2025/02/19

地上を覆う不穏

 

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嘘のように静かな時だった。先ほどまで魔界の空には暗雲が不穏に動き回り、大魔王ミルドラースの魔力を抑えようとしていたマーサを狙い続けていた。しかし今、そのマーサはこの世から姿を消してしまった。その身体ごとこの世から消えてしまったマーサは、己の身体に残る全てを賭して地上世界を、のみならずこの魔界をも守ろうとしたのだろうと、リュカには思えた。母マーサは決して魔界と言う世界を見捨てていたわけではない。この魔界に残したジャハンナの町に、母の思いが詰まっているのではないかと、リュカには感じられるのだ。
静かな空間の中で、仲間のゴレムスがまるで巨大な石像の如く、ただ立ち尽くしている。見上げる仲間の顔に、青白い目は見当たらない。ゴレムスが目を閉じて瞑想をすることがあるのを当然リュカは知っている。しかし今のゴレムスがただの瞑想をしているようには見られず、その雰囲気も感じられない。
目に見えない人の想いというのは、それが強ければ強いほどに、何か他のものに宿ることをリュカは自身に経験している。腰に帯びる父の剣が今は何事もなかったかのように普段通り提げられ、しっかりとリュカと共に在る。使い込まれているこの剣には確実に父パパスの想いが詰まっている。リュカがそれを能動的に感じれば感じるほど、込められている父の想いは比例して強まるような気がする。実際にゲマとの戦いの最中、信じられないことに、父の剣はリュカを救った。物に人の想いは宿り、その思いは確かに他の者へと、特に近しい者に対しては絶大なる影響を与えることがあるのは疑うべくもないところだ。
エビルマウンテンの山頂に作られた祭壇に、ゴレムスは大事な人間の友達マーサの想いを受け、自らその場に残ることを決めるように動かなくなってしまった。遺すべき想いをこの場に遺せるのは己だけだと、ゴレムスはマーサの想いを全て受け入れ固めてしまうように、ゴーレムとしての生を止めてしまったのだ。
ゴレムスが初めて声にした言葉は、マーサの名だった。そして彼が言葉を発したのは、ゴーレムとして彼が生きている中でそれきりだった。もうマーサにもゴレムスにも、彼らの間にあった物語を聞くことはできない。しかしそれ自体が重要なことではない。彼らの遺した思いを確かに胸に留め、己の中で忘れず継いでいくことが大事なのだ。リュカは、決して多くは語られないゴレムスの想いを包み込むように受け入れ、ただ「ありがとう」と呟いた。
「……リュカ殿、これは、一体……」
戸惑うピエールの声に、リュカの目頭は再び熱くなりかけた。しかし堪え、リュカはただピエールの肩に重々しく手を置くと、一言声をかける。
「おかえり、ピエール」
マーサが最期の力で自己犠牲の呪文メガザルを発動する中で、辺りに漂う水の気配に残されていたスライムナイトの思いごと受け入れ、ピエールをもこの世へと蘇らせた。それは偏に、母マーサにしかできなかったことなのだろうと、リュカは己の持つ力を顧みてもそうと感じた。たとえリュカ自身が同じ呪文を発動したとしても、仲間への想いをいくら強く持ったとしても、同じことはできないに違いない。ジャハンナの町に住む元々は魔物だった者たちを人間へと生まれ変わらせるような力を持つマーサは、息子リュカとは別の次元の力を持っていたのは明らかだ。
「し、しかし私は、ヤツの……」
「母さんが君に『生きて欲しい』って思ってくれたんだよ」
あまりにも穏やかにリュカが話すのを見ながら、ピエールは絶句した。ピエールの胸を占めるのは、果てしなく深い罪の意識だ。リュカの母マーサを救うために未知の魔界と言う異世界にまで旅をしてきたというのに、何故己がこの世に蘇り、救うべきマーサが今この場にいないのか。そんなことが許されてよいはずがないという考えが強まれば強まるほど、ピエールの身体は震える。
「何と言うことを……私など……どうでも」
「どうでも良いなんて言ったら許さないよ、ピエール」
そう言いながら、リュカはピエールとのやり取りに既視感を抱いていた。以前にもこのようなやり取りを誰かとしたことがある。脳裏に過る緑髪の親友の思いつめたような表情に、リュカは思わずふっと小さな笑みさえ漏らした。
「母さんの命を無駄にするようなことは許さない。だから君も、生きるんだ」
「私、も……?」
「そうだよ。……君とヘンリーは、何だか似たようなところがあるのかも知れないね」
リュカのその言葉に、ピエールははっと気づいたように顔を上げた。今ではラインハットの宰相となったヘンリーは、幼い頃にその命をリュカの父パパスに救われたのだと聞いたことがあった。誘拐され、東の遺跡の地下牢へと閉じ込められていたラインハット第一王子のヘンリーを、パパスは極秘に単身で救出に向かった。当時のパパスにとって、ラインハット辺りに棲息する魔物の類は大した敵ではなかった。また、ただでさえラインハット王国で煙たがられていた第一王子が誘拐されたとなれば、人々が何を言い出すか分からず、要らぬ混乱を招くだけだと、パパスは密かに行動をしたのだろうと、今となればリュカにもその辺りの想像はついた。
それが切欠となり、パパスは無残にも命を落とすこととなった。ヘンリーはその事を今でも後悔している。いつまで経っても、恐らく未来永劫、彼は後悔し続けるのだろう。リュカがその必要はないと何度言っても、ヘンリーの後悔や懺悔の気持ちが消えることはない。過去は変えられない。時は戻すことができない。その中でも託されたものがあるのなら、それを胸に真剣に生きるしかないのだと、今やヘンリーはすっかり腹を括ってラインハット王国のために働き続けている。
「ピエール、こういう時はね、言うことは一つだけなのよ」
ビアンカがまだ涙目のまま、ピエールの腕に手を添えながら静かに言う。
「ありがとうございます、って」
