集結する想い
広い岩石の舞台の上、リュカたちは皆揃って宙を見上げていた。人間の姿に戻ったリュカもポピーも、地に肩膝をつきながら、聖なる水差しから噴き出した水の中に映る景色を呆然と見上げていた。まだ人間であった頃のミルドラースの過去。その姿を目にして強まるのは、ただ目の前の大魔王への憤りだけだ。何一つ、同情する余地がない。リュカは憎き仇敵であったゲマの過去をも垣間見たが、あの者には同情の余地が十分にあった。恵まれない生い立ちがあった。しかしこのミルドラースと言う人間に、そのような過去は一切見られない。
それにも関わらず、リュカの母マーサはこの者をも諦めていなかった。これほどの醜悪な姿となったミルドラースにも、人の声は届くのだと、マーサは粘り強く長い年月をかけて対話を試みてきただろうに、母の想いはまるで報われなかった。初めからこの者に人の声は届かないと、そう思わざるを得ないほどに、性根から腐り切っているとリュカは内心で断じる。
そんなヤツに母が殺され、地上世界が危機に瀕していることを思えば、リュカの胸の内には怒り以外の感情が追い出されそうになる。右手に握るドラゴンの杖の、桃色の宝玉が仄かに光る。しかしリュカの身体が再び黒竜になることはない。胸の内に怒りが充満するような状態のリュカを、ドラゴンの杖が竜の器と認めないのかも知れない。
リュカの怒りの気配を、聖なる水の起こす霧の障壁の向こうに感じたのか、宙に浮かぶミルドラースは潰され、見えなくなった両目を閉じたまま、うっすらと口元に笑みを浮かべる。リュカたちが激しい損傷を負わせたミルドラースの首が、徐々にその傷を強烈な治癒力で治していく。主であるミルドラースの身体を復活させねばと、その身体に取り込まれた悪魔神官らが蘇生呪文ザオリクの力を行使する。瞑想するかのように両目を閉じていたミルドラースの右目が、ゆっくりと開いた。
まるで光の入らない黒の目が、のんびりと動き、浮かぶ岩石の舞台に立つリュカを見下ろす。その周りに揃う忌まわしき勇者の子孫ら、それと魔物であるにも関わらず人間の味方のふりをしているような愚かしい魔物ら。ミルドラースの塗りつぶされたような黒の目に映るもの全てが愚者であると感じるのは、ミルドラースの感覚からすれば避けられない現実だ。
リュカという、マーサの子を見下ろす。魔界の扉を開く力を持つ、唯一の人間だったエルヘブンの大巫女マーサ。見下ろすリュカの瞳は、マーサに瓜二つだ。マーサは決して諦めなかった。魔界の扉の封印は命を懸けて守り抜く。それが己に課せられた宿命であり、義務なのだと、マーサは彼女自身に刻まれた運命を受け入れ、死ぬまで魔界の扉の封印を守り抜いた。つもりだったのだろうと、ミルドラースはやはりその顔に醜い笑みを浮かべる。
人間の老人となり、その先の、人間では越えられない年月にまで入り込んだミルドラースにとっては、リュカなどまだ赤子にも満たない虫けらのような者だ。黒竜の姿に戻ることもできずに、人間の姿のまま力なくただ宙に浮かぶ大魔王を見上げるのみ。為す術もないのだろう。可哀そうに。もはや竜神にも見放されたのかも知れないと、リュカが右手に握る竜を象る杖を、唾を吐き捨てるような顔つきで見下ろす。
傷の回復が進むと、ミルドラースの中にはリュカと言う人間に対する憐れみさえ生まれてきた。生まれた時から背負わされる運命、宿命と言うのも残酷なものだと、ミルドラースにはその運命を叩き壊す者としての余裕が生まれる。赤黒い巨体の損傷が半ばまで進めば、ミルドラースはそれで十分というように両目を開き、岩石の舞台に揃う愚かな者たちを憐れむ神の如く、嘘のように穏やかな声で言葉を落とす。
「マーサはエルヘブンの民として、詫び続けていた。その必要があったのだ」
ミルドラースの言葉の意味がリュカにも、他の者たちにも理解できなかった。余裕を失って、訳の分からない戯言を話している様子はない。ミルドラースの傷が癒えて行っている状況を、リュカだけではなく、他の皆も歯噛みしながら見つめていた。しかし今、不用意にミルドラースへ飛びかかるのは誰もが得策ではないと分かっていた。ミルドラースとリュカたちとの間に存在していた、聖なる水差しから溢れた水の作る霧の障壁が、エビルマウンテンの闇の景色に消えて行った。
「かつて世界を混乱に陥れた者の末裔として」
ミルドラースは、まだ彼が人間だった時の旅路の中で、一度は救われた世界が持つ秘密に触れたことがあった。エルヘブンと言う村は古くから存在するものの、元からその名で存在する村ではなかった。その村にはかつて、エルフと言う種族の者が囲われていたという。
よくある御伽噺だと、初めミルドラースはその話自体を馬鹿にしていた。異種族の恋。かつてこの世に存在していたとされる勇者もまた、その御伽噺の中に生まれたのだと言われている。陳腐な作り話だと、誰をも見下していたミルドラースにとっては取るに足らないものと決めつけるような話だった。しかしそれは同時に、御伽噺の中に生きる不可思議且つ無限の可能性をも持つような存在への憧れがあったということだった。その憧れの存在に、ミルドラース自身がなり得るのだと、彼はどこかでそう信じていた。
「マーサは……かつての魔族の王の末裔……」
現実は、そのどちらでもなかった。己は選ばれし者ではなかった。選ばれし者たちは他に存在した。今、ミルドラースの目の前には、光り輝く勇者の末裔と、それと対を為す、かつての魔族の王の末裔が、運命の悪戯も甚だしく、子と父としてこの世に生まれてきたのだ。
「故に、未来永劫、詫び続けなければならない……」
ミルドラースの落とす言葉に、リュカたちはこれまで知らされることのなかった世界の一片を知ることになった。勇者はこの世に誕生し、今はその少年の身体に天空の武器と防具を身に着け、勇者として大魔王と対峙している。しかしかつて勇者に敗れたはずの魔族の王の子孫もまたこの世界に残っているなど、そのようなことに想像を巡らせたことなど一度もなかった。勇者に滅ぼされたのではなかったのか。もし生き残ったのだとしたら、何故かつての勇者は敵を滅ぼさなかったのだろうか。
リュカたちは何も知らない。ミルドラースの言葉に、ただ過去も現在も想像するだけだ。かつての悪は、かつての勇者に滅ぼされることなく、世界に生き続けた。ただ勇者の前から逃げたとは考えられない。逃げただけならば、エルヘブンの村が負う魔界の扉の封印を守り続けることなど、そもそも始まらなかっただろう。ミルドラースの言葉の通り、世界への贖罪の為に魔界の扉の封印を守り続けてきたと考えるのは無理がない。
リュカは右手に握るドラゴンの杖に、マスタードラゴンの言葉を聞こうとするが、当然杖から声は聞こえない。マスタードラゴンは全てを知っているはずだが、リュカたちには何も教えてはくれなかった。ただかつての世界の危機が去った時に、竜神は既に未来の危機をその目に見ていたのかも知れない。見ていないにしても、未来にも必ず世界の危機は訪れるだろうことを、神の立場として想定せざるを得なかっただろう。未来永劫、世界が平和であることなど恐らくない。誰にも分からない未来のことに、広く応じることのできるようにと、竜神は強いて魔族の王という芽を摘まなかったのではないだろうか。
リュカがそう考えるのは、母マーサには微塵も魔族の王と言ったような雰囲気が感じられなかったからだ。かつての魔族の王などと考えれば、それは誰もが敵と見なすような凶悪な者を想像する。しかし果たしてかつての敵はそのような凶悪な者だったのだろうかと、母マーサに感じた底の知れない慈愛を思えば、かつての魔族の王を魔族の王として想像するのは難しい。
「お前の方がよっぽど悪魔じゃないか!」
ミルドラースの言葉を根っから全て跳ね除けるように、ティミーが天空の剣の先を敵へと向けながら声を上げた。その手も剣も、僅かにも震えていない。傷を半ばまで回復してしまった大魔王に対峙しながら、ティミーは寧ろ奮い立つようにミルドラースを鋭く見上げている。
「お父さんは……お父さんはお前なんかと違って、すっごく優しいんだ!」
ティミーが思うのは、かつての魔族の王の末裔ではなく、今に生きる彼の父であるリュカだけだ。その血筋が何であろうと、ティミーにとっては唯一無二の頼れる父であり、唯一自分を勇者として認めていない父が、彼にとっては何よりも大事な存在だった。最も大事なことを決して忘れてはいけないのだと、ティミーは己に言い聞かせるためにも、周りに知らしめるためにも、声を上げてそう叫んだ。
