2024/06/09

巨人と白い花

 

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「ま、俺はそもそもリュカが一人であんなところへ戻れるとも思ってなかったけどな」
アンクルの言う通りなのかも知れないと、リュカは部屋の椅子に腰かけながらやや自嘲気味に笑った。リュカとピエールがジャハンナの町の中を歩いている間に、ビアンカも子供たちも水で身を清めたらしく、子供たちの疲れ切っていた顔つきにも子供らしい張りが戻っているように見えた。ただリュカと同じく、旅装はそのまま身に着け、今すぐにでも旅に出られる状態で彼らは部屋で待機していたのだった。
「がうがう」
「お前までそんなこと言うのか、プックル。ひどいな」
「一番ひどいこと言ったのはお父さんじゃない。一人でなんて……ありえないわ」
ポピーが本心から怒ったような顔を見せれば、それはそのままビアンカが怒ったような顔つきにリュカの目には映ってしまう。まるで二人から同時に怒られているようで、リュカはただ肩を竦めて「ごめんね」と小さく謝ることしかできなかった。
「今すぐにでもまた出られるよ。早く行こうよ、お父さん!」
ティミーがそう急き立てるのは、常日頃の好奇心が原因ではない。リュカの気持ちが変わらない内に、ティミー自身の心が怖気づかない内にと、早く行動を起こしたいというところだ。後にも引けない、ここに留まることもできないのならば、進むしかない。
「宿を出る時に、店主さんにご挨拶してから行きましょうね」
ボロボロになって町へと戻って来たリュカたちに、宿の女店主は惜しげなく寝床と食事を提供してくれた。当然ビアンカは相応の金銭を払おうと彼女に申し出たそうだが、当然のように彼女はそれを断ったらしい。時間としてはたった一日というほどの時間だったかも知れないが、その間に提供された安らぐ宿の環境にリュカたちは命を救われたようなものだった。
「しかしリュカ殿、本当に敵の本拠地近くまで戻れるものなのでしょうか」
ピエールの言葉に、ポピーの顔も曇る。ルーラで移動するにしても、ポピーにとっては、風の帽子の力で離れた場所がどのような景色だったかをはっきりとは思い出せない。ジャハンナの町のように、絶えず青白い聖なる光に包まれた町の景色があれば、ルーラの呪文で飛んでいくこともできるだろう。しかし命からがら逃げだしたあの暗い森の中の景色を思い出せと言われても、何も目印らしきものはなかったと、ポピーは一人目を閉じてその場所の景色を必死に思い出そうと試みても上手く行かない。
「ポピー、大丈夫だよ。僕がみんなを連れて行ける」
リュカの瞼の裏に残る景色は、森の中で見た暗い景色ではない。風の帽子の魔力で森の上へと飛び出した時に見た、敵の根城の正面に浮かぶ青と赤の火の景色だ。大きな青白い炎を上げていくつか並ぶ火台の中央に、ゆらゆらと揺れる小さな赤い炎。あの赤い炎を思い出すだけで、目を閉じるリュカの眉間に皺が寄り、歯ぎしりでもしそうなほどに固く上下の歯を合わせてしまうのだから、リュカは迷うことなくあの場所へと飛んでいける自信があった。
「それなりに時間も経ったから、ゴレムスのヤツもしっかり休めただろうな」
「町の入口でゴレムスと合流したら、移動ですね」
「がう?」
「大丈夫よ、プックル。炎の爪もしっかり両足についてる。ね?」
「いよーっし! 諦めないで頑張るぞ! さあ、行こうよ、お父さん!」
「みんな一緒にね。ねっ、リュカ」
「うん。……ありがとう、みんな」
リュカの礼の言葉に皆は言葉で応えなくとも、「それはお互い様だ」と言うように各々リュカの顔を見つめ、一行は揃ってジャハンナの宿を後にした。



