グランバニアの精鋭
新年祭の四日目の目玉は、城下町噴水広場近くで行われる歌劇と演劇だった。通常は人々の憩いの場として開かれている噴水広場に大きなテントを建て、その中に舞台を作った。この日のために練習を積み重ね、衣装にも小物にも力を入れて準備をしてきた役者や裏方たちが真剣かつ楽しそうに劇を演じ、観客たちは劇の世界に浸り拍手を贈ったり歓声を上げたり、涙する場面もあった。
グランバニアの国民性は穏やかなものだが、人々の心の中には常に強い国を求める心がある。演劇の内容も強い国を率いる王が、荒れた周辺諸国の安定を求めて諍いを収めていくという内容が主だったものだった。国王も然りだが、そこには勇者も登場し、世界を平和に導くという内容が追加されていることに、グランバニアという国が映されているのだとリュカの隣に立つサンチョが一言説明してくれた。
「毎年の演目なんですけどね、皆さん楽しみにしてるんですよ」
この演目はリュカが失踪していた間にも行われていたという。それも武闘大会が始まった五年前から同時に始まったらしい。不穏な雰囲気を拭い去りたいがために、やはりドリスが提案したものだという。ドリスは演劇の中での戦いの場面を更に増やしたかったらしいが、ドリスが望むような戦いの場面を演じられる役者もおらず、いたとしても舞台ごと破壊してしまいかねないため、道具を使っての演出で戦いの場面を大きく見せることにした。その結果、ドリスの理解を得られたようだった。
他にも女性が好むような恋愛劇だったり、万人が声を上げて笑うような喜劇だったりと、グランバニアの国民の心が豊かになるような演劇や歌劇が数種類に渡って演じられた。ただその中で、悲劇だけは演目から外されていた。特に国が破滅に向かうような悲劇は以ての外だった。国王と王妃が立て続けに失踪してしまったグランバニアの中で悲劇を演じれば、それは即ち現実を見せてしまうことになる。あくまでも演劇の目的は人々に喜びと幸せの夢を見せること。鑑賞後に胸の中が温かくなったり満たされたりする内容を、役者自身もオジロンやドリスも望んでいた。
リュカは本格的な演劇というものを初めて目にしたが、演じる役者たちの熱演にすっかり演劇の世界に入り込むことができる感覚は純粋に面白いものだと感じた。舞台上で演じられる戦いの場面は、実際にはあれほど生易しいものではないなどと思いつつも、人々の細やかな心情の表し方や、恋愛劇においては切ない片恋をする青年に自身の過去を覗き見たりと密かに楽しむこともあった。最後の演劇である喜劇では、明日行われる予定の武闘大会への緊張感などすっかり忘れて、声を出して笑って楽しむことができた。
「お父さんって、そんな風に笑ったりするんだね」
真面目な顔をしてそんなことを言うティミーに、リュカは果たして自分は子供たちの前で笑っていないのだろうかと今までを振り返る。子供に笑いかけることはあるが、子供たちの前で声を出して笑うようなことはしていなかったのかも知れない。旅に出ている最中は子供たちや仲間たちの安全が第一で、さほど笑っていられる余裕がない。グランバニアの城にいる時も国王としての立場があり、ティミーとポピーも王子王女としての立場があり、それら現実の中で生きている意識があるために、ただただ可笑しくて声を上げて笑うような場面に出くわさないのだろう。そのような意味でも、この演劇という特別な世界に浸る時間は貴重なものなのかも知れないと思った。非現実の中に一時身を置くことで、心身ともに休まるという感覚をリュカはここで初めて得ることができた。
そして新年祭五日目を迎え、リュカは今城外に整えられている武闘会場の前に立っている。今日も幸いにしてグランバニアの上空には白い雲がぽつりぽつりと浮かぶだけで、概ね晴れ渡っている。そして人々の熱狂が既に溢れている。
「お父さん、その格好、とてもステキね」
ポピーが見上げるリュカの服装は、これから行われる武闘大会に備えた武闘着だ。急ぎで城のお針子が誂えた武闘着は、普段のリュカの旅装と似た色合いのものだ。生成のシャツに同色のズボン、ベルトではなく濃紫色の帯を締め、膝下丈の柔らかいブーツは焦げ茶色で光沢感のない柔らかな素材だった。動きやすい武闘着をと準備していたため、初めマントは用意されていなかった。しかし長い旅の間で慣れ親しんだマントがない状態はあまりにも心細く、リュカが心許ない様子で両腕を抱えるために急遽、濃紫色のマントが用意されていた。
「武闘家がマントを羽織るのは不利になると思うけどねぇ」
「でもやっぱりこれがないと落ち着かなくってさ」
ドリスが指先でつまみ上げるようにリュカのマントの端を持つと、リュカも反対側の端を手でひらりと持ち上げてその感触に安心する。自分でも気づかないうちに、マントが身体を包む感触に安心感を得ていたらしい。
「でもいつものよりも短いよね」
「でもいつものもボロボロに擦り切れて、これくらい短くなっているんじゃないかしら」
「ボロボロ……そうだよね。僕の着ているものって何もかもが王様らしくないよなぁ」
「いっつも旅に出てるんだから、それくらいでいいんじゃないの? あたしは憧れるけどね、そういうの」
ティミーとポピーの言う通り、今リュカが身に着けているマントはちょうど腰の下ほどまでしかない短いものだ。やはり素手で接近して戦うことを考慮して動きやすさを重視し、なるべく身にまとわりつかない丈にしているようだった。
武闘着姿のリュカを見る国民の視線も熱い。新年祭の中では常に正装であちこち歩き回っていたリュカだが、闘いを控えた武闘家の装いに身を包むリュカに、周囲の視線、特に激しい戦いを求める男たちの視線がいつになく燃えていた。
「ところでさ、昨日も途中で一人でどっかに行ってたけど、また誰かに手合わせしてもらってたんでしょ?」
