2017/12/03

繋いでいくこと

 

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アルカパの町の酒場はちょうど夕食の時間と言うこともあって、程よく賑わっていた。虫の泣き声が響くような静かな夜とは別世界で、酒場内はアルコールを含んだ特有の熱気を漂わせ、人々の会話にも熱がこもっているようだった。席は混んでいたが、ちょうど二人連れの客が出て行ったところで、リュカとビアンカはすぐにその席に案内された。
町に夜が訪れ、リュカとビアンカは町の宿に向かって歩いていた。しかし宿では朝食の提供しかなく、夕食はどこかで済ませなければならないことをビアンカが思い出したため、行き先を宿から酒場へと変更していた。町の北西に位置する酒場は町の食堂も兼ねており、宿に泊まる人間は大方この酒場で夕食を済ませてくることが多いのだと、ビアンカは思い出話も兼ねてリュカに話していた。
酒場に向かう途中、恐らく酒場から出てこれから宿に向かう旅人二人の姿があった。リュカたちと同じく男女二人の旅人で、どうやら恋人同士のようだった。二人とも多少なりとも酒を飲んでいるようで、互いに支え合うかのように体をぴたりと寄せ合い、男女の雰囲気を隠さないまま歩いていた。そしてふと立ち止まったかと思うと、顔を寄せ合い、愛を囁き合っていた。そんな男女の近くを、リュカとビアンカは見て見ないふりをしながら足早に通り過ぎた。
しばらく無言のまま歩き、酒場が目の前に見えてきた頃、リュカがふと足を止めた。手を繋いで歩いていたビアンカも同じように足を止め、何事かとリュカを見上げる。
「どうしたの? お腹でも痛いの?」
心配そうに見上げてくるビアンカに、リュカは目を合わせないまま俯いている。
「……さっきはごめん」
「何の話よ」
「だって、急にあんなことをしちゃったから、びっくりしただろうなと思って」
「あんなことって……ああ……あんなこと、ね……」
教会を出てから宿に向かっている途中、湧き出す感情のまま彼女に口づけてしまったことをリュカは詫びているのだった。
「謝ることなんかないでしょ。私たち、夫婦なんだから」
「でもああいうのはやっぱり良くないなと思ってさ。ちゃんと君に聞いてからじゃないとびっくりするよね」
「聞いてみて、私がイヤだって言ったらどうするのよ」
「それは……止めるよ。だって君が嫌がることはしたくないもん。……やっぱり嫌だったの?」
どこか落ち込んだような雰囲気を見せるリュカに、ビアンカは笑ってリュカの腕に自分の腕を絡ませる。
「イヤなわけないでしょ。むしろ嬉しかったのよ、リュカがこんなにも思ってくれてるんだなぁって」
「本当に?」
心底心配そうに顔を覗き込んでくるリュカを見て、ビアンカは思わず笑ってしまう。
「どうしてそんなに自信がないのよ。私たち、結婚して夫婦になったのよ。もっともっとお互い、素直になっていいと思うわ」
「う、うん、そうだよね。まだ夫婦になったって実感があまり沸かないんだけどね」
「そのうちこういうことにも慣れるはずだわ、さっきの人たちみたいに」
「慣れるのかなぁ……いつまでも慣れる気がしないよ」
「(……私だって慣れる気なんかしないわよっ)」
「え? 何?」
「いいから早く夕食を食べに行きましょう。時間が遅くなると今晩ゆっくり寝られないわよ」
「(……今晩、ゆっくり寝られるのかなぁ)」
「何? 何か言った?」
「ううん、何でもない。さあ、行こう行こう」
互いに言えない本音を抱えたまま、リュカとビアンカは再び手を繋いで酒場の扉を開けたのだった。
席に着くと、ビアンカが店員から渡されたメニューを見ながら、「ここの葡萄酒って一度飲んでみたかったのよね~」などと言いながら食べたい食事を選んでいく。リュカはそんな彼女の様子をにこやかに見つめながら、ふと周りの人々に目を向けた。
酒場には様々な者が訪れる。その中にリュカは以前にも見たことのある老人の姿があることに気づいた。その老人も旅をしていて、そしてアルカパの町に着いたはずだったが、今でもこの町に留まっているということは、旅を止めて町に住むようになったのかもしれない。以前ヘンリーと共にこの町を訪れた時、その老人からダンカン一家のことを聞いたのだ。
食べ物のオーダーが終わったところで、リュカはビアンカに老人のことを話した。老人を見たビアンカはすぐに思い当たったらしく、笑顔になって席を立ち、すぐ近くに座る老人のところへ歩いていく。リュカも彼女について席を立った。
こんばんはと明るく爽やかに挨拶するビアンカを見て、老人は眩しそうに眼を細める。酒場と言う環境にそぐわないその清々しく元気な挨拶に、老人は過去の記憶の一端が刺激されたのを感じたようだ。
「おじいさん! 私よ、ビアンカよ」
ビアンカが明るく話しかける姿を、老人は過去に見た快活な少女の姿に重ねた。アルカパの町で宿屋を営むダンカン一家の看板娘が、元気な姿のまま目の前に現れたのだとすぐに分かった。
「なんと! ビアンカちゃんかね? こりゃ驚いた! 大きくなったのう」
老人の驚きぶりに、席を同じくして酒を飲んでいた旅の戦士が挨拶をしてきた女性を見遣る。旅の戦士は別の意味で驚きの表情を示していた。普通に町を歩いているだけではあまり出会えないような美女で、おまけにスタイルも良いビアンカを、旅の戦士は口を開けながら彼女の頭の先から足の先までくまなく眺めていた。
「父さんも元気よ。引っ越したおかげで病気もだんだん良くなってるわ」
「そうかいそうかい。いや、なにしろこの宿屋はダンカンさんの宝じゃったから。それを手放すとはよっぽどのことと心配しとったんじゃよ」
「心配かけちゃってごめんなさい。でも父さんは今も山奥の村で元気に暮らしているわ」
「でもビアンカちゃんに会えて本当に良かったわい。ダンカンさんにもよろしくな」
「ええ、手紙を書いておじいさんと会ったことを知らせておくわね」
「手紙? なんじゃ、ダンカンさんのところに戻るんじゃないのか?」
「私ね、今は村を出てこの人と旅をしているの。結婚したのよ」
そう言いながらビアンカはリュカの腕に手を当て、リュカを隣に立たせた。リュカも軽く会釈をして挨拶をする。その様子に老人は再び驚きに目を丸くし、同じ席に着く戦士は静かにため息をついた。
