2017/12/03

初めての感情

 

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サラボナ南で探索した火山洞窟同様、今リュカ達が探索している滝の洞窟も、先に続く道はどんどん深部に下って行くものだった。どんどん地下に下りて行っているにもかかわらず、常に岩の割れ目から外の光が差し込み、洞窟全体は見通しの良い状態が続いている。火山洞窟も視界には困らないほどの明るさがあったが、溶岩の明かりだったため常に息苦しく、探索にはかなりの体力を消耗した。一方でこの滝の洞窟には外からの自然光が入るのみで、近くには常に水の涼やかさがあり、探索をする上で無駄に体力を消耗することは今のところないようだった。むしろ魔物とさえ遭遇しなければ、景色を楽しみ、心を癒す効果があるほど、洞窟の景観は美しいものがあった。
洞窟の構造は岩盤の内部だけではなく、道は外にまで繋がっていた。光に向かって進むような道に、ビアンカは思わず目を輝かせながら足を速めた。一人で先に行ってしまいそうな彼女に、護衛のようにプックルがつき従う。光に近づくにつれ、水の音が激しくなり、ビアンカとプックルの足音などは完全に消し去られてしまうほどだった。
「わー、きれい!」
岩盤の外に続いている道に飛び出し、ビアンカはそこから望む大滝の景観を見上げてそう言った。大滝は太陽の光を受けてきらきらと輝き、ちょうどビアンカの位置からは大きな虹を眺めることができた。危険な洞窟探索をしていることをすっかり忘れ、ビアンカはしばし滝の美しい景色に見とれた。人生で二度とない瞬間を目に焼きつけようと、彼女は内心必死だった。今後訪れることのない冒険のひと時を、幼馴染と過ごせるほんのひと時を、彼女は大事に過ごそうと全身に神経を張り巡らしていた。
洞窟の岩盤に沿って激しく流れ落ちる大滝を囲うように続く道は、それほど道幅が広いわけではない。おまけに滝の水しぶきで道は濡れており、この場所ではしゃごうものなら足を滑らせて遥か下に真っ逆さまに落ちてしまいそうだった。すぐに彼女に追いついたリュカはその状況を見て取ると、彼女にすぐ手が届くように隣に立って同じように滝を見上げた。滝の激しい音を聞くだけで気分が悪くなるリュカだが、ビアンカの隣に立って同じように滝と虹の景色を見上げると、幻想的で美しい景色に気分の悪さは途端に晴れて行った。
ビアンカを挟んで反対側にいるプックルは、足場が悪いことが気になるのか、その場で足踏みをするように足を地面から何度も離してぶんぶんと水を払っていた。後から歩いてきたピエールは、プックルとは対称的に地面が濡れていることが嬉しいらしく、下の緑スライムが顔をほころばせながら水をばしゃばしゃと跳ねさせていた。決して口から水を飲んだわけでもないのに、ピエールの緑スライムが水を含んで一回り大きくなったようだった。
「こんな風に景色に見とれるなんて何年ぶりかしら……」
ビアンカは小声で呟いただけだったが、不思議と彼女の声がリュカに届いた。滝の轟音で大声を張り上げないと聞こえないような状況だと言うのに、リュカは彼女の声のみならず、彼女の心の内に潜む哀しみも見たような気持ちになった。
「母さんが死んでからはそんな余裕なかったしね」
そう言いながら滝を見て微笑んでいるビアンカだが、彼女の言葉以上に過去の生活には余裕がなかったのだろう。彼女の母が早くに亡くなり、それからは彼女が母親代わりとして生活してきたはずだ。元来しっかり者のビアンカだが、まだ幼い彼女にとってはかなりの重荷になったに違いなかった。そしてしっかり者の彼女だけに、アルカパで営んでいた宿屋の仕事も率先して手伝い、今まで母がこなしていた仕事全てを引き受けるつもりで日々頑張っていたのだろう。
山奥の村に引っ越してきてからも、ビアンカは父ダンカンの身の回りの世話、村での野良仕事、宿屋の手伝いなどなど、父のために、村人のためになるようなことは厭わずしてきたはずだ。幼い頃から忙しなく動き回っていたビアンカだが、大人になってからもその性格は全く変わらず、常に身体を動かしていなければ落ち着かないと言った雰囲気がある。しかしそれと同時に、絶えず動くことで、母を失った哀しみから逃げようとしていたのかも知れない。人間、忙しなく動いている時は様々な思いから解放されることを、彼女は無意識の内にも行っていたのかも知れなかった。
そんな彼女の思いは、リュカにはよく理解できた。リュカ自身、父を失った哀しみ、怒りを、常に胸の奥に潜めている。しかしその直後にヘンリーと共に奴隷の身となり、日々生きるのに必死な状況で父を失った哀しみと向き合っている余裕はなかった。その後、こうして危険な旅を続ける最中、魔物の仲間といる間は過去の哀しみに触れる機会はほとんどない。仲間といる時は常に旅をどのように進め、生前の父の目的をいかにして完遂するかだけを考えてリュカは生きている。余計なことは考えないようにすることが、知らない内にリュカの人生の秘訣となっていた。
「母さんがあんなに早く死んじゃうとは思わなかったな」
口調は明るいものだが、虹を見上げる彼女の横顔は全く笑っていなかった。太陽の光に照らされる滝に浮かぶ虹に、ずっと記憶に鮮明に残り続ける母の顔を思い浮かべているのかも知れない。リュカもビアンカと同じように虹を見上げると、勇猛そのものだった父の顔が思い出されるようで、胸の内に込み上げてくるものを感じざるを得なかった。
しばらく滝を見上げる二人を、プックルは赤い尾をゆらゆらと落ち着かない様子で振りながら見上げていた。プックルはリュカが父パパスを失った時、その場に居合わせ、そしてその場に取り残されたのだ。リュカが今、その時の哀しみに触れているのだと分かったプックルだったが、それと同時にビアンカも同じような哀しみに向き合っているのだと感づいていた。そんな二人にどうしたら良いのか、今のプックルには分からず、ただ二人をじっと見つめることしかできなかった。
「ねえ、リュカ、人の未来に起こることって分からないことばかりだね」
ビアンカの言葉に、リュカは己の過去を垣間見られた気がして、思わず彼女を振り向き見た。奴隷の頃の話は一切していないはずだったが、ビアンカは何かを感じ取ったのだろうかと、リュカは彼女の水色の瞳をじっと覗きこんだ。
リュカの黒い瞳に見つめられ、ビアンカは一瞬息を呑んだ。まるで呪文でもかけられたかのように、身体が硬直し、指先一つ動かせないような状態になった。しかしそれが呪文の効果でないことは、ビアンカ自身がよく分かっている。己の想いを封じ込めることですぐにでも解くことのできる力に、ビアンカはリュカから視線を外すことでその効果を得ようとした。
「さあ、景色に見とれてばかりもいられないわ。落ちないように気をつけてね」