「お父さんが何をしたって言うの!? おばあ様が何をしたって言うのよ! 詫び続けなきゃなんないって、何なの? いつまでも詫び続けて、いつまでも何にもできないなんて、おかしいよそんなの……」
ポピーの胸の中には憤りと疑問が渦巻く。初めて知った父の、祖母の出自に戸惑う心もあるが、それ以上に父にも祖母にも課せられる運命が理不尽で、憤る想いが強まる。悪いことをしたら謝るのは当然だ。しかし生まれながらにその運命を背負わされ、己の人生は世界に詫び続けることに終わるのだとしたら、一体それは世界にどのような意味をもたらすのか。そのような人生を歩まされる者たちへの情が沸き、ましてやそれが身内の者となれば、情は怒りにも変わる。
「だから勇者が生まれたのよ、きっと」
ビアンカがマーサから譲り受けた賢者の石を手にしながら、そう呟く。きわめて慈しみ深いマーサの表情を思い出すビアンカにとって、手にする賢者の石にも義母の慈愛を感じざるを得ない。魔族の王の末裔だなどと、たとえそれが事実であろうと、それを超える現実があるのだと彼女は思う。
「未来永劫の贖罪なんて、ここで終わらせるために」
マーサの子であるリュカ、そしてその子らであるティミーとポピー。魔族の王の末裔と、勇者の末裔とが合わさり、再びこの世に勇者を生み出すなど、恐らくマスタードラゴンでさえも予想していなかっただろう。ミルドラースの言葉が本物であるならば、運命の悪戯は魔族の王の末裔を勇者にしてしまった。エルヘブンの村が負っていた業をマーサの子であるリュカが引き受け、その子であるティミーが勇者として贖罪を果たそうとしているように、ビアンカには思えた。
「オレはリュカが魔族の王ってんでも、別に不思議はねえよ」
そう言うアンクルこそが、手には禍々しいデーモンスピアを持ち、悪魔のような翼を広げ、頭からも悪魔のような二本の角を生やし、まるで魔族を体現している。
「だってお前、魔物と仲良くなれるもんな。魔族の“王”だったらよ、魔物と仲良くなれるのも当然だろ」
王たる者、臣民の心を掴むのが当然だろうと、アンクルはリュカをグランバニアの王として、また魔族の王としても、違和感なく見ることができる。この男ならばやがては世界中の魔物をも仲間にしてしまいかねないと、手強い魔物にも決して負けることのないリュカに限りない可能性を見ることができると、アンクルは自然とそう感じる。
「リュカ殿こそが、あの玉座に座すのに相応しいのかも知れません」
リュカたちが立つ広い岩石の舞台には、ミルドラースが初めに座していた玉座がある。ピエールが兜の奥から見つめるその玉座には、リュカが座る運命がもしかしたらあったのかも知れない。しかし運命は、リュカを魔族の王とはせず、勇者の父にした。
「しかしそうはならなかった。とすれば、私たちはその運命に従うのみです」
定められた運命というものがあるとしたら、それは決して脇道に逸れることも許されない一本道なのだろう。しかしリュカの歩んできた道には幾筋もの脇道があり、リュカはいくらでも脇道に逸れることができたはずだった。進まざるを得なかった道もあったのは確かだ。道を選ぶ余地がなかった時もあった。しかし途中、枝分かれした道を自ら選ぶ時がなかったわけではない。それでもこうしてここまで進んできたのは、結局は自ら選んで進んできた道の先がこの場所だったと言うことだ。運命などという言葉で逃げるわけには行かない。運命という言葉に乗るのは、あまりに無責任というものだろう。
たとえば運命というものがあるとしても、その運命の中に生きているのは何もリュカだけではない。勇者に生まれたティミーも、勇者を兄に持つ妹として生まれてきたポピーも、知らず勇者の血筋を引いてきたビアンカも、全く同じように運命、宿命というものに翻弄され生きているということだ。そのような稀有な血を引いた者たちと行動を共にすることになってしまった魔物の仲間たちなど、むしろ人間であるリュカたちよりもその生き方を根底から覆された者たちに違いない。魔物であるにも関わらず、人間と共に旅をし、人間と共に生活をし、人間と共に大魔王へと立ち向かっている。各々が引き受けた運命の中に生きていることを、確かに己のものとして受け入れているという点において、彼らに差異はない。
リュカの隣に歩み寄ってきたプックルが、その赤い尾で強くリュカの背中を叩いた。大きな子猫だったプックルがこうして立派な猛獣と成長しても尚、リュカの隣で共に戦うことを望んでいる。彼とは春の来ない妖精の国でも共に戦い、ラインハットを出て父パパスを追う時にも共に戦った。キラーパンサーであるプックルは常に戦いの中に生きるような魔物だ。
思えば、かつて父パパスはこのプックルを魔物の子供と知っていたに違いない。しかしプックルを追い払うことなどなく、家の中で飼うことを許した。パパスは妻マーサの不思議な力を最もよく知っており、子であるリュカが魔物と仲良くなることにも想像が及んだのだろう。その頃既にグランバニアではマーサの連れてきた魔物の仲間たちが城の中で暮らしていたことを思えば、パパスは大きな猫のようなキラーパンサーの子供を追い払うことなどできなかった。父はとても優しい人だったと、リュカは幼い頃に撫でられた頭の感触にも、時を越えて会えた父に頭を撫でられた感触にも覚えている。
全ては運命や宿命の中にあると思うのと、全ては己の選んだ道なのだと思うことと、何ら違いはないのが本当のところだろう。兎にも角にも、無数の様々なことが過去にあって、そうして今がある。かつての魔族の王の末裔と、かつての勇者の末裔とが互いに人間として出会い、手を取り合い、新たにこの世に勇者が誕生したことを、仮に紛れもない現実だとする。その現実について考えるというのなら、互いに敵であった者同士が手を取り合うことで、新たな困難を乗り越えることができるのではないかと、もしかしたらあの竜神がそのように未来を望んだのではないだろうかと考えても可笑しな話ではないだろう。何せあの竜神は、どうやら人間に憧れている。そうでなければどうして二十年以上もの間を、冴えない人間の姿のままで洞窟の奥底でトロッコに乗り続けてなどいられるだろうか。本当に馬鹿げた神様だと、リュカは今になって竜神に同情もしつつ、およそ神様らしくない人間臭さに場違いな笑みすら零してしまう。
「もし僕が魔族の王の末裔なんかだとして」
そう言いながらリュカは右手に父の剣を強く手に持つ。父は母のことをどこまで知っていたのだろうか。エルヘブンという村のことをどこまで知っていたのだろうか。しかしもしほとんど何も知らなかったにしても、父は母を生涯の伴侶として選び、最後の最後まで妻のことを諦めていなかった。自分は決して魔族の王の末裔というだけではない。グランバニアの王であった父の息子でもあるのだ。
「今の僕がしなければならないことは」
かつての魔族の王が世界をどれほどの混乱に陥らせたのかも、リュカは御伽噺程度に聞いているだけだ。しかし恐らく多くの人々を犠牲にしてしまったことは間違いない。その罪を償わなければならないということ、それはもはや、己が勇者であることと変わらない意味を持つのではないだろうか。
「世界の人々を守るということだ」
かつて犠牲となってしまった人々のことに思いを馳せ、そして今に生きる人々を守ることが、かつて世界を混乱に貶めてしまった者のすべきことだと、リュカは今、はっきりと己の立つ場所を見定めた。勇者の父として、勇者である息子を守ることが己の責務だと強く感じていた思いと共に、リュカは知らず己に課せられていた贖罪の意識も明確に、己こそが世界を守らなければならない者なのだと、宙に浮かぶ巨大な塊のように見えるミルドラースを見据えた。
ミルドラースの負った傷は浅く癒えている。本来ならば全快していてもおかしくはないほどに、ミルドラースの赤黒い身体に閉じ込められる悪魔神官は働いていたはずだった。しかしその働きを阻害したのは、他でもないミルドラース自身だ。人間と魔物の群れの間に見える、虚構にしか見えない深い絆に結ばれた関係性を、虫唾の走るような思いで見下ろしている。苛々した表情を隠しもしない。ただでさえ醜悪な顔つきと成り果ててしまったというのに、更に顔を歪め、顔中に皺を寄せている。そのような落ち着きのない思いが赤黒い体中に満ちているミルドラースの損傷の治りを浅く留めてしまった。
