恐竜の群れに追い込まれ
キラーマシンと煉獄鳥の群れに阻まれていた関所を抜けた先には、ただ広々とした暗い草原が広がる。そこに身を隠す場所はない。そのまま草原の地を進み始めれば、たちまち魔物に見つかり、疲労困憊のまま戦うことになるだろう。
この暗黒世界にはどうやら海がないらしい。代わりに陸の端に見えるのは、底知れぬ空間であり、その空間を覗こうとしても視界を阻む濃い靄が立ち込めている。まるでこの地の下にある何かを隠すように、ただでさえ暗闇に目が利かない上に、濃い靄が立ち込める空間は魔物たちが生きているこの陸地以外の何物をも隠しているようにも感じられた。
この地の下に何かが存在しているのかどうかは分からない。しかし何を思うのか、感じているのか、陸の上に存在する魔物らは好んでこの陸の端にまで寄ってくることがなかった。魔界に生きる魔物らは広々とした草原地帯を進むか、恐らく多くは身を隠すことのできる森や隆起に富んだ山々の中に身を置いているようだった。
そうと気づいたのも、キラーマシンらとの戦いの後にリュカたちが半ば這う這うの体で関所となる狭い道を抜けた際、絶望的にもリュカたちの進もうとしている地には当然のように魔物の姿があった。それにも関わらず、魔物らはリュカたちをじっと見つめるばかりで近づこうとはしてこなかった。
それを初めは、キラーマシンの群れが攻撃を仕掛けてくるかもしれない場所だからかと思ったが、それならばリュカたちが真っ先に攻撃を受けているはずだった。
その時、リュカの姿はまだ巨大な黒竜となっていた。魔物の仲間と思ったから攻撃を仕掛けてこないのかと、リュカはまだその場で竜の姿を留めておかねばならないと感じたが、ドラゴンの杖の力は完全にリュカの思い通りになるわけではなかった。力強くリュカたちの力になってくれる時は、その時のリュカの強力な心に先導されている。しかしその必要がなくなったと判断するのは、リュカ自身よりも、杖の気まぐれによる影響が大きい。己の意志とは関係なしに、みるみる竜から人へ戻る自身の変化を感じながら、リュカは思わず内心ドラゴンの杖に宿る主に向かって毒づいていた。
しかし人間となったリュカを見ても尚、地上にいる魔物らは近づいては来なかった。仲間のゴレムスの存在が大きい、というわけでもない。魔物の姿は見るからに固い皮膚に覆われており、背に鋭い突起のいくつも立つ甲羅を見るに、それが身を守る鎧となり、敵を攻撃する武器にもなるのだろうと想像できた。呪文を唱えることが出来れば、たとえ距離を置いても敵を攻撃することができるが、その気配はない。炎や吹雪を吐いてくるようなこともない。その硬質な外見に見える通り、その敵バザックスは、直接攻撃のみを頼りに敵を倒すという類の魔物だと思われた。ただその魔物らは目の前に倒すべき人間がいても、何かに恐れ、人間に向かうことを逡巡していることがはっきりとその様子に知れた。
ゴレムスが手の中に守っていたプックルを地上へと静かに下ろした。全身に酷い火傷を負い、今にも息絶えそうな様子で浅い呼吸を腹の動きに見せていたが、リュカが回復呪文ベホマを唱え、その傷を癒してやると、プックルはまだ戦いの最中にあるかのような勢いでその場に飛び起きた。その際、陸地の端にいることなど知らなかったプックルは勢い余って陸の端、崖を踏み外したように、どこまで通じているのかも分からない靄のこもる中空へと飛び出してしまった。リュカが慌てて尻尾を掴もうとしたが、その手は空を切り、一瞬プックルの身体は靄の中へと隠れた。
この窮地を救えるのは、アンクルしかいなかった。反射的に飛び出したアンクルが、それまでの戦いでの疲労も忘れて靄の中へと飛び込み、辛うじてプックルを抱きかかえ、地上へと戻した。何が何だか分かっていないプックルは、ただ呆然とした様子で、後ろから抱きかかえるアンクルの両腕に収まって陸地へと戻った。
その様子に胸を撫で下ろしていたのはリュカたちだけではなく、リュカたちの様子を離れた場所から見つめている敵であるはずの魔物らにも、その表情があったと、後ろを振り返ったピエールが冷静に敵の様子を観察していた。敵は敵だ。戦うことがあれば、当然戦わねばならない。しかしその敵にもどうやらリュカたちと共通する恐怖があるのだと、いつまで経ってもこの距離で襲い掛かってこない敵の魔物らの様子を見て、ピエールは己の気づきをリュカに知らせたのだった。
「少々危険ではありますが、ここで少しでも身体を休めておかなくては」
靄のこもる崖を背に、リュカたちはしばし身体を休めることにした。ただ、これまで岩陰に身を潜め、敵の目から逃れて身体を休めていた時のような安息はそこにない。精神は常に敵と対峙しているような緊張感に晒され、目の前に敵の姿がある限りは、身体はいくらか休めることが出来ても、心が休まる時はひと時もない。
キラーマシンと煉獄鳥との戦いにおいて、ティミーとポピーは揃って魔力を完全に消費してしまった。二人は今もまだ、ゴレムスの腕の内でぐったりと互いに身を預けているような状況だ。仲間の中では小さな二人の子供たちだが、彼らの力無くしてこの先を進むことは不可能だと、誰もがその状況を理解している。兎にも角にも、現実的にも心情的にも、彼ら二人を休ませなくてはならないのだと、ゴレムス自身が二人を守り、離そうとはしない。
「ゴレムス、君も自分の傷を治せるかい?」
一度己の損傷を、ゴーレム特有の治癒能力である瞑想の力によって癒したゴレムスだったが、彼は再びその両足に酷い損傷を受けていた。キラーマシンの猛攻を受けた両足は大きく削られ、火の海となった地を進んだことによる焦げ跡も酷く、歩けているのが不思議なほどだった。誰もが欠けないためにも、ゴレムスの進む力を回復させることも、子供たちを休ませるのと同等に必要なことだった。
