修道院から見る景色

 

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「オレ、海って初めて見た」
視界全てを覆い尽くすような広大な青の景色に、コリンズはそう呟いた。目にはどこまでも続くように思われる水の青が穏やかな波を海辺に寄せている。耳に聞こえる波の音は時計で正確に測ったかのような律動で繰り返され、そこに終わりはない。目に収まりきらない青い景色と、終わりのない波の音を耳にして、コリンズの身体は思わず震える。そして近くに立つ母が身に着けるマントを、後ろから掴んだ。
「どうしたの、コリンズ」
静かにそう言いながらも、海から視線を外さない母マリアを見て、コリンズは不安げな顔を隠しもせずに母の横顔を見上げる。肩の上で切り揃えた緑色の髪が海風に揺れ、それほど冷たい風でもないのにやはりコリンズの身体は小さく震える。
「母上は海が好きですか?」
コリンズの問いかけに、マリアは海を見ながら考える。彼女にとって海は、好きか嫌いかと言う対象ではなかった。
「母にとって必要なもの……かしらね、海は」
マリアが今回海辺の修道院を訪れたのは、かつてこの修道院に命を救われ世話になった時以来だった。ヘンリーに連れられるようにラインハットに行くことになってからと言うもの、彼女の人生は目まぐるしく変化した。両親はおらず、ただ兄と二人で世界に命を繋ぎ止めていただけの彼女は、ラインハットと言う王国の宰相の妻となるために地道な努力を積み上げてきた。その内に望んでいた王子が生まれ、更に彼女の人生に彩りが加わった。夫の仕事を支え、子の成長を見ている内に、時は過ぎ去り、あっという間に十年の月日が経ってしまった。
「ふわぁ……。なんだかここにいると眠くなってきちゃうよ……」
コリンズの斜め前でそんなことを言うティミーが、両腕を思い切り頭上に上げて大きく伸びをする。ティミーにとっては一定の律動で繰り返す波の音は、子守歌のように聞こえるらしい。
「ここはお空も海の色もすごくきれいね……」
ティミーもポピーも海の景色はこれまでに沢山見て来ている。まだリュカを探す旅の最中でも、サンチョに連れられ船に乗り、大陸を移動して旅をすることもあった。リュカと旅をする時でも、船に乗ったり魔法のじゅうたんに乗ったりと、海を渡る機会は何度もあった。しかしポピーはこの海辺の修道院で見る海は他の場所とは違うのだということを感じていた。
時を知らせる教会の鐘が響き渡る。その音を耳にしながら、リュカとヘンリーはぼんやりと遠くの海の景色を眺めていた。空には青空が広がり、ぽつりぽつりと綿のような雲が浮かんで流れている。時が過ぎ、色々な物事が変化しているというのに、この場所の海の景色は一切変化がないように思えた。砂浜の砂一粒一粒さえ変わっていないようで、今も彼らはあの時のまま汚れに汚れた格好をしているのではと錯覚してしまう。
「今のって、お昼を知らせる鐘の音かな」
「まだ早いだろ。陽がまだ大分東に残ってる」
言葉を交わして、二人は同時に小さく笑った。
「お前な、神聖な教会の鐘の音を聞いて、メシのことしか思い出せねぇのかよ」
「そういうヘンリーだって、すぐに答えたでしょ。人のこと言えるのかなぁ」
「あなた」
ヘンリーに声をかけてきたマリアの横には、くっついて離れなくなってしまったコリンズがいる。母と手を繋ぐコリンズの固い表情を見て、リュカは彼が生まれて初めて見る海に恐怖を抱いているのだと嫌でも分かった。
「私、修道院長様にご挨拶して参りますね」
「何水臭いことを言ってんだよ。俺も行くに決まってんだろ。世話になったんだからさ」
「僕は何度かここには来てるんだけどね。二人と一緒に行くよ」
「リュカさん、ここへ連れてきてくださって本当にありがとうございます」
「ううん、僕もさ、一度二人と一緒に来たかったから、連れてこられて良かったよ」
「俺もここへは来れてなくてさ。まあ、何と言うか……顔を出し辛いんだよなぁ」
ヘンリーは最後にこの海辺の修道院を訪れた時のことを思い出し、きまり悪そうにこめかみを指でかく。勢いでマリアに求婚し、半ばこの修道院から彼女を攫ってしまったようなもので、今頃になって彼女の親代わりともなる修道院長にどんな顔をして会えば良いのか分からないのが本当のところだ。日々の忙しさを理由に、彼もまた海辺の修道院に顔を出すのはあの時以来だった。
「お父さん、修道院長様にご挨拶したら、その後は海で遊んでてもいい?」
ティミーにそう言われ、リュカは穏やかな海を眺める。波は静かで、浜辺で遊ぶ分には特別問題もなさそうだが、海の上を吹いてくる風は少し冷たい。
「海で遊ぶにはちょっと寒いんじゃないかな。風邪を引いたら困るからねぇ」
「でも私もちょっとだけ遊びたいかも。なかなか海の近くで遊ぶなんてこと、ないんだもの」
「リュカ王、私がちゃんと見ていますからご安心ください。この修道院は坊っちゃん……リュカ王がかつてお世話になった場所なのでしょう? 積もる話もあるでしょうから、その間は私も王子王女を見ながらのんびりとここで過ごしていますよ」
サンチョが双子の子供たちの面倒を見ると申し出てくれることは、リュカにとってこれ以上ない安心を得ることができる。子育ての経験だけで言えば、リュカはサンチョの足元にも及ばない。リュカが幼い頃はリュカの親代わりであり、リュカとビアンカが不在の八年の間はティミーとポピーの親代わりのようなものだったサンチョは恐らく、リュカよりも双子の子供たちの気持ちを汲むことができるのかも知れない。
「じゃあ、院長様に挨拶したら、海で遊んでていいよ。でも海の中に入っちゃダメだよ」
「コリンズ、お前も一緒に後で遊んできていいぞ。海なんて初めてだからな」
「オレは、いいよ。母上のところにいる」
ヘンリーの誘いをきっぱりと断るコリンズの表情は相変わらず固い。父であるヘンリーがそのことに気付いていないはずがないだろうとリュカは友の顔を見るが、さらりとした緑色の髪に横顔が隠されその表情は見えない。
「お前はいちいちビビリ過ぎなんだよ。いきなり海に入って泳げなんて言ってるんじゃないんだから、浜辺でティミー君たちと……」
「イヤだ、オレ、母上のそばにいる」
そう言ってコリンズは俯き、マリアのマントの中に入り込むように隠れてしまった。これはどのような説得も聞かないだろうと、ヘンリーとマリアは目を見合わせ、同時にふっと笑うように息を漏らした。
「分かったよ。じゃあ、とりあえずみんなで修道院長様に挨拶に行くか」
「いきなりこんな大所帯で伺って良いものなのでしょうか」
サンチョが不安な面持ちで修道院の高い屋根を見上げているが、リュカはこの場所が誰にも手を差し伸べてくれる場所だと知っている。
「大丈夫。ここはどんな人でも受け入れてくれるところだから」
「そうですね。この修道院が私を受け入れてくださって……本当に感謝しかありません」
マリアが無意識の内にも過去の出来事を回想するのを、コリンズが母の手を掴んで引き留める。ここ何日かで目まぐるしく成長したように思えたコリンズだったが、また元に戻ったかのように母に甘えるコリンズを見て、リュカは彼の心の内をわずかに覗いた気がした。