「……魔族の王の血を引く勇者など……認められるものではない」
苦々し気にミルドラースが呟く。しかしそれに対し、リュカは正面から応える。
「認めるも認めないもない。ティミーは勇者だ。これが現実だ」
息子が勇者だという現実を最も認めたくなかったのはリュカだ。しかし今は己もまた世界を守らねばならない責務を負ったものと思えば、勇者ごと守らねばならないという思いでそう応えることができる。
「魔族の王の末裔はただ……世界に詫び続けるのみ……」
「父は僕に戦うことを教えてくれた。……父さんに感謝するよ」
父パパスも決して戦うことが好きなわけではなかったに違いない。しかしこの世の中、生き続けていれば戦わなければならない時があるのだと、父パパスは剣を振るう後姿にそうだと教えてくれた。特に大事なものがあれば、それを守るためには剣を振るわなければならないことがあるのだと、幼いリュカは父の背中を見ながらそう教わっていた。
「母のように、祈ることも大事だ。それと同じように、戦うことも大事なんだ」
人の想いも、人の力も、どちらも捨てることなどできない大事なものなのだと、リュカは己の身に深く感じることができる。人の想いを受けて力は強まり、力が強まれば想いも強まる。その循環には終わりがない。どちらも欠かすことのできない、人として持つ必要のある重要なものなのだ。
ミルドラースの頭の中にはただ、自己愛が渦巻き、他者は全てにおいて愚であるのだと切り捨てる思いだけが充満している。もはやリュカが何をどのように言っているのかも、理解できないような状況に陥っていた。そもそも、リュカの言葉を受け入れるような器が、ミルドラースにはない。渦巻く自己愛の中には、我こそがこの世界を救う勇者足り得るのだという、妄想の中の妄想に生きるミルドラースの芯がある。大きく膨れ上がってしまった赤黒い巨大な体の中で、ミルドラースの思いはどうやら完結してしまっている。怪物となってしまったミルドラースにはもはや人間の言葉が、そのままの言葉としてすら届かない。更に膨れ上がってしまったように見えるその巨大な身体には、はち切れんばかりの自己愛だけが存在している。
たるみ切った腹が、まるで風船のごとく膨らむ。大きく息を吸い込んだミルドラースを見上げ、ティミーがしっかりと両足で立ち、大魔王の強烈な攻撃に備える。勇者の為すべきことよりも今は、己の為すべきことをその両手に現した。
ミルドラースの噴き出す灼熱の炎に対抗するように、ティミーはフバーハの呪文を唱えた。この守護の膜で大事な仲間たちを護る。しかしそれだけでは不足だと、ティミーの守護を補うように、ポピーとアンクルがほぼ同時に呪文を放った。マヒャドの呪文が、ミルドラースの吐き出す灼熱の炎に正面から当たり、炎と氷とが衝突し、エビルマウンテンの闇の中に激しく水蒸気が霧散する。フバーハの力が援けとなり、二人のマヒャドの力でどうにか灼熱の炎の威力に耐える。
大魔王と言えども、息継ぎもせずに灼熱の炎を吐き続けられるわけではない。赤々と燃える灼熱の炎の勢いが弱まると同時に、ポピーもアンクルもどっと疲れたようにマヒャドの呪文から解放される。この一瞬の隙間を逃すまいと、既にミルドラースの頭上に、赤々と大きく燃える巨大火球があった。ビアンカは本来の彼女の勇ましい性格を前面に出していた。手にしている賢者の石は今は暗く落ち着いている。対して彼女の操るメラゾーマの大火球が赤々とミルドラースの頭上を照らす。
瞑想の力によって赤黒い身体の損傷を大いに治していたミルドラースだが、その身体はまだ呪文反射の膜に覆われてはいなかった。大魔王の身体の損傷の治療に、その身体に取り込まれている悪魔神官らの力が注ぎこまれていたのだろう。邪悪に染まる大魔王のその頭上から、メラゾーマの大火球が急降下していく。
ミルドラースは棘の尾を大きく跳ね上げ、メラゾーマの大火球そのものを弾き飛ばそうとした。それほどに大魔王の尾は巨大だ。しかしそれを躊躇させる瞬間が目の前に起こった。
瞑想の力によりミルドラースの両目も開き、再びその目には憎々しいリュカたちの姿が映っている。その視界がふっと歪んだかと思うと、それはミルドラースのすぐ眼前で起きた。視界を僅かに閉ざすほどの爆発が、ミルドラースの右目に起こったのだ。それは、マヒャドの呪文の直後に、ポピーが遠隔呪文で放ったイオラの爆発だった。
戦いにおいては、一瞬の躊躇が生死を左右することを、この場にある誰もが理解している。リュカたちだけではなく、ミルドラースもまたその現実を理解していたはずだ。しかし自らを大魔王などと名乗り、悠々とリュカたちを虫けらのように見下ろすその態度に、確実に慢心が表れていた。それこそが油断そのものであるということを、もはやミルドラースは思い出すこともできない。それほどに大魔王は、大魔王という名の中に溺れている。
イオラの爆発の衝撃に目を瞑り、そこに一瞬の隙が生じ、そうして再び後頭部にメラゾーマの大火球を容赦なく食らった。相変わらず痛みはない。しかし再び首元が不安定になったことを感じ、ミルドラースは開いた目に標的となる二人の女を映すや、怒りも露にその巨体で襲い掛かってきた。
宙に浮かんでいられるから攻撃が出来なかったのだと、リュカはプックルの背に乗り、その疾風の勢いでミルドラースへと向かっていく。ミルドラースの目がリュカへと移る。棘の尾を振り下ろす。ミルドラースの目は光無く、黒に塗りつぶされ、そこには怨念のようなものが感じられる。リュカはその目に、決して一人ではない、多くの者たちの黒い思いが渦巻いているのをはっきりと感じた。
渦巻く怨念。魔族の王の末裔など滅ぼさなければならない。我こそが世界を救うものである。竜神が魔族に味方するなど、やはりあの竜神は決して神などではない。我こそが神となるものである。幾度となく人間によって混乱させられるこの世界を救うのは、勇者などではない。大魔王となった我である。魔物が悪いと誰が決めたというのだ。悪いのは人間の方ではないか。何故に人間は悪に染まってしまったのか。いつまで経っても欲望が潰えないからだ。何故に魔物は人間を襲うのか。ただただ凶暴で無知だからだ。人間は魔物を悪と断じ、魔物は人間を悪と感じる。互いに互いを悪と感じるこの世界は、終わりがない。このような終わりなく悪が渦巻く世界など、一度滅んでしまえばいい。我こそは大魔王。我こそは神に等しいもの。我こそが、この世界を滅ぼすに値するもの。渦巻く自意識の塊。
ミルドラースの攻撃の対象は、プックルと共に駆けるリュカ。腕が四本、背に翼も生やし、長い尾も生えているというのに、それらを器用に使いこなすことはできないようだ。ミルドラースがリュカたちに向けて来るのは、右の腕が一本のみ。しかしその勢い凄まじく、振るわれるだけで風が巻き起こる。その中でもプックルは矢のような走りを止めず、上から振るわれるミルドラースの腕を、急激に向きを変えて躱した。リュカはプックルの背にぴたりと張り付くような体勢で、まるで人豹一体となった状態で機を待つ。
ミルドラースの目には、広い岩石の舞台の上を小賢しく動き回る小動物ほどに見えているのかも知れない。しかしそこに執念が現れている。生まれながらに力ある者に対しての憎しみがありありと感じられる。今やすでに誰にも負けることのない力をその身に帯びていると自負しているはずのミルドラースだが、彼の執念は生まれながらに力を持った者に対する憎しみに基づき、それは消えることがない。寧ろ、その執念を糧に、人間には決して生きてはいられないほどの長い年月を生きて過ごしてきてしまった。人間には、人間の生きる時間というものがある。それを無理に超えて生きることに、恐らく人間自身が耐えられないに違いない。そうして彼は、悪しき魔物へと姿を変えざるを得なかった。
大魔王の両目に、魔族の王の末裔とされるリュカが映っている。純粋な人間として生まれた者が魔物となり世界を破壊しようとし、魔族の血を引く者が人間として生きてこの世界を守ろうとするこの皮肉を、一体竜神マスタードラゴンはどう思うのだろうか。神と言えど、世界の全てのことにおいてその力を及ぼしているわけではないことは確かだ。ただただ、神としての力が世界に自然と溶け、及んでいるに過ぎない。決して力を及ぼしているわけではない。ただ、及んでいるだけだ。存在するだけなのだ。