「な、なんじゃと? ビアンカちゃんが結婚? はあぁ~、年月が経つのは早いもんじゃのう」
「私みたいなお転婆でも結婚ってできるものなのね。それで今はこの人の旅について行ってるの」
「めでたいことじゃのう。これで二人に子供でもできたら、ダンカンさんも孫の誕生を大喜びするじゃろうて」
老人の言葉に、ビアンカは初め、ただ笑うだけだった。斜め後ろに立つリュカからは彼女の表情が見えないが、恐らく自然な笑顔を見せているのだろう。一方、ビアンカは後ろからリュカの真剣な雰囲気を感じていた。そして彼女は老人に告げる。
「でもね、私たち旅をしているから、子供はいない方がいいかなぁなんて……」
「何じゃと? そんなもったいない話があるものか。子は宝じゃ。ダンカンさんも女将さんも、ビアンカちゃんのことをどれだけ大事に思っておるか。それを知るにも、自分が親にならんでどうするんじゃ」
老人の言葉に、ビアンカもリュカも息を呑んだ。二人の様子に気づくことなく、老人は続けて話す。
「子を授かろうと思ってても授かれない者もおるんじゃよ。それなのに、自ら授かろうとしないとは……」
「じいさん、止めときなよ。こちらさんだって事情があるんだからさ。それに前よりも魔物が多くなってる中旅を続けるんだから、子供ができて危険な目に遭わせるのが嫌だってのもちゃんとした理由だと思うぜ」
老人と席を共にし、話をしていた旅の戦士が老人の高揚ぶりを見かねて口を挟む。老人も熱くなっていた自身の心を静め、大きく一つ呼吸をすると、再び穏やかな調子でビアンカに語り掛ける。
「それもそうじゃな。すまん、つい熱くなってしもうた。長く生き過ぎた老人の戯言じゃ。あまり気にせんでくれ」
「……ううん、おじいさん、ありがとう。会えてお話ができて嬉しかったわ」
「それはこちらもじゃ。ダンカンさんによろしくな。それと、ビアンカちゃんの旦那さんよ」
「あ、はい」
「彼女を幸せにしてやるんじゃぞ。それを忘れちゃいかんぞ」
老人の言葉はリュカの胸に染みた。結婚の時、ダンカンに挨拶に行った時、リュカは彼女を幸せにすると誓ったはずだが、その誓いの思いが自分の中で早くも薄れてしまっていたのかも知れないと自覚した。
彼女は喜んで自分の旅についてきてくれた。それを良いことに、リュカは旅の目的だけに邁進してしまいそうになっていた。彼女と共に勇者を見つけ出し、母親を救い出す。そのことだけを考えてしまい、何よりも大事な彼女が隣にいるのは当然のことのように思っていた。自分だけの人生ではなくなったのだと分かっていたはずだが、幸せに浸っている中、そのことを忘れかけていた。
「ま、あんたたちが何を目的に旅をしているのか知らないけど、俺だったらこんなに綺麗な嫁さんもらったら、旅なんかそっちのけでさっさと子供でも作って落ち着いちまうけどな」
そう言いながらじろじろとビアンカを見る旅の戦士に、リュカはあからさまな鋭い視線を投げた。しかしリュカのそんな視線も、旅の戦士は笑って見ている。
「何にせよ、早く旅が終わるといいな。無事を祈ってるぜ」
「ええ、ありがとうございます。リュカ、頑張ろうね」
「え? う、うん、そうだね、頑張らないとね」
一瞬何を頑張るのか分からず返事をしたリュカだが、ビアンカが老人と旅の戦士に挨拶を済ませると、二人揃って元のテーブルに着いた。ちょうど飲み物が運ばれてきたところで、リュカとビアンカはすぐにグラスに手を伸ばし、リュカはほとんど一気に、ビアンカは一口だけ飲み、一息ついた。
「ねぇ、リュカのって葡萄ジュースよね。ちょっともらってもいい?」
「うん、もちろん。ビアンカのもちょっともらうね」
「え? いや、あの、それは……」
ビアンカが止めるよりも早く、リュカはまだたっぷりと残るビアンカのグラスをぐいっと一口飲んだ。鼻をつく刺激的な匂いに、喉を伝うチリチリとした感覚に、リュカはグラスを口から離すと共にむせてしまった。
「私のは葡萄酒よ。分かってたでしょうに、どうして飲んじゃうのよ。もう……」
ビアンカは呆れ顔のまま、近くを通った店員に手を挙げ、水を持ってくるようにとお願いした。苦しそうにせき込むリュカの背中をさすり、水が運ばれると彼に水を飲ませる。
「ありがとう、ビアンカ。そうだったね、君が頼んだのは葡萄酒だった」
「お酒はダメなんでしょう? 気持ち悪くはない?」
「うん、一応、平気みたいだよ。ルーラで地面を転がった時よりはマシかも」
「食事を済ませたらすぐに宿に向かいましょう。お酒の力って後で効いてきたりするから」
「これでもヘンリーよりは強いはずなんだよ。ヘンリーはまるで酒が飲めないんだ。笑っちゃうよね、あんなに偉そうな口を利くのにね」
どことなくいつもより饒舌になったようなリュカを見て、ビアンカは多少の不安を覚えた。食事をしていても、リュカはいつになくおしゃべりだった。顔を少し赤くしながら、しかし気分は良いようで、楽しそうに色々な話をする。普段ため込んでいる彼の思いが、酒の力を借りて外に放出されているかのようで、ビアンカはたまには彼に酒を飲ませるのも良いかもしれないなどと思っていた。
「ところでどうして葡萄ジュースを飲みたいなんて思ったの?」
小首をかしげながら聞くリュカに、ビアンカは微笑みながら答える。
「小さい頃ね、私のおやつみたいなものだったの、葡萄ジュース。外で遊んで家に帰ると、母さんが必ず出してくれたの。それをちょっと思い出したくてね」
「そうなんだ……。こんなに美味しい葡萄ジュースを飲んでたんだ、羨ましいなぁ」
そう言うリュカの言葉にはどこか悲哀が込められていた。それはリュカが幼い頃にはこれほど美味しいジュースを飲んだことがないという単純な感情ではない気がして、ビアンカはそっと彼の表情を窺い見る。リュカの目は酒の力もあってかどこかぼんやりとしていて、遠くを見つめるような視点の合わない状態に見えた。
「リュカ……、聞いてもいいかしら?」
「うん、何?」
「あなた、サンタローズの村を出た後、どうしていたの? どうやってヘンリーさんと出会って、あんなに仲良くなったの? 私、何も知らなくて、それってちょっと悲しいなって思って……」
ビアンカの問いに、リュカの表情が変わった。遠い過去を見つめていた彼の目が、突然遠い過去ごと現実に引き戻され、そして感情を悟られまいとビアンカから視線を外した。そんな彼の反応に、ビアンカは一瞬怯むが、何でもないことのように装い話を続ける。