「ご無沙汰しております、修道院長様」
「ようこそいらっしゃいました、マリア……いえ、ラインハット宰相妃殿下とお呼びした方がよろしいでしょうか」
「マリアで構いません。以前のようにお呼びください」
「そうですか。ではそのようにいたしましょう」
海辺の修道院を訪れるのは久々と言えど、マリアもヘンリーも修道院長との手紙のやり取りを以前から続けている。修道院長は当然、ヘンリーがラインハットの宰相の立場であることを知っており、その妻となったマリアもまた宰相妃殿下の立場と言うことを理解している。
昼前のこの時間、修道院内では修道女らが院内の台所で昼食の仕度を始めている。広い礼拝堂にも昼食の煮炊きをする匂いが漂うが、開け放たれた窓から入り込む潮風にたちまち匂いは外へと運ばれて行く。その全ての感覚がマリアだけではなく、リュカにもヘンリーにも懐かしいものだ。
「生憎と今からですと皆さんのお食事を準備することができないのですが……」
「お気遣いなく。俺たちはオラクルベリーで食事を済ませてきたので問題ありません」
リュカたちは昨日オラクルベリーの町の宿に泊まり、朝食を済ませるなり、限られた残りの時間を主にカジノの中で過ごしていた。闘技場にスロットにと奮闘し、ヘンリーの所持していたコインはいくらか増えたようだった。ヘンリーはどうやら全てのコインを引き出しているわけではないらしく、その全額をリュカに教えることはなかったが、景品交換所の景品が記されている板を目にしながら、『あともうちょいなんだよなぁ……』と呟いていたところを見れば目的の景品があるようだった。リュカがそれを問いかけてもヘンリーは不敵に笑うだけで、目的の景品が何なのかは語らないままだった。
「リュカさんは少し前にお会いしましたね。お子様たちもお連れになって」
「はい。でもまさか、ヘンリーもマリアもあの時以来ここに来ていないなんて思っていませんでした」
「お二人とも、今やラインハットに必要な方々ですからね。おいそれとこちらに立ち寄ることもできなかったのでしょう」
「いや、時間を作れば来れないこともなかったんですけど……申し訳ありません」
ヘンリーがしおらしく頭を下げている姿を、息子のコリンズが今もマリアの陰に隠れるようにして物珍しそうに見ている。
「貴方はマリアを連れて行ってしまいましたからね。気まずくて顔を出せなかったのでしょう?」
「い、いや、そんなことは……はは……」
「いいのですよ。マリアを幸せにして下さって、こんなに可愛らしい王子様もお生まれになって、この娘の母代わりとして嬉しい限りです」
そう言って修道院長が目尻に皺を寄せながらコリンズに微笑みかけると、コリンズはどうしたらよいのか分からず、マリアの後ろに更に身を隠してしまった。すぐ傍に居るポピーが怪訝な顔をしながらコリンズの様子を窺う。
「どうしたの、コリンズ君。修道院長様にごあいさつしなきゃダメじゃない」
「あっ! じゃあボクがお手本を見せるよ。お久しぶりです、修道院長様」
そう言って元気に頭を下げるティミーに、修道院長は柔らかな笑みを浮かべる。
「お久しぶりです、ティミー王子。ポピー王女も。二人ともあれからまた背が伸びましたか?」
「そう、かも知れませんね」
「子供の成長と言うのは本当に早いものですね。見る間に大きくなってしまう。ティミー王子はますますリュカさんに似てきたようにも思いますよ」
「ボクが? お父さんに? 嬉しいなぁ。早くボクもお父さんぐらい大きくなって、もっと強くなりたいなぁ」
ラインハットから始まる周辺地域への訪問に、ティミーは旅装に身を包んでいるものの、旅の中で身に着ける天空の武器防具を今はグランバニアに置いてきている。しかし以前この修道院を双子と共に訪れた際、ティミーが身に着けていた天空の剣や盾、兜を修道院長は目にしていた。彼女は確実に、ティミーが何者であるかに気付いているはずだった。
彼女は決してティミーを勇者と崇めるようなことはしない。彼女はこの修道院を代表する人で、この海辺の修道院にはこの場所でしか得られない安らぎがあった。世界を救うと期待されるまだ小さな勇者にも安らぎをと、修道院長の顔にはただ穏やかな笑みが浮かんでいるだけだ。
「この場所はオラクルベリーのように楽しい場所ではないですからね。子供たちには退屈でしょう。修道院内にいるよりは海辺で遊ばれるのが良いかと思いますよ」
修道院で過ごす修道女たちの暮らしは規則正しいもので、その中でも彼女らが過ごす余暇の時間は凡そ本を読んだり縫物をしたりと、いわゆる娯楽と言う要素は一切ない。子供の内からこの場所で過ごす少女などもせいぜい浜辺に出て自由に身体を動かすくらいのものだった。
「それではお二人とも、しばし浜辺で過ごしましょうか。このサンチョが一緒に参りますよ」
「コリンズ君も一緒に行こうよ! 砂浜でどっちが早く走れるか、競争しよう!」
ティミーがコリンズの手を掴み、修道院の外へと連れて行こうとする。しかしコリンズは母マリアの元を離れたがらず、ティミーの手を無碍に振り払ってしまう。
「コリンズ君……どうしたの? 何か、怖いの?」
いつもの横柄な態度などどこへやら、コリンズの表情が強張り、顔色も悪いのを見て、ポピーが窺うように声をかける。いつもは偉ぶる彼の態度に辟易とするポピーだが、まるで殻に閉じこもってしまったかのように心を閉ざすコリンズには不安しか生まれない。
「コリンズ、海辺でティミー君とポピーちゃんと遊ぶ機会なんて、これから先あるか分からないわ。だから一緒に遊んでいらっしゃい」
そう言いながらマリアはコリンズと目線を合わせるように屈み、息子の目を見つめる。母子共に同じ深海色の瞳が、同じように揺れる。
「母上」
「なあに」
「……いえ、何でもありません。オレ、ティミー達と行ってきます」
そう言うとコリンズは母に向けていた視線を外し、硬い表情のままティミーとポピーの方を振り向く。ティミーはあくまでも明るく、ポピーはどこか心配する様子を見せながら、コリンズを海へと誘うように修道院の扉へと向かう。その後ろをサンチョがお守りをするようにゆっくりと歩いて行った。
