2017/12/03
看病する彼女の思い
サラボナの町は変わらず美しく、穏やかで、平和な雰囲気に包まれていた。町全体を包む花の香りはそれだけで旅から戻ったリュカの心を癒してくれるようだった。町を出てから一か月以上経っているが、サラボナの町は年中同じような穏やかな気候らしく、まるで初めてこの町を訪れた時と同じ感覚をリュカは味わっていた。
死の火山で炎のリングを手に入れた後、まだリングを手に入れようと洞窟内を彷徨っているかも知れないアンディを探そうと、リュカ達は死の火山の洞窟内の探索を続けたが、結局アンディの姿は見つからなかった。これ以上の探索は自分や仲間に危険が及ぶと考え、リュカは洞窟を抜け出るとすぐにルーラの呪文を唱え、サラボナの町まで戻ってきていた。サラボナの町に住むアンディならば、もし洞窟を出られたとしたらキメラの翼で町まで戻っているだろうと、リュカは彼が無事に町に戻ってきていることを期待して、仲間たちを町の外に待機させつつ自らは足早にルドマン邸に向かうことにした。
「まずはルドマンさんにリングを渡して、それからアンディの家に寄ってみよう」
溶岩原人との戦いの末に手に入れた炎のリングは今、リュカの右手の指にはめられている。リングを手に入れられなかったアンディの元を訪れるのに、これ見よがしにリングを持って行くのは性質が悪いと、リュカは先にルドマン邸に行くことにしたのだった。炎のリングを手に入れ、フローラとの結婚の条件を一つ達成したが、フローラと結婚する意思はないことをルドマンに伝えなくてはならないと、リュカはそう心を決めてサラボナの町の大通りを早歩きで進んでいた。
「やっぱり旅をする僕に結婚は向いてない。フローラさんと結婚することができても、きっと彼女を不幸にする……」
幼い頃から父に連れられ旅をし、父を亡くした後もいつ死ぬとも知れない旅を続けるリュカと、常に周囲の人間に守られ、危険な外の世界とは隔絶された環境にいるフローラが結婚しても、その瞬間から彼女を町に置き去りにしてまた旅に出なくてはならないのだ。そのような結婚の形もあるのかも知れないが、それは恐らくフローラもルドマンも望む形ではないだろう。そしてリュカもまた然りだった。
今のリュカに結婚に対する憧れはほとんどない。自分とはまったく異なる世界の話だ、というくらいにしか考えていない。ラインハットで会った来たヘンリーとマリアは、共にラインハットで暮らすことができ、共に時間を過ごせて、そして彼らは誰の目から見ても愛し合っているのが分かった。それが本来の夫婦の姿なのだと考えると、リュカには到底誰とも結婚することはできないと、ルドマン邸に向かう足がどんどん早まるのを感じた。自身の考えを早く知らせて、ルドマンに娘の結婚のことをもっと考えて欲しいと、リュカはそう言うつもりでいた。
ルドマン邸の前には番犬であるリリアンの姿があった。余所者が来たら大声で吠えるリリアンだが、リュカの姿を見るなり、尻尾を振って「遊ぼう遊ぼう!」と柵越しに近づいてきた。リュカは傍に寄ってきたリリアンの頭を撫でて「ごめん、ちょっと急いでるんだ」と言い残し、屋敷に向かった。
入り口で対応する使用人の女性に連れられ、リュカは旅から戻ったボロボロの姿のまま屋敷に足を踏み入れる。使用人の女性は心なしかそんなリュカから少し距離を取っていたが、リュカはそんなことには気付かず、歩きながら右手の指にはめていた炎のリングを外し、手に持ち替えていた。
応接間に通されると、しばらくしてから使用人の女性がオレンジジュースを運んできた。テーブルに置かれるなり、リュカはグラスを手にして一気に飲み干し、その様子を使用人の女性は目を丸くして見ていた。恐らくルドマン邸に出入りする人間で、リュカほどの不躾な行動に出る者はいないのだろう。リュカ自身、不躾なことをした意識はなく、ただただ喉が乾いていて、目の前に出てきたオレンジジュースを一気に飲み干さずにはいられなかっただけだった。使用人の女性は驚きの表情をすぐに引っ込めて、テーブルに残された空のグラスを引き取ると、屋敷の奥へと戻って行った。
