ただの駒として

 

この記事を書いている人 - WRITER -

目の前は一瞬にして真っ白になる。直前、ティミーの機転により施されたフバーハの護りがなければ、リュカたちはこの場で一斉に倒されていたかも知れないと感じるほどの、命の欠片もない極寒の白に閉じ込められた。しかし護りの中からリュカは辛うじて、前に構える両腕の陰の下から、薄目に敵ミルドラースの姿を見据えた。
目に捉えるよりも先に、その邪悪の気配が迫ってくるのを感じた。輝く息の中にある白い世界が止まない内に、それはリュカの目前に迫った。この極寒など、その身に何も影響を及ぼさないのだろう。ただ宙を移動するごとく、リュカに迫るミルドラースの鋭い爪の攻撃を、リュカの目前で、鈍い音と共に受け止める者がいた。
ピエールが風神の盾を構えて、振りかざされる大魔王の爪を受け止めたはずだった。しかしその威力は激しく、ピエールは攻撃を弾き返すことも、受け流すこともできず、風神の盾を身構えたままその身体ごと吹き飛ばされた。ピエールの盾がなければ、初手の一撃にリュカは倒れていた。
次の爪がすぐさま振りかざされる。しかしリュカはこれを受け止めた。白く輝く息の景色は収まり、リュカの視界は既に広がっていた。目の前に大魔王、ミルドラースが宙に浮かんだまま白のマントをはためかせて、リュカの光ある漆黒の瞳を、まるで光を失った黒の目で見下ろす。ドラゴンの杖で悍ましいほどに鋭い爪を受け止めたリュカは、ミルドラースのその目を間近に見て、思わず心臓を一突きされたかのような絶命感を覚えた。しかしそのままリュカの絶命を許すわけではない。彼には彼を守るために命を張る者たちがいる。
届くところにいればすぐさまにと、プックルがリュカのすぐ横から飛び上がった。宙に自在に浮かぶミルドラースは素早いプックルの攻撃を軽やかに躱し、上方へと逃げる。そこに既に待ち構えていたアンクルが狙いを定め、デーモンスピアをミルドラースの中心部である腹へと突き向けた。プックルはただの誘いだ。飛び上がる前に既に、プックルは上方へと飛んでいたアンクルを見ていた。
自身へと向けられた大槍を、ミルドラースはその大きく鋭い爪で薙ぐように弾いた。その動きの速さに、アンクルは外見に惑わされていることを認めざるを得なかった。白髭を生やした、細身にも見える頼りない一人の老人に見えることを、今は忘れなくてはならないと、弾かれたデーモンスピアを回転させて再び攻撃の手を向けるが、ミルドラースは更に上方へと逃げる。その動きの中にアンクルは、老人のような大魔王の身体を包み込む防御の光の膜の存在を目にした。想定内ではあったがやはり、ミルドラースは己の身体をマホカンタの呪文で護り、攻撃呪文の一切を受け付けない状態にある。
その光の膜を、下からティミーもその目に捉えた。天空の剣は既に敵へと向けていた。ミルドラースは標的宜しく、独り、宙にその姿を晒している。ティミーは向ける剣先をミルドラースへと、凍てつく波動を放った。そのすぐ傍でビアンカとポピーが、攻撃呪文の準備は万全だと言うように、手にする杖を前に呪文の構えを取る。
まるで跳ね返されたかのようなタイミングだった。ティミーが天空の剣から凍てつく波動を放つのと同時に、ミルドラースもまた同じく、その鋭い爪をリュカたちに向け、凍てつく波動を放ったのだ。初めにティミーが皆を護らんと施したフバーハの護りの膜が瞬時に消えてなくなってしまった。今の今、これは想定外と、呪文を唱えようとしていたビアンカもポピーも束の間逡巡し、放とうとしていた呪文の効果もまた合わせるように、収縮していく。
見た目の老人の姿は敢えてのカモフラージュなのではないかと思うほどに、その動きは迷いがなく素早い。リュカのような通常の人間では決して成し遂げることのできないような長い年月を経て得た経験故なのか、リュカたちの行動全ては想定内なのだと言うような余裕を見せている。宙に留まるミルドラースはどこか神々しささえ滲ませる白のマントをゆらゆらと揺らめかせながら、鋭い爪を生やした両手を真横に広げた。手から呪文ではない、見えない波動が空間に行き渡るのをリュカたちは感じた。
ミルドラースを中心として浮遊していた岩石が、あちこちで割れる。その光景を見て、リュカたちは岩石は卵のようだと感じた。割れた岩石の中に封じられていたのは、悪魔神官だ。一つの大きな岩石から生まれる悪魔神官は五体以上。それが、どれだけいるのか俄かには分からない。ただ合わせて百体以上はいるであろう悪魔神官がこれからリュカたちの前に立ちはだかるのは、見るも明らかだった。
宙高くへと上ったミルドラースに、リュカたちの攻撃が届かない。ティミーがそのマホカンタの呪文の効果を破った矢先、岩石の封印が解かれて姿を現わした悪魔神官によって、あっさりと再びの呪文反射の効果がもたらされてしまった。加えて悪魔神官ら自身にも既に、マホカンタの呪文の効果が見えている。ビアンカもポピーも、自身が少しでも躊躇をしなければと悔やむが、今は迂闊に攻撃呪文を放つことはできないことだけは確かだと、ただ防御するように杖を身構える。