神の力が及ぶその中で、一つ一つの事象を左右するのは、あくまでも世界にあるもの全ての一つ一つの力なのだ。神が決定するわけでもなく、人間が決定するわけでもない。この世に存在する全てのものが複雑に絡み合い、それらが総じた結果に大小様々な事象が起こる。
その中で、何故かつて世界を混乱に陥れた魔族の王の末裔とされるリュカが、今もこうしてこの世界に生きているのか。その意味とは何なのか。それこそが、まだこの世界に大いに残されている望みそのものなのではないだろうか。かつての勇者は、かつての魔族の王を滅ぼさなかった。そしてその者が、その子孫らが自ら責を負うように、数百年もの間途切れることなく、魔界の門の封印を守り続けてきた。その現実がここにあること自体、人間と魔物が互いに大きく敵対することなく、同じ世界の中で生き続けることのできる望みが潰えていないことの証なのではないだろうか。
大きく振り下ろされる棘の尾が、リュカたちの頭上へと迫る。プックルはぎりぎりまで引きつけ、そして横っ飛びに避ける。と同時に、獣のしなやかさでそのまま尾の上へと乗り込んだ。感覚の鈍いミルドラースは束の間、尾の先から乗り込まれたことにも気づかず、目の前から人豹一体となった敵が消えたことに視線を辺りへと落ち着きなく向ける。目だけが動くその行動に、先ほど食らったメラゾーマの傷が癒えずに首がぐらついているのが分かる。
その大魔王の視界へと、アンクルが飛び込む。ただ敵の注意を引くためだけの、危険な飛行を見せる。ミルドラースは鬱陶しそうに、魔の前を飛ぶアンクルホーンを手ではたき落そうとするが、アンクルはそれをひらりと躱し、宙返りし、逃げることなく敵の目の前を飛び続ける。いかにも煩わしいその動きに、ミルドラースははっきりと苛立ちの顔つきを見せ、消し去ってしまおうと大きく息を吸い込んだ。
喉の奥に灼熱の炎の塊が噴き上がってくると同時に、ミルドラースの口の正面に、駆け上がってきたプックルが飛びあがった。その背に乗るリュカ。リュカの目の前には、大口を開けて灼熱の炎を吹き出そうとするミルドラースの、赤々と燃えるような口の中が見えた。正面から灼熱の炎を浴びるかのような、危険極まりない位置に姿を現わしたリュカに向かって、ミルドラースは嬉々とした悪魔のような顔つきを見せた。
しかし、喉の奥を上がってきた灼熱の炎は、ミルドラースの口から吐き出される前に、止められた。飛び上がるプックルと共に、リュカはその背に乗りながら呪文の構えを見せていた。腕を落としても、尾の先を切っても、その身に回復する力がある巨大な魔物を倒すには、この巨大な身体の内側へと斬り込まなければならない。
初めリュカは、ミルドラースの口から、その内部へと入り込むことを考えた。しかし今、ミルドラースは灼熱の炎を吐き散らそうと、その口の中に赤々と燃える炎を見せている。リュカはその炎を反転させるように、両手にバギクロスの竜巻を起こした。ミルドラースの口から灼熱の炎が吐き出される直前、リュカの放ったバギクロスの竜巻が激しく燃える炎をそのまま、大魔王の大きな身体の中へと押し込んだ。
ミルドラースの膨張した腹の中に、灼熱の炎が吹き戻される。そもそも、その赤黒い身体の中に、灼熱の炎が存在しているわけではないのだろう。ビアンカのメラゾーマの大火球を首に食らい、大きな損傷を残すような、さほど頑丈とは言えない身体だ。体内に吹き戻された、自らが生み出した灼熱の炎の凄まじい熱に焼かれ、ミルドラースは己の身体の内部が大きく焼け爛れたのを感じた。痛みを感じないのは相変わらずのようだったが、ミルドラースの動きそのものが明らかに鈍くなったのを、皆が一様にその目に見た。
動きが鈍くなったことに気付いていないのは、ミルドラース自身だけだった。眼前にいたはずのリュカとプックルを憎き敵と、掴んで握りつぶしてやろうと目の前を見たが、既に彼らはそこにいない。彼らは広い岩石の舞台の上へと戻っていた。浮遊岩石の上へ戻るまではどうにか意識を保っていたが、プックルも、その背に乗っていたリュカもまた、ほとんど転がり落ちるように岩石の地の上に身を投げ出した。バギクロスの竜巻で大魔王の灼熱の炎を抑え込んでいる間、二人とも決して無事でいられたわけではない。その身に間近に、灼熱の炎を浴びていたのだ。大火傷を負いながら、痛みを感じるよりも、死なないことを優先に、プックルもリュカもとにかくエビルマウンテンの谷底へと落ちることだけは避けるようにと、岩石の地へと倒れ込んだのだった。
「お父さん! プックル!」
ティミーがすかさず回復をと、ベホマラーの呪文を唱える。束の間、気を失っていた二人の意識が戻り、同時に目を開くなり、すぐさまその場に起き上がった。意識を失っても尚、失った意識の中でまだ戦いが続いているリュカとプックルは、誰に聞かずともすぐさま状況を理解しようと辺りに視線を走らせる。全快には程遠いような傷ついた状態だが、リュカは再びプックルの背に乗ると、プックルは何も確認せずともすぐさま駆け出した。ミルドラースの巨大な身体が、岩石の広い舞台の上に降りている。完全なる怪物と成り果てた大魔王ミルドラースの暴挙を止めるため、こちらが止まるわけには行かないと、リュカとプックルの目にはただ敵の姿が映し出されている。脇目も振らずに駆けて行く父と獣の後姿を、ティミーはどこか恐ろしささえ感じながら見つめる。
プックルは前に伸びて来るミルドラースの腕に向かって、飛び上がろうとした。しかしその動きを、ミルドラースの棘の尾が阻むように振るわれる。岩石の広い舞台の上に弾き返されるプックル、その背から離れないリュカ。プックルが宙を翻ろうが、リュカはその戦友の動きについていく。己はどうやら魔族の王の末裔らしいと、自分でも知らなかったような素性を聞かされれば、リュカには今までには考えたことも感じたこともないような力が湧きあがってくるようだった。
ミルドラースの動きは鈍いながらも、ひたすら巨大であるために、一度食らえばひとたまりもない。常に直線的に攻撃をしかけるプックルだが、その青い目は実のところ冷静に景色を見つめていた。今度は振るわれる大魔王の左腕へと乗り込もうと向かう。ミルドラースの目はしっかりとリュカとプックルという標的を睨んでいる。大分我を失っている。さほど余裕は感じられない。それ故に、ミルドラースの目はリュカという標的にのみ釘付けとなる。
ミルドラースの両目からの視界を奪うように、またしても爆発が起きた。ポピーではない。ミルドラースの首の後ろ、既にその巨大な赤黒い身体の上へと乗り込んでいた者がいた。ピエールがイオラの呪文を唱え、目を眩ませる。プックルは戦友のその動きを把握していた。隙を見せるミルドラースの、僅か岩石の舞台から宙に浮いた左腕へと、軽やかに飛び乗り駆け上る。
エビルマウンテンの遥か上方、闇の雲が渦巻き、その中心に地上世界への口が開きかけている。野望に満ちているミルドラースをあの渦の中心へと向かわせるわけには行かない。リュカたちはミルドラースの巨大な身体に直接乗り込み、彼らは自ら小さな動物や虫の如く、敵に煩わしさを与え、その意識をただただ引き付ける。宙を飛び回るアンクルもまた、周りを飛び回り、敵の意識をひきつけることに注力している。彼らは皆、“大魔王”を倒すことのできる者は、この世界に一人しかいないのだと、その希望に賭けているのだ。
エビルマウンテンの遥か上方に渦巻く闇の雲の中心、そこにある地上世界への口が渦を巻きながら閉じようとする。その気配を感じるミルドラースが、上方を見ずとも己の野望の危機を感じ、大魔王の身体に纏わりつく鬱陶しい敵どもを蹴散らそうと、その身に瞬間魔力を溜めた。巨大な魔力の放出の気配を感じたアンクルが咄嗟に身構え、距離を取る。しかし直接ミルドラースの身体に乗り込むリュカやプックル、ピエールには為す術もない。そもそも彼らはひたすら攻撃の手を緩めず、ミルドラースの異変に気付くこともなかった。