程なくして、応接間にルドマンが姿を現した。背はリュカより低いが恰幅が良く、しかしそこに金持ち特有の傲慢さは感じない。旅に汚れたリュカの格好を見ても、自然に出ているにこやかな表情は変わらない。世界中の商人たちを相手にするルドマンとしては、リュカのような旅人の姿が特に珍しいわけでもないのだろう。世界各地を回るルドマンの目に映るリュカの汚れた服装は、多くいる旅人の一人として映るだけだ。
「ルドマンさん、これを持ってきました」
リュカは指から外していた炎のリングを右手の掌に乗せ、ルドマンに近づいて見せた。黒く汚れたリュカの手の上に乗る炎のリングをまじまじと覗きこむルドマンの目は、まるで少年のように無邪気で好奇心の塊のようにキラキラと輝いていた。
「おお! 炎のリングを手に入れたか! うむ……君、名は?」
「リュカと言います」
「リュカとやら、よくやった。では、炎のリングは私が預かっておこう。良いな?」
「もちろんです。僕が持っていてもしょうがないですから」
リュカはそう言いながら、ルドマンに炎のリングを差し出した。ルドマンは炎のリングを手にした途端、リングを様々な角度から眺め、窓から入る陽の光に透かして見たりしていた。赤い宝石の中にゆらめく炎の姿に、ルドマンの表情は一層明るくなった。とても世界の豪商とは思えないような、子供のような笑顔だった。
「それで、少しお話が……」
「さて、残りは水のリングだが……。水のリングと言うからには水に囲まれた場所にあるのかも知れんな」
リュカが口を挟んだことにも気付かず、ルドマンは炎のリングを羽織っているガウンのポケットに無造作に入れながら、小さな目を宙に彷徨わせる。応接間の広い空間に何かが飛んでいるのだろうかと、リュカも同じところに視線を彷徨わせた。
「リュカ君、君は旅をしているんだろう?」
唐突に会話を始めたルドマンを見て、リュカは特にルドマンの視線の先には何も飛んでいなかったのだと知った。ただ頭の中の考えが、視線を通して宙に現れていただけのようだ。
「はい、そうなんです。いつ終わるか分からない旅で……」
「旅人なら世界地図を持っているね? どんな地図を持って旅をしているんだ?」
ルドマンに問いかけられるがまま、リュカは懐から使い古した世界地図を取り出し、応接間の大きなテーブルの上に広げた。予想していなかった大きさの、しかもかなり緻密に描かれた地図が出てきて、ルドマンは正直に目を丸くする。まさかリュカのような身なりをする旅人から、これほど立派な地図が出てくるとは思っていなかったようだ。
「これは……私が持っている地図よりも細かく描かれているかも知れないな。一体これほどのものがどこに……」
ルドマンが驚くのも無理はなかった。リュカが常に持ち歩いている世界地図はヘンリーが国の学者に描かせた特別なものだ。それこそ広い世界と外交を行う国と言う単位が所持するような地図なのだ。そこらの旅人が手に入れられるような地図ではない。
「この大陸で水に囲まれたような場所と言うと……ふーむ、これは船で行くしかなさそうだな」
ルドマンはリュカの地図の上に目を走らせ、サラボナから北に向かってその手を動かしていた。リュカも彼の視線を追い、サラボナから川を北上すると大きな湾とも呼べる場所があるのを見た。ルドマンの手はそこで止まっていたが、リュカは更に北に延びる川を北上したところに大きな湖のような場所があるのを目に留めていた。そこはルラフェンの町で呪文を研究するベネットに頼まれたルラムーン草を探しに行く時に通った場所でもあった。あの時、近道をしようと湖を囲む台地に上り馬車を進めていたが、魔物の群れに遭遇して大変な目に遭った記憶がリュカの頭に蘇る。
「君は何人くらいの仲間と旅をしているのかね。まさか一人ではないだろう」
ルドマンにそう問いかけられ、まさか魔物と旅をしているというわけにはいかないリュカは、共に旅をしている仲間の数を指折り数えて、数だけを答える。
「六人、ですね。僕を入れて七人、馬車で旅をしています」
「よし! 町の外に私の船をとめておくから自由に使うがいい。客船に使っているものと違い小さな船だが、キミと仲間が乗るには十分だろう」
