からついていくよ」
「アンクルは飛べるもんね。便利だよなぁ、空を飛べるって」
そう言いながらリュカも最後にじゅうたんに乗り込む。魔法のじゅうたんを動かすには、どうやらエルヘブンの血を引く者の意思が働かなければならず、リュカたちをじゅうたんの上に受け入れても尚、まだ小さく波打ちながらその場にとどまり続けている。
竜神はその間、エルヘブンの村の上に留まるように飛んでいた。当然のごとく、己の背で何が起こっているのかを把握している。なるべく安全に彼らをあの場所へと送り届けなければと、竜神はその厚意からもう少しエルヘブンの村へ近づこうと飛行を再開すると、竜神の背の上にふわふわと浮いていた魔法のじゅうたんはぽつんとその場に取り残されてしまった。
途端に、魔法のじゅうたんは安定感を失い、ぐらぐらと揺れ始める。そもそも、この魔法の品は竜神が飛行するほどの高度な場所を飛ぶことができない。地面からそれほど離れない場所で安定を保ちながら飛ぶものなのだ。
ティミーとビアンカは揃って悲鳴を上げた。ポピーは悲鳴すら出せなかった。プックルはじゅうたんから離れないようにと、収めていた爪を剥き出しにしてじゅうたんにしがみつく。ピエールは緑スライムを縦に伸ばしてどうにか身体の一部をじゅうたんに張り付けていた。まだじゅうたんの端に立っていたリュカは、あまりの勢いで下降するじゅうたんから放り出され、空中でアンクルに捕まえられた。
「アンクル……ありがとう」
「せっかくこっちの世界に戻ってきたのに、こんなところで死んじまったら洒落にもなんねぇよ……」
リュカを脇に抱えながら、アンクルはあっという間に小さくなってしまった魔法のじゅうたんを追いかけ、急降下していく。そんな彼らの姿を、図らずもその状況を引き起こしてしまった竜神は、少々ばつが悪そうにエルヘブンの村の遥か上空を旋回しながら見下ろしていた。
「そうですか……。ではたった一度きりとは言え、マーサ様に会ったのですね」
エルヘブンの村を象徴する、天を突くような祈りの塔の中、この村を治めることを継承した四人の巫女が、リュカたちと相対している。祈りの塔の内部に西日が差し込み、その日の光を、祈りの間の中央にある水晶玉を照らしている。床の上に柔らかな布が置かれ、その上に大きな水晶玉が安置されている。四人の巫女たちはどんな時でも祈りを捧げることを忘れない。彼女たちには今、中央の水晶玉の中に映る何かしらの景色が見えているのだろうか。それとも、主を失った今となっては、水晶玉は何も答えなくなってしまったのだろうか。
「マーサ様のその時の嬉しそうな顔が目に浮かぶようですね……」
四人の巫女たちは皆、いつも通りの静かな声でリュカに語りかけていた。しかしそのどれもが、静かな涙声だった。彼女たちの胸に去来するのは、在りし日のマーサの姿。それに重なるリュカの姿が目の前にあり、彼女ら四人は各々声を詰まらせながらも、リュカたちの、マーサの子らの無事を心の底から喜んだ。
「このエルヘブンは……大丈夫でしたか?」
リュカがそう問うのは、外から見たときにこの祈りの塔の屋根の一部が壊れていたからだった。明らかに何者かの攻撃を受けた跡が見られ、リュカたちが魔界で戦っていた時に、確かにこの地上世界にも悪しき大魔王の影響が及んでいたことを察したのだ。
地上世界に現れ始めていた魔界の影響に、エルヘブンも戦っていた。四人の巫女たちは、本来ならばエルヘブンの長老ともなるべきだったマーサの遺志を継ぐように、この村を守るために立ち上がっていた。地上世界の国々であるグランバニアやラインハット、テルパドールなどよりももっと古くから存在するこの村を守ることは、彼女らに課せられた使命だった。
世界のためにも、このエルヘブンがなくなることはあってはならないのだと、巫女たちは各々の力を発揮していた。彼女たちの持つ力は決して攻撃的な力ではない。あくまでもこの歴史の深い村を守るための力だ。近くに流れる小川は、村人たちの生きる源であると同時に、いざというときに村を守るための力となるものだった。四人の巫女たちは力を合わせ、小川の清流から守りを生み出した。
「リュカ」
名を呼ばれたリュカは、目の前に立つ小柄な巫女を見つめる。その顔にはどこか、母マーサに似るところがあるような気がした。そのことに気づけば、リュカは目の前に立つ四人の巫女たちに山ほど聞きたいことがあるのだと、己の中から溢れるほどの疑問がわき出すのを感じた。母マーサとは一体どのような人だったのか。それは決して人柄などという範囲に留まるものではない。母は果たして人間だったのかという、ありえないような疑問だ。そしてこの世界でも重要に違いないエルヘブンという村が、世界では全く認められていない現実は何なのか。この村の過去、それも程遠い過去に一体どのようなことがあったのか。母マーサを失った今となっては、エルヘブンという村について詳しく聞けるのは恐らくこの四人の巫女に限るだろう。
しかしリュカが口を開けるよりも先に、リュカの名を呼んだ巫女がいかにも嬉しそうに顔を綻ばせ口にする言葉に、リュカは問いかけることができない。
「貴方の母上マーサ様を、私たちはとても誇りに思います」
巫女のその一言で、リュカが疑問に思い、彼女らに聞きたかったことの全てが瞬時に消えてなくなってしまった。リュカが母マーサの死を伝えると、彼女らは一人も取り乱すことなく、しかし悲し気な表情は隠さずにそれを受け入れた。その態度に、彼女たちは皆、既にマーサの死を知っていたのだろうとリュカは感じた。その中で彼女らは、リュカが最期に母に会えたことを喜んでくれたのだ。目を潤ませながら、マーサの死を悼むと同時に、彼女が最愛の息子であるリュカと会えたこと、そして子供のリュカが母であるマーサにおよそ三十年の時を経て会うことができたことを、エルヘブンの巫女たちは心から喜んだ。
