並ぶ魔像の目

先に階段を上っていた双子を追い抜き、プックルが階段の上へと飛び出した。階段の上で待ち構えていたのは悪魔神官ではなく、異形の魔物らだった。ゴルバとガルバと呼ばれる、このエビルマウンテンの中では比較的小さな魔物だが、その好戦的な性格は四つ目と三つ目のギョロギョロとする目つきにも、両手に備わる鋭い爪にも現れている。
ただただ戦いに向かってくる敵の行動に、プックルは即座に反応する。好戦的という点においては、プックルも決して負けてはいない。上から飛びかかって来る二体に対して、プックルは下から突き上げるように飛び込む。敵に飛びかかりつつも、後ろにいるティミーとポピーを守る。
寧ろプックルの急襲となった攻撃に、ゴルバとガルバは一時、階段から離れた場所へと弾き出された。その隙にティミー、ポピーが階段の上へと上がった。その脇を、ピエールが駆け抜け、すぐさまプックルの応戦へと向かう。
「ティミー! 後ろだ!」
階段を上り切る前から、リュカはその気配を感じ、ティミーに叫んだ。鞭が唸りを上げて飛んで来るのを目にする前に、ティミーはリュカの声にただ従うように、ポピーを後ろに押しのけながら天空の盾で二人の身を守ろうとした。威力は削いだものの、それが鞭であるが故に、盾に弾き返されるに済まされることなく、鞭の先端はしぶとく双子の身体を傷つけた。腕に裂傷を負ったティミーとポピーの動きが鈍る。鞭を返したエビルマスターはここに機会を得たと言うように、鞭を宙に唸らせて仲間を呼ぼうとする。
鞭の唸りを響かせてなるものかと、リュカがアンクルの手を借りて勢いをつけ、エビルマスターへと突っ込む。鞭の動きを緩め、仲間を呼ぶことは中断させられながらも、エビルマスターは向かってきたリュカへと鞭を振るう。リュカは敵の武器を奪ってやろうと剣を以て鞭を切ってしまおうとするが、しなやかに変幻自在に曲がる鞭はリュカの剣に斬られることなく、絡みつく。
リュカはそれを利用する。絡みついた鞭ごと剣を引き、敵の体勢を崩す。前のめりによろめくエビルマスターに飛びかかるのはティミーだ。腕の裂傷は、アンクルと共に階段を上ってきたビアンカが賢者の石に祈りを捧げることで癒された。
皆の胸には、敵の根拠地の奥地にまで入り込んでいるという、切迫した思いが常に沸々としている。もう後戻りはできない。前に進むしかない状況で、行く手を阻むものがいるのならば、出来得る手段を用いて除いて行かなければならないと、ある種の盲目を以て敵を敵と見据えていた。
ティミーの振るう天空の剣が、リュカが引っ張り抑える敵の鞭を断ち切り、エビルマスターの攻撃を実質無力化した。魔の力も備えた強靭な鞭がまさか断ち切られると思っていなかったのだろう、武器を失ったエビルマスターは途端に狼狽し、掴んでいた鞭の柄さえも放り出し、どこかへ逃げ去ってしまった。プックルとピエールと対峙していたゴルバとガルバもまた、主となるエビルマスターがこの場から去ってしまったという事実に、攻撃対象への攻撃意欲が萎んだかのように、動きが鈍くなった。その隙にプックルは四つ目の脳天に、ピエールもまた三つ目の脳天に一撃を食らわせ、二体の魔物をその場に倒すことに成功した。
「おい、アイツ、いるぞ」
アンクルが視線で示すのは、やはり壁の向こう側に身を潜ませこちらを覗いている悪魔神官の姿だった。身を潜ませているように見えても、その手は壁に沿わされ、リュカたちから完全に身を隠そうとはしていない。敢えて目に留まるようにしていると思われるその行動に、リュカは訝し気な顔つきを返すでもなく、誘いの手に乗るべく敵の目に目を合わす。
「行ってみよう」
「お父さん、一応足元にも気を付けた方がいいと思うの」
「また変な落とし穴があっても困るものね」
ポピーとビアンカの言う通り、今リュカたちがいるのは広間と言うような場所ではなく、両側を壁に阻まれている広い通路のような場所だ。先ほど悪魔神官に導かれ、誘い込まれた通路には落とし穴が仕掛けられていた。同じような仕掛けがあるとすれば、そこには幾何学模様の床があるはずだとリュカたちは一様に辺りを見渡すが、幸いこの場所には同じ仕掛けの落とし穴らしきものは見当たらない。
「そうだね。念のため用心しながら行こうか」
先程、使い物にならなくなった武器の鞭を放り捨てて行ったエビルマスターは、この通路をなりふり構わない状態で駆け去っていった。この場所には一先ず、落とし穴の脅威と言うものは見当たらない。しかしあの壁に身を潜ませる悪魔神官が何を企んでいるのかは分からない。リュカたちは各々に用心をしつつも、見える敵の姿に近づくために前に進み始めた。
