人々のこれから
まだ人々の目に生き物が持つべき活力が戻らない。それも当然で、彼らがセントベレスの地から救出されてまだ二日しか経っていないのだ。まやかしの神々しい大神殿から、いつから存在するのかも分からない、一つの国が収まっているようにも思える巨大な天空城へ移動させられ、彼らはまだ夢の中を彷徨っているかのような表情をしている。
リュカたちがグランバニアに戻り、様々話をしている間に、天空人らが人々の世話をしてくれていた。しかし人間ではない彼らの世話には当然不足があり、水だけで生きて行けるような天空人たちにとっては、人間の空腹と言う状態が今一つ理解できていない。何度かリュカたちは天空城に滞在し、天空人が焼くパンを口にしたこともあったが、人間と違い天空人は腹を空かしてパンに噛り付くという状態に陥ることはない。彼らが食べ物を口にするのは、単に好奇心に駆られているだけであって、人間の食欲という重い意味を持つ行動ではない。
しかし天空人が提供するささやかな水とパンだけで、今の彼らには十分な栄養だろうとリュカは自身の過去を思い出していた。空腹に慣れきった腹は、目の前に大量の食物を並べられても到底受け付けることができない。たとえ視覚に食べたいと思い、口にして飲み下したところで、その後に戻してしまうほどに受け付けないのだ。食べることだけではない。人間らしい生活を送る状況に戻るためには、まだ当分時間がかかるだろう。
「二千人を超える人々がいるようです」
サンチョの言葉に、リュカは顔をしかめつつも一つ頷く。リュカもあの大神殿で囚われていた人々の姿をその目に見ていたが、千人ほどかと感覚的に見積もっていた。天空人が人々の数を確認してくれていたようだが、その数を聞いてリュカはもう一度テルパドールにも協力を仰がねばならない可能性を考えていた。
リュカとサンチョが渋い表情で人々を見渡す傍で、一人、浮かれたように天空城の景色を眺める者がいる。素直が表情に出ており、口もだらしなく開いたまま、どこまでも透き通るような美しい天空城の建物に目を輝かせている。
「ピピン、口開いてるよ」
「はっ!? 開いてました?」
「うん。一応、兵士として口は閉じておいた方がいいと思う」
「そ、そうですよね。気を付けます!」
リュカの言葉にびしっと返事をしたピピンは格好こそ兵士の姿だが、その実はまだ兵士見習いも見習いで、子供の域を脱していないと言っても良いほどだった。兵士としての職務を全うしようとする気持ちは大いにあるのだろうが、それ以上にこの天空城と言う異空間に圧倒され、気づけば再びぽかんと口が開いてしまう。そんな彼の姿を見て、リュカはもう注意することなく、ただ横で笑っていた。今のこの状況に、ピピンの存在は大いに役立ってくれるに違いないと、兵士長ジェイミーに首を傾げられながらも連れてきたのだ。
大神殿に突入する前からある程度の物資を天空城内に準備していた。そもそも大神殿に向かう前から、神殿に囚われている人々を救出する目的を持っていた。しかしそれをもってしても、二千人を超える人々への物資としては到底足りていなかった。今も尚多くの人々が、奴隷の服を身に着け、ぼんやりと天空城の中を見渡しているような状況だ。一日一日、その身を労働だけに費やし、それさえしていれば良かったような人生から、唐突に人間らしい暮らしをと服や食べ物を提供されても、何をどうすればいいのかも分からないだろう。
「とにかく、普通に食べられるようにならないと」
そう言いながら、リュカは自身らが大神殿から脱出し、初めてまともな食事にありついた海辺の修道院での過去を思い出す。薄味の豆のスープは味としても栄養としても、身体に染みわたった。ただ、彼らはたったの三人だった。それに比べ、今リュカたちが目の前にしているのは二千人ほどの人々だ。食にしても住居にしても衣服にしても、グランバニア一国でこの場にいる全ての人々の面倒を見ることはできない。
「みなさん、聞いてください」
リュカが声をかけるまで、場は静かながらもざわついていた。今彼らがいる場所は、天空城の中の教会近くにある大きな溜池の近くだ。池の周りには枯れることのない色とりどりの花が咲き乱れ、天空城の神秘的な景色と相まって幻想的な雰囲気を生み出している。その雰囲気に飲まれている人々の中には、この場が天国であり、自分は天に召されたのだと思っている人もいるのかも知れない。