ピエールの心の中にもヘンリーと同じように、これから永久にリュカの母マーサへの懺悔の気持ちがあり続けるのだろう。消えることのないその後悔の思いと共に、言葉にするべきものは感謝なのだと、ビアンカがピエールの心そのものに寄り添いながら教える。あらゆる感情が胸の中に渦巻く中でも、その全てを取りまとめた結果に口にする言葉はただ心からの感謝で良いのだと、ビアンカはその身を賭してこの世界を守ろうとしたマーサの姿に自らがそうと学んだのだ。
ビアンカは手にしている賢者の石を両手に持ち、その場に両膝をついた。祈りを捧げるために両目を閉じ、静かに集中するように顔をやや下向きにする。その姿を見ていたリュカは、まるでそこに母マーサが今も祈りを捧げているような雰囲気を感じた。それほどに妻ビアンカが義母マーサの心の寄り添い、その想いをその胸に確かに抱こうとしているようで、彼女の相変わらずの優しさと強さに思わず目を細める。
「パパスさん……。いえ、お父様……お母様……。ひと目だけでも最後に会えて良かった……。見守っていてください。お二人の想いはリュカと私たちで必ず果たします」
ビアンカがパパスの名を口にした時、リュカは彼女が幼い頃から憧れていたのが勇猛な旅の戦士パパスだったことを思わず思い出した。見知らぬ高貴な様相のパパスの幻影を目にしたビアンカだが、彼女の目にはやはり勇猛な戦士パパスの姿が映り込んでいた。亡き義父と義母への祈りを捧げるビアンカの隣で、プックルは彼女の手を舐めた。悲しくない訳はなかった。ビアンカの手の甲には彼女の涙が落ちていた。
「おじいちゃん……! おばあちゃん!」
ティミーの目にも会ったことのない祖父の幻影と、会ったばかりの消えゆく祖母の姿がしっかりと映っていた。二人の姿が消えた中空を見上げ、あくまでも穏やかに皆を見つめる祖父パパスと祖母マーサの互いに寄り添う姿がまだそこにあるように見える。ティミーにとって誰よりも尊敬しているのが父親であるリュカなのは疑いようのないところだ。そしてそのリュカが最も尊敬しているのが、ティミーの祖父であるパパスだ。今まで遠い存在に感じていた祖父の姿を、たとえ幻影の中にでも目にして、ティミーの心は不安定に揺れ動いた。
自身が勇者に生まれたのは主に、母ビアンカの血筋を受け継いでいるからなのは間違いない。しかしティミーは父リュカの血筋も引いており、そしてそれはまだ中空にその幻影を残しているような気がする祖父母から継いでいるものだ。その繋がりが今の今、はっきりと全身に感じられると、ティミーはティミーであっても、ティミーだけでこの世に存在しているのではないのだと、消えた祖父母への想いが今になって溢れる。
「……うわーん!」
悲しみの感情が爆発すると、ティミーは大声を上げて泣き出した。祖父パパスは幼い頃の父リュカを庇い、非業の死を遂げた。祖母マーサは三十年もの間、地上世界の安寧を守るためにただ一人で奮闘していた。しかしその想いも破られるように、マーサはその身を賭してただリュカたちをこの世に残した。そんな残酷な運命を与えられた祖父母を思えば、普段のティミーならば寧ろ奮起し、勇者の使命への想いを強くするところかも知れない。しかし今のティミーは、祖父母の運命にただ深い悲しみを胸に溢れさせる幼い孫だった。
「やっと会えたのに……こんなのってないよーー!!」
ティミーの言葉に表れたのは、悲しみを越えた寂しさだった。絶対に魔界に捉われた祖母を救い出すのだと信じて進んできた。それはティミーが勇者であること以上に、素直に孫として祖母に会いたかったからだったのだと、ティミー自身が今になってそれを自覚した。父に良く似た祖母の容姿に、『絶対に優しい人だ!』と思った。地上世界に一緒に戻り、エルヘブンの村の祖母が暮らしたあの小塔の部屋で、祖母だけが知っている話をゆっくり聞く光景まで、無意識のうちにティミーの脳裏に描かれていた。そのような明るい夢が打ち砕かれてしまったことに、祖母マーサの最期の力で回復させられた己の身体の状況など関係なく、ティミーはその場に膝をついて思い切り悲しんだ。
ティミーのすぐ近くで、ポピーも床に座り込んでしゃくりあげるように泣いている。ピエールが蘇ったことに一も二もなく喜びを表したポピーだが、一方で祖父母が中空に姿を消してしまったことに計り知れない悲しみに陥っていた。父と祖母を会わせてあげたいと思っていたのは確かだが、やはりポピーもティミー同様に、自身が祖母と会い、話をしたかったのだと感じていた。心のどこかでこんな未来もあるかも知れないと、冷静に考えていたはずだったが、到底冷静ではなかったのだと、ポピーは止まらない己の涙にそれを知った。
家族が素直に悲しみを表している光景を目にして、リュカの心は寧ろ落ち着いた。大事な者たちをこれ以上悲しませないためにも、失われた父と母の命を無駄にしてはならないと顔を上げる。立ち込める暗雲の中に、リュカは邪悪の目を見たような気がした。それがこちらを見ていると感じる。地上世界と魔界との間に立っていたはずのエルヘブンの大巫女マーサを失った今、リュカはマーサの負っていた責務を己が引き継ぐのだと、暗雲の中に見える邪悪の目を見返しながら強く決意した。
「……父さんが僕に、託してくれたんだ……」
最も尊敬する亡き父パパスの、生きた言葉をつい先ほど受け取った。亡き父はいつでも自分や家族、仲間たちを見守ってくれている。それは今までは想像するばかりのもので、どこか一方的な思いだと感じていたが、親が子を想う心はたとえ身体が尽きようとも決して消えることのないものなのだと、父は穏やかに微笑んで教えてくれた。
「大丈夫だよ。うん。絶対に上手く行く」
リュカは元来、楽天的なところがある。どんな困難に見舞われようとも、大抵の時は大丈夫だと口にしていた。大丈夫だと口にして、そう思おうと努めていた。そう思わないと前に進めないではないかという開き直りのような気持ちもあった。しかし今彼が発した声には、いつにない力が込められていた。どこかふらふらしていたリュカの心は、常に罪悪感を覚えていた父から嘘偽りのない信頼を置かれたことで、ようやくにして己の立つ場所を見つけたのだ。