宙高くに浮かぶミルドラースを守る悪魔神官は多数、その中から十体ほどがリュカたちに向かって棘の金棒を両手に向かってきた。それを見越して、既にティミーが防御呪文スクルトを唱え、仲間たちの身の守りを強化する。しかし敵は十体の悪魔神官、その両手の棘の金棒を宙から振り回してくる景色を思い出せば、リュカは更に皆を守ろうとするアンクルにスカラの呪文を施した。
たとえ防御呪文をその身に纏おうが、敵の眼前に晒すわけにはいかないと、ビアンカとポピーを内側に守るようにリュカたちは戦う。敵への呪文を封じられているこの状況でできることをと、ビアンカとポピーは揃って、バイキルトの呪文を唱えた。
リュカたちは悪魔神官の脅威を知っている。この敵もまたミルドラースやゲマと同様、元は人間だった者たちだ。その正体をリュカたちはあの大神殿の中で見たことがあった。彼らは人間から魔の者へと身を落とすのと引き換えに、本来ならば長い修行を経た上で習得するべき蘇生呪文の力を得ることに成功した。
勇者に生まれたティミーもまた、蘇生呪文ザオリクの使用者だ。しかしティミーや、地上世界に生きる神父などが死者に施す蘇生呪文と、この悪魔神官らが魔の力と共に身に着けた蘇生呪文では、その意味がまるで異なる。前者は死者自身のため、引いては周りの者たちのためにある呪文だが、後者はただただ自身のためにある呪文だ。悪魔神官が使う蘇生呪文ザオリクには、命を蘇らせる際に最も必要とするはずの、想い、がない。死者への想いなど微塵も感じられないどころか、寧ろ死者の命を蘇らせ、自身のために利用し尽くさなくてはならないというほどの邪悪さを、リュカは以前グランバニアでの戦いの中に見たことがある。その戦いの中に犠牲になりそうになったアムールらは今、グランバニアの国を守るためにと森の中にいる。
宙に浮かぶことのできるアンクルが広く仲間たちを守る。魔界の旅の最中、その役目を負っていたのはゴレムスだった。しかしゴレムスは今立った一人で、エビルマウンテンの頂上の祭壇の上で、魔界そのものを守ろうとしていたマーサの遺志を引き継ぐために、リュカたちの護り手の役を下りた。ゴレムスはその巨大な身体を以て、リュカたちを強く守ってきた。ゴレムスほどに巨大ではないアンクルは、翼を使って宙を飛ぶこともできる機動力を持って、ゴレムスとは異なる形でリュカたちを守る。デーモンスピアを巧みに操り、悪魔神官の棘の金棒を弾いて行く。
悪魔神官らが振るう棘の金棒の威力に、まるで迷いがない。それはこの者たちの意思ではない。ただ己の主であるミルドラースの指示に従うことが信条であるかのように、教義そのものであるかのように、敵であるリュカたちを葬り去ることが正しいのだと思い込んでいる。いや、思い込んでいるとまでも行かず、ただ命じられたことを遂行するのみだと、到達するのはただミルドラースの指示までだった。そこに、悪魔神官ら一人一人の思考は存在しない。その現象、リュカから見れば機械兵であるキラーマシンのロビンの方がよほど人間味があるではないかと、目の前の悪魔神官らを叱り飛ばしてやりたくなる。
真正面から受けていては敵わないと、リュカたちは悪魔神官らの振るう棘の金棒を出来る限り躱し、往なす。宙を移動しながら、身体を回転しながら棘の金棒を遠心力を得て振り回してくる悪魔神官の攻撃は、防御呪文スクルトの支えを以てしても、非常に厳しい。内側にビアンカとポピーを守りながら、呪文を使うこともできない今の状況で、攻撃の手を強めることができない。どうにか呪文を使えるようにと、ティミーがその機会を窺いながら天空の剣を振るおうとするが、敵の振り上げて来る棘の金棒を防ぐために前に出す天空の盾がどうしても先行してしまう。
アンクルが一体の悪魔神官をデーモンスピアで強烈に打ち払った。ポピーの放っていたバイキルトの効果は大きなものだった。その勢いで、アンクルは好機を逃すまいとティミーの助けに入ろうと向きを変える。勇者の力で、とにかく敵の身を固く守っている呪文反射の効果を剝ぎ取らなくてはならない。
しかしそのアンクルの後ろから、頭上から、大きな赤の光が見る見る大きくなるのを、リュカたちは目にした。それを守られた輪の中から見つめるビアンカの水色の瞳も、赤に染まる。それはあっと言う間にそこに出来上がったものだった。その予兆もなく、ビアンカは、己ならそれに対抗できたのにと悔やむ気持ちはあれど、もう間に合わなかった。
悪魔神官の群れに守られながら、リュカたちの戦いを高みの見物で楽しむかのようなミルドラースが、一興をと、指先一つでメラゾーマを放ってきたのだ。己の後ろ、頭上を振り向き見るアンクルは間に合わず、あっさりと宙から放たれたメラゾーマの直撃を食らった。しかしそれでもどうにか自身だけで食い止めるのだと、両手両足を広げ、まるでメラゾーマの大火球を己の身体で包み込んでしまおうと宙に踏ん張る。アンクルが踏ん張らなければ、その勢いのままリュカたちにまで大火球は及んでしまう。大火球と共にあるアンクルが雄たけびを上げるのは、メラゾーマの呪文の威力に苦しむよりも上に、この大火球をリュカたちから遠ざけなくてはならないという意思が強い。