大魔王の巨大な身体全体から発せられた魔力の放出が、イオナズンの大爆発を起こし、首への攻撃に集中していたリュカたちは一斉に宙へと吹き飛ばされた。咄嗟に離れ、身構えていたアンクルもまた爆風に大いに圧されたが、宙に吹き飛んで行くリュカたちの姿を目にするや、己の損傷を考えないままに飛び出し、エビルマウンテンの谷底へと落下しようとする仲間たちの救出に向かう。
ミルドラースは己の野望に忠実に、地上世界の破滅を、愚かしい人間どもも、無知な魔物どもも、双方この世から消し去るために、もはやただの本能で動く。遥か頭上に開きかける地上世界への口をこじ開けるべく、その力を体中から噴き出す。ルカナンの呪文がミルドラースの赤黒い身体から迸り、辺りに漂う岩石に見える地上世界の景色は、ほとんど暗黒に飲まれ見えなくなった。上方に開く地上世界への口が大きく開き、大魔王ミルドラースを地上世界へ迎えようと、その明るい世界を見せようとするが、その景色さえももはや暗く、リュカたちの知る地上世界の景色を見せない。
ミルドラースの巨体がふわりと宙に浮かび、ふらふらと不安定な動きのまま上方の口へと向かおうとする。リュカたちの攻撃と、自ら放ったイオナズンの爆発のせいで、首は究極にまで不安定となり、ぐらぐらと半分以上が胴体と離れかけている。しかし地上世界に出てしまえば勝ちだと言わんばかりの歪み切った笑みを、ミルドラースは隠すこともなく不安定な首の上に見せている。
その時、大魔王の地上出現など許さないと、地上世界の景色を見せていた渦巻く闇の雲の中心が、強烈な力で閉じて行くのをミルドラースは見た。地上世界の暗い景色を見せていた渦の中心にまで、闇の雲は厚く広がったかと思えば、その中心には細く閃く光がいくつも生まれ始めている。
岩石の広い舞台の上で、大魔王の玉座を正面に立ち、ティミーが天空の剣のその先を、渦巻く暗雲の中心に向けて突き上げている。その両脇には母ビアンカと、妹ポピー。彼女ら二人もまた、ティミーの構える天空の剣が内包する神力に通じるように、息子の、兄の腕に手を当て、力を添える。彼らの身体に流れる勇者の血は、揃ってその力を結集させようと、凄まじい魔力が天空の剣に集約されていく。光り輝く天空の剣の刀身そのものが、まるで天からの裁きで落とされた稲妻のようだった。
金の髪が逆立ち、ティミーは勇者にのみ与えられた力をその身に感じる。しかしまだ子供であるティミーだけでは支えきれないその力を、母であるビアンカと、双子の妹であるポピーが、彼女らの持つ強力な魔力で支える。集約された勇者の力は、天空の剣から空へと向けられ、闇の雲の渦が一瞬、その動きを止めた。地上世界への口が閉じられた。ミルドラースの顔が悔し気に醜く歪む。憎き勇者を倒さなくてはならない。何故、お前のような子供が、子供ごときが勇者などと……その存在が許されないはず。魔族の王の末裔に勇者が生まれるなど、それ自体が禍々しいことではないか。
ミルドラースの負の感情が高まる。応じて、閉じた空の口に光が閃く。ティミーはただ、地上世界へ通じる口を閉じたかったわけではない。ティミーはただ、勇者としての使命を果たさなくてはならないと、その思いを天空の剣に込めていた。勇者の使命、それは、悪しき者を倒すことに他ならない。
閉じた闇の雲の中心、一瞬、誰もが目を潰されたかと思うほどの光が溢れた。エビルマウンテンの山を揺るがす轟音が響く。その衝撃に、ティミー自身がその場に倒れたほどだ。ビアンカも、ポピーも、同様に両脇に倒れ伏したが、辛うじて意識は保ったままだ。
アンクルは救い出しに飛び回る動きを止めざるを得なかった。しかし救出したリュカを岩石の広い舞台の上に放り出すには間に合った。そしてまるで自身が雷に打たれたかのように、その場から岩石の上へと落ちて行った。
ミルドラースの巨体を、その脳天から貫いたのは、勇者にのみ与えられた究極の力の結晶、ミナデインの呪文による極大雷撃だった。それまで激しい攻撃に晒され、ぐらついていた大魔王の首は、ミナデインの雷撃を食らって耐え切れず、首から上を離した。巨大なミルドラースの頭が、エビルマウンテンの谷底へと落ちて行く。しかし首から上を失ったにも関わらず、ミルドラースの巨大な身体はまだ宙に留まったままだ。首を斬り落とされても尚、大魔王の命が絶えることはない。
イオナズンの爆発をまともに食らい、ピエールは運良くそのまま岩石の広い舞台の上へ叩きつけられていた。プックルはエビルマウンテンの谷に落ちかけていたところをアンクルに拾われ、ぞんざいに岩石の地へと放り投げられた。すかさず最後に拾われたリュカもまた、余裕のないアンクルの手によって岩石の地の上へと転がされていた。アンクルもそのまま岩石の広い地の上に自ら転がる。
それぞれ、辛うじて意識は保っていたものの、受けた爆発による身体の損傷激しく、立ち上がることもままならない状態だった。リュカはその状況を目にしないままにも肌に感じ、左目がどうにか開く程度の視力の中で、その目に見つけた獣の戦友に向かって僅かに手を伸ばす。発動する回復呪文はベホイミ。プックルは喉の奥に溜まっていた血を勢いよく吐き出すと、その場に勢いよく立ち上がった。見上げるその青い目に映るのは、首から上を失った大魔王の姿。その巨大な身体が、まるで空に浮かぶ島が落ちて来るかのように、落ちて来る。
岩石の広い舞台の上、初めにミルドラースが人間の老人のような姿で座っていた魔界の玉座に、ミルドラース自らが落下し、玉座はぐしゃりと潰れた。巨大な怪物が落下してきた衝撃で、岩石の浮遊大地がひび割れる。中央からほぼ一直線に亀裂を走らせた岩石の大地は割れ、二つに分かれた。不安定に揺れる二つの岩石の大地に、リュカたちとティミーたち、それぞれ引き離されてしまう。その亀裂を飛び越えられるような場所にもおらず、走り飛び越えるような体力も残っておらず、ただ離れて行く互いの姿をその目に見つめるだけだ。
アンクルがリュカの元へと向かおうとするが、その背後にしぶとく巨大な影が迫る。ミルドラースはまだ倒れていない。首から上を失おうが、その命はしぶとく続く。怪物の域さえも超えたのか、何を以て命を繋いでいるのか、もはやミルドラース自身にも自身の状態が分からない。しかし死にたくないという、いかにも人間らしい最後の欲だけが、魔界の王を自称する者をこの世に繋ぎ止めてしまう。
首を失ったミルドラースの腕が、アンクルへと伸びる。動きは鈍い。しかしアンクルもまた、全身の傷を癒す間もなく動き、その動きは鈍い。逃げ切れず、ミルドラースの手に雑に掴まれるや否や、そのまま強く握り込まれた。堪らず悲鳴を上げるアンクルだが、その悲鳴さえも次の瞬間には遠ざかってしまった。ミルドラースが気絶寸前のアンクルを、そのままエビルマウンテンの谷底へと捨てるかのように投げてしまったのだ。
「がうっ!!」
浮遊大地の上に立つプックルだが、落ちて行くアンクルに差し伸べられる手はない。唯一、自在に宙を飛ぶことのできるアンクルが、力なく落ちて行くのをその目に映すのみだ。歯を剥き出しにして、悔しさに満ちる顔つきを見せるプックルだが、それさえも敵に隙を与えるだけのものだった。
敵を見つける目も喪っているというのに、首のないミルドラースは獣の声を頼りに、プックルの立つ場所を的確に捉えた。瞑想により復活してしまっている腕を伸ばし、プックルを掴もうとする。寸でのところで躱したプックルは、回り込み、怒りに燃える目を向け、伸ばされた腕へと噛みつく。自身に噛みつく獣を、自身の腕に損傷を負ってでも潰してやるのだと、ミルドラースは棘の尾を横から薙ぎ払ってきた。ミルドラース自身の腕ごと、噛みついていたプックルも吹き飛んだ。棘の尾の、痛恨の一撃を食らったプックルは胴を激しく損傷し、口から大量の血を噴き、瞬時に気を失った。岩石の浮遊大地の端にまで吹っ飛ばされ、そこで力なく倒れ伏してしまう。
ピエールは全てその目に見ていた。しかし今己が為すべきことをと、イオナズンの爆発に気を失い、直後気が付いた時から、己の損傷をホイミで僅かに癒していた。動ける状態にまで浮上した時には、アンクルの姿が宙に投げつけられていた。声も出なかった。唖然としていた。しかしそれでもまだ己にはやるべきことがあると、岩石の大地に倒れるリュカに回復呪文をと近づき、呻き、決して気を失ってはいないリュカに急ぎホイミの呪文を施した。ミルドラースの巨体がすぐ近くにある。ベホマを唱えるような猶予はなく、ベホイミを唱えるほどの余裕もなかった。ここまで、それこそしぶとく生き続けてきたようなリュカならば、僅かに回復するだけで思考も働くはずだと、ピエールはそのまま倒れるプックルの元へ向かおうとした。