そしてマーサが最期まで、初志貫徹するように、この世界を守り抜くために戦ったことを、彼女たちは皆本心から誇りに思った。村に生まれたマーサはゆくゆくはこの村の長老となるべき女性だった。彼女はその生まれからか、誰よりも運命に翻弄された者だったのかも知れない。その運命を受け入れながら、彼女は運命に導かれるままにエルヘブンの村を出て、一国の王妃となった。マーサが己の運命を受け入れるということは、エルヘブンの村に留まることに収まらなかったのだろう。己に降りかかる全ての運命を受け入れること、それがこの世界に必要なことなのだと、最愛の夫と、最愛の息子と引き離されてしまった後でも彼女は決して世界を、未来を諦めなかった。
己の運命を信じるということは、彼女にとって決して諦めないことだったに違いない。その姿はリュカの父パパスにも重なる。父もまた死ぬ間際でも、あれほどの業火の中においても、何一つ諦めていなかったのだとリュカは思っている。そうでなければどうして幼いリュカに、母を助けることを託すだろうか。パパスもまたリュカの未来を信じ、幼いながらも己の息子は勇気あるたくましい人間だと信じ、彼ならば絶対に母マーサを助け出すことができる、母と子は必ず再会を果たすと信じた。
リュカもまた、目の前のエルヘブンの巫女たちがこの村の主であったマーサを誇りに思うように、父と母を誇りに思う気持ちが胸の中に溢れた。父と母の諦めない心は、息子であるリュカに自ずと受け継がれ、そしてそれはリュカの子供たちへも受け継がれた。何故その心は受け継がれたのか。それはきっと、親が子に“背中”を見せてきたからなのだろう。言葉で語るにはあまりにも多すぎる人の想いは、言葉に語らずともその背中に表れる。背中に語られる人の想いを、人は言葉に置き換えることもなく、ただただ己の中に感じ取ることができるものだ。親に限らず、人は人の想いを敏く感じ取ることができるに違いない。最も大事なものというのは、恐らく言葉に置き換えることもできない。しかしだからこそ人の想いは確かに人から人へと受け継がれていくものなのだ。
「マーサ様はこれからもきっとあなたたちの心の中で生き続けてゆくことでしょう」
マーサを深く知っている者からの言葉だと、リュカは目の前の巫女たちの様子を見ながらそう感じた。エルヘブンの村の巫女たちも、マーサが魔界に連れ去られてしまったと知った時から、このような日がいずれ訪れることを覚悟していたに違いない。しかし同時に、彼女たちは諦めずに村の主であったマーサの帰りを待ち続けた。覚悟することと諦めることは違う。諦めることとは断絶であり、覚悟するということは永続だ。彼女たちの心の中にもこれからマーサというエルヘブンの大巫女は生き続けていくのだろう。マーサがいなくなっても、マーサがいたということは永遠に消えることはない。
「お父さんとお母さんと、おじいちゃんとおばあちゃんの血」
そう言いながら、ティミーは己の両の手の平を見つめている。天空の装備に身を固め、剣を振るい続けてきた彼の両手は子供とは思えないほどに硬くなり、勇者としての力を発揮してきた。その手の平には、父と母から授かった命が生き、その父と母もまた、親から命を授かりこの世に生まれてきた。一体いつから、どこから命が始まったのかも分からない神秘の中に、今の己の命があるのだと感じると、己がたとえ勇者でなくとも、ただ一人の人間としてここに立っていることにも奇跡を感じる。
「そのすべてがこの身体に流れてると思うと、すごく感動する」
普段ならば意識することもない、自身の身体というもの。そこにはこの世のあらゆる奇跡が詰まっているのだと感じることができる。自分は自分であると共に、自分だけではないのだという繋がりに気づかされる。歴史のどこか一つでも、異なる点があったなら、今の自分は生まれていなかった。もし父と母が出会っていなかったら、もし祖父母が互いに一緒になることを望まなかったら、今の自分はこの世に生まれていなかったのだ。一体どれだけの奇跡が積み重なり、自分が生まれ、そして剰え自身は勇者としての運命をその背に負ってきた。その繋がりを、この祖母の故郷であるエフヘブンで深く感じることができるようだと、ティミーはその目にうっすらと涙を浮かべている。
「ポピーもそうだろ?」
父と母と離れ離れになっている間も、常に隣にいてくれたのは、双子の妹のポピーだった。生まれた時から同じ時を過ごし、グランバニアの人々はいつでも双子の兄妹を分け隔てなく一緒になって可愛がってくれた。そのような彼らの想いの中には間違いなく、グランバニアという国が失いかけていた国王リュカと王妃ビアンカの存在があった。親を知らずに育ってしまう双子のためにと、彼らは常に幼い双子に両親であるリュカとビアンカの話をし続けた。それは子供たちに、あなたたちの親は二人とも素晴らしい人なのだと教えなければならないという義務感を超えて、彼ら自身が抱える親が傍にいない双子への悲哀と、行方不明となってしまった国王と王妃への悲哀がそうさせたのだった。
王子と王女、国における特別な立場にあって、全く同じ環境で育ってきたと言っても過言ではない双子の兄妹。王子と王女であると同時に、勇者とその妹という運命を受け、それすらも同じように享受してきた。彼らを取り巻く環境、運命、それらはすべて彼らの生きる時代にずっと紐づいてきた歴史の中に生まれたのだと思うと、その奇跡に感動しないではいられない。
「うんっ! お兄ちゃん!」
まるでぴたりと共鳴するような想いが、ポピーの胸の中にも溢れていた。父と母が隣にいる。父と母をこの世に生み出した祖父母がいる。ずっと繋がってきたその血筋は、今ここにあるだけで奇跡そのものに違いない。どこで途切れてしまってもおかしくなかった。人間の命が儚いものだということを、ポピーは幼いながらにも既に感じている。それが、今生きている自分の中には確かに父と母の血が流れており、それは祖父母に繋がり、そのまた祖先へ、とずっとそれはどこまでも続いていく。一体どれほどの奇跡が重なって自分が生まれてきたのかと、出会ってすぐに喪ってしまった祖母の姿を思い出せば、その想いはただ深まるだけだ。