リュカを見下ろしていた暗雲の中に隠れる邪悪の目が、忌々し気に細められた。お前のような小童に何ができると言いたげなその目は、光り、リュカの頭上に雷を落とす。しかしそれを上で受け止めるのは、どこまでも深い瞑想の世界へと入ったゴレムスだ。マーサの遺した祈りの力を受け、ゴレムスは動きを止めても尚リュカたちを守り、この魔界をも守ろうと努めている。大きな仲間のその姿を見て、リュカもまた意思を強め、先に続くであろう道へと目を向ける。
「ミルドラースに会う。会って……話をする」
「話の通じるような相手ならいいけどな」
決して正面から反発するような言葉ではないが、リュカの走り気味になる行動を程よく抑えるには、アンクルの小言はちょうど良い。
「会ってみないことには何も分からないよ。どんな人なのか、どんな魔物なのかも、何も分からない」
「がう……」
リュカの言う通り、相手は大魔王を名乗りつつも、元は人間であったとリュカたちは聞いている。母マーサを長年に渡り魔界へと閉じ込めながらも、恐らくこれまでずっとマーサとは言葉を交わしてきたはずだ。可能性は低く、それこそ一縷の望みをかけて、大魔王ミルドラースとの交渉の余地はあるのだと考えても、決して間違いではないはずだとリュカは信じる。
リュカはふと、ピエールを振り向き見た。ピエールもリュカを見ていた。基本的にはピエールはリュカの意思に沿って行動する。しかし彼はそれだけに留まらず、リュカの危うい行動を目にすればそれにはっきりと異を唱えてくれる。それは全て、リュカのことを思えばこその彼の行動だ。
「ピエールはどう思う?」
リュカは率直に古い仲間にそう聞いた。地上世界から魔界へ向かう前、ピエールはリュカに魔界へ旅立つことを止めた。それは彼が、主の憎き敵であるゲマから直接『魔界で待っている』と不気味な言葉を残されていたからだった。セントベレスの山頂に立つ大神殿で渡されたその不吉にも聞こえたゲマの言葉に、ピエールは乗るべきではないと考えたのだ。リュカの中にある底なしにも思えたゲマへの憎しみは、仇敵の残したその言葉に乗ることで危険は増すと、ただリュカの身を案じてそう助言をした。
しかし今のピエールの前に立つリュカの姿には、常に感じられた底なしのような憎しみは感じられず、まるで穢れが祓われたほどの清かな雰囲気が漂っているようだった。宿敵であるゲマを倒しただけでこれほどにさっぱりと憎しみは洗い流されるのだろうかと、ピエールは不思議にも思った。敵を倒したところで、大事な者たちが戻ってくるわけではないのに、今のリュカは危険なまでに憑りつかれていた憎悪の念からどうやら解放されていた。
「行きましょう」
リュカの表情に、先ほどまで聖なる祈りを捧げ続けていたマーサの姿が重なる。しかし同時に、リュカの姿に、先ほど中空に幻影となって姿を現したパパスの姿もまた重なる。ピエールの尊敬するリュカと言う人間は、あのような両親の下に生まれ、両親を誇りに思い、そして今はリュカ自身が両親の愛情を疑うことなく、純粋に信じることができるようになった。ピエールにとって今のリュカの姿に、危うさを見い出せない。
「私もかつて、あなたに話しかけられ、生き方を変えられたのです」
ラインハット周辺に棲みついていたスライムナイトのピエールは、魔物として、人間と話をするなど考えたこともなかった。しかし人の言葉を話せると分かった途端に、興味津々で容赦なく、ずけずけと話し始めるリュカのペースにいつしか巻き込まれ、気づけばこんなところにまで来てしまった。
「私にはもう……止める理由が見当たりません」
「そっか。あはは……ピエールならもう一回くらい止めるかなと思ったんだけど」
「止めてほしかったんですか?」
「うーん、分からないけど、止めてくれた方が進みやすかったかなぁなんて」
「天邪鬼なところがあるのね~、リュカって」
「がうっ」
この場にそぐわないような和やかな雰囲気に途端になった状況に、ティミーとポピーは涙目のままきょとんと皆を見つめている。アンクルは見た目に呆れたような顔を表しつつも、密かにリュカと言う人間への信頼を更に深めた。彼が敢えて場の雰囲気を和ませようとしているのではないところに信頼が置けるのだ。リュカはただ真剣に己の為すべきことを考え、純粋に仲間たちと言葉を交わしているだけだ。
「よし! じゃあ、行こ……」
リュカの明るい調子を遮るように、再び魔界の暗雲から雷が放たれた。それを受け止めるゴレムスの巨像は、ミルドラースの放つ雷には決して倒れない強度を保っている。それがただの無機質な石であれば、とっくに雷に破壊されているに違いない。しかし深い深い瞑想の世界へと入り込んだゴレムスは、受ける雷を現実のものとして受け入れない状態を生み出している。ただ耐えうる力を見せるゴレムスを改めて見上げ、リュカはこの大きな仲間の想いも胸に留め、皆と共に祭壇を下りて行った。
空に渦巻く暗雲は、今やエビルマウンテンの山頂近くだけではなく、この魔界全体の暗い空を乱し始めていた。大魔王ミルドラースの切迫したような状況を表すように、魔界だけに留まることなく、その影響は地上世界にまで手を伸ばしていく。



「明らかに魔物の動きがおかしいですね……」
夏も近いこの時期に、空一面を厚い雲が覆うこと、それ自体は珍しいことではない。しかしそれと共に流れる風は冷たく、それでもって雨を降らせるような雲ではない。自然の力とは異なる力を空に感じ、分厚い雲に隠れる太陽は分厚い雲の向こうのどこに存在しているのか、見当もつかない。時はまだ昼頃のはずだが、増す雲のせいで地上はみるみる影に飲み込まれて行くようだった。
「てんでバラバラにも見えるけどな。だけどどいつもこいつも、こっちに向かってきてる」
ラインハットの見張り塔に立つ兄弟は、共に肩を並べて王国周辺の様子を眺めていた。夏になればいつもは鬱陶しく思う長い袖もまくることなく、寧ろ羽織るマントで冷たい風を防ぎたいと思うほどに、吹く風は冷たい。空に分厚く広がる暗雲とも呼べる雲の景色と、季節外れに冷たく吹く風に、ラインハットの国民の間にも不安が広がっていることを、ヘンリーもデールも既に耳にしている。