その行く手に、ミルドラースの棘の尾が振り下ろされた。もはやミルドラースは首から上を失い、制御の効かない暴力の化け物と成り果てているような状態だ。このまま一通り暴れた後、この者は自滅するのではないかという雰囲気が、その必死さに窺える。しかしその制御の効かない暴力にこちらが耐えられなければ、地上世界を守り切れることになるかどうかは分からない。なんにせよ、ここで誰かが生き残らなくてはならないと、ピエールは緑スライムに弾みを効かせて、ミルドラースの尾を横っ飛びに避ける。
しかしミルドラースの気を逸らせるような他の仲間がいない。もう一つ、分かれてしまった浮遊大地の上に残るはずのティミーとビアンカ、ポピーの姿は見えない。彼らが乗る岩石の大地の裏側が、ピエールの視界の上方に見えている。彼らが無事であることは信じているし、現実的にピエールが今彼らに何かができるわけでもない。
ピエールの集中が途切れたわけではなかった。ただミルドラースの身体が大きく、振り上げる腕が大きく、三本が残り、攻撃の範囲が広いだけだった。ミルドラースは自らを大魔王と名乗り、誇りを見せていたことも忘れ、まるで機嫌を損ねた子供の如く三本の腕で浮遊大地を叩きつけ始めた。その内の一本の腕が、運良く、運悪く、敵の魔物を捉えてしまった。上から激しく叩きつけられた大魔王の手により、ピエールは岩石の浮遊大地にその身体をめり込ませた。到底生きてはいられないような痛撃を食らい、ピエールはその場に動かなくなってしまった。
リュカは仲間を助けようと、動き始めていた。しかし間に合わなかった。見る景色に、倒れるプックル、倒れるピエールが映る。アンクルの姿はない。家族の姿も見当たらない。絶望がリュカの身にひしひしと迫る。しかしまるでリュカの右手に自らの意思を持って収まっているような父の剣が、まだ諦めるなと鈍い光を放つ。絶望と希望との狭間で、リュカは希望のための声を上げようと口を開いた。
「お前を倒すのは、ボクだ!!」
声を出したのはリュカではなかった。リュカと似た声が、上に浮かぶ浮遊大地の上から響いた。ティミーが大地の端に立ち、天空の剣を正面に構えて、ミルドラースを見下ろしている。リュカからはその姿が見えない。しかしティミーからは父の姿、だけではなく、彼らに起こった現実が全て見えていた。倒れるプックル、ピエールの姿も、姿が見えなくなってしまったアンクルのことも、ティミー、そしてその両脇に立つビアンカとポピーに知れていた。
ミルドラースの意識が、大魔王の正しい敵である勇者へと移った。首から上を失っているというのに、ミルドラースは一体何を見て聞いているのか。もはや目にも耳にも頼らないその意識は、ただ空気を震わせるティミーの声の振動に反応したのかも知れない。ミルドラースの意識が研ぎ澄まされているのが分かる。そうでなければ、どうして真っ直ぐにティミーの立つ岩石の大地へと飛んでいくのか。リュカは今、己が為すべきことが分かっていたにも関わらず、倒れている仲間たちを救わねばならないのだと理解しつつも、その場から動くことができなかった。予感がする。悪寒がする。ティミーの声が僅かに涙に濡れていた。仲間たちが倒れている景色を目にしたのだろう。それでも自身が勇者として立たねばならないと、震える手で剣を手にしているに違いない。
リュカはドラゴンの杖を握りしめ、まるで本当の神頼みのように、竜神の力を願った。しかしドラゴンの杖はリュカの意思に反応しない。リュカの立つこの広い浮遊岩石の周りに漂う、地上世界の景色を映した岩石にはもう地上世界の景色は映っていない。岩石の表面は黒い靄のような気配に包まれ、それは即ち地上世界にも危険が迫っていると想像できる。恐らくマスタードラゴンもまた、その竜神の力を地上世界で振るわなければならない状況なのだろう。悪しき魔物の発生を極力抑えるための力を、地上世界を照らす太陽の力も借りながら、あの竜神は今放っているに違いない。マスタードラゴンを頼ることはできないと、リュカは呪文の構えを取る。同じ浮遊岩石の上には、倒れるプックルとピエールがいる。微塵も動かない二人が気にならない訳では決してない。しかしリュカの本能は、息子を助けろと叫んでいる。竜巻を起こし、ただミルドラースの注意を向ける。息子から、家族から注意を逸らす。リュカの頭にはそれしかない。
エビルマウンテンの暗黒の空、先ほどティミーたちが落としたミナデインの雷撃の影響で、空は暗く閉じている。そこが再び荒れ始める。リュカがバギクロスの竜巻を起こそうと、空が荒れる。リュカが起こそうとする竜巻の気配に合わせるように、そこにはまたしても雷撃の気配が潜む。あの、もう一つの浮遊岩石の上で、ティミーが勇者として、大魔王へ裁きの雷を落とそうとしている。
その気配漂う中、ミルドラースが、ティミーたちがいる浮遊岩石を叩き割る勢いで、その巨大な両腕を振り上げ、振り下ろした。首から上を失い、視覚を失っているというのに、腕を振り下ろす位置に迷いはない。大魔王を名乗る者として、敵である勇者の立つ位置を感じ取るとでもいうのか、岩石を叩き割るようなミルドラースの巨大な拳の音は、三度、響いた。そして、止んだ。
空に閃いていた雷撃の気配もまた、止んだ。バギクロスの竜巻を起こそうとしていたリュカの両腕が、力なく両脇に下がった。
「ティミー!!」
リュカからその姿は見えない。叫び声を上げたのはビアンカだ。悲痛極まるその叫び声に、何事が起こったのかを想像できない訳はない。リュカはまるで自身の心臓も魂も、全てが一瞬抜け落ちてしまったような気がした。勇者がいなくなってはならない。勇者はこの世に存在しなければならない。それ以前に息子を失うなど、子供を失うことなど、親に耐えられるものではない。だからあの時、父であるパパスもリュカの命を優先し、魔物どもに痛めつけられるままとなっていた。
ミルドラースの激しい打撃を三度食らったもう一つの浮遊岩石は、中央辺りに亀裂をもたらし、それはこの世に生きようとする全て者たちの希望を打ち砕くかのように、いくつかに砕けてしまった。そしてそれらは浮遊の均衡を失ったようにそれぞれがばらばらと、エビルマウンテンの深い谷へと落ちて行く。ミルドラースは宙に浮いたまま、見下ろす顔もないにも関わらず、赤黒い巨大な胴体だけで満足そうに落ちて行く勇者を見下ろしていた。顔がないために笑い声を上げることもない。それでも今、リュカにはミルドラースの歪み切った醜悪な笑みが目に見えるようだった。
砕けた岩石の一つが、リュカの立つところへと向かってくる。虚無のような顔つきで、避ける気にもならないリュカは、ただ近くに強烈な勢いでぶつかってきた岩石の衝撃で、その場に跪いた。ぶつかってきた岩石の上から滑り落ちてきた者がいた。ビアンカだ。リュカの近くに、まるで転がる石のように落ちてきたビアンカは、落下の衝撃で意識を失いかけている。その水色の瞳には何も映っていない。近くにいたはずのティミーとポピーがいない。ビアンカをここまで運んできた岩石の上にはいなかったようだ。いくつかに割れてしまった岩石のうちのどこかに、二人は倒れていたのだろう。割れて分かれた岩石は、まだ浮遊力を完全に喪いはしないものの、ゆっくりとエビルマウンテンの谷へと落ちて行く。
リュカの漆黒の瞳から、光は消えかけている。あの落ちて行く岩石と共に、息子も娘も落ちて行く。その姿は見えないものの、二人がビアンカと共にいないことを見れば、その行く先は明らかだ。脱力したリュカは岩石の地に両膝をついたまま、ただ近くに倒れるビアンカへと視線を落とす。手が届くほどに近くに転がってきたビアンカの傷だらけの姿を見ても、リュカは今、自分が何をすべきなのかを判断することもできない。アンクルも谷へと落ちて行ってしまった。プックルもピエールも、離れたところに息も絶え絶えに倒れている。もしかしたら既に息絶えているかも知れない。ビアンカも気を失いかけていて、ただ小さな呻き声を上げているだけだ。ティミーとポピーは……分からない。考えることもできない。二人の子供たちを失うなどと言うことは、考えられない。二人を失うことなど絶対にないのだと自身に言い聞かせようとしても、リュカの目の端には、落ちゆく岩石の地が映っている。滲む暗黒の景色。握るドラゴンの杖は、竜が抱える桃の宝玉が僅かに光るだけで、リュカの姿を変えようとはしない。マスタードラゴンの力さえもミルドラースによって弱められているのか、子供たちを、仲間を助けに行かなければと本能的に思うリュカの願いを叶えてくれることはない。