「わたし、おばあちゃんともっといろんなこと話したかったけど……でも、もういいの……」
ポピーはあの魔界の奥深くで、祖母マーサに会えることを心の底から楽しみにしていた。会ったら何を話そうと、様々なことがその頭に思い浮かんでいた。祖母の手によって生み出されたというあの魔界の町ジャハンナに住む人々についても、聞きたかった。元は魔物だったあの町の人々に好かれていた祖母マーサが、ポピーには不思議でたまらなかった。そしてエビルマウンテンの頂上で、巨大な祭壇の上で初めてマーサの姿を見たと同時に、彼女が抱いていた疑問は全て解かれたような気がしたのだ。何も言葉を交わさない内から、マーサという不思議極まりない祖母という人を、その身に知り受けたような気がした。それはきっと、己の中にも祖母の血が流れているからなのかも知れないと、ポピーはティミーと同じように両方の手の平を見つめる。
「おばあちゃんのこと思っただけで胸があったかくなるから、きっとおばあちゃん、私の胸の中にいるの」
その人が世界からいなくなっても、その人がいたという思い出はいつまでも生きる者の胸に残る。人は必ずいつか死ぬ。死んでしまえばすべては終わりかと言えば、それはあまりにも浅はかな言葉だ。この世に生きる者たちが、この世を去った者たちを忘れない限り、亡くなった人々もまたこの世から消え去ってしまうわけではないのだと、ポピーは今も手にしているストロスの杖を目にしながら微笑み、同時にその頬には涙が流れた。
ビアンカの胸にも、たった一度だけ会うことのできたリュカの母マーサの姿が温かく残る。リュカは母に似ていると、サンチョがよく言っていた。一目見た瞬間に、マーサにリュカの面影を見るのは容易だった。サンチョの言う通り、母と息子はよく似ていた。息子を見つめる母の目が、息子への愛情に溢れていたのを、今もありありと思い出すことができる。マーサが魔界という世界でも数十年にも渡って生き続けていられたこと、それは魔界の扉の番人として唯一無二の力を持つことにも理由はあったのかも知れないが、彼女の精神を支えていたのは間違いなく一人息子リュカの存在だったに違いない。
ビアンカ自身もまた、愛しい双子の子供たちと引き離された。石の呪いを受け、十年、時は過ぎた。その間、彼女の見る景色はほとんどが閉ざされ、気づいたときには成長した息子と娘、そして夫が目の前にいた。石の呪いの中にあったほとんどの時の記憶がないことは寧ろ幸せなことだったのかも知れないのだと、エビルマウンテンの頂上にあったあの祭壇に立つマーサの姿を思い出し、ビアンカはそう感じる。三十年もの間、ずっと、愛する夫と愛する息子と離れ離れになり、たった一人で魔界という世界に閉じ込められていたマーサを思うと、己の不運だった境遇など忘れてひたすら義母に対する憐憫の情が沸き起こる。
「本当にお母さまには一度しか会えなくて残念だったわね」
ビアンカの声は涙に震えていた。マーサに会うまではビアンカだけではなく、ティミーもポピーも、きっとグランバニアに待つ人々も魔物の仲間たちも、マーサを地上世界へ連れ戻し、共に再会を喜び合えるのだと信じていた。現実に行方不明となって数年立っていたリュカもビアンカも、グランバニアへの帰還を果たしたのだ。それは奇跡などと呼ぶものではなく、必ず起こりうるものだというほどの自信に気づかぬうちに繋がっていた。
マーサの胸に秘めていた覚悟に、ビアンカは辿り着くことができない。ビアンカも勇者の子孫などというあまりにも特異な生まれを持つが、彼女はそれを知らぬままに育ち、過ごしてきた。しかしマーサは生まれながらにたった一人、魔界の門を開くことのできる力を持ち、エルヘブンの村の長となり、運命に導かれるままにグランバニアという国の王妃になり、玉のような王子を産むや否や魔物に攫われる……それから三十年もの間、胸に抱いていた赤ん坊のリュカのことを思いながら過ごすなど、もしかしたら死んでしまうよりも深い地獄にいたのかも知れない。そう考えると、ビアンカは悔しくてたまらない気持ちになってしまう。どうにかして、助けたかった。マーサのためにも、リュカのためにも。
しかし今、こうして自身が悲しいだの悔しいだのと涙を流すことを、きっとマーサは喜ばないだろう。彼女は息子であるリュカの意思を振り切ってでも、自らの命を賭し、息子たちがこの世に生き続けることを望んだ。 それならば私たちは幸せに生き続けなければならないのだと、喪った人の希望を叶えるためにもビアンカは努めて明るい声を出す。
「でも、お母さま、ずっと見守ってくださってるわ」
言葉にすることを、ビアンカは本心から言った。リュカが子供の頃に亡くした父パパスが彼をずっと見守っているのと同じように、母マーサもまた彼を見守っていてくれているに違いない。人はこの世から命が消えたとしても、魂までもが消え去るわけではない。彼らの魂は、今にこの世に生きる子、孫、亡き彼らを知る親しい人々の胸の中にずっと残り続ける。
「ビアンカ……」
そのような彼女の底抜けの優しい本心が窺え、リュカは思わず妻の顔をまじまじと見つめた。涙に濡れているのは明らかだが、彼女はそれを思わせない笑顔を見せる。根が勝気なところがある彼女にはこれまでにも何度も救われたとリュカはしっかりと理解している。涙は流すまいと努める彼女は、涙を落とさぬようにと瞬きをせずに少し上を向いている。
「だから、悪いことはしないでね! ……なんてね♪」
頑張ってふざけたことを言う妻が、目を細めて笑うと同時に一筋だけ涙をこぼしたのを見て、リュカは涙を見ないふりをしつつ、「悪いことなんかしないよ」と笑った。
「あの、一度母の部屋に上がっても良いですか?」
