2017/12/03
水門の鍵
ダンカン宅で昼食にとビアンカが用意していたサンドイッチを一気に食べると、リュカは彼女の勧めで村の宿へと一度引き返していた。宿泊の予約を取り消すのと合わせて、宿にある温泉に浸かってゆっくり身体を休めてきたらいいという彼女の勧めに、リュカは素直に従うことにした。
宿に着くと、ビアンカに持たされていた果物の入った籠を宿の主人に手渡し、彼女の名前を出して宿の予約を取り消すよう話をした。すると宿の主人は快く承諾し、リュカを一人の温泉利用客として案内してくれた。ダンカンの服を着替えに渡されていたリュカは、着替えやタオルなどが入った籠を抱え、温泉施設内へと入って行った。
脱衣場こそ男女分かれていたものの、温泉は混浴で、リュカはもうもうと湯気の立つ温泉を眺めながら、「どうして教えてくれなかったんだよ……」と小さくビアンカに愚痴を言っていた。目の前が白く霞むほどの湯気で、広い温泉の端にいれば大した問題にもならないのかも知れないが、明らかに意図して教えてくれなかったビアンカの意地悪が見えた気がした。リュカは子供のように口を尖らせながら広い洗い場で旅の垢にまみれた身体をざっと洗うと、広い温泉の端に静かに腰を下ろした。
まだ昼間の時間帯、日中働いている者はまだ温泉に入る時間ではないようで、温泉に浸かるのは主に老人や旅でこの村を訪れた者だった。人数もそれほど多くはなく、ひっそりと静かに浸かっていればあまり周りを気にせずに入っていられるような環境だった。それにこの温泉に浸かる者は、温泉は人と人が和む場所であるのと同時に、個人的空間でもあるという暗黙のルールを順守しているようだった。相手に少しでも壁を感じることがあったら無闇に近づいて話しかけない気遣いを各々が持ち合わせており、おかげでリュカは静かに温泉を楽しむことができた。
上を見上げれば、まだまだ高い日差しが村を照らしている。温泉のへりに背中を預けながら、リュカは温泉の効能が身体の隅々まで染み渡って行くのを感じていた。たとえ効能などなくとも、旅の疲労を癒す効果はあるに違いないと、リュカはじっと目を閉じて湯のほど良い熱さを全身に浴び、そして頭までその効果を得ようと潜ってみたりもした。
うっかり湯船で寝かけたところで、老人に「お主、死ぬつもりか?」と声をかけられ、リュカは礼を言ってから温泉を後にした。すっかり身も心も温まったリュカは、宿の主人にも礼を述べると、そのままダンカン宅へと真っ直ぐに引き返していった。
借りたダンカンの服は袖丈も裾丈もリュカには短く、手足が衣服から飛び出すような格好になってしまっていた。いつの間にかダンカンよりも身体が大きくなっていたことに、リュカはふと時の流れを感じた。再会した時にベッドから身を起こしたダンカンを見て、リュカはどこか違和感を感じていたが、それは恐らく自分がダンカンよりも大きくなってしまったことで、幼い頃とは視点がすっかり変わってしまったことなのだろうとこの時ようやく気がついた。
ダンカン宅に戻る頃には、周りの家々からは既に夕食の支度が始まっていたようで、リュカの鼻に家庭の良い匂いが届く。温泉に入る前にビアンカにサンドイッチをもらって食べたばかりだというのに、周りの家々からの美味しそうな匂いを鼻に感じると、リュカの腹は素直に音を鳴らした。旅の最中にはさほど空腹を感じずに馬車を進めることがほとんどだが、町や村に足を踏み入れ、こうして家庭の暖かな匂いを感じると、途端にたまらないほどの空腹に見舞われてしまう。それと言うのも、旅の緊張がすっかりゆるんでいる証拠に違いなかった。
ダンカン宅に戻ると、ここも例外なく夕食の準備が始まっていた。玄関の扉をノックすると、「はーい」とビアンカの返事があるものの、なかなか現れる気配がない。鍵の掛かっていない扉を静かに開けると、台所に立つビアンカが火にかける鍋をかきまぜながら、「お帰りなさい」と顔だけを玄関に向けて戻ってきたリュカを迎えた。
「いいお湯だった? 旅の疲れも取れたでしょ」
「うん、そうだね。遠くから温泉に来る気持ちも分かった気がしたよ」
「温泉のおかげで父さんも大分良くなったんだもの。……やっぱりリュカには小さかったね、父さんの服」
つんつるてんのリュカの服装を見て、ビアンカが少し申し訳なさそうにそう言った。火を止めると、そのままリュカのところへと歩いて来て、彼が手にしている汚れた旅装を出すよう両手を差し出した。
「洗うから、ちょうだい」
「え、いいよ、自分で洗うから」
「どうせ父さんのと私のも洗うんだから、次いでよ」
そう言うと、ビアンカは旅に汚れたリュカの服を何食わぬ顔で受け取り、そのまま台所の隅にある籠へと放り込んだ。恐らく彼女が今まで見たこともないほどの汚れが濃紫色のマントやらターバンやらにこびりついているはずだが、ビアンカはそんなことには動じずに、至って普通の様子でその後台所に戻った。
「もう少しで夕食の支度が済むから、ちょっと待っててね」
そう言いながら、ビアンカは手早くグラスに水を注いでリュカに手渡した。湯上りで喉も渇いていたリュカが一気に飲み干すと、すぐにまた水差しの水を注ぎ、そこで座って待っててと食卓を指差した。彼女の慣れた台所での動きを見て、何も手伝えることはなさそうだと、リュカは彼女の言う通り大人しくテーブルに着いて待っていることにした。
