銀色の案内人

マーサが祈りを捧げ続けていたエビルマウンテンの祭壇の上に、今は巨像がその場所を守っている。弱まりはしたものの、祭壇の上から魔界の空に向かって今も聖なる光は伸びている。その光が絶えることがない限り、この魔界においても完全な闇が支配することはないだろう。
しかしその光の力さえも破ろうと、空に渦巻く暗雲から雷が落ちて来る。祭壇の上に立つ巨像目がけて落とされる雷だが、友達のマーサの祈りそのものになってしまったかのようなゴレムスは、もはや大魔王の力に屈することもなくなった。いくら己に雷を落とされようとも、その悪しき力ごと己の身体を通して受け流すように、エビルマウンテンの山にその力は流れていく。
大魔王の怒りに触れるのが恐ろしいのだろうか、エビルマウンテンに棲みつく魔物らの動きが鈍っている。リュカたちは進む山道の先に魔物の姿を見ていたが、魔物らは大魔王の操る雷に怯えるように、山道の崖に身を潜めていた。リュカたちの姿を見ても、思うようには動けないようで、ただ大魔王の怒りが静まるのを待っているようだった。それは魔物の本能的なものなのかもしれないと、リュカはこれを好機に、意気込んで攻撃してこない魔物らの脇を素早く通り抜けるように仲間たちと道を進んでいった。
暗雲から雷が落とされる。その凡そは祭壇の上に立つゴレムスが受け止めていた。しかし今、暗雲から放たれた雷はリュカたちの進む道の、崖の上に落とされた。雷の攻撃を受けたに等しい崖から、大岩が降ってくるのをリュカたちだけではなく、その下に身を潜ませていた魔物らもまた、見上げている。
リュカの口から「離れろ!」という言葉が出る前に、アンクルが素早く皆を一斉に抱きかかえた。ピエールはその背に飛び乗った。プックルは駆け出していた。アンクル一人が抱えて飛ぶには、リュカたち皆の重さは負荷がかかり過ぎる。避け切れないと感じたピエールが、アンクルの背にへばりつきながら、崖を転がり落ちて来る大岩に向かってイオラの呪文を放った。大岩の中心ではなく、端に呪文をぶつけることで、砕ける大岩はアンクルの飛ぶ方向とは反対側へと砕け散った。散った破片も、イオラの爆風がリュカたちの進行方向とは逆に流し、頭上に降ってくることはなかった。崖下に寄っていた敵の魔物には、その破片が頭の上から降り注いだようだが、酷い悲鳴が聞こえることもなく致命傷にはならないだろうと、内心リュカは胸を撫で下ろしていた。
進む先に、温かな火の明かりの気配があった。決して不気味を感じる火ではなかった。その橙の明かりを視覚に感じるだけで、まるで地上世界に戻ったような感覚さえ呼び起こさせた。魔界の町ジャハンナに灯る火も、これと同じものなのかも知れないと思えた。
「ねえ、お父さん。おばあちゃんはここでたった一人で……ずっと生きていたんだよね?」
ポピーがそう言うだけで、娘が何を言おうとしているのかがリュカには分かった。確かにマーサには人間離れした力が備わり、その力を行使して地上世界と魔界とを分け、尚且つ繋ぎ止めるというエルヘブンの大巫女としての宿命の中に彼女は生きてきた。とは言え、彼女もまた一人の人間であることには違いない。このエビルマウンテンの中、到底人間が生きて行けるような環境などないように思えるが、マーサが生き続けていたと言うことは、相応の環境がここにもあったということだ。
娘が再び泣き顔になってしまいそうになるのを止めるように、リュカは穏やかに彼女に応じる。
「ああ、そうだね。もしかしたらあの場所で、おばあちゃんは暮らしていたのかも知れないね。みんなで行ってみようか」
リュカはポピーに合わせ、“おばあちゃん”と口にしてみた。それだけでリュカ自身の抱える悲しみは図らずとも和らいだ。
「がう……?」