ドリスに問われ、リュカは素直に白状する。昨日演劇を鑑賞し終わった後、リュカは再び数人の衛兵を伴いつつ城内に戻り、魔物たちの過ごす大広間を訪れた。その時大広間にいたのはスラりんにスラぼう、メッキー、マッドだった。魔物たちの顔ぶれを見て、一緒に来ていた衛兵たちは皆スラりんやスラぼうを相手に訓練をするのかと思っていたようだが、リュカは迷わずマッドを組手の相手に選んだ。リュカよりも一回りも二回りも大きな体をしたマッドだが、組手の相手には良いだろうと判断した。しかしマッドの手足には鋭い竜の爪があり、大きな口には鋭い牙が何本も生えている。全身は固い竜の鱗で覆われ、巨大な尻尾を振り払われれば一撃で壁まで吹き飛ばされてしまう可能性もあった。リュカは前日のようにすぐに裸足になり、正装用の重いマントを外して上着も脱いで身軽になったが、衛兵たちの必死の忠告で自分の身体に守護呪文スカラをかけておくことだけは守った。
マッドはいかにも楽し気にリュカに飛びかかってきた。飛ぶことは禁止だと初めに言っておいたが、マッドは容赦なくその禁止事項を破った。初めてリュカと手合わせという名の戦いができることに興奮し、マッドはすぐに宙に飛び上がってしまった。思わず大広間の天井に頭を打ち付け、城の天井からポロポロと石の破片が落ちてくることもあった。マッドの激しい動きに、リュカは色々な意味で冷や汗をかいたが、マッドが全身から楽しい気持ちを出してくるため、リュカも思わず手合わせに楽しさを感じていた。
マッドの動きはそれほど速いものではない。動きを見極め、そのうちに攻撃を上手く躱せるようになった。マッドが動こうとする直前の動きに癖を見つけ、リュカは巧みにマッドの手も足も躱して行った。時折、想定していない動きをして直撃を食らえば、一撃で床に倒されることもあったが、メッキーの回復呪文ですぐに立ち直った。
マッドの動きに慣れてきた頃、リュカはスラりんとスラぼうにも、まるで一緒に遊ぼうとでも言うように「おいで」と手招きした。マッドとスラりん、スラぼうを同時に相手にしつつ、リュカは自分の体の動きに鋭敏さが出てくるのを感じた。今まで見えない動きが見えるようになってくるのを感じた。目にせずとも、横から、後ろから、誰かが迫ってくる気配を察知できるようになってきた。それは恐らく、旅の途中の戦いでは、命の危険と常に向き合っているために、無意識に行っているかも知れないことだ。しかし今回は城外に設置された武闘会場で、人間を相手に戦うために、無意識にその領域にまで辿りつくことは不可能だっただろう。それをマッドやスラりん、スラぼうとの訓練の中で可能にすることができた。
最終的にはメッキーも加わり、リュカは魔物の仲間四体を相手にした訓練を行っていた。その光景を見ていた衛兵たちは皆、感嘆の溜息をついていた。いくらスカラの守護呪文があるとは言え、四体の魔物を相手に素手で立ち向かうなど、普通の人間からすれば考えられない状況だ。
しかし見張りから戻ってきたプックルがその光景を目にすると、「がうーっ!」と雄たけびを上げながらリュカに飛びかかり、途端に戦いのバランスが崩れた。ちょうどスカラの呪文の効力が切れ、プックルに飛びかかられたリュカの腕から血が噴き出すと、衛兵たちの間から恐怖の悲鳴が上がり、そこで訓練は強制終了となった。プックルは不満たらたらの顔つきをしていたが、時刻も夕方になり大広間に差し込んでいた日差しもすっかり影となったため、リュカはメッキーの回復呪文を受けた後すぐに衛兵たちに連れられ、王室へと引き上げさせられたのだった。
「それからプックルの機嫌が悪くて仕方がないんだよ」
「後でちゃんと相手してやんなよ。プックルはリュカと戦いたいんでしょ」
「スカラを何回かけておいたらいいかな……プックルのやつ、手加減なんてしなさそうだし……」
ドリスとリュカが話すプックルは今も城の警備に出ている。今は城の裏手に回り、北の塔を見据えた警備に当たっているらしい。しかしちょうど武闘大会が始まる昼頃には警備の任から外れ、リュカたちが戦う様子を見に来る予定だ。大会の時間にはゴレムスとキングス、ベホズンも警備の任には就かずに、人々が大会の様子を見物しやすいようにとその巨大な体の上に人々を乗せる特等席としての役割を果たすという。
グランバニアの森を照らす太陽が中天に差しかかる頃、高らかなラッパの音が鳴り響いた。武闘大会の始まりに、闘技場を囲む人々から地鳴りのような歓声が上がる。人々の期待の中に自分が混ざっていることに、リュカは胃が持ち上がるような好ましくない緊張感を覚える。
「頑張ってね、お父さん!」
ティミーは相変わらずの正装姿で、両拳を握りしめて父に応援の言葉を向ける。本心ではティミーもこの武闘大会に出場したいと思っているが、まだ八歳の彼に出場権はない。第一、武器も呪文もない状態で、大の大人と渡り合えるほどの力がまだティミーにはない。出場する権利は十三歳からと定められており、今回予選で出場した中ではピピンが最年少だった。そして上位八名で行われる本日の大会に、子供は一人もいない。八名の中で最も最年少となるのが、リュカだった。
「お父さん、気をつけてね」
「リュカ、絶対に勝ちあがって来なよ。あたしはあんたとまた戦ってみたいんだからさ」
ポピーは心配そうな面持ちでリュカを見上げ、ドリスはいかにも楽し気にリュカの肩を手で強く叩く。ドリスの言う通り、リュカは以前ドリスと城下町で手合わせをしたことがある。あの時はまだドリスも子供の域を出ない娘で、旅慣れ戦い慣れたリュカが彼女を圧倒した。しかしあれからドリスも成長し、強さに憧れ夢を見る彼女は日々の鍛錬を怠らなかった。毎年行われるこの大会で、ドリスが負けたのは一度しかないらしい。その相手がピピンの父であるパピン兵士長だった。
国王であるリュカだが、この大会での特別待遇などは一切なしと自ら申し出ていた。少しの区別があっても大会自体がつまらなくなると、対戦相手も例年通りくじ引きで行われる。大会の審判を務めるのは六人いる兵士長の内の一人である男性だ。口髭を蓄え、短く切り揃えた茶色の髪に中天からの陽光が照りつける。兵士長らは軒並み、リュカよりも上背があり、体格に恵まれている。彼が手にする八本の棒を前に、八人の出場者らが並んでそれぞれ好きに細長い棒を手に取り、一斉に引き抜く。リュカが手にした棒の先を見ると、そこには数字の六が書かれていた。
「六、かぁ」