それからしばらくして、テーブルの上には素朴ではあるが豪勢な食事が並べられた。部屋から姿を現したダンカンは、その品数の多さに思わず目を見張っていた。しかし何も言うことはなく、黙って自分の席に着くと、リュカの着るつんつるてんの自分の服を見て、「大きくなったなぁ」とどこか嬉しそうな溜め息をついた。
「リュカ、お酒はどう?」
ビアンカが葡萄酒用の丸みを帯びたグラスと葡萄酒の入ったボトルを手にしているのを見て、リュカは思わず眉をしかめた。
「僕、酒はちょっと飲めないみたいなんだよね」
「そうだと思ったわ。安心して、これは葡萄ジュースよ。雰囲気だけでもこのグラスでお酒を味わいましょ」
「ビアンカは飲めるんだ」
「まあ、ちょっとくらいならね。でも別に好きなわけじゃないわ」
この家に酒用のグラスがあること自体、恐らくダンカンもビアンカも酒が飲めるのだろうと、リュカは少し羨ましい気持ちになった。酒が飲める体質になりたいと熱望する気持ちはないが、飲めたらもっと楽しい時を過ごせるかも知れないのにと、リュカは目の前で注がれる葡萄ジュースを見ながら小さく溜め息をついていた。
食事が始まると、三人は食事をしながら各々のこれまでのことを話し始めた。サンタローズがラインハットの襲撃を受けたと聞いた時、一人でアルカパから出てサンタローズの村の様子を見に行こうとしたビアンカを必死になってダンカンと妻が止めたという話や、アルカパを離れることになった時には、父の病気のためだから仕方がないとは言え、想像もできない田舎に引っ越すことにビアンカがあまり良い顔をしていなかったことなど、リュカの知りえなかった彼らの過去が次々と明らかにされていった。
「ビアンカにこういう静かな村は似合わないって、僕も思うよ」
「あら、それってどういうこと?」
「だって君は新しいものが好きだったり、新しいことが好きだったりするよね」
話をしているうちに、リュカは過去のビアンカを徐々に思い出して行った。冒険に憧れ、未知のものに期待を抱く彼女の水色の瞳は、いつでもきらきらと輝いていた記憶がある。
「誰でもそうなんじゃないの?」
「ビアンカは特別そうなんだと思うよ。女の子で外に冒険に出たいなんて、あんまり思わないんじゃないかな」
「そうかしら。冒険に出たいって思うのに、男も女もないと思うけど」
「魔物がたくさんいるんだよ。まず『怖い』って思わないの?」
「怖くないわけじゃないけど、それよりも外に出て色々と見てみたいと思うでしょ?」
「そう言えば宿のおばさんが言ってたけど、村の外にも一人で出ることがあるんだって? その時って一人で外に出るの?」
「村の近くを少しだけよ。大したことじゃないわ」
「そんなことないよ。村の外に出れば魔物がたくさんいるだろ。いつ襲われるかなんて分からないんだよ。一人で村の外に出るなんて絶対にやっちゃダメだよ」
「そういうリュカは今まで一人を旅をしてきたの? おじさまが亡くなってから、どうやってここまで来られたのよ」
やたらとムキになるリュカに、ビアンカは少々ムスッとした表情でそう問いかけた。彼女の問いかけに、リュカは村の外に待たせている仲間を思い出し、途端に笑顔で話し始める。
「そうだ、プックルがいるんだよ」
「プックル? ……あの時の猫ちゃん?」
一緒にいた時間は短かったが、彼女にとってもプックルの存在は記憶に鮮明に残っていたようだった。プックルを助けるために二人で協力してレヌール城のお化け退治に行き、無事助け出すことができたのだ。そしてあの時のお気に入りの黄色いリボンをあげたことも、ビアンカはすぐに思い出した。
「プックルとはずっと一緒だったのね」
「いや、一度離れ離れになったんだけど、再会できたんだ。後で会ってやってよ。プックルもきっとビアンカのことを覚えてるから、絶対に喜ぶと思うよ」
「大きい猫ちゃんだったけど、リュカみたいに成長して大きくなったのかしら」
「僕どころじゃないよ、見たらびっくりするよ」
それこそ子供の頃のように目を輝かせて話をするリュカを見て、ビアンカも同じように童心に返れたような気がした。
山奥の村に越してきてからはアルカパの町で過ごした子供の頃の話をすることもなくなってしまった。子供の頃、リュカと過ごした時間はほんの一時的なものだったが、それでも彼との思い出は色濃く残っており、それはビアンカの幼少の頃の記憶の要と言っても良い部分だった。後にも先にも、あの時のように子供だけで町の外に出て夜の冒険を楽しんだことなどない。一体どれだけ無謀で危険なことをやってのけたのかと、今さらながらに当時の危うさに身震いする思いがするが、もし今の自分が当時の子供の自分に会えたとしても、恐らく「気をつけて行ってらっしゃい」と冒険に送り出すに違いないと成長しない自身の心に彼女は内心苦笑していた。
リュカが話す内容は主に旅の仲間の魔物たちのことだった。プックルの話を皮切りに、初めて仲間になったスラりん、いつの間にか仲間になっていたピエール、神の塔に祭られていた鏡の虜になっていたガンドフ、人間の老人と見間違えたマーリン、炎のリングを手に入れるために入った死の火山で仲間になったばかりのメッキーと、仲間の魔物の話をするリュカの表情は明るく、そんな彼の様子にビアンカとダンカンはリュカが旅を楽しんでいるのだと分かり、安堵していた。
しかし話を聞いていると、魔物が仲間になったのはここ一年以内の話で、それ以前の話をリュカが自ら話し出すことはなかった。魔物の仲間のことを楽しそうに話すリュカに、ダンカンが柔らかく言葉を挟む。