そしてただ倒れるだけでは何にもならないと、アンクルは火だるまの状態のまま、鬼の形相で手近なところに浮かんでいた悪魔神官二体の襟首を、後ろからむんずと掴んだ。そしてその勢いのまま、二体の悪魔神官を道連れに、メラゾーマの大火球と共にアンクルの身体はリュカたちから離れ、床へと落ちた。すぐに回復をと、リュカ、ティミー、ピエールが状況を窺うが、悪魔神官らの攻撃の手は緩まず、倒れたアンクルを助けに行くことができない。その中でビアンカが賢者の石を手に取り、必死に皆を癒すために石に祈りを捧げる。床に倒れるアンクルにも、その癒しの力は及ぶ。大火傷を負い、気を失っていたアンクルだが、賢者の石の癒しの力を以て意識を戻すが、まだ動ける状態には至らず、意識を取り戻したことに誰も気付かない。
二体の悪魔神官が戦いから離れたのを折に、プックルが攻勢をかけた。プックルが敵に飛びかかる前に既に、ポピーはこの獣の戦士にバイキルトの呪文を当てていた。プックルはただ目の前の敵に飛びかかったわけではない。この状況を打開するためにはとにかく攻撃呪文を使える状況にしなければ、勝機を見い出せないことをプックルも理解していた。ティミーの手を空けるためにと、プックルはティミーの目の前の敵に向かって横から飛びかかり、突き飛ばした。プックルの動きに合わせるように、リュカもまたティミーを守るように剣を振るう。その間、ビアンカとポピーを守るのはピエール一人だ。風神の盾で敵の攻撃を防ぐと同時に、風神はその力を放つように悪魔神官の姿を光の彼方に消し去ろうとする。が、悪魔神官はただ眩い光に一瞬顔を背けるだけだった。
そんな一瞬の隙間だけで十分だと、ティミーは己を守ろうとする父の背中に、己の役割を果たすべく天空の剣を高々と頭上に掲げた。誰の頭の中にも、倒れるアンクルの存在があるが、彼を救いに行くためにも今は敵を目の前から遠ざけなくてはならない。
天空の剣から放たれる凍てつく波動の力は、リュカたちに襲い掛かっていた悪魔神官らの身に及び、その身を包み込んでいた呪文反射の膜を剥ぎ取った。ポピーはこの状況を見越していた。敵の一群に損傷を与えるためにも、イオナズンの呪文を放つ用意があった。しかし彼女は一つだけ、仲間のアンクルを巻き込んでしまう可能性だけを気にかけていた。
ポピーの躊躇を嘲笑うかのように、多くの悪魔神官に守られるミルドラースが、まるで勇者ティミーに当てつけるかのように、凍てつく波動を放ってきた。リュカたちの身体を守っていたスクルトの呪文の効果がぷつんと途切れ、プックルの攻撃力を増幅させていたバイキルトの効果もなくなり、プックルの動きそのものがいくらか鈍くなってしまった。
一瞬にして士気が下がったようなリュカたちの中にあって、ビアンカが集中し、少し離れたところに倒れるアンクルに向かって呪文を放つ。倒れていたアンクルはビアンカが手にしている賢者の石の癒しの効果により意識を取り戻し、その後も敵に気付かれないようにと、自ら力の盾で体力を回復していた。ビアンカの放ったバイキルトの呪文によって力を得たアンクルは、床から跳ね上がるように飛び上がると共に、リュカたちに向かう悪魔神官のその背後から、デーモンスピアをぶん回し、二体を同時に仲間たちから遠ざけた。そして自らは再び、リュカたちの護り手になるべく、ビアンカ、ポピー、ティミーをも守る位置に飛び込んできた。
仲間たちが一塊になったその時に、リュカが先んじてバギクロスの呪文を放った。マホカンタの呪文の効果を失った敵の身体を、豪風の力で一気にリュカたちから遠ざけた。それは娘ポピーが放とうとしている呪文の効果を正確に予期したものだ。リュカは己の背後に、相変わらず凄まじいまでの魔力を溜めている娘の存在に、当然気づいていた。
味方と敵との間に、十分な隙間が空いたのだと、ポピーがイオナズンの呪文を唱えた。リュカたちの戦う舞台は、それこそ舞台とも言えるような場所だ。宙に不自然に浮き上がった広い舞台の上で、リュカたちは悪魔神官との戦いを強いられている状況だった。宙を飛ぶことのできないリュカたちがこの広い舞台を踏み外せば、それはこの魔界の底にまで落ちて行ってしまうことになる。
間違っても仲間を一人として大爆発の彼方に吹き飛ばしてしまうことなどあってはならないと、ポピーの放ったイオナズンの大爆発は今機会を得たというように、リュカたちと対峙していた悪魔神官の群れを残らず吹き飛ばした。
無言のままでも勝手に連携をするリュカたちの動きに、悪魔神官は個々として、ついてこられなかったというのが本当のところだった。大爆発に巻き込まれる前に、ほんの僅かの時間の隙間があった。そこで敵らは各々に再び呪文反射のマホカンタの呪文を己へと纏わせることができたはずだった。しかしこれほどまでに流れるように、小さな少女が放つ大爆発の呪文にまで至る攻撃を読むことなどできなかった。そこには、負けるわけがないという驕りもあったのかも知れない。ミルドラースの放ったメラゾーマの大火球を受け止めながら、二体の悪魔神官を道連れにしたアンクルホーンにも、特別脅威など抱いていなかった。そのまま地に倒れ伏し、起き上がれないでいるアンクルホーンの姿をただ蔑むように見下ろしていただけだった。