ジャハンナの町の下、広がる草原地帯の中に、ゴレムスはいた。町を守る巨大ゴーレムたちが円形に座り、その中心に囲まれるようにしてゴレムスが座っていた。草の葉一枚も揺れないほどに静まり返った中で居並ぶ巨像の光景は、それだけで神聖な雰囲気を醸し出していた。
リュカたちが近づいても、巨大なゴーレムたちはぴくりとも動かなかった。彼らがジャハンナの町を守るゴーレムだと知らなければ、この草原地帯に不思議と並べられた巨像と思うだけだろう。人間、特に子供などにとっては、生き物がこれほど静かにただ座っていられること自体が信じられないような光景だ。
その居並ぶ巨像の脇を、リュカたちは歩いてすり抜ける。それでも巨大ゴーレムたちは何も気づかないかのように、ただ草原に在り続ける巨像の如く座り続けている。ただ、中心に座るゴレムスだけが、正面から向かってくるリュカたちに顔を向け、瞑想に閉じていた目を開き、穏やかな青い目でリュカを見下ろした。
「ゴレムス、お待たせ」
リュカたちが旅に持ち出している食糧などはゴレムスに預けたままだった。旅の最中では意識的に食糧を切り詰めて消費していたため、まだ十分に残っているはずだったが、それでも宿の店主が余裕があるに越したことはないとビアンカに食糧の包みを渡していた。ビアンカはアンクルの背に乗ると、ゴレムスの腰に提げられている大きな道具袋の口を開け、その中へ包みごと落とし入れた。生命線となる水も新たに用意されたものに入れ替える。向かう先が敵の根城の目の前とは言え、そこから先の道のりがどれほどのものかは誰にも分からない。マーサの元へたどり着く前に水も食糧も切れてしまえば、再びこのジャハンナの町へと舞い戻るか、できなければその場で虚しく旅も命も終えてしまうかだ。
「矢筒に矢が増えていますね。こちらの方々に分けてもらったのでしょう」
「がうがう」
旅の中で消費していたゴレムスのビッグボウガンに番える矢が補充されていた。今もゴレムスを囲む巨大ゴーレムたちが相談するかして、再び旅に出るゴレムスへ矢を預けたのだろう。彼らのその行動を実際に目にしたわけではないが、その時の光景を想像すると、この巨大ゴーレムたちもまたマーサの無事を願っているに違いないのだと感じさせられる。彼らの願いを、ゴレムスが同じゴーレムとして一心に受け止めているようなものにも思えた。
「お父さん、ゴレムスの周りにみんな集まった方がいいよね?」
「みんなゴレムスにつかまっていれば平気よ。ね、お父さん」
「うん、そうだね」
子供たちにそう返事をしながら、リュカはゴレムスの顔を正面から見上げた。これからリュカのルーラで、ひとっ飛びにエビルマウンテンの麓へと移動することを、まだ彼だけには話していない。草地に胡坐をかいて腰を下ろしているゴレムスの柔らかく光る青い目を見上げ、リュカは静かに両手を差し出した。するとゴレムスは呼応するように大きな左手を差し出し、リュカの正面に手の平を向けた。リュカにとってはまるで、目の前に岩の壁が現れたような状況だ。ゴレムスの左の手の平に、リュカは両手を合わせ、特別な言葉もなくただしばらくじっとしていた。
やがてゴレムスの手がゆっくりと離れた。リュカは特別彼に言葉をかけなかったが、ゴレムスはもう一度リュカの顔をじっと見つめると、周りにいる者を傷つけないように配慮しながらゆっくりとその場に立ち上がった。不思議と彼が座っていた場所に生えていた草地は潰されることなく、まるで陽の光を浴びて強くなるように、葉を端までぴんと張っていた。
「おい、リュカ、余計な事考えないで集中しろよ」
「うん」
ゴレムスの右手に備えるビッグボウガンの近くに、翼をはためかせて寄るアンクルが、リュカの頭上から気楽な調子で声をかけた。その声の調子を感じるだけで、リュカの気も落ちることなく、心地よく浮上する。
「リュカ」
隣でリュカの背に手を当てるのはビアンカだ。優しく二度背を叩いてくれる彼女の手に、リュカは無意識にも笑みを漏らす。妻のようでありながら、姉のようでもあり、今は母の代わりにもなろうとしている彼女の存在が、リュカの心を支え、保たせてくれる。
「どこまでも、みんな一緒よ」
すぐ隣から聞こえる彼女の言葉に、リュカは特別言葉にして返事をしなかった。ただうんうんと小さく頷き、彼女の手を取ることもなく、独りでいることを意識しながら目を閉じる。
エビルマウンテンの麓に広がる森林地帯を、瞼の裏に見下ろす。そこに緑の景色はない。ただただ黒く、影のように鬱蒼とした森らしき景色が広がるだけだ。その中を、リュカたちは敵と遭遇し、戦いながら進んでいた。今も瞼の裏には、飛び交うホークブリザードの姿が映るが、その景色に肝を冷やしている場合ではない。
森林地帯の奥、エビルマウンテンの山々が聳える。山々の稜線は森林どころの黒ではなく、錯覚かと思えるほどの闇に見える。そのずっと手前に、リュカの目指す地点がある。
青白い炎が燃える大きな火台が左右にいくつか並び、それらを内包するように敵の居城の入口は開かれていた。禍々しい像も、大魔王の居城の正しい装飾として置かれている。しかしこの奥に潜む大魔王は、元は人間だったという。元々人間だった者が大魔王などと称してこの禍々しい魔界の奥地へと居しているのだと思うと、不気味な青い炎を上げて辺りを照らす大きな火台も、悪を象る巨像も、全てが一人の人間の虚勢のようにも見えて来る。
「……たかが一人の人間がやってることだ」
目を閉じたままのリュカがぼそりと呟く隣で、ビアンカはその声の低さに思わず小さく身を震わせた。そっと覗き見れば、リュカは今もルーラの呪文を発動するために集中しているのが分かる。小さく口を開いていたビアンカだったが、すぐに口を閉じ、彼の邪魔をしないようにとただ静かにその時を待った。
リュカは自身で言葉を口にしていた事にも気づいていない。今も瞼の裏の景色に集中し、その中に揺れる赤い小さな炎を見つける。それはまるで今そこに揺れ動いて、リュカを挑発しているかのようだった。奴ならばやりかねないと、リュカは自ずと燃え上がりそうになる憎悪の心を意識的に鎮めつつ、あくまでも冷静にその炎を見つめる。瞼の裏に炎が揺れ動こうが、形を変えて仇の顔に見えようが、リュカは景色を思い浮かべながらも、ただ共に行く仲間たちのことだけを思った。
リュカの身体が呪文の効果に包まれ、それはすぐに仲間のゴレムスの巨体ごと包み始めた。ビアンカ、ティミー、ポピー、かけがえのない家族。プックル、ピエール、アンクル、ゴレムス、かけがえのない仲間。誰一人失ってはならないという強い意思を乗せ、リュカはルーラの呪文を発動した。
ジャハンナの町が、あっという間に眼下に広がるほどに、リュカたちは揃って急浮上する。リュカたちが今までいた場所を中心にして、ジャハンナの町の守護を務める巨大ゴーレムたちが円を描いて並び立つ。彼らは一様に、リュカたちを見上げていた。本来は無機質なはずの巨大ゴーレムたちの顔つきに表情が見える気がするのは、リュカにもゴレムスという大事な仲間がいるからだろう。
巨大ゴーレムたちの、ジャハンナの人々の思いを今一度胸に抱き、リュカは己の命よりも大事な家族や仲間たちと共に、敵の根城の入口を目指し飛び立った。