「……リュカ、あなたも酷い怪我をしてるって、気づいてる?」
ドラゴンの杖の力が再び杖の中へと封じ込まれ、人間の姿に戻ったリュカの足は、黒竜の時に受けたキラーマシンの猛攻と、火の海の中を進んだことによる火傷で、見るに堪えないほどの状態となっていた。張り詰めた精神力と言うのは恐ろしいもので、とても立ってはいられないような怪我をしているというのに、それに気づかなかった自身に、リュカはビアンカの言葉を聞いて初めて自身の状態を目にして思わずその場に立ち尽くした。
「リュカ殿、申し訳ございません。私がすぐに治すべきでした」
そう言って回復呪文を唱えようとするピエールもまた、今も解けない魔物を前にした緊張感の中に身を置いているが故に、リュカの怪我にも気づけなかったのだった。しかし呪文を唱えようとするピエールを、リュカが止める。
「ピエールは魔力を取っておいて。大丈夫、僕は自分で怪我を治せるから」
黒竜となって戦っていたリュカは、実のところ魔力に関しては仲間の中で最も余力ある状態を保持していた。怪我の状態に気づいてからは、どうしていままで立っていられたのか不思議にも思うほどの酷い状態だったが、胡坐をかいて落ち着いて丁寧に回復呪文を己に施せば、ベホマの回復呪文で受けていた身体の損傷に関しては問題なく回復することができた。
「これで治せれば一番いいんだけど……さっきの戦いで息切れを起こしちゃったのかしら。ちょっと調子が悪いのよね……」
そう言うビアンカが手にしているのは、ティミーから戻してもらった賢者の石だった。相変わらず青白い聖なる光が宝玉の中に閉じ込められているが、その光の強度がいくらか弱まっているように感じられた。強い癒しの力が閉じ込められた宝玉は、終わりのない癒しの光を放つのだろうとリュカたちは誰もがそうと思っていた。ジャハンナの町に住む魔物らを人間の姿に変えるような不可思議な能力を持ち、三十年ほどに渡ってミルドラースとの対話を続けているようなマーサが授けてくれた、恐らくこの世に二つとない宝玉だ。盲目的にこの宝玉の力を信じているリュカたちだが、一体この賢者の石というものがどのように生み出されたものなのか、誰一人知る由もない。人や魔物が持つ魔力というものを無限に込められた宝玉のようにも感じられるが、今の光の弱りぶりを目にすると、この癒しの宝玉にも込められる魔力に底があるのかも知れないと、賢者の石を見るリュカの顔つきは曇る。
「あんまり頼り過ぎたのかもね。大丈夫、僕はまだ魔力に余裕があるんだ。ほら、実際僕はあんまり呪文を使ってないだろ?」
ゴレムスの窮地に、リュカはドラゴンの杖に力を頼った。黒竜と姿を変えて敵と戦ったリュカは、回復呪文も攻撃呪文も唱えることのできない竜となり、結果的には魔力の消耗を抑えることができたのだった。お陰で傷ついた仲間たちを存分に回復呪文で治癒することができるような状態だ。
「私にもまだ余力はありますので、ご安心ください、ビアンカ嬢」
「君もすぐに魔力を回復しなくちゃいけないよ。ほら、子供たちと一緒に休んでて」
そう言うと、リュカは賢者の石を掴むビアンカの手を取り、火傷に赤く腫れていた手の傷を呪文で癒した。アンクルと共に絶えずベギラゴンの呪文を放ち続けていた彼女の手は、己の放つ呪文の返しを受けるように火傷をこさえていたのだ。言葉こそ普段通りを装っているが、彼女もそれだけ必死で、そして今の今まで己の怪我にも気づかずにいるほど余裕もなかったに違いない。
「がうっ!」
プックルの声は、警戒の意味だった。それまで見ているだけの敵が、今リュカたちの休もうとしている場所へと突進してきたのだ。恐竜の一種にも見える、棘の鎧をそのまま身に纏ったようなバザックス一体が、単独でリュカたちのいる場所へと向かってくる。その標的となるのは、最も的として大きなゴレムスだ。この突進が避けられてしまえば、自身が崖の淵から下へと落ち、二度と陸地へは戻って来られないのは、バザックスにも分かっているはずだ。それを理解していても尚、突進の攻撃を仕掛けてくるバザックスという魔物は、魔界に棲む魔物としての攻撃的な本能を抑えられない衝動の中に今、いるのだろう。
それに対して、ゴレムスは落ち着いていた。今はリュカの言葉を受け、自身の両足の損傷を直し始めたところだった。そこで敵の攻撃姿勢に気付き、深い瞑想の中で癒しの力を解放しようと集中しかけていた意識が途切れた。まだ足の損傷はほとんど治っていない。腕にティミーとポピーを抱えたまま、ゴレムスの足取りは今もぎこちないままだ。
バザックスの体当たりが間近に迫る中でも、ゴレムスはその攻撃を承知で、静かに立っていた。まだ損傷激しいゴレムスの足にバザックスが体当たりを食らわせれば、それだけでゴレムスの足は粉砕されてしまい兼ねないと、リュカはスカラの呪文をと思ったが、間に合わない。
ゴレムスがぐっと両足を踏ん張る。束の間屈んだ姿勢を取ったゴレムスが、次の瞬間、地面を跳ねていた。まるで巨大な岩壁の一部が宙に飛んだかのような光景に、リュカたちは一様に息を呑んだ。直後、宙に飛んだゴレムスの下を、バザックスが止まることもできずに突進し、風を起こして崖を落ちて行った。ゴレムスが地面に着地すれば、辺りに地響きが起き、彼の腕の中で休んでいたティミーとポピーがその衝撃に驚き、目を覚ました。しかし積極的に身を起こして辺りを見回す余裕はないようで、ただ二人とも何事かとぼんやりとした視線を辺りに漂わせるだけだ。