「しかしこうバラバラとした動きでは、とりあえずは城下町周りの防衛に留めることしかできません」
「こっちから打って出ることはできねぇな。なんせ、相手の意図が分かんねぇ」
いつかの魔物の群れによるラインハット襲撃のように、元来この辺りに棲息しないような手強い魔物の群れが動いているわけではない。ただ普段から辺りに棲息する魔物らが各々、明らかにこのラインハットを目指して動き始めているのが、城の見張り塔の上からはよく分かる。広い地平に点在している魔物らが揃ってラインハットを目指し、それらがラインハットを囲む時になれば、その数は夥しい魔物の群れとなっているだろう。それは避けなければならない。
「……何かに、操られているようにも見えます」
王国を代表する兄弟のすぐ傍で、同じように地上の景色に目を遣っていたマリアが、思いつめたような顔つきでそう呟いた。彼女自身、悪しき教団の一員として、半ば操られていたような人生を歩んでいた時期があった。しかしそれはにまだ、教団への疑う余地もない信仰心がマリアの中に存在していた。しかし今の彼女の目に映る魔物らの行動には、その信仰心に似たような力が働いていないように感じられた。魔物らはただ単に、何者かの圧倒的な力によって、どこか無理にでも行動させられているのではないだろうかと、そのようにマリアの目には映っていた。
「魔物たちにとっても、ここへ向かい戦うなど、本意ではないのではないでしょうか。どうにか戦いを避ける方法を……」
「そうだな。こっちだって無駄死にしたくないんだ。方々でちょっとばかし脅かしてやりゃあ、逃げてくれるかもな」
そう言いながらさっさと見張り塔を降りるべく歩き出そうとするヘンリーに、マリアは驚いて「あなた!」と声をかける。
「ん? どした?」
「どうしただなんて……あなた、どこへ行くつもりですか」
「どこへって、魔物を脅かしに行くんだよ。……あ、平気だよ。ほら、ちゃんとキメラの翼もいくつか持って行くしさ」
「だけどもし、万が一、逃げ損なってしまったら……あの、どうにかして話し合えないものでしょうか」
思いも寄らぬマリアの言葉に、ヘンリーのみならずデールもまた唖然としている。
「魔物さんも全てが悪いわけではないですから、その、できるならば話をして理解し合えるのが良いかと……」
「できりゃそうするさ。でもな、それができるのはアイツくらいなもんだろ」
マリアの話を遮って言うヘンリーの言葉には、鋭さがあった。真に鋭い夫の口調や表情を目の当たりにして、マリアはただ口を噤んだ。
「それにな、アイツだってこの世の全ての魔物と話し合うことはできない。理想を掲げるのは悪くないが、現実をちゃんと見なきゃダメだ」
「……姉上、私たちは先ず、ラインハットの民を守ることを考えなければなりません。それが直面している現実です」
ここでこうして話をしているのも惜しいほどに時間が迫っているというのが、二人の兄弟の言葉に声に現れていた。ヘンリーもデールも、マリアが女だからと言って下に見ることなどない。寧ろマリアの経験してきたものを尊重し、できうる限りそれを生かす術を探るようにしている。
「ごめんなさい、出しゃばった真似をして……」
「出しゃばるマリアなんて、想像しただけで可愛いだけだろ」
「兄上……。とりあえずいつもの通り、供の者は五騎つけてください。供の者にもキメラの翼を所持させること。単体で行動しないこと。無理の五歩手前で引き返すこと。それと……」
「どんだけ兄ちゃんが心配なんだよ。言われなくても分かってるよ。信用ねぇなぁ」
「ただ心配なだけです。兄上はよく突拍子もないことをなさるから」
デールのまるで包み隠さない本音に、ヘンリーはただ苦笑いを浮かべるだけだ。三人の大人が上で会話をしている最中、マリアの隣に立つコリンズはただ黙ってその内容を耳にしながら、空に広がる分厚い雲の様子を怪訝な表情で見上げていた。コリンズは普段からこの見張り塔に出入りし、息抜きと称してぼんやりと空を見上げることが多い。季節により、ラインハット上空がこのように分厚い雲に覆われることも当然あるが、今目に見えている息苦しいような灰色の雲の景色は、コリンズには逃げ場のない異世界にも思われた。しかしすぐ隣に立つ母マリアに甘えることなく、自身よりも余程切迫した環境にいる友人らのことを思えば、その顔つきには困難に立ち向かうべき強さが浮かび始めていた。
覆う暗雲はラインハットのある大陸そのものを広く覆ってしまいそうなほどに見える。見張り塔から見える景色は、大陸に点在して棲みつく魔物らの、決して統制は取れていないながらも明らかにラインハット国という場所を目指してゆっくりと進んでくるものだ。
魔界に旅立った親友のその後について、特別グランバニアから連絡が入っているわけではない。たとえ魔界に足を踏み入れたとして、その後彼らの状況が分かるかどうかなどの保証がそもそもなかった。しかし今のこの不穏な状況にヘンリーは打ち払い切れない不安を抱きつつも、見た目には気楽な調子で家族の元を離れた。
「アイツに“任せとけ”って言った手前なぁ、ま、やれることはやるさ」
呟く彼の軽口を聞く者はいない。独り言となってもそう軽口を叩くのは、胸の中で沸き起こりそうになる不安や緊張をないものとして扱うためだ。ただ、それ以上に彼の胸に占めるのは、命を賭して魔界へと旅立った親友に対し、嘘偽りのない心で向き合わなければならないのだという強い誓いだった。
ラインハット城外に出ると、既に馬の準備は整っており、共に連れる五人の騎士たちも待っていた。リュカたちが魔界へと旅立った後、ラインハット王国は以前よりも更に防衛体制に力を入れていた。常時、兵士らは出動できる状態にあり、特にヘンリーと共に行動する騎士らはいつでも呼ばれる用意があった。彼らと合流するなり、ヘンリーは慣れた様子で馬に乗る。