リュカの小さな呟きに反応するように、一人の男が視線を上げる。その気配にリュカも視線を上げて男を見る。目が合った男はグランバニア城内で武器屋を営むひと際体格の良い中年の男性だ。イーサンの名を持つ彼が大きな体を折り曲げるようにして頭を下げるのを見て、リュカも慌てて頭を下げた。戦いの会場で行われたくじ引きのその様子を見た観客からは、それだけで歓声が上がった。
くじ引きが終われば、大会出場者らは定められた場所で自分の順番を待つことになる。リュカは自分を見て何か声を上げているティミーや、やはり心配そうに自分を見つめるポピーのところへ戻りたいと思ったが、それこそ特別待遇を許さないと自ら申し出ている手前二人の傍に向かうことは許されなかった。
大会が始まる直前に、警備の時間を終えたプックルとピエールが会場近くに来たのが見えた。彼らは会場の周りにひしめき合う人々の間をすり抜けるようにして、最前列で衛兵たちに囲まれているドリスと王子王女の傍らへと進んできた。ティミーがプックルの背に乗り、プックルが一声雄たけびのような凄まじい声を上げると、周りの観客らの気勢が更に高ぶった。
ラッパが吹き鳴らされ、大会の開始が告げられた。一回戦目から兵士長パピンが姿を現し、相手にはまだ兵士としては年若い青年が会場中央に進み出た。その足取りは重いが、グランバニア随一の強さを誇ると言われるパピンと手合わせできる喜びをも感じているようだった。年若いと言えど、八年の時を止めていたリュカよりは上の年齢だ。一般の兵士の中では上司からの信頼も厚いと思われる青年は、試合開始の合図がドラムで慣らされるとすぐさま攻撃にかかった。
リュカは二人の試合を食い入るように見つめた。普段は二人とも国の兵士として剣や槍を手にして戦う。しかし普段の訓練の中でも、体術の訓練は繰り返し行われている。身のこなしが思ったよりも柔らかい。そして予想よりも慎重だった。初めにかかって行った青年兵士は、パピンに軽く躱された一撃に固執せずにすぐに身を引き、間合いを取り直す。しかしまたすぐにかかって行くのは、青年の性急さではなく敢えての戦い方なのだろうとリュカは感じた。若いだけに繰り出す手も足も速い。しかしパピンはその一つ一つを、まるで訓練の一端のごとく両手両足で受け止め、鮮やかに躱していく。大分経ってから、リュカはパピンが一度も青年に攻撃を仕掛けていないことに気づいた。やはり訓練の延長のようなものと、パピンは捉えているのかも知れない。
青年兵士が身軽に宙に翻り、後ろ廻し蹴りを繰り出した。その瞬間、リュカは決着がついたと感じた。無暗に宙に飛び上がってはいけない。パピンもその瞬間を捉えて、自身に向けられた足を避けつつ掴むと、青年兵士を地面に引き倒した。そして今までは一度も見せなかったような素早さで青年をうつ伏せにし、腕を後ろに捩じ上げる。あと少し強く腕を傾ければ関節が外れてしまうというところで、青年はあっさりと負けを認めた。
観客から歓声が上がる。グランバニア兵士長パピンはこの武闘大会での目玉となる人物だ。その強さに憧れて兵士を目指す若者も少なくない。彼の息子であるピピンも当然のように父の強さに憧れ、二年後に兵士となる自分を夢見ているのだ。リュカも今の彼の戦いぶりを見て、改めて本気でこの大会に臨まなければならないと思わずこめかみから冷や汗を垂らしていた。
歓声が止まぬうちに、二回戦の出場者が会場に進み出る。リュカは向かい合う二人の出場者に思わず小さく唸り声を上げる。一人はグランバニアの兵士長を務めるパピンと同じ立場にいる男だ。顔中に厳格さを露にし、髭に隠れる口元は常にへの字に曲がっている。兵士長がこの戦いの場に出るのは至って普通のことだが、リュカが思わず唸るのはその対戦相手だ。
杖でも必要としそうな小柄な老人が、自分の倍はあろうかと言う相手の兵士長の前にひょこひょこと進み出た。グランバニア城の二階の酒場に頻繁に姿を現すという老人は、普段城の魔物たちの世話をしている。通称でモンスター爺さんと呼ばれる老人は、まるで好々爺のような笑みを浮かべながら、緑色の普段着で戦いに臨むようだった。
「あの人が戦ったところなんて、見たことがないけど……」
リュカ自身が外から魔物を連れ帰るため、当然モンスター爺さんとは会話をしたことがある。新しい魔物を紹介するたびに、老人は嬉しそうに顔を歪め、興味深そうに新しく仲間になった魔物の観察に余念がない。城で留守をさせている魔物の面倒は彼が一手に引き受けているため、もしかしたらリュカよりも魔物たちの癖などを見極めているかも知れないと思うこともある。しかしあくまでも、老人は魔物たちの世話をしているだけで、まさか魔物たちと戦うことなど万に一つもないはずだ。
「聞いたことがなかっただけで、もしかしてみんなと戦ったことがあるのかな」
二回戦開始のドラムの音が鳴っても、対戦する二人は微動だにせずに互いを見合う。兵士長は武闘の構えを取るが、モンスター爺さんはただ両手を脇にだらりと垂らして真っすぐに立っているだけだ。しんと静まり返っている雰囲気に、リュカは観客である国民たちの方がこのモンスター爺さんの実力を知っているのだと察する。見れば対戦相手である兵士長の厳つい顔からじわりと汗が滲み出ている。
兵士長が飛びかかる。老人が風のように避ける。次々と繰り出す兵士長の攻撃を、老人はふらりふらりと、一体何に身体を支えられているのか分からないような避け方を繰り返す。リュカは老人は老人の姿を見せているだけで、本当は幻覚の一つなのではないかと思った。それほど彼の動きは人間離れしており、その動きは魔物たちの動きを細かに観察して会得したものだろうと感じられた。そのうち背中から翼でも生やして、空も飛べるようになるのではと思えるほど、老人の動きは人間離れしていた。
間合いを取って、仕切り直したところで、兵士長の緊張は解けない。息が上がるのは攻撃を繰り返す兵士長ばかりで、老人は至って涼しい顔をしているのだ。実力差は明らかに思えるが、老人が攻撃を仕掛けないのがリュカは気になった。