そう言って先を歩き出すビアンカに、プックルが彼女を守る騎士のようにつき従う。揺れ動く彼女の複雑な想いに気付いたわけではないが、今のビアンカには自分がついているべきなのだと、プックルは本能で感じていた。リュカと視線を外すことで、リュカと距離を開けることで、ビアンカの心が静まっていくのを、プックルは不思議な思いで感じ取っていた。
先に行ってしまったビアンカを見つつ、しばらくその場から動けずにいたリュカだったが、ふと洞窟の岩盤の割れ目から覗く日の光が弱まっているのを見ると、すぐ傍にいるピエールに話しかけた。
「そろそろ一休みした方がいいかもね。お腹も空いてきたし、この状態で魔物に遭ったらまともに戦えないかも」
「そうですね。しかしこの細い道ではさすがに一休みとも行きませんので、少し先に進んで休むのに適当な場所を見つけましょうか」
「休める場所があるといいんだけどな。でももうそんなに時間が経ってたんだね。気付かなかった」
「充実した時間、楽しい時間というのはあっという間に過ぎ去るものです。では、先に進みましょうか」
そう言ってビアンカたちの後を追うピエールを見ながら、リュカは彼の言った言葉について思わず考えてしまった。今までも旅をしながらあっという間に過ぎ去った時間を幾度となく感じて来たリュカだが、それはピエールの言う通り、充実した楽しい時間を過ごして来たからなのだろうと、自然と納得できた。しかし今は、何かが違うと、胸の内にざわめくものがあるのを感じている。それが何なのか、リュカにはまだ分からない。ただ、視線を外して先に行ってしまったビアンカの後ろ姿を見ると、身体の中に得も言われぬ焦燥感が沸き起こるのを止められない。
この洞窟で水のリングを見つけ、洞窟探索を終え、船で帰路につけば、そのまま彼女を山奥の村に送り届ける。その後はサラボナに向かい、水のリングをルドマンに渡して、とリュカは自身の未来をほぼ確定して考えている。無論、全てのことが上手く運んだ時の話だが、自身の未来はそうあるべきなのだと信じていた。父の目的であった天空の武器防具を探し出して集めることが、リュカの人生の目的に替わっている今、それ以外の未来はあってはならないのだ。
しかし今のリュカには、先ほどのビアンカの言葉が耳に残っていた。
『人の未来に起こることって分からないことばかりだね』
彼女の言う通り、いくら自分で未来を予想していても、その通りに行くとは限らない。むしろ予想通りに行くことの方が困難に違いない。幼い頃の自分が、まさか早くに父を失い、奴隷の身に落とされるとは予想だにしていなかった。初めて会った時はとても嫌なヤツだと思っていたヘンリーと親友になれるとは思っていなかった。魔物の仲間に支えられて旅をすることになるとは想像することもできなかった。全て予想を超えるところに自分の未来は続いているのだと、リュカは過去を振り返ってみてもそう感じた。
水のリングを手に入れ、サラボナに戻り、フローラと結婚し、天空の盾を手に入れるという筋書きの中に、もしかしたら筋書き通りに行かないこともあるのかもしれないと、リュカはビアンカの後を追いかけながらそう思い始めていた。



明らかに人の手が入った階段を下りると、そこには巨大な空間が広がっていた。今はまだ夕陽が差し込み、空間内をいくらか見渡すことができるが、陽が落ちて明かりがなくなれば、一気に洞窟内の視界が悪くなるのは目に見えていた。ビアンカの呪文で明かりを灯し、先に進むことも可能だが、この滝の洞窟が一体どこまで続くのかも分からない。少し先に進みながらも、リュカはピエールと一休みできそうなところを探した。丁度良い岩陰を見つけた時には陽も落ちて、洞窟内には微かな月明かりが入り込むだけの暗闇となった。
「休むだけならこの月明かりだけで大丈夫だね」
「月明かりに照らされてもキレイね、この洞窟。なんだかここに水の妖精でもいるのかしらって思うわ」
「妖精か……懐かしいな」
ビアンカの言葉に、リュカは幼い頃に出会った妖精ベラのことを思い出した。今では果たして本当に体験したことなのだろうかと夢のようにも思えるが、当時妖精の国に一緒に行ったプックルがこちらを見上げて反応しているところを見ると、あの不思議な体験も実際に起こったことなのだと実感できる。妖精の国の凍えるような寒さや、雪を踏みしめる感触もまだ、身体が覚えている。
「妖精がいるような平和な場所だったら良いのですがね」
「妖精がいるからって平和な場所とは限らないよ、ピエール。妖精の国にも魔物はいたんだから」
リュカの言葉に、ピエールとビアンカが驚いたようにリュカを見た。
「リュカ殿は妖精の国に行ったことがあるのですか?」
「うん、小さい頃にプックルと一緒にね」
「にゃう」
「そうなの? それっていつの話よ」
「ビアンカと別れてちょっとしてからだよ」
携帯していた食料を出して食べつつ、リュカは二人にその時の思い出を語って聞かせた。ビアンカは目を輝かせながら耳を傾け、ピエールも仮面に隠れてその表情は分からないながらも、下の緑スライムはふるふると揺れて話を楽しんでいるようだった。
「いいなぁ、私も行ってみたかったな、妖精の国」
「すっごく寒かったけどね。でも僕ももし行けるならもう一回行ってみたいな。ベラも成長して大人になってるかも知れないな」
「ベラって女の子よね。あなたって女の子とよく知り合いになるのね」
「そうかな」
「リングを見つけたらフローラさんと結婚するんだから、ちょっと行動を慎んだ方が良いかも……」
そう言いかけた時、ビアンカは座る位置から少し離れたところに何かが光るのを目にした。月明かりに照らされる水面というわけでもなく、それは自ら主張するような光を放っている。それが青白くキラキラと光った時、ビアンカは思わず「あっ!」と声を出した。
「リュカ、見つけたわ!」
ビアンカはこの洞窟に探しに来ていた水のリングがそこにあるのだと、確信した。伝説になるようなリングであれば、自ら輝きを放つのも全く不思議なことではない。そう信じ込んで、彼女は咄嗟にその場に立ち上がり、水色の光に向かって近づいて行った。
「ビアンカ! 一人で行くな!」
「水のリングよ。間違いないわ!」
初め歩いていたビアンカだったが、見つけた宝物をすぐにでも手にしようと、気付けば走り出していた。月明かりに照らされるだけの洞窟内だが、すでにその状態に目が慣れていた為、道のでこぼこに転ぶこともなかった。
ビアンカがじっと見つめる青白い光は、次第にその光の色を変えて行った。徐々に紫色に変わり、そしてその色が赤い色に変わった瞬間、彼女の身体がぐらりと揺れた。目眩にも似た感覚に足が覚束なくなり、ビアンカはその場で転んでしまった。
間もなく追いついたリュカは、既に彼女の脇に座りこんで何やら静かに様子を窺っているプックルに構わず、再び彼女が走り出さないようにとまずはその手を掴んだ。ビアンカに怪我がないことをさっと確認すると、落ち着いたように声を荒げた。