人々の前に立つリュカは、グランバニアの国王としての姿を見せていた。正装に身を包み、右手に持つのは剣ではなく、ドラゴンの杖だ。そして人々を見守るのはグランバニアの兵士らであり、その中の一人としてピピンもリュカの近くに立っている。本来ならばジェイミー兵士長もこの場に呼びたいとリュカは口にしていたが、ジェイミー自身がそれを固辞した。パピン亡き後、このグランバニアを守り続ける筆頭として自身があるのだと、ジェイミーはグランバニアを離れることを是としなかった。
「僕は地上の、グランバニアという国の王です。これからあなたたちが人間としての本来の生活ができるよう、地上へ運びます」
国王然たるリュカの姿と、今後の彼らの明確な行動を導く形を取るその言葉に、多くの人々の中にちらほらと生きる目を取り戻す者がいる。しかしまだまだ弱い。リュカやヘンリーのように幼い頃からその身を囚われていた者などは、リュカが何を話しているのかも理解できない様子だ。人としての生活を奪われる時を過ごしてきたのだ。それを取り戻すには時間もかかり、労力もかかる。
「その前に、一人一人、僕が話を聞きます」
その言葉にサンチョが驚いたようにリュカを見た。オジロンにも止められていたことだ。多くの人々の意見を、一人一人丁寧に聞くことは困難だろうと、年長者は揃ってリュカの優しすぎる対応に渋い顔をしていた。中には我儘を言い出す者もいるだろう。身勝手に自分だけの保身を求める者もいるだろう。そんな人々への対応に追われることを、オジロンもサンチョも懸念していた。
「時間はかかると思います。それでも僕はあなたたち一人一人から話を聞きたいと思っています」
自分だけ先に助かり、人間らしい生活を送り、妻にも子供にも恵まれた生活を送っていることに対し、リュカの胸の内には懺悔の思いがある。ようやく大神殿に囚われた人々を救い出すことができたとは言え、それでリュカの罪が消えたとは思っていない。
リュカたちがあの大神殿を脱出した後、確実に監視体制が強まっただろう。奴隷たちへの看守らの当たりも強まっただろう。その間に命を落とした者もいる。現に、リュカは地下神殿の奥地で、ヨシュアの亡骸を見つけた。彼の亡骸があった場所には、他にも多くの人々の命が失われていた。
時は元に戻せない。それならば前に進むしかない。とは言え、前に進むためには生きる活力が必要だ。ただ食べ物を与えて、寝る場所を提供すれば事足りるという簡単なことではない。一人ではないのなら、互いに助け合い、支え合いながら生きること、それが生きる活力となる。そのための場を、リュカは一人一人に話を聞きながら与えられればと、二千人を超える人々を前に覚悟を決めたのだ。
囚われていた人々は、列に並ぶということには理解が及んでいた。あの大神殿での建造に携わった者たちには、集団の中における秩序というものはあった。そしてその秩序に従わねば鞭を食らうという恐怖があった。しかし恐怖の中の秩序と言うものは非常に脆いものだ。鞭を食らうという恐怖がないと分かれば、自ずと守られていた秩序は徐々に崩壊する。
その内に列を乱す者たちが現れた。リュカが人々の話を聞き始めて数分も経たない内のことだった。あまりにも急な展開に頭がついて行けず、唐突に不安を感じたのだろう。話を聞いてどうなるものかと、どこぞの王様が何も知らずに勝手に色々と決めるなと、囚われていた人々の中では比較的体力のある男が数人、騒ぎ始めたのだ。
騒ぎが大きくならないうちにと、兵士らが動き、腰の剣を抜かないまま近づき収めようとする。訓練された、栄養状態も良い兵士に、まだ窮地から救われたばかりの男たちは敵わないはずだった。しかし追い詰められた者の力は時折途轍もない力を生み出す。兵士の一人が力任せに床に倒されたと見るや、リュカは自ら立ち上がり、足早に近づく。
「止めなさい」
そう言ってリュカは男の手を掴み、後ろに捻り上げた。本当はこのような無理強いなどしたくはない。しかし場の秩序を守るために強権を発動しなくてはならないことを、リュカは心得ている。抗おうとする男の力は思いの外強い。しかしリュカもまた力を込めて抑え、そして言葉をかけ続ける。
「不安なのは分かります」
「何が分かるってんだ! あんたみたいなヤツに、俺たちの何が分かるってんだよ!」
「いいえ、分かるんです、本当に」