「パパスが死んだ時、リュカはまだ小さかっただろう。その時は一体誰に助けてもらったんだい?」
ダンカンの言葉に、リュカの表情がにこやかなまま止まる。ダンカンの一言で、リュカは遡りたくない過去の話を意図的に話していなかったことに気がついた。それはリュカの人生の要の部分で、最も暗い部分で、せっかく再会できた二人にそんな話をしたくないリュカはひとまず葡萄ジュースを飲むと、にこやかな表情のまま再び話し出した。
「父さんが死んでからはずっと、友達と一緒だったんだ」
「友達? 魔物の仲間たちとは違うのね」
「うん、ヘンリーって言って、僕より一つ年が上でさ、何だかいつも偉そうでわがままで、でも優しいいい友達なんだ」
「わがままでも優しいって、ちょっと複雑な友達なのね」
リュカの説明に、ビアンカは空になったリュカのグラスに葡萄ジュースを注ぎながらそう言った。
「その友達とは一緒じゃないのかい?」
「ちょっと訳があって、ラインハットで別れたんだ」
リュカの口から出たラインハットという言葉に、ダンカンとビアンカの表情にさっと影が入った。彼らの記憶に残るラインハットという国は、サンタローズの村を滅ぼした憎き敵というイメージしかない。詳しいことは知らない二人だが、それでも当時のラインハットが狂っていたのは事実で、魔物まで動員してサンタローズの村を襲わせたという噂まであった。それから十年以上が経っている今、この山奥の村に住むダンカン父娘に今のラインハットの様子は伝わっていない。もしリュカや他の旅人の口から、ラインハットが過去の悪政を反省し、今は復興に向かっているという話が伝えられたとしても、ダンカンとビアンカの記憶に残るラインハットのイメージを払拭することはできない。
「その人、ラインハットの人だったの? リュカ、酷い目に遭わされなかった?」
明らかに敵意を滲ませるビアンカの低い声に、リュカはほど良く冷めたスープを一気に口に入れてしばらく頬張った後、ゆっくりと答える。
「ヘンリーはいつだって、僕を命懸けで守ってくれたんだ。大事な友達だし、大事な恩人だよ」
ヘンリーという人物がどのような人物なのか具体的には想像できないが、リュカの語る口調はその人物への信頼に溢れるものだった。それだけでダンカンもビアンカも安堵し、ラインハットという国とは切り離して考えることができた。ただダンカンは、ヘンリーという名の響きに、どこか引っ掛かるものを感じていたが、それが何なのかを思い出せないまま三人の会話は進んだ。
「彼のところで天空の盾がサラボナの町にあるって聞いて、それでここまで旅をしてきたんだよ」
リュカは父の遺した手紙に書かれた内容を二人に簡単に伝えた。話しながら、リュカはダンカンとビアンカでは驚きの度合いが違うことに気付いた。
「おじさんは父さんが母さんを探していることを知っていたんですね」
父が母を探す旅をしていたと話した時、ビアンカは驚きの表情を示していたのに対し、ダンカンは茶をすすりながら落ち着いた様子で話に耳を傾けていた。
「ああ、一応ね。しかしあまり詳しい話をしてはくれなかったよ、パパスは」
事実、ダンカンにもパパスが一体何者なのか、分からないままだった。サンタローズの村を拠点に旅をしていたのは事実だが、果たしてサンタローズの人間だったのだろうかと考えると、それは違うのだろうと思っていた。サンタローズの村に住む人間にしてはあまりにも人間としての器が大き過ぎると感じていた。
「伝説の勇者様が身につけていた武器や防具が本当にあるのね。それって、すごいことだわ!」
山奥の村に住むようになってすっかり村の娘として落ち着いていたビアンカの心に、久しぶりに冒険心が入り込んできた瞬間だった。彼女の水色の瞳はみるみる輝き出し、既にリュカが手に入れている天空の剣の話になると、絶対に後で見せてねと固く約束した。
「しかしその天空の盾がルドマンさんの家にあるとはね。運命ってやつだなぁ」
この山奥の村に住むダンカンでも、サラボナのルドマンの名は知っているようだった。世界的に有名な富豪の名はリュカが考えるよりも多くの人に知れ渡っているのかも知れない。
「盾がルドマンさんの家にあるのは町に着いてから知ったんだけど、その前にフローラさんと会って……」
「何ですって、それこそ運命ってヤツじゃない! 素敵ね~」
そう言いながらうっとりとするビアンカを見て、リュカは今一つピンとこない様子だったが、とりあえず調子を合わせることにした。
「そうだね、天空の盾を追いかけていたら結婚するかも知れないってことになったんだもんね」
「するかも知れないじゃなくって、するんでしょ?」
「そのためには水のリングを見つける必要があるんだ。それでこの先を船で進むために水門を開けてもらいたくてこの村に寄ったんだ」
「水門を? あら、それじゃあちょうど良かったわ。今年はうちが水門の鍵の管理を任されているのよ」
「えっ? そうなの?」
「毎年村の人たちが持ち回りで管理を任されていてね。今年がうちの番だったんだ」
食後の薬を飲み終えたダンカンがそう言いながら、部屋の隅の壁に掛けられる大きな鍵を指差した。まるで部屋の装飾品かと思うほどのしっかりとした鍵が、どうやら水門の鍵らしい。
「それならちょうどいいや。明日、鍵を貸してもらえませんか?」
「生憎、村人以外の人間に貸すことはできないんだ。だからリュカの旅に付き添いできる村人を探さないといけないよ」