魔界の空を矢のように飛ぶ中で、多少の巨大鳥らが追いかけてくるのは想像していた。ルーラの呪文で無事に到達地点にまでたどり着いたとしても、その瞬間から魔物との戦いになることもリュカは想定していた。人間の町や村に向かって移動しているわけではないのだ。この魔界という世界で唯一リュカたちが心身ともに休まるのは、ジャハンナの町でしかない。
エビルマウンテンの景色がみるみる近づいてくる。黒々とした山々の稜線を見るティミーの視線は鋭く、ポピーの顔つきは苦しそうにも見えた。地上世界ではルーラの速度に追いつけるような敵などおらず、さほど不安もなく目的地にまでたどり着くことが出来ていた。しかし魔物らの世界である魔界で同じようには出来なかった。
行く先に、リュカが目指しているような赤い炎が浮かび上がっているのが見えた。それはエビルマウンテンの麓に広がる森林地帯の上方だ。そんなはずはないとリュカが目を凝らすまでもなく、その炎はみるみる彼らの視界に広がり、すぐにそれが煉獄鳥の群れだと分かった。リュカたちが移動呪文を使い、空を矢のように飛んで来るのを遥か遠くから見つけたに違いなかった。敵らは協力して群れとなり、リュカたちの行く手を遮るべく、空中に炎の壁を作り出していた。
ルーラの呪文は移動中、運ぶ者たちを強い保護膜の中に包み込んでいるために、外からの影響を受けない。それ故に、凄まじい速度で空中を移動している際にも通常通り呼吸もでき、手足を動かすことも容易だ。しかしまるで分厚い壁のように群れを成している煉獄鳥の中を突っ切ったことなどなく、その時に何が起こるのかなどリュカにも分からない。
敵の群れに避ける気などさらさらないようだった。元来、獰猛な魔物である煉獄鳥は、猛然と向かってくる敵に対しても決して怯まない。敵らには、ゴーレムという巨大な魔物が巨大な弾丸のごとく飛んで来るのが見えているはずだが、それにすらぶち当たって壊してやるのだというほどの猛然さを見せている。
敵の動きを見るゴレムスは当然のように、仲間たちをその腕の中に匿い始めた。ルーラの保護膜が完全ではないかも知れないと思ってしまうのは、煉獄鳥の群れが作り出す、目に眩しいほどの炎の壁が行く道をはっきりと阻んでいるからだ。リュカの発動したルーラの呪文は発動後に細かな調整ができるようなものではない。リュカの脳裏には今も明確に、到達点となる敵の根城入口となる景色が映っている。
獰猛な煉獄鳥の群れはリュカたちの突撃してくるような勢いに対抗するように、横に広がる形ではなく、突撃の勢いにも耐えられるようにと縦に深く伸びるような形を成していた。勢いのまま進めば、敵の作り出す巨大な炎の壺に頭から突っ込んでいくような状況だ。ルーラの保護膜が敵の群れが作る炎の厚い壁に耐えきれなかった時、リュカたちは途端に煉獄鳥の群れの中へ飛び込み、身を焼かれることになる。
「ティミー!」
「うん!」
同じ光景を目にしていたティミーは当然、理解していた。この状況でできることは、敵の炎の勢いからできうる限り身を守ることで、それができるのは自身の能力だと、ティミーはゴレムスの腕に抱えられながらも両手を前に突き出した。リュカに名を呼ばれるのを合図に、ティミーはすぐさまフバーハの呪文を発動した。
ルーラの呪文を発動している最中に、他の呪文を同時に発動したのはこれが初めてだった。それ故に、起こったことは想定外だった。ティミーの放ったフバーハの呪文の効果を邪魔しないように、リュカのルーラの呪文はその効果を途端に弱めてしまったのだ。煉獄鳥の群れの向こうに見えている敵の根城よりもかなり手前から、リュカたちの飛行は下降を始めた。眼下には広い森林地帯が広がっている。当然、森林の中にも魔物は潜んでいる。しかしこのまま中空で多くの煉獄鳥の群れに無謀に突っ込んでいくよりはと、リュカは黒々とした森林の景色へと目を向けた。
「ゴレムス、頼む」
リュカの脳裏には今も正確に、ルーラの到達地点と定める火台に揺れる青白い炎、禍々しい像が並ぶ入口の中央に浮かぶ、小さな赤い炎の景色がある。ルーラの呪文の効果を消さないよう、リュカは目を閉じ、瞼の裏に目的地の景色だけを見た。隣には、息を呑みながらもただ与えられる状況に耐えるべく、身を固くしているビアンカがいる。彼女は己の身と、娘のポピーの身を守るためにと、ゴレムスの腕の中で極力縮こまりながら身を守った。リュカもティミーの頭を片腕に抱え込むようにして息子に身を潜めさせた。ゴレムスは両膝を抱え込むようにして、その中にプックルとピエールをも包み込んだ。アンクルだけは自らゴレムスの背にへばりつくように掴まり、みるみる迫る煉獄鳥の眩しいほどの群れとの位置を見ていた。
眼下に広がる森林地帯にも、その造りには相違がある。魔界の木々は凡そ巨大だが、その中でもひときわ巨大な木々の立つ場所がある。リュカたちはその場所から一度、ジャハンナの町へと撤退したのだ。そこにはギガンテスという巨人が、鈍い動きながらもその凶暴さ故に他の魔物を寄せ付けずに生きているはずだった。
煉獄鳥の群れはギガンテスの生息地域を避けるように、それよりも手前に群れを成していた。リュカのルーラの威力が落ち、下降していくのを目にしている敵の群れは、その動きに合わせるように群れのまま同じように下降してきた。厚い炎の網に引っかかるような状態で、ゴレムスに守られたリュカたちは煉獄鳥の群れに突っ込んだ。
恐らく、ルーラの保護膜だけでは煉獄鳥の群れには到底対抗できなかった。ティミーのフバーハの守りがなければ、リュカたちはあっと言う間に炎の熱の中で地獄の苦しみを味わっていた。それだけでは足りないと、ゴレムスの背中に身を置くアンクルが、煉獄鳥の炎の只中で氷系呪文マヒャドを放っていた。氷は瞬時に炎の熱に溶かされ、水となり、雨のようにゴレムスの巨体に降りかかった。それさえもあっという間に蒸発し、蒸気と散ったが、彼らを熱から守る役割を大いに果たしていた。
皆を抱き込んだゴレムスが大きな弾丸のように突っ込んだのは、巨人ギガンテスの群れが棲息するであろう森林の中だった。通常のルーラの呪文であれば、森林地帯を眼下に見下ろしたまま目的地の上まで移動し、なるべく安全な着地をする。しかし思わぬ煉獄鳥の群れの襲撃に遭ったリュカたちは直線的にギガンテスの住まう森の木々へと突っ込んだ。丸まったゴレムスの身体が、巨大な弾丸の如く森の木々をバキバキと折り進んでいく。ぶつかる衝撃に、ゴレムスの勢いはあっという間に落ち、リュカたちは再びギガンテスらがうろつく森の只中に身を置く羽目になった。