アンクルに道連れにされた二体の悪魔神官は変わらず、地に倒れていた。しかし命を喪ったわけでもない悪魔神官に対して、仲間であるはずの彼らは救いの手を差し伸べることもない。集団で行動しているにも関わらず、そこに、仲間として協力する姿は見られない。寧ろ、悪魔神官らが、他の悪魔神官らを、それぞれ戦いの駒として見ているのではないかと思えるほどの、冷酷をそこに感じる。
イオナズンの大爆発に吹き飛ばされた悪魔神官は、舞台を下りるように、リュカたちの立つ広い岩石の上から姿を消した。敵らはその魔力を元にして、宙に浮遊することができる。しかしそれすらを許すまじと、ビアンカとアンクルが同時に背中合わせになるように、ベギラゴンの呪文を放った。見えないところから上がる悲鳴に、リュカたちはあの者たちが元は人間だったことを思い知らされる。敵とは何なのか。同じ人間であったはずの者をこうして手にかけなければならないこの状況を、リュカたちは決して誰一人として喜んではいない。
しかし手を抜くこともできないのが、現状と言うものだ。それを裏付けるように、リュカたちのところへ向かって新たに悪魔神官の群れが向かってくるのが見える。ミルドラースの指示に依るものなのだろう。大魔王の守りを務めていた内の十体がまたしても、リュカたちの立つ舞台に向かって下りて来る。悪魔神官同士が互いに戦いの駒と見ているという状況の上に、ミルドラースが全ての魔物が己の駒であると考えているに違いないという状況に気付けば、リュカは父の剣を握る手に力が籠るのを止められない。
キリがないと思いつつも、ミルドラースに近づく術も見いだせない状況で、とにかくリュカたちは目の前の悪魔神官と戦わなくてはならない。ティミーが初めから敵の防御の膜を取り去るべく、天空の剣を頭上に掲げた。しかしこのとき彼は少々、望みを高く持ってしまった。キリのないこの戦いの中で、まだミルドラースを守るように宙に留まる悪魔神官の群れがある。距離があることは承知の上で、それでもこの天空の剣の力を信じて、ティミーは離れた場所にある群れに向かってもその波動を向けようと、悪く言えば欲をかいた。
宙を飛び回り、自在に棘の金棒を操る悪魔神官の力は脅威そのものだ。神官という名を与えられているものの、その存在は決して神にも、邪神にさえも仕えている者ではないに違いない。何かに仕えるという立場の者が扱うような武器ではないと、リュカだけではなく誰もがその凶悪な武器を見てそう思わざるを得ない。その武器を両手に持ち、振り回し、狙い通りに、ティミーの掲げる天空の剣を打ち払う。ティミーが頭上に掲げていた天空の剣から放たれるはずの凍てつく波動の気配は止み、強烈な一撃を食らったために、剣はティミーの手を離れ、近くの地の上に叩きつけられ、弾み落ちた。
攻撃呪文を放つことが出来なくなったビアンカとポピーは、扱う呪文の変更を余儀なくされた。戦いの中では、一瞬の間が命取りとなる。今の状況、ティミーだけが使うことのできる防御呪文、スクルトもフバーハも、リュカたちはその効果を身に帯びていない。その中でリュカはほぼ本能的に呪文を唱え、優先すべきを優先させた。ティミー一人の身体に、防御呪文スカラの効果が発生する。
悪魔神官の棘の金棒の猛攻を受ける。誰一人倒れるわけには行かないと、剣を、槍を、爪を向け、盾に杖に、敵の攻撃をどうにか受け流そうとする。リュカ、プックル、ピエール、アンクルが力によって敵の攻撃に耐える中、ティミーは歯を食いしばって今は落としてしまった天空の剣を手に取らねばと、身を屈める。
その最中に再び、リュカたちの頭上に真っ赤な巨大火球が現れる。まるで遊んでいる。ミルドラースの手一つによって生み出されるメラゾーマの大火球の景色に、リュカたちを攻撃する悪魔神官の攻撃の手が僅かに弱まる。敵らもメラゾーマの火炎の威力を恐れているのだろう。悪魔神官の集団もリュカたちと同様、頭上の大火球を見上げ、そしてリュカたちとの間に距離を取る。
リュカは目の前から退いて行く敵の顔を瞬時見つめた。仮面に覆われるようなその顔にも、表情があった。緑の一つ目には、メラゾーマの巨大炎を映す光が入り込み、常に不気味な笑みを浮かべているような口元は、更に笑みを深めたように見えた。光を映す一つ目は、まるで幼い子供の様に純粋なものに見えた。大魔王を自称するミルドラースと言う唯一の存在を、信じ切っているのだと感じられた。ただ炎の明かりを目に映しているのではなく、悪魔神官の目そのものが光を持っているのだと思わせられた。
しかし悪魔神官のその純真とも呼べる思いに応える者はいない。ミルドラースは放つメラゾーマの大火球にどれだけの悪魔神官が巻き込まれようが、まるで構わないという態度を顕わにしている。悪魔神官が避けようが避けまいが、たとえ大火球にそれらを巻き込もうが一向に構わないという無遠慮が感じられる。悪魔神官はそのような主の意図に気付きながらも、それでも構わないというような純真な思いを持っているのだと、リュカは気づき、思わず悪寒を覚えた。