リュカはあの海辺の修道院の修道女らに助けられ、彼女らの真摯で丁寧な対応があったからこそ、人としての道を外さずにこれまで生きて来られたのだと思っている。ヘンリーもマリアも、恐らくそうに違いない。不安を抱えたままでいれば、それは怒りや悲しみに形を変え、己の心を蝕んでいただろう。心がそうなれば、起こす行動も変化する。もし不安に心が倒されていたとしたら、リュカたちは今、今いる場所で生きてはいなかっただろう。
「口で言うだけなら、誰だって言えんだろ!」
「そうですね……すみません」
謝るリュカだが、その弱々しい言葉とは裏腹に、男を抑える手は緩めない。恐らく労働現場でも力自慢の男だったのだろう、力任せにリュカの手を振りほどこうとするが、完全に男の腕を捩じ上げてしまっているリュカの手は緩まらない。
その内に、男の腕の力が抜けた。リュカは彼の心根を信じるように、躊躇なくすぐに掴む手を離した。近くでその様子を見ていたサンチョはリュカを庇うように一歩前に進み出ようとしたが、男がすすり泣く声を聞いてその足を止めた。
「何でもいいんです。話したいことがあれば何でも、僕に話してください」
床に両手を着いて涙を落とし始めた男の傍に、リュカもしゃがんで声をかける。男の持っている知識の中にも、一国の王たる者がこうして一人の乱暴者の前で、目線を合わせ、その者の言葉を拾おうとしている姿はない。力を得ているものはいつでも力を見せつけ、その力に他の者たちを従わせようとする。それがたとえ本質的に間違っていたとしても、正当とされる時が大いにあることを男は身をもって知っている。
男は何故、自分が涙を流し始めたのかも分かっていなかった。当然、リュカにも彼の本心など測りかねるものがあった。意識が混乱しているのは間違いない。その中でも最も強い思いが、涙に形を変えて零れてしまっただけなのだ。
「俺なんかがよう……」
場は静まり返っている。突然の男の行動を責める人は一人としていない。男と同じく暴れ出そうとしていた他の者も、勢いを削がれたようにその場に佇んでいるだけだ。周囲の人々も怯えたり、厄介ごとに巻き込まれないようにと距離を空ける者がいるが、彼らの一人として男を責める表情を示していない。
「どうして生きてるんだよ……」
その言葉は、リュカの胸にも突き刺さる。
「どうしてもっと早く……」
力ある者に対して懇願する男の姿は、決して情けないものではない。今、奴隷から解放されたこの男には何もないに等しい状態だ。ただ生き延びただけで、これから新しい地に運ばれ生活する場所を提供すると言われても、彼の胸にあるのは期待や希望よりも不安が多く占めているに違いない。
リュカには隣にヘンリーがいた。彼がいれば、悲しみも苦しみも心の中で共有し、分かち合うことができた。ヨシュアに託されたマリアもいた。彼女の身を守り、地上に無事送り届けるという目的がリュカの生きる力に更に力を与えた。人が生きて活きて行くためには、仲間が必要で、希望となる目的が必要なのだ。たとえばそれが今の彼に無いとしたら、傷ついた心を癒しながらも仲間も希望も探求させなければならない。
「生きていてくれてありがとう」
そう言ってリュカは床に着いた男の両手に手を添えた。男はリュカの手を振り払おうともしない。ただ床に着く両手の間に、涙を落とすだけだ。
「あんなに辛い場所で……よくみんな、生きていてくれてたね」
言葉にして思い出せば、吐き気を催すほどの劣悪な場所だった。当然のように、あの場所で命を落とした者もいる。そんな人々の事を思えばこそ、目の前の男のように自身が生き続けることの罪を感じ、悔しさに涙を流し、やるせない気持ちに脱力して床に手をついてしまうのだ。人々のそのような思いに添い、忘れもしないあの場所での悲惨な状況を思い出せば、リュカの手も自ずと震える。
「本当に、ありがとう」
リュカの言葉は紛れもなく本心から出るものだ。人間として人間らしく生きることから離れていた彼らの、命そのものを肯定しなければならないと、リュカは自分がかけて欲しい言葉をそのまま彼らに告げる。
「これからは僕たちが仲間だ。一緒に生きて行こう」
生きねばならないというような強い言葉をかけることはできない。しかし人間同士、共に手を取り合い生きていくことはできるのだと、目の前の男にだけではなく、この場にいる人々全てに届くようにリュカの声は天空城の広い教会の中に響く。
リュカは男の肩を叩く。泣き顔のまま顔を上げる男を見て、リュカはもう一度彼の肩を叩いた。大丈夫大丈夫と、何度も刷り込むように肩に手を乗せ、まるで赤ん坊をあやすように軽く叩き続ける。その内に自分の状況を冷静に見ることができるようになった男が、恥じ入るようにリュカから離れた。