「君はどうしていつもそうやって……!」
リュカがそう言いかけた時、ビアンカは掴まれていた手を強く振り払って叫んだ。
「離して!」
「ビアンカ?」
様子のおかしいビアンカの顔を、リュカは覗きこむように見る。いつもは澄んだ水色をしているビアンカの瞳が、見たこともない赤色を帯びていることに気がついた。そしてその瞳には激しい憎悪が宿っていた。
「あなたたちのせいで……サンタローズが……」
明らかに様子のおかしいビアンカに、リュカはかける言葉を失う。唐突に出てきたサンタローズという言葉にリュカは先ほどまでの会話を振り返る。しかし妖精の国の話をしただけで、そこに激しい憎悪を感じるようなものはなかったはずだ。
「みんなを返して! 村を返してよ!」
今のビアンカの目に映っているのは、サンタローズ村に攻め込んできたラインハット兵の姿だった。過去に実際に目にしたことはなく、ただ彼女の想像の中でのものだが、今の彼女の前に立つリュカは冷酷無比なラインハット兵として映っていた。
「リュカをどこにやったのよ! 無事じゃなかったら済まないんだから!」
ビアンカは泣き叫んでいた。そして容赦なくリュカに向かって火炎呪文メラミを放ってきた。あまりにも急で、至近距離で放たれた火炎に、リュカは避けることもできずにまともに炎を浴びてしまう。炎に包まれそうになったリュカを見て、プックルが身を震わせながらもリュカに体当たりを仕掛け、近くの水場にその身体を放り込んだ。ざぶんと水の中に入ったリュカを再び引き上げようとしたプックルに、ピエールが叫んで知らせる。
「プックル、敵はあそこにいる。私は先に向かっているから、後で応戦を頼む」
ピエールはリュカの救出をプックルに任せ、既に見つけていた魔物に向かって走り出していた。ピエールの向かう先にはきらきらと煌めく宝石が宙に浮いていた。宝石を自在に操っている袋には顔があり、その顔にはプックル達を見てにたにたと楽しんでいる様子が窺えた。
プックルに助け出されたリュカは、一度確認するように顔を舐められると、プックルがすぐにどこかに向かって走って行くのが分かった。走って行った先にピエールの姿があり、その先に魔物の姿を捉えると、リュカはビアンカが敵の呪文にかかってしまったのだと理解した。目の前にゆらりと立つビアンカの瞳はまだ怪しげな赤い光を帯びている。いつか自分もかかったことのある混乱呪文メダパニの効果なのだと、リュカは彼女からどうにか呪文の効果を失わせることを考えた。
「ビアンカ! 僕は生きてるよ。だから安心して……」
「やったわね、リュカ。これでフローラさんと結婚できるはずよっ」
途端に笑顔を見せて話すビアンカに、彼女の目の前に映る景色ががらりと変わったのが分かった。混乱呪文メダパニの効果は、まるで人を夢の中に入れてしまうように場面を次々と変えてしまう。そしてその場面一つ一つに、その者自身の強い思い入れがある。
リュカはビアンカの笑顔を見ながら、その場で立ち尽くしてしまった。彼女は表情こそ笑顔ではあるものの、その瞳からは絶えず涙が溢れているのだ。表情とも言葉とも合わない彼女の涙に、リュカは何故か感じたことのない息苦しさを覚えた。
「これが水のリングかぁ。きれいね」
そう言いながらビアンカは何も乗っていない自分の掌を覗きこんでいる。彼女の目にはそこに想像上の水のリングが乗っているようだ。俯くビアンカの目からはぼたぼたと涙が落ちる。
「きっとフローラさんに似合うと思うわ」
「ビアンカ、水のリングはまだ見つかってないよ。しっかりしてくれ」
リュカは再び火炎呪文を浴びせられても構わないというようにビアンカに近づき、彼女の両肩を揺さぶった。しかしその程度の動きでは彼女にかかった混乱呪文は解くことができない。
「いいなぁ、私もこんなキレイな指輪をしてみたいなぁ」
震える声でそう言って、ビアンカは指先でつまむようにして想像上の水のリングを上に掲げた。リングの先にリュカがいるのだが、彼女の焦点はリュカには合わず、ありもしない水のリングに向けられている。
「いいなぁ……」
両頬に涙が走り、月明かりを浴びて彼女の頬が光る。
「リュカと……」
ビアンカがそう言いかけた時、途端に彼女の様子がまたがらりと変わった。目の焦点が徐々に定まり、目の前に立つリュカのことをゆっくりと見上げる。その瞳の色は元の通り水色の光を取り戻していた。
「……リュカ?」
メダパニの呪文の効果が消え去り、ビアンカが正気を取り戻したのが分かった。しかし突然架空の世界から現実に引き戻された彼女は、まだ意識がぼんやりとしているようだ。
彼女のそんな姿を見て、リュカは以前自分がメダパニの呪文にかかった時のことを思い出した。カボチ村で魔物退治を依頼され、村の西の洞窟を探索していた時、紫色の土偶の姿をした魔物にメダパニを食らったことがあった。呪文にかかっていた時の記憶はほとんど残っておらず、正気に戻った時にマーリンのローブが鋭く切り裂かれていたのを見て、おぼろげに己が何をしたのかを感じた程度だ。
混乱呪文でリュカは己の心の奥底に潜む激しい憎悪を引きずり出されたのだと、その時分かった。普段は表に出すことのない、出す必要もない心の闇が、メダパニという呪文によってそれが露わにされた。
今、目の前にいるビアンカにも恐らく、その時のリュカと同じようなことが起こったに違いなかった。彼女の心の奥底にしまわれてる本当の気持ちが、彼女の意思に反するように表に出て来てしまったのだろう。ラインハット兵に対する憎しみは、彼女が普段胸の内にしまっている激しい感情の一つだ。そしてもう一つ、彼女は水のリングを捜索することに、何か強い思いを抱いている。
「ビアンカ……」
リュカが自分の名を呼ぶ声に、ビアンカは小さく身体を震わせた。彼女は混乱に陥った時のことを、おぼろげに覚えている。自分が爆発させそうになった感情は、まだ頬に残る涙が事実だったと証明している。リュカに言ってはいけない何かを言いかけた時、がらりと世界が戻ったのをビアンカはしっかりと感じ取っていた。
「今、何か言いかけたよね」
「……なんのこと? ごめんなさい、私、どうかしていたみたいね」
「うん。混乱呪文にかかっていたんだよ。僕もかけられたことがあるんだ」
「そうなんだ。水のリングを見つけたと思って近づいたら、あれは魔物だったのね」
ビアンカが移した視線の先には、プックルが仕留めた魔物、踊る宝石の姿があった。地面にしなびた袋が落ち、その周りにはきらきらと煌めく宝石が散らばっていた。どうやら宝石は本物のようで、それは町などに持って行けば高値で取引されそうなものだった。
「リュカ殿、この宝石は貴方がお持ちになったら良いでしょう」