コリンズが言い淀んだ言葉に、リュカは気づいた気がした。母と結びつきの強いこの場所に、母が取られてしまうのではないかと本能的に不安を抱いたのだろう。何の根拠もなくそのような不安を抱くはずもない。コリンズは恐らく今も見つからないティミーとポピーの母の不安定な存在に自身の母を重ねて見て不安を抱いたに違いない。
コリンズが言い淀んだ言葉は、母にどこにも行かないで欲しいと、そのような意味合いのものだろうとリュカは思った。しかし彼はその言葉を寸前で飲み込んだ。それと言うのも、ティミーとポピーの前でそんな言葉を口にすることはできなかったのだ。行方不明の母を捜す旅を続ける双子の友人に、そんな言葉を聞かせられないと言いたいことも飲み込んでしまったコリンズは、父と母に似て優しい子なのだろうとリュカは彼が子供たちの友人であることを喜ばしく感じた。
「ここで立ち話もお疲れになるでしょうから、私の部屋へ移動しましょう。お茶くらいはご用意できますので」
「修道院長様、私が用意いたします」
「まあまあ、お客様にそんなことをさせるわけには行きませんよ」
「私がそうしたいのです。あの頃と同じように」
柔らかく微笑みながら会話をする修道院長とマリアだが、互いに年を経たとは言え、根にある性格は時を経ても変わらない。
「マリアの少し頑固なところは変わっていませんね。それでは、お言葉に甘えましょうか」
「私……頑固でしょうか?」
「ええ、あの頃から頑固なところがありましたよ。ヘンリー殿の恋文に頑なに返事をしないほどにはね」
思いもよらないことを唐突に言われ、マリアは図らずも頬に朱をさすと、いそいそと先を歩いて修道院長の部屋へと向かって行ってしまった。
「……えっと、修道院長様はどこら辺まで知ってるんですか?」
「さて、どこまででしょうね」
修道院長が返事をはぐらかしたことに、問いかけた当人であるヘンリーは胸を撫でおろしていた。知りたい反面、知ってしまえばすぐにでもこの修道院を立ち去りたくなるほどの羞恥に見舞われるかもしれないと、ヘンリーはぎこちなく笑いながら前を歩く修道院長の後姿から視線を逸らした。
「マリアに手紙を送ってたのって、結婚する前の話?」
「リュカよ、この話はこれでおしまいだ」
「結婚して欲しいって、手紙に書いたの?」
「書かねえよ、そんなこと。ただ、元気にしてるかって、そんな手紙だ」
「あら、そのようなお手紙だったのですか? あんなに頻繁に送られるものだから、私はてっきり……」
「あはは、親分のくせにまどろっこしいなぁ。素直に修道院まで馬で駆けつけて直接言えば良かったのに」
「うるせぇな! その通りにしたよ! 悪いかよ!」
女だけが暮らす修道院内で男の声が響き、昼餉の仕度をしていた修道女らが驚いた様子で礼拝堂を覗き見る。修道院長の後ろを歩く二人の男性の姿に、年齢様々の修道女らが色めき立つが、院長の「お二人ともご結婚されていますよ」と一言告げればそれだけで彼女らの熱は嘘のように引き、何事もなかったかのように台所へと戻って行った。あっさりと立ち去る修道女たちを見届けながら、修道院長が苦笑いする。
「不躾で申し訳ないことです」
「いや、でもこの修道院を出て幸せに暮らしている人もいるんですよね」
「そうですね。それに中には『私もいつかは白馬の王子様に連れられ……』と夢見る娘もおりますので、つい殿方を目にすると期待してしまうのでしょうね」
そう言いながら修道院長がヘンリーを見れば、彼はあからさまにその視線を避けていた。リュカが再び話しかけようとしたところで、ヘンリーは逃げるように修道院長の前を歩き、「マリアの手伝いしてきまーす」と空々しい態度で先を歩いて行ってしまった。
清貧を行動指針としている修道院では新しいものを取り入れることを避け、身近にあるものを使って暮らしを成り立たせている。修道院長の部屋に置かれている食器類においても、リュカたちが世話になった時と変わらないものを今も使用しており、マリアは当時の記憶のままに茶の仕度をしていた。たとえ客人であっても、豪華な食器を用意することはない。しかし食器自体は古びていても、手入れは丁寧にしているため新しいものと遜色ない。
贅沢品は一つもない修道院長の部屋だが、その代わり本棚には詰め込んであるかのように本がぎっしりと収められている。そこにも修道院での暮らしが現れているように、背表紙は寸分のズレもなく揃えられていた。
リュカは先ずは報告をと、以前この修道院を訪れた際に話していた妖精の世界のことを修道院長に話した。南にある神の塔を長年に渡り管理する立場のこの修道院でも、妖精の世界については全く知らないようで、修道院長は時折言葉を失うほどに驚きながらもリュカの話を聞いていた。ヘンリーもマリアも、まるでリュカが御伽噺を話しているのではないかと思うようなぼんやりとした様子で話に耳を傾けていた。
「まあ、天空城なんてものを復活させてるんだから、妖精の世界に行けてもおかしくないんだろうけどな」
ヘンリーが何気に言った言葉に、修道院長の表情が固まった。神に仕える乙女たちをまとめる修道院長の彼女ならば、天空に浮かぶ神の住まう城についても当然知識として頭にあるものなのだろう。ただ彼女の立場にいてさえも、天空城の存在も、天空に住まう神の存在も、御伽噺の延長のようなものとして捉えていたに過ぎないようだ。
「数百年ぶりに空に浮かんだらしいんですよ。それまで湖の底に沈んでいて……」
「これで一つ、靄が晴れました。やはり神は別におわすのですね」
彼女が心底安心したような声でそう言葉にしたが、リュカはその言葉に引っかかりを覚える。
「別にって、どういうことですか」
リュカの問いに、修道院長は静かに応え始める。以前、この修道院をふらりと訪れた旅人が、とある話を持ち掛けてきたらしい。この修道院で神に仕える乙女たちは皆、その清らかな行いから神に救われる権利を持つと言い、自分は彼女らを神の下へ導く力を持っていると修道女の一人に話していたという。
「人々を救う神は、世界の中心に聳えるセントベレスの高みにいると」
修道院長のその言葉に、彼女の前で話を聞いていた三人は揃って表情を固くした。
「その旅人はその後、どうしたんですか」
「私が直にお話して、早々にお引き取り願いました。私は貴方がたから、あの山のことについて聞いていましたからね」