「……悪い。悪かったよ」
「君は何も悪くないよ」
「いや、俺はきっと、悪いことをしてきたんだ」
はっきりとは言わず、言葉を濁す彼を見れば、恐らく本当に悪事を働いたこともあるのだろう。しかしリュカはそれを断罪する立場にはない。もし男が過去に悪事を働いたことがあったとしても、それは彼自身が心から悔い改め、前を向くことしかできない。
「さあ、僕はみんなから話を聞かないと。時間はかかるけど、列に並んでくれるかい?」
「あんた、本気でこんなたくさんの人の話を……」
「聞くよ。一人一人、聞きたいんだ。一人一人、助けたいからね」
「無茶だよ」
「そうだとしても、やるよ。僕がそうしたいんだ」
「他のヤツらにもやらせればいいじゃねぇかよ」
「いや、きっとこれは僕にしかできないから」
そう言うとリュカは男の腕をやはり軽く叩いて、その場を颯爽と離れた。暴れようとしていた男たちの周辺には、念の為にとグランバニアの兵士が二人、まるであの場所の看守のように立っている。腰には剣も差している。その姿に男たちは反抗するような恐怖に慄くような目を向けるが、兵士たちに奴隷たちを傷つけ貶めてやろうと言うような意思はまるで感じられない。先ほども、男たちが暴れ出した時に彼らは決して剣を抜こうとはしなかった。兵士が身に着ける剣は今は、解放された二千人ほどの人々を守るために腰に提げられている。看守たちが振るっていたような狂気の鞭とは違い、兵士たちの剣は正義のためにあるものなのだと、男たちのみならず、周囲にいる人々の間にある空気は幾分和らいだようだった。
人々の前に戻る途中で、サンチョがリュカにそっと話しかける。
「……リュカ王、一人一人からお話を聞くとして、今日中に終わるとお思いですか?」
「え? 終わらないかな」
「お話を短く済ませたとしても、恐らく半月はかかるかと」
そんな会話が皆に聞こえぬようにささやかに行われる。この場にいる人々に妙な不安を与えてはならないと思いつつ、リュカのこめかみに一筋汗が流れる。
「オジロン様と私とで申し上げていたはずです。馬鹿丁寧な対応は必要ないのではと」
「うーん、でもみんなに言っちゃったしさ」
「責任ある行動をお願いしますよ」
「責任は取るよ、ちゃんと」
「オジロン様もジェイミー兵士長も、リュカ王がそこまで時間を取るということを想定していないでしょうな」
「……ちゃんと後でグランバニアに戻って説明しておきます」
そう言いながら早速頭を悩ませ始めているリュカを見ながら、サンチョは叱られた子供のような顔をしている王の様子に思わず小さく噴き出していた。無茶を言い出しても、この国王はその人となりのお陰で結果丸く収まってしまうのだろうと、言い出したサンチョもまた心のどこかで楽観視しているのが事実だった。
人々と話している内に、彼らが故郷としている場所を覚えていることが多いということが分かって来た。帰りを待つ者がいる、帰るべき場所が分かっている人々を先に対応するように集め、リュカはある程度まとめて人々から話を聞いた。同郷となる者もいた。隣町に住む者もいた。一時的に魂を抜かれていた人々だが、故郷や故郷に残してきた大事な人への思いは残っていた。一人がそれを思い出せば、連鎖するように周りの人々も思い出していく。思ったよりも皆をあるべき場所に送り届けるのに時間はかからないかもしれないと、リュカは状況の好転に密かに胸を撫で下ろしていた。
しかしその一方でまだ魂が抜かれたままのように、ぼんやりと虚空を見つめているような状態の人もいる。その多くはまだ子供の頃からこの場に連れてこられたような、若い人々だった。今もまだ子供であり、この状況が一体どのような状況なのかも分からず、ただぼんやりと流されるがままの小さな子供もいる。そして子供たちに対して本能が働くのだろうか、数人の女性らが子供たちを守るように傍についている。決して彼らの母親、というわけではないのだろう。
リュカの前に立つ少年は、天空人たちの助力により身ぎれいにはなったものの、身に着けているものはまだ古びれた奴隷の服だ。顔や体の汚れは落としたものの、汚れに汚れた奴隷の服を身に着けていては地上の人々との生活に支障を来す。水を操る能力に長けている天空人たちは、人々の汚れを落とすために水を使い清めたのだろうが、簡単に落ちるような軽い汚れではないことはリュカ自身身をもって知っている。