体に炎を纏う煉獄鳥の群れは、魔界の中でも怖れられる巨人ギガンテスが縄張りとしている地には入り込んで来なかった。ギガンテスは恐らく悪しき心に身を委ねているという風ではなく、ただその巨体に、力の強さに、考えなしであるところに、この世界に半ば閉じ込められているようなものなのだろう。それ故に、ギガンテスの住まう森林地帯のこの辺りには、他の魔物は下手に近寄らない。ただでさえ暗黒のこの世界では目立つ炎の鳥だ。大きな巨人の一つ目に留まれば、すぐさま巨大棍棒の餌食になるだろう。
「がうっ」
プックルの声は決して大きくはない。ただ近くにいるリュカに状況を知らせただけだった。二体のギガンテスが棍棒を片手に、森の異変を感覚鈍くも感じたようで、今はまだ大きな岩石にも見えるゴレムスへと近づいてきている。ゴレムスの背中に張り付いていたアンクルもいち早く状況に気付いていたようで、同じ方向から揃って歩いてくるギガンテスの死角に隠れるように移動し、ゴレムスの影に身を潜めていた。
リュカたちはゴレムスの作る空洞の中で息を潜め、巨人をやり過ごそうとした。これがもし、キラーマシンという相手ならば、敵を誤魔化すこともできなかったかも知れない。しかしリュカたちは皆、敵であるギガンテスの、巨人という種族特有の鈍さに難を逃れられることを信じ、近づいてくる敵の地響きするような足音に集中して耳を澄ませていた。
通常の魔物ならば、普段暮らしている場所に見知らぬ岩が置かれていれば、当然訝しみ、様子を見たり調べ始めたりするものだろう。しかし近づいてきた二体のギガンテスは普段の景色との違いに気付いているかどうかも疑わしいような状態に見えた。ただ手にしている棍棒を振り上げ、岩に見えているゴレムスの背中を打ったのが、内側に避難しているリュカたちにも分かった。それも、攻撃という意図はないようで、ゴレムスの背中にも損傷はなかったが、念の為にとリュカはゴレムスにスカラの呪文を施し、仲間の身体を静かに守った。
しばらくして、二体のギガンテスは興味を失ったように去って行ったようだった。数回、棍棒で討たれたゴレムスだが、防御呪文の効果もあり、少しも身体を削られることはなかった。プックルが草地に伏せながら、聞き耳を立てて辺りの気配を探る。去って行った二体のギガンテスの他に、巨人の足音は近くに聞こえない。ギガンテスがうろつくこの近辺には恐らく他の魔物は棲息していない。それでも慎重に、完全に二体のギガンテスの足音が消えるまで待ち、プックルはのそりと立ち上がった。
待つ間に、リュカは行くべき方向を見定めていた。本来は暗闇に包まれるばかりのエビルマウンテンの麓に広がる森林地帯だが、リュカたちの落下した場所から既に敵の根城に灯る冷たい明かりが見えていた。森の先が仄かに明るく、暗い森の黒々とした景色を一層濃く映し出していた。
「今が好機かと」
「そうだね。敵に見つからない内に行こう」
そう言いながらリュカはゴレムスの守りの外へと踏み出した。隣に立つのはプックルだ。絶えず両耳を立て、辺りの様子を窺っている彼が歩みを止めず、リュカの隣をピタリとついてくるのは近くに危険はないという証拠だ。ルーラの効果が途中で消え、森の中へと落下したとは言え、目的地はそれほど遠くはない。実際に目指すべき冷たく青白い炎が揺れる光は、森の中に染みるように映されている。これから長々と森の中を彷徨うことにはならない。
人間の城であれば、城門付近に門番など置いているはずだと、同じように考えるリュカたちは目的地に近づく中で皆が皆辺りに目を凝らし耳を澄ませた。ギガンテスの森の中、遠くで足を踏み鳴らす巨人の足音は僅かに聞こえるが、大魔王が居する場所を守るための衛兵などの姿は見られない。近く、どこかに身を潜めているくらいならば、プックルが先ず気づいているはずだが、爪を引っ込め、音を立てない彼の歩みはリュカに並びながら止まらない。皆が慎重にも、早足で歩き進む後ろから、ゴレムスが皆を守るように背を丸めて歩きついてくる。
森の終わりが、敵の根城の入口だった。ギガンテスが縄張りにしているこの森に、他の魔物が近づけないことが幸いし、リュカたちは無事敵の根城へとたどり着いた。驚くほどに大きな木が立つこの森は、魔界という世界が生まれた時に同時に生まれたのではないかと思うほどに古く感じられた。長い長い時を生き続けると、それは半ば神格化してきてしまうものだ。そしてその森に唯一棲みつくのは、ギガンテスという、恐らくこれも古の時から生き続けるような魔物に違いない。魔界という世界の中でも、こうして長い時をかけて自然と醸成されてしまった神性さえ漂うこの場所に他の魔物が近づけない理由が、振り返って見た巨大な木々の立つ森の景色に感じられたような気がした。
目的の場所に着き、少々気が抜けていたのかも知れない。驚くほど近くに敵の姿があったと気づいた時、リュカたちは初め信じられない思いでその姿を見上げた。てっきり巨人は両足で立ち、手には凶悪な棍棒を持ち、一つ目で辺りをギョロギョロ見廻しながらうろついているものだと思っていた。
リュカたちが目にした巨人は、背中を丸めて座り、リュカたちに背を向けていた。両膝を抱え込むようにして控えめに座りこみ、手にするべき大きな棍棒は魔物の脇に無造作に置かれていた。明らかに無防備な今ならば不意を衝いて背後からギガンテスを倒すこともできるだろうが、あまりにも無防備なために攻撃しようという気も起きないのが本当のところだった。
リュカは敵に気付かれないように静かに移動するべく、敵が背を向けている内に敵の死角になるよう迂回しつつ、青白く冷たい明かりが漂う目的の場所へと向かい始めた。しかし死角に入っていられるのにも限界がある。目的の場所へ向かうにはどうしても敵の視界に入り込んでしまうのは分かっていた。それでもギガンテス特有の鈍さに賭け、リュカはなるべく敵から距離を取り、皆と共に目的の場所へと進んだ。
その時、座り込んでいるギガンテスの更に向こうに、森の中から姿を現した二体のギガンテスが見えた。ゴレムスの巨体もまだ、森の際に隠れており、恐らく新たに姿を現した二体のギガンテスにリュカたちの存在は知られていない。現に、その二体はただ仲間に近づいて行くように、膝を抱えて座り込んでいるギガンテスのところへ向かっている。