しばらくの間、兵士長の猛攻が続き、老人はそれを最後までふらりふらりと躱した。一向に攻撃に転じない老人を見ていても、観客たちは無駄に騒がず、その鮮やかな回避ぶりに皆舌を巻いていた。兵士長の体力がただ削られ、しかし彼も攻撃を止めたところで決着がつかないだろうと攻撃の手を緩めない。
兵士長が足払いを仕掛けたところで、老人が跳びはねて躱す。老人の手首をつかんだ兵士長がその身体を振り回して投げようとしたところで、老人がその腕に逆にしがみつく。地に足を着け踏ん張り、巧みにその小さな身体で兵士長の大きな身体を担ぐように背負った。弧を描いて兵士長の大きな体が舞ったと思ったら、大きな音を立てて地面に身体が打ち付けられた。
土ぼこりが上がる中、老人が兵士長の身体にのしかかるようにして押さえつけていた。体格差が圧倒的で、一体老人の小さな身体でどうやって押さえつけているのかは分からないが、兵士長は顔を真っ赤にして微塵も身体を動かせない状態に陥っていた。試合終了の合図のドラムが鳴らされ、再び会場は観客たちの歓声に包まれた。
「……僕が勝ち上がったとしても、いずれ対戦するのがパピンさんかモンスター爺さんかって、何かの冗談なのかな」
試合は勝ち抜き形式とされ、準々決勝、準決勝と勝ち上がって行った後に待っているのは、彼ら二人のうちのどちらかとの対戦だ。今のところ、リュカには二人のどちらにも確実に勝てる自信がない。今までに感じたことのない、観客を前にした恐怖や不安にさいなまれているリュカの近くで、ふと声をかけられる。
「次は俺らの対戦ですね、国王様。お手柔らかにお願いしますよ」
その声に振り向くと、いかにも職人と言うような分厚く固い手を差し出す武器屋イーサンが立っていた。強面の中には人の好い笑みが浮かぶ。鍛冶を生業とする彼の腕には痛々しい火傷の跡がいくつもあるが、彼自身それを誇りに思っているのか、肩から両腕をむき出しにするような袖のない服を着ている。体格だけで言えば、兵士長パピンよりも大きな身体をしている。リュカの今の心持ちとしては、まるで目の前にゴレムスが立って片手を差し出しているかのような威圧感があった。
「あ、はい、よろしくお願いします」
「みんなはこの試合を楽しみにしてますからね。手加減はお互いにナシですよ」
「あ、ははは……ちょっと手加減して欲しいなぁなんて思ってたけど、そういうわけには行かないよね」
そう言いながらリュカはぎこちない笑みを浮かべながら手を差し出すと、イーサンが力強く握ってきて互いに試合前の握手を交わす。その力強さを感じて、リュカの自信は揺らぐばかりだった。
三回戦のドラムが打ち鳴らされた。今までで最も歓声が大きかったのではないかと思ったが、それはリュカの気のせいではなかった。ようやく待ち望んだ国王の戦いが見られると、観客である国民たちはこれまでにない熱狂を見せていた。リュカは嫌でもその雰囲気に気づいたが、努めてその雰囲気に気づかないふりをするようにした。みんなは自分ではなく、相手の武器屋イーサンの強さを見たいと思っているに違いないと、緊張から解き放たれるために頭の中で繰り返し念仏のようにそう唱え続ける。
会場の最も近くで観戦する子供たちの姿が見えた。衛兵たちに囲まれ、守られた場所にいる二人を見るとそれだけでリュカは安心する。ドリスがおよそ姫らしからぬ険しい顔をしてリュカに何かを叫んでいる。言葉の内容は容易に察することができるが、リュカは曖昧に笑ってそれに応えるに留めた。ピエールがどことなく心配そうにリュカを見ている。プックルが周りの観客たちを煽るように勇ましい雄たけびを上げている。煽らないで欲しいとリュカがプックルを睨めば、プックルは煽り方が足りないのかと会場に身を乗り出そうとする。それをティミーとポピーが笑いながら止めていた。
審判を務める兵士長がリュカに深く頭を下げる。そして顔を上げた彼の表情には、やはり期待の眼差しがあった。誰もかれもが国王であるリュカの戦いに期待しているのだ。周囲からの大きな歓声が、リュカの鼓膜の中で一つの音にまとまる。今、この時、グランバニアの人々の心が一つになっている気がする。自分に向けられる歓声から逃げたいのが本心だが、国王としても、皆の期待に応えなくてはならないと、リュカは自身の中に冷静さを取り戻し、静かに息を吐くと、対戦相手のイーサンを見つめた。
開始のドラムが鳴らされると、リュカはすぐさま相手の足を狙った。リュカの低い軌道をまるで読んでいなかったイーサンは、意表を突かれた表情で体勢を崩してリュカの足を避ける。リュカは油断だらけのイーサンの腕を両手でつかむと、力任せに振り回そうとした。しかしイーサンの身体は重い。両足の踏ん張りが足りず、今度はリュカが体勢を崩す。
すぐさま攻撃に転じるイーサンが、丸太のような腕をリュカから離し、お返しとばかりに足払いを仕掛けてきた。リュカが体勢を崩しながらも、身体を翻し、マントを翻して鮮やかに攻撃を避けると、それだけで大きな歓声が上がった。嫌でも自分への期待を感じさせられる。
いかにも重い拳を何度も繰り出してくるイーサンの動きが、徐々に見えるようになってきた。顔や肩を掠める拳に、リュカは息が詰まったが、旅の中での魔物との戦闘を思い起こせば、その軌道が見えないわけではなかった。当たりそうになる軌道が来れば、それを手刀で軌道を変えて払いのけた。昨日、手合わせで相手にしたスラりんやスラぼうほどの素早さはないと気づけば、イーサンの重い拳を落ち着いて避けることができた。
間合いを取り、互いに互いの隙を見つけようと相手を注意深く見つめる。イーサンの視線が足元に来た瞬間、リュカは武器屋の厳つい顔目がけて上段蹴りを繰り出す。咄嗟に両腕で蹴りを受け止めるイーサンだが、リュカの蹴りの威力にたまらず土埃を上げて地面を吹き飛ばされる。しかし頑強な身体は体勢を崩さない。両足で踏ん張るイーサンを見たが、リュカは迷わず猛追する。戦いの心を宿した漆黒の瞳に、武器屋の表情が慄く。普段は至って穏やかな顔つきのグランバニア国王が、どれほど普段戦いに身を投じているのかが、観客らにも知れた。ほんの一時、会場は静寂に包まれた。皆が同時に息を呑んだ。