ルドマンはそう言うや否や、使用人を呼びつけ、船の手配をするよう指示をした。すると使用人の女性は一度奥へと姿を消し、すぐに戻ってきたかと思えば、手に一枚の紙を持っていた。その紙をルドマンに渡し、併せて持っていたペンを渡すと、ルドマンは慣れた手つきで紙にさらさらとサインを書く。サインの書かれた紙を受け取ると、女性はそのまま屋敷の外へと飛び出して行ってしまった。その間、一言の会話も交わされないことに、リュカはただただ驚いていた。ルドマンのこのような突飛な行動に、恐らく使用人の女性は慣れているに違いなかった。
「明日の朝には船が港に着いているだろう。好きに使うといい」
「あの、でも突然船を使えと言われても、僕は船を使ったことがないのでさっぱり分からないんですが」
「おお、そうか。私の船は魔力で動いているから、操舵も簡単なものだが、一応船員を何人かつけることにしよう」
そう言うなり、再び使用人を呼びつけようとするルドマンを見て、リュカは慌ててそれを止めた。
「あ、やっぱり大丈夫です。船を動かすのが簡単だったら、僕が何とかします。動かし方を教えてくれさえすれば……」
リュカが共に旅をする仲間は皆魔物だ。馬車があるとは言え、いくらなんでも仲間の皆を馬車の中に入れて隠れさせることは不可能だ。しかも行く先にあるかどうかも分からない水のリングを探しに、この先どれだけの時間が、月日がかかるのかも分からない。その間、魔物の仲間を隠し通すことは全くもって不可能だろう。
「ふむ、そうか? では旅慣れた船員を一人呼んで、君に操舵の方法を教えさせるとしようか。一日もあれば十分だろう。こういうのはやってみて体で覚えるものだ」
「そう言うのなら、きっと得意です」
「旅慣れているようだしな。頼もしい男だ。船で旅立つまでは好きにこの応接間を使うがいい。君は屋敷に自由に出入りできるよう、使用人にも言っておこう」
「ありがとうございます。じゃあまた明日ここに来るようにします」
「うむ、分かった。それではまた屋敷に来た時には使用人に言ってくれ」
ルドマンはそうリュカに告げると、応接間を出て屋敷の奥へと姿を消した。応接間に残されたリュカは、テーブルに広げたままの世界地図を畳みながら、ルドマン邸に来た本来の目的を果たすのを忘れたことを思い出した。自身が炎のリングを探し出しに行ったのは、フローラとの結婚が目的なのではなく、ルドマン家で所有する天空の盾を譲り受けたいからという事実を、リュカは伝えに来たはずだったのだ。すっかりルドマンの調子に合わせられ、話の流れで水のリングを探しに行くことになってしまったことに、リュカは思わずその場で唸り声を上げていた。
世界地図を懐に仕舞い、応接間を出ようと扉に向かうと、その時後ろから扉の開く音が聞こえ、リュカは思わず振り向いた。応接間に通じる扉は二か所あり、リュカが出ようとしていた扉とは違うところから、一人の女性が姿を現した。
「あら、お客様がお見えだったのね。これは失礼しました」
上品な小豆色のドレスに身を包んだ女性は、旅の汚れにまみれたリュカに向かって丁寧に頭を下げて詫びた。落ち着いた色の金髪を後ろで緩く束ねた女性の年齢から見て、ルドマンの妻なのだとリュカはすぐに気付いた。
「ところで主人にどのようなご用でいらしたの?」
「頼まれていた炎のリングを見つけたので、渡しに来たんです」
「まあ、手に入れることができたのね。それはどうもご苦労様でした。けれども、とても危険な旅をなさったのでしょう? あなたはお身体のお加減、よろしいのかしら?」
「はい、まあ、大した怪我もなく無事に帰ってこられました」
「そう……それは良かったわ」
ルドマン夫人の言葉と表情が合わないことに、リュカは様子を窺うように夫人の顔を見つめる。
「あとは水のリングと言うのを見つけなければならないのね。どうかご自分の命を大切になさって。くれぐれも無理をしてはいけませんよ」
その穏やかで優しげな口調に、リュカはサラボナの町を旅立つ前に出会ったフローラを思い出す。目の前のルドマン夫人は確かにフローラの母親だと思わせるような雰囲気を、その言葉づかいにリュカは感じていた。しかしこの屋敷に戻って以来、まだフローラの姿を見かけていない。母親と共に余暇を楽しんでいたわけでもなさそうだ。
「ところでフローラさんは?」
リュカの言葉に、ルドマン夫人は小さく溜め息をついて視線を床に落とした。
「フローラならアンディの家へ看病に行ってるの」
