魔界の奥底に潜む王

エビルマウンテンの最奥地。広い祭壇があるわけでもない。壁と天井に囲まれた巨大な部屋があるわけでもなかった。リュカたちのいる場所から先、立っていられるような地は途切れ、その先にはただの暗闇が広がっている。その暗闇の中にいくつもの岩石が浮遊している景色は到底この世のものとは思えない。その岩石が仄かな明かりを放ちながらあちこちを浮遊し、本来暗闇に目の利かないリュカたちの視界をいくらか開けさせている。魔界と言う異質な場所とは言え、あまりにも想像を超えたその暗闇の中の景色に、リュカたちはしばし警戒心を薄れさせ見入ってしまった。
不安定に浮遊する岩石の内いくつかは、ただの岩石には見えなかった。岩石の表面に、リュカたちには分からない記号のような絵が描かれている。それが何を意味するのかなど誰も分からず、ただ記号のような絵を持つ岩石も他の岩石同様に、暗闇の空間の中を不安定に揺れ動きながら宙に回っている。
それらが回る中心に一つだけ、同じように宙に浮かびながらも全く動かない一つの巨大岩石がある。エビルマウンテンの山の一部を切り取ったかのように巨大で、その上から明確に、リュカたちが求めていた者の気配が濃厚に降ってくるのを感じた。非常に冷たい。冷たい空気が流れて来るというものではなく、皆の身体の周りに直接漂い、そのまま生きている証でもある体温を奪いそうな危険な雰囲気を醸している。
アンクルが手にする槍を持ち直し、それだけで待ち構えている敵に向かう心を整えた。言葉は交わさず、彼はただリュカの言葉を待つ。ピエールもまた腕に装着するドラゴンキラーを兜の前に上げると、その贈り主に思いを馳せると共に、横に払い構え、リュカの声を待つ。プックルも赤い尾を雄々しく立て、決して目の前に待つ強大な敵に怯むことはないと見せている。ここまで来て一体何を恐れるというのかと言わんばかりに、その立ち姿は威風堂々とした獣のそれだった。
そのつもりもないのに震えそうになる身体を抑えるように、ポピーはストロスの杖を持つ手をもう片方の手で押さえ込もうとした。しかしその隣で、妹の心に寄り添うように、ティミーが天空の盾を持つ左手を伸ばし、ポピーを守るように前に掲げた。数々の戦闘を潜り抜けてきたと言うのに、天空の盾には傷一つついていない。強大な呪文をも跳ね返してしまう力を持つ天空の盾が守るのは一人の勇者ではない。今の世にはきっと、二人の勇者が必要だったのだと言うように、ティミーの掲げる天空の盾はまだ少年少女の域を出ない、半人前の勇者二人を守るためにとキラリと輝く。ティミーとて、怖くないわけではない。しかし生まれてからずっと隣にいた、本心では恐らく最も信頼している妹ポピーがいれば、自身は彼女を守るためにも立っていなければならないと思える。そして妹ポピーもまた同様、最も信頼する兄ティミーを守るために震えそうになる身体を鎮めることができた。
リュカはただ、上を見上げていた。そこにミルドラースがいるのは分かっていた。姿はまだ見えなくとも、大魔王たる強大な気配はまるで隠されることなく、頭上からの見えない邪気を嫌でも感じていた。
ふと目の前に、またしてもあの白い小さな光が現れた。リュカの視点を追うものはいない。その光はリュカにしか見えていないのだ。長年、憎しみ続けていた仇敵は、自身の内側に知らず秘めていた輝く無垢の光の中へと葬られた。その光の名残がまだ、リュカの目の前に浮かび、何かを話しかけようとしているようにも見えた。しかしそれはもはや声など持たない。ただ微かに白く光り、リュカの目前に浮かぶだけだ。
それは何かを言ったのだろうか。リュカにはまるで言葉は届かない。しかし白い光はそのままリュカの目の前から離れ、徐々に上方へと浮かび上がろうとする。その先に、リュカたちの目指す者がいる。リュカもまた、一足先に上方へと向かった白い光を追うように、ただ前に続いている道を歩き出そうとする。
その時、隣に立つビアンカがリュカの腕に静かに手を当てた。決して強く引き留めるような力は加えられておらず、ただ夫の注意をほんの少しだけ引こうとしただけの、彼女の小さな我儘だった。
「ねえ、リュカ……」
他に音が聞こえるとしたら、この暗闇深い空間の中にどことなく響く、耳鳴りのような音だけだった。先ほど、あれほど激しい戦闘の末に、祭壇の間が完全に崩壊してしまうほどの破壊があったというのに、今のこの場所における音と言えばただ耳の奥に響くような静けさの音だけだった。その静けさの中に、ビアンカの声もあっという間に吸い込まれて行く。