鼻をひくつかせるプックルは、明かりの灯る洞穴の奥に危険を感じるのではなく、ただ何かの不思議を感じていた。悪しき魔物の気配と言うよりも、何だか分からない者の気配をその身に感じ、ただ厳つい豹の顔に訝し気な表情を浮かべている。
「とりあえず入ってみようぜ。また空から落っこちて来る前によ」
「一度、身を隠すにもちょうど良いでしょう」
「ボク、おばあちゃんのこと、もっと知りたいな」
「そうね。もしお義母様のことが何か分かるのなら、私たち、知るべきだわ」
各々の理由で進む先が決定したと、リュカは皆と共に迷わず明かりの灯る洞穴の入口へと足早に進んでいった。エビルマウンテンの入口に待ち構えていた不吉な赤い火の案内は、ゲマの魂と共に消え去ってしまった。今リュカの目に映る橙の火の明かりは、単に暖かな生きる火をそこに灯しているだけのようだ。おびき寄せることもなく、ただゆったりと待ち構えているようなその明かりは、死しても尚リュカたちを見守ってくれている母マーサのようで、リュカの胸の中にも温かな火が灯るようだった。
大きな口を開けて待っていた洞穴に入り、リュカたちが先ず気づいたことは、洞窟の奥にささやかに響いている水の音だった。耳に清かなその音を聞けば、それだけで心が洗われるような気さえする。その雰囲気はまさしく魔界の町ジャハンナにある巨大水車の生み出す水路の水の流れを彷彿とさせた。ジャハンナの町を取り囲む水も、町の住人の話ではマーサが地上世界から持ってきたものだという、信じがたいような事実を口にしていた。しかしそれは紛れもない現実であり、それが現実であるならば、このエビルマウンテンにある洞穴の中に流れる水の音もまた現実のものなのだとすんなりと受け入れることができる。
「何だか洞窟って感じがしないくらいに明るいわね」
「そうだね。でも……奥に何かがいる気配はあるね」
リュカはプックルのように鼻を利かせるわけではないが、それでも見えない洞窟の奥に何者かが潜んでいる雰囲気だけは感じ取ることができた。洞窟の中を照らす燭台の明かりは、洞窟の奥深くまで広く照らしているが、その中に魔物の姿を見つけることはできない。燭台に灯る火にも、魔性は感じられず、とりあえずは安心して歩き進むことができる状況だ。
その時、洞窟の天井を揺るがすような轟音が鳴り響き、たとえゴレムスでも届かないほどの高い洞窟の天井からパラパラと岩盤の欠片が降って来た。しかしそれ以降、音は鳴りやんだ。大魔王ミルドラースによる魔界の暗雲から落とされる雷は一先ず鳴りを潜めた。その状況に、リュカは安心するでもなく、寧ろ不安を覚えた。祭壇の上に立つゴレムスや、洞窟の中に潜ったリュカたちへの攻撃を止めた大魔王の力が、どこへ向かうのか。魔力の温存などのために、一時大人しくしているのであれば問題ないと捉えてよいだろうが、恐らくそうではない。しかしただ不安を覚えたところで、それは良い結果をもたらさない。無暗に焦りそうになる己の気持ちをできるだけ抑え、リュカは今直面している状況に対応することに集中した。
プックルが用心深く、鼻をひくつかせ、耳を欹てながら皆の前を歩いて行く。獣特有の歩き方をするプックルの足音はたとえ固い床でも微塵も音を響かせない。元は人間であったとされる大魔王ミルドラースはこのエビルマウンテンの山の中に、それこそ人間らしい城を造ったつもりなのかも知れないと、リュカは正確に敷き詰められた石の床を歩きながら、ある種の人間らしさをそこに感じていた。
洞窟内を照らす火はそこかしこにあり、内部は非常に明るい。その光を受けて、何かがきらきらと光り輝いているように見える。まだ遠くにいるそれは床にへばりついた金属のようにも見えるが、それが動き、ふと目が合うと、恐るべき速さで洞窟の奥へと逃げて行ってしまった。勝手に置いてけぼりを食ったようなリュカたちは、一様にして目を瞬き、何が起こったのか分からないと言うように顔を見合わせる。