「え、アンディの家に?」
「ええ。私も伝え聞いただけで良くは知らないのだけれど、アンディが大火傷を負って町まで運ばれたらしくって……。その話を聞くと、すぐにここを飛びだしてしまったわ、あの娘」
「アンディが、そんな状態に……。でも無事に町には着いたんですね」
「どこまで旅に出ていたのかは分からないけれど、町のすぐ傍まで飛んで戻ってきたそうよ」
ルドマン夫人の話を聞くと、どうやらアンディは死の火山の洞窟で大火傷を負って、命からがら洞窟を出ることに成功し、恐らく持っていたキメラの翼を使ってサラボナの町まで戻ってきたらしい。町のすぐ傍で倒れているアンディを町の人間が見つけ、慌てて彼の家まで送り届けたようだ。
「とりあえず無事戻ってきていて良かったです。僕もこれから彼の家まで様子を見て来ようと思います」
「それならフローラに会ったら、日没までには家に戻りなさいと伝えて下さる?」
一人娘が家を飛び出して行ってしまったというのに、ルドマン夫人は何故か落ち着いた様子でリュカにそうお願いをした。今はまだ昼前で、日没までとなるとまだまだ長い時間、外出を許すということだ。これほどの大邸宅の娘だというのに、案外のんびり構えているんだなと、リュカは意外な様子で小さく頷いた。
「何だか私の若い頃を思い出すわ」
夫人がそう言いながら、再び小さく溜め息をつく。
「思い出すって、どういうことですか」
「うちの人もね、私と結婚するために危険な冒険をしたのよ。それで大ケガをして……」
ルドマンと夫人がどのようないきさつで結婚に至ったのか、夫人の言葉でリュカはすぐに想像することができた。言葉と行動が同時に出そうなルドマンが、若い頃かなりの無茶をしたのは想像に難くない。しかし大けがするのを覚悟の上で冒険したルドマンは、自分の命を賭けても夫人との結婚を望んでいたのだろう。
「何日も看病したわね。私が看病したって何にもならないのだけど、居ても立ってもいられなくなるってきっとこういうことを言うんだわって、その時思ったの」
「今のフローラさんと、同じような状況だったんですか」
「きっと、そうだと思うわ。あの娘も自分のせいでアンディに大けがをさせたと思って、家でのんびりなんてしてられないと思ったのでしょうね」
夫人の言う通りなのだろうと、リュカはこの屋敷で見たフローラを思い出しながらそう思った。年中気候も穏やかで、平穏な町サラボナに、大けがをしたアンディが運び込まれたなどという町の平穏とは相容れぬような話が出れば、それは瞬く間に町中に広まったに違いない。それはこのルドマン邸にもすぐに届き、噂を耳にしたフローラは取るものも取り敢えずすぐさま屋敷を飛びだして行ってしまった。おっとりしていそうなフローラだが、あのルドマンの娘だ。強く思ったことはすぐに行動に移してしまうに違いないと、リュカはフローラの優しげで強い瞳を思い出しながらそう考えていた。
「じゃあフローラさんには夕方までに戻るようにって、そう伝えます」
「ええ、よろしくね」
夫人に会釈をして、リュカはルドマン邸を後にした。本当は夫人に確認してみたいことがあったが、今リュカはそれを聞きたいとは思わなかった。今のアンディとフローラと同じような状況を経験した夫人が、結果としてルドマンと結婚しているということは、と考えるとリュカは胸の中がざわつくのを感じた。もし大火傷をして町に運び込まれたのがリュカであっても、きっとフローラは同じようにリュカを看病しに来ていただろう。修道院で培われた彼女の心に不平等は存在しないはずだ。しかし実際に彼女の看病を受けているのはアンディで、今の彼女の心の中を占めているのは彼なのだ。
リュカはサラボナの町の大通りを歩きながら、大火傷で床に伏せっているアンディを労わる気持ちを抱くのと同時に、彼に対するささやかな嫉妬心を無意識の内に感じていた。
町の東に位置するアンディの家に着いたのは昼近くになってからだった。周辺の家々からは昼食の匂いが漂い、その匂いでリュカは否が応でも腹が鳴るのを抑えられなかった。死の火山の洞窟からルーラで戻り、そのままルドマン邸に立ち寄ったため、半日以上食事をしていない。ルドマン邸でオレンジジュースを出された時に、もう一杯お願いしておけば良かったと、リュカは早足で歩きながら頭の中をめぐるオレンジジュースに無駄に喉を鳴らした。