ティミーやポピーとさほど年も変わらないほどの少年の顔を見ながら、リュカはふと既視感を覚えた。リュカと視線を合わせることもなく、少年の視線はどこか宙を彷徨っている。まだあの大神殿での景色がその目に残っているのかも知れない。今よりももっと幼い頃からあの場所に連れて行かれたということは、彼は人生のほとんどを強制的にこの場所で過ごすことになったのだろう。そして唐突にこのような天空城と言う別の異空間へ連れ出され、頭の中には整理し切れない思いや景色が溢れているに違いない。
「立っているのが辛かったら、座っていいよ」
リュカが声をかけても、少年は返事もせずに、口も少し開いたまま、ただぼんやりと突っ立っている。彼の目は大神殿の景色でも、天空城の景色でもない場所に向いていた。全ての現実から逃れるように、彼の意識は遥か遠く、記憶も朧げな幼い頃に幸せに暮らしていた大きな屋敷を見ていた。
父も母もいた。屋敷の庭は広く、一人で遊ぶにはむしろ広すぎた。自分が思い出せない小さな頃から、父も母も愛情深くボクを見てくれていたに違いない。屋敷の中でも外でも、いつでも父も母も絶えず笑顔を浮かべていた。だけどボクには父と母と、屋敷の使用人がいるだけだった。他には何もなかったが、それだけで幸せだったのだ。全てがきっと満ちていた。
屋敷の庭には草花が繁り、蝶がふわふわと飛んでいた。当時の彼に、屋敷の周りに存在していた四季を理解する力はなかった。まだ幼かった彼はただ、屋敷の庭にあった春の景色が強く脳裏に残っていた。それと言うのも、彼の幸せな時は、その季節に絶たれたからだ。
蝶は花に留まるだけではなかった。庭にはいつからか、一体の石像が立っていた。蜜があるわけでもないのに、蝶は羽を休めるためでもなく、好んで石像に留まっていたように思う。そうでなければ、石像にあちこちから蝶や小鳥が集まり、羽を休めるわけはない。
少年ジージョの視点が、今はどこにあるかも分からない父や母が待つ屋敷の景色から徐々に、現実に追いつくように神秘的で神々しいばかりの天空城の景色に移って行く。そして視線が動き始める。周りには多くの人々がいる。辛い労働から離れ、この現実離れしたような神秘的な場所で身体を休め、近くの者と言葉を交わしていたりもする。
「はっ! ボクは今まで何をしていたんだろ……」
普通に言葉を口にした少年を見て、リュカはほっと胸を撫で下ろした。既に大神殿から離れ日が経っているというのに、彼はまだ夢現の状態が続いていた。子供の頃に囚われ、子供の頃から酷い労働の日々を過ごしていた者たちは、目の前の少年のように目覚めるのに時間がかかるのだろう。
「良かった。気分はどうかな? 今、僕のことは見えてる?」
リュカは少年を怖がらせないようにと、少し距離を取ったままその顔を覗き込む。少年と視点が合っても、急かして話すことはせず、ただ彼の落ち着きを待つ。
リュカやヘンリーも子供の頃からあの場所に囚われていた二人だが、彼らには絶えず『この場所を抜け出してやる』という目的意識があった。それ故に、看守にはいつまで経っても奴隷になり切れない奴だと、苛立ちのまま腹いせに殴られたこともあった。それでも脱出を夢見る同志がいる限り、自分が諦めるわけには行かないという思いがあった。その思いがあったからこそ、彼らは地上に逃れた時に間もなく自らの足で立つことができたのだ。
「……あなたは、誰ですか?」
そう言いながらも、少年ジージョの目にはリュカの姿が様相を変えていく。目の前にいるのは紛れもなくどこぞの貴族か何かと言うほどの身なりをしており、その姿を見ているだけで幼い頃の屋敷での暮らしぶりを思い出す。父も母も、恐らく自分も、立派な衣服を身に着けていた。しかしその顔を見れば、父でも母でもない、それでいて見覚えのある顔つきだ。
正面から見たことはない。いつもはこの人を、下から見上げていた気がする。
天空城の教会の祭壇奥には、人間界と同様に美しい石像が立っている。竜神の住まいであるこの城にはあちこちに女神像が立ち、天空城たる神々しさを増している。教会の祭壇奥に立つ女神像も、教会の厳かさを保ち、増すが如くに凛々しく立っている。
少年は目の前にいる男の後方遠くに立つ女神像を視界の端に映した。材質はただの石ではないのだろうが、その色が少年にはごく普通の灰色の石に見える。それは、目の前にいる男に映る色はその色であるべきだと、記憶も定かではない思い出の中にそう思ってしまうからだ。