ダンカンの言うことはもっともだと思いながらも、リュカは見るも明らかにがっかりと肩を落とした。村で管理する水門の鍵をおいそれと余所者に貸せるわけがない。しかもリュカが目的としているのは水門そのものではなく、更に北上したところにある湖付近なのだ。ルドマンの船を使っても、幾日とかかる場所にある目的地まで旅をしなければならず、その間水門の鍵はリュカの手にあることになる。それほど長い間、しかも戻って来るという保証もない旅人に大事な鍵を渡せるはずもなかった。
「でもリュカが連れてる仲間って魔物ばかりなんでしょう? リュカの旅に一緒に行ける村人がいるかしら」
ビアンカにそう言われ、リュカはどうして彼女にはさらりと本当のことを言ってしまったのだろうかと考えた。プックルの話だけで終わらせれば良かったものを、その後も嬉々としながら魔物の仲間たちの話をし、彼女もそんな話をすんなりと受け入れるどころか、「後でみんなに会わせてね」といかにも楽しそうに話していた。
「ビアンカは平気なの?」
「何がよ」
「僕が魔物の仲間を連れてるってこと」
「どういうことよ」
「だって、魔物だよ。普通だったらみんな怖がって逃げちゃうよ」
「リュカが連れてるんでしょ。それに悪い魔物だったらリュカと一緒に旅なんてするわけないわ。あなたに興味があって、大事で、って思うからみんな一緒に旅をしてくれてるんでしょ? さっきリュカが話していた感じで、きっとみんなそう思ってるんだろうなって分かったわ」
何か特別なことでもあるのかと言わんばかりのビアンカの様子に、リュカは彼女はやはり特別な女の子なのではないかと思った。十数年ぶりに再会した幼馴染の言うことを素直に信じ、魔物を怖がるどころかむしろ好奇心に満ちた目でまだ会ったこともないリュカの魔物の仲間の話をする彼女に、リュカは自身の中に抱える胸のつかえの一つが解消されるような思いがした。
「旅は急ぐんだろう? 今日中に君の旅と一緒に行ける村人を探さないとな」
「そうですね、後で誰かに頼んでみます」
「頼んでみるったって、リュカはこの村に来たばっかりだし、この村のことはまだ何にも分からないでしょ。私が後で誰かに聞いてみるわ」
「本当に?」
「うん、任せておいて」
自信に溢れた彼女の笑みを見て、リュカは安心して彼女に任せることにした。さほど広くはない村のようだから、彼女には既にアテがあるのかも知れない。
「それにしてもリュカが結婚かぁ。先を越されるなんて思わなかったわ」
「ビアンカは結婚しないの?」
「何よそれ。喧嘩売ってるの?」
「どうしてそう言うことになるんだよ」
「年頃の女の子に向かって言うセリフじゃあないわね、少なくとも」
「そうなの?」
「そうよ」
「どうして?」
「あんたって相変わらずそういうところ鈍いのね。もう少し人の心ってものを勉強した方がいいわ。特に女心の勉強をしないと、奥さんになるフローラさんが苦労しちゃうわ」
「うーん、どうやって勉強したらいいんだろう」
「女の子がどんなことを思ってるのか、何を望んでるのかって想像してみるのよ」
「スラりんやガンドフの思ってることなら何となくわかるんだけどなぁ」
「……何だか、フローラさんがかわいそうになってきたわ」
溜め息をつくビアンカを見て、リュカは心底困ったような顔つきをしていた。そんな二人の様子を見て、ダンカンはただにこにこと幸せそうに微笑んでいた。
「試しにビアンカがどんなことを考えてるのか、何を思ってるのかを想像してみたらいいんじゃないかい?」
ダンカンの言葉に、リュカは考えると言うよりも、その言葉自体に疑問を抱くように眉をひそめる。
「ビアンカの考えてることを想像しても、あまり女心の勉強にはならない気がするんだけど」
「まあ、フローラさんと比べたら女らしさには欠けるかも知れんが」
「……二人とも、いい加減にしてよね。でもとにかく、結婚を考えてるんだったら、もうちょっと女心に敏感になった方がいいわよ」
「分かったよ、頑張ってみるよ。どうしたらいいのかは分からないけど」
「男なんてみんなそんなものだよ。結局は女心なんて分からないもんさ」
リュカと父の端から諦めているような会話に、ビアンカは溜め息をつきながら空いている皿を重ね、流し台へと運んで行った。大量に用意していた食事もほとんどを終え、ビアンカは流し台脇に用意してあったオレンジを手早く切り分けて皿に盛り付けると、皿を手に再びテーブルに戻った。
「この村で採れたオレンジよ。美味しいって評判で、サラボナの町にも出回っているのよ」
ビアンカがテーブルに置いた皿には瑞々しいオレンジがいくつも乗せられていた。それを見て、リュカはサラボナの町のルドマン邸で出されたオレンジジュースを思い出した。もしかしたらあのジュースもこの村のオレンジで作られたものだったのかも知れない。
「そうだ、船旅にもこのオレンジを持って行ったらいいわ。食料は船底に積みこんでるの?」
「大体そうだね。でもオレンジは生ものだから旅の食料にはちょっと向いてないんじゃないかな」
「ドライフルーツにしたものもあるから、それもあわせて持って行って。仲間のみんなにも食べて欲しいしね。本当に美味しいのよ、これ」
ビアンカの言う通り、切られたばかりのオレンジを頬張ると、口の中に味わったことのないような甘みを感じ、リュカは思わずすぐに次のオレンジに手を伸ばしていた。サラボナのルドマン邸で飲んだオレンジジュースも美味しかったが、その比ではないほどの甘みと少しの酸味が口の中に広がった。