アンディの家からは他の家のような昼食の気配はない。しんと静まり返った家の様子に、リュカは控えめに玄関の扉をノックした。中から出てきたのは少し疲れた様子のアンディの母だった。
「ああ、あなたは確か……」
以前リュカがアンディ宅を訪れたのはもうひと月以上も前のことになる。しかしアンディの母はリュカのことをしっかりと覚えていたようだ。見も知らぬ旅人が家を訪ねてきて、その旅人に茶菓子を振る舞うことなど、そうそうないことに違いない。そしてその旅人が、息子の恋敵ともなれば、母親としては覚えていないはずがなかった。
「アンディが溶岩の流れる洞窟で大ヤケドをして帰ってきて大変だったんだよ!」
リュカが尋ねるよりも早く、アンディの母は訴えるような表情でリュカに言い放った。まるで息子が危機に陥ったのはリュカのせいだとでも言わんばかりの必死な様子を見て、リュカは思わず身を小さくした。
「僕、回復呪文が使えるんです。少し様子を見させてもらえませんか」
「入ってもらいなさい、せっかく来てもらったんだ」
奥から聞こえたのはアンディの父の声だった。落ち着いたその声に、リュカは思わず詰めていた息をゆっくりと吐き出した。
あまり気が進まない様子のアンディの母だったが、夫の言うことに逆らうこともなく素直にリュカを家の中へと招き入れた。夫の冷静な一言で、自身の感情が高ぶっていたことに気がついたのかも知れない。
「リュカ君と言ったね。君は無事だったのかね」
「はい、何とか。アンディさんの様子はどうでしょうか」
「君よりは無事ではないかも知れんが、それでも何とか生きて帰ってきてくれたようじゃ」
テーブルの上ですっかり冷めた茶をすするアンディの父は、彼の妻同様に少しやつれたように見えた。彼はひと月ほど前、アンディがこのサラボナの町を旅立ったことに気付いていた。ずっと息子の無事を祈り続け、不安に駆られる毎日を過ごしていたに違いない。
「僕にもお見舞いさせてもらえますか。火山の洞窟で会ったんです、アンディと」
「何ですって? じゃあどうしてその時連れ戻さなかったの? その時連れ戻してもらえさえすれば、アンディは……」
「母さん、お茶をお出ししなさい。お客様だぞ」
恐らく妻が冷静を欠いているから、アンディの父は冷静でいられるのかもしれないと、リュカは目の前のアンディの父の様子を見てふとそう感じた。もし妻が落ち着いてリュカに対応していたら、彼はリュカに対して激高していたかも知れない。
アンディの母は奥へと姿を消し、茶を入れに行ったようだった。恐らく彼女自身も、冷静になるべきだと思い、一度リュカと距離を取ったに違いなかった。リュカはその場に立ったまま、部屋の中を見渡した。隣の部屋に通じる扉は閉じられ、扉の向こうからは何の物音もしない。あまりにも静かな様子に、リュカは思わずじっとその扉を見つめた。
「アンディの様子を見てくれるかね」
リュカの気持ちを察したアンディの父が扉の前まで歩いて行き、小さく二度ほどノックをした。部屋の中から聞こえてきたのはアンディの声ではなく、小さな女性の声だった。その声を聞いて、リュカはすぐにフローラだと分かった。
「フローラちゃんは責任を感じて、アンディの看病をしてくれとるんじゃ。本当にやさしいいい子だのう」
アンディの父が扉を開けると、部屋に風が流れ、花の香りが運ばれてきた。それが町中に咲く花の香りなのか、フローラから漂う香りなのか、リュカには分からなかった。しかし部屋中に仄かに香る花の香りは、それだけで人の心を落ち着かせるようだった。
開いた扉の向こうで、フローラがベッドの脇に椅子を寄せて座っていた。リュカの顔を見るなり、その表情を変え、息を呑んだのが目に見えて分かった。
「あ! リュカさん……」
「お久しぶりです、フローラさん」
「アンディがひどいヤケドをしてきて熱が下がらないんです」
今のフローラには大怪我を負って町に運ばれてきたアンディのことしか頭にないのは明白だった。ベッドに横たわるアンディは常に荒い呼吸を繰り返し、時折うめき声を上げる。既に火傷の処置はされているようだったが、その痛みに体を動かすこともできないようで、少しでも体を動かそうとすると小さな悲鳴を上げるなど、どうにもならない状態だった。