「なんだ、ありゃあ……」
「魔物……でしょうか?」
「人じゃなさそうだったから、きっとそうよねぇ……」
更に奥に何者かがいる気配は確実に感じる。しかしやはり悪しき魔物の雰囲気ではないことを、リュカだけではなく、特に魔物の仲間たちは容易に感じているはずだった。目の前で、それこそ光の速さでどこかへ逃げ去ってしまった何者かもまた、悪しき気配を感じなかったためにリュカたちは咄嗟に身構えることも忘れていた。
今もリュカたちの耳には清かな水の流れの音が聞こえている。その音はまだ見えない洞窟の奥深くから流れてきているものだ。この空間に、間違いなくマーサは来ていた。人間である女性が三十年もの長きに渡り、主に囚われていたのがこの広い洞窟の中なのだろうと想像すれば、奥まで足を踏み入れない理由などなかった。
「一応、用心しながら進んでみようか」
いつもならば率先して前へ出て、興味津々に走り出しそうなティミーと、怖がりつつも決して好奇心においてティミーにも劣らないポピーの背に手を当てながら、リュカはゆっくりと彼らと歩みを併せて進んでいく。二人の子供たちはまだ元気を取り戻してはいない。そんな子供たちを元気づけるためにも、リュカは本来己の感じているはずの母を喪失した悲しみに蓋をすることができる。
明るい洞窟の中、視界に困ることはない。進んだ先には更に明るい空間が広がり、見える景色に、ここが大魔王の居城だということを忘れる雰囲気をリュカたちは一様に感じた。広い洞窟の只中に、四つの大きな火台が置かれ、その上で明々と大きな火が燃えている。これまでにもリュカたちはエビルマウンテンの洞窟内を照らす燭台の火を見てきた。しかしここに点いている明るい火は、魔界に存在するエビルマウンテンにもこれほど明るく、聖なる雰囲気を纏う場所が存在できるのだと証明するような、訪れる者の心ごと明るく照らしてしまうほどに暖かな橙の火だった。
その火台の影に、先ほど目にも留まらぬ速さで逃げてしまった者がいるのを、ティミーが見つけた。それは明らかに魔物だった。いつかどこかで、見たような気もしたが、こうしてはっきりと目が合うのは初めてだった。おおよそ魔物らしくはない、きらきらと輝くような二つの目としばし見つめ合っている内に、ティミーの胸の中には自然といつもの好奇心が湧き出してきた。辺りには不思議なほどに危険を感じない。間違いなく祖母マーサがこの場所に生きていたのだと感じれば、ティミーが一応持っている警戒心は更に解け、駆け出しはしないものの先をそろりそろりと歩き始める。
「ちょっと、お兄ちゃん……」
「しーっ。ほら、あそこにいるんだよ。逃げられちゃうと、追いかけたくなるだろ?」
「深追いは危険です、王子」
「でも、何だか危険じゃなさそうよね。あれって、魔物なのかしら?」
「魔物だってみんなが悪いわけじゃないからなぁ」
「それを地で生きてきたお前が言うと、説得力ってモンがあるよな」
「がう」
皆の声をすぐ後ろに聞きながら、ティミーはなるべく目的の者を怖がらせないようにというような足取りで、壁際からそろそろと進んでいく。もしこの場に魔物がいても、それが正しい進み方だろうと、皆もティミーのすぐ後を追うようにして静々と歩いて行く。
ティミーが先頭を歩いていた矢先、彼の足元から突如として光の柱が天井に向かって伸びた。同時に、ティミーの身体がその光に包まれるようにして浮き上がり、ティミーは地に足がつかない状態でバランスを崩しつつもどうにか空中に立っている。かと思えば、ティミーの身体は彼の意思とはまるで無関係に、一つの方向へと急激に引っ張られるようにして移動を始めた。
「うわわわっ!」
「お兄ちゃん!」