見上げた空には変わらず分厚い雲が不穏に立ち込めているが、その中を悠然と泳ぐような巨大な竜の姿を、彼らは一様に目にした。マスタードラゴンが世界を見回っているのか、ラインハット上空を大きく旋回するように飛んでいく。すると、空に立ち込める雲がみるみる薄れていくのが分かった。
「さすがは神様。やるじゃねぇか」
しかし完全に雲を晴らすことはできず、いくらか明るくなった雲の向こう側に太陽の姿は隠れたままだ。空をゆったりと飛ぶマスタードラゴンとふと目が合ったような気がしたヘンリーだが、竜神が何を言いたいのかなど分からず、その神々しい姿はそのまま忙し気に南へと飛び去ってしまった。それだけでヘンリーは、この不穏がラインハットだけに起こっていることではないのだろうと想像し、五人の騎士を引き連れ、落ち着いた様子でラインハット城外へと馬を進め始めた。



この時間、テルパドールの砂漠地帯にはそろそろ夕日が西に聳える山々の影に沈む頃だった。しかしテルパドールのような乾燥地帯には珍しく、空は一面の分厚い雲が覆い、西に沈もうとしている陽光を完全に遮ってしまっている。城下町に住む民らは、年中暑い日々を過ごす中でのこの異様な涼しさを伴う曇り空に、暑さを凌げたという安堵ではなく、純粋に空に恐ろしいものが浮かんでいると言ったような不安をその顔に表している。
テルパドールの女王アイシスは、城の高見にある玉座の間から砂漠一体の景色を見つめていた。日差しのない砂漠にはいつものような影がなく、のっぺりとした景色が広がっている。以前、国が襲撃を受けそうになった際には、勇者ティミーと魔物の仲間たちの手によって救われたことがあった。その際、敵は西に広がる山々の向こう側からまるで湧き出すように姿を現した。
しかし今、アイシスが感じているのは、元来この砂漠地帯に棲みつく魔物らの動きの変化だ。広大な砂漠に棲む魔物の影はあちこちに見られるが、そのどれもが不安定ながらもテルパドールと言う人間の国を目指して動き始めている。統率が取れているわけではないが、まるで突然何かに目覚めたような様子で、進む方向を一つに定めている。
「女王様、これは……」
アイシス女王の侍女もまた、空に立ち込める灰色の雲に不穏を感じている。人も魔物も寄せ付けないような広大な砂漠地帯のその空に、これほど広く灰色の雲が立ち込めるのは珍しいというよりも、ないに等しい景色なのだ。また、テルパドールと言う国は勇者伝説と共に歴史を歩んできた国であり、その国を取りまとめるアイシスには未来を予知する能力が代々継がれてきた。常に神秘と共に在り、年中厳しい暑さと言う環境に生きるテルパドールの民らの目に、空一面に立ち込める灰色の雲の景色はただただ不気味に映った。
「大丈夫です」
不安を露にする侍女に対し、女王は国の当主として先ずは安心を与えた。何があっても大丈夫だと、女王が皆を守るのだと言うように、その一言に安心を大いに詰めた。
「ただ、兵たちに状況を伝えておいた方が良さそうですね。兵士長を呼んでください」
あくまでも落ち着いた様子のアイシスの影響を受け、侍女もまた落ち着いた様子で行動を進めた。人の感情は簡単に伝達する。アイシスは内心、本当であれば到底落ち着いてなどいられない状況だと思えたが、彼女は生まれながらにして国の長であり、類まれな未来予知の能力にまで恵まれている。彼女の生き方はそれらに囲まれるようにして、ある種の抑圧を必然と受けてきたに等しいものだった。それ故に彼女はもう、慌てふためくという行動すら忘れているようなものだ。唯一、彼女の人生の中で取り乱したことがあるとすれば、それは勇者ティミーに初めて出会った時のことだっただろう。
呼びつけた兵士長に淡々と状況を説明し、アイシスはこの国を守る兵士らと魔物の仲間であるリンガーらの安全を祈ると共に、自身は再び玉座の間から砂漠の景色を眺め渡す。女王の冷静な表情且つ態度に、誰もが取り乱すことはない。世界を救う勇者の存在を歴史の中に信じ続け、今やその存在は確かとなり、勇者ティミーを知ったテルパドールの人々の間に、心底の恐怖と言うものは生まれない。
空を覆う雲は厚みを増すように見えた。それでいて雨の気配はない。砂漠地帯にとって雨は空からの恵みだが、どうやら恵みは与えられずに、ただただ不穏を及ぼすだけの空模様に留まっているようだ。
テルパドール近くをうろつく魔物らが、まるで何者かに操られるような不確かな動きで、人間の暮らすこの国を目指し進んできている。アイシスは玉座の間からその様子を見下ろしながら、装身具を身に着けた手を伸ばし、近づく魔物へと呪文を放った。これほど近くであれば、大した遠隔呪文も必要ないと言うように、対象となる魔物はあっさりとその場に膝を折り、砂の上に倒れ、眠り込んでしまった。アイシスは呪文を放った己の指先を見つめながら、侍女にゆったりとした口調で呼びかける。
「軽い食事の準備をお願いできますか」
「……は、はい。すぐに地下の庭園に用意を……」
「いえ、こちらで結構です」
アイシスは彼女の人生の中で、テルパドールの国を出たことはない。己の身体に備わる魔力がどれほどのものか、真の意味で知ったことがない。しかし今のこの状況で、彼女は己の持つ魔力を最大限に行使する必要があるとすれば、そのエネルギーを満たしておかねばならないと、侍女に軽い食事を所望したのだった。
グランバニアの国王リュカが、息子である勇者ティミーも連れて、魔界と言う異世界へ旅立ったことを彼女は知っている。この世界に勇者が再来したとあっては必ず世界が救われるものだと信じている。神への信仰にも近しいその思考は、アイシスのみならずテルパドールの民らに広く根付き行き渡っているものだ。しかしただ信じるだけで、自身らが何もしないで良いというのはただの逃避であり、直面する現実には何かしらの対応をしなくてはならないことを、アイシスはグランバニア王と話をしたことで更にその考えを確かなものにした。