本来ならばその旅人によくよく話を聞いて、彼の素性までを明かすべきだったのだろうが、修道院長にはこの修道院と修道女らを守る義務がある。見も知らぬ旅人を下手に問い詰め、修道女らを危険に陥れるわけには行かないと、彼女は素知らぬふりをして旅人を体よく修道院から追い出したのだった。
「よく追い出せましたね。相手は男だったんですよね」
「ええ、そうですね。旅慣れしていそうな、僧侶のような格好をしていました」
「修道院長様に何かあったら大変ですわ……」
「私に何かあっても、これが修道女らを守ってくれるはずです」
そう言いながら修道院長は手の先まで隠れそうなほどに長い修道服の袖を捲ってみせる。彼女の腕には聖と邪が混在したかのような装飾の施された腕輪が嵌められていた。その腕輪を見てヘンリーがはっと息を呑む。
「それって、カジノの景品にあるやつ……」
「そのようですね。ただこれはこの修道院で代々受け継がれている貴重な品物です」
修道院長の腕に嵌められているものはメガンテの腕輪と呼ばれるもので、もしこれを身に着ける者の命が奪われれば、命を奪った者目がけてメガンテと言う自爆呪文が発動するという恐ろしい品物だった。
「件の旅人はこの腕輪を見るなり、恐れをなして修道院を出て行きましたよ」
「脅したってことですよね?」
「そのつもりはなかったのですが、結果的にそうなるでしょうか。しかしここにいる娘たちを守るためですから、神もお許しになるでしょう」
その旅人は先ず修道女の一人に話しかけたという。恐らくこの修道院を取りまとめる院長に直接話をすれば受け入れられないと踏んだのだろう。この修道院で少しでも不安や不満を抱えていそうな修道女を見つけ、話しかけ、誘い込もうとした。信心深い彼女らは、裏を返せば騙されやすい一面も持つ。彼女らのその純真さを狙ったのだ。
しかし修道女らは男の思うような都合の良い純真さを身に着けているわけではない。修道女が一人、その純真さ故に素直に修道院長に事の相談をしたところで、男の狙いはあっさりと打ち砕かれた。修道院長が自ら男と話す機会を設け、半ば脅すようにしてこの院を立ち去らせたのが事の顛末だった。
「リュカさんのお話では、神の住まう城が復活されたということでしたね。少し詳しくお話しいただけますか」
神に仕える修道女らを取りまとめる立場の人間で、尚且つ光の教団の危うさにも気づいている彼女にならば問題ないだろうと、リュカは隠すことなく天空城と竜神の復活について話した。リュカの伝える言葉にいちいち頷き、どこか目を輝かせている修道院長の姿は、彼女もかつては一人の修道女だったのだろうと思わせるような幼い純真さを見せていた。
「あなたがあの時、この修道院に流れ着いたのも、一つの運命と思わざるを得ませんね」
この世の全てを知ったかのような雰囲気を纏わせる修道院長でも、およそ十年前にリュカたちがこの修道院に命からがら流れ着いたことに改めてこの世の奇跡を感じていた。そしてその時の青年が成し遂げてきたことは、果たして神でさえ予想していなかったことなのではないかと思えるほど計り知れない。勇者の誕生に天空城の復活、そして竜神さえもこの世に呼び戻した。それが現実に起こっているということに、修道院長は今までに感じたことのない感動をその身にひしひしと感じていた。
「光の教団はやはり、天空におわす神の存在を意識して、あのセントベレスの山に神殿を築いているのでしょうか」
「今や御伽噺として語り継がれているとは言え、恐らくマリアの言う通り、神が天空に住まうことを意識しているのは間違いないでしょうね」
「でも、あの神殿は、本当は……」
そこまで言うとマリアは口を閉ざし、思い出したくない過去の記憶から逃れるように険しい顔をして俯いた。本当は数え切れぬほどの奴隷の命が犠牲になっていることを口にするのが恐ろしいと言ったように、マリアは固く口を引き結んでしまった。隣に座るヘンリーも、妻の様子を見ながら言葉をかけられずにいる。
「私も一度でいいから、神のおわす天空城というものを見てみたいものですね」
セントベレスの凄惨さを知る三人の心を浮上させるように、修道院長が穏やかに笑みながら話しかける。悲しみや苦しみ、絶望を感じる者たちを自然と支える術に関して、修道院長はその術を既に極めているに等しい人物だ。リュカはマリアやヘンリーのためにも、迷わず修道院長の温かな術に自らかかる。
「初めて見る人はびっくりすると思いますよ。不思議なんですよね、あのお城って何で出来ているんだろうって」
「普通の石材などではないんですね」
「何だか、こう、きらきらしてて、目がぐわーんと痛いくらいで、城の中はとんでもなく大きいし、竜の神様は今もいびきをかいて寝てるかも知れないけど」
「……お前が語ると、神様に対する憧れも怖れもなくなっちまいそうだよ」
「僕がそもそも憧れても怖れてもないからなぁ」
リュカにとって、今も天空城の巨大な玉座で眠っている竜神は人間のプサンであり、人間の姿をしているプサンはどこからどう見ても頼りないそこらの酒場の主人風情だった。そのイメージを引きずったままの竜神は、リュカにとってはあくまでもプサンと言う人間が途轍もなく大きくなっただけのものに過ぎなかった。
その後は修道院での日常などの話に終始し、久しぶりに修道院長と顔を合わせ、にこやかに話をするマリアを見て、リュカも自分のことのように嬉しく思った。すっかりラインハットの人間になったのだと思っていたマリアだが、やはり彼女の心はまだこの場所にあるのだろうと思うと、リュカは彼女の隣に座るヘンリーの顔を見るのが怖かった。一見すれば普通に会話に混じっているヘンリーだが、言葉には表せない緊張が彼に見られるような気がして、リュカはそのことには気づかないふりをしたまま皆との話を続けていた。
修道院長の部屋の扉が叩かれ、昼食に呼ばれたのをきっかけに、リュカたちは一度修道院の外へと出ることにした。昼食の後には院長自ら行う講義の時間がある。修道女たちの時間を邪魔するわけには行かないと、リュカたちは揃って子供たちが遊んでいるはずの海辺に向かう。修道院の外からは絶えず寄せる波の音に混じって、子供たちのはしゃぐ声が聞こえる。その中にはコリンズの声も混じっており、三人がサンチョの見守るところで仲良く遊んでいるのだろうと、リュカたちは互いに笑みを浮かべながら修道院の中を歩き、扉へと向かって行った。