土埃が落ち着いた時には、勝負はついていた。リュカが戦う男の顔をしたまま、イーサンの両腕を背中に回して動けないように止めていた。審判の合図によりラッパが吹き鳴らされる。騒ぐことを忘れていた観客らが、一斉に興奮の歓声を上げる。リュカはラッパの音に身体の緊張を解かれたように、イーサンの腕を固めていた手の力を緩めた。
「ごめん、痛かったよね。ええと、傷があれば僕が治しておくよ」
そう言いながらリュカはイーサンの前にしゃがみこんで、彼の様子を確かめる。腕を後ろ手に捻り上げていた痛みが残る彼に回復呪文を施すと、それだけで再び観客が沸いた。何がきっかけで人々が歓声を上げたのか分からないリュカは、辺りをキョロキョロと見渡すが、特に変わった様子は見当たらない。
「あんな強さを見せておいて、その上相手の怪我まで治しちまうなんて、うちの王様はどこまでも男前だなぁ、おい」
イーサンの言葉で歓声が自分に向けられたものと気づいたリュカは、むず痒い気持ちを抱えながら素早く一礼すると、そそくさと会場から姿を消した。まだ試合が続くために、ティミーやポピーのいる場所へ向かうことはできない。出場者らが控える場所に戻ると、そこには感激に目を潤ませるサンチョの姿があった。
「坊っちゃ……じゃなかった、リュカ王! いやぁ、感服いたしました! やはりお強いですな」
「サンチョ、今までどこに行ってたのさ」
まるで迷子の子供が親に巡り合ったかのような心細さと安心を、リュカはサンチョの前で隠さずに曝け出した。
「そもそもサンチョはこの大会に出ないの? 予選でも見かけなかったよ」
「私も色々と城の役目がございますからな。祭りの最中でも、城の警備が確実になされているかどうかなど、確かめておかねばなりません」
年を取ったとは言え、サンチョもこのグランバニアでは随一の強さを誇る戦士である。かつては父パパスのお供として旅に出ていたほど、国の中では名の知れた一人の戦士なのだ。恐らくサンチョがこの大会に出場すれば、もしかしたらリュカは決勝でサンチョと戦うことになっていたかも知れない。
「それに私はもう年を取りましてな。若い者たちの素早さには到底ついていけませんよ」
「そんなことないよ。サンチョが強いのは僕も知ってるもん」
「リュカ王にそんなことを仰っていただけて、至極光栄に存じます」
「やめてよ、そんな堅苦しい言葉で話すの」
リュカが困ったような顔でそう言うと、サンチョは目を細めて人の好い笑みを浮かべて控えめに笑い声を上げた。
「しかしこのグランバニアには本当に私など敵わないような戦士が育っていますよ。あのパピン兵士長などは、私が本気で戦っても敵いそうもありませんよ」
「強そうだよね、パピンさん。どうしたら勝てると思う?」
リュカはあわよくばパピンの弱点を教えて欲しいなどという考えなどは微塵も持ち合わせていなかったが、思わずそう聞いてしまうリュカを見てサンチョは含み笑いをしてしまう。
「リュカ王はそう言った自然な人たらしなところがありますね」
「何それ。あまり良い響きじゃないね」
「私は悪いものとは思っていませんけどね。それにそういうところもどことなく、マーサ様に似ておいでです」
「母さんも人たらし?」
「人懐こくて、魔物に懐かれる、稀有な方ですよ」
「……楽しそうな人だね。やっぱり、会ってみたいなぁ」
「お会い出来ますとも。そのためにも、くれぐれもご自分の命を大事になさってくださいよ」
サンチョの言葉にリュカは軽い調子で「分かってるよ」と返事をすると、会場の一角に設けられている出場者控え所へ向かい、水を飲みに行った。様々な人から話を聞く母の印象は、初めに想像していた自分の中の理想とはどんどん離れていく。清楚華憐で慎ましやかな印象が父パパスの隣に立つ母の姿と勝手に想像していたものが、その姿は徐々に物静かな女性とはかけ離れた元気で溌溂とした娘に変わってきている。第一、あの閉ざされたエルヘブンの村を飛び出して、グランバニアの王妃となるような突飛な行動ができる女性なのだ。父が捜し求めた母を、父の遺志を受け継ぐ責務だけではなく、自分自身が会ってみたいと改めてリュカは思う。
準々決勝の第四回戦は、第一回戦で行われたパピンと青年兵士との戦いと同様に、兵士長と兵士という組み合わせだった。兵士、兵士長の中で最も背の高いというこの兵士長は、さすがに部下である一般兵士に負けるわけにも行かず、また負ける要素もなく、あっさりと勝負はついた。リュカの次の対戦相手となる背の高い兵士長の近くに行けば、リュカがまるで子供に見えるほど小さい者に見えた。見上げるその大きさに、リュカは次の戦いではひたすら足元を狙おうかなどと顎に手を当て考えていた。
少しの休憩を挟んだ後、準決勝が始まるドラムが打ち鳴らされ、出場者がまだ姿を現す前に観客たちは大いに盛り上がった。兵士長パピンとモンスター爺さんという異色の戦いだ。これまで新年祭の武闘大会は五回ほど行われているが、その間彼ら二人の組み合わせはなかった。
盛り上がる観客たちだが、二人の戦士が会場に姿を現し、互いに向き合って一礼をすれば、場は途端に静まり返った。波を打ったように静かな会場に、近くの木々で囀る鳥の声まで響くほどだ。日差しは穏やかで心地よい。暖かい風が頬を撫でれば、これから二人の男の戦いが始まるという雰囲気は微塵もない。
息を呑む時間が続く。パピンもモンスター爺さんもどちらもにらみ合ったまま動かない。先ほどの戦いぶりから、モンスター爺さんは積極的に攻撃の手を出すようには思えない。相手から仕掛けられる攻撃に反応して、対応していくタイプの戦い方だ。そうと分かっていても攻撃の手を出せないパピンは、本気で老人の隙が見つけられないのかも知れない。
動きで本気ではないとすぐに分かった。パピンが戦いの時間を動かす。老人がふらりと躱す。大きな拳が突き出る。老人が身を引く。横から蹴りが飛ぶ。やはり身を引いて躱す。会場の端に老人を追いやる。突くような蹴りの足に乗り上げ、頭上に乗り上げ、老人は身をひるがえして会場中ほどに降り立つ。パピンが駆け出す。土埃を上げて足払いを繰り出す。それもやはり身軽に飛んで避けてしまう。パピンとモンスター爺さん二人の動きは、どれをとっても鮮やかで滑らかだ。一種の芸術を見ているかのような戦いぶりに、観客からは賑やかな歓声ではなく、固唾を呑んでその景色に見入る空気が漂う。