「おや?」
少年の記憶の片隅に存在する石像は、自身が住んでいた屋敷にいつからあるのかも知らなかった。しかし父も母も、その石像を「マモリガミ」と呼んでいた。良いものなのだと教えられた。この家もみんなも、悪いことから守ってくれるのだと教えられ、少年は石像を少々怖いと思いながらも父母の言葉を信じていた。
「あなたは昔」
記憶も定かではないが、言葉が口を突いて出た。
「ボクの家にあった守り神によく似ていますね」
少年ジージョの言葉を聞いて、リュカの顔に浮かんでいた微笑みが徐々に消えていく。リュカの目の前にいるのは、ティミーとポピーと変わらないほどの年頃の少年だ。ちょうどその位の年頃だろうと、買われ、運ばれた屋敷でもそう思って視界のどこかにかつての彼を映していた。
まだ生まれたばかりで、泣くか、言葉ではない声を上げるだけだった。母に抱かれる赤ん坊の姿を見るだけで、石の呪いの中でも激しい後悔の念がリュカを襲った。屋敷の庭で初めて立つようになったジージョを、屋敷の主人とその妻は揃って喜んで見守っていた。その光景を目の端に映しながら、リュカは我が子も立つようになったのだろうかと思いを馳せた。ジージョはみるみる言葉も話すようになった。子供の成長はこれほどに早いものかと、リュカはやはりグランバニアに残してきた二人の我が子へ思いを馳せた。
父母に、屋敷の使用人らにも可愛がられ、沢山の愛情を受けて育つジージョは、ある時魔物の襲来により攫われた。その時の絶望は、ジージョの父母らだけではなく、リュカをも襲った。屋敷の主人の悲嘆に憤りにと、それは全てリュカも感じていることだった。身体さえ動けばジージョを助けることができただろうが、指先一つ動かない状況では、子供が攫われるという絶望を見ているしかできなかった。
屋敷の主人が力任せに、守り神として庭に立っていた石像のリュカを蹴り倒した。地面に横倒しになり、視界が狭まり、空が遠くなっても、リュカには自分を蹴り倒した屋敷の主人への怒りなど一つも沸かなかった。蹴り倒されて然るべき、守り神として役に立たないどころか、疫病神としてどこかへ打ち捨てられて当然だろうと思った。
それと同時に、自分の手など到底届かない我が子たちへ思いを馳せた。無事でいるだろうか。もし我が子二人も同じように魔物に攫われたりすれば、恐らく自分は気がおかしくなり、我武者羅な行動を起こすに違いない。そんなことを思ったところで、リュカの身体は石の呪いから解かれることはない。声を発することもできない。生き地獄を味わうように、ただ考え、感じて、思うことしかできなかった。
親の絶望など跳ね返すように、魔物に攫われてから後も、セントベレスの山の上で過酷な労働に耐え、ジージョは生きていてくれた。その現実を確かめるように、リュカは手を伸ばし、ジージョのまだ小さな両手を両手に取った。そんなリュカの姿を、サンチョも兵士らも何事かと、少々落ち着きなく見守っている。リュカはジージョの両手を手に取りながら、頭を下げて額に少年の手をつけると、思わず言葉を零した。
「ありがとう」
リュカに礼を述べられたジージョは、ただよく分からない様子で目の前に下がる黒い頭を見つめていた。リュカもここで彼に細かな事情を話す必要もないと、一も二もなく彼を彼のいるべき場所へ帰さなくてはと、顔を上げて思い出したように笑みを浮かべた。
「お父さんとお母さんが待ってる。君の家に帰ろう」
リュカの言葉に、ジージョは己の中に残っている幸せな記憶を辿るように、父と母の愛情に満ちた笑顔を思い出す。いつでも帰りたいと思っていた。しかし早くから、自分はもう帰れないのだと、周りの状況に自ずと分かった。諦めれば心は楽になる。心を空っぽにしてしまえば、辛いことが一つ減るのだと子供ながらに学んだが、今になって少年の心にはかつての生きることそのものへの喜びが蘇ってきた。
「そうだ! 父さんや母さんのところに帰らなくっちゃ!」
ここはもう、あの寒さ厳しいセントベレスの山の上ではない。どこか分からない恐ろしいほどに厳かな建物の中のようだが、目の前の守り神に似た男にも、横についているふくよかな男性にも、この場所を埋め尽くす人々にも、得も言われぬ希望を見い出すことができる。諦めなくて良いのだと、ジージョは長い間心の奥底に眠っていた願望を、この状況の中で口にすることができた。