「もしかしたら最後かも知れないでしょ?」
彼女の声には、言葉自体の悲観がこもっていなかった。それ故に、リュカは実質には悲観的なその言葉にも冷静に耳を傾けることができた。
「だから今のうちに聞いておくわね」
「……答えられればいいんだけどね」
この場にそぐわないような妻の明るい声に合わせるように、リュカもまた軽口を聞くような声で返した。
「サラボナで誓ったこと、今でもまだ覚えてる?」
ビアンカのその一言で、リュカは結婚式を挙げたサラボナの大聖堂のごとき美しい教会の景色を思い出す。色鮮やかなステンドグラスを通して入り込む陽光に、教会の内部に祝福の空気が満ちていた。自身がどうやってビアンカとあの教会のバージンロードを歩いたのか、はっきりとは覚えていない。歩いている感覚は緊張の中でまるでなかった。ただ向かうのは神父の待つ教会の祭壇だと、それだけを考えながら転ばないように歩いていただけだ。ただその途中、唯一目が合った親友からは言葉にはせずとも祝福の言葉がかけられているような視線を受けたのは覚えている。
結婚式で誓ったこと。誓いの言葉は神父が授けてくれた。健やかなる時も病める時もその身を共にすることを誓うかと。その誓い通りに人生は進まなかった。十年もの間、彼女を一人にさせてしまった。その時間は悔やんでも悔やみきれない。しかし後悔ばかりに向き合うことなく生きていられるのは、妻ビアンカがどこまでも明るく支えてくれるからだった。健やかなる時も病める時もと誓った言葉に、彼女は苦心して取り組んできた様子など微塵もない。天空の血を引いていることが関係しているのかどうかなど、リュカには分からない。しかしまるで彼女は空から照らす陽光のごとく、常にリュカと言う夫を照らし続けてきてくれたと、リュカは嘘偽りなくそう感じている。
「私たちあの教会で永遠の愛を誓ったわよね」
「うん……そうだね」
ビアンカもまた、あの時の美しい景色を思い出しているのだろうか。彼女の顔を見つめていると、その水色の瞳にはきらきらとした輝きが見えるような気がした。深い深い魔界の奥底にいるというのに、彼女の瞳は決して輝きを失わない。その不思議な現象さえも、ビアンカならば不思議なものにはならないと思える。彼女にはそれだけの力があるのだと、リュカは小さい頃から無意識の中にそう信じている。
そしてそれはビアンカにとっても同じことだった。どこまでも吸い込んでしまいそうなほどに深遠なリュカの漆黒の瞳の中にも、強く輝く光は絶えない。彼はどれほどの苦難に見舞われようとも、決して諦めないという不屈の精神を内に秘めている。それは彼自身のためにではなく、彼の周りにいる者たちのためにという想いに尽きる。彼自身は、自身がそうしたかったからなどと、彼一人の我儘というような言葉にすることもあるが、その根底にあるのは彼が大事に思う者たちへの深く熱い思いだ。その思いが、彼の漆黒に塗られたような瞳にも常に光を灯し続けている。
「リュカ」
それ故にビアンカは常に不安だった。リュカと言う人物はいつでも他者のために生きるような、反対側から言えばそれは他者のためにいつでも死ぬことができるというような、どこか自棄にも見える夫の姿がビアンカには怖かった。誰かのために死力を尽くすことに、悪があるなどビアンカには言えない。寧ろそれ自体は一般的にも賞賛されるべき精神だろう。そして魔界という異世界にまで旅を続けてきた彼の背中を押す気持ちは今も全く減じていない。
彼女が怖いと感じているのは、夫リュカがたった一人で危険を背負い込もうとする姿勢だった。それは彼の父が、彼の母が、生前そうしてきた轍をそのまま彼もまた歩むことを寧ろ望んでいるのではないかと、そのように見える彼の一途さが怖かった。
それ故に彼女はリュカの手を握り、光を失わない漆黒の目を見つめ、小さな声ながらも力強く言う。
「死ぬときは一緒よ」
予期せぬ物騒な言葉に、リュカの表情が強張る。すぐ隣に立っていたポピーが思わず母が身に着ける水の羽衣の袖を掴む。その手は小さく震える。ティミーもまた息を呑むような驚きの表情で、母ビアンカを見つめている。母の真意を測りかねている。耳をぴくりと動かしたプックルもまた、揺れる青の瞳でビアンカを横目に見上げている。ピエールは彼女の言葉をまるで我が事のように聞き、己の中に落とし込む。アンクルはどこか他人事のように彼女の言葉を聞き、しかし手にする大槍に言葉の現実味を改めて噛み締める。