合間にまるで示し合わせたかのように休息を取る。息が上がっているわけではない。しかし互いに一息入れたいと思う瞬間が同じというだけだった。そしてまたパピンが打ち、老人が避ける戦いが始まる。まるで師匠と弟子のような見た目に、観客たちは武闘大会ではなく、一種の演劇を見せられているのではないかと思うほどだった。
何度目かの間合いの後、意表を突くようにモンスター爺さんがパピンに飛びかかって行った。姿が消えたように見えた。呪文を使っているわけではない。しかし小柄なその姿は一瞬、完全にパピンの視界から消えた。直後、下から顎を突き上げられた。老人の禿げた頭が光ってすぐ目の前に見えたパピンは、頭突きを食らったと理解する。
「お主、顎が固すぎやしやせんかの」
老人は顔を思い切りしかめ、両手で禿げた頭を擦っていた。片やパピンは急所である顎を痛めつけられ、声も出ない状態ながらもどうにか地に足を着けて立っていた。視界の端に星がちらつく。
「タフじゃのう」
「これしきのことで倒れるわけには行きません」
「まあのう。兵士長じゃからのう」
「私が倒れたら示しがつきませんからね」
「そろそろ決着をつけないと、わしゃ疲れてきたぞい」
戦いの最中とは思えないような人の好い笑みを浮かべて言うモンスター爺さんだが、そのこめかみには幾筋もの汗が流れている。昼の日差しが傾き始める頃、今が最も気温の高い時間帯ではあるが、暑さを感じるような気候ではない。パピンの額にも汗が滲んでいるが、闘いが長時間に及べば、より体力を消耗するのは老人の方だ。それ故に少ない動きで勝負を決めたがっていたモンスター爺さんだが、相手がパピン兵士長とあっては思惑通りに動いてくれない。
モンスター爺さんが一つ深い息をついた時、パピンが地を蹴った。正面からの攻撃をふらりと躱す。ふらりふらりと躱す老人の動きに追いつくように、パピンは拳と蹴りを次々と繰り出していく。老人の頬を大きな拳が霞める。躱し方が際どくなる。パピンは息を止めて、相手を倒すまで止めないというように、終わらない攻撃を続ける。老人が頭を屈めてパピンの拳を際どく躱した直後、パピンはすかさず足払いを仕掛け、ようやく老人を地に転ばせた。
咄嗟に身体を跳ね上げて起き上がろうとした老人だが、体力の消耗が激しかった。両足で鈍く地を蹴ろうとした瞬間、間髪入れずにパピンがその足を掴んだ。
「こりゃ! 老人をもっと労わらんか!」
地にべたりと身体を押しつけられ、背中にずしりと乗るパピンにモンスター爺さんが文句を言う。足を掴まれ倒された老人は、すぐさまパピンに地面に押さえ込まれていた。文句を言う口は元気だが、想定よりも遥かに長い戦いの時間に老人の体力は容赦なく奪われていた。一方のパピンも多少なりとも疲れた様子を見せつつも、まだ余裕のある表情をしている。持久戦となれば、年の若い方に軍配が上がることをモンスター爺さんも理解していたが、そこを敢えての持久戦に持ち込んだのは、この戦いを観客たちによく見てもらうためだった。
勝負ありのドラムが鳴らされた。戦いの間、ほとんど騒がなかった観客たちの緊張が解れ、溜めていた興奮を一気に吐き出すかのような歓声が鳴り響いた。二人の戦いを見ていたリュカも思わず胸を熱くしながら、二人に拍手を贈っていた。
出場者控え所に戻ってきたパピンとモンスター爺さんに、リュカは自ら声をかける。
「二人とも、とても強いんですね。見ていて何だか、こう、身体が熱くなるって言うか、凄いなって思いました」
まるで子供のような感想を述べる自国の王に、パピンとモンスター爺さんは目を見合わせて笑う。王の表情も男同士の戦いに憧れる少年のようで、その表情は彼らがより見慣れているティミー王子に似ていると感じた。勇者に生まれ、勇者に憧れ、より強い勇者を目指すティミー王子は今、父である王と同じような表情で武闘大会の戦いを見ていたに違いない。
「今回はリュカ王がご帰還されて初めての大会じゃから、ワシも出場してみようと思っておりましたのじゃ」
「これまでも何度もご出場をお願いしていたのですが、ようやく出ていただけましたよ」
武闘大会の開催が始まった五年前からモンスター爺さんは大会への出場を方々から依頼されていたが、固辞し続けていた。魔物の主人であるリュカが不在の中で出場するものでもないと、老人は大会に出ることを嫌がったのだ。
しかしリュカが八年ぶりの帰還を果たして初めてのこの大会に、老人は自ら出場すると告げていた。魔物たちの主人が無事に戻ってきた安心から、彼は大会に出場して、この華やかな武闘大会を盛り上げるために一役買おうと決めたのだった。
「まあ、ワシが出られるのもここまでじゃがの。パピン兵士長は更に強さに磨きをかけておられる」
「あくまでもこの大会は呪文や特技などは使えませんからね。もし貴方が呪文特技の類を混ぜて戦えば、私など一息に倒されますよ」
パピンの言葉に、リュカはやはりこの老人は呪文が使えるのだと分かった。使用する呪文の類によっては、リュカ自身も彼に敵わないのではないかと感じた。一癖も二癖もありそうな、厄介な呪文を使いそうな老人の雰囲気に、リュカはこのグランバニアには兵士のみならずあちこちに手練れがいるのだと気づかされる。
「さて、リュカ王は次、ジェイミーと対戦ですか。彼も兵士長の中では一、二を争う強さを誇る男です」
「ええっ? そうなの? 兵士長の中で一、二ってことはパピンさんと争うってことだよね?」
「まあ、そう言うことになりますか。何とも背が高い大男ですからね、押さえ込まれたら最後ですよ」
パピンがそう言いながら笑みを向ける先に、そのジェイミー兵士長が静かに立っていた。身長がずば抜けて高い彼は、リュカよりも頭二つ分も高くにある顔に無表情を貼り付けている。兵士としての真面目さだけではなく、元々表情に乏しい雰囲気のある兵士長は今、戦い前の精神統一のために、静かに目を閉じ瞑想している。その姿を見てリュカは思わず生唾を飲み込む。
「お手柔らかにって言いたいけど、言えない雰囲気だなぁ」