何よりも、アイシス自身が、かつて勇者と共に世界を救った導かれし者たちの末裔なのだ。その血筋を受け継いだものとしての矜持が、彼女の中には確実に残っている。
「貴方がたの事を信じて、私は私のできることをしましょう」
そう呟きながら砂漠へと視線を落とすアイシスの視界に、灰色の雲が立ち込める空を泳ぐ竜の姿が映り込んだ。地上世界に復活を遂げた竜神もまた、己のすべきことをと、空一面に広がる分厚い雲の景色を和らげるべく、雲の中に入り込んで飛び回っている。それだけで邪悪にも感じられる灰色の雲は裂かれるように散り、その濃度をみるみる薄めていく。併せて、地上に影響を及ぼしていた不穏もまた和らぎ、砂漠地帯に棲みつく魔物らの動きも明らかに緩慢なものへと変化したとアイシスの目に映った。
空の竜神の姿を見たテルパドールの民らから歓声が上がったのを、女王は耳にした。この世界は勇者のみならず、竜神にも守られているのだという安心が民の間に広がるのを、女王は嬉しく感じると共に、己に課せられた女王としての責務を改めて重く受け止める。
「何があろうと、私はこのテルパドールを守ります」
言葉にすることは、自身への誓いを立てることなのだと、予知には至らない幸福か破滅かの未来に向けて、アイシスは皆の幸福を信じながら再び砂漠の景色へと目を遣る。空を旋回していたマスタードラゴンは、一通りテルパドールの空を巡った後に、今度は西へと飛び去ってしまった。



「おーい、ちょっと手を貸してくれ!」
町のシンボルでもある大聖堂にも見間違われる大きな教会の中にも、その声は聞こえてきた。潮風を感じるほどに海の近いサラボナの町には夜の帳が下り、町の人々がじきに眠りに就くような頃合いだった。
ルドマンの屋敷から西へと続く広い丘の上では、一日を終えた子供たちが既に眠りに就き、静まる学び舎兼宿舎がひっそりと建つ。年齢も様々な子供たちの中には当然、まだ眠らない子供もいるだろうが、世話役の女性らが落ち着いて対応してくれているとフローラは彼女たちに信頼を置いている。
教会の扉が、いくらか勢いよく開けられ、外に聞こえていた声の主と手を貸す男たちがぞろぞろと入ってきた。フローラは組み合わせていた手をそのままに振り返り、教会に入ってきた男たちの様子を見て思わず息を呑んだ。
教会の祭壇でフローラの祈りと共に自らも神への祈りを捧げていた神父が、あくまでも落ち着いた様子で男たちに歩み寄る。運ばれた男は三人、いずれも一目で大怪我をしていることが自ずと知れた。三人の男は皆、自力で立つこともできず、その内の一人に至っては完全に気を失っているようだった。
「外で魔物にやられたんだ。神父さん、すぐに手当てしてやってくれ。じゃないと……」
「ええ、ええ、大丈夫ですよ。床の上に静かに寝かせてあげてください」
神父はすぐに処置の必要と見られる、完全に気を失っている男の身体に手をかざす。フローラは神父が集中して唱える呪文が蘇生呪文であることが分かると、自身もまた他の怪我人へと歩み寄る。
「そちらの方、椅子にお座りください。私も回復呪文が使えますから」
見たところ、サラボナの町の住人ではなかった。魔物の脅威が増しているこの世界でも、サラボナは町を取り仕切るルドマンの下、各地との交易を続けている。どうやら荷馬車で交易の品物を運んで来る最中に、突然凶暴化したと言っても良いような魔物の群れに襲われ、どうにか逃げてきたのがこの三人の男たちだった。運んできたはずの荷も馬車も見当たらない。恐らく荷を守ることはできず、馬は魔物を恐れどこかへ逃げ去ってしまったのだろう。
神聖な教会の雰囲気に包まれるように、運ばれ、痛みに呻いていた男の様子はみるみる落ち着いて行った。教会の外で手を貸していた町の住人は多少酒臭かったが、酒場から家へと帰る途中に怪我人を目にして酔いが醒めたらしく、神妙な面持ちでフローラが回復呪文を唱える様子を見守っている。
「フローラ様、恐れ入ります」
蘇生に成功した男の様子を確かめた後、神父はフローラにそう声をかけると、もう一人の怪我人の手当てをと長椅子に腰かける男へと歩み寄る。しかし神父の動きを遮るように、フローラはもう一人の男の怪我にも回復呪文を施し、手当てを済ませてしまった。
「私にできることはこれくらいですから……」
フローラの声が静かなのは決して静かな夜の教会の中にいるからというだけではない。彼女の言葉には、彼女の感じる無力に対するやるせない気持ちが表れていた。今のこの時にも、グランバニアの国王は大事な家族を連れ、魔物の仲間を連れ、命を賭すような危険な旅に出ている。それを直接手助けするような立場にもなく、ここでこうして祈りを捧げることしかできない己の居場所に不安を覚え、何か他に出来ることはないかと落ち着かない感情に捉われるのを上手く止めることができないでいるのだ。
「……た、助かりました。ありがとうございます……」
フローラが怪我人に施したのは回復呪文ベホイミで、男が負った怪我はそれで十分に処置できたようだった。痛みから解放された男はまるで美しい女神さまに感謝するように手を組み合わせ、フローラを暗い教会の中で拝んだ。アンディと夫婦となり、サラボナの丘に建てた孤児院に受け入れた子供たちと生活をするようになっても、フローラの美しさはより磨きがかかるようだった。それは幼少の頃に海辺の修道院へと預けられ、養育を受けた過去に由来しているだけではなく、受け入れた子供たちの生命力を日々感じることで、そこに深い慈愛の精神もまた育まれたからに相違なかった。大人が子供を育てるだけではない、子供が大人を育ててくれるのだと、フローラは日々そう感じている。
「…………でも、その、荷も馬も全部やられちまって……」
彼らは他の地より交易でサラボナの町を目指していた商人たちだ。魔物の襲撃により荷も失い、馬にも逃げられたとあっては商売としての損失のみならず、むしろ安全に荷を運ぶこともできない者たちだという信用が失われることに恐れを見せている。
「命あっての物種、という言葉があります。貴方の命があるのですから、それで良いではないですか」