まさかゴーレムほどの巨人が地面を跳ねて攻撃を避けるなどとは考えていなかった残ったバザックスらは、続けて突進しようと前足で地面を掻いていた動作をぴたりと止めた。その視線はゴーレム以外の者らに注がれるが、二人の人間にキラーパンサー、スライムナイト、アンクルホーンと、ゴーレムよりもよほど俊敏に動ける者ばかりで、敵の群れのそのすぐ先に仲間の落ちた崖がある状況で、攻撃姿勢を解いたようだった。しかしいつ動き出すとも知れない敵をそのままにしておくわけでもなく、バザックス二体は見張りをするかのようにその場に伏せ、リュカたちの様子を監視し始めた。
「己の命を賭してまで我々を葬るつもりもないようです」
「がうがうっ!」
「そう詰るなよ、プックル。僕があっちにいても、きっとそうするよ。誰だって無駄死にはしたくないだろ」
「……とりあえずオレは休ませてもらうぜ。なんか食いもんくれよ。まだあるだろ」
「はいはい、ちょっと待ってね。ゴレムスの持ち物から出すから」
「……お母さん、ボクも何か食べたい」
「私も……ちょっとお腹空いちゃった」
ゴレムスの腕から少しだけ顔を出し、疲れた顔つきのままだが無邪気にもそう言うティミーとポピーに、ビアンカは思わず笑みを浮かべ、胸を詰まらせた。ゴレムスがその場に屈み、双子の子供たちをしっかりと母に見せようとする。ゴレムスのその動作一つにしても、彼がこの子供たちを、その母である彼女を、いかに大事にしているかが分かると、リュカは屈むゴレムスの腕の中に収まったままビアンカに渡された小さな固パンを小さく齧る子供たちを見て、僅かに微笑んだ。
リュカたちがささやかな食事を始めると、その様子もバザックスはじとりと見つめていた。プックルとピエールが主に前に立ち、敵からの攻撃に備えるが、ゴレムスに至っては食事の必要もなく、ただしばしの深い瞑想の中に自身の傷を癒すと、その後はいつものように皆をまとめて守るべくその背を崖に向け、敵の様子を窺うように仁王立ちしていた。敵に攻撃の意図は見えないが、ただリュカたちを見る顔つきに凶悪さが抜け、代わりに恨めしそうにも見える表情が浮かんでいるのをリュカは見た。
「おやめください、リュカ殿」
リュカが何かを思う前に、ピエールがその思いに至る前にと釘を刺す。ピエールの言葉で、リュカは自身が何を考えようとしていたのかを知った。敵に塩を送るような真似をしようとしていたのだ。今にも口から涎を垂らしそうな雰囲気の二体のバザックスに、リュカは自身の食糧が少々減ろうが構わないという意識で、固パンを千切り投げ与えてやろうかと己の道具袋の口を開けかけていた。
「それは貴方の分です」
「うん、分かってるよ。……自分で食べようとしてただけだよ」
「……そうですか。私の思い違いだったようです。失礼しました」
子供じみた言い返しだと思いつつも、リュカにはそう答える他できなかった。ピエールならばこれですんなりと今の状態を収めてくれるという信頼から出る、リュカの彼に対する甘えのようなものだった。
何も身を隠すところのないこの平地の隅で、リュカたちが最も恐れていた敵は、上空からの攻撃だった。多勢のキラーマシンと戦っている時にも、煉獄鳥の群れが同時に襲い掛かってきていたが、リュカたちからの手痛い反撃を受けたことによる恐怖からか、空に赤く光る群れは姿を消していた。残る煉獄鳥の群れの数は僅か五体ほどだったが、全滅を免れるためにもそれらはエビルマウンテンの山々に向かって飛び去ってしまったのだ。今のところ、空からやってくるような敵の気配はなく、リュカたちは見張りを続ける二体のバザックスの前で、交代で束の間の休息を得ることができた。
まだまだ育ち盛りの子供たちだが、二人は幼い頃から旅に慣れ、そのために“旅での休息方法”を身に着けている。少しの食事を取り、そして眠れる時を逃さず眠るというのは、彼らが旅で生きるために身に着けた特技のようなものだ。流石に暗黒世界という特別な環境で、常に暗く視界の悪いこの状況では深く寝入ることはできなかったが、母ビアンカの両脇に横になることで、心安らぐ時間を取れたに違いないと、リュカは目を覚ました双子の表情を見てそう感じた。
「もう少し寝ていても大丈夫だよ」
リュカは嘘偽りなくそう声をかけたが、ティミーもポピーも一度目覚めてしまえばもう眠さに悩まされることもないようで、思いの外すっきりとした表情でリュカを見上げた。
「お父さんこそ、寝てないよね」
「お母さんは?」
「私は平気。あなたたちと一緒に休めたもの」
ビアンカの言葉は偽りのないもので、彼女自身も子供たちの隣で横になり、小一時間ほど眠りに就いていた。目覚めた母子が見た景色の中に、リュカたちを見張っていたバザックスの姿はなかった。交代に休み、決して隙を見せることのないリュカたちの様子をしばらくの間見張っていた敵の魔物も、いつまでも崖の淵から動かないリュカたちに痺れを切らしたようにどこかへ姿を消してしまったらしい。今のところ、見渡せる草原地帯に目立つ魔物の姿はないようだった。
「リュカ殿、今の内に進んでおいた方が良いかも知れません」
「そうだね……。プックル、そろそろ行くよ」
「ふにゃ?」
ゴレムスの立つ足元に身体を丸めて眠っていたプックルに呼びかけると、プックルはまだ眠り足りないと言うように細目を開けてリュカを睨んだ。まるで落ち着いているプックルの様子を見ても、今は周囲に敵の気配がないことが分かる。第一、今の状況でリュカたちに奇襲をかけられる魔物がいたとしたら、その者たちは背後の崖の下から姿を現すしかない。その崖の下に落ちた魔物こそいるが、崖に充満するような靄の中から不気味に姿を現す魔物は存在しない。