敵には敵の、信じるものがある。信じるに至った各々の経緯がある。しかしそれはリュカたちには知り得ないことだった。



かつて、伝説の勇者と導かれし者たちにより、地上世界は救われた。しかし救われた世界が、救われた時点において時を止めることなどなく、当然世界は動き続け、今に至っている。時は止まるものでもなく、戻るものでもない。
救われた世界の中に生きる人々の姿は概ね生き生きとしたものだった。これからは悪しき魔物によって生活を脅かされることもなく、平和な暮らしを営むことができるという希望を、何の障害もなく抱けるようになったのだ。世界に、光が満ちていた。人々の表情は明るかった。
リュカたちが生きる今の世よりも、かつての世界は人間の国が多く存在していた。何故、数百年をかけて、人間の国の数は減ってしまったのか。それは、魔物のせいではない。それは、人間自身が対立し、争い、滅ぼし、そうして減って行ってしまったからだ。折角悪しき魔物が鎮まり、世界に平和が訪れたというのに、今度は人間同士が争うという事態に陥ったのだ。
そのような混沌の中には必ずと言ってよいほど、暗躍するものがいる。リュカがグランバニアの国王になろうという時、リュカの国王即位を阻もうとする大臣がいた。リュカの親友であるヘンリーなどは、幼い頃に継母である太后によって暗殺されかけた。どちらも、その発端はただの妬みや蔑み、そして保身だ。
過去、どの時点を切り取っても、保身に生きる者はいる。それ自体を否定することは間違えている。生き物である限り、己の身を先ず守ることは本能に依るものだ。たとえば己の前方から何者かに攻撃をされると分かれば、何も考えない内から己を守るために両腕が前に出るのは反射であって、己の身を守る本能である。
しかし、力のある人間が保身に生きることは、力のないものが保身に走らざるを得ない状況とは別に考えなければならない。前提となる条件がまるで異なるものだ。人間と言う生き物は、良く言えば向上心に富み、悪く言えば欲を張る。保身に努めつつ、欲を張った時に、人間は自らの悪しき心に知らず破滅の道へと引きずり込まれてしまうのかも知れない。
悪魔神官らのほとんどは、かつて人間の国の重要な役に就いていた者たちだった。国王の側付きの者だったり、大臣であったり、学者であったり、はたまた神父の地位に就いていた者もいる。それぞれに、国に対しての発言に力のある者たちだ。または国と言う大きな単位ではなく、町や集落の長の補佐役といった者もいた。大小様々な形だが、悪魔神官らが人間であった頃にあったその立場は、総じて二番手と言っても良いものだった。
二番手とは言え、国や町や集落の中では、多くの人々の尊敬を集めていた人物だった。その立場は彼らにとっても非常に心地よいものだったに違いない。長となる者の側にいることそれだけで、自らも人々の尊敬を集めることができた。そして自らが長とならないことで、最終的な責任を取ることからは免れた。長となる者の言うことを聞けば、それで良かった。自ら何かを考えることなどなく、それでいて人々からはある程度の尊敬を得られる、その立場が彼らには非常に心地よかった。
長となる者が清く正しく、守るべき者たちを守るという信条を基にしている状況においては、或いは二番手となる者はその立場に甘んじていても問題は起こらないのかも知れない。しかし人間と言うのは絶えず変わるものだ。それは環境によって、関わる人によって、大小さまざまな変遷を遂げる。もし長が悪しきものに染まろうとしているならば、それを真っ先に止めなければならないのが、二番手となる者の大事な役割に違いない。しかし彼らはそれを怠った。それも偏に、今の、今だけの心地よい状況を出来る限り長らく続けたかったから。たとえ先に破滅が待っていようとも、彼らにとっては今の心地よい状況が優先されるという、リュカのような者にとっては信じられない自己満足がそこにあった。しかしそれはあくまでもリュカにとっては信じられない現実というだけであって、世界広くを見渡せば寧ろ、そちらの状況の方が多く蔓延っていたということをリュカたちは知らない。
リュカはグランバニアの国王であり、一国の頂点の立場にある者だ。グランバニアの国の中では最も力のある人物であることは誰にも否定できない。しかしもし、リュカが独断に誤る方向へと走り出そうとすれば、事実上のリュカの臣下に当たる者たちはリュカの行動を迷わず止めるだろう。
リュカは臣下の声を聞く義務があると思っている。そもそも誰をも臣下とは思っていない。グランバニアという国を支える仲間という感覚だ。そう思えるのは、グランバニアの人々一人一人が、グランバニアという国の事を想い、支えているのが分かるからだ。リュカが命令をするでもなく、国の人々は各々に国の事を想い、各々の形で国を支えてくれている姿をリュカは目にしている。サンチョ、オジロン、ドリス、ジェイミー兵士長、ピピンのように、生まれた時からグランバニアに暮らしている者だけではない。リュカとともに旅をしてグランバニアに辿り着いた魔物の仲間、マーサがエルヘブンの村から移動してくる最中に友達になった魔物たちまでもが、今は共にグランバニアの国を守り支えてくれている。そこには上から強制された国の護りへの従事という形ではなく、各々がグランバニアと言う国を護るという意識の下にあるという、強制とは決定的に異なる想いがある。