「私ね、結婚式の祝宴の時、ヘンリーさんと話をしたのよ。ヘンリーさんはおじさまが死んでしまったのは自分のせいだって言ってたわ。自分が攫われたせいでおじさまが命を落とすことになったって」
「違うよ、ヘンリーは悪くないんだ。ヘンリーはただ連れ去られただけなんだ。彼だって辛い思いをしてる」
「もちろん、それは分かってるわ。私もヘンリーさんに「あなたは悪くない」って言った。けど、それにしてもどうしてリュカとヘンリーさんがこんなに仲良くなったのか、分からないのよ。あなたの過去を根掘り葉掘り聞きたいとは思わないけど、でもやっぱり知りたい」
ビアンカの真剣な目を見て、リュカはまるで言葉を返せないまま、やはり視線を外してしまう。彼女には話したくなかった。父が魔物に殺された後、ヘンリーと共に魔物に連れ去られ、奴隷として十年余りを生きていたことなど、話すべきではないと思っている。彼女の人生に無駄な影を落としたくない。彼女ほど日の光が似合う人はいないと思っている。
ずっと押し黙ったままでいるリュカを、ビアンカはしばらくじっと見つめていたが、やがて澱む空気に耐えられなくなり彼に告げる。
「言いたくないことを言ってってお願いしてるわけじゃないのよ。ただ……ヘンリーさんにちょっと妬いてるだけよ」
「妬いてる? それってどういう……」
「だってあなたたち二人には私には越えられない絆みたいなものを感じるんだもの。男同士の友情なんて簡単なものじゃない何か……もっと深い絆を。そういうものに嫉妬してるんだわ、きっと」
彼を重苦しい空気に閉じ込めたくないビアンカはあえて明るい調子でリュカに伝える。だがその言葉は本心からのものだった。ビアンカは自分の知らないリュカを知っているヘンリーに、嫉妬していた。とても子供じみた感情だと笑いたくなってしまうが、嫉妬する感情は紛れもなく本物で、ビアンカはもっとリュカのことが知りたかった。彼の抱えるものを共有し、彼を悩ませるものを払拭し、時折危うくなる彼をしっかりと支えたかった。
「僕は君のことが大好きなんだよ。ヘンリーに嫉妬するなんて、おかしな話だ」
「そうなのよね、自分でも笑っちゃうわ。馬鹿げてるわよね、こんなの……。でも、どうしようもないのよ。誰にも負けたくないって思っちゃうの」
「あはは、強いビアンカらしいや」
「それだけリュカのことが好きなのよ。大好きだから、誰にも負けたくない。……ホント、おかしいんじゃないかって自分でも思うわ」
熱を帯びた水色の瞳は、笑みを見せながらも潤んでいた。彼女の広く強い想いを感じ、リュカは思わず思いのまま過去の闇を吐き出してしまいそうになる。しかしまだ残る冷静な自分が、それを思いとどまらせる。
「もうかなり遅い時間だね。早く食事を済ませて宿に戻ろうか」
目の前で静かに扉が閉じられたように感じ、鍵を持たないビアンカはただ扉の前でため息をつくしかなかった。無理に聞き出したところで、何も良い結果は生まれない。リュカが話してくれるその時まで、ビアンカは扉の前で待ち続けようと一人考えていた。
「そうね、宿に戻ってお風呂にも入りたいし。早く戻らないとお風呂の時間も終わっちゃうわ」
「あ、そうなんだ。じゃあ急ごう」
テーブルに運ばれた食事を次々と平らげると、リュカとビアンカは互いにいくらかの緊張感を持ちながら店を出た。ただ葡萄酒を飲んでしまったリュカはやはり少しお喋りで、まるで現実逃避をするかのように楽しく話をしながらアルカパの町を妻と共に歩いていた。



宿の共同浴場は遅い時間と言うこともあってかなり空いていた。リュカは手早く体を洗い、早々に風呂を出てくると、休憩所とも呼べるような場所で窓からの風を浴びて涼んでいた。窓の外にはちらほらと民家の明かりがあるが、既に寝静まっている家もあるようだ。夜空には美しい星々が煌き、リュカは窓からの星空を眺めながら、まとまらない頭の中で思いを巡らせていた。
「あんまり夜風に当たっても風邪を引くわよ」
後ろから声をかけられ振り返ると、風呂から出てきたビアンカと目が合い、思わずその姿に息を呑む。夜着用にと山奥の村の家から持ってきた薄手の膝下丈のワンピースに身を包み、洗い立ての長い金髪をタオルで拭きながら出てきた彼女の姿は、どこか幻想的ですらあった。旅装用の橙色のマントを身に着けていないだけで、いつもとは雰囲気がまるで違う。滝の洞窟に水のリングを探しに行く旅で、その帰りで、似たような姿を見たことがあるはずだが、今までには感じたことのない、目を離したくなるような離したくないような不思議な感覚に囚われていた。
「ここも懐かしいな……。よくここでかくれんぼしたよね?」
脱いだ旅装を包んだ布を手に持ち、ビアンカは浴場を出たところにある休憩所を見ながらリュカに話しかける。
「えーと、そうだっけ? ごめん、よく覚えてないや」
「そうよね。あの頃はすごく小さかったもんね。覚えてないわよね……」
そう言いながら何やら思い出し笑いを隠せないビアンカに、リュカは思わず眉をひそめる。
「何かあったんだね?」
「今思い出しても笑っちゃうわ。あの時のパパスおじさまの慌てぶりったら……」
「父さんのことなんだ……」
ビアンカと父との思い出なのだと思うと、リュカは嬉しいような悲しいような、ちょっとした妬みを感じるような複雑な感情を抱く。
「それもこれもあなたが原因なのよ、リュカ。おじさまと一緒に男風呂に入ってる途中で、あなたったら女風呂の脱衣所に入り込んでくるんだもの」
「えっ? なんでそんなことしたの、僕」
「お昼前のお風呂の掃除の時間によくかくれんぼをしていたんだけど、リュカったら私のことが見つけられなくて悔しがっていたのよ。それでちょうどおじさまとお風呂に入っている時にそのことを思い出したんでしょう。急に女風呂の脱衣所に走りこんできて私を見つけて『ビアンカ、みつけたー』って喜んでたのよ」
「何それ……」
自分自身のことだが、呆れるような恥ずかしいような思いに、リュカは言葉を失う。
「おじさまからちょうど私もお風呂に入ってるって聞いたんでしょうね。だからそんなことをしたんだと思うけど、その後おじさまが慌ててリュカを追って女風呂の脱衣所に入ろうとしたものだから、ちょっとした騒ぎになっちゃってね」
「それは……騒ぎになるね。でも僕が入っていった時にも騒ぎになったんじゃないの? 僕も男だよ」