ピエールが地面に散った宝石を集めながらそう言うと、リュカは生返事のような気のない声を出して、プックルとピエールのところへと歩いて行った。
「ごめん、僕もすぐに戦闘に参加するべきだったのに、任せきりにして……」
反省の言葉を述べるリュカだが、どこか心が浮ついているのは明らかだった。反省する気持ちは確かだが、その他にも何かに気を取られている様子だと、プックルもピエールも気がついていた。
「ビアンカ殿を守らねばならないという思いで、いつも以上に疲れているのでしょう。今日は早めに休み、明日に備えたらよろしいかと」
「そうだね。じゃああの場所で休むことにしよう。見張りは順番で……」
「私が最初に見張りをするわ。戦闘ではまるで役に立っていないんだもの、むしろ足を引っ張って迷惑をかけているし……。だから、それくらいはさせて」
今のビアンカには山奥の村を出た時のような、全身で旅を楽しむような元気さはなかった。滝の洞窟に入り、常に後方で守られてばかりのような自分の存在に歯がゆさを感じ、少しでも役に立ちたい一心だった。また、それとは別に、ゆっくり休んでいられるような心境でもないことも確かだった。たとえ見張りもせずにゆっくり寝て休めと言われても、恐らく一睡もできずに夜を明かすだろうと、ビアンカはリュカから視線を外しながらそう感じていた。
「初めは僕とビアンカで、その後ピエールとプックルに見張りをお願いしてもいいかな」
「え……? 見張りって一人ずつするんじゃないの?」
「初めて来た場所で君にそんな危険なことさせられるわけないだろ」
「じゃ、じゃあ、初めは私とプックルで見張りをするから、その後でリュカとピエールで……」
「ううん、君と少し話がしたいんだ。だから、いいよね」
「私たちは構いません。ただ、プックルはビアンカ殿の傍で眠ると言っています」
「にゃう」
ピエールの言葉に続いて、プックルが甘えたような声を出してビアンカの足元にすり寄ってきた。その温もりに、ビアンカは張りつめていた身体の緊張が少しほぐれるのを感じた。
「私も、プックルが傍にいてくれた方がほっとするわ。それに、この旅が終わったらまたお別れだものね。少しでも長く一緒にいたいのは私も一緒よ」
「ゴロゴロゴロ……」
「こんなに大きくなってもプックルはプックルね。すっかりトラみたいになってるのに、猫にしか見えないわ」
ビアンカがそう言いながらプックルの太い首を手で撫でると、プックルは気持ちよさそうに目を閉じた。赤い尾をふりふりと揺らし、そこにはビアンカのリボンが変わらずつけられている。
「プックルは本当にビアンカ殿が好きなんですね。そんなに懐いてしまっては、いざ別れる時が辛くなるでしょうに」
「大丈夫よ、私と別れてもリュカがいるもの。ねぇ、プックル」
「にゃあ……」
「何だよ、プックル。僕じゃ不満だって言うの?」
プックルのからかいに正直に答えるリュカを見て、ビアンカもピエールも笑っていた。ようやく彼女が自然に笑ったのを横目で見て、リュカは無意識に安堵の溜め息をつくのと同時に、そんな彼女の顔をもっとずっと見ていたいと感じていた。



軽い食事を済ませ、ちょうど岩の割れ目から月が覗いた頃、プックルが大きな口を開けて欠伸をした。休むのに適した岩場の陰にも月の明かりが差し込み、仲間の様子を確認することができる。プックルはビアンカに背中を撫でられ、気持ちよさそうに目を閉じ、静かに眠りに就いたようだった。
プックルを挟んで、リュカとビアンカはその大きな身体にもたれかかるようにして見張りを始めていた。ピエールは岩場の陰に入り込み、月明かりからも逃れるようにして既に寝息を立てていた。リュカとの旅の中で、ピエールもすっかり眠れる時に眠ると言う習慣が身に付いている。しかしひとたび戦闘となれば、深い眠りからもすぐさま起き上がることができる。そんな彼の存在に、リュカは常に感謝の念を抱いている。
「ビアンカ、もし疲れていたら休んでいていいからね。ここだったら、僕一人でも十分見張りができるから」
岩場の陰から望む景色は一方向で、襲ってくる魔物がいるとしたら、リュカが見張る方向からしか攻撃を仕掛けてこないことが予想できた。一方、ビアンカが見張る方向には小さな岩の隙間があるだけで、その場所から魔物の襲撃を受けることはないはずだ。もしリュカの見張る方向から魔物の襲撃を受けたら、逃げ道としてビアンカが正面の小さな隙間に呪文を放って、逃げ道を確保するということを、リュカは事前に彼女に相談し、決めていた。
「話があるんじゃなかったの?」
もたれかかるプックル越しに彼女の声が聞こえ、リュカは少しの間、返事に逡巡した。
「うん……、でも君が疲れていたら疲れを取るのが優先だよ」
「疲れていても、とても眠れる気分じゃないわ」
ビアンカは言葉の通り、到底眠れるような心持ちにはなかった。山奥の村を出ての初めての冒険、美しい滝の洞窟での探索、今まで目にしてきた光景を振り返るだけでも気持ちが高ぶり、むしろ今すぐにでも洞窟探索を続けたいと思うほどだ。身体は確実に疲労しているが、彼女の気力はまだ充実していた。
「話って、何よ。まさか今さら『村に帰れ』なんて言うんじゃないでしょうね」
「そんなことは言わないけど……」
「そりゃあ私なんかがついて来て足手まといだってことは分かるけど、ここまで来ちゃったんだから、水のリングが見つかるまで帰らないからね」
「ここまで来ちゃったんだから、君を村に帰そうにも帰せないよ。それは諦めてるから大丈夫」
「そう。なら安心したわ」
ビアンカの声はプックル越しに、自分とは反対側に響いていることに、リュカは少し寂しい気持ちを抱いた。プックルは眠りながらもビアンカの体温と声を感じているのか、いつもよりも安らかな寝息を立てているようにも見えた。
「この洞窟、どれくらい広いのかしらね。水のリング、すぐに見つかるといいのに」
「こういうのは焦っちゃダメだよ。大体、ここにあるのかどうかもまだ分からないんだから。もしかしたらこの場所じゃないところなのかも知れないし」
「それはないわよ。絶対にここにあるわ」
「どうしてそう思うの?」
「直感よ、直感」
「直感?」
「知らないの? 女の直感って当たるのよ」
「そうなの?」
「そうよ」
相変わらずプックル越しに聞こえる彼女の声だが、その声には絶対にこの滝の洞窟で水のリングを見つけてやると言う強い意気込みを感じた。むしろ彼女にとっては、この場所に水のリングがなければ困るのだと言うようにも聞こえるほどだった。
「じゃあ、その直感ってヤツに聞きたいんだけどさ」
「何を?」
「僕はフローラさんと結婚して幸せになれると思う?」
突然のリュカの言葉に、ビアンカは返す言葉を見失った。この滝の洞窟へ来る時の船の上では、自らリュカに『フローラさんと結婚して幸せになる』と言い切っていたが、今はその言葉がすぐには口から出なかった。そんな自身の心境の変化に気付き、ビアンカは心の中で自分を責める。