草原地帯を歩き始めたリュカたちは、あまりに静かな辺りの景色に寧ろ恐怖を感じていた。リュカたちを監視していたバザックスも、決してこの暗黒世界にあの二体だけが存在するわけではない。他にも仲間がいるはずで、一度姿を消したバザックスは仲間を引き連れて再びこの地に現れるのではないかと考えてもいた。しかししばらく平原を歩いていても、バザックスの群れが目の前に現れるわけでもなく、不気味なほどに歩みは問題なく進んだ。
なるべく急ぎ先へ向かうべく、リュカは己も黒竜に姿を変え、ゴレムスと並び、仲間たちをその巨体に乗せて行こうかとドラゴンの杖を手にしたが、杖の桃色の宝玉はまるで反応を示さなかった。リュカが杖に呼びかけ、マスタードラゴンに力を貸してくれるよう声にして頼んでも、ドラゴンの杖はこの暗黒世界の中で眠るようにすっかり沈黙している。その様子を見て、リュカは思わずマスタードラゴンは天空城の中で本当にぐーすか寝ているのではないかと疑い、苦々しい顔つきで杖を腰のベルトに戻したのだった。思わず愚痴が口先に上りそうになったが、仮にも神の力が宿る杖がそうそう力を貸してくれるわけでもないのだろうと自身に納得させ、感情を一人静めていた。
草原地帯を進んだ先、右手に広がるのは、遠くからでもその臭気が鼻についていた毒の沼地だ。近づくにつれ息をするにも苦しい状況となり、リュカたちはマントの襟もとで鼻と口を覆い、できるだけ臭気をそのまま体内に入れないよう留意した。鼻の良いプックルも、この臭気を嗅ぎ続けていればにおいを嗅ぎ分けられなくなり、尚且つ気が狂ってしまいそうだと、リュカが自分のターバンをプックルの顔に巻いてやった。
「私は特別、鼻が良い訳ではないので、まあ、平気です。ただ、あの毒の沼に入ってしまえば、私の体自体が溶けてしまいそうですね……」
「そんなに辛いニオイなのか? オレにはそこまで悪いニオイには感じられねえよ」
エビルマウンテンの山々が少しずつではあるが近づいてきており、毒の沼のある平地を抜ければ、山々の麓には広い森林地帯が広がっている。胸の悪くなるような臭いはこの地に棲む魔物も苦手としているのか、臭気の漂う付近にも敵となる魔物の姿は見られない。その代わり、先に広がる森林地帯が間違いなく、魔物の巣窟と化していることはリュカだけではなく誰もがそうと気づいていた。
エビルマウンテンの麓に広がる広大な森林地帯が、リュカにおけるジャハンナの町に相当するような、魔界の魔物の棲みつく場所なのだろう。そう考えると魔物が魔物として生きる町の中に、人間であるリュカたちが侵入する状況は、迷いなく、一気に取り囲まれて一斉に攻撃を受ける可能性が高い。
右にも左にも、広い毒の沼地が広がり、その間をリュカたちは息を詰めながら進んでいく。風も吹かない、雨も降らないこの世界で、静けさだけが耳を打つ。しかし息を潜めていたのは、当然、リュカたちだけではない。
毒の沼地が異様に臭気を上げた。息を潜め、機会を見計らっていたのは、魔物の方だった。毒の沼の中から現れたバザックスの群れに、リュカたちは追い込まれる形となった。左右の沼地から現れたバザックスは、その刺々した身体を武器に、一直線にリュカたちへと突進してきた。地響きを鳴らして、追ってくるバザックスの群れがどれほどいるのかは分からない。ただもう後ろに下がることはできず、追われるリュカたちはそのまま前方に広がる森林地帯へと追い込まれて行く。
しかし前方を見据えれば、森の中に光る魔物の目のその多さにリュカでも気づいた。想像していた通り、エビルマウンテンの山々の麓に広がるこの深い森は魔物の巣窟だ。森の中に入れば忽ち森の中の魔物と、後方から追ってくるバザックスの群れとの挟み撃ちとなるだろう。
「ここで戦う!」
リュカの号令を先読みしていたかのように、プックルが真っ先に素早くくるりと向きを変えると、追いかけて来るバザックスの群れと対峙した。ゴレムスの肩に乗っていたリュカは念の為にとドラゴンの杖に手をかけ、杖の力を引き出せるかを確かめるように一度握ったが、杖は何の反応も示さない。
「……本当に寝てたら、後でただじゃおかない……」
そう愚痴を零しつつも、そもそもこの暗黒世界にまで容易に竜神の力が及ぶとしたら、それこそ竜神自身が地上世界から力を使って、この暗黒世界をも平定してしまえばいいはずだと、リュカはドラゴンの杖が力を発動させる不思議を思い、今の状況に納得せざるを得なかった。寧ろ、地上ではないこの世界でドラゴンの杖の力を使うことができるのは奇跡とも呼べる現象なのかも知れない。
振り返り、目にする敵の数は三十体弱ほどだ。全て同種のバザックスという恐竜のような見た目をしている魔物の群れだった。暗黒世界に住む魔物らは皆、あれほどの臭気を上げる毒の沼に入っていても問題ないようで、地を揺るがすような足音を立てて駆ける敵の群れの体からは、毒液が飛び散っている。
途轍もない勢いで駆けて来る魔物の群れを、正面から迎えるように駆けるプックルだが、流石にそのまま敵の群れに無謀に突っ込んでいくほど何も考えていない訳ではない。毒の臭気にもいくらか慣れたはずだと、戦いには邪魔となる鼻先を覆うリュカのターバンを、頭を振って取り去ろうとする。リュカが素早くプックルの顔からターバンを取り、己の頭に無造作に巻きつけた。真っ先に駆けることのできる自身はいつでも皆の囮となり、目くらましとなる覚悟があるのだと、プックルの目はいつでももう一人の相棒ピエールの姿を捉えている。