リュカがそう問うと、四人の巫女たちは快く首を縦に振って返事をした。プックルとピエール、アンクルは今、この祈りの間に足を踏み入れていない。彼らはエルヘブンの村の外に住まう、村を守るゴーレムたちと話をしている。ゴーレムは言葉を持たない。しかしそれ故に、プックルたちが伝えるゴレムスの話も確かに理解してくれるに違いない。ゴレムスがマーサの代わりに魔界を守るのだと伝えられれば、村のゴーレムたちもきっと悲しむことはなく、寧ろ誇りに思ってくれるかもしれないと、リュカは信じている。
四人で祈りの塔の頂点に位置するマーサの部屋へと入る。少し前に来たばかりだったが、その時はこの部屋でマーサも共にいるという想像をしていた。魔界からマーサを救出し、このエルヘブンの村に彼女を連れてきて、一緒にこの部屋で語らうことができたらと、あの時は本当にそれが叶うのだと心の底から信じていたところがあった。母が子供の頃や、父と出会い、グランバニアに向かった時のことなど、聞きたいことは果て無くあった。階下にいる四人の巫女たちに母の過去を聞くこともできるのかもしれないが、リュカにそれはできなかった。やはり母自身から、母がどのように思っていたのかも合わせて、聞きたかった。
床に敷かれている敷物の上に、ティミーが腰を下ろし、近くにポピーも腰を下ろした。天井を見上げると、エルヘブンの村を象徴するような尖った塔の屋根の形が、ありありと分かる。祖母マーサは祖父パパスに連れ出されるまでずっとこの小さな塔の中に半ば閉じ込められていた。それは自身に課せられた宿命のためと、マーサはきっと割り切っていたのだろうが、割り切れないこともあっただろう。特にティミーにとっては、外に出られないことなど考えられないことだった。一国の王子として生まれたティミーもまた、容易に外の世界に出られる立場ではなかった。しかしもう一つの肩書である勇者という名は、彼を否が応でも外の世界へと旅立たせた。
ほんのひと時しか会うことのできなかった祖母の人生を思うと、その半分以上を魔界という暗黒の中で過ごしたことに、同情心は極まる。ティミーは己に課せられた宿命を思えば、祖母もまた厳しい運命に導かれたのだろうと思うことができる。しかしその代償があまりにも酷いじゃないかと、その目は父リュカに向けられる。
リュカはティミーたちのように床には座らず、整頓されているマーサの机の上に手を置き、机の上にただ視線を落としている。父の様子に、母を喪ったという悲しみは感じられなかった。父の黒い目に浮かぶのは、人を慈しむような穏やかな光だ。亡き母を悼むのと同時に、母が完全に運命から解放されたことをどこか嬉しく思うような雰囲気さえ見せている。
そんな父の姿を見たティミーの顔に、ふわりとした笑みが浮かぶ。最も悲しみを抱えているはずの父が、亡き母の部屋の景色を見ても涙を見せるどころか、微笑みを湛えている。それは決して我慢をしているという雰囲気でもない。父は祖母の暮らした部屋で、祖母の人生を悲観するのではなく、ただ温かな気持ちで受け入れている。
「もうおばあちゃんの部屋を見ても悲しくならないや……」
父リュカの様子を受ければ、ティミーの口からも自然とそんな言葉が出た。祖母が悲しい運命にあったのだと想像するのはこちらばかりで、実のところ祖母は自身の人生を悲観していなかったのかも知れない。ティミーがそう思えるのは、祖母が最期に満足そうに微笑んでいたからだ。そこに悲しみも苦しみもなかった。もう二度と会えないと思っていた息子リュカと会えた、それは祖母にとって彼女の生きる道を支えていたたった一つの希望だった。それが叶い、祖母は心の底から満足したのだろう。
「だって今頃はおばあちゃん、おじいちゃんと楽しく遊んでるよね?」
死後の世界があるのかどうかなど、ティミーはまだその世界を知らない。ただ、今はあるのだと思える。そこではきっと、祖母が会いたかったであろうもう一人の人物、祖父パパスとの再会を果たしているに違いないと思う。世界の平和を願い、その人生を全て捧げてきたような祖母に、それくらいの救いはあってもいいじゃないかと、ティミーはこのエルヘブンの村の外を飛んでいる竜神を、祈りの塔の天井の先に見透かすように見上げる。
「そうだね」
ティミーの言葉を受け、リュカは彼の方へと向き直ってそう言った。エビルマウンテンの頂上の祭壇の上で、母が最期を迎えるという時、リュカの目には確かに、亡き父の姿が映っていた。父パパスが生前、幼いリュカを連れて旅を続けていたのは、魔界に連れ去られた妻マーサを救い出すためだった。あの魔界の奥深くでようやく父は母と会うことができたのだ。
まだ幼かったリュカには知りえなかった、父パパスと母マーサの、夫婦の間の愛情の姿がそこにはあった。本当のところは、欲を言ってしまえば、二人とも生きてこの世に残っていて欲しかった。そう思うのは二人の子供として仕方のないことだろう。
だが息子であるリュカもまた、人の親となった。親としての視点を持つことができるようになった。それは、我が身などどうでもよいと思えるほどに大切なものができた、という視点だった。
今となってはただただ、父と母には感謝の気持ちが胸に溢れる。子供がどれだけ感謝を伝えようとも、親はただ当然のことをしたまでだと思うだけだ。そう考えられるのは、リュカ自身が双子の子供たちに対してそう思うからだ。寧ろ、色々としてやれなくてごめんという懺悔の気持ちがほとんどだ。この懺悔の気持ちが強い状況も、この先の未来、子供たちが成長し、家族を持ち、新たな家族の形を始めた時に初めて収まっていくものなのかもしれない。子供たちを新たな未来に託した時、親はそこでようやく子から手を引くことができるのだろう。
リュカが幸せになること、それが父パパスと母マーサの願いだとすれば、リュカは己の幸せに正面から向き合わなくてはならない。そう思うリュカの目に映るビアンカ、ティミー、ポピーは彼の幸せそのもので、リュカは両親の願いを叶えるためにも、この目の前の家族を幸せに包まなければならないのだと、その目に涙は生まれない。
「ねえ、リュカ」