危険な旅に出ている遠き国の友人のことを思えば、自然と口にできる言葉だった。フローラが本心から口にした言葉に、旅の商人らはこの時になってようやく自身らの安全を確信し、安堵の溜息を零し、一人は涙すら零していた。
宿屋と併設している酒場から家路を歩んでいた町の人間がその後を請け負うように、すっかり酔いが醒めたその町人は、まだ足元がふらつくような三人の商人を連れて宿へと引き返して行った。フローラが手助けをしてくれた町の者に「宿代はルドマンが」と伝えると、三人の旅の商人らは目を見合わせて驚きを示していた。
「フローラ様、そろそろお戻りになられた方がよろしいでしょう。アンディ様も心配されますから」
「そうですわね」
神父の勧めの通りにしようとそう返事をするフローラだが、彼女は再び視線を落としてそっと目を閉じると、そうしないではいられないと言うように両手を組み合わせ、大事な友人のためにと祈りを捧げる。海辺の修道院での生活の中で、神に祈りを捧げることの大切さを説かれた。人を思う心と言うのは、人にとって、何にも増して力となるものだと教えられた。それは祈りの心を受け取る者にとっても、祈りを捧げる者自身にとっても、必ず見えない力となって巡るものなのだと教わった。
「またじきに明日が来ます」
「ええ」
「その次にもまた明日が来ます」
「ええ、そうですわ」
「明日が終わることはありません」
「仰る通りです」
「明日を守ることは、子供たちを守ることです。……さあ、また明日を生きるために、今日のところは休まれてください」
「……はい。ありがとうございます、神父様」
フローラの胸の内に生まれていた不安が、神父の言葉によっていくらか和らぎ、目立たないものとなった。過度の不安を感じていては、接する子供たちへ影響を及ぼしかねないのだと、フローラは己の心に蓋をするのではなく、子供たちの強い生命力に明るい未来を描くことで、顔には自然と微笑みを浮かべることもできた。
魔物の動きが活発化している現状に鬱々としているだけでは、それこそ悪しき魔物らの思う壺だと、教会を出たフローラは顔を上げて夜空を見上げた。星も月も見えない曇り空だったが、その分厚い雲の中を大きく動く竜の影を彼女は見た。サラボナの町を騒がすことなく、ただ静かに曇った夜空を旋回するマスタードラゴンの姿を目にして、フローラは再び両手を組み合わせて祈りを捧げる。一方的に神に救いを求めるばかりが祈りの本質ではない。神に向き合うことで己を見つめ直し、幾度となく己への理解を深めることで、自身の為すべきことと向き合うことができるようになるのだと、フローラはまた明日に向かって夫アンディや子供たちと明るく有意義な時を過ごせるよう、心が乱されることなく整うのを感じていた。



森の朝は大抵霧が濃い。自然の要塞とも呼べる大森林に囲まれた国グランバニアには間もなく、燦燦とした朝陽が降り注ぐほどの時間になっていた。しかし陽光は分厚い雲の向こう側に隠され、その為に森の中に漂う霧もまた晴れるのに時間がかかるだろう。その霧深い森の中を、一人のグランバニア兵士が城に戻るべく、早足で歩いていた。
彼は元々、光の教団の信者だった。名をトレットと言い、グランバニアで行われた新年祭の武闘大会にて、一度は国王リュカと手合せしたことのある武闘家だ。その容姿はリュカと似ており、必要とあらばリュカの影武者となり、国王自身に迫る危険を自身で担うことも厭わないと考えている。しかし誰もがその危険をトレットに背負わすようなことはせず、そもそもリュカ自身もそれを望んでいなかった。
一度、グランバニアと言う国を危険に晒した罪をトレット自身が認め、今もこれからも、その罪を後悔する人生を送ることから逃げないと彼は決めた。グランバニアに彼を留めたのは、リュカだ。敵であったはずの者に手を差し伸べられ、尚且つこうして特別な意図もなく暖かく受け入れられては、元来悪意のないトレットという青年にとってはそれを突っぱねることもできなかった。故に今では、彼はグランバニアの国を守る兵士の一人として、その役を立派に務めることが己の生きる道だと、疑わないようになった。
戻ったグランバニアの城門には、絶えず二人の兵士が立っているが、トレットの姿を見るとすんなりと道を開け、城の中へと彼を通した。「朝っぱらからお疲れ!」と気軽に声をかけてくれる兵士に、トレットはいくらか和らいだ表情を見せる。しかし器用に返す言葉もなく、彼は小さく頭を下げるだけで、中へと入って行った。
城下町ごと城の中に造ってしまったこのグランバニアの異様さに、トレットはようやく慣れてきた。まだ朝も早い時間、一階の奥に広がる城下町はまだ眠っているように静かだ。しかし彼が生活するのは二階の空間で、すぐに二階へ通じる階段を上れば、そこには待ちかねたように立つグランバニアの宰相であるサンチョの姿があった。それだけではない。その隣には同じくグランバニアの国を支えるマーリンがおり、兵士らを束ねる兵士長ジェイミーがおり、傍にはまるでこれから戦いに出るのではないかと思えるような身軽な武闘着に身を包むドリス姫の姿もあった。
「森の様子はどうでしたか、トレットさん」
国の宰相という立場にありながらも、このサンチョという男はどうしても偉ぶるような口が利けない。彼はいつまでも“誰か”の従者であり、自身が上に立つようなことがあるとは思えないのだ。
「鳥も小動物も、見当たりません。何かの予兆を感じるように、どこかへ逃げているようです」
トレット自身、非常に優れた武闘家の一人だ。その身軽さを買われ、また自ら志願して、このグランバニアの森の中を偵察する役を受けている。トレットの感じるグランバニアの森は、異様なほどの静けさに包まれていた。目に見る景色にも、普段は枝に留まる鳥の姿は忽然と消え、木の幹を上り下りする小動物もまた、地中深くに穴でも掘っているのか、地上にその姿を見なかった。そしてトレットには、グランバニアの国を守る大森林自体にも、まるで木々そのものが怯えを感じているような硬直した雰囲気を、嫌でも感じることができた。