束の間の休息のお陰もあり、仲間たちの魔力は半分程度には回復していた。プックルが敵を引き寄せるように、やや右へと進路を変えた。正直に釣られて、敵の群れも同じ方向へとずれていく。リュカたちの正面からは多少逸れた状況だ。三十体弱もいる恐竜の群れにかかれば、流石にプックルでも一度で踏み潰されてしまうだろう。
僅かに横に逸れた敵の群れの横っ腹を弾くように、ピエールがイオラの呪文を放った。敵の群れの形が乱れる。敵の攻撃が目の前に迫るプックルは、寸前で地を蹴り飛び上がり、駆けるバザックスの背に飛び乗った。ピエールのイオラの呪文で、鎧のような甲羅の棘を折った敵の背中に飛び乗ったプックルは、あらゆる生き物の急所であろう首筋に、両前足の炎の爪を突き立てた。悲鳴を上げて暴れる敵の背にしがみつくように、プックルは敵をここで仕留めるのだと、炎の爪をそのまま横へと薙いだ。硬い甲羅に覆われている敵はおおよそ物理的な攻撃に強いのだろうが、その中でも守りの薄い一部が後頭部から後ろ首だった。全身を硬い甲羅や棘で覆い、頭部も同じように硬質で、おまけに大きな角で守っているために、後頭部一点に鋭い攻撃を受けることなど想定されていないのだろう。
プックルは敵の背の上を飛び渡り、二体目の獲物にかかる。しかし敵もそう大人しく攻撃を受けているわけではない。敵は群れで行動しているにも関わらず、仲間と言う意識は薄いらしく、同種族の身体を踏みつけてでもプックルを手にかけようとしてくる。横から大きな顔を近づけ、噛みつきそうになるバザックスからプックルを救うのは、宙に構えていたアンクルだ。敵の背の上で高々と跳躍するプックルの身体を、アンクルは両腕にしっかりと捕まえた。流石にゴレムスのように、プックルの巨体を片手に乗せることなどできず、アンクルはプックルの身体を宙に捕まえるや否や、敵の群れから離れたところへ放りだした。一度戦線離脱をさせたプックルの代わりにと、アンクルがデーモンスピアを構え、宙から敵の急所を狙う。プックルが教えてくれた敵の後ろ首に、デーモンスピアの矛先を向ける。
敵が身構えてしまえば、その鎧の硬さに武器が通らない。飛び込んで攻撃すれば間に合わないと、アンクルは手にしていたデーモンスピアを敵の後ろ首に向かって投げつけた。バザックスの後頭部に突き立った大槍を取り戻すため滑空するアンクルに、他のバザックスが群れを成して、互いが互いを踏み台にするように飛び上がってくる。
どうやら敵の脳は単純なようだと、敵の注意が一斉にアンクルに向いているその時に、ピエールが敵の群れの内部に身を滑り込ませる。背を丸め、身を固くすれば、外部からの攻撃はほとんど通じず、返ってその棘の攻撃に遭いかねない。しかしこのような敵は凡そ、腹部が隙だらけだと、ピエールは危険を承知で敵の群れの足元へと飛び込んだのだ。
地を滑るように、ピエールは敵の腹をドラゴンキラーで斬りつけて行く。一瞬でも隙を見せれば、敵の群れに押しつぶされる危険がある。バザックスの身体の大きさは、アンクルと同じほどに大きい。一体にでも上から押しつぶされれば、ピエールなどはひとたまりもない。敵の群れの中心部には決して入り込まないようにと、常に横目にすぐ開けた暗い草原地帯を目に入れる。
プックルが再び敵の群れへと飛びかかる。今度は正面からぶつかりに行く格好で、己も鎧を着たような強気で向かう。強靭な鎧を着た敵に正面からぶつかるなど正気の沙汰ではないが、彼は本当に見えない鎧を何重にも着こんでいた。
プックルの後ろからリュカが手を伸ばしながら駆けて来る。その手からは既に三度、スカラの呪文が放たれていた。プックルがバザックスに正面から、体当たりを食らわせた。しかしその体格差から、プックルが当たったのはバザックスの右前足だった。プックルの体自体はスカラの呪文による固い護りで、敵からの衝撃を受けない代わりに、寧ろ敵への攻撃力を増していた。よろけるバザックスにすぐさま追撃するのは、リュカだ。ピエールの攻撃に倣い、リュカもまた敵の腹部を狙う。
いくらか魔力を回復したティミーとポピー、ビアンカが後方から支援に回る。呪文はなるべく使うなとリュカに言われている。それと言うのも、彼らがこれから進もうとしているのは広い森林地帯で、そこには間違いなく多勢の魔物が潜んでいる。魔力をあっさり使い切ってしまえば、リュカたちは皆この場で命を落とし、あの臭気を上げる毒の沼へと葬り去られるのだろう。喉に絡みつくような、肺に入れるだけで体中を蝕まれるようなあの臭気は、恐らくそのような過去があると想像させられる。あの場所は多くの何かが無造作に葬られ、毒されてしまった地だ。
ゴレムスが三人の母子を腕の中に閉じ込め、守る。母と妹は守られなければならないと納得するが、ティミーは己もまたゴレムスの守りの中に閉じ込められなければならない理由を見い出せない。今は自身も父と仲間と共に、前線で戦うべき時だと、ゴレムスの腕の隙間からするりと抜け出し、地へと飛び降りた。
「ティミー!」
「お母さんはポピーと一緒に、ボクたちを助けて!」
手を伸ばすビアンカを見上げ、ティミーは笑顔を見せてそのまま父たちが奮戦する戦いの場へと飛び込んでいった。半ばほどまで回復できた魔力を少し使い、味方を守る力へと変える。スクルトの呪文を放つと、己の身にも帯びた守護の力を頼りに、ティミーは右手に天空の剣を持って駆けた。
ゴレムスの守りの中で、ビアンカはプックルに狙いを定めてバイキルトの呪文を放つ。ポピーはその隣で敵の群れ全てに及ぶようにと集中して、ルカナンの呪文を放つ。残りの魔力を考えれば、さほど魔力を使わない補助呪文でも、それほど連発できるものではない。