グランバニアの国を支えている人々が、一人として、目の前にいる悪魔神官のような魔物になることは、リュカには想像できない。グランバニアと言う国を想っていてくれている限りは、その魂を悪魔に売り渡すようなことはしないし、できないだろうと、リュカは信じている。信じているからこそ、自らもその想いに応えるべく、こうして魔界の奥底にまで旅を続けてきた。互いの想いがあってこそ、人はこうして前に進み続けることができるのは、時の流れなど問題ではない、いつの世にも在る紛れもない真実だ。
ミルドラースと多数いる悪魔神官との関係を、リュカは唾棄すべきものに感じた。一方は一方をただの奴隷のように見做し、反対側ではただ保身のために主と思うものに縋っている、そうとしか見られなかった。そこに、元は人間だった者の想いは何も感じられない。しかしそれこそが人間の想いだというのであれば、一体人間とは何なのかと、リュカの胸の中には怒りと悲しみが沸く。



リュカのすぐ傍で、眩い光が放たれた。ティミーが構える天空の盾が勇者を、皆を守るべく光を放ち、そこにはマホカンタの呪文の効果が現れる。ミルドラースの放ったメラゾーマを正面から受け止めるようにティミーが自ら前に立ちはだかり、大魔王の大火球を勇者が退ける。宙高くへと跳ね返されたメラゾーマの大火球を信じられないような一つ目で見つめる悪魔神官らだが、それも束の間、寧ろいきり立つような表情すら見せ、一斉にリュカたちへと襲い掛かってきた。
リュカは前にドラゴンの杖を構え、敵の攻撃を受け流す体勢を取っていたが、その前に素早く入り込む者がいた。悪魔神官の凶悪な武器である棘の金棒を難なく弾き返すのは、リュカの眼前に飛び上がってきたはぐりんだった。その動きはリュカたちの目に留まらぬ速さで、金棒を弾き返された悪魔神官も一体何が起こったのか分からない様子で、ほんの僅か宙に留まる。一方リュカはその隙を逃さない。剣を振るい、白いローブに隠れている悪魔神官の足元に斬りつけると、敵は悲鳴と共に宙に留まってはいられず、地に落ちた。息の根を止めるには至らないが、それで問題ないと、リュカはすぐに他の敵へと向かう。悪魔神官に、傷を癒す力はない。彼らは究極の力とも呼べるような蘇生の力ザオリクの呪文は使えても、本来ならばその呪文を身に着けるに至るまでの道のりを経なかったために、回復呪文の一切を使うことができない。
向かってくる悪魔神官に飛びかかり、一体を地に伏せたものの自らも傷つき倒れたプックルに、ピエールが庇いつつも回復呪文を唱える。庇うために前面に構えた風神の盾は、目の前の悪しき者たちを葬り去ろうと、眩い光を放つ。その中に一体の悪魔神官が取り込まれ、望まぬ光の中にその姿を消し去った。
リュカとアンクルが、ビアンカとポピーを守りながら敵と対峙する。当然のように彼女らから呪文の援助を得た二人は、剣を振るい、槍を振り回す。その中を、はぐりんが敵の振るう棘の金棒をあちこちで弾き、敵の攻撃力を削いでいく。敵の息の根を止めることを目的としておらず、敵の動きを封じられればそれで良いと、リュカもアンクルも一体に執着することはない。
消耗戦だが、勝機はあると、リュカたちは一斉に攻勢をかけようとする。しかしその最中、ティミーが危機に晒される手前だと、いち早くその気配に気づいた。仲間たちを守るべく、上を見上げながら、フバーハの呪文を唱えた。
弾き返したメラゾーマの大火球は、輝く息の中に消え去った。大魔王が放ったメラゾーマの呪文を、大魔王自らが消し去った状況だ。そして輝く息は瞬く間にリュカたちへと襲い掛かる。それはリュカたちという敵だけではなく、部下はたまた臣下にあたるような悪魔神官の群れにも襲い掛かる。ミルドラースが悪魔神官らをただの駒と見ている証左だった。そこには何の思いもない。
リュカたちは皆、息をつめ、身体を縮こまらせ、輝く息の中に耐えた。ティミーの咄嗟の判断がなければ、プックルなどはひとたまりもなかったに違いなかった。そしてリュカたちと戦っていたはずの悪魔神官の群れは、一体残らず場から消え去っていた。目の前から去った脅威に、リュカは安堵する気持ちにはなれなかった。悪魔神官という魔物に、同情するような気はない。あの者らからは明らかに邪悪が感じられた。しかしその者たちを使い、自らは安全な場所からただ高みの見物を決め込んでいるミルドラースへの怒りが膨れ上がる。
リュカの怒りを裏付けるかのように、ミルドラースはまたしても新たに十体の悪魔神官の群れをリュカたちへと差し向ける。その指示は、指先一つだ。戦い自体、このままではキリがない。ミルドラースの周りを取り巻く悪魔神官の数は、減ったようには見えない。先のない消耗戦を続けていても、行きつく先は敗北だ。リュカたちがここで敗けることは即ち、地上世界をミルドラースに明け渡してしまうことになるのだと、リュカは向かってくる悪魔神官の一見無表情に見える顔つきを見つめながら、その先にあるミルドラースへと鋭い眼光を向ける。