そう言うビアンカの手には、魔界での旅の最中ずっとその手から離さなかった賢者の石が握られている。彼女はどれほど辛い状況でも、決して賢者の石を手放さなかった。それは単に皆を癒すことのできる力を持つ石だからということに収まっていなかった。
「お母さまからいただいたものだから、ここにお戻ししておきたいんだけど……どう思う?」
回復呪文を使えないビアンカが賢者の石を手にして、仲間たちを癒す役割を引き受けていたが、彼女は自らが仲間たちを癒しているという感覚はなかった。これはあくまでも義母マーサの手にあったものであり、決して自分の手にあるべきものではないと感じていた。彼女がこの場所にそれを残しておきたいと思うのは、この賢者の石が義母マーサのものであるという意識が強いからだろう。あくまでもビアンカにとって賢者の石は借り物であって、本来の持ち主に返したいという彼女の中のいつもの正義心もあるようだった。
「……うん、それがいいかもね」
リュカは彼女に決定を委ねなかった。好きにしたら良いとリュカがビアンカに言えば、それは無責任にも繋がるだろうとリュカには感じられた。その責任はマーサの子であるリュカが引き受けなければならないと、リュカは賢者の石を母の部屋に残すことを自ら決めた。
ビアンカは大事そうに手にする賢者の石を、まるで何かの儀式のように真っすぐと歩いて、部屋の中央へと持っていく。部屋の中央辺りに座るティミーとポピーが立ち上がり、その間にビアンカは入り込み、子供たちと顔を見合わせて、互いに微笑みながら賢者の石をマーサの部屋の中央の床の上に静かに置いた。ちょうど階下の、祈りの間の中央に置かれる水晶玉の真上に位置し、賢者の石は水晶玉に反応するようにほのかに青白い光を放ち始める。
マーサの部屋の中に、癒しの光が満ち、リュカたちの身体を労わるように、癒すように包み込む。その強くも儚い光は、母マーサの最期を思わせた。彼女は最期に、リュカたちを救うべく、自らの身体を犠牲にして全てを復活させる呪文を放った。メガザルの呪文を彼女は当然のように身に着けていた。あの呪文を放った時の母の心境を思えば、そこに微塵の躊躇も見られず、ひたすら残す者たちに幸あれと、光あれと願う祈りだけがそこにあったのだろうと今もそう思える。今もその祈りの力を見せるように、賢者の石は亡きマーサの意を汲むかのごとく光り輝き、その光は祈りの塔のマーサの部屋の中に満ちるだけではなく、部屋の窓からも飛び出していった。祈りの塔の外で、エルヘブンの村人の声が上がったのを聞いた。リュカたちはその景色を見なかったが、マーサの部屋を飛び出した青白い癒しの光は、エルヘブンの村全体をも包み込むような勢いで広がったようだった。村人たちはその温かな光に、温かな涙を流していた。その涙の意味をはっきりと理解したものはいなかったが、一人一人の胸の中にじんわりと沁みる温かなものが、人々に涙を流させた。今までぽっかりと胸の中に空いていた穴が埋まったかのような、充足感が人々の心の中を満たした。
光が収まると、賢者の石は元の通り、淡く青白い光を湛えるだけの魔石となった。幾度となくリュカたちの危機を救ったこの賢者の石は、自らの在るべき場所はここだと認めたように、穏やかに光を淡く放ち続ける。その光に導かれるように、ずっとティミーが肩に掛ける天空の盾の裏に張り付いて隠れていたはぐりんが、そろそろと床へと降りてきて賢者の石へと近づいていく。青白い光を見つめるはぐりんの目には、賢者の石を通して、生前のマーサが映っているようにも思えた。はぐりんは自らの流体の身体を伸ばし、部屋の中央に置かれた賢者の石の周りをぐるりと囲む。二つのつぶらな目は、じっと賢者の石の中に在るのかもしれないマーサの姿を追おうとしているようだ。
「はぐりん……ここに残るかい?」
リュカがしゃがみ込んでそう問いかけると、はぐりんはリュカを見上げながら困ったように「キュー……」と小さく鳴いた。はぐりん自身がどうしたらよいのか分からないという雰囲気だったが、同時にマーサが過ごしていたこの部屋を立ち去りがたいのだという目を、部屋のあちこちに向けながら示している。
リュカはしゃがみながらはぐりんを撫でる。触るとこれ以上硬いものはないというほどに硬いが、彼はその体をどこまでも自由に変形させ、どこにでも潜り込んでしまう。そんな彼は本来人間の前に姿を現すことはない魔物だ。しかし魔物の世界である魔界で、彼は人間であるマーサは恐れなかった。マーサの子であるリュカにも心を許し、リュカの仲間たちの前にも普通に姿を見せてくれるのは、マーサという人間を信用したからだ。
そしてあのエビルマウンテンで、はぐりんがリュカたちと共に行動したのはもしかしたらマーサに会うためだったのかも知れないと、今になってリュカはそう感じた。はぐりんがマーサがもうこの世にいないことを理解しているかどうかは分からない。しかし彼は確かに、この場所にマーサの気配を感じ、わずかにでもこの場所に留まろうという思いを初めて持ったのだ。
「ここにいてもいいと思うよ」
エルヘブンの村人たちがはぐりんを村から追い出すことは決してないだろう。この村を守るのは魔物のゴーレムたちであり、彼らは生前のマーサの友人たちだ。村の巫女たちに確かめてはいないが、恐らくこの村の人々は純粋な“人間”ではないのかも知れない。それならば尚更、魔物であるはぐりんを受け入れてくれるに違いないと、リュカは微笑みながらはぐりんを見つめる。
「僕たちは違う場所に帰るけど……絶対にまたここに来るよ」
リュカは確信をもってそう言う。グランバニアへ戻ったのちもこの村を訪れる機会があることを、リュカは己の中に決めている。単に母の故郷を訪れるという意味合いではない。リュカにはまだこの村でやるべきことがあるのだと、己の指にある命のリングにそう見定めている。
「……キュルッ!」