ビアンカとポピーを守るゴレムスの巨体は、ただ立っているだけで目立つ。リュカたちと交戦しているバザックスの群れの一部が、その目立つ目的物に向かって方向転換を図る。いち早く気づいたプックルが敵の群れの行く手を遮るべく回り込むが、五体の群れに対してプックルだけでは太刀打ちできるはずもない。
アンクルが宙から大槍を振り回し、方向転換を図ろうとしていたバザックスの群れに飛びかかった。ポピーのルカナンの呪文を受けた敵の装甲はいくらか弱まり、アンクルのデーモンスピアの槍先でもその身体を突ける。しかし彼が狙うのは後ろ首一点だ。デーモンスピアで敵の急所を上手く突けば、その一撃で敵は倒れる。迅速に、少しでも敵の数を減らさねばならないと、アンクルは慎重に狙いを定めて大槍を握る。
槍先がバザックスの、いくらか脆くなった装甲を突く。急所は外した。しかし槍が後ろ首を守る装甲を破壊した。すかさず剥き出しになった敵の後ろ首に、プックルが飛びかかり、噛みつく。敵が悲鳴を上げてプックルを振り払う際にも、プックルは追撃の手を緩めないというように、両前足の炎の爪で後ろ首を薙いだ。バザックスは常にその硬い身体に己の身を守り、敵から攻撃を受けたことがないのかも知れない。地面に転げて痛みに耐え兼ねると言った敵の様子が、リュカやピエールが攻撃する敵にも同じように見られた。
痛みに暴れるバザックスに、プックルが吹き飛ばされた。その先に待つのは、突進してくる敵の群れだ。バザックスの群れは、痛みに悶える仲間を巻き添えにしながら、プックルを巻き込んだ。宙に浮かぶアンクルから、プックルの姿が見えなくなった。敵に踏み潰されているかも知れないと、アンクルが滑空して敵の群れに飛び込むが、突進の凄まじい勢いに弾かれ、アンクルの巨体も宙に舞った。
四体の群れが、ゴレムスに向かう。ゴレムスは腕に抱えていた二人を高々と上げ、肩に乗せる。幸い、今は空からの敵襲の気配はない。ゴレムスの肩に乗ったビアンカとポピーは、衝撃に備えるように伏せてゴレムスの肩にしがみつく。
ゴレムスの両足に、バザックスが突進した。それだけで両足が崩れてしまいそうなほどだった。ティミーの守護の力がなければ、両足共に脛から下を破壊されていたかもしれない。ボロボロと足の破片に気を取られることなく、ゴレムスは拳を固めると、拳骨をバザックスの背中に叩き込んだ。ゴレムスの拳を食らっても、バザックスの背負う甲羅には罅が入る程度で、敵の装甲は相変わらず固い。ゴレムスの肩にしがみつきながらそれを見たポピーは、思考を巡らすでもなく、反射的にもう一度ルカナンの呪文を放った。
バザックスはあくまでも地を行く魔物で、器用にゴレムスの身体に上るなどと言う行動には出ない。ゴレムスは一度の攻撃でボロついてしまった足を振り上げ、敵を蹴散らそうとする。そして前へ歩き出そうとする。彼の目的は、敵の群れに飲み込まれたプックルの救出だ。しかし足を前に出せば、敵の突進に当たり、それだけ両足が削られた。
バザックスの棘の背中にへばりつくピエールの姿が、ビアンカとポピーの目に映った。彼がプックルの救出に向かっているのだと分かり、ポピーがゴレムスの顔間近に呼びかけ、ビアンカは賢者の石を手に皆の回復を祈る。賢者の石が弱々しく光りつつも、仲間たちの傷をいくらか癒していく。やはり聖なる石の力を酷使し過ぎたのだろうか、その効力は思うほど発揮されていないように見えた。
敵の群れに蹂躙されたプックルは虫の息だった。ピエールが回復をとプックルに手を伸ばすが、バザックスの棘の背に乗るピエールの上から更に、バザックスが二体、飛びかかって来た。バザックスにとっては同じバザックスのことなど、どうでもよい存在らしい。仲間の身体を踏み台にすることは何ら悪いことではないと言うように、バザックスの背の上に乗るピエールの上から更に、二体のバザックスが圧し掛かり、逃げ損ねたピエールが押しつぶされる。ゴレムスの肩からその状況を目にした二人が思わず悲鳴を上げた。
そのすぐ傍で、リュカはティミーと背中合わせになりながら、敵の群れに取り囲まれていた。敵の攻撃に耐えられるように、リュカはティミーの身体に最大限にスカラの呪文を施している。敵の身体の下に潜り込み、腹を斬りつける攻撃をしかけていたが、多くの敵に囲まれてしまった今は、迂闊に近づけない状況に追い込まれた。左手にドラゴンの杖をも構えるリュカだが、今も杖の力は発動できない状況だ。この危機は自らの力で切り抜けろと言わんばかりの竜神の仕打ちにも思え、リュカは思わず歯噛みする。
敵の行動は、仲間の安全を微塵も顧みない非情なものだ。囲んだ二人の人間を、仲間をも巻き添えにして押しつぶしてしまうことなど造作もないと言うように、バザックスはリュカとティミーに飛びかかった。敵の身体はアンクルと同じほどに大きい。敵の巨体の上に飛び乗ることなどできようもない。まともに戦っては勝ち目などないと、リュカもティミーもまるで以心伝心したかのように、敵の懐に入り込んだ。手にする剣で、腹を斬りつける。痛みには強くないバザックスは低い悲鳴を上げ、下に潜り込んだ人間の姿を目にすると、そのまま大きな口で噛みつこうとする。寸でのところで避けたリュカは、嚙まれた濃紫色のマントに振り回されるように、そのまま敵の鼻先に生える大きな角に左腕でしがみついた。やや上方に、敵の目が見えた。反射的に右手の剣を突き出し、敵の視界を片方奪えば、敵の動きはすぐさま狼狽し始めた。
「ティミー! つかまれ!」