「何言ってるのよ。リュカはあの頃まだまだ小さな子供だったんだもの。子供が女風呂に入ってきたって誰も何も思わないわよ。みんな笑って見ていたんじゃないかしら」
「そんなものなんだ」
「そうよ。だってお母さんと一緒にお風呂に入る男の子なんて普通でしょ。何もおかしなことなんてないわ」
ずっと母親がいない人生を過ごしているリュカにとっては、母親と一緒に風呂に入ることなど想像できないことだった。リュカが考え込むような雰囲気になっているのを見て、ビアンカがすぐに彼の思考を異なる方向に向けようと話しかける。
「リュカにとっては女風呂に入るのも普通のことだったのよ。だって私と一緒に外で遊んで、一緒に私の母にお風呂に入れられてたりしたんだから」
「ビアンカと一緒に遊んでたらどうしたって泥だらけになりそうだよね」
「まあ、私が色々と連れ回して遊んでたからね。母さんにはよくそれでも怒られたけど」
「怒られても懲りないめげないのがビアンカだもんね。変わってないよ」
「何よそれ。何か腹の立つ言い方ね」
「僕は正直に言ってるだけだよ。君は不撓不屈の精神を持っているってね」
「響きに嫌味を感じるわ」
話しているうちに、リュカは自分の心が落ち着いていくのを感じていた。彼女の見た目は美しく、黙っていればとても近づけないような触れられないような雰囲気を醸している。しかし一端話し始めてしまえば、彼女は彼女だった。美しい外見とは別に、誰でも分け隔てなく親しみを持って話せるほどの親近感を感じることができる。
「今は一緒に泥だらけになっても、一緒にお風呂に入るわけには行かないもんね」
「えっ? うん、まあ、そうね。ここじゃあ入れないわね、宿に泊まる人たちがみんなで使う場所だからね」
ビアンカがそう言うと、それきり二人は黙り込んでしまった。窓から入る風は爽やかに涼しく、風呂上がりの汗を引かせるにはちょうど良いものだったが、リュカもビアンカも体にじわりと滲む汗を止められなかった。
「……さあ、部屋に戻りましょう。早く休まないとね。明日もちょっと町を歩きたいし」
「部屋に水は置いてあったよね? 風呂で汗をかいたからかな、喉が渇いて仕方ないや」
襟首を広げながらリュカはぱたぱたと服の中に風を送り込む。それでも滲む汗は引きそうにもなかったが、リュカはそうでもしていないと顔からも汗が噴き出しそうで、廊下を歩いている間ずっと服の中に風を送っていた。
部屋に戻り、リュカはすぐに水差しからグラスに水を注ぎ、それをあおるように一気に飲んだ。ビアンカも一口水を飲み、窓近くにあるテーブルにグラスを置くと、そのまま窓辺に立つ。まだ濡れている金髪を風に晒しながら、夜のアルカパの町を眺める。山奥の村に引っ越すまではいつものように見ていた景色が眼前に広がり、ビアンカの胸中には幼い頃の思い出が次々と蘇る。
「またこうしてここに来られるなんてね。しかもリュカと一緒に」
振り返るビアンカに、ベッドに腰かけていたリュカも笑いかける。
「本当だね。何だか不思議な気分だよ」
「振り返ってみても、とんでもない偶然が重なったものだわ」
リュカもビアンカも、出会った初めの記憶はおぼろげで、気が付くと近くに互いの存在があったという状況だった。それは決して長い時間ではなく、リュカが父パパスと共にサンタローズの村にいる間のほんのちょっとした期間だ。そして何故パパスがサンタローズの村に家を構えていたのかは、今となってはリュカにもビアンカにも分からない。恐らく山奥の村にいるビアンカの父ダンカンも細かなことは知らないのだろう。
幼い頃に、子供では決してしないような大冒険をした。夜に魔物が出没する外の世界に出て、お化け城と呼ばれるレヌール城に行き、お化け退治をするなどと言う無謀な冒険をした。一歩間違えれば死につながるような危険な冒険は、二人の頭に胸に、互いのことを忘れさせない濃い記憶を残した。
成長して大人になり、リュカがフローラとの結婚のため、水のリングを探す旅の途中、ビアンカと再会した。初めは互いに子供の頃のことを懐かしむくらいの友人と思っていたものが、ビアンカが水のリングを探す旅に同行すると言い出したことで運命が大きく動いた。ビアンカは幼い頃の冒険心そのままにリュカの旅に同行したい思いが先行し、リュカは彼女の無謀な旅を止めさせたいと思いつつもそんな彼女の変わらぬ冒険心に内心楽しむのを抑えられなかった。
旅の途中、互いに惹かれてしまうのは抗いようもなかった。互いに自身でも気づいていない想いに気づかされるのは、必然のことだった。ビアンカはリュカに惹かれる心を必死に押さえつけようとし、リュカはビアンカに惹かれる心をどうしたらよいのか持て余した。嘘をついてでもリュカへの想いを封じ込め、彼から離れようとするビアンカに対し、リュカはどうしたら彼女の傍にいられるだろうかと考えあぐねた。
そしてフローラと言う優しく、気品溢れ、まるで聖女のような彼女の言葉に触れ、リュカはビアンカへの想いを包み隠さず伝え、求婚した。ビアンカもフローラの背中を押してくれるような温かな表情に、リュカの想いを受け入れる覚悟を決めた。もし二人の間に立つ者がフローラでなければ、恐らく今頃リュカとビアンカは離れ離れになり、二度と会うこともなかった。二人を結びつけたのがフローラと言っても過言ではないほど、彼女の存在にリュカもビアンカも助けられたのだ。
「色々とあったけど、あっという間に思えるわ」
まだ幼い頃にサンタローズが滅ぼされたと聞き、パパスもリュカもサンチョも行方不明になり、それを機にか父の病気も思わしくなくなったために山奥の村へ引っ越すこととなった。山奥の村での暮らしが合っていたのか、父の状態は改善して行ったが、丈夫が自慢の母が風邪を引き、信じられないほど呆気なくこの世を去ってしまった。悲しみに引きずられながらも、それからは父との二人暮らしが続き、そしてそれはずっと続くものだと思っていた。成長したリュカが村を訪れるまで、ビアンカは父との生活に何の疑問も抱かず、それはとても安穏なもので手放すものでもないと感じていた。
「過ぎてしまえばそういうことなのかもね。時間が色々と解決してくれるんだ」