自分にできることは何もないのだと、行きついた思考がそう認めれば、リュカがやるべきことは一つだけだった。自分にはできないことでも、他の誰かがこの状況を変えてくれるかもしれないと、それに賭ける呪文を唱えるべく、亡き母マーサの姿を瞼の裏に思い浮かべる。リュカは、母がこの呪文を使う以前から、呪文の存在自体は知っていた。しかし呪文を現実に使う時など、きっと訪れないだろうと思っていた。
この状況で、自己犠牲を伴うメガザルの蘇生呪文を唱え、この岩石の地に倒れるビアンカ、プックル、ピエールが蘇ろうとも、同時にリュカはこの世から消え去る。この場にいないティミーとポピー、アンクルにおいては、彼らを救い出せることになるのかどうかは分からない。しかし翼をもち、宙を自由に飛行することのできるアンクルならば、リュカの放つメガザルの呪文を受けて蘇り、元から機転の利く彼のこと、この状況をどうにか打破してくれるに違いないと、期待を寄せる。期待を寄せなくては、ティミーとポピーの助かる道が見つからない。そう考えればやはり、リュカはすべきことは一つなのだと意思を固め、静かにその場に立ち上がった。
小さく呻き声を上げながら、どうにか意識を保っていたビアンカは、近くに夫リュカが立ち上がるのを気配に感じた。その姿を目に出来るほど、顔を上げることもできない。彼女の水色の瞳はただ、色もないような魔界の岩石の地を近くに見つめるだけだ。その彼女に、まるで彼女を守るかのように共に転がり落ちてきた賢者の石が、淡く光を放ち、光で語りかける。その声を、ビアンカは確かに聞いた。
痛みに震える手を伸ばし、賢者の石を掴む。淡い青白い輝きは僅かに強まり、ビアンカはその声に応えるようにただ心の中で念じる。声も出ない状態だったが、賢者の石の癒しの光を微かに浴び、その声を伝えるべく、口を開く。
「……止めて、リュカ……」
ビアンカの声が、リュカに届く。リュカは近くに倒れるビアンカを見つめるが、もう為すべきことはこれしかないのだという意思の元、メガザルの呪文の発動を止めない。この世から自身がいなくなることに、リュカは迷いがない。それはいつでも想像していた未来だった。自分はもう、十分にこの世で幸せを貰ったのだと、今は走馬灯のように流れる過去の景色にそう思える。同じ呪文を放ち、その身ごと必要な魔力へと変えてしまった母マーサの後を追うように、リュカは今や迷いなく、メガザルの呪文の発動に集中することが出来ている。
「……止めなさい、リュカ……」
いつでもビアンカは年上ぶって、リュカには小さな頃から命令口調で話しかけてきた。今もだ。しかし今は彼女の言葉を聞くことはできない。彼女を救うためでもある。ティミーも、ポピーも救うためでもある。プックルもピエールもアンクルも、今もどこかに姿を潜ませているであろうはぐりんも、救うためでもある。
結局は恐らく、魔界の王の末裔などという自身の存在は、この世に仇為すものなのかも知れない。もし自分が、大魔王ミルドラースが話したような魔族の王の末裔ということであれば、過去から今に至るまでの全ての罪を背負い、この場でその存在を消し去るべきなのかもしれない。リュカの思考は純粋に湧き出る己の思いなどではなく、自ら望む結果に合わせて形を変えて行く。
メガザルの呪文を試したことなどない。この自己犠牲の呪文を唱えられるのは、人生で一度きりだ。その姿をリュカは母マーサに見た。それ故に、リュカは絶対にこの呪文が成功することに自信があった。あの時の母の精神状態と、今のリュカのその状態は完全に重なっている。
その時、消えゆく自身の指に光る、生命力溢れるような命のリングの輝きを目にした。魔界の奥底の暗黒の中で尚その輝きは今増しているようだった。命を犠牲にして全ての大事な者たちを救う術を、命のリングはその輝きを見せることで、リュカを止めようとしているかのようだった。母から譲り受けた命のリング。母の声が聞こえることはない。しかし母の遺した思いは確実にこのリングに残っている。母は息子が自らの命を犠牲にすることを、果たして望むのだろうか。
「……バカッ……リュカの、ばか……」
足元で、ビアンカが泣いている。その手には、賢者の石が微かに青白く光を纏わせている。ミルドラースが更なる力を放つように、暗黒の空間は闇を増し、エビルマウンテンの空に徐々に地上世界へと通じる穴が広がっていく。闇を増すその力に押さえつけられ、賢者の石も、命のリングも、その光の輝きをみるみる失っていく。ミルドラースは自らの首を復活させようとしているのか、瞑想の気配をその身に漂わせている。全ての状況に、絶望が侵食していく。
メガザルを発動しようとしているリュカに、ビアンカが賢者の石に祈りを捧げる。己の身を犠牲にして、仲間たちを救おうとしているリュカの指で、命のリングが緑の生き生きとした輝きを僅かに放つ。その光はリュカに、死ぬなと言っている。生きろと言っている。諦めるなと、言っていた。
リュカたちの乗る巨大な岩石の浮遊大地が、大きく揺れた。魔界の、エビルマウンテンにおける力の均衡が崩れる。斜めに傾く大地の上で、リュカは体勢を崩す。その身はまだ、メガザルの呪文の発動の最中にある。酷く傾く大地の上で、リュカたちはその大地の上に留まっていられない。倒れていたプックルとピエールの身体が、力ないまま、大地の上を滑る。起き上がれないビアンカも、ただ地面の上を滑り始める。彼女の手を掴もうと手を伸ばしたリュカだが、その手は空を切る。目の前で宙へと放り出されようとしている妻を放っておくことなどできず、リュカはその身に帯びるメガザルの呪文の力を放り出し、中空でビアンカの手を掴む。意地でも離さないというように、その手には彼女の義務感と共に、賢者の石がある。今にも消えそうな弱々しい青白い光を目にし、その光を受けて、水色の瞳を涙に輝かせるビアンカを見つめ、リュカは自身もまた意地でも離さなかった父の剣を中空で振り上げた。
浮遊大地に留まっていられる者はいなくなった。完全に垂直に傾いた浮遊大地から、プックルも、ピエールも放り出され、その身はエビルマウンテンの谷へと落ちるのみと言うように中空にある。リュカとビアンカもまた、同様だ。その近く、リュカはまるで何も諦めていないのだという目を向けて来る、竜の顔と出会う。ドラゴンの杖は宙に漂いながらも、リュカを見つめ、このような全ての希望が絶えたような状況においても、世界を諦めないという光ある目を向けて来る。
この空間に働く重力は、地上世界とは異なるのだろう。巨大岩石が浮遊していたような空間だ。想像よりも静かに、ゆっくりと落ちて行く中、リュカは右手に握る父の剣に力を得たような気がした。
“頑張るのだぞ、リュカ” 父はそう言っていたではないか。
……まだ、諦めるわけには行かない。
その身に帯びていたメガザルの呪文発動のための魔力が、中途でその高まりを止めていた。しかし帯びていた魔力が全て霧散したわけではない。リュカはその頭の片隅にもう一つ、切り札となるものを思い浮かべていた。しかしこれに賭けるわけにはいかなかった。何せ、何が起こるか分からないのだ。
可能性は無限にある。しかしその可能性をリュカは、大事な者たちの為に、地上世界の為に、引いてはこの魔界の為に、皆の為に良い結果をもたらすように願う。近くに漂うドラゴンの杖に、マスタードラゴンを思う。神頼みにも等しい思いを、リュカはドラゴンの杖に向けながら、メガザルとは異なる呪文の発動を、父の剣を握る右手に構える。
本来は、何にも影響されないような呪文のはずだ。そして、何が起こるか、誰にも分からない。呪文を唱えた本人にも、何が起こるか分からない。何せ、呪文を唱える瞬間、唱えた本人の頭の中には何のイメージもないのだ。それがこの、パルプンテという呪文の唯一無二の特徴だった。