「森がとても暗いです」
「確かに。今日は寒く感じるくらいに、お天気も悪いようですね」
「しかし雨が降るわけでもなし、グランバニアの空にあれだけの雲が立ち込めて雨が降らないというのも、落ち着かんものじゃ」
サンチョもマーリンも、朝早くにグランバニアの屋上に出て空を見上げていた。見張り塔からの景色を確かめるために屋上へ出た二人だが、空一面に灰色の布をバッと広げたようなのっぺりとした曇り空に、まるで気味の悪いものを見てしまったような気持ちにさせられたのだった。
「すぐにでも兵を配置した方が良いかと思われます」
状況を聞き、そう口にするのはグランバニアの兵たちをまとめる兵士長ジェイミーだ。リュカと同じほどの身長であるトレットよりも更に頭一つ分ほど背の高いジェイミーを見上げながら、ドリスが口を挟む。
「ジェイミーはいつも通り北に行くんでしょ? だからあたしは南に……」
「ドリス様は城から離れてはなりませんと何度申し上げれば良いのですか」
「でもさ、本当にマズイ時はあたしだって戦力に数えてよね。戦えるんだからさ!」
そう言いながらドリスが見上げるのは、忠告をするサンチョではなく、森で偵察をしてきたトレットだ。生真面目でもあるトレットの報告の声の低さに、ドリスは今の状況の深刻さを見ていた。彼女には父であるオジロンと共に鍛え上げた武闘家としての身体がある。彼女がこうして身体を鍛えてきたのは、偏にグランバニアと言う国を思う心が深いからだった。自慢にもなるこの武闘家としての力を国のために使える時があるのなら、惜しげなく使う気概が彼女には備わっている。
「もしかしたらドリス嬢にも出番が回ってくるやも知れんのう」
「……その時が来ないことを祈ります」
戦力になるからと言って軽々に城を飛び出すわけには行かないのが、ドリスの立場だ。彼女はその身に、グランバニアの未来を託されているようなものだった。万が一にでも、魔界へと旅立ったリュカたち国王一家に何事かがあれば、グランバニアのこれからを継ぐのはドリスだけなのだ。そのような未来を想像するだけで胸が潰れそうになると、ドリス自身、暗い未来を考える余地を己の中に用意しないようにしている。しかし現実というものはいつでも人の感情などに配慮することなく襲い掛かってくる。
その時、マーリンの耳に獣の吠え声のような音が聞こえた。グランバニア城の外、囲む森の中で、魔物が暴れ出したのだろうかと思った矢先、また異なる方向から同じような獣の吠え声が聞こえた。雄々しい獣の吠え声は、グランバニアの国を共に守る魔物であるアームライオンのアムールとシンバのものだとマーリンには分かった。その仲間たちが、森の中で敵となる魔物との交戦状態にあるのが声に知れた。
「多勢ではないようじゃ」
「マーリン殿?」
「早急に兵の配置を増やした方がよかろう」
「では私は北を、南にはサーラ殿に向かってもらいます」
「南北だけでは事足りん。あらゆる方面に守りを固めた方が良さそうじゃ」
大森林の中でトレットが感じていたものも、マーリンの指摘と同様のものだった。グランバニアの国は主に南北からの敵の侵入を警戒しているが、トレットは森全体から棲みつく命と言う命が消えてしまったのかと思うほどに、不気味な静けさを感じていた。敵はどこかからやって来るのではなく、どこからでもやって来るという空気を感じたのだ。
「わしはオジロン王に報告しておこう」
「私は東の兵の様子を見て来ますね」
「じゃああたしは西の兵の様子を……」
「あれっ? こんな朝早くに皆さんお集まりで。どうしたんですか?」
まだ寝起きのような顔つきでふらふらと現れたのは、一応兵士としての身なりも整えた状態のピピンだった。ちょうど良いところにと彼の腕を掴んだドリスは、その腕を引き寄せて彼の顔を下から覗き込み、にやりと笑う。ピピンにはドリスのその笑みがただ美しいものに映り、顔を上気させて見惚れている。
「ピピン、あたしと一緒にちょっとお散歩しようよ」
「ドリス姫と、お、お散歩ですか。なんと有難き幸せ……。これって、その、アレですよね。いわゆる、デー……」
「大丈夫、大丈夫。あんたのことはあたしが守ってあげるから」
「なんと有難き幸せ……いや、でもホントだったらそれって僕の言うこと……って、お散歩ってどちらへ?」
「いいからいいから。さっ、行くよー!」
ドリスを本気で止めようとするならば、サンチョでもマーリンでも、ジェイミーでもトレットでも、止められたはずだった。しかし彼らは誰もが、ドリスがピピンを連れて階段を颯爽と下りて行くのを止めなかった。ドリス自身、内心では己に課せられたグランバニアの国のための役割を理解しており、決して無茶な行動には出ないと誰もが信じている。そして、姫が強引に連れて行ったまだ年若い兵士の真の実力を感じているが故に、止める必要もないと感じたのが本当のところだった。
「トレットさん」
「は、はい」
「姫とピピンにこれを渡してもらってよろしいでしょうか。あなたならすぐに追いつきそうですからね」
そう言ってサンチョが懐から取り出したのは、キメラの翼だった。森の中で魔物と交戦となった際に、すぐにでも退避できるようにと全兵士に一つずつ持たせているそれを、サンチョは念の為にとトレットに渡した。三つのキメラの翼を手にしたトレットはすぐさま姫と兵士の後を追いかけ、階段を駆け下りて行った。
「さて、私も少し急いで行った方が良いでしょうね」
「お気を付けください、サンチョ殿」
「まあ、無理はせんことじゃ」
続いて階段を下りて行くサンチョの表情から、既に笑みは消えていた。主が留守中のグランバニアを包む不穏に、サンチョは負けてなるものかと両手でぴしゃりと己の両頬を打つ。
「坊っちゃんたちのためにも……この国を守らねば」
恐らく死ぬまで“従者”を続けるサンチョは、これまでも、今も、これからも、主のためにと働き続ける。

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