「さっき、混乱呪文にかかった時、ビアンカは水のリングを見つけたって言ってたんだ」
「呪文にかかる前じゃなくて?」
「かかる前にも言ってたけど、かかった後も、こうしてリングを手にして……」
リュカの動く気配を感じ、ビアンカはプックル越しに後ろを振り向き見る。するとリュカが右手を掲げるようにして、その指先に何かをつまんでいるような格好で、その指先を見上げていた。
「おめでとう、って言ってくれたんだけど、でも、泣いてたんだよ」
リュカにそう言われる一瞬前に、ビアンカはその時の状況をはっきりと思い出していた。混乱していたとは言え、記憶がなくなっているわけではなく、きっかけさえあればその時のことを思い出せてしまうのが、メダパニの効果だった。ビアンカは自分が架空の水のリングを指先に持ち、それを見ながら何を想っていたのか、それを今のリュカに教えるわけには行かなかった。
混乱呪文にかかり、ビアンカが何を見ていたのか。滝の洞窟に探索に来て、水のリングを見つけたことは純粋に喜ばしいことだ。しかしそこに続くリュカとフローラの結婚という未来に、彼女は涙していた。村を出る時には二人の幸せを心の底から祝福できるものだと思っていたのに、彼女が考えていたよりも、リュカは逞しく勇敢で、魅力的な青年に成長していた。船旅を進め、洞窟探索を進めるうちに、彼女の中でリュカが弟のような存在だと言う定義を軽く超えてしまっていた。
いつの間にか、ビアンカはリュカに恋をしていた。
「……泣くほど嬉しかったのよ、きっと」
再びリュカに背を向け、短くそう答えるのがやっとだった。他に口にするべき言葉が今の彼女には思いつかなかった。ビアンカの胸の内には溢れるほどの想いがあるが、その内のどれも表に晒すわけには行かなかった。
「嬉しくて泣いてたの?」
「そうよ。だって大事な弟が可愛いお嫁さんをもらって幸せになったんだもの。姉として嬉しいに決まってるじゃない」
ビアンカの言葉に、リュカはその時の様子を思い出しながら考えこんだ。水のリングを指先でつまみ持ち、上に掲げながら見上げる彼女の表情に、嬉しさがにじみ出ている様子は感じられなかった。もしビアンカが自分の幸せな結婚を祝福してくれるのであれば、満面の明るい笑顔を見せてくれるに違いない。そこに涙が生ずるのは、彼女の中に嬉しさとは違う感情があるのではないかと、リュカは感じていた。
「本当にそれだけだったのかな」
「本人がそう答えてるんだから、それだけなのよ。他に何があるって言うのよ」
いつも通りのビアンカの自信に満ちた声が背後に聞こえ、リュカは彼女の言葉に納得しそうになってしまう。彼女自身がそう言う限り、リュカの感じたような別の感情を彼女から聞きだすことなどできないだろうと、リュカは話題を元に戻した。
「結婚ってさ、僕には何だかまだ早いような気がして、どこか他人事なんだよね」
ルドマンの娘フローラは、噂に違わず清楚可憐な娘で、そしてどこか強い意思を秘めた女性だ。何年もの間、修道院に預けられていた彼女は花嫁修業も積んでおり、もし結婚したとしてもすぐに妻としての役目をこなしてしまうだろう。女性としても魅力的な彼女を結婚相手として望む男性は、世界中に数多といる。そんな女性と結婚できることは、リュカにとっても幸福なことで、人生を豊かにしてくれることはそれこそ確定された未来なのかもしれない。
「僕にとって結婚って、ヘンリーとマリアみたいになることだと思ってたんだ」
「二人の話は少し聞いたけど、とても仲良しみたいね」
「でも自分とフローラさんがああなれるのかなって思うと、自信がないんだよね」
リュカの迷うような言葉に、ビアンカは掛けるべき言葉が頭の中にぐるぐると巡るのを止められなかった。様々な感情が入り混じり、うかうかすると掛ける言葉を間違えてしまいそうだったが、静かに深く呼吸をすると心が落ち着き、理性がしっかりと働くようになった。
「まだ出会って間もないんだもの、仕方ないわよ。でもフローラさんのこと、嫌いではないんでしょう?」
「あの人を嫌う人はいないと思うよ。いわゆる完璧な女性なんだと思う。ルドマンさん、フローラさんの結婚相手を募って屋敷に人を呼んだんだけど、すごい人数がいたからね」
「そうなんだ。そんな素敵な人をお嫁さんにもらえるんだから、きっとリュカは幸せになれるわよ」
「好きかどうかも分からないのに?」
「嫌いじゃないのなら、好きなんじゃないのかしら」
「そんなこと言ったら、僕はビアンカのことも好きだよ」
リュカの言葉に驚いてビアンカが後ろを振り向くと、目の前にリュカの顔があった。少し前から彼女の方を向いて話していたリュカは、ビアンカが急に振り返って間近に顔を見せたことに、思わず小さく息を呑んだ。
ビアンカから見るリュカは月明かりを背に浴びているため、その表情を確かめることはできない。しかし彼の視線を間近に感じると、金縛りにあったようにその視線から逃れることができなかった。
月明かりを浴びて揺れているビアンカの瞳を見ると、リュカはしばらく呼吸をするのも忘れてその瞳に見入ってしまった。この世に存在しない呪文をかけられたような不思議な感覚に陥り、胸の辺りから熱が立ち昇るかのように、首から顔から一気に熱くなるのを感じた。
「……それは、姉としてでしょう?」
ようやくビアンカが吐き出した言葉に、リュカは訳の分らぬ熱に襲われかけていた状態から、熱がすーっと引いて行くのを感じた。見ればビアンカの揺れていた瞳も、いつも通りの穏やかなものに戻っていた。
「魔物たちを仲間にしちゃうようなリュカだもの。嫌いな人なんてきっといないわよね」
「そう……かな」
「もしフローラさんのことが好きかどうかも分からないってことでも、とりあえず結婚してみるのも私はアリだと思うわ。そういう結婚の形もあるんだと思う」
「それってフローラさんに失礼なんじゃないかな」
「それくらい相手を気遣えるリュカだもの、フローラさんだってすぐにあなたのことを好きになってくれるわよ。ううん、もしかしたらもうリュカのことを好きなのかも知れないわ」
ビアンカに後押しのような言葉をもらうと、リュカは少し心が軽くなったような気がした。自分では自信が持てないことをビアンカに自信づけてもらうことで、リュカは自分も堂々とフローラを好きになって良いのかもしれないと思うことができた。リュカの中では常に、フローラを想うアンディの存在が胸につかえている。しかし天空の盾を手に入れるためにも、アンディの本気の想いを裏切らないためにも、フローラを心の底から愛さなければならないのかもしれないと、リュカは改めてそう思うことができた。
「もし僕のことを好きになってくれたら、嬉しいかな」
「自信持ってよね。フローラさんがまだリュカの良さに気付いていないようだったら、私が詳しく説明してあげるから、安心しなさい」