「回復呪文をかけてみます」
「私も何度もかけているのですけど、呪文では治らないみたいで……」
「フローラさん、回復呪文が使えるんですか?」
「ええ、一応……でもここまで酷いヤケドには私の回復呪文は効き目がないみたいです」
そう言いながらフローラの声が詰まる。伏し目がちの目にじわりと涙が溜まるのを見て、リュカはすぐにアンディの下へと歩み寄った。無駄かもしれないと思いつつも、自身にもアンディがこうなってしまった責任を感じ、リュカはアンディの胸の辺りに手をかざし、回復呪文を唱える。呪文の青白い光はアンディを包みこむものの、その効果は限定的で、一時的にアンディの苦痛を和らげることはできるようだが、火傷そのものを治すことはできないようだった。あの火山洞窟で大火傷を負ってから時間が経ち過ぎたのだ。
「僕があの時無理にでも君を一緒に連れて行けばこんなことにはならなかったかも……ごめん、アンディ」
「無理にでも一緒にって、どういうことですか?」
フローラの問いかけに、リュカは死の火山洞窟でアンディに会ったことを話した。仲間と行動していたリュカとは違い、無謀にも一人で洞窟探索をしようとしているアンディにリュカは一緒に行動しようと話を持ちかけたものの、それでは勝負にならないとアンディが拒否したことを話すと、フローラの目からはとうとう大粒の涙が落ちた。
「私が……私がいけないんです。あの時、アンディが本気で旅立ってしまうんだろうって、分かっていたのに、止められなかった……」
フローラの結婚相手を募るのにルドマン邸に来ていた男たちの中で、アンディの想いだけが他の男たちとは全く異なることに、リュカは気付いていた。財産も宝もいらないと言っていたアンディは、ただ純粋にフローラとの結婚を望んでいた。その時に初めて会ったリュカでさえ気付く彼の気持ちに、彼の幼馴染であるフローラが気付いていない訳がなかった。
「フローラさん、自分を責めないでください。きっとアンディはあなたに止められても旅立っていたと思います」
ルドマンの提示したフローラとの結婚の条件が炎のリングを手に入れることである限り、アンディは意地でもリングを見つけるために死の火山に向かったに違いなかった。体つきは華奢で、到底旅には向かないであろうに、アンディはそんなことにはお構いなしに、ただフローラとの結婚を望む想いだけで死の火山を目指しただろう。あの時のアンディを止める手立ては、ルドマンが条件を変更なり撤回するなりしない限り、なかったのだ。
「あなたも危険なところに行っていたのですね」
フローラは今まさに旅から戻ってきたばかりのような汚れた旅装に身を包むリュカを改めて見て、そう問いかける。服もマントもターバンも、ところどころ焼け焦げて、かなりの怪我を負っていてもおかしくない状態のリュカだが、火傷を負ってもすぐに回復呪文で火傷を処置したため痕は残っていない。
「さっき戻ってきたばかりです」
「あなたは大丈夫だったのですか?」
そう言いながら、フローラはリュカの腕や顔に手を添える。今にも回復呪文を唱えそうな彼女の気配に、リュカはその手をそっと掴み、安心させようと笑みを見せる。
「はい、一応は」
「ああ、良かった……。ほっ……」
そのままリュカの手を両手でつかみ、息をついたフローラの手は少し震えていた。自分のせいでアンディを死の淵にまで追いやってしまった恐怖が彼女の手から伝わり、リュカはしばらくの間彼女の手を静かに握っていた。
「どうかご自分の命を大事になさってください。父の言うリングなんて、見つけなくたっていいんです」
「炎のリングは、見つけてきました」
「え?」
「さっき、ルドマンさんに渡して来たんです」
リュカがそう言うと、目の前のフローラが両手で口を覆い、大きな目をさらに大きく見開いた。ルドマンが提示した娘との結婚の条件を、目の前の青年が一つ満たして来た事に、フローラの鼓動が自ずと激しくなる。
「これから水のリングも見つけに行きます」