緊張感漂うこの場の張り詰めた空気を、その空気を作ったビアンカが自ら破る。
「だけど絶対に生きてグランバニアに帰りましょうね」
死を覚悟することと、絶対に生きて帰ることとは矛盾する気持ちではないのだと、ビアンカは明るさを取り戻したような笑顔でリュカに告げる。そして己の横に立つポピーの肩に手を置くと、その隣に立つティミーにも目を見合わせて笑顔を見せる。今そこに、目指していた大魔王なる者がいるという絶望の中にあって、そのまま絶望を感じていても希望など抱けない。言霊というのは決して虚などではなく、想いを声に乗せ、それを外に表すことによって、それはただの想いではなくなる。その音を聞いた者皆でその言葉を共有することで、言霊の力は尚力を増す。ビアンカは幼い時から無意識にも、その力を周囲に振りまいてきたのだと、リュカは知っている。彼女の堂々たる姿に、リュカはやはり彼女が勇者をこの世に産み出した母なのだと感嘆する気持ちを抱くと共に、この場において新たに誓いの言葉を立てる彼女に正面から答えるようにその頬に手を添えると、口付けた。すぐに離れた二人は間近に見つめ合うと、互いの瞳の中にある光に確かな希望を見い出した。
ビアンカの頬から離れたリュカの手指に嵌められる命のリングが、暗い魔界の空間を広く照らし始める。リュカがこの魔界へ足を踏み入れる前、この指輪はリュカの母マーサの手にあった。魔界の扉を開くための鍵として、炎のリング、水のリング、命のリングの三つの指輪が必要だった。その内の二つは、地上世界に存在していた。しかし封印された魔界の扉を開く要の鍵は、この命のリングだった。封印されていた魔界の扉を開く要の鍵は、辺境の村エルヘブンに暮らすマーサという唯一の存在と共にずっとあった。それは恐らく、エルヘブンという村そのものが背負い続けている、この世に対しての責任なのかも知れないと、孤独の中にも決して負けない母マーサの強靭な心にリュカはそう感じていた。
命のリングが生み出す光は命そのもののように、優しく温かい。命と言うものは本来、そういうものなのだろう。リュカもビアンカも、我が子ティミーとポピーが生まれた時のことを自然とその光の景色に思い出す。新たな命が生まれるというのは奇跡そのものであり、そこには感動しかなかった。母ビアンカは無事に生まれてきてくれてありがとうと、父リュカは妻に対し無事に生んでくれてありがとうと、そこには感謝の思いが何よりも先に生まれるだけだった。
その光が、リュカたちの前に待ち受けている巨大な浮遊石の上を照らし、石の上に満ちる。巨大な浮遊石の表面は、整えられた床の如く平ら且つ滑らかで、命のリングの淡い緑の光を受けると、まるで封印が解かれたかのようにリュカたちの視界を明るく開けさせた。進むべきはその浮遊する石の上だと一様に感じた皆は、意を一つにして歩き出し、宙に浮遊している巨大な石の上へと乗り込んだ。頭上から悍ましいまでの邪気を感じるというのに、リュカたちの乗り込んだ浮遊の石の上には変わらず温かな命の光が灯っている。同時に、リュカの指にある命のリングにも光は絶えず宿っている。
リュカはその時の母の姿を見たわけではない。しかしかつて母マーサはこうして、大魔王となったミルドラースと幾度となく対面をしていたのだろうと、想像することができた。かつては人間だったとされるミルドラース。諦めずに対話を続けていた母マーサを死なせたミルドラースを、リュカ個人が許すことはない。それは父パパスを死なせた仇敵ゲマに憎しみを抱き続けていたことと同列のものだ。しかしリュカは、あれほど憎んでいた仇敵にも、知られざる過去があったことを知ってしまった。そしてその過去をリュカに見せたのは、他でもない、彼の母マーサだった。
母は息子に、憎しみを抱くことの恐ろしさを伝えたかったのかも知れない。激しい憎しみに駆られた末、人はどのような未来を見るのか。それは自らの身を暗く、深く滅ぼしてしまうのだと、マーサは我が子リュカに見せたかったのかも知れない。ゲマと言う一人の人間だった魔物もまた、世の中の理不尽に対する憎しみに、他より優れた己の能力への過信が合わさった末に出来上がってしまった魔物だったのだろう。母がそれを教えてくれたおかげで、リュカは今、憎しみの感情に取り込まれることなく、こうして自身のあるべき姿を保っていられる。