追いかけようとするポピーもまた、先ほどティミーが立っていた場所に足を踏み入れると、途端にその場に光の柱が立ち、彼女の身体も同じように光に包まれ浮き上がった。自分ではどうすることもできない力が彼女の身にも働く。ポピーは咄嗟に己の魔力で抵抗しようと試みるが、彼女の頭でも何をどうすればよいのかも分からず、やはりティミー同様にただ一方向に運ばれて行くだけだ。
「なんだ、なんだ?」
唯一宙を飛ぶことのできるアンクルが、翼をはためかせて宙に浮き、動く床に運ばれて行った双子を連れ戻そうとする。しかし宙に浮かぶアンクルですら光の柱にその身を任せるだけで、野太い声を上げながら、双子の後を追って滑る床の上を運ばれて行った。
一体何が何だかは分からないが、とにかく離れ離れになってはいけないと、リュカもビアンカも光の柱に飛び込み、続いてプックルとピエールもまた光の中へと飛び込んだ。光に包まれる感覚は、冷たいも温かいもなく、ただ己の周りに光があるだけだった。しかしリュカたちの身体を捉えて働く力の強引さに、リュカはルーラを唱えた時のような抗えない力をその身に感じた。引っ張られる感覚にバランスを崩しそうになるが、倒れることはない。一方向に急激な速度で運ばれ、どうやら角を曲がる時には直角に道は出来ており、その際に酷く身体に負担がかかる。過ぎ行く周りの景色に、リュカはとある洞窟で乗ったトロッコを思い出し、あれよりは余程安定感があるなとぼんやりと思っていた矢先に、行き着いた先で光から吐き出されるようにそのまま光の及ばない洞窟の床に投げ出された。
リュカたちよりも前に、床に投げ出されていたティミーが、同じく床に倒れ込んでいたポピーと一緒に身を起こし、一体何が起こったのかと辺りを見渡している。アンクルは双子を押しつぶさないようにと咄嗟に飛び上がり、その後にリュカとビアンカが一緒になって床に投げ出された。そして最後にプックルが身軽に着地し、ピエールは前に進んでいた皆の様子に学び、自ら上手く床に着地していた。
ティミーとポピーが進んできた床を見ていると、彼らを包んでいた光の道は消えていた。天井まで伸びていた光の柱は、彼らを運んでいる際にはまるで光のカーテンのような景色を洞窟の中に生み出していたが、今は何事もなかったようにただ明るい洞窟の景色だけが広がっている。ティミーが目指していた火台は、今は滑ってきた床の向こう側にある。光が止んでいる今ならば問題なく先ほどの床の上も移動できるだろうかと近づくティミーだが、明らかに洞窟の周りの床とは異なる大きな石が列になって並んでおり、迂闊に足を踏み入れてはいけない雰囲気が誰の目にも明らかだった。
「がうっ?」
リュカたちがいる洞窟は広く大きく、洞窟内に置かれた巨大な火台もあちこちにあり、遠くまで見渡すことができる。その遠くに見えるところで光の柱が立ち、何者かが光のカーテンと共に移動している様子が目に見えた。どうやら洞窟内に棲息する魔物らもまた、リュカたちと同様にこの滑る床の影響を受けるようだった。
「なんだよ、あっちこっちにあるじゃねぇか、このヘンテコな床がよ」
「何故このような仕掛けを……。とても大魔王が考えるものとも思えませんが」
先程、遠くに見えた光に運ばれていた魔物も、恐らくティミーが火台の後ろに見つけていた魔物と同じ種族のもののようだった。洞窟に入る前から、リュカたちはこの中に悪しき魔物の雰囲気を感じていなかった。その為にこの場所は恐らくマーサのために用意されたものなのだろうと想像しており、その想像は当たっているのだろう。
「何かを守るため……かしら?」
「何かを守るために、母さんがこの仕掛けをここに作ったのかも知れないね」