敵の群れの中に取り残されそうになるティミーに、リュカが叫ぶ。敵の動きに乱れが生じている隙を逃すなと、リュカの言葉を守るようにティミーは敵が顔を己に向けて来るのを機会として、敵の正面に走り込んで、大口を開けられる前にと、鼻先の角に両手で飛びついた。飛びつかれたバザックスは、いかにも煩わしいと言うように頭を勢いよく振り上げると、ティミーの身体はそのまま宙を飛んで、運良く戦線を離脱した。
そのまま落下すれば再び敵の群れの中に放り込まれるところだったが、宙でティミーの身体を捕まえたのはアンクルだった。宙で捉えられるや否や、宙でほとんど全てを見ているアンクルから指示が飛ぶ。
「あいつらを回復しろ、ティミー! すぐにだ!」
「えっ?」
アンクルが言うあいつらが誰なのかは即座に理解したティミーだが、その姿が見えない。バザックスの群れは残り二十体ほどにまでは減っていた。ただでさえ暗い世界だ。敵の群れの中に完全に紛れ込んでしまえば、その姿を探すのは容易ではない。
アンクルの背に乗せられたティミーは、滑空するアンクルの勢いに必死にその背にしがみついて耐える。デーモンスピアを敵の後ろ首に突き立てようとするが、それを他の敵に邪魔をされ、攻撃は届かない。しかしその敵の動きの隙間に、ティミーは地面に倒れているプックルの足と、ピエールの兜を見た。動かない二人を見て、背筋が凍りついたように冷たくなったティミーは、思わず息を呑み逡巡してしまった。
バザックスの両目を潰し、痛みに暴れる敵の顔を伝って棘のある背中へと乗り上げたリュカは、そのままこの敵を倒そうと防御の弱い首に剣を向けた。しかし見上げた先に、アンクルとティミーがいた。彼らの様子に、息子の凍った顔つきに、リュカは自身も瞬時に身体が凍りつくような恐怖に襲われるのを感じた。大事な仲間が見当たらない。プックルとピエールは間違いなく、敵の巨体の群れの下敷きになっている。
リュカは敵の群れの背中の上を、まるで自身が獣になったかのような勢いで、飛び渡り始めた。
「プックル! ピエール!」
父の叫び声に、ティミーの意識が立ち直る。再び敵の群れの中に見えなくなってしまった二人の仲間に向かって、祈るようにティミーはベホマラーを唱えた。高度な回復呪文に残りの魔力が大幅に減るが、構ってはいられない。自分を背に乗せるアンクルの傷も回復し、敵の背中の上を駆けるリュカの傷も癒されるが、敵の群れの中から現れるはずのプックルとピエールが動く気配はなく、今もその姿は現れない。
敵の背の上を渡っていたリュカは、右手に剣を手にしたまま、敵の群れの中へと飛び込んだ。父の姿までも敵の群れの中へと消えてしまい、ティミーは発狂しそうになった。思わずその心のままにアンクルの背から飛び降りかねなかったが、アンクルがティミーの足を後ろ手に抑えてそれを止めた。
巨大な敵の群れの中で、リュカは父の剣とドラゴンの杖を武器に盾に、自身にスカラの呪文をかけ、圧倒的な力の差を見せる敵の攻撃に耐える。ドラゴンの杖は相変わらず竜神の力を発動しようともしないが、仮にも竜神の加護を受けた杖はバザックスの身体と匹敵するほどに硬く、噛みついて来ようとする敵の口の中に杖頭を突っ込み、攻撃を防ぐ。剣を振り、敵の腹に少しでも傷をつける。そして誰もが隙とは思わないような一瞬をついて、リュカは辺りの敵を遠ざけるように、足元に倒れている仲間を守るように、嵐の膜を作り出した。竜巻の中に倒れているプックルもピエールも、完全に事切れているのはすぐに分かった。
竜巻の渦が空高くに舞い上がるのを見て、アンクルがティミーを背負ったまま宙高く飛び上がったかと思うと、渦の中心へと飛び込んだ。下に見える景色は、バギクロスの渦の中心に立つリュカと、その足元に倒れている二人の仲間だ。プックルとピエールをこの場から救い出せるのはアンクルしかいないと、リュカは知らせたのだ。ティミーはアンクルの首にしっかりしがみつき、ただアンクルが目指す地へと運ばれるのに従うだけだ。
竜巻の中に飛び込んだアンクルはすぐにピエールの手を掴んだ。そしてプックルの身体を片腕に抱えようとしたが、事切れたプックルの身体は思いの外重い。リュカの魔力もそう残ってはいない。バギクロスの呪文の威力が弱まって行けば、バザックスはこの竜巻の中にまで姿を現すだろう。
その時、跳ね起きたピエールがアンクルの手を離し、剣でバザックスの腹に斬りつけた。ティミーがすかさずザオリクの呪文を唱えていた。彼の魔力も既に頼りないものになっている。しかしもう一人、大事な仲間を蘇らせるのだと、ティミーはその手をプックルに向ける。
リュカのバギクロスの呪文が切れた。途端に敵の猛攻が頭上から降りかかる。守れるのは自分しかいないと身体を張るのは、アンクルだ。ベギラゴンを放つ余裕はない。ただその身で、仲間たちが押しつぶされないように敵の攻撃に耐えるのみだ。ティミーの蘇生呪文でもう一人の仲間プックルが蘇るが、同時に防御呪文スクルトの効果が敵の猛攻により一挙に薄れ、アンクルが潰されかける。
スクルトの効果が薄れていく代わりに、リュカたちを守る防御膜があるのを、ティミーは目にした。バザックスの酷い攻撃が弱まることはない。しかし明らかに見覚えのある防御膜は、あのホークブリザードらと戦った際に皆が身に帯びていた呪文反射の膜だ。バザックスの群れに取り囲まれ、押しつぶされそうになっているティミー達は皆、いつの間にかマホカンタの呪文の加護を受けていた。