ある一定の距離を詰めると、悪魔神官はふっと姿を消す。リュカたちとこの場で戦う気は微塵もないようで、ただただ注意を引くためだけにその姿をリュカたちに見せている。警戒を解かないながらも、リュカはふと思った。ここは大魔王の居城とも言える場所で、リュカたちは侵入者でもあるが、相手の捉え方によってはただの訪問者だ。万が一にでもリュカたちをこの城の訪問者として、悪魔神官がその城の中を案内するように先を行っているのだとすれば、あの悪魔神官は差し詰めメイドや召使のようなものだろうかと、リュカは束の間、奇妙な感覚に捉われた。素直に大魔王のところにまで案内してくれるものとも思えないが、今は一体しかいないと思われる悪魔神官が、たった一体で無謀にもリュカたちに挑んでくるものでもないだろう。元は人間であった魔物が最も大事にするもの、それは自身の命に他ならない。両手に持つ棘の棍棒には悍ましいほどの攻撃意欲が見られるが、それを考えなしに振るうような敵ではない。あの者は、自らの立場が圧倒的有利となった時に、余裕をもってあの悍ましい棍棒を容赦なく振るってくるのだ。自己の身の安全が確保されていない場においては、身の安全の確保ができるまでは敵との距離を詰めることはないに違いない。
広い通路を抜けた。開けた場所に、悪魔神官の姿はなかった。代わりに壁の向こうから伸びてきたのは、ダークシャーマンの蛇の腕だった。入れ替わったかのようにそこにいたダークシャーマンの腕が、目標を定めていたかのようにリュカの首元を狙う。しかし警戒の気を全身に張り巡らせていたリュカたちもまた、その危機を想定の範囲内とするように、伸びてきた大蛇に向かって既にプックルが飛びかかっていた。このダークシャーマンもまた、元は人間だった魔物に違いないが、両腕を大蛇に変化させたことで、その身は悪魔神官よりも余程攻撃的な性格となったのだろう。下手に隠すこともない敵意のために、プックルは壁の向こうにいる敵の様子に嫌でも気づき、ダークシャーマンが大蛇を伸ばしてくるよりも一瞬前に、床を飛んでいた。プックルに噛みつかれたダークシャーマンはその勢いのままプックルと共に床に倒れ、倒れ込んだ拍子に体勢を変えたプックルが今度はダークシャーマンの首元に噛みつく。負けじとプックルの首に後ろから飛びかかる大蛇の腕を、更に後方から飛んできたピエールが切り離す。同時にダークシャーマンの抵抗は止み、プックルもピエールも警戒を解かないながらも倒れた敵から離れる。
壁の向こう側には一定の広間があり、その先には二つの方向へと広い通路が伸びていた。右側に目を向ければ、そこには途中から色の異なる床が先へと続いていた。一度引っかかってしまったリュカたちには、それが何を意味するかすぐに理解できた。近くに行けば、それは幾何学模様を床に描いているのだろう。右側に伸びる通路全面に渡り異なる色を見せる床を、リュカたちは進むことはできない。
行く方向は一つで、リュカたちの正面に伸びている通路だ。決して明るくはないが、ところどころ壁には明かりが灯り、その明かりに照らされいくつかの魔物の影が見られる。
広い通路の中に、リュカたちを招くように姿を見せていた悪魔神官はいないようだった。あの者は恐らくゲマがそうしていたように、ある程度自在に別空間へと移動できるのだろう。前にグランバニアが襲撃を受けた際に姿を現した悪魔神官もまた、唐突に場に現れ、忽然と姿を消してしまった。その移動の術を身に着けるほどの高度な能力も備えているのだろうが、それと合わせてミルドラース自身がその者を都合の良い駒として動かせるように、その術の行使を認めているのだと思われた。それだけミルドラースに忠実な部下と考えれば一応の納得はあるが、リュカは先ほど落とし穴に落ちる前にこちらを見ていた悪魔神官の無表情の表情を思い出すと、その者には悪魔神官となる以前の人間の姿を垣間見たような気がしていた。
「リュカ、急いで!」
ビアンカの切羽詰まった声は、倒れているダークシャーマンから発せられる魔力を感じたがためだった。両腕を切られてもまだ戦えるのだと、ダークシャーマンが放とうとしているベギラゴンの呪文の気配を感じ、ビアンカは子供たちの背中を強く押した。後ろを振り向く余裕などなく、リュカたちは一斉に前に続く通路へと走り出し、それを追いかけるようにベギラゴンの火炎が追いかけてきたが、寸でのところで逃げおおせた。
しかしダークシャーマンが放ったベギラゴンの火炎の強い明かりに、通路の魔物の影が動きを見せる。壁や隙間などという、隠れる場所はどこにもない。体力が続く限り、駆け抜けるしかない場所だと、既に駆けながらその景色を見切る。プックルが先行する。駆けるティミーをむんずとつかまえ、もう片方の腕にポピーを抱え、姿勢を低く構えたアンクルの背に、ビアンカが飛び乗る。
「アンクル、頼む!」
「あんまり速くは飛べねぇけどな」
「お父さん!」