そう言いながらもリュカには解決しようもない時間が過ぎ去っていった記憶が胸の内に広がり、全身が何かに蝕まれるような感覚を得る。父が目の前で殺され、ヘンリーと共に連れ去られたセントベレスの頂上での過酷な奴隷生活。その記憶が脳裏によぎるだけで、リュカは握る拳に力が入り、身体に震えがくるのを止められない。それは恐怖からではない。父の時間を、ヘンリーの時間を奪ってしまった自分自身に、怒りを感じるためだ。自分が無力だったから、父を助けることができなかった。自分が無力だったから、ヘンリーに死ぬような思いをさせてしまった。
リュカの後悔は時が過ぎても解決しない。彼の思いは何かあるごとにその時に戻り、そして幾度となく後悔の念に苛まれる。いくら後悔したところで何も変わらないのは分かっているが、それでも感情が闇に包まれるのを止める手立てを彼は知らない。
「あなたは一人じゃないのよ、リュカ」
ビアンカの優しい声に、リュカは闇に包まれそうになる心を拾われた。静かに彼女を見ると、その目には笑みが浮かび、涙が浮かんでいた。
「だから、そんなに辛い顔をしないで」
リュカの押し黙るような雰囲気に、ビアンカは感じていた。リュカの時間は自分の知らないところで止まっているのかもしれない。彼の過去を全て知りたいわけではない。しかし自分の知らないところで彼が悩み、苦しむ姿を見れば、助けたいと思うのは当然のことだ。普段は至って穏やかな彼だが、それは彼の中にある大きな苦悩を隠した上でのもののように見える。今となっては隠しているというよりも、苦悩から逃げることで普段の平静を保っているのかも知れない。
彼が隠し、逃げる苦悩を無理に引っ張り出すつもりはない。それはただの傲慢で、妻の役目とは言えないだろう。リュカと言う人間を信用するということは、彼の全てを受け入れるということだ。彼が話すことも話さずにいることも信用し、そしてその背中を優しくさすってやること。ビアンカはリュカの隣に立ち、彼の背中を静かにさする。
「……辛い顔に見えた?」
「うん、ちょっとね」
「そっか。そんなつもりじゃなかったんだけどな」
ふっと笑みを見せるリュカだが、やはりそこにはどこか哀しみが漂う。幼い頃のビアンカであれば、その理由を根掘り葉掘り聞いてしまっただろう。しかし大人になり、人を愛することを知った彼女はただ夫の言葉を待つ。言葉がなければそれでいい。静かに彼の背中に手を当てるだけだ。
「もう寝ようか。明日も町を見て回りたいだろ?」
「そうね。でもそんなにゆっくりもしていられないだろうから、明日には町を出ましょう。こうして連れて来てくれただけで満足よ。ありがとう、リュカ」
彼が哀しいものから逃れたいのであれば、それに追随しようとビアンカは明るく言葉を返す。窓の外にはアルカパの町に灯る温かな明かりと、無数の星々が煌く夜空が広がる。その美しい星空を見上げながら、リュカとビアンカは揃ってある既視感に包まれた。
『ね、きれいでしょう』
『うん、きれいだね。星の海みたい』
『星の海、ねぇ。リュカって結構ロマンチストなのね』
今よりもずっと低い視点から見上げる夜空の景色に、幼い二人はただただ素直にその景色に感動した。家でもあるアルカパの宿から見上げる夜空の景色には慣れているはずのビアンカも、旅の途中でも父と幾度となく星いっぱいの夜空を見上げていたリュカも、何故か二人で眺めるここからの夜空の景色はいつもよりも格段に美しく見えた。それは隣で見ている人がリュカでありビアンカだったからなのかも知れない。幼い頃は心許せる友達、そして今は最愛の人同士となった二人は、見上げる夜空の美しさに自然と体を寄せ合った。
目を合わせたまましばらく無言でいた二人だが、リュカがビアンカの頬にキスをすると、まるで子供のような笑顔を見せた。
「良い夢が見られますようにっていうおまじない。君が教えてくれたんだよね」
「そうだったわ。あの時もそんなことをして一緒に寝たわね」
「僕にもお願いできるかな」
「もちろんよ」
そう言ってビアンカは伸び上がってリュカの頬にキスをする。
「これで良い夢が見られそうだよ。ありがとう」
「こちらこそ。今日はどんな夢が見られるかな~」
部屋に置かれる二つのベッドにそれぞれもぐりこみ、上掛けをかけると二人は互いに「おやすみ」と言葉を交わし、しばらくは眠れそうもない目を閉じて先ほど眺めた美しい星空を瞼の裏にじっと見つめていた。



部屋を仄かに照らす月明かりは静かで、部屋の一部を青白く染めていた。一度は眠りに就いたリュカだったが、ふと目を覚まし、月明かりに染まる部屋の景色をしばらく眺めていた。何か夢を見ていたような気もしたが、目覚めた瞬間に忘れてしまい、ただ何か暖かいものに包まれていた感覚だけが身体に残っていた。
旅の最中、町や村の宿に泊まっている時に、夜中にこうして目が覚めるのは珍しいことだった。野宿も多い旅の最中ではゆっくり眠れないため、町や村に入った時だけは本能が身体をゆっくり休めようとするのか、夜中にふと目が覚めることはまずない。また目を閉じても眠れそうもなかったため、リュカは水でも飲もうとベッドの上に体を起こした。
「あら、リュカ」
小さな声に、リュカは隣のベッドを見た。しかしそこにビアンカの姿はなく、リュカは慌てて部屋の中を見渡す。部屋を染める青白い光が揺れ、ビアンカが窓辺に立っているのが分かり、リュカは思わず安堵のため息をつく。
リュカの焦りを知ってか知らずか、ビアンカは微笑む雰囲気を見せつつ、リュカに話しかける。
「ごめんね、起こしちゃった?」
「いや、そんなことはないよ。何だかふと目が覚めちゃってね。このまま眠れそうもないから水でも飲もうかなって思ったんだ」
そう言うと、リュカはベッドから立ち上がり、テーブルに置いてある水差しに手を伸ばしてコップに並々と水を注ぐと一気に飲み干した。まるでたっぷりと寝た後の朝のように、喉が渇いていた。
「ビアンカこそ、どうしたの? あれから寝てないの?」
「そんなことはないわ。一度は寝たんだけどね、目が覚めちゃって。今のリュカとおんなじよ」
「眠れない?」
リュカの言葉にビアンカは考えるように視線を巡らせ、その視線を再び寝静まったアルカパの街並みに向ける。青白い月明かりは町全体を静かに照らし、見守っているように見える。
「ちょっとね、色々昔のことを思い出しちゃって……」