リュカたちが奇妙だと感じたのは、仲間であるはずのギガンテスが手にしている棍棒でその頭を小突くまで、座り込んでいる巨人が何も気づかなかったことだ。リュカたち人間が食らえばそれだけで気を失いかねない一撃にも見えたが、膝を抱え座っていたギガンテスはただ二体の仲間を振り向き見上げただけだ。それに対し二体のギガンテスは何か文句を言うように、荒々しい声を上げている。彼等は言葉を話し、会話をするわけではない。ただ人型をした巨大な魔物として、相応の感情はあるようで、かける声にはどこか苛ついたような雰囲気が漂っていた。
「ねえ、お父さん、見て。あそこにお花が……」
ごく小さな声で話しかけてきたポピーが指差すのは、膝を抱えて座り込むギガンテスの足元近く、大きなその爪先のすぐ先に、ささやかにいくつか花が咲いていた。色味は世界が暗いために分からないが、どこか白っぽくリュカたちの目には映った。
「あのお花……」
ポピーの指し示した花に気付いたビアンカが、離れたところに見える花に目をやったままふと思い出す。グランバニアの屋上庭園、そこに美しく咲く白い花がビアンカは好きで、ドリスにもそうと話をしたことがあった。魔界の、大魔王の根城ともなる場所のごく近くに、地上に咲く花と同じものがある。ジャハンナの町にも、この暗い世界では色味などよく分からないにも関わらず、色とりどりの花が咲いていた。それは間違いなくマーサが、町に住む元魔物の人間たちの心のためにと、どうにかして地上から持ち込んだものだろう。
見える白い花もきっとマーサが関わっているに違いないと、ビアンカは胸を温かくしながら巨人の足元に植わる白い花を見つめた。それを隣で同じように、リュカも見つめる。そして彼は、きっとあの花を絶対に踏まないだろう座る巨人を、離れた場所から見上げ見つめた。
何事かを言われている座るギガンテスは、何を言われてもただ二体の仲間たちを見上げるだけで、特別な反応は見せない。森の淵に身を潜めながらその様子を見るリュカたちには、膝を抱えて座るギガンテスの後頭部が見えている状況だ。迂闊に動けば、仲間であるはずのギガンテスを見下ろす二体の巨人の目に留まることになると、その場から微塵も動くことなく様子を見ていたが、どうにも彼らが仲間であるようには見えない。
座ったまま動かないギガンテスはまるで地に咲く白い花を身体で庇うように、己の身体の後ろへと隠していた。その姿にリュカはふと、仲間のガンドフを思い出した。かつて海辺の修道院から南に建つ神の塔に棲みついていたガンドフは、塔に安置されていたラーの鏡を大事に守るように、侵入者であったリュカたちを通せんぼした。そこに悪意はなかった。ただ大事なものを守りたいという純粋な思いがあっただけだ。ガンドフにとってはキラキラと光を反射する鏡が彼の一つ目に綺麗に映ったのだろう。鏡自体が持つ真実を映し出すという魔力も影響していたのかも知れない。あの塔に生きている中で、ガンドフの生きる拠り所ともなっていたのだろう。
リュカたちに後頭部を見せているギガンテスもまた、その巨体に隠している白い花が生きる拠り所であり、密やかな楽しみなのかもしれないと、リュカは今はただ二体の同種の魔物に棍棒で小突かれている巨人を見る。一体と二体の関係性は、見ているだけで顔をしかめてしまうようなものに見えた。いくら小突かれても、膝を抱えて座り込んでいるギガンテスはやり返すことなく、ただじっと耐えるように首を引っ込め、なるべく小さく丸くなろうとしている。それでも己の大事な宝物は守るのだと、白い花にぎりぎりまで身を寄せ、隠している。
「お父さん、何だか変だよ。仲間ならあんなことしないよね?」
ティミーも顔をしかめながら、魔物の状況を見つめていた。見ていて気分の良いものではない。あれではまるでいじめているようなものだと、真っ当な人間ならば誰もが胸を悪くするような光景だった。
「……がう」
「え? 耳が?」
プックルの言葉にリュカは改めて座るギガンテスを見た。あのギガンテスはきっと耳が聞こえていないとプックルは言う。もしそうだとしたら、魔界に咲く白い花を大事に思う心が生まれたことに猶の事理解が及ぶ。彼にとっての世界は、視覚に頼ったものなのだ。その視覚の中で、彼は密かな楽しみでもあり癒しでもある白い花を見つけてしまった。耳が聞こえないのであれば、歩き回ることも不自由しているのかも知れない。それ故に彼は凡そこの場所を離れることもなく、長い時間をあの白い花と共に過ごしているのだろう。
二体の内の一体が、のそりと歩き出す。その者は知っていたようだ。隠された白い花が見える位置にまで回り込むと、棍棒を肩に担いだまま前のめりになって白い花を目に止めるのが分かった。リュカたちには今度、立つ巨人の後姿が見える。白い花はその足先に植わっている。風もないこの魔界に咲く白い花は、無垢に巨人を見上げているようにも見えた。
両膝を抱え座っていたギガンテスが腕を出して花を庇おうとしたが、その腕をもう一体の巨人が後ろから強く掴んで止めた。そして白い花をこれ見よがしに踏み潰そうと、回り込んだ巨人が足を上げた。
リュカがバギマの呪文を放つのを、仲間の誰も止めなかった。鋭い真空の刃が渦となって、宙に上がっていたギガンテスの足を直撃した。振り返る巨人に向かって、既にプックルが迫っている。
果たして大人しく膝を抱えていたギガンテスが、魔物としてリュカたちに襲い掛からない理由はない。一体と二体と自ずと分けて考えていたリュカたちの思いとは異なり、敵は三体となってリュカたちに襲い掛からないとは限らない。寧ろその可能性の方が高い。冷静にそうと考える頭も働かせながらも、やはり黙って見ていることはできなかった。
「それでいいのよ、リュカ」
そう言った直後、ビアンカはメラミの呪文を唱え、敵の一つ目目がけて勢いよく放った。彼女もリュカと同じように、じっと耐えていた。彼女の性格が決していじめっ子を見過ごすものではないのをリュカも知っている。それだから今まさに、子猫の内から友達となったプックルが、敵となる巨人の足に飛びかかっているのだ。