「はははっ、そういうものは受け付けない性質ですよ。とても真面目な人物です。だからこそ、兵士長を任せられているのです」
「そっか、そうだよね。うん、真面目に仕事してくれるんだもん、ありがたいことだよ」
口ではそう言いながらも、リュカは今だけは手を抜いてくれても構わないんだけどななどと力なく溜め息をついた。精神統一を終えたジェイミー兵士長が静かに目を開き、ゆっくりとリュカの方を振り向き見ると、正面を向いて声も出さずに恭しく頭を下げた。実はリュカよりもジェイミー兵士長の方が緊張に身体を強張らせているなどとは、この時のリュカは思いもよらずにただ引きつる笑いを浮かべるだけだった。
準決勝二回戦目、リュカとジェイミー兵士長の対戦を告げるドラムが鳴る。この試合で勝った者が決勝に勝ち上がり、パピンと対戦することになる。そして決勝で勝った者が、ドリスとの戦いに挑む権利を勝ち得る。リュカはそれを考えただけでドリスは楽をしているんじゃないかと、思わず観客席で悠々と観戦しているドリスを睨んだ。ドリスはまるでリュカの考えていることが分かっているかのように、意地の悪そうな笑みを返してきた。
結局、戦いが始まるまでリュカはジェイミーとは一言も言葉を交わさなかった。彼がどのような声なのか、口にする言葉はどのようなものなのか、彼の人柄が今一つ分からない。得体の知れない敵を相手にするのは旅の最中で嫌というほど慣れているが、自国の兵士長と一言も口を利かずに戦うという特殊な状況に、リュカは落ち着かない心持ちのまま開始のドラムに身を震わせた。
大きな身体の割に細身に見える彼は、素早い動きを見せた。拳を固めるよりも、手刀を放つ。常人では繰り出せない手刀の勢いに、リュカの耳元では空気が唸り声を上げた。手刀を避けたと思えば、すぐに肘が飛んでくる。大きな体ごとぶつかってくる肘を、身を引いて避け切ることができずに顔面に食らう。観客席から悲鳴が上がる。構わず次の手刀が飛んでくる。リュカは避けつつも相手の懐に入り込み、拳を腹に打つ。固い。大きな手に掴まる前に、すぐに身を引く。予想の軌道がリュカの鼻先を掠める。倒れるように両手を地に着き、バネのように弾けるように両足でジェイミーの腹を蹴る。大男がよろめく。しかし倒れない。歓声が上がる。
「倒れないなぁ……」
「………………」
リュカが言葉を零しても、やはりジェイミーは声すら発しない。中心で分けられた茶色の髪の一房が彼の出っ張る頬骨に落ちる。大男だが、年齢はパピンよりも下だろう。常に真面目に兵士長としての務めを果たしているであろう彼を見れば、リュカは自国の兵士の一人として彼を好ましく思った。この国には自分の知らないところで、国を強く保とうとする人々の心が働いている。
「ねぇ、ジェイミー兵士長」
「はっ、はいっ!?」
戦いの最中だというのに、リュカは構わず話しかけ、あまりにも場にそぐわないその柔らかい雰囲気に、思わずジェイミーの声が上ずる。初めて聞く彼の声は、予想よりも遥かに高い声だった。
「いつもは人間の兵士たちを相手に訓練をしているんだよね」
「えっ、は、はい、そうです。我々兵士長は主に兵士たちに訓練をつけて……」
「魔物たちと戦うことはあんまりない?」
「魔物の方々とはひと月に一度は訓練に参加してもらっています」
「それさぁ、もっと回数を増やせるかな」
「はっ?」
「うん。僕たちが敵にするのって、やっぱり魔物だからさ。せっかくこの国には魔物の仲間がたくさんいて、協力してもらえるんだから、もっとたくさん魔物たちと訓練して、魔物の動きをよく見てみた方がいいと思うんだ」
「リュカ王がそうお命じ下されば、我々兵士も魔物の方々も、心置きなく訓練回数を増やすことができます」
「もしかして、僕の指示待ちだった?」
「そう……ですね」
「うわー、もったいないことしたなぁ。もっと早く言えば良かったねぇ」
「………………くくっ」
完全に戦闘態勢など忘れて天を仰ぐリュカを見て、ジェイミーの強面に小さな笑みが浮かんだ。二人の会話がざわつく観客席に届くことはない。ただその様子から、戦いは一時中断しているのだろうと、客席の雰囲気もどこか和んでいる。
「じゃあこの新年祭が終わったら、そういうことでみんなに話をして動いてくれるかな」
「承知いたしました。すぐにでも訓練回数を増やしましょう」
「じゃあ、続きね。今は僕のことを魔物だと思って、かかってきた方がいいよ」
リュカの言葉に、ジェイミーは先ほどのリュカの戦いぶりを思い出し、思わず背中に冷や汗を垂らす。ジェイミーが長身を生かす戦い方をするのに対し、リュカは極力低い姿勢を取る。魔物だと思ってと言われ、ジェイミーが目にするリュカの姿は、まるであのキラーパンサーの獰猛な姿だ。唸り声こそ上げないが、その口からは鋭い牙でも見えてきそうなほど魔物の表情をしている。
人間の跳躍力を越える高さに飛び上がり、ジェイミーの顔面に手を突き出す。身体を仰け反らせて避けるジェイミーに、リュカは素早く地を蹴り猛追する。腹に肘を入れる。やはり固い。ジェイミーも反撃にリュカの首に腕を回して抱え上げ、身体を振り落とす。リュカがジェイミーの両足にしがみつき、また両足をバネのように跳ね上げて相手の顎を打つ。素早く離れたと思ったら、即座に間合いを詰める。足に飛び込み、両腕でつかんで引き倒す。大男は倒れず、地に両手をついて飛び起き、体勢を戻す。
何度目になるか分からないリュカの地から飛び出すような攻撃に、ジェイミーは上体を屈めて押さえ込もうとする。振り下ろされた大男の手刀に、リュカの目が光る。ジェイミーの手刀が、鋭い鎌に見えた。身体が強張った。
リュカの両足が浮いた。地に足がつけられない。リュカの首がジェイミーの腕によって締め付けられる。背後を取られ、首を締められる苦しさに、全身が寒気に襲われる。背後にいるのはジェイミーだと分かっている。しかし先ほどちらついた鎌のような手刀の光景が脳裏にちらつき、背後にいるのはあの悪魔ではないかと、体中の血が沸騰するかのような熱さを覚える。