そう言いながらリュカの頭をポンと叩くビアンカは、自分の言葉に胸が張り裂ける思いだった。しかしリュカの幸せを願う思いは誰にも負けないのだと思えば、芽生えた恋心を封じるのはそれほど難しいことではなかった。リュカが自ら語ることのない苦労は恐らく自分の想像を遥かに超えるもので、そんな苦労をしてきた彼が幸せになるためには己の感情など簡単に止められると、ビアンカは胸の内に温かく芽生えた恋心を抑える。
「フローラさんのような女の人と結婚できるなんて、それだけでとても幸せなことよ。世の男性が皆羨ましがるでしょうに」
「もし結婚できたら、きっとそうなんだろうね」
「今はその幸せに向かって突き進むだけよ。水のリングを早く見つけて、フローラさんと結婚する。それだけを考えましょう」
常に早口なビアンカだが、いつにも増して少し早口ぶりが増している気がした。しかし彼女の表情は穏やかで、心から自分を応援してくれているのだと、リュカにはその雰囲気から感じることができた。
「そうだね、そうすることにするよ。とにかく水のリングを見つけないとね」
「どこにあるのかしらね。早く見つかるといいのに……」
「うん、そうだね……」
二人の言葉が尻切れトンボのようになり、続かない言葉を補うように、プックルの赤い尾がリュカの背中をバシッと叩いた。プックルに起きている様子はなく、夢でも見ているのか口の中でもごもご何事かを言いながら、大きな身体を動かして体勢を変えた。今までリュカの方に向けていた顔を、今度はビアンカの方に向けて、彼女の身体を包みこむように大きな身体を丸めた。
「痛いよ、プックル」
「寝ているんだもの、プックルに悪気はないわよ」
子供のようにむくれるリュカに、ビアンカが小さく笑いながら言う。そんな彼女の背中を、プックルの赤い尾が秘かにあやすように撫でた。ビアンカがプックルの顔をこっそり覗き見ると、彼の大きな青い瞳と出会い、ビアンカはプックルが起きているのだと知った。しかしすぐに目を瞑り、規則正しい呼吸を繰り返すプックルを見て、彼女は話しかけるのは止め、代わりにその大きな背中をぽんぽんと優しく叩いた。
「ありがとう、プックル」
「……にゃう」
小さく返事をするプックルを見て、ビアンカは彼が自分の本心に気付いているのではないかと感じた。そう考えると、ふと目頭が熱くなり、ビアンカは思わずプックルの毛皮に顔をうずめた。その様子を見て、リュカはビアンカが眠くなってしまったのかと、小さく声をかけた。
「眠いのなら寝てていいよ。見張りは僕一人で大丈夫だから」
「……うん、そうさせてもらおうかな。ごめんね、リュカ」
「ううん、ビアンカは僕たちと違って旅慣れているわけじゃないから、疲れて当然だよ。無理しないで休んで」
そう言いながら、リュカは先ほど自分がしてもらったように彼女の頭をぽんぽんと優しく叩いた。何の気なしのリュカの行動だったが、その小さな行動一つで、ビアンカはプックルの背中に涙を滲ませていた。リュカの優しさを感じるほど、ビアンカの心は少しずつ傷ついていた。
「おやすみ、リュカ」
「うん、おやすみ」
それきり静かになったビアンカを見て、リュカは彼女に背を向けて見張りを続けることにした。しかし彼女が一向に寝息を立てないことが気になり、再び後ろを向いて間近に彼女の様子を窺う。プックルの背に顔をうずめたまま微動だにしないビアンカを見ると、リュカは得体の知れない不安に襲われるのを感じた。話しかけたい衝動に駆られたが、何故か寝たふりをした彼女は起きないに違いないと、リュカはそのまま不安を胸に抱えたまま岩陰から覗く洞窟の景色を眺め始めた。



朝日が差し込む滝の洞窟は、また一層の神秘的な空気に包まれていた。岩盤の割れ目から入る日差しは筋状になって洞窟内を照らし、それはまるで天から神が光を放っているかのようにすら見えた。リュカはその景色を見ながら、ふとサラボナの教会を思い出していた。サラボナにある教会は町の中でも大きな建物で、町を象徴するような存在感がある。町全体が清らかで落ち着いた雰囲気に包まれているのは、美しいステンドグラスに彩られたあの教会の存在が大きい。決して神を信じているわけではないが、リュカはサラボナの教会にも似たこの滝の洞窟の神々しい雰囲気に、水のリングは間違いなくこの場所にあるのだと根拠のない確信を得ていた。
「ここは足場が悪いね」
「そうですね。水の中から不意に魔物が現れるかも知れません。慎重に行きましょう」
「ねぇ、プックル、私も自分で歩くわよ」
ビアンカの声にプックルは無言で答え、背にビアンカを乗せながら水の張った地面の上をゆっくりと歩いていた。
「プックルにとってはまるでお姫様なのでしょうね、ビアンカ殿は」
「がう」
「こんな野暮ったいお姫様がどこにいるって言うのよ。それこそお姫様って言うのはフローラさんみたいな人のことを言うんでしょうに」
「そうとも限らないと思うけどな。ビアンカみたいなお転婆なお姫様がいたっていいと思うよ」
「そんなの、きっと周りが困るわ。振り回されっぱなしで」
「アハハ、そうかもね。思えば小さい頃は振り回されてたような気がするよ」
「……今も勝手に旅について来て困らせてるわよね」
思いがけない殊勝な彼女の言葉に、リュカは後ろを歩いてくるプックルの背に乗るビアンカを振り向き見た。目が合うと、彼女は途端に視線を外して洞窟内に目を向ける。
「だって私、何の役にも立っていないでしょう。むしろ足手まといになってるわ」
「そんなことないよ」
落ち込むような様子で言うビアンカを見て、リュカは慌てて彼女の言葉を打ち消した。事実、リュカはビアンカを足手まといだと思ったことは一度もない。ただただ彼女を守らなくてはならない、怪我をさせてはならないと、それだけを考えて洞窟探索を続けている。
「旅の仲間に足手まといの者などいませんよ。我々は確実に、互いで互いを支え合っているのです」
ピエールの言葉は常に現実味に溢れている。旅慣れていないビアンカは確かに、洞窟探索と言う行動には不向きかも知れない。しかし彼女がいるだけでプックルはいつも以上に力を発揮し、リュカの心にも少なからず良い影響を与えている。
「負担をかけていることには違いないわ」
「それもお互い様です。私とプックルは魔物です。それだけでリュカ殿の旅に負担をかけています」
「僕は何も負担だなんて思っていないよ。だって色々と助けられているんだから」
ビアンカもピエールもリュカも、その言葉は全て本心だった。そしてそんな本心を見せることができ、預けられるからこうして共に旅をすることができるのだ。
「それに、僕、楽しいんだ。そんな風に思ったら、父さんに怒られるのかも知れないけど」
リュカの口から父パパスの話が出たことに、ビアンカは思わずじっと次の言葉を待った。