アルカパの町に住んでいた頃、ほんの子供だった自分はまだまだ何も知らずにいた。しかし、だから幸せに包まれていた。恐れや悲しみを知った気になっていたのは読んだ本の影響に過ぎなかった。レヌール城の冒険でお化けたちに連れ去られ、墓石の下に閉じ込められた時はさすがに肝をつぶしたが、それでもどこか『絶対に助かる』という思いがあった。それだけ自分に降りかかる不幸と言うものを信じていなかった。
それと言うのも、自分を心から愛してくれた両親がいたからだった。お転婆で、見ているだけでハラハラさせられるような娘だっただろうに、両親はそんな一人娘に惜しみない愛を注いでくれた。父に見守られていたこと、母に叱られていたことに、ビアンカは頼り切り、甘えていた。そんな両親がいれば自分には絶対に不幸は訪れないのだと、確信していた。
しかし元気が取り柄だった母があっさりとこの世を去り、ビアンカはこの世に『絶対』は存在しないことをようやく思い知らされた。失ってみなければ気づかないことに、ビアンカは本当の恐れと悲しみを知った。
「ビアンカ……悲しみは半分にするんだって誓ったよね、僕たち」
まるで心を読むかのようなリュカの言葉に、ビアンカは窓の外に向けていた目を静かにリュカに移した。彼の目はいつものように穏やかで、少し不安に揺れている。
「ううん、別に悲しいわけじゃないのよ。昔は昔、今は今だもの」
ビアンカは本心をリュカに伝える。決して今が悲しいわけではない。母を失った悲しみは常に自分と共に存在しているが、それは多くの人がいずれは経験することなのだ。ただ母を失う心の準備ができていなかっただけ、悲しみが深かった。
それよりもビアンカはリュカのそんな優しさの方が痛ましかった。リュカこそ、何か底知れぬ悲しみを抱えているはずなのだ。それは恐らく、父パパスを失ったことと関係のあることなのだろう。リュカが話さない限り、ビアンカには想像することしかできない。
「あなたこそ……」
「え?」
「リュカこそ、私に悲しみを分けて。一人で抱え込まないで。私たち、夫婦なんだもの。お互いに支え合うべきよ。だから私にもリュカを支えさせて」
無音に近い夜中の空気に、ビアンカの小さな声が響く。互いの顔がはっきり見えないほど暗い中、ビアンカは素直に思いを伝えることができた。互いの表情がはっきりと見えない分、心は素直になれるのかも知れない。
「僕の過去を話したって、何も楽しいことはないよ」
ビアンカの知りたがっていることが、父と共にサンタローズを出てからの話だということはリュカにも分かった。彼女には父が旅の途中で死んでしまったとしか話していない。それだけ話したところで、彼女にも父パパスがラインハットに殺されたことは想像がついているだろう。リュカは彼女がそう考えているだけで十分だと思っている。
父が魔物たちに目の前で焼き殺され、その後ヘンリーと共にセントベレスの山頂で奴隷として生きてきたことなど、彼女に話したくはなかった。話して同情されるならまだしも、奴隷の人生を送ってきたことを知ったら彼女はどんな顔をするのか、考えるだけで怖かった。彼女の思いも寄らない世界の話だろう。もしかしたら汚らわしいものを見るような目を向けてくるかも知れない。話した瞬間に、彼女との間に完全なる壁ができるに違いないと、リュカはいつもの表情を崩さない。ビアンカとの時間は楽しいものにしたいのだ。
「楽しいばかりが夫婦じゃないわ。悲しいことも苦しいことも一緒に乗り越えて、段々夫婦になるんじゃないかな」
ビアンカはそう言いながら、過去の父と母を思い出す。この宿屋を切り盛りするのに、父と母の間でも色々と問題があったに違いない。二人が夜な夜な深刻な喧嘩をしている場面をビアンカはこっそりと目にしたこともある。子供の知らないところで、夫婦と言うのはきっと色々と問題を抱え、そしてどうにか解決していくのだ。
「無理にとは言わないわ。でも……私はリュカのことをちゃんと知りたいし、ちゃんと支えたいの。それだけは分かってね」
そう言ってビアンカはリュカに微笑みかける。これで彼が話してくれなければ、それはそれでいい。ただビアンカは自分の本心を彼に知って欲しかった。自分はこれだけリュカを想っているのだということを、寄り添いたいのだということを知っていて欲しかった。
月に雲がかかると、部屋の中を仄かに照らしていた月明かりも消え、リュカとビアンカは互いの表情を全く窺い知ることができなくなった。ただ互いの影がぼんやりと目に映るだけだ。窓辺に見えていたビアンカの姿が静かに隣のベッドに戻るのを見たリュカは、自分の心が傷つけられるような感覚を受けた。そして唐突に気が付く。
彼女がどれだけ自分のことを考えていてくれているのかを、リュカは黙ってベッドに戻ったビアンカに感じた。闇に包まれた部屋の空気を通じて、リュカはビアンカの優しく深い気持ちを感じ、きっと彼女は何を話しても受け入れてくれるだけの心を持っているのだと気づかされた。自分が考えていたビアンカの愛情は、まだまだ浅いものだったと分かった気がした。
ベッドに腰かけ、しばらく床の暗闇を見つめる。しばらく目を向けていると、床の板目が見えてくるほどに目が慣れてくる。暗闇に目を慣らすのも、奴隷時代に嫌と言うほど経験した。こうした些細なことでも、奴隷だった時の経験と結びついてくる。その時の経験が、過去が自分とは切っても切り離せない事実だったのだと思い知らされる。そしてそれを彼女に隠し続けることは、恐らく自分の想像以上に彼女を傷つけることになるのかも知れない。
「光の教団って、聞いたことがあるよね?」
リュカはごく小さな声で話す。耳鳴りがしそうなほどに静まり返った部屋には、その声で十分だった。
「聞いたことあるわ」
ビアンカは一言返すのがやっとだった。光の教団と言う言葉をリュカが発したことで、彼女は訳の分からない悪寒を感じた。
「僕は……僕たちはその教団の、奴隷だったんだ」
言った瞬間、リュカはずっと胸の中に溜まっていた澱が一気に流れ出していくのを感じた。彼女にだけは教えたくないと思っていた過去は、実は一番彼女に知っていてもらいたかったことだったのだと気づいた。
「僕たちって……」
「僕と、ヘンリーとマリアも」
リュカの言葉に、ビアンカは彼ら三人の間に感じる見えない絆の理由にようやく触れることができた。ラインハットの王子であるヘンリーと無二の親友ほどの間柄になったのは何故か、どうして自分はマリアにまで仄かな嫉妬を抱くのか、その全てに説明がつく。