思いの外潮風が冷たく、この風に長く当たっていたらコリンズなどは風邪を引いてしまうのではないかと案じたが、三人の子供たちは大人の心配など余所に、裸足になって砂浜の上で遊んでいる。修道院から出てきたマリアの姿に気付いたコリンズが、滲むような嬉しさを満面に表した。その表情はただ嬉しいというよりも、知らず緊張していた心が解けたかのような安心感が漂っていた。
「お父さーん! 一緒に遊ぼうよ!」
服の袖も裾も捲り上げたティミーは、上気した顔をリュカに向けてそう言いながら手を振った。一応、服の汚れを気にしている雰囲気だが、実際は彼の衣服が余さず砂に塗れているのは一目で分かった。砂浜の上で好き放題寝そべったり滑ったり転がったりしていたのだろう。地面とは異なり、柔らかな砂の上では痛くもかゆくもないのでやりたい放題だ。
「お父さん、私と鬼を代わって! もう、私ばっかりなんだもん!」
どうやら三人で鬼ごっこをしていたらしい。双子よりもコリンズの方が一つ年下だが、足の速さに関してはポピーよりもコリンズの方に軍配が上がっているようだ。
「悔しかったらつかまえてみろよ~。一こ下のオレに負けて悔しくないのかよ~」
「く、くやしい~! ここが砂浜だから悪いのよ! 砂に足を取られて上手く走れないんだもん!」
「条件は一緒だろ。そういうのを負け惜しみって言うんだぜ!」
「あったまきた……こうなったら呪文で……」
「ポピー! 呪文使っちゃダメだよ! って言うか、何の呪文を使うつもりだよ!」
妹の暴挙を止めようと、ティミーが慌てて魔封じの呪文マホトーンを唱えようとする。兄の本気の防御態勢を見て、ポピーも冷静になり、魔法の構えを解いたところでコリンズが詰めていた息を吐き出した。
「ティミー、今度オレにもその呪文を教えてくれよ。ポピーのやつ、いつ呪文を唱えるか分からないもんな」
「何よ! コリンズ君が意地悪言わなければいいんじゃない!」
「お父さ~ん、ポピーとコリンズ君、すぐにケンカになっちゃうんだよ~。どうしたらいいのかなぁ」
「ケンカするほど仲がいいって言うくらいだから、そのままで大丈夫だと思うよ」
そう言いながらリュカは三人が遊ぶ砂浜に向かって歩いて行く。三人を見ていたサンチョは海辺に注ぐ穏やかな日差しと絶えず繰り返される波の音に心地よくなったようで、砂浜に座ってうつらうつらと舟を漕いでいた。このラインハット訪問でサンチョも疲れているのだろうと、リュカはその肩にそっと自分のマントを掛けて羽織らせると、身軽になってティミーたちの輪に入った。
「ねえ、お父さん、私の代わりに鬼をやってくれる?」
「うん、いいよ。じゃあ僕が三人の内の誰かを捕まえればいいんだね」
「ヘンリー様も一緒にやろうよ!」
「え、俺も? いや、俺はいいよ」
「そうそう、ヘンリーはもう年だからさ、無理させない方がいいよ」
「え、オヤジってそんなに年なの?」
「誰が年だって? ……わかったよ、やってやろうじゃねえか。リュカ、絶対お前にはつかまんねえからな」
「ちゃんと準備運動しておいた方がいいよ。身体の筋を痛めちゃうかも知れないからね」
「うっすら笑いながら言うんじゃねえ」
文句を言いながらもマントを外してマリアに渡したヘンリーは、しっかりと現実を見据えて軽い準備運動を始めた。たかが鬼ごっこで身体のどこかを痛めて国に戻るわけにも行かない。挑発するような言葉をかけたリュカも同じように身体を動かして準備をする。リュカ自身、このひと月の間グランバニアで国政を務め、さほど身体を動かしていなかったため、旅に出ている時のような動きをするには少し時間がかかってしまうのだ。
再び浜辺で始まった鬼ごっこにはしゃぐ声に、一人舟を漕いでいたサンチョが顔を上げる。膝を抱えるようにして座るサンチョの隣にはマリアが立っていた。肩に掛けられたリュカのマントがずり落ち、砂浜に落ちると、マリアが歩み寄ってマントを拾い上げ、再びサンチョの肩に優しくかけた。
「これは面目ない。つい寝てしまっていたようで」
「いいえ、私たちが院の中にいる間、子供たちを見ていてくださってありがとうございます」
マリアが頭を下げて礼を述べると、サンチョは慌ててその場に立ち上がろうとする。
「私もここで一緒に座って子供たちを見ますね。ですからサンチョ様もどうぞ休まれていてくださいね」
マリアはそう言うとサンチョの隣に腰を下ろし、浜辺で遊ぶ五人を楽し気に見守り始めた。浜辺には暖かな日差しが気持ちよく降り注いでいるが、冷たい潮風に女性が身体を冷やしては大変だと、サンチョは自身の肩に掛けられたリュカのマントをマリアに渡そうと思ったが、既に彼女は夫のマントに身を包み身体を冷やさないようにしているようだった。