リュカにはとうとう、母マーサの持つ底知れぬ秘めたる力については分からないままだった。しかしそれ故に、母がこの場所に見たこともないような仕掛けを生み出す力を持っていてもおかしくはないという想像も働く。ジャハンナの町には、町を守る巨大ゴーレムが多くいた。彼らはマーサの手によって生み出された、魔界の町を守る巨人たちだ。恐らく彼らは元々、ジャハンナの近くの大岩の一部だったのだろうが、マーサの呼びかけでゴーレムとしての生を始めることになったに違いない。
「リュカ殿の母上は、それこそ魔物を人間に変えてしまうほどの、不思議な能力をお持ちですからね」
「そうだね。でもどうやってこんなことができるんだろうな。僕にもできることだったのかな……どうやればいいのか、想像もつかないけど」
そう言いながらリュカは立ち上がり、改めて辺りの景色を見渡してみた。全ての床に特別な仕掛けが施されているわけではないようだが、それでもまるで何本かの道が床に模様を作り出すように、この洞窟全体に仕掛けの道が広がっている。複雑に張り巡らされる滑る床の通路は、それ自体が迷路を作り出しているようだった。
「ボク、いつもなら、わ~い! すべる床って楽しいな~! って騒ぐところだけど……今日はとてもそんな気分にはなれないよ……」
リュカの言う通り、この滑る床の仕掛けを作ったのが祖母マーサだと思うだけで、ティミーの胸には先ほどまで生きていたはずのマーサの姿が思い出され、まだ無邪気にはしゃぐ気にはなれないようだった。この場所にたった一人でいたということだけで、ティミーには耐えがたい状況だと感じる。敵に囚われ、自由などなく、たった一人で三十年を過ごした祖母を思えば、ティミーの隣にまだ座り込んでいるポピーの目にも、再び涙が浮かんで来る。
「わたし、おばあちゃんといっぱいお話したかった。遊びたかったし……。わたし、おばあちゃんとお城へ帰ることばかり考えてたのに……。ぐすっ……」
ティミーもポピーも祖母を救うために魔界に足を踏み入れ、その目的は必ず達成されるのだと信じて進んできたがために、祖母を救うことができなかった現実にまだ打ちのめされているような状況だ。まだ十歳という年齢で、尚且つ彼らは厳しい旅を続けながらも、これまで決定的な“失敗”をしたことがなかった。サンチョと共に、父母であるリュカとビアンカを救う旅に出ていた。そして父リュカを救い出し、母ビアンカをも無事に救い出すことができた。双子の旅にはこれまで、決定的な失敗というものがなかったのだ。
「二人とも、おばあちゃんを思ってくれてありがとう」
そう言いながらリュカは二人の子供たちの前で屈み、二人の頭を同時に撫でた。
「でも僕たちはおばあちゃんのためにも頑張って進まないと行けないんだ」
二人の子供たちに話しかけるリュカの脳裏にも、先ほどまで生きていた母マーサの姿が過るが、もう目頭が熱くなることはなかった。母はきっと今、父と共にいる。恐らく母にとってはそれが唯一の救いだったのかも知れないと、父に導かれ天国へと旅立った母の幻影を思い出し、リュカは自然とそう感じる。
「それにね、可愛い孫の君たちには笑顔でいてほしいって、きっと思ってるよ」
「……そうね。大事な人のことを大事に思いながら、私たちは未来を見つめましょう。ね」
敵の居城であるエビルマウンテンの山中にある、広々とした洞窟の中でこうして落ち着いて会話ができる環境自体、異質な空間だった。それほどにこの場所は邪悪の気配は遠く、今も聞こえている水の清かな音に、リュカたちは知らずの内に心身ともに綺麗に洗われているような感じさえ覚える。
「おい、あっちに何かあるぜ」
床には迷路のように滑る床の仕掛けが張り巡らされているが、その仕掛けに影響されることのない場所に、一つの開けた空間が見えていた。水の音が聞こえる方向とは反対側に、洞窟の中にしては目に眩しいほどの明かりが灯されている場所がある。奥に見えるのは、人間が使うような横に長い台であり、その台の両端にも絶えない火の明かりが灯されている。この洞窟内を照らす火にはどこも邪悪を感じない。