父と共に駆け抜ける気でいたティミーが、アンクルに抱えられたままリュカに先行する形でプックルを追いかける。リュカは最後尾で、ピエールと共に駆ける。
「ピエール、行けると思うかい?」
「プックルで突破、アンクルで上方へと注意を引いたところを、私たちが下を抜けます」
「ははっ、何だか一番楽してるかな、僕たち」
「上手く行けばの話です」
「まあね、そりゃそうだ」
交わす言葉はこれまでと、リュカとピエールは最後尾から仲間たちを追いかける。広い通路は長いように見えていたが、それは未知のものを見る目で見ていたからだった。思いの外早くプックルが通路を通り抜けてしまいそうだと思った矢先、プックルが足止めを食らった。阻む敵はやはりダークシャーマンにエビルマスターと言った者たちだった。
エビルマスターが使役するゴルバとガルバも当然その近くにおり、いかにも戦いを楽しむかのように床を跳ねている。その数が、まだ遠くにいるリュカたちには定かではない。しかし複数いることには違いなく、プックルはその敵を前にして体勢を低くしている。
プックルが無暗に飛びかからないのには理由がある。後ろからすぐに追いかけて来るアンクルの気配を確かに感じ取っていた。己が巻き添えにならないようにと、寧ろプックルは敵との距離を広げるかのようにじりじりと後退する。
宙から攻撃をしかけるアンクルの飛ぶ高さは、それほど高くはない。しかしこのエビルマウンテンに棲みつく魔物の中では小柄とも言えるエビルマスターにガルバ、ゴルバには届く範囲ではない。そこからアンクルは両脇に抱える子供たちと、背中に乗せる彼らの母を、それこそ各々の自由意思で発動する武器の如く、構えていた。
ポピーが敵らの頭上から、躊躇なくマヒャドを放った。まだその範疇に収まりそうになっていたプックルが、慌てて後方へと飛び退いた。猛吹雪の中に飲まれた敵の一群だが、マヒャドの冷気をものともしない魔物が中にいる。四つ目の異形の魔物ガルバが四体、全く損傷ないままに、標的と見定めたプックルに向かって一斉に飛びかかってきた。
プックルは大きく息を吸い込み、広い通路中に轟くような雄叫びを上げた。見たところ、ガルバに耳らしき器官は見当たらない。しかしプックルの雄叫びはただ凄まじい音を轟かせるだけには留まらない。向かうガルバらの動きそのものを封じるほどの圧を生み、三体の敵の動きがその場に鈍く留まった。
向かってくる一体と、プックルが対峙する。動きの鈍った三体を捉えたビアンカが、ベギラゴンの呪文を放つ。火炎に包まれたガルバらが耳障りな叫び声を上げ、火炎の中に沈もうとする。
マヒャドの攻撃を受け、酷く身体を損傷したはずのゴルバ四体にエビルマスター二体が、揃って体勢を立て直した。エビルマスターが二体とも、自身と使役する異形の魔物らにベホマラーの呪文を唱えていた。復活した四体のゴルバは通路を塞ぐような火炎をものともせず飛び込み、一斉にプックルへと飛びかかる。多勢に無勢の状況が見えたが、後から駆けてきたリュカがプックルを庇うように、向かってくるゴルバ四体へとバギクロスの呪文を放った。加減無しのバギクロスの呪文が生み出す真空の刃を無数に内包した竜巻の威力に、四体のゴルバが飲み込まれ、一方でガルバを襲っていた火炎を吹き消すように収めてしまった。
火炎から解放された三体のガルバが、身体の損傷に動きを鈍くしつつも、プックルへと襲い掛かる。使役されている異形の魔物らが捉える標的は今、プックルだけに絞られていた。それだけにピエールは動きやすかった。片手でイオの呪文を放ち、敵の動きを止めると同時に、自ら距離を詰め一体に斬りかかる。同時にリュカもまた、別の一体へと斬りかかった。プックルに向かってくるガルバは二体。
リュカたちの目的は敵を殲滅することではない。ただこの広い通路を抜け、先へと進みたいだけだ。プックルはその目的を遂行するためにと、二体の敵を引きつけながら先へと疾駆する姿勢を見せる。それは敵の只中に飛び込むような形で、リュカのバギクロスの呪文で通路の向こう側へと追いやられた魔物の群れ全てと対峙することになる。
その時、宙に留まるアンクルに向かって、エビルマスターの鞭が唸りを上げて飛んできた。咄嗟に構えようとしたアンクルが突き出したデーモンスピアに、敵の鞭が勢いよく巻き付く。同時に、アンクルが小脇にかかえていたティミーが自ら抜け出す意思を持って、飛び降りた。手には当然のように天空の剣があり、アンクルが強く引くエビルマスターの鞭に向かって聖なる剣を振り下ろした。ぶつりと切れた鞭を驚きの表情で見上げるエビルマスターの顔を、ティミーはそのまま踏んづける。