リュカの言葉が届いたのかどうかは分からないが、はぐりんは元気に一声そう言うと、賢者の石をしたから支えるように体を潜り込ませ、まるで自らが台座となったようにそのまま固まってしまった。その姿に一瞬、エビルマウンテンの頂上にいるゴレムスを思い出し息を吞んだが、固まったままでも二つの目をリュカに向けて見上げるところを見ると、ただ銀の台座に擬態しただけのようだった。
「へえ~、すごいね! 普通の台座に見えるよ!」
「はぐりんがここに残るのはちょっと寂しいけど……でもまたすぐに会えるわよね!」
「お義母様の故郷だもの。リュカがここに来たいと思えば、村の皆さんもきっと歓迎してくれるわ」
「あはは、でも、まあ、僕も一応王様やってるし、ちょっと落ち着いてからかなぁ」
まだまだこの村には知りたいことが山ほどある。しかし今はここでゆっくりしている時ではないと知らせるように、エルヘブンの村の遥か上空で竜の鳴き声が響くのを耳にした。マスタードラゴンが呼んでいる。そろそろ村を後にしなければならないのだと、リュカは自らも立ち去りがたい母の部屋を後にするべく、その場に立ち上がった。
「もう行くの、お父さん?」
「うん。とにかく今は、世界が本当に平和になったのかを確かめないとね」
「マスタードラゴンが上で待っているものね」
「神様を待たせる人なんて、きっとお父さんが初めてだよ!」
そう言いながらティミーが楽しそうにけらけらと笑う。そんなティミーもまた、平気で神様を待たせそうな性格をしていると、勇者たる天空の武器防具を身に着けたその姿を見て思わずリュカは笑ってしまう。ここにいる誰もがあの竜神を、決して無心に崇めたりはしていない。リュカとしてはその状況がなぜか心地よい。
あまりのんびりはしていられないのだと、リュカたちはマーサの部屋を後にする。最後に部屋を出たリュカが今一度部屋の中を振り返り、ぐるりとその景色を見渡した。中央には、すっかり銀の台座となっているはぐりんが、この宝物を守るのだというように賢者の石を半ば包むように戴いている。淡く青白い光を湛える光の中に、リュカは母の幻影を見る。じゅうたんを敷いた床の上に正座をして座り、リュカを横に振り向き見つめている。リュカは己の心の中に母の幻影を見ているのだと理解しながらも、穏やかな母の微笑みを見て思わず手を振り、「またね」と小さく呟いた。リュカの見る母の幻影は、可愛い我が子を見る母親の顔つきで、手を振り返してくれた。
「やはりマーサ様は偉大な女性でした。マーサ様の子とその孫たちが世界を救ったのですからね」
エルヘブンの村の祈りの塔を出たところに、村の巫女たちを守るための兵が立つ。このエルヘブンの村にとって、村の長でもあったマーサは村人たち皆から伝説的な存在となっている。マーサが魔界に連れ去られてしまったのはもう三十年ほども前、尚且つこの村を出たのは更に前のことになる。しかしマーサを直接見たことのない者にとっても、村に語られているマーサの話の影響で、寧ろ直接見たことがないために神格化されている部分がある。
「そうね。お母さまの力がなければきっとミルドラースに勝てなかったわ」
兵の言葉にうんうんと頷きながら、ビアンカはエビルマウンテンで初めて目にしたリュカの母の姿を思い出す。ゴレムスの手の平に乗りながら、最期の力を振り絞ろうとする義母の姿を見て偉大を感じない者はいないに違いないと、ビアンカは純粋にそう思う。母としての力も当然あっただろう。しかしそれだけではない、エルヘブンの村に伝わる魔界に通じる力がそこにはあったのだと、あの時まるで大樹のように見えたマーサの姿を思い出せば必然とそう思える。
そしてマーサの姿を瞼の裏に思い浮かべれば、彼女がかつての魔族の王の末裔だなどと、どうして思うことができようか。たとえそれが真実だったとしても、決してそれだけが真実というわけではないに違いない。エルヘブンという村がその村の歴史の中で、地上世界と魔界との間で門番の役目を果たしてきたことにも当然、ビアンカたちが知らない真実があるのだろう。魔界の大魔王を倒したものの、まだ様々な謎は謎のまま残されている。しかし今はとにかく、光を失わなかったこの世界に喜んでいたいと彼女はただ義母の想いに感謝する。
祈りの塔を後にしたリュカたちは、まるで宙に浮いているかのような村の階段をゆっくりと降り、村の宿屋の前の広場に出た。ポピーは相変わらず宙に飛び出すような危うい階段を降りるのを怖がったが、それよりもティミーが危なっかしく階段を駆け下りていく姿に生きた心地がしなかった。せっかく大魔王を倒した勇者がうっかり階段で足を滑らせ、このエルヘブンの地で命を……などということにでもなれば、リュカには世界が平和になったことなどどうでもよくなってしまう。
降りた先では、平和が訪れたことを確かに実感している人々がどうやらリュカたちのことを待ち受けていたようだった。村人たちの表情が底抜けに明るい。人々が次々に握手を求めるのはリュカであり、ティミーだ。その中でもリュカの手を固く握りしめ、まるで人生のすべての感謝を表すような態度を見せるのは、村の神父だった。
「魔王ミルドラースが滅びた今、やがて大神殿も朽ち果てるでしょう」
神父が言うのは、セントベレスの頂上に立つ、地上世界における魔物の総本山とも呼べるあの大神殿のことだった。あの場所にはリュカもかつて奴隷として生きていた。光の教団の教祖であるイブールと対峙し、リュカは私怨を晴らす意味でも、怪物の教祖を滅ぼした。そして魔界においても魔王ミルドラースを倒したことで、あの大神殿は完全に力を失うのだと、神父は目じりに涙を浮かべてリュカに礼を述べた。人々の信仰心を利用した悪しき方法に、神父は酷く心を痛めていたに違いない。神父の固い握手に彼のその想いを感じたリュカもまた、己の想いと共に固く握り返した。
「かつて教団の奴隷となり、大神殿のもとに眠る人々に、どうか安らぎを……」