リュカはその台を前にして、両手を組み合わせて祈りを捧げるマーサの姿を見たような気がした。横に長い台の向こう側にいるマーサが、今リュカたちが立つ場所に向かって立ち、静かに両手を組み合わせている姿は、生前のマーサの行動を今そこに映しているものなのかも知れない。母がこの場所で一体何をしていたのか、純粋にそれを知りたいと思うリュカの足は自然と火の灯る台へと向かい始めた。ビアンカがリュカの行動を信じ切った様子で、ティミーとポピーの背に手を当てて行動を促し、プックルがその傍らに寄り添い、ピエールは念の為にと辺りを警戒しながら、アンクルは無暗に宙に飛び上がることなく、歩く仲間たちと歩調を合わせて進んでいく。
横長の台座の上には、両端に橙の火が灯された燭台が置かれ、その間に八つの銀色の器がひっくり返された状態で均等に置かれていた。母がこの場所で何かしらの儀式をしていたのだろうかと、リュカが確かめるようにその器を手に取ろうと手を伸ばした途端、銀色の器が動いた。プックルも、それが何者かであるということは気づいておらず、驚いたように赤い尾をぴんと上げた。
ふるふると揺れ、柔らかい金属を思わせる銀色のそれは、器などではなく、魔物だった。リュカたちを見つめるそのつぶらな目に特別に邪悪を感じることもなく、いつものマーサではない訪問者を目にしてただ驚いているようだった。スラりんやスラぼうを銀色に塗ったようなメタルスライムが八匹、キョロキョロと様子を窺うようにリュカたちを見つめている。
「やあ、君たちは言葉は話せるのかな?」
スラりんは言葉を話すことはできないが、スラぼうは言葉を話すことができる。同じ形をしたこのメタルスライムにも言葉を話せるものがいるのかも知れないと期待しつつ、リュカは普段通りに彼らに話しかけた。
「キュルッ、キュルッ」
「うん、そうなんだ。僕が代わりに来たんだよ」
「……こやつらが言葉を話せるかどうかは問題ないようですね……」
「がう」
八匹のメタルスライムの中で人間の言葉を話せるものはいないようだが、リュカにとってはもはやそれは問題ではなかった。相手が人語を話していないにも関わらず、恐らくマーサと共にこの場所にいた彼らと話をするのにリュカは不都合を感じていなかった。
「キュル~?」
「うーん、そうだね、これからミルドラースに会いたいんだけど、どこへ行ったらいいのか教えてくれたら嬉しいな」
「リュカったら、相変わらずね~」
「お前って、そういうヤツだよなぁ」
魔界の頂点に立つ大魔王に会いたいという希望をただ伝えるリュカに、ビアンカもアンクルも各々に溜め息をついていた。リュカと言う男は柔和な雰囲気を纏い、根底に優しさを備えながらも、それに乗っかるような強引さを持っている。しかし彼の持つ強引さはただの我儘ではなく、芯に信じるものがあるがための強引さでもある。そこに邪なものがないために、周りの者たちは彼の強引さに巻き込まれることにも無暗な反発心を抱けないのだ。
リュカの希望にどう答えたら良いのかについて、八匹のメタルスライム同士の会議が始まったように見えた。まるで小鳥や小動物らが騒がしく会話を始めたように、キュルキュルキュルキュルとその鳴き声が横長の台座の上で絶え間なく響く。
「かわいい~……」
「どんなことを話してるんだろう……ボクには全然わかんないよ~」
スラりんやスラぼうに似た小さな魔物たちが絶え間なく何事かを話し合う様子に、ポピーの顔は自然と綻び、ティミーは眉根に皺を寄せながら不思議そうにメタルスライムたちを見つめていた。
しばらくして一斉にその声は止み、八匹のメタルスライムらは正面に立つリュカの方へと向き直った。メタルスライムたちの目に映るリュカの姿は、いつもこの場所で祈りを捧げていたマーサに通じるものだった。まごうこと無きその血の繋がりが、メタルスライムたちの確かな信頼を得たようだ。