宙から向かってくる悪魔神官の群れに向かって、ビアンカがマグマの杖を向けた。杖頭から花火の如く、マグマを噴出させ、その火の勢いに悪魔神官らは思わず宙で身を引く。ビアンカはただ時間の隙間を作っただけだ。その隙間に、ティミーが体勢を立て直し、天空の剣を掲げ、悪魔神官らが帯びる呪文反射の膜を剥ぎ取るべく凍てつく波動を放った。
リュカたちの行動には確かな連携が取れていた。アンクルがベギラゴンの呪文を放ち、その勢いを増幅させるべくリュカがバギクロスの呪文を放つ。悪魔神官らはたまらずリュカたちと距離を取るべく、更に離れる。そこに入るのが、ポピーだ。イオナズンの大爆発により、悪魔神官の群れを一掃してしまうように、リュカたちの立つ岩石の舞台から悪魔神官を全て下ろしてしまった。しかしこの戦い方を延々と続けることができないことは、皆が分かっていることだ。既に魔力の消耗激しく、ポピーが息切れを起こしているのをリュカのみならず、皆が気づいていた。
リュカたちのそのような窮状を高みの見物に、笑みを深めるのはミルドラースだ。自らを大魔王と称するほどには慢心しているその者は、慢心する者の性格として当然のように欲が表出してくる。再び悪魔神官の群れを向かわせるのと同時に、自らも宙から、まるで神が天空から降臨するのを真似るような雰囲気で、リュカたちの立つ場所へと滑空してくる。ミルドラースの目はただ一人、大魔王の敵、勇者の少年を捉えている。
ティミーは正面にその目を捉えながらも、決して怯まなかった。己の役割はあくまでも、大事な仲間たちを助けることだと、冷静に防御呪文スクルトを唱えた。勇者は一人で戦うものではないのだと、ティミーは誰よりもそれを自覚している。そして家族も仲間も、その関係はかけがえのないものであり、誰よりも信頼するものなのだと、向かってくる大魔王に飛び出すプックルの後姿に思う。
悪魔神官の群れの攻撃を、アンクルがその巨体に一挙に受け止める。デーモンスピアを振り回し、棘の金棒の攻撃を弾く。身体にも受けるが、賢者の石に祈りを捧げるビアンカがアンクルの受ける損傷をひどくならないところに留める。プックルがミルドラースに飛びかかる。大魔王の鋭い爪に炎の爪を薙ぐが、力の差により弾かれる。すぐに追撃をと飛び込んだのはピエール。ドラゴンキラーで大魔王の足を狙う。ローブの裾を切り裂き、足にも斬り込んだ手ごたえを感じたが、ミルドラースは相変わらず笑みを崩さず、ピエールをその足で蹴りつけ、ピエールの身体は吹き飛ばされた。間を空けずに飛び込んだのが、ティミーだ。天空の剣の先を向け、凍てつく波動を放つ。周囲に波動が海岸に打ち寄せる波のように行き渡り、大魔王と共に悪魔神官らを守るマホカンタの呪文の効果を剥ぎ取る。同時に剣先から飛び出すのは、ライデインの雷撃だった。雷撃はまるで一本の巨大な矢のごとく、ミルドラースの身体の中央へと伸び、人間の老人のような細い身体を貫こうとする。僅かに顔をしかめるミルドラースだが、それは世界を救うためにこの世に生まれた勇者という存在への妬みの感情露に、顔を歪めたというところが真実だった。半ば怒りの表情でライデインの雷撃の威力をいなすと、勇者ティミーをいち早く仕留めてやるのだと、憎悪に満ちた醜い顔つきでティミーの首を掴みに行く。
その手を、リュカがドラゴンの杖で強く打ち払った。リュカが前に出てくるや、ティミーは下がり、既に悪魔神官の群れと戦っていたアンクル、プックル、ピエールに加勢する。悪魔神官の攻撃を決してリュカに向けさせまいと、敵の群れの一部にベギラゴンの呪文を放つビアンカ。魔力の激しい消耗に、ポピーは敵との距離を空けるためにどうにかイオラの呪文を放つ。
リュカは、間近に見るミルドラースの黒の目の中に、何かこの者の本質が見えるのではないかと、本能的に期待した。憎悪だけで敵を倒そうとすることの間違いを、リュカは仇敵との戦いの中に見ていた。ゲマは恐らく、憎悪だけで倒せる相手ではなかった。寧ろ憎悪を抱かれて、それを愉しみ、糧にするほどの邪悪に染まってしまった者だった。
目の前に見る黒の目はまるで穴でも開いているのではないかと思うほどに、底の見えない黒だ。何もない。と思っていた時、ほんの僅か光を見たような気がした。しかしその光もまた、黒く染まっている。闇よりも深い黒というものがあるとすれば、このような色なのだろうと、リュカはミルドラースの目に宿るその黒に、抱きかけた期待を砕かれたような気がした。
ミルドラースが振り上げた腕に向かって、素早く飛びついたのは、はぐりんだった。うっかり装備してしまったオリハルコンの牙で、ミルドラースの緑色に染まった腕にがぶりと噛みつく。目の前で一瞬、動きを止めたミルドラースに、リュカは躊躇なくドラゴンの杖を振り下ろした。同時に、ミルドラースもまた、リュカへと爪を薙ぐ。速かったのはミルドラースの鋭い爪だった。リュカの脇腹を深く抉ろうとしたが、リュカの右脇腹を守ったのは、彼が右手に固く握りしめている父の剣だった。大魔王の爪を弾き返すほどの力はないものの、リュカの身体を守るべくその位置にあったのは奇跡と呼ぶべき現象だった。