浮遊の石はゆっくりと上昇し、その最後にリュカたちは、まるでこの場が広い王室の中だと錯覚するような景色の中へと入り込んだ。しかしそう感じたのは、ただ正面の玉座に座する者がいるというだけのことに過ぎなかった。相変わらず辺りには多くの岩石がゆっくりと回るように飛び続け、当然壁も天井も何もない開けた空間が何処までも広がっている。
禍々しい玉座がただ大きいだけなのだろう。玉座に座する者の姿が非常に小さなものに見えたのはリュカだけではなかった。しかしその小さな者が間違いなく、辺りに悍ましい邪気を漂わせていた。肘掛けに腕を置き、やや姿勢を斜めに傾いでいる様に力強さは感じられず、皺の多いその顔を見れば人間の老人を思い起こす。顎には真っ白な髭を伸ばし、玉座に座る背も曲がっているように見える。ただ、人間ではないと一目で分かるのは、緑の色をした顔と、頭部に三本の角が生えている所だ。両耳も異様に尖り、リュカたちに向ける視線に、生き物に感じられるはずの温度がまるでないように思える。
落ち窪んだ眼窩には初め、目がないのかと思われた。エビルマウンテンの中を進む途中、十字の部屋に遭遇したワイトキングのように、死者から蘇ろうとした人間の姿のように見えたが、傾ぐ顔の陰から覗く黒の目には思いも寄らぬ生きた目を感じた。ただ、そこには光が入らない。リュカたちの立つ浮遊する石に、命が宿るように光が生まれているにも関わらず、その光を受けても玉座の主の目には光が宿らない。その目がただ射るように、正面に立つリュカを見据えている。
「ついにここまで来たか。伝説の勇者とその一族の者たちよ」
低くしわがれた声だった。その声を聞いても、やはり目の前のものがただ一人の人間の老人のように思えた。ひしひしと感じる邪悪な気配とは相容れないその様相に、目の前の玉座のものとは他に何者かが辺りに潜んでいるのではないかという疑いを抱く。しかし今リュカたちが目にしている光景の中に、そのような者の存在は見当たらない。
「私が誰であるか、そなたたちにはすでに分かっておろう」
その声には心の底から生まれる強大な自信の響きがある。しかしその響き自体には嫌悪を感じなかった。玉座に座する者の自信は恐らく本物なのだ。
「魔界の王にして 王の中の王 ミルドラースとは 私のことだ」
静かに、ゆっくりと語るその言葉は、ミルドラース自身が思う真実の言葉だった。この者は微塵の疑いもなく、自身のことをそのように思い、信じ切っている。人の想いと言うものは何よりも強いものだと、リュカは知っている。たとえこの世を去り、肉体が滅びたとしても、その心がこの世に生き続けていることを、リュカは自ら手にする父の剣に、母が残した命のリングに知っている。ミルドラースの言葉には、ミルドラースの信念の強さが明確に表れている。
リュカはそれ自体をここで否定する気はない。ミルドラースのこれまでの生き方など、リュカの知らないところだ。仇敵ゲマにも、知られざる過去があった。ミルドラースにも、自ら魔界の王を名乗るまでになった何かがあるに違いないのだと、リュカは相手の目を見つめながらゆっくりと息を吐き、この者との対話と言う目的を忘れないように心を落ち着ける。
「気の遠くなるような長い年月を経て 私の存在はすでに神をも超えた」
玉座に座する者の声は、冷静で、淡々としたものだ。ただある事実を述べているに過ぎないと言った雰囲気で、言葉を聞くリュカたちはその雰囲気に吞まれそうになる。元は人間だったというミルドラース。人間だった頃の名は別にあるのかも知れず、いつからかこの者は自らをミルドラースと呼ぶようになったのだろう。気の遠くなるような長い年月を経てと言う言葉に誇張はなく、それは真実に違いないとリュカは感じる。人間の一生に比べれば、魔の世界に生きる者たちの一生は途方もない年月に及ぶことも可能だ。中には不死の者もいる。
神を越える存在という言葉に、リュカは初めて眉を僅かに顰めた。ミルドラースの言う神とは、天空城を住まいとするマスタードラゴンのことに違いない。ミルドラースの言う“神をも超える存在”とは一体どのようなものなのか。マスタードラゴンはリュカが認めようが認めまいが、地上世界における神として多くの人々には認められている存在だ。その存在を越えると、そのように語ること自体が、リュカには理解が出来ないことだった。