サンチョは今回のラインハットへの訪問で、予てより抱いてきたラインハットへの強く厳しい思いがほろほろと崩れて行くのを感じていた。それは当然のように、真正面から謝罪してきたラインハットの頂点に立つ兄弟の真摯な思いに触れたからでもあるが、彼ら、特に夫であるヘンリーを陰ながら支え続けてきたこのマリアという女性の影響が大きいのだろうとも思えた。
「貴方はこちらの修道院の修道女であったと、リュカ王に聞いております」
サンチョの言葉を聞きながら、マリアは小さく「はい」と答えるのみで、その視線はずっと穏やかに浜辺を駆け回る五人に向けられている。そうサンチョは思っていたが、彼女の視線が五人の動きを追って動かないことに、彼女が遥か遠くの海を見つめているのだとふと気づいた。
「我が王もヘンリー殿も数奇な運命を辿っておられますが、貴方もなかなか数奇な運命に巡り合っておられますな。修道女がラインハットの王子と結ばれるなど、それこそ物語のような出来事ではありませんか」
「ふふふ、そうですね、本当に。……今でも信じられません、私があんな大きな国のあんな場所にいるなんて」
それが彼女の本心であることは、マリアの困惑したような笑みに現れていた。ラインハットの王兄妃殿下となり既に十年ほどの歳月が経っているが、今もその立場に馴染めていないのだと言わんばかりの彼女の横顔に、サンチョは束の間返す言葉を失う。
「身寄りのない私が王宮に入るなんて、お話の中だけのことかと思っちゃいますよね」
修道院を頼り、修道女となる娘たちには各々事情というものがある。この海辺の修道院では幼い頃から花嫁修業をさせるのだと娘を預けるような富豪などもいるようだが、そのような娘は時が来れば家族の待つ家に帰ることができる。しかしこの修道院で暮らし、修道女となる娘にとって、帰る家はこの修道院しかない。かつてはマリアもまた、この修道院が彼女の家であり、帰るべき場所だった。
「海って、こんなに広かったんですね。私、ここに来るのも久しぶりで、海を見るのも久しぶりなんです」
「私たちの国グランバニアも森に囲まれていて、普段は海を見ることもないですなぁ」
「こうしてみると本当に限りがありませんね。どこまでも広がっている気がします」
「陽に晒されて輝いているようですな。何とも美しい景色です」
「そうですね、とても綺麗で……」
マリアはそこで言葉を切ると、海に向けていた視線を落とし、俯いた。両膝を抱えるようにして座り、両膝の間に顔を伏せてしまった彼女を、サンチョが心配そうに見つめる。ただでさえ体も小さく細身の彼女が膝を抱えて身を縮めて座る姿は、幼い子供が心細そうに身体を縮こまらせて誰かを待っているようにも見えた。
「母上、どうしたのですか……?」
砂浜を駆けてきたと思ったら、コリンズが母の目の前に四つん這いになるようにして彼女の様子を窺う。鬼ごっこをしながらもコリンズは絶えず母の様子を気にかけ、目にしていたのだろう。マリアは両膝の間に埋めていた顔を上げ、目の前のコリンズを見つめる。コリンズの後ろにヘンリーが立ち、リュカたちもまた彼女の元に集う。
この広い海を命からがら渡り、修道院に命を繋ぎ止められ、ラインハットの王宮に入り、王子を設けるという僥倖にまで巡り合えた。彼女は今、幸せだった。これ以上ないほどの幸せに包まれていると自覚している。
約束は果たしたのだ。しかしそれを報せるべき人が傍にいない。
「海が穏やかで、つい眠くなってしまったようです。こんなことではいけませんね」
穏やかに波を寄せる海を見つめるマリアの目は、思いの外強い。海に穏やかさや優しさを感じているような目ではないとリュカは感じたが、彼女の心に寄り添うのは自分ではないと、横を通り過ぎた友人に思う。
「マリア」
ヘンリーがマリアの頭に手を乗せ、髪を撫でる姿を見て、リュカは今回のラインハット訪問で彼ら二人がこうして意識的に寄り添う姿を初めて見た気がした。そしてそんな二人の姿を見て、途端に胸が締め付けられる思いが込み上げるのを感じた。
「ラインハットへ戻ろうか」
海辺の修道院に行きたいと言い出したのはマリアだった。移動呪文の使い手でもあるリュカに、自分を海辺の修道院へ連れて行って欲しいと、普段は自身の願い事など言わないマリアがそう伝えたことを、リュカは迷いなく叶えてやろうと思った。彼女の思いは十年経ってもまだこの場所にあるのだろうと、故郷に帰るかのように、ここへ連れてきてやるのが彼女のためになると思っていた。
「リュカ、移動呪文を頼めるか」
マリアの意図など聞かずに決めてしまうのはヘンリーの強引さ故だが、同時に優しさでもある。今まで皆で楽しく遊んでいた空気など断ち切るように、事を進めてしまい兼ねないヘンリーの強引さは今もひたすらマリアを守り続けている。
「いいえ、あなた、私がここへ来たいと申し出たんですもの。それに皆さんで楽しく遊べるなんて機会、この先あるかどうかも分からないでしょう?」
「俺はお前をここに連れて来たくなかったんだよ」