一体のエビルマスターの武器は無力化したものの、もう一体がすかさずティミーに向かってくる。鞭と言う武器は厄介で、天空の盾で弾き返そうとしても、自在に曲がる鞭は盾の向こう側へと回り込む。ティミーの腕が鞭に絡めとられ、そのまま引きずり倒されてしまう。腕が引きちぎられそうな痛みにも耐え、ティミーはこの機を逃すまいと鞭を己の腕で引き留め、天空の剣という勇者の武器と言う有り様を信じ、剣を飛び道具のように投げつけ、もう一体のエビルマスターの鞭もまた断絶することに成功した。
この場にあるエビルマスター二体は、各々手にするまともな武器を失った。しかしその短くなった鞭を今度は二体揃って、頭上で円を描くようにひゅんひゅんと素早く振り回し始める。音が鳴り、その音が不快なものとして響き、広い通路全体に行き渡る。武器としては用なしとなった鞭だったが、仲間を呼ぶためにはまだその役割を果たしてしまった。
広い通路のあちこちから、また、リュカたちが向かおうとしている通路の奥からも、湧き出るように異形の魔物らが姿を現し始める。その数、数えきれないほどだ。エビルマスターの行動に、リュカたち侵入者をこの場で止めなくてはならないというような覚悟のようなものは見られない。ただただ追い詰められたこの状況がたまらなく悔しく、目に物を見せてやるというただの利己心がそこに透けて見えるようだった。
それを裏付けるように、二体のエビルマスターはこの場を無数のガルバ、ゴルバと言った使役する異形の魔物らに任せ、さっさと逃げて行ってしまったのだ。後は任せたと言わんばかりの無責任なその行動に、リュカと、ティミーもまた憤りの表情を顕わにした。
「卑怯者!」
ティミーの詰りの叫びに一瞬だけ足を止めたエビルマスターだが、やはり逃げる覚悟だけは本物で、押し寄せて来る異形の魔物らをかき分けるようにして通路の奥へと逃げて行ってしまった。リュカたちは逃げるエビルマスターを追うことが許されない状況で、ただ通路中に溢れるような数のガルバ、ゴルバらと向き合わねばならない。
辺り一帯には、余韻が残っている。異形の者たちを一掃しようと、アンクルの傍にあるビアンカもポピーも呪文の構えを取るが、敵味方が入り乱れるような形を下に見て、呪文を放つことに躊躇してしまう。通路広く、先ほどのマヒャドとベギラゴンとバギクロスの呪文による名残がある。激しい熱に溶けた氷が、竜巻のような嵐によって辺り一帯に散らされている。
ティミーはその名残を辺りに感じ、目を閉じて感覚を研ぎ澄ませ、己の身に感じるその空気を、空の雲と同じだと捉えた。想像は力だ。呪文を唱えるということは、想像の広がりを以てして初めて為すことができる。
「みんな、伏せて!」
ティミーの声が響き渡ると同時に、リュカたちは辺りにひりつく電気の力を感じた。そのエネルギーは、この広い通路に収まるものとは思えぬほどの凄まじさで、まるでそれごと爆発してしまいそうな雰囲気を漂わせている。リュカもプックルもピエールも防御態勢を取りつつ、敵の攻撃を受ける覚悟で、その場に低く伏せた。アンクルは背中に留まっていたビアンカを慌てて脇に抱えると、ポピーと一緒に己の身体で守ろうと身を縮こまらせた。
激しい閃光と激しい轟音が同時に広い通路中に渡った。ティミー自身もまた、ゴルバの攻撃をその身に受けていた。しかし彼は自身で、天空の防具の強固さを信じており、彼の意思を受けて尚、天空の防具はその強さを増す。ゴルバの爪は鋭く、青のマントを軽々と切り裂くが、ティミーが身に着ける天空の鎧を傷つけることはない。広げる両腕に敵が噛みついて来ようと飛びかかってきたが、ティミーが放ったギガデインの凄まじい雷撃に吹っ飛ばされてしまった。
床に伏せるリュカたちのすぐ上を、一瞬にして多くの敵が吹き飛んで行く。ギガデインの雷撃はティミーを中心に発せられ、勇者の意思を汲んだ雷撃はガルバ、ゴルバという異形の魔物らを一匹残らず捉えた。四方八方へと吹き飛んだ敵の状況を、リュカたちは一転して静まった中で頭を上げ、その目に見た光景にそうと悟った。宙に浮いてビアンカとポピーを守っていたアンクルも、リュカもプックルもピエールも、雷撃は標的としなかった。勇者としての、仲間としてのティミーの意思が放つ雷撃の全てに及んでいた。
「ティミー! 先へ行け!」
そう言うリュカも既に走り出していた。ピエールも行動は速く、すぐに広い通路の奥へ向かっている。束の間唖然としていたティミーもリュカの声を切欠に、辺りに倒れる異形の魔物らを避けつつ駆け出した。先頭を行くプックルは倒れる魔物を避ける必要もないと言うように、獣の身軽さで時折踏んづけながらも広い通路の向こう側へと飛び出した。
「おい! プックル、止まれ!」
宙から追いかけていたアンクルが、見える床の模様に慌ててプックルに呼びかけた。プックルが飛び込もうとしていたのはつい先ほども見た幾何学模様の床だ。しかし急には止まれないプックルは、アンクルの声に反応しながらも、勢いのまま幾何学模様の床の上に乗り込んでしまった。