地上世界の人々が心の中で、外で、神の存在を頼みにしているという日常はあるのだろう。挫けそうになる心を奮い立たせるために神に祈りを捧げることで、立ち直ることもできるのが人間というものの強さだ。ミルドラースの言う“神”が、人々の祈りの対象となる存在であるとすれば、それを超えるも超えないもないという考えがリュカの心の中に在る。
「もはや世界は 私の手の中にある」
「…………違う」
ミルドラースの語る言葉に初めて、リュカが言葉を挟んだ。ミルドラースの声音に初めて、滲み出る喜びという感情を感じた。世界が己の手中にあることに喜びを感じるなど、到底“神”が感じるものではないのではないか。話の大小はあれど、村でも国でも世界でも、それらが己の手中にあると感じれば通常はそこに負うべき責を感じるはずだと、リュカはグランバニアの国王としてそう考える他はない。国を治めることに対し、喜びと言った感情が生まれるとすれば、それは国が豊かで、民が幸せに暮らしている状況を見ることができた時に初めて生まれる感情であることが望ましいに決まっている。
自らが世界を手中にできたという状況に単に喜びを表しているとすれば、それはただの無知な野望が達成したと思っているに過ぎない。そしてそれは神などではなく、紛れもなく“人間”としての感情なのではないだろうか。
「世界は誰の手の中にもないものだ」
リュカは幼い頃から父に連れられ、世界を旅してきた。幼い頃の記憶は曖昧で、長い船旅の間は退屈で、しかし船の上から見る海の景色は陽光を跳ね返し青く煌めき、その美しい景色は今でもリュカの記憶の片隅に残っている。地を歩けば、途方もないほどに広がる草原地帯に、険しい山岳地帯に、果てしない砂漠地帯に、その景色はところ変われば様々に変化した。
マスタードラゴンは一度、リュカたちを背に乗せ、「世界」を見せた。あの時、何故マスタードラゴンがそのような行動を取ったのか。竜神は決して世界を手の中に収めているなどという意識は持っていない。竜神もまたリュカと同じように、地上世界は美しいのだと感じていた。その地上世界を作る全てのものに、竜神は思いを馳せていたに違いなかった。リュカはあの竜神を“神”とは思っていない。自ら人間の姿に化け、人間世界に入り込んでしまうほどには、人間と言う生き物を興味深い、それをも超えて愛おしいと思っているのだろうと思いを、リュカと共有したかったのではないかと今ならそうと考えられた。
「あなたがもし世界を手の中に入れたと思っているのだとしたら」
そう言いながらリュカは左手に持つドラゴンの杖へと視線を落とした。竜神を象る杖頭の装飾は、リュカの意思を汲み取っているのか、その目を力強くキラリと光らせる。竜神の力が宿るこの杖からも、リュカはマスタードラゴンのある種の人間らしさを感じる。それは彼が人間の姿に化けていた時のあの冴えない中年男の姿であり、そこには純粋に人間を信じて、手中に収めるどころか寧ろ神である自らの手から人間という存在を解き放っているかのような雰囲気さえあった。
「それこそ、あなたが一人のちっぽけな人間だと、自ら言っているようなものだ、と思う」
広く世界を旅してきたリュカだが、出会った人の数はほんの僅かなものだろう。それでも多くの人々の姿をその目に見てきた。人々は一人一人、まるで異なるものだ。それもそのはず、生まれも異なれば育ちも異なる。全く同一の人物など、この世にはいない。双子に生まれたティミーとポピーのように、同じ時に生まれ、同じところに育ったこの兄妹にしても、その性格は全く違うものだ。無数にも思えるほどに多種多様な人々がいるこの世界を、一人の手中に収めることなど、馬鹿げた妄想の中でのみ為しえることだろうと、リュカはミルドラースの思い上がりの思想を断罪しようとする。
玉座に座したまま、ミルドラースはゆっくりと顎の白髭を手で触りながら、含んだような笑い声を立てた。そこにはリュカに対する憐れみのような感情すら見えた。リュカの断罪しようとする言葉を正面から浴びても、ミルドラースの心には微塵も響かない。自らを否定されるような言葉を吐かれていると言うのに、端から目の前の若造など相手にしないと言うように、変わらず光の入らない暗い視線をリュカへと向け続けている。