一匹が、横長の台座の向こう側へと飛び降りた。その行動に、逃げたのかと感じたプックルが追いかけようと姿勢を低くしたが、その頭をリュカが静かに撫でる。二匹目が、三匹目が、同じく台座の向こう側へと飛び降りた。四匹目、五匹目……最後に八匹目のメタルスライムが一番上に乗るように、メタルスライムたちは互いに安定を保つような形で組み合わさり、銀色の金属の身体を柔らかくふるふると震わせている。金属の摩擦熱だろうか、それとは異なる力だろうか、組み合わさる八匹のメタルスライムの身体から在り得ないほどの熱気が発せられ、流石に危険を感じたリュカたちは彼らの熱を感じないほどの距離を取り、念の為にとその場に身構えた。
ぼかーん!と目の前で予期しない爆発が起こり、リュカたちは一様に身体をびくつかせ、心臓が止まるような思いをさせていた。台座が横倒しになり、両端に置かれていた燭台も床に落ち、橙の火は消えてしまった。しかしそれ以外にこの空間を照らしている明かりが、目の前に現れた巨大な魔物の身体に反射して、きらきらと光り輝いて眩しいほどだった。
「キュルルルルー!」
メタルキングという魔物に変身を遂げたメタルスライムたちは、身体を一つにまとめ、意も一つにまとめたことを誇るような高い声を上げた。
「ねえ、お父さん、何て言ったの?」
何か大事なことをリュカたちに告げたのかと思ったティミーが、隣で口を開けてメタルキングを見上げているリュカに問いかける。
「……すごいでしょー、って」
「えっ……」
「これを見せたかったみたいだよ」
「……そう、なんだ。あはは、なんだか面白い魔物だね!」
初めて見たような気がしないと思うのは、リュカたちの仲間にもキングスライムのキングスやスライムベホマズンのベホズンがいるからだ。リュカと同じ背丈ほどの大きさになり、その頭にはやはり王冠らしきものを乗せている。祈りの場とも思えるようなこの場所で、横幅の長い台座は横倒しになっているものの、メタルキングはその名に恥じぬような威容を見せるようにリュカたちの前にでんと構えている。
「ええっと、その他にも何かお話があるんじゃないかしら、リュカ?」
「話というよりも、何か、言いたいことがありそうには見えます」
「がう~?」
「……お話って言うよりも、ちょっと、危ない感じがするわ……」
リュカたちを見下ろすためにだろうか、少々仰け反ったような体勢でいるメタルキングだが、それは決して己を大きく見せるためのものではなかった。たとえば炎を吐く魔物が大きく息を吸い込む時のような、吹雪を吐く魔物がその力を胸の中に冷気を溜める時のような、何かの力を発揮する直前の動きそのものだった。
「お前ら、伏せろっ!」
同じ呪文を扱う者としての直感のようなものが、偶々アンクルに働いただけだった。手も足もないメタルキングが放ったのは、上級火炎呪文ベギラゴンだ。上から押さえつけるようにリュカたちの身体を伏せさせたが、アンクルだけは間に合わずに頭の毛をしこたま焼いてしまった。「あっちー!」と叫ぶアンクルにも構わず、メタルキングはリュカたちを通り越した遥か向こう側へと、一発のベギラゴンを力強く放ったのだった。
リュカたちを攻撃する意図はなかったようだが、避けなければ直撃していた。メタルキングが放ったベギラゴンの火炎はリュカたちの立つ遥か後方へと消えた。何か背後に敵となる魔物でもいたのだろうかと振り返るリュカたちの目に映るのは、後方へも広がる洞窟内のその中央、きらりと光る何かが宙に浮かび上がっている光景だった。あまりにも遠くにあるそれを、リュカたちは今いる場所から確かめることはできない。最も目の効くプックルでも、まじまじとそれを見つめた後に、小さく首を傾げるだけだ。そしてその光る何かを守るような形で、聖なる力の象徴のごとく二本の柱が立っている。