一人一人話すことには時間がかかり、労力も計り知れない。しかしこうして、リュカはかつて目の前で攫われてしまった子供と直に話し、救い出すことができた実感を得ることができた。他の人々も、一人一人の人生がある。数日の時がかかるだろうが、リュカはやはりこの場所にいる一人一人から話を聞いておきたいと思った。それはリュカ自身がしたいことでもあり、そしてしなければならないことだと思っている。全ての人に向き合ってこそ、あの場所で命が絶たれた者たちへの弔いにもなるのだと思いながら、リュカは少年ジージョの頭を撫でていた。
言い出したからには最後までと、リュカは休みなく人々の話を聞き続けた。ところどころで、我に返った人たちの混乱があり、その度に兵士らがその場を収めるために動く。そして多くの人々の中からも、自発的に集団をまとめるべく動き出す者が現れた。先ほど暴れ出そうとした男も然り、他にも数人が混乱する仲間たちを宥め、話を聞いてこの場を落ち着いたものにしてくれている。いつの間にかそこここで集団が出来ているのを見て、リュカもサンチョも人々を人間らしい生活の場に戻すのは早まるだろうと、安堵の溜息をつく。
大人たちの混乱には兵士が対応する一方で、解放された子供たちもまた徐々に我を取り戻し、泣き出す子供もいれば、変化した状況に徐々に慣れても尚何をしたらよいのか分からないと、ただ時を待つばかりの子供もいる。
そんな子供の只中にいるのは、ピピンだ。彼はまだ兵士見習いという立場だが、この場に連れてきたからには一応兵士としての役割を負っている。しかし今、彼は集まる子供たちに囲まれるように床に座り、何をしているのかと思えば、両手で代わる代わる三つの玉を投げては拾い投げては拾いと、器用にお手玉をして見せているのだ。
「ピピンはよくああやって、王子王女の遊び相手になってくれていたのですよ」
サンチョの言葉を聞けば、ピピンがまだ子供の頃にティミーとポピーの前で同じようにお手玉をして見えていた情景がありありとリュカの脳裏に浮かんだ。ピピン自身、まだ子供から抜けきらないほどの幼さを見せているが、子供たちを相手に遊ぶ彼は頼れるお兄さんと言ったところだ。
「グランバニアには子供が非常に少なかったですからね」
グランバニアに子供が少なかった要員の一つに、王子を産んで間もなく母である王妃が攫われたということがある。国を代表する者の悲劇に国民は皆不安になり、それは子供を授かること自体への不安にも繋がった。折角子供を授かっても、同時に母の身に何かが起こるのではないかという何の確証もない、まるで理不尽に受ける呪いのような不安が、国の中にひっそりと渦巻いていたのだ。
そしてその不安は、次代の王妃ビアンカが魔物に攫われ、更に増した。今もグランバニアには新たに生まれる命の数が極端に少ない。十年を経て無事にビアンカが戻ってきたことで国民は沸き、今後は子供の数も増えるかも知れないが、その子供たちが成長し大人になる頃にはリュカもサンチョも更に年を取っている。ぽっかりと一世代分、空白になっているような状況が一国にとって好ましくないのはリュカにも分かっている。
人々と話をし続けて喉が声が枯れてきたリュカは、サンチョに差し出された水を飲んだ。天空城は常に雲を周囲に纏い、水には困らない。しかも天空人らの能力の一つなのだろうか、口にする水には体力を回復する力も込められている気がする。この水の効力もあってか、この場に救出された人々の顔色が少し前よりも血色良く見えてくる。
「あそこにいる子供たち、グランバニアで引き取れないかな」
「そう簡単なことでもありますまい。あの子供たちにも、一人一人、色々と事情があるはずです」
サンチョにそう釘を刺され、リュカは思わず自分の言った言葉に恥じ入った。この場にいる一人一人から話を聞くのだと言い出したのは自身であるにも関わらず、グランバニアの王として国のためにと、ピピンと遊んでいる子供たちを一斉に引き取ろうと考えてしまったのだ。
先ほどのジージョのように、帰るべき場所があるのかも知れない。もし子供たちの帰りを待つ父や母がいるのなら、どうにか探し出して、親の元へ帰すことにはリュカは労力を惜しまないつもりだ。
リュカとサンチョが少しばかり言葉を交わしていると、子供たちと遊んでいたピピンが立ち上がり、リュカの様子を窺うようにそろそろと歩いてきた。もっと遊んでと腕を掴まれていたが、言葉と、身振り手振りで何やら伝え、二人の子供がついてくるだけに抑えたようだった。
「あの、リュカ王、ちょっとよろしいですか」