ルドマン邸で話をしているうちに、成り行きで水のリングも見つけることになってしまったが、今のリュカはもう自分で見つけに行かなくてはならないものだと思っていた。それは自分のためでも、アンディのためでもあると、そう信じていた。このまま水のリングを見つけに行かず、ルドマンの提示した条件が宙に浮いた状態にでもなれば、アンディが怪我を回復した後に再び水のリングの探索に挑戦しかねない。それを止めるためにも、自分が水のリングを見つけに行かなくてはならないと、そうリュカは考えていた。
二つのリングを手に入れることができれば、ルドマンの提示したフローラとの結婚の条件を満たすことになる。しかしそれはあくまでも条件を満たすだけで、そこにまだ当人同士の心はついて行っておらず、置き去りのままだ。炎のリング、水のリングが揃っても、肝心の花婿花嫁の心が寄りそっていなければ、伝説の二つのリングも空しいだけだろう。
「うーんうーん、熱いよお……」
ベッドの上で身動きもできずに苦しむアンディが、悪夢の中からうめき声を上げる。彼の声を聞くと、フローラはすかさずベッドの横に寄り、苦しむアンディの顔を心配そうに覗きこみ、彼の体にかかる上掛けを少しめくった。彼の首の辺りに巻かれていた濡れタオルを外すと、ベッド脇に置かれている水の張った桶にタオルを浸し、しっかりと絞ってからまた彼の首から鎖骨にかけて濡れタオルをかけてやった。両方の脇の下にも濡れタオルが挟まれていて、フローラはそれらを静かに丁寧に外し、同じように冷たい水に浸して絞り、再び彼の脇の下に挟んでやる。アンディの身体にこもる熱をどうにか逃すためには、こうして地道に濡れタオルや氷などで熱を奪うしか方法はないようだ。
「もう氷が解けてしまったようじゃな」
アンディの父が桶に張られている水を見ながらそう言うと、フローラはアンディのベッドの脇に置かれていた畳まれた布を手にして、気丈に笑顔を見せる。
「私、屋敷に戻って氷をもらってきます」
そう言うや否や、アンディの家を飛び出しかねない勢いで部屋を出たフローラだが、その背中にアンディの父が呼びかける。
「フローラちゃんの家に行くよりも、教会の方が近い。教会で氷をもらって来るのが早いじゃろ。神父様も事情は察してくれておる」
「あ、はい、分かりました。では教会に行って参ります」
「待って、僕も一緒に……」
リュカの声はフローラに届かなかったようで、彼女は氷を包んでいた布を手にしたままアンディの家を飛び出して行ってしまった。玄関の扉を開けっ放しにしたままパタパタと駆けていくフローラの足音が、家の外に響いてすぐに聞こえなくなった。
「フローラが一人で出て行ったようだけど、何かあったのかい?」
隣の部屋でフローラが飛びだして行くのを見ていたアンディの母が、面食らった様子で夫とリュカを交互に見ながら話しかけてきた。夫に説明を受けた彼女は、深い息をついて呟く。
「あの子は責任感の強い娘だからね。アンディがこんなことになったのは自分のせいだって……フローラは何も悪くないのに」
「このままアンディの看病を続けさせてもルドマンさんが心配なさるだろう。今度戻ってきたら、一度お屋敷に戻るように言わないと」
そう言いながらアンディの父はベッドに歩み寄り、熱に苦しむ息子の辛そうな表情をじっと見つめた。フローラが替えたばかりの濡れタオルは既にアンディの身体の熱を吸い、温かくなり始めている。妻に桶の水を新しくするように言って桶を渡すと、彼女は家の外にある井戸の水を汲みに行った。家の中にも炊事に使う水が甕にあるが、より冷たい水をと、アンディの母は井戸水を求めて行ったようだった。
「……フローラ……」
ベッドに横たわるアンディが小さく呟いた声は、リュカだけに届いた。熱にうなされながら、一体アンディはどんな夢の中でフローラの名を呼んだのだろうかと考えると、リュカはそれだけで心が苦しくなるのを感じた。彼のフローラを一途に想う気持ちは、誰が見ても本物だと分かる。フローラ自身ももちろん、彼の気持ちに気付いているに違いない。
そんな彼女が自らアンディの体を気遣い、屋敷を飛び出して看病をしに来ると言うのは、彼女の慈愛に満ちた精神が為せることなのかと、リュカは疑問に思わざるを得なかった。数年間、修道院で花嫁修業をしてきたと言うフローラだが、彼女は修道女の道を選択したわけではない。一人の女性として生きるためにこうしてサラボナの町に戻ってきたのだ。