ドラゴンの杖の竜が、大口を開けてミルドラースの腕に噛みついた。竜が胸に包み込んでいるような薄桃の宝玉が激しく光る。それはまるで、マスタードラゴン自身の意思が今、働いたようにも感じられる景色だった。大魔王なる存在を、地上の神の名において許すわけにはいかないのだと、ミルドラースの右腕に噛みついた竜はその意志を完遂するかのように、信じがたい力でミルドラースの腕を嚙み千切ってしまった。
切り離されたミルドラースの右腕が、ぼたりと地に落ちる。戦いの中に生きてきたようなリュカは、ここで手を緩めることも頭にはない。敵の目に、期待を持てない。話し合うなどと言う段階でもなくなってしまった。家族のため、仲間のため、世界に生きる人々のため、世界に生きている魔物のためにも、この者は滅ぼすべきなのだろうと、リュカはドラゴンの杖に光る薄桃の宝玉の光に、そう信じた。
続けざまに、右手に持つ父の剣を振るう。大魔王の首に、下から斬りつけようとする。このタイミング、少し遅いと、避けられるだろうと思っていた。しかしミルドラースの首から噴き出す黒い血を、リュカは真正面から浴びた。ミルドラースは避けられなかった。と言うのは正しくない。リュカの攻撃の速さに避けられなかったのではない。右腕を竜に噛み千切られたことに、深い怒りを、その実浅い怒りを感じ、束の間呆然としていたのだ。
首を切られ、黒い血が噴き出しているというのに、ミルドラースの生命力に翳りは見られなかった。この者もゲマ同様、いくら身体を傷つけても倒れることのない、不死身にも等しい身体を持っているのだろうかと、リュカは攻撃の手を緩めるわけには行かないと、身体を回転させながら今度は左腕にドラゴンの杖を向ける。
遥か頭上が一瞬、激しく光った。同時に轟音が鳴り響いた。思うよりも感じるよりも前に、リュカの目の前のミルドラースの頭へと、雷撃が一直線に落ちた。それは、仲間たちが戦う悪魔神官の群れにも等しく落ちた。父リュカを一人で大魔王に向かわせることなどできないと、ティミーが棘の金棒の攻撃を天空の盾に激しく受け、地に転がりながらも、ギガデインの呪文を放ったのだ。続けざまに受けた神の攻撃に、ミルドラースの表情が激しく醜く歪む。ティミーたちの周りに戦っていた悪魔神官らは軒並み、地に伏せ倒れている。
神の裁きなのだと放たれたギガデインの雷撃を以てしても、ミルドラースはその場に膝をつくこともない。ただ失った右腕の付け根から黒い血を流し、切られた首から黒い血を噴き出し、それでも両足で地に立ったまま、リュカたちを悍ましい目つきで見つめている。
リュカが一歩、前に踏み込んで攻撃を向ける。しかしミルドラースは後退し、その動きを躱した。身のこなしも大して変化していない。重傷を負っているとは思えないほどに、軽やかに動き、その身は再び宙へと浮き上がって行ってしまった。しまったとリュカは歯噛みするが、その手には既に呪文の構えがあった。今、大魔王の身はマホカンタの呪文を帯びていない。リュカの動きを見て、皆も一斉に呪文の構えを取る。しかし地に倒れている悪魔神官の一体が、我が主を守らねばならないという思いに駆られたのか、はたまた機械的な行動だったのか、宙に浮かび上がって行くミルドラースに向かってマホカンタの呪文をいち早く放ってしまった。
呪文反射の効果を身体に帯びたミルドラースが、身体からぼたぼたと黒の血を落としながら、宙高くへと上がっていく。リュカたちを見下ろす目には、相変わらず光が宿らない。寧ろその色は更に深い黒へと染まったようにも見えた。
「さすがだな。伝説の勇者と その一族の者たちよ」
ミルドラースの表情に苦しいといったものは見当たらない。ただ醜い怒りが浮かんでいるだけだ。
「しかし 不幸なことだ……。なまじ強いばかりに 私の本当の恐ろしさを見ることになるとは……」
ミルドラースが流す黒い血は止まらない。治す術もなく、治す気もないようだった。治す必要もないのだという余裕が、その態度に現れている。
「泣くがいい 叫ぶがいい」
魔界の地に轟くような、低い低い声だった。
「その苦しむ姿が 私への何よりの捧げものなのだ」
やはりこの者は滅すべき敵なのだと、リュカはこの“戻れない者”に対して明確な意思を持って剣を向ける。
「勇者などという戯けた血筋を 私がここで 断ち切ってやろう!!」
大魔王などと名乗り、このような魔界の奥深くでたった独り、ただただ慢心を育ててきたような者に世界が脅かされているという状況。そんなことがあってはならないのだという想いで、右手に父の遺志を感じ、左手に竜神の力を感じつつ、リュカはミルドラースと言うかつては人間だった者の、変化の辿り着いた先を、その目に映していた。

Message

メールアドレスが公開されることはありません。

 




 
この記事を書いている人 - WRITER -

amazon

Copyright© LIKE A WIND , 2025 All Rights Reserved.