すっかり見つかったリュカたちに向かって、座るギガンテスを見下ろしていた一体がゆっくりと歩いてくる。あまりにも巨大な身体を持つために、走ることはできない。ただその一歩は大きく、あっという間にリュカたちの立つ場所へと迫る。もう一体はプックルに足を鋭く傷つけられ、ビアンカのメラミの炎を一つ目に受け、痛みに身悶えながらその場から動けずにいる。
「近くに他にはいないようだぜ、敵は」
「この二体をなるべく静かに倒してしまえば良いかと」
「そうだね、静かに……できるかな」
この場所はギガンテスらが棲みつくだけの地帯で、他の魔物は近づいては来ない。もし敵に加勢する敵がいたとしてもそれもまた同種のもので、今リュカたちは近くにその気配を感じていない。その状況を保てるのも僅かな時間しかないと考えれば、リュカたちはこの機を逃さず二体の巨人を倒してしまおうと森の淵から飛び出した。
ティミーも父リュカの後を追うように森から飛び出したが、ビアンカとポピーは森の淵に留まった。下手に前に出たところで足手まといにしかならないと、魔力も十分な母娘は冷静に皆の援護役に回る。万が一に備えてと、ゴレムスは二人を囲い、守った。
ギガンテスの攻撃は単純だが、当たれば即ち致命傷となる。しかしそれをリュカたちは、仲間たちそれぞれに敵の目を向けることで避ける方法を取った。前方からアンクルが飛びかかれば、敵の巨人はそれを目に捉えて棍棒を振り上げる。それを見計らってプックルが後ろから敵の巨大な足に飛びかかる。痛みによろけるギガンテスの振り上げる棍棒は勢いを失くし、アンクルは身を翻してそれを避ける。プックルに向かう敵の後ろから今度はピエールが斬りかかる。それも、プックルが炎の爪で傷つけた傷口に忠実に沿うように、敵の傷口を器用に広げてしまう。ドラゴンキラーの切れ味は凄まじいもので、傷口を抉られたギガンテスは流石にその痛みに大声を上げ、地に膝をつきかけた。振り向く巨人の目に映ったピエールは敢えて敵の目にしっかりと留まるようにと、その場に立ち、敵を見据えた。敵の目を引き付ける。その間に反対側に回り込んだティミーが反対側の足にも斬りつけた。徹底的に攻撃されてしまうギガンテスは手にする棍棒を振り上げる力も失い、両足の鈍い痛みにただ顔をしかめている。リュカたちを踏みつぶそうにも、痛みに足を大きく上げることもできない。少なからず戦意を喪失している敵の姿を見上げながら、リュカは思い切って敵に呼びかけた。
「森へ戻れば見逃してやる。僕たちだってただ魔物だからって倒したいわけじゃないんだ」
恐らく言葉は通じないだろう。それでもリュカははっきりとした声でそう言いながら、右手に握る剣先を森の中へと向け、巨人に指し示して誘導しようとした。もしここに、多勢のギガンテスの群れがあれば、到底このような甘やかした対応などできないが、今は敵となるギガンテスは二体だけだ。冷静に仲間たちと力を合わせて戦えば、恐らくこの場で倒すことは可能だろう。もう一体の巨人も今になってようやく目が見えるようになってきたようで、手で顔を抑えつつもリュカたちを険しい顔で見下ろしている。
「お互いに戦わないで済むんだったら、それが一番だろ?」
二体のギガンテスは、足元に小さく立つ人間が人間の言葉を話し伝えようとしている姿を物珍しそうに見ていた。自身らに向けられるはずの剣先は、森の中へと向けられている。今の状況を飲み込めないギガンテスらは少しの混乱の後、やはり己らは魔物であると言うことを思い出すように、再びリュカたちに戦う姿勢を見せ始めた。
そんな二体のギガンテスの背後から、更に大きな巨人がゆっくりと迫って来た。先ほどまで白い花を庇い、地面に両膝を抱えて座り込んでいたギガンテスだ。巨人にも個体差があるようで、座り込んでいた巨人はいざ立ち上がると、他のどのギガンテスよりも大きな身体をしていた。まるで一つの山が迫ってきたようで、あまりにも大きなその魔物にリュカたちは声も出せずに唖然と見上げるばかりだ。
ただ、花を見つめていたギガンテスの一つ目は、とても魔物の目とは思えないほどに澄んでいた。その目がリュカたちを、遥か眼下に見下ろす。初めから敵意を感じない魔物と出遭ったのは初めてかも知れないと、リュカはその大きな一つ目を見返した。恐らくこの巨人は言葉を発しない。それ故に、視線に込められる言葉をリュカはその身に感じた。
同じだと思わせられた。彼も決して戦いたくはないのだ。これほど大きな巨人に生まれ生きながらも、戦いを好んでいない。それが生まれつきなのか、それともあの白い花が彼の精神を浄化してしまったのか、分からない。
それに対して二体のギガンテスは、魔物としてはこちらが正当なのだと言わんばかりに苛立たし気に大きなギガンテスを睨む。そして今は露になっている、地に咲くごく小さな白い花を蔑むように見下ろす。火炎の呪文で一つ目に怪我を負った巨人は痛む目を細めつつもその白い花を見ると、魔界のこの場所に在ってはならないものだと言うように、大きな棍棒を地面に叩きつけた。土が跳ね上がり、白い花は無残にも潰され、花弁を辺りに散らした。
ギガンテスの巨体と比べれば、白い花の大きさなど爪の先にもならないほどだ。その大きな一つ目にしっかりと見えているのかも疑わしいほどの小ささだ。しかしそれが、両膝を抱え座っていたギガンテスの心の拠り所であったことは間違いない。その拠り所があっさりと、折られてしまった。
「ひどい……! そんなのって、あんまりだわ!」
「悪ガキは懲らしめてやんなきゃ……!」
ポピーとビアンカが怒りに前へ出ようとするのを、ゴレムスがその手で止める。ゴレムスは、その高い目線に見える光景に気付いた。ただ白い花を見つめていたギガンテスの巨躯が、時を止めたように硬直している。しかしすぐに巨人の全身から、全てを失ったかのような絶望の気が滲み出て来るのを感じた。ギガンテスの身体はあまりにも巨大だ。ゴレムスよりも大きいのだ。今は近づいては行けないと、ゴレムスは敵の異変に母娘を手の中に大事に匿う。
静かだが、激しい怒りだった。そのギガンテスは耳が聞こえないのと合わせ、声を出すことにも不自由しているのだろう。はっきりとした怒りを示すような雄たけびも上げず、しかし全身に絶望と怒りを漲らせて、突然いきり立って仲間であるギガンテスに襲い掛かった。圧倒的怒りの前に、二体のギガンテスは為す術もなく、ぶん回された棍棒のたった一撃で地面に沈むことになった。今はただ、目に見えている敵という敵を皆殺しにするような勢いで、ギガンテスは容赦なく棍棒を振るう。彼の澄んだ一つ目の輝きが失われている状態を目にして、リュカは暴れ出した山のような巨人の足元をすり抜けるように駆け出した。