ルドマンの屋敷を飛び出し、アンディの家に駆けつけ、ずっと付きっきりで看病をし、必要とあらばその足ですぐさま氷を求めて教会まで走って行ってしまうフローラもまたアンディに好意を寄せているのではないのかと、リュカはそう感じていた。ルドマンの妻が話していたことが、リュカの脳裏を掠める。
『うちの人もね、私と結婚するために危険な冒険をしたのよ。それで大ケガをして……。何日も看病したわね』
ルドマン家はサラボナのみならず、世界的にも有名な富豪だ。その家の娘が自ら一人の青年を看病し、その事実を知った上で放任している母親は恐らく娘の本心に気付いているに違いない。若い頃の自分と同じことをしている娘の気持ちを想像するのは、それほど難しいことではないだろう。
リュカはもう一度、苦しむアンディに回復呪文を施した。青白い光がアンディの体を包みこみ、束の間和らいだ表情をする息子の様子に、アンディの父もほんの少し笑みを見せた。
「リュカ君と言ったね。息子のために、ありがとう」
「これくらいしかできなくて……すみません」
「さあ、君にはまだやるべきことがあるんだろう。こんなところで時間を食っている場合ではないんじゃないのか」
アンディの父の言葉は暗に、リュカにこれ以上この場にいて欲しくないと言っているようだった。もし今、アンディが目を覚ましても、リュカの姿を見せたくないのだ。ルドマンの提示したフローラとの結婚の条件を満たす青年の姿を、息子の目に映すことほど酷なことはないと、アンディの父はリュカを部屋から出るようにそっと促した。リュカも素直にアンディの部屋から出て、部屋の扉を静かに閉じた。
「もう一つ、水のリングを探しに行きます」
「そうか……くれぐれも気をつけて行くんだぞ」
「見つけたらまた、伺います。アンディと話がしたいんです」
「……その頃にはフローラちゃんのおかげで、きっと息子も元気になっているだろう」
アンディの父はリュカに、「また来なさい」とは言わなかった。しかし、「もう二度と来るな」とも言えなかった。息子を思う気持ちは深いが、彼はやはり冷静だった。余計なことは言わないよう、自ら心を押し込めていた。
「元気になっているって、僕も信じています」
そう言って、リュカはアンディの家を後にした。外に出ると、ちょうど井戸水を汲んで戻ってきたアンディの母と会ったが、言葉を交わすことはなく、小さく会釈をしただけでリュカはそのまま町の宿屋へと足を向けた。
「とにかく水のリングを見つけて……それからだ」
歩きながらも、リュカの頭の中にはアンディの苦しそうな表情、フローラの切ない表情がぐるぐると廻る。リュカがこれから向かう宿屋の近くに、フローラが氷を求めに向かった教会がある。走って行けば恐らく教会に向かうフローラに追いつけるだろう。
しかしリュカはそうしなかった。今、フローラと顔を合わせる気には何故だかなれなかった。今の彼女の頭にはアンディのことしかないのだろうと思うと、リュカは二人を邪魔してはいけないと思うのと同時に、どこか拗ねるような子供じみた思いが沸き起こり、今のフローラには会いたくないとさえ思っていた。
そしてリュカはちょっとした勘違いをしていた。彼はフローラもアンディも各々想いを寄せているのだろうと、二人の心を完結させて考えていた。しかし実際は、そうではなかった。
アンディの家を飛び出したフローラの胸中に芽生える仄かな恋心。それは危険な旅の中で、父が出した厳しい結婚の条件の一つを果たした青年に向けられていた。アンディを労わり、思う気持ちに嘘偽りはない。しかし彼女の心の中には新たに、リュカという青年の存在が小さく芽生え始めていた。そんな自身の混乱する思いを沈めるために、フローラは耳に届いていたリュカの言葉にも返事をせず、そのままアンディの家を飛び出して行ってしまったのだ。
リュカと言う出会ったばかりの青年が、命がけで炎のリングを見つけ出してきてしまったことで、フローラは今の自分がアンディを看病する気持ちが一体どのようなものなのか、分からなくなってしまっていた。教会へ向かう最中、脳裏を掠めるリュカの顔に、フローラが訳も分からず心が熱くなるのを感じていたことを、リュカは知る由もなかった。