「ちっぽけな人間、か……ふむ。かつてはそうだったのかも知れぬ」
自身の否定的部分を認める余裕すら見せるミルドラースの様子に、リュカは僅かながらも対話の余地があるのではないかと本能的に期待する。リュカの目的はあくまでもミルドラースとの対話であり、大魔王としてこの世に君臨しようとすることを止めさせることだ。
「あなたは、母と……マーサとどんな話をしていたのか」
リュカは決してこの場を引き延ばそうとした意図で、ミルドラースに問いかけたのではなかった。ただ純粋に、亡き母とどのような話を続けていたのかを知りたかった。三十年もの間、マーサはたった一人で大魔王と対峙していたと言っても過言ではない状況だった。地上世界がこれまでどうにか保たれていたのも、マーサの存在そのものがその大きな理由であったことは明らかなところだ。
しかしその部分が最もリュカの分からないところなのだ。何故マーサがエルヘブンの村で唯一、魔界の門に対する力を持っていたのか。エルヘブンの村が地上世界と魔界との門番の責務を負うことになった歴史を、リュカは何も知らないままだ。恐らくマーサが生まれるよりも遥か前からこの世に生きているミルドラースならば、その歴史の中身を知っているのではないかと、リュカは純粋に知らないことを知りたいという思いだけで、目の前の大魔王に問いかける。
「どうして僕の母だったのか」
魔界と言う世界に深くかかわっていたに違いない母マーサの存在そのものが、ミルドラースとの対話の鍵になることに確信に近いものを感じるリュカは、母マーサの想いを受け継ぐことをも含めて言葉を続ける。嘘や薄っぺらい脅しを元に話を始める方法も、一般的にはあるのだろう。しかし嘘や浅はかな脅しを元に話を始めれば、行きつくところは完全なる対立だ。嘘を基にした話し合いなど成立しない。ましてや相手は大魔王を自称するほどに自身に揺るぎない誇りを持つような者だ。小手先の嘘や脅しなどの態度を見せれば、即座に正当な怒りと共に叩きのめしに来るほどの攻撃を受けることも想定できる。
「僕はきっと、何も知らないんだ。何も知らないでは、あなたを敵と見ることもできない」
そうは言葉にしながらも、リュカの手は微かに震えていた。目の前の玉座に在るものが、マーサの命を奪ったことには疑いもない。その点一つを以てしても十分に敵であることには違いないが、亡き母は恐らくそのような表面的な解決を望んではいないだろう。
リュカは漆黒の瞳の中に生まれている親の仇への敵対心を、今は抑えることができた。それは亡き父のように、悪しき魔物にいたぶられた挙句に殺されるという屈辱の中の父の死を目前にしたのとは異なり、死にゆく母には、その死を受け入れる亡き父の姿があったのを、リュカは目にしている。母には救いがあった。且つ、長らく仇敵と見ていたゲマの知られざる過去にも触れ、リュカの胸の中でずっと澱のように在り続けていた憎悪の感情が多くは同情の思いに上書きされてしまった。
リュカの余りにも素直な言葉に、ミルドラースは低く笑う。下品な嘲笑と言うような類の笑いとは感じられない。どこか納得するような、理解しているような、落ち着いた笑い声にリュカには聞こえた。それだけで大魔王を名乗る自信があることを示しているようでもあった。
「マーサ……選ばれし者 のはずだった」
いつから生き続けているのかも分からないミルドラースしか知り得ないことを話しているのだと、リュカはその言葉にいくらか疑問や反感を覚えながらも静かに聞いていた。
「私と世界を分け合うことも 共に統治することも できるはずだった……」
リュカは話すミルドラースの目から一瞬たりとも目を逸らさなかった。言葉を持つ者も、言葉で語り切ることはできないものだ。話す態度、とりわけその目に、言葉の意味合いが素直に滲み出て来る。ミルドラースの語る言葉に嘘偽りはなく、ただ思う真実を述べているだけなのだと思えた。
「しかし やはり所詮は 人間だったのだ」
一度目を閉じたミルドラースに、本能的に姿勢を低くし、戦闘態勢に入ろうとするプックルだが、その場から動くことはできない。目を閉じたところで、迂闊には近寄れない空気が辺りに充満している。
「……正当な ……の血を 継承していたというのに……」
独り言のように小声で話すミルドラースの言葉を、リュカは聞き取ることができなかった。その隣でプックルが両耳を欹て、ピエールは僅かに兜を被る頭を上げた。アンクルはデーモンスピアを握る手にじわりと汗が噴き出たのを感じていた。