「じゃあ腐らせないくらいの量を持って行くよ。いくらで買えるのかな」
「バカね、お金なんかいらないに決まってるでしょ。これは私の厚意ってやつよ。十年以上会ってなかったリュカと無事に会えたって言うのに、村のオレンジを無理に売りつけるわけないでしょ」
「もらっちゃっていいの?」
「当たり前よ。変なところで遠慮するのね」
ビアンカもオレンジを一つ口に頬張ると、笑いながらテーブルの上の皿を片づけ始めた。ダンカンも食後のオレンジは欠かさないようで、一つ、二つと切り分けられたオレンジを手にして食べている。
その後も三人の会話は尽きず、夜遅くまでこれまでのこと、これからのことを話し合った。途中、ダンカンが先に床に就き、リュカとビアンカは二人で尽きることのない話をしていたが、話の途中でリュカの頭ががくっと落ちたのを見て、ビアンカが彼に寝るようにと客室へ案内した。
眠い目を擦りながら、いつの間にか整えられていたベッドに潜り込むと、リュカは間もなく抗いがたい睡魔に襲われ、寝息を立て始めた。その直前、リュカの頭には「水門には誰がついて来てくれるんだろう」という思いが浮かんでいた。ずっと一緒に話していたビアンカが明日、村人の誰かに話をつけてきてくれるのだろうと、頼りになる彼女に全てを任せ、リュカはすぐに安心したように眠りに就いた。
瞼の裏に突然眩い明かりが入り込み、リュカは瞑っていた目を更に固くぎゅっと瞑った。そろそろと目を開けると、窓から差し込む朝日がリュカの寝ているベッドにまで届き、ベッドの布団を目も眩むような白に照らしていた。
「おはよう!」
まだ寝ぼけ眼のリュカを覗き見るように、ビアンカの顔がひょいと現れた。彼女の朝はとっくに始まっているようで、昨日と同じように肩から三つ編みにした髪を流し、さっぱりとした表情で窓からの朝日を受けていた。
「リュカ、昨日はよく眠れた? 今、朝食の仕度をするから、しばらくしたら起きてきてね」
「うん、ありがとう」
ベッドから身を起こし、目を擦るリュカを見て、彼女は小さく笑いながら部屋を出て行った。すぐに旅に出なくてはならないリュカのために、寝坊しないようにと起こしに来てくれたようだった。窓から差し込む朝日は昇ってから既に時間が経っているようで、強い輝きをもって山奥の村全体を照らしている。
部屋のテーブルには用意されたばかりの水差しとグラスが置かれていた。彼女がたまに村の宿屋の手伝いもしているという話を聞いていたリュカは、その手際の良さと心遣いに感心するように溜め息をついていた。グラスに水を注いで一気に飲み干すと、その冷たさに途端に目が覚める。部屋の中から見える村の景色にしばし時を忘れたリュカだが、ダンカンの寝巻のまま旅立つわけにはいかないと、ビアンカが洗濯すると言っていた旅の服について彼女に聞くため部屋を出た。
「あら、お腹が空いたの、リュカ。もう少し待ってね」
リュカが部屋から出てくるなりその気配に気づいたビアンカは、そう言って笑いながら朝食の仕度を続ける。まるで腹を空かせた子供に言い聞かせるような彼女の様子に、リュカは少し納得が行かない気持ちで表情を曇らせる。
「お腹も空いたけど……そうじゃなくて、僕の服はどこかな」
「朝食が終わるころには乾くと思うわ。まだ外に干してあるの」
ビアンカはそう言いながら台所の脇にある勝手口を指差した。一体いつ洗濯をしていつ干したのか分からないが、彼女は既に家事の大半を終えているらしい。
「乾いたら取り込むからもう少し待ってて。あと、起きてきた次いでで悪いけど、父さんを起こしてきてくれない? そろそろ朝食ができるからって」
「うん、分かったよ」
話している間も背を向けてずっと朝食の仕度を続けるビアンカを見て、リュカはそのまま台所を後にしてダンカンの部屋の扉をノックした。中からしっかりとした返事が聞こえ、ダンカンは既に起きていたのだろうと、リュカは扉を開けて部屋に入って行った。
「おじさん、おはようございます。もうすぐ朝食ができるそうです」
「おお、リュカ、おはよう。そうか、もうそんな時間か」
ベッドからゆっくりと身体を起こすダンカンを見て、リュカも彼が起きるのを手伝う。朝は身体の動きが鈍くなるらしく、少々起き上がるのに時間がかかるようだった。山奥の村に来てから身体の調子も良くなった言っても、ダンカンの身体から病が消えることはないようだ。それは死ぬまで付き合って行かなければならないものなのだと、彼自身が悟っているに違いなかった。
「ありがとう、助かるよ」
「おじさん、テーブルに薬が置いてありますけど、これは?」
「それは食事の後に飲むものなんだ。そのまま置いておいてくれて構わないよ」
「そうですか」
「薬と言ってもね、病を治すような薬じゃなくて、痛みを和らげる程度のものなんだ。まあ、それがあるおかげで昼間も動いていられるんだがね」
「温泉で治るといいのに……」
「まあ、こうして生きていられるだけありがたいということだ。おまけに世話してくれる娘もいるわけだし、私は幸せ者だよ」
そう言いながらも、ダンカンは何故か小さく溜め息をついていた。自らを幸せ者だと言う割には、暗い雰囲気の溜め息に、リュカは不安げにダンカンの様子を窺う。
「あの子はよく動くだろう」
「そうですね、小さい頃からそんな感じだった気がします」