ぼろぼろとパズルが崩れるように、プックルの乗る床が崩れ始める。アンクルは両脇に抱えていたビアンカとポピーを思わず近くの床に放り出した。放り出された二人だが、アンクルのその動きを微かに予期していたように、着地に足を痛めつつもどうにか受け身を取り、大事には至らない。プックルが崩れる床の中に飲まれまいと必死に欠片の床の上を駆ける。引きずり込まれる状態のプックルの両前足をアンクルがむんずと掴むと、そのままプックルの身体を力任せに振り上げるようにして、落とし穴の床の外側へと放り投げた。猫のように宙でくるりと体勢を整えたプックルは、事なきを得たかのように床に着地し、プックルを引きずり込み損ねた幾何学模様の床は口惜しそうに元通りに床を修復していく。
「良かったぁ……」
「プックル、アンクルにお礼を言わないと」
「……にゃあ」
「おうよ。とりあえず落ちなくて良かったぜ」
すぐ目の前にその状況を見ていたティミー、そしてリュカとピエールも合流し、それと合わせてティミーのギガデインを食らって倒れていた異形の魔物らもまた動き出そうとする気配を見せた。
「リュカ殿、とにかく先へ」
「先に道が続いているといいんだけどね」
「続いてるよ、きっと!」
たとえここが行き止まりであろうが、後ろから追ってこようとしている敵から逃げるには先に進むしかないと、リュカたちは足並み揃えて壁の向こう側へと向かう。
幾何学模様の床は一部に留まり、進もうとしている先に落とし穴のような仕掛けは見られない。代わりにリュカが目にしたのは、法衣の裾を翻して姿を消した悪魔神官の後ろ姿らしきものだった。その姿はもはやリュカにとっては道しるべに近い存在となっている。ゲマがいなくなった今において、大魔王ミルドラースに最も近い存在と言えるのではないかと、リュカは迷わず悪魔神官の後を追いかけるべく進んでいく。
法衣を翻して壁の向こう側に姿を消したと思われた悪魔神官の姿は、既にこの場から消えていた。壁を回り込んだリュカたちの前には落とし穴、ではなく下り階段の入口が黒く不気味に開いていた。その下り階段を二方向から、巨大な魔像が見下ろしている。照らす明かりは弱く、多少視界が悪い状況だが、前にいたはずの悪魔神官の姿はどこにもない。この階段を下ったか、下るまでもなく妙な術を使いこの場から消え去ったか。考えても分からないことに思考を費やすべきでもないと、リュカは後ろから敵が追ってこない内に、皆と共に黒い入口に見える下り階段を下りて行く。
階下にも間違いなく魔物の気配をありありと感じていたが、リュカたちの予想に反し、目に見える魔物の姿はなかった。代わりに目立って見えるのが、二本の、高い天井にも届くような石柱だ。辺りに禍々しい魔像があるわけでもなく、反して、一見すると聖なる気配すら感じられる石柱が階段の下に聳え立っていた。
「少しだけ休もう」
リュカがそう言ったのは、必要以上に強張ったような皆の表情を目にしたからだった。ひたすらここまで駆けてきて、実際に体力の消耗も激しかった。敵地の真っ只中にいるために、適度な緊張感は保たなければならないのは分かっている。しかし張り詰め過ぎた糸はふとした拍子にぷつりと切れてしまうように、ほんの僅かの緩みが必要なのだとリュカは自身の経験の中にそう理解している。その“適当さ”を最も調整できるのはこの中では自身だと言うことも、今はまだ冷静にそう考えることができた。
この先どれほどの道が続いているのかなど誰にも分からない。しかし明らかに前進し、目的の場所へと近づいている感覚は誰にもあった。その感覚の証拠に、リュカたちが目の前にしている巨大な二本の柱の向こう側、どこまで続くか分からないような暗がりの奥から、常に冷気を伴う澱んだ気配が流れ込んでくるのを誰もが感じていた。
「いやな空気がどんどん濃くなってる……。お父さん……」
そう口にするポピーの頭を、リュカは優しく宥めるように撫でた。彼女が頭に被る風の帽子の羽飾りも、心なしか震えているようにも見えた。怖がりなポピーがよくぞこんなところにまで一緒に歩いて来れたものだと、彼女の内に秘めた勇者の妹としての精神の強さにリュカは本心から感嘆している。実際にポピーが内に秘めている精神は実のところ、勇者である兄ティミーに並ぶものがあるのだろうと、リュカは我が娘をそう信じて見ている。むしろある部分においては、ティミーをも超える勇者としての矜持が彼女にはあるのかも知れない。勇者と双子に生まれるという稀有な存在であるポピーにしか分からない心情を、リュカは父親として想像することしかできない。
一度緊張が解れれば、喉の渇きにも気づき、リュカたちは各々が僅かに携帯する水を口にする。食べ物も少し胃に収めておくべきかとも思ったが、誰も手を着けなかった。道具袋にいくらかの食用の豆が入っていたが、喉の渇きは感じても空腹を感じることはなく、リュカたちはただ水を一口二口飲むだけで済ませた。