そう言ってヘンリーは、つい先ほどまでマリアが眺めていた海を見渡す。西に傾き始めた日を追い越し、その視線は遥か西の彼方へと向けられる。水平線が広がるだけのきらきらと輝く水面の遥か先に、二人が見ている景色を、リュカもまた見ることができる。
「でも私はここへ来たかったの。ここが一番、近い気がするから」
マリアはそう言うと砂浜の上に立ち上がり、海に向かって手を組み合わせる。そして目を瞑り、祈りを捧げ始めた。彼女が醸す聖なる空気は決して強いものではない。むしろ柔らかで儚く、海を渡ってくる冷たい潮風に負けてしまいそうなほどだ。それでも彼女は、ここでこうして祈りを捧げるのが目的だったのだと言わんばかりに寄せる波に向かって立ち続ける。
そんな母を正面から見上げていたコリンズが、母の頭上に果てしなく広がる空に視線を移す。するとそこに、見覚えのある分厚い雲の影を見つけ、思わず声を出す。
「ち、父上! あれです。あの雲。前にラインハットで見た……」
コリンズが指差す空には、一つだけ、大きな綿雲がぷかりと浮かんでいた。注意深く見なければその動きの奇妙さには気づかないが、空を流れる雲がゆっくりと東南方向へ向かうのとは別に、大きな綿雲はまるで意思を持っているかのように南を目指して飛んでいる。
「あ! 天空城だよ! あの雲の上に天空城が乗っかってるんだ!」
「私たちがいるって気づいてるんじゃないかしら。だってこっちに向かってくるもの」
「私も一度だけ目にしたことがありますが、確かにあれは紛れもなくそのようですね。あの雲だけ、風に流されていない……」
皆の騒ぎに、祈りを捧げていたマリアも、彼女の様子を窺っていたヘンリーも揃って上空を見上げる。リュカもまた天空城の姿を隠して飛んでいる綿雲を見上げた。明らかにその動きはリュカたちを見つけ、あまつさえこの場所に降り立とうとしているようにも見えた。
「俺はラインハットの代表として、あの天空城ってやつを知っておいた方が良いよなぁ、リュカ」
ヘンリーの言葉の意味を、リュカは即座に理解した。空高く移動する天空城は海を越え、山を越え、どこまでも進むことができるだろう。ただ風に任せるだけでなく、操縦も可能な空飛ぶ船のような天空城は、リュカたちが望む場所へと連れて行ってくれる。
「勝手ばっかり言って申し訳ないけどさ」
珍しく殊勝な言葉を向けてくるヘンリーに調子を狂わされるような気分になる。大体が強気で勝手を言うのが彼と言う人間だと思われがちだが、リュカは親友の本当の心根を知っている。彼の強引さは大体が、人のためのものなのだ。
「勝手なんかじゃないよ。僕もさ、行こうと思ってたんだ」
「そうか。なら話は早いな」
分厚い白い綿雲がみるみるリュカたちに近づいてくる。ティミーとポピーは地上に下りようとしている天空城に向かって修道院の敷地外へと走り出そうとしているが、サンチョがそれを止める。修道院の敷地から外に出れば、そこは魔物たちの棲息する場所だ。戦い慣れている二人だが、それでも我が子のような我が孫のような二人をみすみす外の世界へ出すわけには行かないと、サンチョは二人を留めて天空城が降り立つのを待っている。
コリンズは初め、未知の景色に恐れをなしていたが、母マリアがゆっくりと天空城に向かって歩み始めた時、母の腰に抱きついてそれを止めた。コリンズが母に何かを言っている姿があった。その声は聞こえないが、リュカにはその気持ちが十分に伝わって来た。
『母上、行っちゃイヤだ』
子供が母に縋る姿がリュカの目に焼き付く。コリンズは今やティミーとポピーの良き友人と呼べる間柄になった。ただ双子の友人の母は今も尚、行方知れずのまま戻ってきていない。その現実がコリンズを必要以上に不安に落として入れているのは間違いない。まるで天空城がかつて修道女であったマリアを連れ去ってしまうかのような恐怖を今、コリンズは感じているのだろう。
巨大で荘厳な青白く光る天空城が、綿雲の上に乗ったまま地上へと下りてきた。その威容にヘンリーたちのみならず、リュカも改めて息を呑む。海辺の修道院が小さな小屋のように見えてしまうほど、天空城は途轍もなく大きく、修道院の北に広がる景色を大きく遮ってしまう。綿雲を緩衝材にして音もなく地上に降り立っているために、修道院の中にいる修道女らはまだ神の城の存在に気付いていない。しかしたとえ修道女たちにこの城の存在を知られても問題ないと判断し、天空城はリュカたちの元へと下りてきたに違いない。
今も天空城の中で、あの竜神は巨大な玉座に眠っているのだろうかと、リュカはサンチョと共に修道院を飛び出した子供たちを追って自身も天空城へと歩み始めた。この天空城でなら、あの場所へも行くことができる。大事な二人の友人夫婦のためにも、リュカは思い出すだけで厳冬のような寒さに身体が震える彼の地を目指す時だと、神々しいばかりの天空城を見据えていた。