「うん、どうしたの?」
リュカがサンチョと言葉を交わし、水を飲んで少しの休憩を挟んでいるものだと思ったピピンは、その隙にリュカに告げねばならないとやってきたようだった。
「はい、あの、この子たちってどうやら文字、だけじゃなくて、言葉もそんなに知らないみたいで」
ピピンの両手をそれぞれ引いているのは、見た目に八、九歳ほどの男の子だ。あの大神殿に連れられてそれほどは時が経っていないのかも知れないが、それでも数年は経っているのだろう。この年齢の子供の数年という時間は、大人が十年二十年と過ごすよりも、濃密な時間のはずだ。
「そっか。うん、そうだよね」
リュカ自身、大人になり、海辺の修道院に救われてから後に、ようやくまともに文字を覚えた。それまでは文字を覚えるような時間や体力の余裕もなく、そもそもあの場所に書物と言うものは一切置かれていなかった。ただ毎日を体力の限界まで労働させられるだけで、文字を読む必要もなかった。
「地上で人間らしく生きるために、最低限識字能力は身に着けておかないとなりませんな」
今はまだ子供の彼らも、あっという間に大人になる。読み書き計算ができないままでは恐らくこれから生きることにも苦労するだろう。親元に帰せる子はまだ良いが、帰せない子にはこれから生きるための教養を身に着けさせなくてはならない。
「……子供だけじゃないな、きっと」
リュカ自身、大人になるまでまともに文字を読むことができなかった。ということは、この場にいる大人でも、文字を知らないままでいる人がいるかも知れない。そうとなれば、子供だけではなく大人にも、教養を身に着けるための機関が必要になるだろう。
そう考えた時に自然に頭に浮かんだのは、広い丘の上に立つ、大きく新しい建物の光景だった。一体どれほどの人数をあの建物の中に収められるのだろうかと、感嘆の溜息が漏れるほどの大きさだったことを思い出す。
前もって、世界を股にかける富豪には話をしてある。もしその時が来たなら助力を請うと予め話をしており、その際に彼は一も二もなく引き受けると言った様子で頷いてくれた。彼女の娘であるフローラと、夫アンディは二人でサラボナの丘に巨大な学校を築き、既にそこには子供たちが学びのために入っていた。
どれだけの人々を受け入れられるかはまだはっきりと分からないが、人々の生活の道筋を早くに導かねばならないと考えるリュカは、早速あの花の街に足を運ぼうと明るい希望を胸に、目の前で佇むピピンに笑顔で「大丈夫、任せて」と言葉を返した。
Comment
bibi様。
ジージョの年齢ってティミー・ポピーと同い年ぐらいでしたよね。 感覚的にジージョってもう大人かと思っていましたよ…先入観ですね(笑み)
次回は、まだまだ2000人との会話?ジージョを実家へ?フローラ・ルドマンの所へ?ティミー・ポピーがジージョと遊ぶとか?(楽しそう)
次話お待ちしていますね。
ケアル 様
コメントをどうもありがとうございます。
そうなんですよ、私も初めは勘違いしていて、ジージョをもう青年になったものとして書こうとしていました。でも考えてみたら、ティミーやポピーと年は変わらないはずだなと。慌てて書き直したという(笑)
次回はサラボナへ行こうかなと。ただ、その前に家族にも話をしないとね、と、そんな感じの予定です。
ビアンカを拐われ石にされ、目の前でジージョを拐われ、ヨシュアを救えなかったリュカにとってジージョを救出出来た喜びは計り知れないですよね…。
ここでピピンが兵士としての第一歩を踏み出せたような気がして嬉しいです。
ゲームでは女性に鼻を伸ばしてばかりなピピンですが、こういう面倒見の良さを見せていけば女性にもモテるのでは(笑)
ピピン 様
コメントをどうもありがとうございます。
今回のお話はサブの部分に目を当ててみました。結構好きなんですよね、こういうサブメインのお話。やはり本格的にお話を作るとなると、サブのキャラってとても大事で、彼ら一人一人にも途切れない人生があるんだよなぁと考えてしまいます。実際にゲームで、大神殿でジージョに会えた時は嬉しかったです。生きていてくれたんだと。こういうところがゲームの凄さだなと。たった一言二言の台詞で感動が味わえるんですからね。
ピピンにはちょくちょく登場してもらいたいのが本心です(笑) 父を喪った者同士ということもあり、リュカにとってもある種特別な存在かと。ま、彼はあくまでもムードメーカーとしていてもらいていですけどね。