石柱に背をもたせ掛けて床に座るリュカの傍で、ポピーが父に寄り添うように座り、ティミーは父を真似るように胡坐をかいて座っている。リュカが静かにティミーの横顔を見遣ると、ティミーは目を閉じていた。その姿はまるで瞑想しているゴレムスのように、静かそのものだった。リュカにとってはいつまでも子供であり、実際にまだ少年の域を出ないティミーだが、静かに目を閉じているティミーの横顔には既に青年らしい精悍さが漂い始めている。それは勇者として生まれ、勇者として育ち、今は勇者として大魔王ミルドラースに向き合う彼の人生の表れのようにも思えた。普段から無邪気さを素直に見せるティミーだが、彼の人生には端から純粋な無邪気などなかったのかも知れない。目を瞑るティミーの横顔にふとそう思うと、リュカは複雑な顔つきで視線を床に落とした。
リュカのそのような気配を感じ取ったわけでもなく、ティミーはただこの場所で一人、集中していた。エビルマウンテンという大魔王の居城に、勇者として足を踏み入れている現実に、改めて冷静に向き合う。天空の武器、防具を世界で唯一身に着けることのできる自身の特別を、ティミーは純粋な気持ちで誇らしく思い、自慢するような気持ちさえ抱いている。様々なことに向き合わなければならないこの立場を疎ましく感じることがないのは、ティミー自身が彼自身のために生きているのではないからだ。
ティミーはゆっくりと目を開けると、ふと視線を感じた方へと顔を向ける。父リュカと目が合い、しばし父と息子は無言で視線を合わせた。
「ボク、勇者でよかったよ」
それはティミーの本心だが、今この言葉が自身の口から出たことに彼自身の思考が追いついていない。ただ、何物をも受け止めてくれるような父リュカの漆黒の瞳を見つめていると、思考よりも先に心を乗せた言葉が口の先へと出てくるのだから不思議だった。
「だってボクが強くなれたのってきっと勇者だったからだし……」
ティミーの言葉を聞くリュカは、息子の言葉を否定も肯定もしない。その実、リュカは内心でティミーの言葉を否定も肯定もしている。ティミーが強くなれたのは勇者として生まれたからでもあるが、決して勇者として生まれたからというだけではない。それ以前に、リュカにとってはティミーが勇者であろうとなかろうと、強かろうが弱かろうが、かけがえのない息子であることに変わりはない。親として大事なことはそれだけなのだと、リュカは静かにティミーの言葉を受け止めている。
「ボク、とにかく強くなってお父さんの手伝いがしたかったんだ。お父さんに会った時から……」
嘘偽りなくそう言葉を紡ぐティミーの顔を見つめながら、リュカはティミーの姿に幼き日の己の姿がぴたりと重なるのを見た。子供でも大人でも、人間が生きる動機となるものはきっとこれくらい単純明快なものなのだろうと、リュカは今でも亡き父パパスの遺志を継いでいる感覚をその身に感じる。世界には人間も魔物もいて、一つ一つが絡み合い複雑な世界を作り上げているように見えるものだが、それらを丁寧に解きほぐしていけばその一つ一つは恐らく単純なものに違いない。大事なのは、その単純なことにどれだけ心を砕けるか。たとえばその単純な一つを蔑ろにすることで、足蹴にすることで、それはへそを曲げて複雑化してしまう面があるのではないだろうか。
「ティミーが強いのは、君が強くあろうとするからだよ。自分以外の人のためにね」
リュカがいつものように穏やかにそう言うのを聞いて、ティミーは口を開きかけた。しかしふと頭を撫でられ、口に出ようとしていた言葉は大人しく引っ込んだ。言おうとしていた言葉は、ティミー自身を否定するようなものだった。違う、ボクは勇者だから強いのだと、ティミーは恐らくそう言おうとした。
ティミーの頭を撫でたのは、ビアンカだった。つい子供の頭を撫でてしまうのは、これまでにその機会のほとんどを失ってしまったからだろうかと、そう考える時がビアンカにはある。そして今、無意識にもティミーの頭を撫でてしまったのは、抗いようもなく迫る危機に備えての焦りの気持ちがあったのかも知れない。
「ティミーもポピーも、ここで少しでもしっかり休んでおきなさい。ね」
母ビアンカにそう言われれば、逆らう理由などないというように、ティミーもポピーももうここでしかできないであろう休息を得るために、まだ余計に力の入っていた身体の緊張を緩めた。リュカは自分に寄りかかるポピーの身体を支え、ビアンカはティミーの横に座り、その肩を引き寄せる。ポピーはリュカに寄りかかり、その温かさに自然と目を瞑り、ティミーは被っている天空の兜を外すと、それを手にしたままビアンカの手の支えに沿うように母の膝の上に頭を乗せた。リュカもビアンカも、取り戻せない子供との時間を取り戻すように、ただただ双子に安らぎを与える。束の間だが、恐怖から逃れ、この後すぐにその恐怖と対峙しなければならない時に備え、ティミーもポピーも今はただ親の庇護の下に浅い眠りに就いた。