リュカはビアンカを怖がらせないよう、傷つけないよう、ゆっくりと静かに、考えながら話した。ヘンリーが連れ去られたこと、父と共にヘンリーを助けに行ったこと、父が目の前で魔物に殺されたこと、そのまま魔物に連れ去られ奴隷にさせられたこと。それから十余年、奴隷として生きていたこと。自分たちはどうにか生き延び、逃げ出すことができたが、今も多くの人々があのセントベレス山の頂上で死ぬような労働を課せられていることなど、話し始めてしまえばそれは澱みなく言葉として出てきた。
「……どうやって逃げ出してきたの?」
「マリアのお兄さんが助けてくれたんだ。ヨシュアさんが命がけで僕らを逃がしてくれた」
そう言ったきり、リュカは声を詰まらせた。自分がいまここにあるのは、様々な人たちの助けがあってのことなのだ。そしてその助けは、おおよそ命がけのものだ。自らの命を賭しても誰かを助けたい。その思いの中で、リュカは今生きている。
町や村で日々を過ごしてきたビアンカにとって、リュカの過去は壮絶極まりないものだ。自分の知らない間に、リュカは色々な人々の命を背負ってきたようなものだ。普段は穏やかな彼の中に感じる底知れない念のようなものは、彼の人生の中で育たざるを得ないものだった。
「リュカ、ありがとう、話してくれて」
ベッドに腰かけながら礼を言うビアンカに、リュカは背を向けて座ったまま返事もせずに俯いていた。月明かりもない部屋は暗く、ビアンカにリュカの姿ははっきりとは見えない。しかし彼が今、一人ぼっちでいるような気がして、たまらなく悲しくなる。
「ねぇ、リュカ……。そっちに行ってもいい?」
晴れて夫婦になったというのに、一人でいる理由は何もない。ビアンカはおぼろげに見えるリュカの背中に声をかけた。
「ビアンカ……」
「ダメ?」
「もういい大人なのに、一人で眠れないの? 実はまだまだ子供だったんだね、君は」
リュカはビアンカに背を向けて座りながら、そう言って笑った。強がりの彼女には、そう言えば恐らく自分のところには来ないだろうと、リュカは思っていた。過去の話をしてしまえば澱みなく言葉は出てきたが、これ以上彼女に近づいて欲しくはなかった。今は一人でいる方が良いと思った。
「いじわる」
拗ねたような彼女の声が後ろに聞こえ、リュカは彼女が自分の本心に気づいてくれたのだと実感した。そして安心すると共に、再び心が闇の中に閉ざされていくのを感じる。自分でも計り知れないほどの暗い思いはまだ、一人で抱え込んでいるのが良いと思った。リュカは静かにベッドに潜り込み、彼女に背を向けたまま体を丸める。
「でも、行っちゃおうっと」
「え?」
トンッとベッドから下りる軽い足音が聞こえたかと思うと、すたすたと容赦なく近づいてくる彼女の気配をはっきりと感じる。そして上掛けがめくられたかと思うと、何の迷いもなく彼女は隣に体を滑り込ませてきた。予想していなかった体温を背中に感じ、リュカはこのベッドは大人二人で寝るには狭過ぎるだろうにと、今の自分の感情とは何の関係もないことを考えたりした。
「子供のままでいるのはどっちよ。あなたこそいい加減大人になりなさい」
背中に彼女の言葉が響く。彼女の方を向く気にはなれず、リュカはそのまま背を丸めて押し黙っている。
「一人で抱え込むなんてただのワガママよ。私たち、夫婦になったのよ。辛いことがあれば相手に甘えていいんだから」
ビアンカの思いに、リュカは彼女と結婚した現実を感じる。今は、結婚する前の姉と弟のようでありながらも、全くの他人だった間柄ではないのだ。サラボナの教会で式を挙げ、誓いの言葉を述べ、夫婦になった。結婚式を挙げれば自然と夫婦になるのだと心のどこかで思っていたが、実際はそんな簡単なものではない。互いに夫婦になろうと努力することが必要なのだと、リュカは一人になろうとしていた自分の心はただの我儘なのだと知らされた。
リュカは静かにビアンカの方に体を向き直る。すると余りにも近い彼女との距離に面食らった。暗くて互いの表情は見えない。しかし嫌でも互いの呼吸や、鼓動までも感じるほどの近さだ。
「よく今まで頑張ったね、リュカ。エライエライ」
そう言って頭を撫でてくるビアンカに、リュカは思わずむすっとする。
「何だよ、結局僕は子供扱いなの?」
「そんなことないわよ、ちゃんと褒めてるんじゃない」
「褒め方がまるで子供に対する感じだよ」
「そうかしら」
「そうだよ」
そう言葉を交わすと、二人は同時に笑った。笑うことで、とてつもなく近い距離にいる緊張感から解放された感じがした。それもこれも、ビアンカが導いてくれていることに、リュカは気づかずに甘えている。
「愛してるわ、リュカ」
唐突に言われた言葉に、リュカは全身に電気が走ったような感じがした。まさか自分に言われることがあるとは思いも寄らない言葉だった。その言葉は、相手の全てを受け入れ、包み込むほどの意味があるものだと感じた。生まれて初めての感覚に、リュカは自分の心が戸惑うのが分かった。
「一人になろうとしないで。私に甘えていいんだから。ね」
ビアンカの声が涙に濡れていることに気づいた。彼女の不安に触れた気がした。一緒にいたいのに、一人にさせられるような不安。その感覚はリュカも知っている。
彼女を不安にさせてはいけない。彼女を幸せにすると誓ったのだ。ビアンカにはいつも笑顔でいてほしい。自分が泣かせるようなことがあってはならない。
リュカはビアンカを強く抱き寄せた。一瞬身を固くした彼女だが、すぐにその手をリュカの背中に回す。
「ビアンカ、愛してるよ」
リュカがそう言うと、ビアンカはリュカの胸に顔を埋めながら小さく泣き出した。少ししてから「嬉しい」と呟く彼女に、リュカはこれ以上ない幸せを感じる。自分の感情は間違っていないのだと自信を得ることができた。彼女は全てを受け入れ、自分も彼女の全てを受け入れることができる。それが愛なのだと、リュカはビアンカと長い口づけを交わしながら全身で感じていた。



窓から差し込む朝日がベッドの上に届き、その眩しさにリュカは目を閉じたまま眉をしかめる。少し開いた窓から、元気な子供の声が聞こえた。朝とは言え既に陽は高く昇り、アルカパの町全体に行き届いている。リュカは隣にいるはずの妻の温かさを感じず、はっとしたように目を開けて辺りを見回した。
「おはよう、リュカ。今日も良い天気よ」