大魔王の姿を静かに見つめていたリュカの視界に、ふと、あの小さな白い光が入り込んだ。それは大魔王の在る玉座の傍らにあった。リュカの視線が止む無く逸れる。小さな白い光はもしかしたら、常に大魔王の側近としてその場に立っていたのかも知れないと、リュカは仇敵の憎き姿を思い出す。
小さな白い光の光景は相変わらずリュカにのみ見えている現象だった。玉座脇の床からふっと浮かび上がると、それはどこか窺うように大魔王へと近づいた。大魔王の力に阿るような雰囲気は感じられなかった。今では白い光となった仇敵には、濁り切った邪心をどこかへ捨て去ってしまったかのように、ただ純粋にミルドラースと言う者の強大な力に憧れすら抱いている雰囲気さえ、リュカには感じられた。
目を瞑っていた大魔王もまた、自身の傍にある白く小さな光の存在に気付いたのだろうか、静かに目を開けると、その視線を自身の近くへと向ける。何もない、空っぽな少年が、何かも分からない“力”を持つ者に、ただ従順でいるという光景にしかリュカには見えない。何も持たなかった少年は、ふとしたきっかけで自身の能力に目覚め、その能力を取り上げてくれた恩人に対して礼を述べているのではないかというリュカの見方は、もしかしたらただの期待なのかも知れない。しかしリュカにはその小さな光となった仇敵の意味がそれほどに単純なものに見えていた。
「私のしもべたちがあれこれとはたらいていたようだが……」
そう口にしながら、ミルドラースは人間味のまるでなくなった、魔族そのもののような緑色の腕を伸ばすと、近づいてきた小さな光に手を向ける。ミルドラースの手が、白く小さな光にとっては救いなのだろうか。光はただミルドラースの手の中に収まるように、更にその光を小さくする。仇敵ゲマが唯一、頼りにしていた存在がミルドラースと言う元は人間だった者だとすれば、根っこには何も持たない、根っからの悪などとは言えないかつての仇敵に対しての同情心は更に強くなる。
「あのようなことは そもそも必要のない くだらない努力にすぎなかったのだ」
己の手の中に入り込んできた小さな白い光を、ミルドラースは思いも寄らぬ力強さで一息に握りつぶしてしまった。リュカは思わず息を呑んだ。ただの光ゆえに、潰れるような音がしたわけでもない。しかしその後ゆっくりと開かれたミルドラースの手の中から、小さな白い光は跡形もなく消え去っていた。ただ冷静に考えれば、リュカが幼い頃から長らく憎悪を抱いていた仇敵の存在がこの世から完全に消え去り、それ自体をリュカは本来喜ぶくらいの感情で迎えるべきものだったのかも知れない。ゲマ自身、一体どれほどの人間をあの死神の鎌で殺めてきたのかを考えれば、今ようやく当然の報いを受けただけのことだと、リュカの胸の内には清々するような思いが浮かんでいても決しておかしくはない。
しかし、ただただ冷静に考えれば、あの者自身、生まれながらの被害者でもあった。父を殺したことを許したわけではない。許されざることを数多してきた仇敵を許すわけにも行かない。その思いが完全に消えることもないが、それでもただの小さな光となり、それもリュカの目にしか映らない存在となっていた者に対しては、憎しみなどよりも憐れみを覚えるほどだった。何もできなくなってしまった者に対して攻撃的な感覚を持つこと、それは単に悪辣で残酷で無慈悲極まりないものだ。リュカは父にも母にも、出会った誰からも、そのような攻撃的な感覚を教えてもらったことなどない。寧ろ、そのような感覚を持つ者に対して、正当な怒りを感じるような環境が、リュカの周りにあったと言っても過言ではない。
「くだらない努力に 過ぎなかったのだ」
そう呟いて己の緩く開いた手を見るミルドラースの表情に、リュカは初めて邪悪を見た。それはほんの小さなものだが、確かに表れたものだった。老人の姿と見えるミルドラースの口元の皺が、はっきりとした歪みを見せた。その歪みもまた、ミルドラースの大魔王を自称する自信に基づいた感情から生まれるものだった。
「なぜなら 私は運命に選ばれた者」
隠し切れないというよりは、初めから隠そうともしていない漲る自信が、ミルドラースにはある。しかしそれほどの自信を目の前で見せられても、リュカは怯まないどころか、どこか冷めた感覚でその様子を見つめていた。