静かな時がしばし流れる。プックルも大きな猫のように身体を丸くして、静かな寝息を立てて眠っている。ピエールは柱の脇に立ち、鞘もない武器ドラゴンキラーを身につけながら、奥に続く先の見えない通路の奥を覗いている。その隣に立つアンクルもまた、同じように通路の奥を集中して見つめていたが、少しして休む気になったのか、柱を背にして寄りかかって座ると腕組みをして目を瞑った。
膝の上に頭を乗せて眠るティミーの頭に手を当てながら、ビアンカはすぐ近くに座る夫リュカを見る。妻の視線を感じてリュカもまたビアンカを見返す。暗く見えない通路の遥か奥から、潜む魔物の声が聞こえたような気がしたが、見張るピエールに特別な動きはない。
「ねえ、リュカ……」
「うん?」
ごく小声でリュカに話しかけるビアンカに、リュカも聞こえるか聞こえないかくらいの返事をする。手を伸ばしても触れることはできないほどの距離を空け、リュカは娘の身体を支え、ビアンカは息子の頭を膝に乗せ、今はただ子供たちを休ませてやらなければと思う。浅い眠りに就いているティミーが膝の上でぴくりと動き、微かに眉間に皺を寄せるのを見ると、ビアンカは息子のその顔つきにふっと笑みを零し、再びリュカの顔を見る。
「……ううん。なんでもないわ。話はまた今度ゆっくりね」
「……うん」
今度がいつになるのかなど、リュカにもビアンカにも、誰にも分からない。ゆっくり話をする時がこれから訪れるのだろうかという不安は、リュカにもビアンカにもある。しかしビアンカは自らそう口にすることで、リュカは彼女がそう口にするのを聞いたことで、そしてまたビアンカはリュカがただ肯定してくれるだけで、その時は必ず訪れるのだと信じることができた。互いの信頼は、互いの言葉や態度で結びつき、強固なものとなる。
リュカたちはしばしの間、まるで静かな空間の中で休息を得ることができた。彼らが休息の時間を終えたのは、ピエールが装備する風神の盾が音を立てて床に落ちた時だった。見張りを続けていたつもりのピエールだったが、彼もまた疲労の中にあった。知らずウトウトしていた彼は、立ちながら眠ってしまっており、腕から徐々に外れて行く風神の盾の状態には気づかなかった。重々しい音を立てて床の上に落ちた盾の音にピエール自身が思わず身体を硬直させ、プックルはその場に飛び起きた。
「もっ、申し訳ございません……!」
「いや、ピエールに見張りを任せちゃったのが悪いんだよ。ごめんね」
「お陰で少し休めたもの。ありがとう、ピエール」
プックルほどではないが、ティミーとポピーも驚きの表情で目覚め、辺りをキョロキョロと見渡している。僅かな時間だが子供たちの疲れはいくらか癒えたのではないだろうかと、リュカは風の帽子を被るポピーの頭を軽くポンと叩き、ビアンカは起き上がったティミーの頭に天空の兜を乗せた。勇者としての使命をその身に帯び、その使命を誰よりも深く理解しているティミーと、その隣で誰よりも勇者を理解していると内心で自負しているポピーが、この場で過保護にも感じられる優しさを必要としていないことを、リュカたちは知っている。ティミーはつい先ほども言っていた。とにかく強くなって父の手伝いがしたかったのだと。怖がりのポピーも、自身が勇者として生まれなかったことで、返って“勇者”を兄のティミーよりも強く意識している節がある。
「ぼちぼち行った方がいいかも知んねぇぜ」
「がうがう」
「ああ、行こう」
暗い通路の奥深くから、明らかに魔物がこちらへ向かってきているのを感じる。見える道は一本限りで、リュカたちは向かってくる魔物らと確実に対峙することになる。しかしそれは敵もまたそうと分かっているに違いない。隠れる場所もない、ただ真っ直ぐに伸びる通路を、リュカたちは冷静に慎重に、進み始めた。
感じていたはずの敵の気配が、進むごとに遠のいていく感覚は不思議そのものだった。そこにいるはずの敵がいない。何を以てして敵の気配と感じていたのかが分かったのは、リュカたちがその場所に行きついた時だった。
真っ直ぐに伸びていた通路の終わりが見えていた。その先、明かりは右側へと続いており、通路は右に折れて続いているのだと分かる。通路の突き当りに、リュカたちは生きる魔物そのものの気配を、ずらりと並び立つ魔像に感じていた。
右に折れた通路もまた、ひたすら真っ直ぐに伸びており、その左側を無数の魔像が、こちらを見て並び立っていた。ポピーが歩調を弱めたのを見て、ビアンカがその手を取ってやる。魔像から感じる魔物の気配は確かなもので、今にもその後ろから魔物が飛び出してきてもおかしくない状況に思えた。しかし自ら魔像に近づくのも藪蛇だと、リュカは並び立つ魔像を左手に見ながら、通路の行きつくところまで歩を進めていく。