ミルドラースを倒したからと言って、全ての人々が救われたというわけではない。世界中に蔓延り始めていた悪しき力にその命を奪われ、既に幾人もの人々がこの世を去っているのだ。リュカ自身もまた、運が味方しなければこの世に残っていなかったのかも知れない。そしてその運の一つを授けてくれたのは、あの大神殿でリュカに救いの手を差し伸べてくれた一人の看守だった。
「私も祈るわ。あそこで眠る人たちが天国へ行けるように……」
静かにそう言うビアンカは、石の呪いを受けたのちにあの場所で長らく留め置かれていたのだ。彼女がその間に何を見て何を感じていたのか、リュカは詳しく聞いたことはない。詳しく聞く気もない。誰だって思い出したくない光景はある。そして彼女は、リュカがあの場所で奴隷として生きていたことを知っている。彼女が今、祈りを捧げる姿には恐らくリュカの過去に寄り添う気持ちがあるに違いなかった。悲しい運命に遭った者たちがこれで救われるわけではないかも知れないが、どうにか彼らの魂に安らぎをと願う気持ちは抑えることができない。
「ねえ、リュカ。またあの場所へ行けるかしら?」
真剣な祈りを捧げたのちにそんなことを言うビアンカに、リュカは思わず面喰う。誰がずっと囚われていたような場所へ戻りたいなどと思うのか。怪訝な顔つきで妻を見るリュカに、ビアンカは真剣な顔つきで提案する。
「犠牲になった方々がいるんだもの……ちゃんと弔ってあげないといけないと思うの」
あの場所でまだ生き延びていた人々は、リュカが自身の立場などから使える力で、マスタードラゴンの力も借りて地上世界へと戻した。リュカとしても、あの大神殿に残してきた今は亡き人々を弔わなければならないという思いは抱いていた。今の自分があるのは、あの場所に斃れた人々の命があったからだと、奴隷に生きたころの記憶に戻れば必然とそう思える。何かの形で亡き人々に感謝の思いと、安らかな眠りを願う気持ちを届けることができたらと、妻の提案に小さく何度も頷く。
「……お花はどうかな。たくさんのお花」
ポピーがぽつりと、しかし彼女の気持ちを込めてそう言った。彼女もリュカと共にあの場所に足を踏み入れ、大神殿に起こっていた異様を知っている。幼かったリュカがあの場所にいたことも、知っている。
「それがいいよ! たくさんの花を持って行ってさ、あの場所が埋もれるくらいの!」
ティミーの明るい笑顔は、それだけで沈む人々の心を救い上げてくれると、リュカは思わずつられて笑顔を見せた。心の底からそのような提案をしてくれるティミーもポピーも、本当の人としての優しさを身に着けている。彼らは純粋に亡き人々を弔いたいと、きっと以前にビアンカの母のお墓参りをした時のように美しい花々を手向けたいのだと言っているのだ。
「あの場所が埋もれるくらいのって言うと、ちょっと用意できるか分からないけど、でも花っていうのはいいね」
リュカもまた、父パパスの亡き場所に、親友ヘンリーと親代わりのサンチョと共に花を手向けたことがあった。花を手向けることで、父の死と改めて向き合うことができた。胸に去来する様々な思いを、花というのはその華やかさと香りで浄化してくれるのかもしれない。花の力を借りて、あの場所に再び向き合うことを考えておこうと、リュカはいつでも自分を支えてくれる家族に頷いて見せた。
エルヘブンの村の上空で、竜神が高らかに一声鳴いた。それだけでエルヘブンの村を広く囲んでいる木々がざわざわとあおられ音を立てた。リュカが見上げると、竜神もまたリュカを見下ろしている。ここであまり時間を過ごしてはいられないと、リュカは村の人々に一斉に礼を述べ、村を立ち去ろうとする。竜神のところにまで行くには魔法のじゅうたんを使わなくてはならないと、懐から畳んだ紙のような魔法のじゅうたんを取り出そうとした時に、ふとリュカの耳に聞こえた声があった。
「かつてこの村から駆け落ちした若い二人のその子らが世界を救った。ロマンチックよねえ……」
その声はビアンカにも聞こえていたらしく、思わずリュカとビアンカは二人して目を見合わせた。女性の声だったが、誰がその言葉を口にしたのか分からない。リュカたちを囲む村人たちの間に進みながら、ビアンカが目を丸くしながらリュカの耳元に近づき言う。
「お母さまたちって駆け落ちだったの?」
「いや、聞かれても……僕も知らないよ、そんなの」
そう言いながらも、リュカは初めてこのエルヘブンの村を訪れた時のことを思い出す。本来ならばこのエルヘブンの村の長として暮らし続けるはずだったマーサを、パパスはグランバニアへと連れて行ってしまった。そのことに村人は当然良い印象を持ってはおらず、パパスを恨みに思ったとまで言われたこともあった。しかしまさか父が母と駆け落ちをしたなど、リュカは想像したこともない。冷静に考えれば考えるほど、あの父とあの母が駆け落ちをするというイメージは沸かない。子供にとって父と母の物語というものは得てして想像し難いものだと、リュカはこの時初めて実感した。
「う~ん、やるわねえ……」
それに引き換えビアンカは何の障害もなくパパスとマーサの駆け落ちを想像しているようで、彼女の水色の瞳がどこかきらきらと輝いているようにも見えた。リュカは妻のその顔つきに思わずむくれてしまう。相変わらずビアンカの憧れの的は父パパスなのだと思うと、尊敬する父に対して複雑な感情が胸の底に俄かに沸き起こってしまう。
「ふっふふ~」
「なんだよ」
「やきもち?」
「違うよ」
目聡いビアンカはリュカの表情に彼の心情を察し、意地悪な笑みを浮かべながら夫の頬を指先でつついた。そんな母の行動に、ティミーとポピーが両親の仲の良さににこにこと笑う。家族の温かな雰囲気に、思わずリュカのむくれた表情も和らぎ、吹き出し笑ってしまう。平和だと感じる。亡き父に対してやきもちを焼けるほどに平和で、何か悪いことでもあるのだろうかとリュカは懐から畳まれた魔法のじゅうたんを取り出すと、歓迎に囲む村人たちの輪を抜けたところでふわりと投げ、魔法のじゅうたんはリュカの意を受けたように徐々に広がっていく。