アンクルが持ちこたえられないと、今にも潰されそうになった時に、彼らの周りを囲む呪文反射の膜が光った。同時に耳がおかしくなる爆発音が間近に響き、リュカたちを圧し潰そうとしていたバザックスの群れが爆発に持ち上げられるように吹き飛んだ。しかしその爆発の威力も、強大なものではなく、敵の群れにはさほど損傷を与えている様子はなかった。それでも敵の群れとの距離が開けられたその時に、リュカたちは向かうべき森林地帯への道を再び見い出した。
選択の余地なしと、リュカはプックルの背に飛び乗った。それを目にして、アンクルも地にいるピエールを腕に抱える。もう片方の腕にティミーを抱える。今はこの場から逃げることだけを考えるのだと、リュカはプックルと地を、アンクルは飛び上がって宙から、多くの敵がいるであろう森林地帯へと向かった。開けた道の先には、既にゴレムスの立ち姿がある。その肩の上で、リュカたちの状況を見つめ、必死に守ろうとしているビアンカとポピーの姿があった。彼女たちが呪文の力で、リュカたちの退路を作り出していた。
宙でふらつくアンクルに、バザックスが飛び上がってでも攻撃を仕掛けようとする。マホカンタの呪文を纏っている間は回復呪文を唱えることができないと、アンクルに抱えられるティミーもピエールも、ただしぶとく下から攻撃を仕掛けようとしてくるバザックスを追い払うべく剣を振るう。アンクルはどうにかこの場から逃げなくてはならないと、左手に装着している力の盾で回復を試みた。
地を駆けるプックルと共に退路を目指すリュカは、あっという間に退路を塞いでくるバザックスの巨体に、どうにもならない焦りを感じた。先ほど放ったバギクロスの呪文で、リュカの魔力はほとんど底を尽いていた。消費魔力はそれほどではないと高を括っていた防御呪文スカラを頻発していたのが祟ったのだと今気づいたところで、どうしようもない。残り少ない仲間たちの魔力を温存しておかなくてはならないと考えたこと自体が間違いだったのだと、今更になって気づいたところでどうしようもない。完全に判断を誤ったのだと、どうにか敵の群れを交わして疾走するプックルの背にしがみつき、大口を開けてリュカに噛みつこうとするバザックスの牙に腕の一部を抉られても回復することもできず、痛みに歯を食いしばりながらリュカはこの場を逃れることだけを考える。
リュカとプックルの身体が纏う呪文反射の膜に、今度は炎の守りが現れた。ビアンカが放ったベギラマの呪文だと分かった時、再びリュカとプックルの目には退路と決めた森林地帯への道が見えた。プックルが一層、地を駆ける足に力を込め、リュカも激痛が走る右腕をそのままに、取り囲まれかけた敵の群れから命からがら抜け出した。
しかし、目指す退避場所となる森林地帯には、森の中に棲息する魔物の目がいくつも光っている。
Comment
bibi様
(元ホイミンです。)
更新ありがとうございます。
私事ですが機種変更したもので(汗)
壊れてしまって…ようやく読ませてもらうことができました。
やはり魔界の魔物は恐ろしいですね、リュカ達もピンチに陥ってしまうので、いつもドキドキしながら読ませてもらっています…
エビルマウンテンはルーラ登録されるので、さすがに
使わないと大変じゃないですか?
これからも更新楽しみにさせてもらいますね。
ベホマン 様
いつもコメントをどうもありがとうございます。
ホイミンからベホマンへ……かなりレベルアップされたんですね^^ レベルアップの代償は手痛い出費になってしまったのでしょうか……。
魔界の魔物は怖いですね。実際にゲームをプレイしていた時も参ったなぁと思いながら進めていた記憶があります。次話でもかなり追い詰められるので……どうなるかはもうしばらくお待ちください。大体話は出来ているんですが、ちょっと見直さないといけない……(汗)
bibi様。
バザックスは、猛烈に体当たりをして仲間一人を馬車に押し込んで来るやつですね。
30匹全体が突進して来たらゲーム内では馬車送りだけど、小説内ではそうは行かないですね、そんな中プックルとピエールが即死、弱点の腹や首を突いて倒せるフラグだったのに…。
bibi様、バザックスの弱点をドラゴンクエスト大辞典で調べてみました、ザキ系が効くみたいですが、ビアンカのザラキでピンチ脱出は考えなかったんでしょうか?
それと、教えてください、森林地帯へ逃げる時、ポピーが遠隔呪文でマホカンタを使いましたよね…なぜですか?普通に遠隔でイオラやベギラマを使えばいいのではと…分からなかったので教えて貰えますか?
次回は森林へ逃げるんですね、パーティぎりぎりの状態だし、賢者の石の様子もおかしなことに…ハラハラドキドキであります、いっそのことルーラでジャハンナに帰ることにした方が良いのではないかと?
次話お待ちしてます。
ケアル 様
コメントをどうもありがとうございます。
ゲーム内では地味ですよね、バザックスって。あんまり記憶になかったりする気がするのは、他にとんでもないヤツらが沢山いるからなんでしょう……。でも地味だけど、実は恐竜の一種という。実際には出会いたくない魔物です。ビアンカがザラキを思いつかなかったのは、ちょっとテンパってたということで(汗) 賢者の石を持っているから、自分は回復役だ、みたいな思いもあったりするかも。
ポピーがマホカンタを使ったのは、味方にマホカンタで味方の攻撃呪文を跳ね返したかったから、というところです。バザックスの群れに攻撃呪文を浴びせると、その群れに囲まれている味方ごと吹っ飛ばしてしまいそうだったので。分かりづらくてすみません……。
次話も戦いです。本当にギリギリですね。ジャハンナに戻ることも視野に……入れざるを得ないかも?