今もビアンカは朝食の仕度をするのに台所をばたばたと忙しく動き回っている。幼い頃もリュカの目に映るビアンカはいつでも忙しなく動き、次いでに口も達者で、何もかもが彼女の方が先を行っていて、そんな彼女を羨ましく思っていたことにリュカは今さら気がついた。一方、目の前のダンカンは口調も行動もどこかおっとりしている印象がある。
「ビアンカはおばさんに似たんですかね」
「性格はもしかしたら……どこか似たのかも知れないね」
「顔も似ていましたっけ?」
リュカの記憶にビアンカの母の顔の記憶はほとんどないに等しい。ビアンカに会うまでは彼女の顔ですらはっきりとは思い出せずにいたのだ。目の前のダンカンとは全く似ていないとなると、ビアンカは恐らく母親似なのだろうと、リュカは何の気なしにそう言った。
「いや、恐らくどちらにも似ていないよ、あの子は」
柔らかく微笑みながら言うダンカンの言葉には、明らかに哀しみが滲んでいた。ダンカンの静かな雰囲気に、リュカはかける言葉を見失ってしまった。窓の外の景色を眺める二人の耳には、台所で食事の仕度をする平和な音が響く。
「なあ、リュカ、この事はビアンカには言ってないんだが……」
ダンカンの重苦しい口調に、リュカはその先を聞きたくないような気持ちに駆られた。十数年ぶりに再会し、互いの無事を確認でき、今はビアンカが仕度する平和な朝食の音を耳にしていると言うのに、ダンカンの口調はせっかくの平和な空気を圧しこめてしまうようだった。
「ビアンカは本当は私の実の娘じゃないんだよ」
「えっ……?」
「だからこそよけいにビアンカのことが不憫でね。幸せにしてやりたいんだよ」
ダンカンも亡くなった妻も、ビアンカのことを実の娘同様に愛情を注いで育てていたということは、今のビアンカを見れば一目瞭然だった。亡くなった母の墓参りを毎日欠かさず行い、病で身体が幾分不自由になってしまった父の代わりに家の用事も村の仕事も全てを引き受け、嫌な顔一つしない彼女は両親の愛情を目一杯感じているに違いない。一方で、ダンカンも妻も、ビアンカが実の娘ではないから尚更、目一杯の愛情を注いで育ててきたのだろう。互いに互いを思いやるダンカン親子はもしかしたら実の父と娘以上の絆を築いているのかもしれない。
「サラボナのフローラさんとはどうしても結婚しなくちゃいけないのかね?」
不意にダンカンにそう問いかけられ、リュカは素直に言葉に詰まった。口調は穏やかなダンカンだが、リュカを見る目はどこか鋭さを感じるものがある。それと言うのも、娘ビアンカを思いやるあまりの自然な表情だった。
「どうも話を聞いていると、そのお嬢さんの家にある天空の盾が目的としか思えなくてね。もしそうだとしたら、フローラさんにも失礼だと思うよ」
ダンカンの言葉がリュカの胸に突き刺さる。自分でも目を背けている事実に、無理矢理引き合わされたような感覚に、全て正直にダンカンに話してしまおうかという考えが頭の中を過る。本当はダンカンの言う通り、天空の盾を手に入れたいがためにフローラの結婚相手として立候補したのであって、決してフローラのことが好きになって結婚を望んでいるわけではないのだと吐露したい気持ちに駆られたが、その気持ちをリュカはぐっと胸の奥に押し込めた。
「初めは、おじさんの言う通り、天空の盾だけが目的でサラボナに行きました。でもフローラさんと会ったら、この人と結婚するのも悪くない……むしろこの人となら結婚できるんじゃないかって、思ったんです」
リュカは自分の中にある気持ちの一部を素直にダンカンに告げた。サラボナの町でフローラと会って、彼女と結婚するのも悪くはないと思ったのは事実だ。ただ、旅を続ける自分はすぐにサラボナの町を出て、フローラは町でずっとリュカの帰りを待つという、結婚の意味そのものに疑問を抱くような形になるのは間違いない。
リュカは決して嘘はつかないようにした。とにかくダンカンの家で管理する水門の鍵を借りなくてはならないのだ。そのためにはできる限り正直に、しかし余計なことは話さないように、そして誰も傷つけないように、リュカは言葉を慎重に選んだ。
「そうか……そうだな、そういうこともあるのかも知れないね。結婚というのは色々な形があるからね」
ダンカンと亡くなった妻がどのような慣れ染めで結婚に至ったのか、リュカには想像することもできない。そして父パパスと母がどのようにして結婚し、自分が生まれたのか、リュカはこの時初めてそんなことに考えが至った。命懸けで母を探す旅をしていた父はきっと、この上ない愛情を持って母を想っていたのだろうと、リュカはそんな亡き父の想いも自分の胸に突き刺さる思いがした。
「私はこんな身体だからこの先どうなるか分からないし……。リュカがビアンカと一緒に暮らしてくれたら安心なんだがなぁ」
「僕と、ビアンカがですか?」
「昨日君が来た時にちょっとそんなことを思っただけだよ。リュカとならあの娘も幸せになれるんじゃないかってね。いいんだ、これは私の独り言だよ、気にしないでくれ」
考えてもみなかったダンカンの独り言に、リュカの頭は少し混乱していた。ビアンカと結婚して一緒になることなど、ダンカンが言葉にするまで微塵も思いつかないことだった。言われた今でも、彼女と一緒になることなど、リュカは全く想像できない。あくまでも彼女は互いに昔のことを知る数少ない知人で、世話好きのお姉さんという存在だ。
「さて、朝食の仕度はできたかな」