ポピーと手を繋ぐビアンカの手もまた、微かに震えていた。魔像の目は鈍く光り、それ自体が意思を持つように、歩くリュカたちの姿を追いかけているのだ。ただの像ではないことは明らかで、並び立つ魔像の目がことごとくリュカたちの姿を追いかける。プックルが低い唸り声を上げながら眼光鋭く睨んでも、魔像はただ音もなくプックルを見下ろすだけだ。
歩くリュカたちの足音だけが響くような静けさで、耳をすませば暗がりの中に灯る壁の燭台の火の音さえも聞こえそうだった。あまりもの静寂に、辺りに冷気を感じるような気がしたが、それは気のせいではなかった。壁に灯る火の橙がふと、色を変える。直前まで、そこに魔物の気配は感じられなかった。しかし燭台の火に唐突に魔の命が植えつけられ、それは多数のフレアドラゴンとなってリュカたちに襲い掛かってきた。残された壁の燭台には、命の抜け殻のような青の火が灯っている。
併せて、魔像の空いた口から魔物が生み出されて行く。リュカたちが感じていた魔物の気配は確かにそこにあった。通路の左にずらりと並ぶ魔像から次々と生み出されて行くエビルスピリッツもまた、既に標的を定めていたかのようにリュカたちへと向かって飛んで来る。
一斉に呪文を唱え、敵の群れを撃退することは可能だと、リュカたちは揃って呪文の構えを取る。これほど多数の敵の群れは一斉に撃退しなければならないと、リュカたちは敵らが間近にまで近づき、まとまるまで引き付けようとした。しかしそれを待たず、リュカたちの周りに黒い霧のようなものが立ち込めた。エビルスピリッツがまるで作戦を持っていたかのように、揃って一斉に黒い霧を吐き出し、その中にリュカたちを閉じ込めてしまったのだ。
「お父さん! 呪文が……!」
「……逃げよう。みんな、向うへ走れ!」
リュカたちに襲い掛かってこようとしている魔物らは全て、通り過ぎてきた通路の脇に並ぶ魔像や燭台から生み出された魔物らだった。まだ逃げ道は前に残されていると、リュカたちは行き止まりにも見える通路の端を目指して駆け始めた。すぐさまアンクルがビアンカとポピーを両脇に抱え、宙を行く。その下をプックルが駆け、ティミー、ピエール、リュカと続く。残された通路はそれほど長くはない。すぐに端に行き当たり、そこで道が途絶えれば、敵に追い詰められたようなこの状況で多数の敵の群れと対峙しなければならない。
魔像は残らず、口からエビルスピリッツという魔物を生み出していた。しかし通路の端に立つ魔像だけが魔物を生み出さなかったことを、アンクルに抱えられたポピーが冷静に見ていた。今は恐怖を身に感じている場合ではないと、ポピーはその魔像の目を見つめる。やはり魔像はその目をポピーに合わせていたが、その直後、魔像の二つの目はポピーから外れ、何もないはずの像の左下へと動いた。そこには暗い壁があるだけのように見えた。ポピーは敢えて視覚に頼らず、目を瞑り、遠隔呪文を使う時の要領で暗い壁に意識を集中させた。
ポピーの脳裏には、暗い壁の向こう側に広がる広間の景色がありありと浮かんだ。
「アンクル! この先に行けるわ!」
「ああ!? ……よっしゃ、分かった! オレがぶち壊してやる!」
既に敵との交戦が始まっているような状況で、議論を始めている場合ではないと、アンクルはポピーの言葉を信じて暗い壁に向かう。ビアンカとポピーを床に下ろすや否や、アンクルは全身に力を込め、壁に向かう。その下で同じように、プックルもまた力を溜め込み、姿勢を低く構えた。
アンクルとプックルが同時に飛び込んだのは、暗い壁に見えていた、ただの空間だった。あっさりと壁の向こう側へ姿を消してしまったアンクルとプックルの姿を目にして、驚きの表情もそのままに、ポピーとビアンカもまた壁へと飛び込んだ。
それは壁に見えていただけの、まやかしの空間に過ぎなかった。それを壁だと見ている者にとっては確かに壁としてそこに存在していた。しかし壁の向こう側に道が続いているのだと信じる者や、端からその現実を知っている者にとっては、それはまやかしの壁だった。
「リュカ殿! 我々も続きましょう!」
「先に行け! ティミーも!」
「そんなこと言ってる場合じゃないよ、お父さん!」
三者とも既に酷い火傷を負い、その上回復呪文を封じられている状態で、別行動など考えられないのだと、ピエールとティミーは同時にリュカの両腕を左右から掴む。そしてリュカの意思など今は構ってはいられないのだと言うように、主であるリュカを、父であるリュカを半ば引きずるようにして、力づくでまやかしの壁へ突進した。先に仲間が突き抜けた壁を越えられないわけがないと、ただの信念だけで、三人は難なくまやかしの壁の向こう側へと吸い込まれるように姿を消した。