エルヘブンの村を出て、魔法のじゅうたんで草原地帯を少し進んだ。空を見上げれば、夕刻になろうとする頃の橙の日が西から指し、東には既に暗くなりかけた空に一つ明るい星が輝いている。よく晴れている。リュカのこの村の印象は、霧に守られ、これほど開けた空が仰げる場所ではなかったはずだった。しかしもうこの村を隠して守ることはないのだというように、村の祈りの塔も西日を受け、眩しいほどに光り輝いている。その景色にも、この世界は平和になったのだと思わせられる。
水の気配が濃くなってきた。リュカは既に仲間たちの気配を感じている。エルヘブンの森の中に黄と赤の鮮やかな色が見えれば、それがプックルだとすぐに知れた。同時にプックルもリュカに気づき、相変わらずの足の速さであっという間にリュカのところにまで駆けてきた。
「がうがう」
「うん、そうだね」
プックルを追うように、かなり後ろにピエールとアンクルの姿も見える。合わせて見えるのは、この村の守り手である三体のゴーレムたちだ。元々は、彼ら三体のゴーレムたちと一緒に、今はエビルマウンテンの頂上の祭壇に立つゴレムスがいた。プックルがリュカに伝えたのは、魔界に残ったゴレムスについて三体のゴーレムたちに話したとのことだった。言葉を持たないゴーレムたちだが、こちらが伝えようとすることはじっと耳を傾け、深く理解してくれる。話をしたのはピエールだろう。まるで今、そのピエールに従うようにゴーレムたちが三体揃って後をついてきている。
「リュカ殿、お早いお戻りですね」
「上で“急げ”ってさ」
「……ああ、なるほど」
森の中からも日に照らされた空は覗ける。今もその空に大きく旋回しながら竜神が悠々と飛んでいる。リュカの母の故郷であるからもっとゆっくりと過ごすのではと思っていたピエールだが、平和は世界全体に訪れているのだ。世界と繋がりを持っているリュカは、たとえここでゆっくりと過ごしたいと思っていても、立場上そうすることもできない。
「こいつらも一応、理解してくれたみたいだぜ、ゴレムスのこと」
「そうか……良かった」
アンクルの後ろに立つ三体のゴーレムたち。仲間のアンクルも身体の大きな仲間だが、ゴーレムという魔物は彼の比ではないほどに大きいと改めて三体のゴーレムを見上げてそう感じる。エルヘブンの森の木々は古くから生き続けているのか、他の地域に見る森の木々に比べても大きく背が高い。そのためにゴーレムという巨大な魔物も難なく森の中に隠してしまう。
「久しぶりだね、みんな」
リュカは並ぶ三体のゴーレムたちを見上げながら、その様子に気づいた。ゴーレムたちの身体がところどころ傷つき、欠けている部分も見られる。恐らく彼らはこの場所で戦っていたに違いない。リュカたちが魔界の奥底で戦っている時、あの大魔王の周りには地上世界を見せる岩がいくつか浮遊していた。魔界から地上世界へとその手を伸ばしていたミルドラースの力は確実に、この地上世界へと及んでいた。その影響を受けたエルヘブンも悪しき魔物からの攻撃を受け、それにこのゴーレムたちも対抗していたのだろうと、リュカはゴーレムたちに両手を伸ばす。
「ごめんね。母さんを連れて帰ってこれなくて」
リュカの言葉に、ゴーレムたちは伸ばされたリュカの手に応えるように、各々その場に静かに跪いた。ほのかな光を絶やさないゴーレムたちの目はただじっとリュカを見下ろしている。その目は純粋に、マーサの息子であるリュカのことを心配しているものだった。
「今は母さんの代わりに、ゴレムスが魔界を守ってくれてるよ」
エビルマウンテンの頂上の祭壇に、マーサの遺志を継いで石となったゴレムスの姿を思い出す。今もゴレムスの手から、魔界を淡く照らす青白い光が絶えず放ち続けられているだろう。大魔王が滅んだ後の魔界は、変わらず魔界の魔物が生きる世界ではあるが、そこに邪悪な気が乱れ狂うことはないだろうと、リュカは信じている。あの世界にも、ロビンやシーザーと彼の家族、ギーガといった魔物たちがいる。魔物も決して悪い魔物ばかりではないことを、リュカはその経験に大いに知っている。
「大丈夫。また会えるよ」
リュカは決して悲しい表情を見せていなかった。彼が言った言葉は、彼の本心から出た言葉だった。リュカは絶対に再びあの魔界にいる魔物たちにも会えるのだと思っている。自身はグランバニアという地上世界の国の王であると同時に、もしかしたら魔界でもその立場にいたかも知れないのだと考えれば、その責任は地上世界だけではなく魔界にも及ぶのだと、寧ろその表情は明るい。
きっと母は目指していたはずだ。地上世界と魔界との繋がりを。その橋渡しをできるのは恐らく自分たちしかいないと、リュカは家族である天空の血筋の妻と子供たち、そして魔物の仲間たちを見渡した。
「これからもこの村のこと、よろしくね」
今生の別れというわけではないのだと、リュカは三体のゴーレムたちへの挨拶を軽く済ませる。エルヘブンという、いつから在り続けているのか分からない古い古い村を、この三体のゴーレムたちは村がある限り守り続けていく。彼らもまた、この地でマーサの遺志を継いでいくのだ。
皆がそれぞれゴーレムたちに別れの言葉を口にする。そのどれもが明るいものだ。ずっと彼らを待っていた魔法のじゅうたんがひらひらと波打ち、その姿はまるでゴーレムたちにお辞儀をしているようだった。魔法のじゅうたんに乗り込んだリュカたちは、竜神と合流するためにより広い草原地帯を目指して飛び始めた。遠ざかるゴーレムたちの姿を見つめるリュカたちを、ゴーレムたちもまたいつまでも見つめ続ける。
ある瞬間、ゴーレムたちの周りに色とりどりの何かが噴き出すように舞い上がった。それは唐突に現れた花びらだった。花吹雪に包まれたゴーレムたちは別段驚くこともなく、ただどこか嬉しそうにそれを眺め下ろす。子供達にはしっかりと見えていたようだ。リュカの目には映らなかったが、この平和を一緒に喜んでいる妖精たちの姿がありありと感じられ、思わず彼の顔も綻んだ。