「キュルル~」
「リュカ、ねえ、この子、何て言ってるの?」
「……もとめよ さらば あたえられん……?」
「がうがう」
「それは意訳にもほどがあるのでは……」
「でも、そんなようなことよね、きっと」
「すごいなぁ、そんな難しそうなこと言ってるんだね。昔の言葉?」
「そんなこと言う顔じゃねぇだろ。ティミー、お前リュカを信じ過ぎだ」
ティミーに火傷の手当てを受けつつも、アンクルは彼に苦言を呈す。正面に立つメタルキングはどこか満足そうにリュカたちを見つめている。己の役目を果たしたという達成感に満ちているようで、リュカはそんなメタルキングを見上げた後に再び後ろの景色に目をやる。どうやらあの光る何物かを求めよと言うことなのだろうと、素直にその言葉を受け取ることにした。
この場所は間違いなく生前のマーサが行き来していた場所だと、灯される明かりの多さや、絶えず聞こえる清かな水の音や、聖なる空気を纏う二本の柱の景色に、そうだと確信させられる。無邪気さを感じさせるこのメタルキングという魔物に、少々不器用にもリュカたちに進む道を指し示す姿を見せられれば、それは素直に信じて良いものだろうと、リュカは柔らかな金属の身体を持つメタルキングに礼を述べると皆と共に歩き出そうとする。
「待って、お父さん」
「どうしたんだい、ポピー」
「このままじゃ、行けないわ」
真っ直ぐに目的の場所へと向かおうとするリュカに、ポピーが冷静に景色を見ながら声をかける。
「あらら、本当だわ」
「あのおかしな床ですね」
ビアンカとピエールもポピーに同調するように、立ち止まり、見える景色に小さく溜め息をつく。滑る床はこの広い洞窟内、あらゆるところに巡らされており、進もうと思う方向へも素直に進むことができない。リュカもまた唸るように首を傾げ、一通り景色を見渡した後に、再びメタルキングに向き直って話しかけた。
「ねえ、あの場所に行くにはどう行ったらいいのかな。教えてくれるとありがたいんだけどなぁ」
「……やると思ったぜ」
「がうっ」
「この銀色のキングス? ベホズン? この子に仲間になってもらえればいいんじゃない? ねえ、お父さん、それがいいよ」
これほど敵意のない魔物ならば問題なく一緒に来てくれるだろうと信じているティミーはそう提案するが、どうやらメタルキングはこの場所から動く気はないらしい。恐らくマーサにこの場所を守ることを頼まれ、メタルキング自身がそのことに誇りすら抱いているのだろう。
その時、リュカたちが目指す方向とは別に、光る何かが素早く移動するのをプックルが目の端に捉えた。それはティミーが追いかけようとしていた床にへばりつくような銀色の魔物、はぐれメタルだ。ちょうど良い距離を取りながら、はぐれメタルはじっとプックルを見つめている。プックルもまた姿勢を低くしながら、獲物に向かうような鋭い目つきではぐれメタルを見つめている。そしてプックルの胸の中で、素早さに関しては負けるわけには行かないと言うような自負心が擽られている。
はぐれメタルがじりっ、と動いたのを切欠に、プックルが猫科の狩猟本能そのままに一気に駆け出した。唐突に走り出したプックルを止められる仲間がいるわけもなく、気づいた時には既にプックルは滑る床の上に走り込んでしまっていた。その前を既に、滑る床に乗り込んでいたはぐれメタルが何事もなかったかのような笑顔を浮かべ、つつつ~っと床の上を滑っていく。
「ふにゃあああ~!」
滑る床の上で転んだまま運ばれて行くプックルを、リュカたちは慌てて追いかけ、同じ場所から滑る床の上に飛び乗った。行きつく先がどこかも全く分からないまま、リュカたちはただ滑る床に働く力に従うように、時折急激な方向転換にも耐えつつ、訳も分からず進んでいく。