Comment

  1. やゆよ より:

    bibiさま

     更新ありがとうございます。今回も楽しく拝読しました!オリジナルストーリー編、あいも変わらず完成度高く、違和感も全くないので続きが楽しみです!!
     今回はヘンリー一家を修道院に連れて行ってますが、羨ましいですね、、ゲームでも連れて行きたいです笑プレイヤーにとっても思い入れの強い場所ですし、みんなが訪れているところを見れてよかったです。まさか天空城まで連れて行くとは思いませんでしたので、次回の展開も気になります。双子の身長が伸びてるような描写がありましたが、切ないですね。ビアンカが行方不明なまま成長していく双子。嬉しいようで寂しいです。 
     現実世界の話しですが、急に本当に寒くなりましたね。割と寒い地方なのでたまらんです泣

    • bibi より:

      やゆよ 様

      コメントをどうもありがとうございます。
      今回はヘンリー一家を修道院へ・・・そうなんです、どうしても彼らをここに連れて来たかったんです。ゲームでは平和ボケしている親分ですが(笑)、まだ平和は訪れておらんのだよと、戒めのためにここへ来てもらいました(違うか)
      そしてまた勝手な展開で、彼にも天空城で移動してもらいます。ここまで勝手をすると興ざめする方もいらっしゃるかも・・・。でもすみません、好きにさせてやってください、私を。
      子供の成長は喜ばしいけど、それを見られないのは寂しいですね。ビアンカ・・・早く助けに行きたいです。
      明日から師走。そりゃあ寒くなるってもんですね。寒い地方の方なんですね。どうぞ免疫力を高めて、風邪など引かれぬようお過ごしくださいね。

  2. ジャイン より:

    bibi様
    お話自体は水のリング編が更新されていた頃から読ませていただいてますが、今日初めてコメントさせていただきます。現役大学生です。
    ゲーム内ではヘンリーやマリアが再び修道院を訪れるという描写はありませんが、もし訪れていたらこうなっていただろう…という私が想像していたイメージと一致してとても読みやすかったです。海辺で遊ぶ三人の子供も、大人になればリュカとヘンリーの親友関係みたいなものに成長してるかもしれませんね(もうなってるかもしれませんが…笑)
    文が下手で言いたいことが伝わっているか不安ですが、今後も更新楽しみにしております。

    • bibi より:

      ジャイン 様

      コメントをどうもありがとうございます。
      水のリング辺りから・・・長々とお付き合いいただいてありがたいことです。感謝申し上げます。現役大学生ですか。私の姪と同じくらいですね。私はジャインさんのお母さんくらいの年齢かも(笑)
      ゲーム内にはない展開が続いてますが、読みやすかったと仰っていただいて光栄です。ゲーム内の展開とも辻褄を合わせなくてはならないので、余計なことは書かないように書かないようにと気をつけていますが、うっかり書いていそうで後で怖いです。・・・短編が続いてるくらいの軽い気持ちでお読みいただければと思います。
      今後もゆっくりではありますが更新して参りたいと思いますので、引き続きどうぞよろしくお願いいたします。

  3. ケアル より:

    bibi様。
    執筆お疲れ様です。

    サンチョに奴隷の話をしていなかったでしょうか?
    以前リュカがサンチョに話してたような…勘違いだったですか?

    マリア…やっぱりそうなりますよねヨシュア兄さんのことを…。
    マリアはヨシュア兄さんが生きてないと思っているんでしょうか?あの光の教壇のことですからマリアたち3人を逃がした罪は…マリアの気持ちが気になります。
    bibi様はゲーム内でヨシュアがどうなったか覚えていますか?
    ケアルはうろ覚えですが覚えています。

    • bibi より:

      ケアル 様

      こちらにもコメントをどうもありがとうございます。
      サンチョには・・・話していないつもりでしたが、もし話している場面があったら教えてください(汗) 私自身が私自身の話を追い切れていない部分があり、最近、色々と自信がなくなってきたもんで(苦笑)
      マリアは覚悟を決めてはいますが、生き別れと言う状況では完全に諦めることもできないという・・・望みを捨てきれない感じでしょうか。兄にももちろんですが、彼女はあの山に今でも苦しむ奴隷の人々に対し、どうしても後ろめたい気持ちがあると思っています。その気持ちを忘れないように毎日祈りを捧げていますが、そんな母の姿にコリンズはいつも不安を抱えています。ラインハットの人々は、一人一人がなかなかに深い思いを抱えています。こちらはこちらで実は深い話を考えていたりもします。それを書こうとすれば別の長編になってしまうので、ちょっと今は手をつけられませんが(汗)

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