「お、お父さん!」
ティミーが叫ぶ声も、幸いにして暴れる巨人には聞こえない。しかし父を追いかけて走り出した彼の装備する輝かしいまでの天空の剣の光が、巨人の目の端に映った。足元に動く小さき者たちが向かうのは、先ほど大きな棍棒の一振りで潰されてしまった白い花が散る場所だ。またしても大事なものが潰されるのかと感じたギガンテスは、声も発せないままに大口を開け、棍棒を振り上げる。
大岩が降ってくるようにも見えるギガンテスの棍棒の軌道を、森の中でじっと身を潜めながらもビッグボウガンを構えていたゴレムスが、矢を放ち、逸らした。巨大な棍棒の一撃は、リュカやティミーの駆ける右へとずれ、地を揺らした。その衝撃にも構わず、リュカはただ白い花弁を地に落とした花を目指し、ティミーもそれを追う。
陽の光もない暗黒の世界にも白い花を咲かせていたのだ。その生命力はもしかしたら地上に咲く花よりも余程強いものかもしれない。そもそも、植物は地に根を張って生きている。地上から大きく打たれたからと言って、それだけで命が潰えるとは限らない。植物のように地中深くにまで根を張り生きているものは根絶やしにさえされなければ、しぶとく密やかに生き続けることができると、リュカは花の命を信じる。
巨人の棍棒の一撃を受けた地は荒々しく凹んでいた。寧ろ小さな魔物による攻撃や、それこそ火炎でも浴びてしまえば、花はその命を絶やしていたかも知れない。しかしギガンテスの振るう棍棒は巨大で、白い花という的はごく小さく、運良く直撃を免れていた。白い花弁を地に散らしてしまったものも、風圧や吹き飛ぶ土の勢いを受けて散らしてしまったようで、その影には難を逃れたものがいくつか、弱々しくも花を咲かせていた。
「大丈夫だよ! お前の大事なものはまだ生きてる!」
相手が聞こえない者だと知っていてもリュカは声を張り上げ、今も地面に植わって咲いている白い花を手で大きく指し示した。大きな者に対して、しかも魔物という存在に対して、リュカは敵意がないことを示すように、手にしている剣の先は地面に向け、ドラゴンの杖に至っては装備すらしていない。
このギガンテスは巨人の森の中を物騒にうろつくでもなく、ただ膝を抱えて座り込んで、この白い花を静かに見つめていただけなのだ。唐突にいきり立って同種の魔物に襲い掛かったのも、見つめていた大事な花を潰されかけてしまったからだ。大事なものを傷つけられれば誰しも我を失いかねないことは、リュカ自身も深くその身に知っている。たかが花じゃないかと、その存在を軽んじる気持ちはリュカにもティミーにも生まれない。その者にとって大事なものは、それ以下のものにはなり得ない。
「お父さん、でもこのままじゃあしおれちゃいそうだよ」
花が地に根を張り生きていると言っても、その身に損傷は受けている。植物に対して効果があるとは思えなかったが、リュカは試しに回復呪文ホイミを唱えてみた。しかしやはり植物に効果はないようで、白い花はくたりと元気を失い首をもたげている。
「うーん、どうにかしてあげたいけどなぁ。水を少しあげてみようか」
「それにしてもすごいよね、こんなところで咲いてるなんてさ。花なんて、ジャハンナの町でしか見てないのに」
「飲み水はまだたくさんあるし、少し僕のをあげてみよう」
そう言うとリュカは道具袋に入れてある自分用の手の平ほどの大きさの水筒を取り出し、蓋を開けて惜しげなく萎れる花にやってみた。その際、リュカの心中を察するかのように、彼の右手の指に嵌る命のリングが仄かに光を灯した。まるで命のリングも一緒になってこの花を助けたいと言っているようで、リュカはその優しくも強い光に己の気持ちを乗せた。
「すぐに元気になるものでもないかも知れないけどね。でもきっと元気になってくれるよ」
「こんなところに咲いてるんだもんね。この花、きっととんでもなく強いから大丈夫だよ!」
リュカとティミーが花を覗き込むように上体を屈めているその遥か上方で、彼らを見下ろす巨人がいる。リュカはゆっくりと後ろを振り向いて、白い花を覗き込むようにリュカたちの上から上体を前に倒しているギガンテスを見上げた。途轍もなく大きな一つ目に、この白い花は一体どのように映っているのだろうかと不思議に感じる。リュカ自身で考えてみれば、蟻ほどに小さな花にも等しい。それほど小さなものに、この巨大なギガンテスは心を傾け、なるべく近くで見ようと両膝を抱えて座り込んで、静かに見つめていた。
リュカが見つめるギガンテスの一つ目には今、小さな白い花ではなく、リュカという人間の姿が映っていた。リュカの漆黒の瞳には、近くに立つギガンテスの姿は収まり切らず、ギガンテスの大きな一つ目には、リュカという人間が豆粒ほどの小ささに映り込んでいる。リュカにははっきりと、ギガンテスの大きな一つ目に純粋な輝きが戻り始めているのが見えていた。これほどの巨大な身体をしているにも関わらず、彼は小さな者に配慮する動作が身についている。それは何故か。
白い花の傍に立つリュカには、見えるような気がした。魔界と言えども、捨て置いて良い世界ではない。これほどの真っ暗な世界においても、美しいものは見る者の心に触れるに違いない。そう信じて、魔界という閉ざされ、澱んでしまった世界に抗うように、この場所に咲く白い花を育て見つめる己と似た女性の姿が、今のリュカには見えるような気がした。
かつてこのギガンテスは見たことがあった。大魔王の棲む巨岩城の入口近く、この場所にしゃがみ込んでいた人間がいた。初めから巨人である自分を恐れなかった。真っ直ぐと己を見上げ、人差し指を口に当てていた。しかし彼女は間もなく姿を消した。
残されたのは、この世界では見たこともない白い花だった。一目見て、巨人は花が教えてくれた“美しさ”に惹きつけられた。見る毎に与えてくれる“優しさ”に気づかされた。この暗い世界でも生き続ける“強さ”を不思議に感じた。己と同じく言葉も話さない“静寂”に親しみを覚えた。
それ以来、彼は白い花と共に生きていたと言っても過言ではない。その白い花は再び人間の手によって息を吹き返そうとしている。見覚えのあるようなリュカという人間を見つめるギガンテスの大きな一つ目には今や確かに、命を取り戻したような輝きが戻っていた。