「父さんが命を懸けて母さんを探していたのに、今の僕はその旅を楽しんでるなんて、きっとバチが当たるね」
「そんなことないわ。きっとおじさまは喜んでくれているわよ、リュカが旅を楽しんでることに」
「私もそう思います。もしリュカ殿がこの旅を苦痛に感じておられるようであれば、それこそ父上殿が苦しまれるのではないでしょうか」
ピエールの言葉に、リュカもビアンカも、生前のパパスのことを思い出す。幼いリュカを連れて旅を続けていたパパスが最も気をつけていたのが、リュカの身の安全だ。息子のリュカが元気で無事であれば、父親であるパパスにとってこれ以上の幸福はなかった。リュカが日々を楽しく過ごしていることは、パパスにとっても喜ばしいことであるのは間違いのないことだ。
「辛く厳しい時もありましょうが、できるだけ楽しく過ごすことが皆にとっても良いことだと思います」
「ピエールの言う通りだわ。無理に辛くなる必要なんてないのよ。リュカが楽しんでいると、私もみんなも嬉しいもの」
「僕だけ楽しんでいても辛いよ」
「おや、私は十分楽しんでいますが。リュカ殿と共に旅をすることで、どれだけ充実した時を送っていると思っているのですか」
「がうがう」
ピエールとプックルは、旅の途中で出会わなければそのまま魔物としてラインハット近くで、あるいはカボチ村の西の洞窟で、それぞれ生きて行くはずだった。それが運命的にも出会い、再会し、今では二人ともリュカの旅になくてはならない存在となっている。
「ビアンカは……何だか昨日から少し辛そうだよね」
そう言いながらリュカに顔を覗きこまれたビアンカは、慌てて視線を逸らし、宙に彷徨わせた。
「辛いことなんか何もないわよ。何を言ってるの」
「僕は君のこと、足手まといだなんて少しも思っていないからね」
「もし思っていたら遠慮なく言ってよ。危険な旅について来ているんだもの、そういうところで遠慮は必要ないわ」
「ううん、むしろ君がついて来てくれて良かったと思ってるよ。何となくだけど、いつもよりもっと楽しいんだ」
そう言って笑うリュカの顔を見て、ビアンカは彼への想いが強まるのを抑えられなかった。しかしそんな想いを露わにするわけには行かず、ビアンカは乗っていたプックルの背から飛び降りると、リュカに背を向けたまま言葉を口にする。
「私も……きっとこれ以上の経験はこれからもないだろうなって思うくらい、楽しいよ。やっぱりついて来て正解だったわ」
「本当に? それならいいんだけどさ」
何故か自分に背を向けて話すビアンカに首を傾げながらも、彼女が嘘をついているわけではないだろうとリュカには分かった。ただ、洞窟探索の途中で、彼女の中で何かが変化したことには違いない。それが何なのか、リュカには皆目見当もつかなかった。
その時、リュカは目の端に何か動くものを捉え、咄嗟に視線を移した。魔物が現れたのかと、真っ先にビアンカを庇おうと彼女の前に立ったが、リュカが見たそれは魔物ではなかった。
目を疑ったが、そこには一人の男が周りを警戒しながら歩いていた。体つきは頑強だが、戦士風の身なりではなく、軽装に身を包んでいる。忍び足が板についている様子を見ると、盗賊か何かのように見えた。
「リュカ殿、私とプックルは少し離れていた方が良さそうですね」
「そうかも。無駄な戦いは避けたいからね」
ピエールとプックルが近くの岩場の陰に身を潜めると、リュカはビアンカと二人で盗賊風情の男に近づいてみることにした。
「ビアンカ、手を貸して」
「手? どうするの?」
「君は目を離したらすぐにどこかに行っちゃいそうだから」
首を傾げながらビアンカが手を差し出すと、リュカは問答無用でその手を掴んだ。リュカの行動にビアンカが戸惑う一方で、リュカは自分の行動に思わず笑っていた。
「そう言えばレヌール城に行った時も手を繋いでいたっけ」
リュカがそう言うと、ビアンカは静かに深く息をつきながら当時のことを思い出した。子供の頃、リュカと冒険をしたレヌール城では、リュカがずっと手を離そうとしなかったのだ。城の中にはお化けがたくさんいると言うのに、お化けは怖がらずに一人になることを恐れていたリュカは、ビアンカとはぐれないようにしっかりと彼女の手を握りしめ続けていた。
その時のことを思い出すと、ビアンカは落ち着いた気持ちでリュカの手を握り返せた。
「大丈夫よ、もう一人になんてしないから」
そう言うビアンカの表情は少しからかうようなものだったが、彼女の笑顔と言葉に、リュカは小さく息を呑んだ。途端に、繋ぐ手は滝の洞窟のひんやりした空気で冷たいはずが、一気に熱を帯びたような感覚に陥った。
「まあ、今は私だけじゃなくてプックルもピエールもいるし、リュカを一人にするなんてことは絶対にないから安心しなさい」
「……うん、そうだね」
「あれ? からかわれたって怒らないんだ」
ビアンカがそう言ってリュカの顔を覗きこむと、リュカは揺れる瞳で彼女の顔を見つめ返した後、そっぽを向いて答える。
「だってあの時は一人にされるのが怖かったのは本当だからね。からかうも何もないよ」
「やっぱり怖かったんだ。……私も怖かったんだけどね。リュカが手を繋いでくれたから、何とかお化けにも耐えられたんだと思うわ」
「そうなんだ。お化けを怖いって言ってたけど、それほどでもないんだろうなって思ってたよ」
「そんなことないわよ。もうあの時はずっと身体が震えてて……」
二人で手を繋ぎながら昔話をする姿は、遠目に見れば立派な恋人同士のようだった。当然、二人の姿を遠くに見つけた盗賊風情の男からすれば、魔物も出るような洞窟で若い男女が手を繋ぎながら歩いている姿を見れば、盗みを働くいい獲物が来たというようにしか思えなかった。
リュカ達が近づくのと同時に、盗賊の男が近づいてくるのを見て、リュカは少しビアンカを後ろに下がらせながら歩いて行った。と言うのも、男の視線は常にビアンカにまとわりつき、その目にはリュカには耐えがたい感情が見えていたからだ。
「こんなところで仲良くデートかい、お二人さん」
盗賊の男が口元にいやらしい笑みを浮かべ、やはりビアンカをじろじろと舐めまわすように見ている。ビアンカはそれほど気にしていない様子でリュカの隣に並んで立とうとしたが、リュカがそれを許さなかった。彼女を完全に自分の後ろに下がらせ、無意識の内に男に近づけないようにしていた。
「あなたこそどうしてこんなところにいるんですか? しかも一人で」
リュカの声がやたらと低いことに、ビアンカは後ろから彼の怒りに似た感情を見たような気がした。初めて会った人間にこれほど怒りの感情を露わにするのも珍しいと、後ろで小さく首を傾げる。
「この洞窟にはすごい指輪が隠されているらしいぜ」
男の『指輪』という言葉に、リュカとビアンカが同時に小さく声を上げた。ビアンカよりも一回りほど年上に見える男は、盗賊としての経験をそれなりに積んでいるのだろう。そんな男の口から出た『指輪』と言う言葉にはかなりの信憑性があった。