ダンカンはそう言いながらベッドからゆっくりと起き出し、テーブルの上に置いてあった薬を手にすると、リュカにも部屋を出るよう促した。ダンカンの部屋の扉を開けると、すぐに朝食の良い香りがリュカの鼻をくすぐる。
「あら、ちょうど良かったわ。今、呼びに行こうと思ってたの」
外したばかりのエプロンをくるくると簡単に畳みながら、ビアンカは扉のすぐ近くまで歩いて来ていた。食卓のテーブルの上には既にパンにサラダに目玉焼きに、昨日の残りのスープにデザートにはオレンジはもちろんのこと、ぶどうに桃も器に盛り付けられていた。
「さあ、できたわよ」
「朝から相当張り切ったなぁ、ビアンカ」
朝食とは思えない豪勢な料理にリュカが目を見張るのは当然だが、ダンカンまでもが溜め息をついてそんな言葉を口にした。ビアンカは畳んで丸めたエプロンを自分の椅子の背もたれにかけると、父に手を貸して歩くのを手伝い、自分の向かいの席に座らせた。
「リュカはこれから旅立つんですもの、これくらいは食べてってもらわないとね。リュカ、こっちに座って」
そう言いながら彼女の右隣を指差されたリュカは、あとは食べ始めるのみというところまで準備の整った食卓を眺め、喉を鳴らしながら席に着いた。これだけの朝食を準備し、リュカの服の洗濯まで終えている彼女は一体いつ寝たんだろうかと、リュカはビアンカの顔を窺う。しかし特に寝不足の気配もなく、彼女は朝から村を照らす太陽のごとく元気そのものだ。
「これから村で旅の準備をしていくんでしょ?」
「準備って言っても、ここには水門の鍵を借りに来ただけだから、とくに準備ってほどのこともないよ」
「じゃあこのまますぐに旅立つの?」
「一応、そのつもりだよ。せっかく会えたばかりだけど……でも、旅の途中でまた寄ることがあるかも知れないよ」
「そのつもりもないのにそんな嘘ついちゃダメだよ、リュカ。この村を旅立って、水のリングを手に入れて、また水門の鍵を返しに来たら、もうこの村には用はないはずよ。おじさまのご遺志を継いでいるんだもの、それほど寄り道はできないはずだわ」
あまりにも的を得た彼女の言葉に、リュカは思わず口を噤んでしまった。しんと静まり返った食卓のテーブルに、温くなったスープの湯気が漂う。
「とりあえず、頂こうか。リュカも旅立つ前にしっかりを腹ごしらえをしておきなさい」
「はい、ありがとうございます」
ダンカンの言葉を皮切りに、朝食の時間が始まった。しばらく静かな食事の時間が続いたが、やがてビアンカが意を決したような様子で話し始めた。
「ねぇ……。食べながらでいいから聞いてくれる?」
「うん……何?」
瑞々しいサラダを頬張りながら、リュカは口をモゴモゴさせて返事をする。ビアンカを見て、リュカはその表情をどこかで見たような気がするという錯覚に陥っていた。そしてその微かな記憶は、リュカに嫌な予感を抱かせる。
「昨日あれから考えたんだけどね」
「うん」
「水のリングを探すの、私も手伝ってあげるわ!」
「うん?」
「だってリュカには幸せになって欲しいもんね。いいでしょ?」
話す前から、彼女の水色の瞳は輝きを隠し切れていなかった。好奇心に満ちたその輝きは、幼い頃にお化け退治という目的でレヌール城に向かう時の瞳そのものだった。未知の冒険に旅立てること、しかも夜のアルカパの町を抜け出して外に出られるという大人顔負けの冒険ができるということに、幼い頃の彼女は今と同じようなきらきらとした表情をしていたのだ。リュカが感じた嫌な予感は、そういうことだった。
「良くないよ。何言ってるんだよ。連れて行けるわけないだろ」
「どうして? 私、こう見えても外歩きには結構慣れているのよ」
「外歩きなんて生易しいものじゃないんだよ。船で何日も旅に出て、生きて帰って来られる保証なんてないんだよ」
「でも現にリュカは生きてここまで来られたじゃない」
「それは仲間のみんなに助けてもらって、どうにかここまで来られたんだよ。こう見えても何回か死にかけてるんだ」
「そこはリュカの得意な回復呪文で切り抜けて来たんでしょ? だったら私が怪我しても、リュカに治してもらえるから大丈夫よ」
「君に怪我させるわけにはいかないよ。女の子なんだから」
「冒険するのに男も女もないと思うわ」
「冒険するのに女の子は向かないって言ってるんだよ」
間髪入れずに行われる二人の言葉の応酬に、ダンカンが場違いな笑い声を上げた。
「リュカ、君も大人になったなぁ。ビアンカとそこまで言い合いができるようになっていたとは」
「おじさん、笑い事じゃないですよ。ビアンカが冒険に出たいなんて言ってるんだから、止めて下さい」
「父さんにはもう話してあるわ。そしたら『好きなようにしたらいい』って言ってくれたのよ」
ビアンカの言葉にリュカは絶句せざるを得なかった。日々身の回りの世話をする娘が危険な旅に出ようとするのを、ダンカンは微塵も止める気がないらしい。リュカにはそんなダンカンの親心が全く分からなかった。
「私のことは何とかなるさ。これまでもビアンカが村の外に出かける時なんかは、村の人に色々とお願いしてきたから、今回もそうしてみるよ」
「今回もって……おじさん、今回はビアンカが普段している外歩きとは訳が違いますよ」
「村の外を一歩でも出たら、危険なことには変わりはないさ。ビアンカが今までしていることと何も変わらないよ」
「そもそもどうしてビアンカが外歩きするのを平気で見ていられるんですか」