窓から流れ込んでくるそよ風に乗って、ビアンカの声が聞こえた。リュカが視線を向けると、彼女はすぐにでも外に出られるような準備を整えていた。いつもの元気なビアンカに違いないのだが、リュカの目には今までと違うビアンカがそこに立っているように見えた。
「相変わらず早起きだね」
「リュカが遅いのよ。まあ、宿に泊まる時くらいしかゆっくり寝られないものね」
口調はいつも通りなのだが、どこかよそよそしさを感じる。しかしそれと同時に、これまでにない親密さも感じるのは自分だけではないと、リュカは感じていた。
いつの間にか枕元にたたまれていた服を身に着け、リュカは大欠伸をしながらベッドを離れた。テーブルには既に水の注がれたグラスが置かれており、リュカはその水を一口飲んだ。変に渇いていた喉がちょうどよい加減に潤う。
窓辺に立つビアンカの隣に並び、リュカも窓の外の景色を眺める。アルカパの町の一日はとっくに始まっており、町の人々は活動的に動き始めていた。先ほど聞こえた子供たちの声は既に遠くなり、それは恐らく町の広場に向かっているようだとリュカは過去を回想するように遠くを眺める。
「子供って元気よね」
ビアンカも同じ景色を見ているのか、町の入口近くにある広場に目を向けているようだった。隣に立って並んでいるだけで、思いを共有しているのが分かり、リュカは窓から流れる風に幸せを感じる。
「私たちもあれくらい元気だったのかな」
「ビアンカはあんなもんじゃなかったと思うよ。多分、町の誰よりも元気な子供だったんじゃないかな」
「それってちょっとバカにしてない?」
「してないよ。子供は元気なのが一番だろ」
「まあね。……でも、父さんも母さんも冷や冷やしながら見てたんだろうな、私のこと」
「そうかも。何せ平気で高い木に登るし、夜中にこっそり町を抜け出してお化けをやっつけて戻ってくるんだからね」
「それはリュカもおんなじじゃない」
「僕は誘われてついていっただけだよ。同じにしないで欲しいな」
リュカがそう言うと、ビアンカは「そうだったかしら」と腑に落ちないような顔をして首を傾げた。彼女の記憶の中では、リュカも喜んでレヌール城への冒険に行ったことになっているらしい。記憶と言うのは時折、自分の都合の良いように書き換えられてしまう。
先ほど聞こえていた子供たちの声は既に遠く、広場に消えてしまったようだ。今頃は町の広場で元気に走り回って遊んでいることだろう。
「私たちにもそのうち……」
ビアンカはそこまで言うと、口を閉ざした。今なら彼女の思いが素直に伝わってきて、リュカはそれを受け入れることができる。
「子供を授かれたらいいね」
彼女が途中で切った言葉を繋げ、リュカは自分の思いに素直になることができた。母親を探す旅はこれからも続き、それがいつ終わるかなど誰にも分からない。父の遺志を継ぐことに迷いはなく、そのこと自体に嫌気が差すようなことは微塵もない。それと同時に、リュカにはビアンカと言う最愛の妻がいる。彼女を喜ばせるようなことなら何でもしたいと思うが、悲しませることはしたくない。
彼女が子供を欲しいと感じているのなら、リュカはその思いに沿いたいと思う。愛し合う喜びを知ったリュカは、もしその結果子供が授かるのであれば、それはとても自然なことなのだと思った。父と母の間に自分が生まれ、そして自分と彼女の間にもし子が生まれれば、それは亡き父に近づけるのではないかと言う思いもある。
「血の繋がらない私を育ててくれた父さんと母さんに、恩返ししたいって思ってた」
ビアンカの言葉に、リュカは目を見開いた。
「ビアンカ……それは……」
「知ってたわよ。私が父さんと母さんの本当の子供じゃないって」
彼女の声は明るかった。父と母と、血の繋がりがないことを悲しんでいる様子はまるでない。
「嫌でも気づくわよ。だって散々人に言われたもの、どっちにも似てないって」
彼女と父と母の間には、血の繋がり以上の深い絆がある。そのことを彼女自身がしっかりと自覚している。だから彼女たちの間には実の家族に負けないほどの温かさがあるのだ。
「もちろん、子供が欲しいのは私自身、そうよ。だけど、それだけじゃないって思うの。子供を授かることってきっと、私たちだけのことじゃない」
「……うん、僕もそう思う。きっと簡単な話じゃないんだ」
窓からの日差しを浴びながら、二人は互いに晴れ晴れとした心で話をした。今まで靄にかかってはっきりとしなかった心が明らかになり、今までひた隠しにしようとしていた心を表すことができた。包み隠さず、本気で愛し合えたことで、リュカもビアンカも今まで見えていなかったものが見え、それを互いに伝えることができた。
この先何があろうとも、リュカもビアンカもそれを受け入れ、互いに認め合えるだろうと心に感じていた。ビアンカがそっと体を寄せてくると、リュカは彼女の肩を優しく包んだ。それだけで十分な会話ができることに、二人は揃って幸せを感じている。

Comment

  1. ケアル より:

    ビビ様!
    ううん…まさか、ゲーム本編での、この笑顔になれる可愛らしいラブシーンに、リュカのドレイ告白を入れてくるとは…想定外でありました(驚)
    ビアンカとリュカ、二人とも、夫婦としての愛情の再確認と、少しずれていた、お互いを想う気持ちの修正ができ…。
    ううん…今回は、なかなか良いコメントが浮かびませんね(笑み)
    とにかく、ビビ様!
    さすがの描写でありました!
    今回の心理描写、難しくはなかったですか?
    見事すぎて、お腹がいっぱいになりました(笑顔)

    • bibi より:

      ケアル 様

      早速のコメントをどうもありがとうございます。
      彼の暗い過去はここで出そうと、前から決めていました。
      ゲームではケアル様の仰る通り、可愛らしい感じなんですけどね。
      こういうところで落とすのが私です、すみません(笑
      ポートセルミではもうちょっと明るくイチャイチャしてくれればと思います。
      できるかな~。
      夫婦としてはまだまだこれからなので、徐々にその関係を築いていければいいなと思います。
      上手く書ければいいんですが……^^;

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