外見は頼りないとも言えるような、一人の老人。同じような外見を持つ者ならば、グランバニアに待つ仲間のマーリンの方が余程頼れる仲間に違いない。そしてこの大魔王を自称する者は、くだらない努力をしていたと切り捨てる己のしもべのみ外へと放ち、自らはただひたすらにこの魔界の奥深くに籠っていただけではないかと、リュカは目の前で消え去った白い光の姿に思わず歯ぎしりする。
「勇者も神をも超える存在だったのだからな……」
玉座を静かに立ち上がったミルドラースは、実際はリュカの背丈とさほど変わらないほどの身長だが、そうは見えなかった。見せる雰囲気は、立ち上がった玉座を丸々と隠してしまうほどの大きさで、纏う白のマントに束の間、目の前の者が神々しく見えてしまう。自らを大魔王と名乗りながらも、勇者も神をも超えたと言うその本心には、やはりただ神になりたいという野望を持ち続けているのかも知れない。神と言う存在に、超えるも超えないもないではないかと思うのは、リュカがマスタードラゴンを知っているからなのだろうか。
「……勇者も神様も……超えるも超えないも、ないよ……」
そう小さく呟くのは、ティミーだった。白のマントが揺れ、顎の白髭の他には凡そ人間らしさを失った魔物の姿を射るように見つめ、ティミーははっきりと天空の剣を敵に向け構える。勇者として生まれたティミーは、ミルドラースにそう言われたことに腹を立てたというわけではない。ティミーの思うことも、リュカと同様だった。勇者は勇者、神は神、誰しもがこの世に一つの存在であり、それを超えるだの超えないだのと思うのは、ただ一つの基準に依って測っているだけのことに過ぎない。
ミルドラースが言う“超える”ということは、単にこの世界全てを強引に支配しようとする力に限ったことだと、その意識そのものにティミーもリュカも同じような表情で大魔王に向かう。その思いを許すことはできない。その思いに屈することもできない。そう思うのは、ただ負けたくないというような利己的な思いに基づいたものではない。リュカもティミーも、皆もまた、世界中に生きて暮らす人々のことを思う。その人一人一人の顔が脳裏に過る。目の前に立つ、今やその傲慢さを隠さない大魔王に屈することは決してできないのだという思いは改めて強固となり、皆がそれぞれに構えを見せる。
「できれば、戦いたくはなかったんだ……だけど……」
白い小さな光を握りつぶして葬り、玉座から立ち上がったミルドラースの周囲には既に、その身から滲み出る邪気が溢れ出ている。一体何がこの者をそうさせたのか。リュカはそれが知りたかっただけなのだ。そうすればあの仇敵が自らの光に滅びたように、ミルドラースと言う元は人間だった者の魂もまた救われることがあるのでないかと、少なからず期待していた。敵を倒して滅ぼすようなことを、リュカは決して望んでいない。できれば戦いたくないというのは常にその胸にあることだ。
しかし相対する者が対話の気配を皆無にし、こちらに牙をむいてくるのだとしたら、それを無防備に受け入れることなどできない。リュカたちにも守らねばならない大事なものがあり、その為には戦うことに気が進まないなどと言うような余地はなく、向けられた牙に対して盾を向けるばかりではなく、剣を向けざるを得ない。守る姿勢を超え、戦う姿を見せることでようやく、守るべき者たちに対しての誓いとなる。
「さあ 来るがよい」
ミルドラースの身体を包んでいた白いマントが、周囲に起こる冷たい風に煽られはためく。大魔王が抑えていた邪気が辺りに満ち、リュカたちの呼吸をも阻害する。息が詰まるような空間の中で、リュカは大魔王の塗りつぶされたような黒の目を冷静に見つめる。先手必勝を常とするようなプックルだが、今はリュカの横で姿勢を低くし、寧ろ辺りの気配に身を守るほどの姿勢を見せていた。今はまだ、こちらから接近戦を挑むような状況ではないと、プックルは本能的にそれを感じている。
「私が魔界の王たる所以を見せてやろう」
低くそう言うと、ミルドラースは静かに深く、息を吸い込んだ。リュカたちの体温ごと下げてしまうかのように、周囲の空気の温度は明らかに冷たくなった。それはただの予兆で、その予兆にティミーが動く。そしてミルドラースもまた少年勇者のその動きを冷たく見据えた。ティミーが仲間たちを護るフバーハの衣を着せた直後、大魔王から冷たく輝く息が放たれた。