「決して平気なわけではないよ。そりゃあいつも心配してるさ。でもね、もう大人になった娘が命を賭けてでもしたいと思うことは、親の私にももう止められないんだよ」
「父さんにはいつも悪いと思ってるわ。でも、それでも村の外に出て色々と見てみたいの」
「ビアンカの人生は私の人生ではないからね。いつもそう自分に言い聞かせてるよ」
「……ごめんね、父さん」
「謝ることじゃない、ビアンカ。お前の人生なんだから、好きなようにしたらいい」
ダンカンのビアンカを思いやる親としての愛情は、リュカの想像を遥かに超えるところにあるようだった。こうなるとビアンカが旅に出るのを止めるのに、ダンカンから説得してもらうことは不可能だと、リュカは見るも明らかに溜め息をつく。
「とにかく、君を連れて行くことはできないよ」
「あら、いいの? 私がいなきゃ水門を開けられないわよ」
「強引にでも水門の鍵だけもらって、他の村の人たちにお願いするしかないよ」
「鍵って、これのことよね?」
見れば、既にビアンカは水門の鍵を手にしていた。昨日まで壁に掛けてあった水門の鍵は、リュカと一緒に冒険に行く気満々のビアンカの手中に収まっている。目の前でひらひらと見せられる大きな鍵にリュカが素早く手を伸ばすと、ビアンカは鍵をベルトの間にさっと差し込み、オレンジ色のマントで隠してしまった。
「強引に取ろうとしたら、大きな声を上げて村の人に助けを呼ぶからね」
「ずるいよ、そんなの……」
「こうしてリュカと無事に再会できて、おまけにリュカが結婚して幸せになるなら、ぜひそのお手伝いをしたいのよ。絶対に足手まといにはならないようにするわ。……だから、いいでしょ?」
ビアンカの言葉に嘘偽りがないことは、彼女の真剣な顔つきで分かった。ただ単に冒険に出たいだけではないのだ。
サンタローズの村が滅ぼされ、その後消息を絶ったパパスとリュカ。パパスは命を落とすことになってしまったが、十数年経って無事にリュカが目の前に現れ、ビアンカもダンカンも心底彼の無事を喜んだ。そしてそんなリュカがまだ終わりの見えぬ旅の途中でこの山奥の村に立ち寄ったと分かると、二人ともどうにかしてリュカの手助けをしたいと思ったのだろう。そんなビアンカとダンカンの心情が分かると、リュカは断るための言葉に窮してしまった。
「………………仕方ないな。じゃあ、お願いします」
小さな声でリュカが承諾の意を表すと、ビアンカの表情がみるみる明るくなっていった。今にも飛び上がらんばかりの嬉々とした表情で、ビアンカは抑えきれない笑い声を上げた。
「うふふ。また一緒に冒険ができるわねっ」
「ねぇ、本当に危険だって分かってる?」
「もちろん分かってるわよ。ああ、でもまた冒険ができるなんて嬉しい。もうこれからは一生この村で静かに暮らして行くんだって思ってたから」
「本当に分かってるのかなぁ……」
彼女の喜びように、リュカは不安しか覚えなかった。しかしビアンカが生き生きとした表情で話し始めるのを見ていたダンカンは、まるで子供の頃のようにはしゃぐ娘の姿に、その身を案じるのと同時に、リュカとの旅に送り出すことは間違いではないと確信を得ていた。
「すぐにでも旅に出るんでしょう? 馬車があるって言ってたわね。だったら少しくらい荷物が増えても構わない?」
「平気だと思うよ」
「じゃあ下にある食材をいくらか持って行きましょう。水は村の近くを流れる小川から汲めばいいわ。それから……」
まるで自分よりも旅慣れているかのような彼女の素早い行動に、リュカは心のどこかでほっとしているのを感じていた。ルドマンから借りた船にはキッチンも備わっていると話をすると、彼女はまた目を輝かせて、調達する食材の量を増やしたりして、既にリュカとの冒険の旅を楽しみ始めていた。
「出かける時は私に言ってね」
昼前にはおおよその旅支度が調い、ビアンカはリュカにそう言いながら、ナイフで簡単に切ったオレンジを渡した。二人で台所に立ちながらオレンジを食べる姿を、食卓のテーブルで茶をすするダンカンは後ろから眺めながら、その光景を目に焼き付けていた。リュカの幸せを願う娘の幸せと無事を祈りながら、ダンカンは温かいカップを両手で固く包んでいた。
「そろそろ行こうか。……って、本当に一緒に行くんだよね?」
「今さら何を言うのよ。行くに決まってるでしょ」
「……そうだよね、ビアンカだもんね」
「じゃあ、行きましょう! 父さん、行ってきます!」
「ああ、気をつけて行ってくるんだよ」
「おじさん、ビアンカは必ず無事にお返しします」
「そう信じて待ってるよ。リュカに任せておけば安心だ」
ダンカンに見送られながら、リュカはビアンカを連れて家を後にした。村人たちへの挨拶は既に済ませていたが、村を出る際に会う人会う人にビアンカは声をかけ、村人たちも彼女の無事を祈って村から送り出した。ビアンカが村の外歩きに慣れているせいか、村人たちも今回の旅はその延長とでも思っているらしく、さほど特別なこととは思っていないようだ。
「ビアンカが外歩きに慣れていて助かったよ」
「何日も村を離れて冒険するなんて、本当に久しぶりだけどね~。楽しみだわ~」
相変わらず外の世界の危険をあまり感じていない彼女の様子に、リュカはやはり一抹の不安を覚えた。しかしもう彼女を止めることなどできないと諦め、彼女と共に荷物を車で引いて、外に止めてある馬車へと向かって行った。
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