「間違いなくあるのね、水のリング……リュカ、早く探しましょう!」
そう言って前に出てきたビアンカの顔を見て、盗賊の男が軽く口笛を鳴らす。
「こりゃあ大したタマだぜ。なあ、嬢ちゃんよ、オレがその指輪を探してやるから、オレと一緒に来ねぇか?」
盗賊の男が素早い動きでビアンカの傍まで歩み寄ると、彼女に手を伸ばして来た。感情的に受け付けない危険を察知したリュカは、ずっと繋いでいたビアンカの手を強く引くと、再び彼女を自分の後ろに下がらせた。その瞬間、ビアンカの手に妙な力が入ったのを感じた。
「ビアンカに近づくな」
「おお~、優しい顔して怖いねぇ」
「指輪は僕たちで見つけるので、大丈夫です」
「もっともこのオレにさえ見つけられないのに、女連れの色男に探せるとは思えないがな」
そう言いながら男はまだビアンカをずっとじろじろと見ている。一方のビアンカは、リュカの手を握りながらじっと俯いているようだ。
「指輪がこの洞窟にあるって教えてくれてありがとうございました」
リュカは手短にそう言って、ビアンカの手を引きながらすぐに盗賊の男の前から立ち去った。後ろからしつこい男の視線を感じたが、リュカはもう後ろを振り向く気にはなれなかった。
盗賊の男の姿が見えなくなったところで、先回りをしていたピエールとプックルと合流した。仲間の変わらぬ様子を見ることで、先ほどの盗賊の男のことを頭の外に追いやろうとリュカは「さあ、行こうか」と声をかけ、さっさと先に進むべく歩きだした。
すると突然、隣を歩くビアンカが大声を上げた。
「失礼しちゃうわね!」
思わぬ彼女の大声に、リュカはまたビアンカがメダパニの呪文でも食らってしまったのかと、依然手を繋いだまま様子を窺った。
「さっきの男、私のお尻触ったのよっ!」
「えっ……?」
「あ~~~、気持ち悪いったらないわ! あんな人に指輪を見つけられてたまるもんですかっ! さあ、先を急ぎましょっ!」
そう言い放って、怒り心頭のビアンカはリュカの手を引っ張ってずんずん歩き始めた。急に怒り出してしまったビアンカを、傍をつき添うように歩くプックルが不思議そうに見上げている。急に歩みを速めたリュカたちに、ピエールが慌てて地面を跳ねながらついて行く。
ビアンカに手を引かれながら、リュカはごく小さな声で「お尻……」と呟いていた。そして前を歩くビアンカの後ろ姿に目をやり、今までは気にしたこともなかった彼女の尻に視線を向ける。先ほどの盗賊風情の男が彼女の尻を触ったということを想像すると、得体の知れない怒りがふつふつと沸き出すのを止められない。
自分の手を引っ張るビアンカの手を一度ぱっと離すと、リュカはくるりと後ろを向いて、洞窟の広い空洞に向けてぶつぶつと呟き始めた。それが呪文の言葉であることが分かると、ピエールもプックルもビアンカも、一体リュカに何が起こったのかと明らかに戸惑った。
リュカの手から素早く発動された真空呪文は、その手の動きに合わせて唸りを上げて盗賊の男に向かって飛んでいく。突然目の前に現れた呪文の効果に、盗賊の男は目を丸くしてまともに呪文を食らい、叫び声を上げていた。それと同時に、ピエール、プックル、そしてビアンカも同じように目を丸くしていた。
「さあ、行こうか」
「ちょ、ちょっと、リュカ。どうしちゃったのよ」
「だってビアンカ、嫌な思いをしたんでしょ?」
「そうだけど、いくら何でも呪文を浴びせるなんて……」
「これくらい食らったって死にはしないよ、あの男だったら。さっ、行こう行こう」
見たこともないリュカの冷たい態度に、ビアンカは後ろから歩いて来ていたピエールと目を見合わせて同時に首を傾げた。そして一人で先を歩きだしたリュカに、ピエールが不思議そうな様子で話しかける。
「リュカ殿が人間を攻撃するところを初めて見ました。一体どうされたのですか」
ピエールの冷静な言葉に、リュカはそう言えばそうかも知れないと、ふと自身を客観的に考えようとした。しかし盗賊の男のビアンカを見る卑しい顔つきを思い出すだけで、胸の中に堪え切れない怒りが沸いて来てしまう。その怒りに任せて再び男に向かって呪文を浴びせてしまいかねないと、リュカはとぼけるように「さあ、どうしたんだろうね」と答えるにとどまった。
事実、自分は一体どうしてしまったのだろうと、リュカは感情に突き動かされて呪文を唱えてしまったことに不安を抱いた。ピエールの言う通り、自分に襲いかかってきたわけでもない人間に攻撃を仕掛けるなど、正気の沙汰とは思えない。盗賊の男は単に、ビアンカの尻を触っただけだ。別段、彼女に暴力を振るったわけではない。
「どうしたんだろう、僕……」
そう言って両手を見つめるリュカを、ピエールは心配そうに見守る。感情のままに行動したことには違いないが、その感情が一体どういったものなのか、リュカには分からなかった。そんな自分でも分からないような感情で他人を傷つけてしまうことに、リュカはピエールに相談するように話しかける。
「もし僕が訳の分からない行動に出たら、全力で止めてくれるかな」
「できればそうしますが……」
「ピエールができなかったら、私が止めるわ」
後ろから聞こえたビアンカの声に、リュカは素早く後ろを振り向き見た。目が合うと、彼女は水色の瞳に優しさと厳しさを備えながらリュカをじっと見つめていた。その横ではプックルがリュカを上目づかいに見つめている。プックルの青い目にはどこか悲しい雰囲気が漂っていた。
「もしまたそんなことになったら、私が止めるから安心して」
「ビアンカ……」
「本当はリュカは誰も傷つけたくないはずだもの。訳も分からず誰かを攻撃して一番傷つくのは、リュカ自身だわ。そんなの、見ていても辛いだけだから、そうなるくらいだったら私がどうやったってリュカを止めるわね」
「ビアンカ殿にそう言っていただけると助かります。しかしあなたもリュカ殿を傷つけたくないはず」
「……まあ、それはそうだけど」
「お二人とも無理をしないよう、私も自身の役目と言うものをもう一度深く考えてみたいと思います」
「ピエール、そんなに堅苦しく考えなくていいからね。僕も……気をつけるようにするよ」
そう言いながらも、リュカは一体自分のどのような感情に気をつけたらいいのか分からなかった。ただ目の前でじっと自分を見つめているビアンカの穏やかな表情から目が離せないことだけは確かな事実だった。滝の洞窟の美しい景色に負けない彼女の顔を見ていると、得体の知れない自身の感情に気付きそうだったが、今はその感情に気付いてはいけない気がした。リュカは沸き起こりそうになる初めての感情に蓋をして、皆と共に先を行くべく歩きだした。

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