リュカの全身から魔力が噴き出す。両手に強い魔力がこもる。その気配にジェイミーの腕が一瞬緩み、リュカは自分が戦っているのはあの悪魔ではないと現実を見る。あの悪魔ならば腕の力を緩めるような甘さなど微塵も見せないはずだ。現実が見えなければ、危うく背後の兵士長にバギクロスの呪文を間近に浴びせるところだった。
緩んだ腕を力いっぱい引きはがし、リュカはするりとジェイミーの腕から抜けるや否や、その腕を取って服を掴んで、背負って投げ飛ばした。大男の広い背中が地面に打ち付けられ、土埃が激しく舞った。地に手をついて即座に起き上がろうとするジェイミーの背中に一つ拳を打ち付けると、腕を後ろに回して押さえ、首の後ろを肘で抑えて体重をかけた。ジェイミーの喉から呻き声が上がり、審判の男が近づいて言葉を聞き取る。
「……参りました」
喉から絞り出すようなその声を聞き、審判は合図を出し、試合終了のドラムが打たれた。審判によりリュカの勝利が宣言され、大きな歓声が上がったが、リュカはその決定にしばし戸惑う。
「僕が勝ちでいいのかな。危うく呪文を使いそうになったけど」
「しかし結果的にはお使いになりませんでしたよ」
「だけど僕があんなことしなければ、ジェイミー兵士長が勝っていたかも知れないよ」
「いえ、あの一瞬を恐れた私が招いた結果です。リュカ王の凄まじい魔力を感じ、思わずあの場から逃げようと考えてしまいました。まだまだ私は未熟です」
リュカが何を言おうとも、ジェイミーはもう自身の負けを認めている。リュカに首を押さえつけられたために、喉が傷つき、声が半ば潰れていた。
既に盛り上がっている観客の状況を見ても、今更リュカの勝利を取り消す決定も下せないのは明らかだ。あくまでもお祭りの一環で行われる武闘大会で、グランバニアの国民の心を明るくし、兵士たちの強くありたいという心を鼓舞する目的が大前提にある。リュカは本当の勝敗にこだわるよりも、今は人々にとって何が最善なのかを優先することを選んだ。
「……本当に未熟なのは、きっと僕の方なんだけどね」
ジェイミーの鋭い手刀に、死神の大鎌を見た。背後から身体を持ち上げられ、首をぎりぎりと締められる感覚に、あの時の絶望が蘇りそうだった。その時の憎しみ苦しみのまま、自分はただ子供のような本能で自分が出せる最大級の呪文を放とうとしたのだ。
試合が終わって気持ちを落ち着けるために、リュカは大きく息を吸い、息を吐く。吐いた息の中に、湧き上がっていた憎しみ苦しみを放ち、自身から追い出す。そして苦しそうに喉を抑えて咳をするジェイミーの首に手を当てると、回復呪文を唱えて目には見えない傷を癒した。ジェイミーが元の高い声で礼を述べると、リュカは安心したように一つにこりと微笑んだ。
Comment
bibiさん
日記にて決勝までいけなかったと仰られてましたが、読んだ感じ3つの戦いをテンポよく進めた印象でしたよ。
それにしても、これまでは人間の手練れはカンダタくらいしか登場してなかったと思うので、グランバニアの武術国家ぶりが際立ちますね。
リュカの勝利は結構アウトな気がしますが…(笑)、あれだけ自信無さそうにしてたのでちょっと安心しました。
今まで殆ど魔物とばかり戦ってたので自分の実力がちゃんと把握出来ていなかったんでしょうかね。
ピピン 様
コメントをどうもありがとうございます。
テンポ良く行けましたかね。書いているとどんどん長引いて決着が着かなくなるので、ある程度のところで見切りをつけた感じです(汗) だらだら書いても仕方ないですもんね・・・。
リュカはあまりにも魔物との世界に生き過ぎですね。カンダタもかなりの強さでしたが、国の兵士たちもそれに劣らずの実力を持っています。今まで描かれていなかっただけで・・・ここで描けて良かったです。
リュカの勝利は・・・まあ、周りが認めているので良しとしましょうか(笑)
仲間たちとではなく、一人で向かわなければいけないことに恐怖していたこともあるかも知れません。誰も助けてくれない~!って。
いつもありがとうございます!
手に汗握る男たちの戦いの様子が、とても生き生きと伝わってきました。
リュカの背負い投げは鮮やかに思い描けました。
モンスター爺さんの発想素晴らしいですね、まだまだ想像の余地があることに驚かされました。
がっちゃん 様
コメントをどうもありがとうございます。
戦闘描写はどうにか緊迫感が伝わるようにと思っていて、短くすっきりを目指しているのですが、なかなか思うようにできず・・・(汗) 人間相手なので背負い投げを決めてみました。
モンスター爺さんはただの爺さんではなかろうと、あんなキャラクターにしちゃいました。日々、魔物たちの世話をしつつも、楽しく遊び(という名の訓練?)をしているのではないかと。魔物たちとの遊びで、あの大広間もかなりあちこち傷んでいるかも知れません(笑)
bibi様
やはりプックルの爪と牙は他の魔物たちと比べてもひと味違うんですね、もしプックルに小説内で特別優遇の武器、爪装備させたら、どれだけの戦力になることやら(笑み)
モンスター爺さん、あんなに強かったんですね(笑み)
もしこれで呪文を使うなら、どれだけ強くなることやら…。 bibi様の中でモンスター爺さんの呪文って何を使うのか決まっていますか?決まってたら興味あります~!
バギクロス…ああ~やっちゃいましたねリュカ(苦笑)
後でジェイミーに特別報酬を揚げないといけませんよ?(笑み)
ケアル 様
コメントをどうもありがとうございます。
プックルに爪装備をさせたら、かなりマズイことになると思います。ゲーム中では爪装備ができるんですが、話の中で爪を装備となると、爪を装備したまま地面を歩くのって難しいなぁと、こちらのお話の中では装備しないことにしています。代わりに、その内ドリスが爪装備するかも。
モンスター爺さんが強かったら面白いかなと思って、今回参戦してもらいました。使える呪文は主に補助呪文ですかね。マホトーンとかラリホーとか。それらを駆使すると、かなり強いじいさんになります。
あの宿敵の気配を感じてしまったので、自分の持てる最大級を放出しようとしてしまいました(笑) ジェイミーに特別報酬・・・堅物ジェイミーはそれを固辞してしまうかも知れませんね。