Comment

  1. ベホマン より:

    bibi様
    更新ありがとうございます。
    魔物の中にも悪くない者もいる、そんなふうに思わせるような回でした。ビアンカのいじめっ子(いじめっ巨人?)に対する態度は、昔から変わっていませんね。ほんと、
    姉御肌ですね。
    すみません、申し上げづらいのですが、
    リュカが回復呪文を花にかける部分、ホイミではなく、
    ケアルになっていましたよ。
    次回も楽しみにしております。

    • bibi より:

      ベホマン 様

      コメントをどうもありがとうございます。
      そうですね、魔物にも悪くない者もいると・・・。人間の性質はきっと子供の頃から変わらないので、彼女にはこの先も変わらないままでいて欲しいものです。多分、変わらないと思いますが。
      ご指摘ありがとうございます! うわー、大変だ。早速訂正しておきました(汗) 直前にきっとFF関連の何かを見ていたからこんな間違いをしたんでしょうなぁ。

  2. ケアル より:

    bibi様。
    執筆お疲れ様です。

    障害を持ったギガンテスとは、なかなか斬新な描写ですね、馬鹿にされた聾ギガンテスは聞こえない、きっと生まれつきだったのかな…心のよりどころだった白い花、マーサが植えた白い花、誰だって大事な物が壊されたら我を忘れてしまいますよね。
    みなごろしをどのように描写するのかなって思ってました、なるほどそう来ましたか(笑み)

    ん?このギガンテス、もしかして仲間になる?…いやないか、シーザーたちもロビンもパーティに入れなかったbibi様ですからギーガもたぶんない…の…かな?

    次話は、とうとうエビルマウンテンの中へ?
    「ヤツ」との最終決戦までまもなくって感じですね、
    bibi様、そういえば、エビルマウンテンに太陽の冠ありますよね?どうしようと考えてますか?
    次話お待ちしています!

    • bibi より:

      ケアル 様

      コメントをどうもありがとうございます。
      ギガンテスってドラクエ2でのロンダルキアのイメージが強くて、出遭うと痛恨の一撃に対してぴしっと緊張するのと、圧倒的な大きさでカッコイイと思うのと……そんな印象なんですよね。で、この巨人の最強クラスがアトラスで。しかもドラクエ5では仲間にもなるという。色々と考えると神秘的過ぎる……! もっと掘り下げたい魔物ですが、ここで足止めされている場合ではないので、ほどほどにして先に進みたいと思います(笑)

      仲間にするのは……難しいかな。大き過ぎる(困) でも今まで出会った魔物たちは、仲間にしていなくても仲間みたいなもの、ということで。後に出番があるかも?

      次話からエビルマウンテン、ようやくですね。でもエビルマウンテンの中もごちゃごちゃしていて、「ヤツ」のところに辿り着くにもちょいと時間がかかりそうです。太陽の冠も今絶賛考え中(笑) 何かしらの形で書きたいとは思っています。悩むわぁ。

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