唱えたパルプンテの呪文の影響は、束の間、何もないようだった。この不可思議な呪文の怖いところでもあった。唱えたところで、何も起こらないこともあるらしい。それすらもパルプンテという呪文の効果の一つなのだろう。可能性が無限というのは、そういうことだ。
掴んでいたビアンカの手が、ふっと離れた。リュカは慌ててその手を再び掴もうとするが、掴めない。彼女の手が、人間の手の形を失っていく。彼女の手が、形を変えて行く。彼女の手が徐々に大きくなる。その形は、竜となる。
目の前で、共に落ちて行くビアンカの姿が、みるみる竜の姿へと変わっていく。見たこともない、美しい水色の竜。同時に、リュカの視線もまた変化していく。己の姿もまた、竜へと変わっていく。竜へと変化するリュカの視線に映るドラゴンの杖が、その桃色の宝玉を仄かに光らせていた。もしかしたら、竜神の援けがあったのかも知れないし、何も影響などなかったのかも知れない。しかし現実に、リュカもビアンカも、その姿を竜へと変え、背に生える大きな翼をはためかせて宙に留まる。
ミルドラースは瞑想の力により、己の首を復活させようとしていたが、それはほとんど進んでいなかった。頭を落とした首の断面は、復活の兆しこそ見せていたが、遠目に見ればまるで変化が見られないほどだ。大魔王の体内、取り込まれた悪魔神官らの働きが鈍っていた。大魔王の僕として、人間から魔物へと生を転じた者たちの中に、まだ人間であった頃の人間らしく、迷える弱い心に侵される者たちが現れていた。
決して反旗を翻した、というほどのことではない。しかし主である大魔王が地上世界を目指し、魔界の空に穴を穿とうとしている光景を感じ、ただ不安を感じたのだ。悪魔神官らは、変化を恐れた。ミルドラースという大魔王が、この魔界という閉ざされた世界で大魔王として君臨している状況から、地上世界へとその身を出現させようとしている変化に、得も言われぬ不安を感じた。その不安が一体の悪魔神官から生まれれば、隣にある同族へ伝染し、そしてまた隣へ伝染し、ミルドラースの体の中では今、悪魔神官らが感じ始めた不安が充満しつつある。そしてそれは、ミルドラースの首の復活を妨げる。
思い通りに行かない状況に苛立つミルドラースは、まるで駄々っ子のように、とても子供ではないその巨大極まる体を揺らし、苛立ちを露にする。しかしいくらその赤黒い巨体で意思を見せようが、その身体の中にある悪魔神官らは、もはやミルドラースの身体の一部となった今は大魔王の怒りを恐れなくなっていた。その一方で寧ろ、そのような状態のミルドラースの姿を目にして、機を逃さないと、下方から飛び上がる者たちがいた。
豹がそのまま姿を変えたような、黄に黒斑点の身体をした竜と、瑞々しい草の緑を思わせる身体をした竜が、息を合わせたように宙を飛び上がり、ミルドラースへと突進していく。リュカの発動したパルプンテの呪文に、竜へと姿を変えたプックルとピエールが、まだ深手を負っている身でありながらも懸命に大魔王へ向かって飛んでいく。賢者の石の癒しの力が、僅かに彼らに届いていた。ビアンカは何一つ、諦めていなかった。絶対に、誰一人、犠牲になどしないと、彼女は水色の竜となったその身の中に賢者の石を取り込み、宙にはためく翼にもまた癒しの風を生み出している。
黒斑点の竜がミルドラースの腕に激しく噛みつき、緑の竜が反対側の腕を激しく爪で薙いだ。首から上を失っているミルドラースは、その目に状況を確かめることもできず、己の身に何が起こっているのかが分かっていない。地上世界を滅ぼすのみと、その意思だけに囚われていたミルドラースの感覚は鈍り、己の腕が損傷を受けていることに気付かず、ただ両腕が思うように動かなくなったことだけが感じられた。
頼れる仲間たちの姿を見たリュカもまた、ミルドラースへと突き進む。そのリュカの動きについてくるように、遥か下方から飛び上がってきた真っ赤に燃えるような色をした竜がいた。宙を飛ぶ動きに慣れている。宙で急に方向を変えることも難なくこなす。エビルマウンテンの谷に浮遊する岩石に、その身を引っ掛けていた赤の竜と姿を変えたアンクルが、まだその身に激しい損傷を抱えながらもミルドラースへと向かっていく。リュカの唱えたパルプンテの呪文は、このエビルマウンテンの空間広くに及び、仲間たちの姿を竜へと変じさせてしまっていた。
ミルドラースの首は復活しない。瞑想による力で復活をするはずの首は、その体内にとり込まれている悪魔神官らの不安の蔓延により、復活の兆しすら見せない。自らの赤黒い巨大な身体に起こる奇妙な現象に、ミルドラースが狼狽えているのが分かる。エビルマウンテンの暗黒の空に、地上世界への穴が開きかけている。が、ミルドラースはそれを見ることもできず、その気配を感じる鋭さも失い、ただ己の首の復活だけに執着している。それというのも、ただの見栄に過ぎない。大魔王たるもの、首から上を失ったままでは格好がつかないという、いかにも見栄を張る小さな人間のような感覚で、ミルドラースは己の頭部の復活にこだわっている。
赤の竜アンクルが大魔王の巨大な腕に、黒の竜リュカもまた反対側の腕へと飛びかかる。竜の姿に変化したものの、大魔王ミルドラースの身体に比べればまだ小さい。しかし既に黒斑点の竜と、緑の竜が大魔王の二本の腕を激しく損傷させ、ほとんど動かない状態にまで追い込んでいる。宙を飛ぶことなど慣れていないプックルとピエールは、ほとんど宙に飛ぶこともなく、大魔王の腕に竜の爪を立てつかまり、ひたすら攻撃を続ける。リュカもまた黒の竜の姿で別の腕に飛びかかり、アンクルは残る一本の腕へと赤の竜の姿で食らいつく。怪物の姿のミルドラースの腕は四本。その全ての自由を奪うように、リュカたちは各々竜の姿で総攻撃を仕掛ける。
離れたところで、水色の竜が声を上げた。その声は悲愴で、しかし必死さを含む声だった。ビアンカは飛べる竜の姿で一人、下方へと飛んでいく。彼女の上げる声は、呼ぶ声だ。母が子を呼ぶ声が、エビルマウンテンの谷に響く。呼ぶ限りは彼女はやはり、子供たちの無事も諦めていない。
水色の竜が飛ぶその目の前に、何か異様に大きく平べったいものが飛び上がってきた。それは銀色の、俄かには竜とは見えない竜だった。異様に平たく見えたのは、広げる翼が身体に比べて非常に大きかったからだ。元がはぐれメタルのはぐりんだけあって、竜となった姿もまるで潰れたような平たい姿で、竜となったビアンカの姿など簡単に隠せてしまうほどの大きさを見せる。
そして、その平べったい銀竜の後ろに隠れている者たちがいた。大きく平たい銀色の翼に隠れていたのは、二匹の金竜。浮遊大地に立ち、ミルドラースと対峙していた時、大魔王の攻撃を受けるティミーをはぐりんは、その凄まじく強靭な銀色の身体で守ろうとした。完全には守れなかった。しかしティミーの命は失われていなかった。そのティミーもまた、妹のポピーをその身に庇っていた。決して無傷などではなく、二人とも気を失っていたほどだが、母の強い祈りと共に辺りに漂う癒しの気配に知らず力を得て、二人ともが神々しささえ表わす金竜となって揃って宙に飛んでいる。
一匹の金竜が宙を飛び出し、水色の竜の脇をも通り過ぎ、迷わず上方に浮かぶ敵に向かい飛んで行った。ティミーの目には四匹の竜が大魔王と戦う光景が映っていた。金竜の姿となった今も、彼の胸の中には勇者としての誇りが当然のように在る。大魔王討伐の為に向かわなくてはならないと思うよりも前にそう感じ、金竜のティミーは竜の雄叫びを上げながらミルドラースへと飛び上がって行った。その後すぐに、もう一匹の金竜ポピーが続く姿は、まるで互いに磁石で引きつけられた運命を持つ者同士の動きにも見える。勇ましい子供たちの姿に励まされるように、水色の竜もまた急ぎ後に続き、束の間戸惑っていた銀の竜もまた皆から離れたくないと言うように宙を飛び上がる。
八匹の竜が、地上世界を目指す大魔王を足止めするべく、激しい攻撃を繰り出す。黒斑点の竜は移動し、ミルドラースの翼に爪を立て、牙を立てる。翼がはためき、宙へと打ち払われようが、今は竜の姿のプックルにとって空間に放り出されることは怖くない。身のこなしに関しては自身のあるプックルは、竜の姿になろうとも宙で身を翻し、体勢を整え、すぐさま再び敵へと食らいつく。緑の竜となったピエールは、敵の手に掴まれそうになったところを飛んで逃れ、口から炎を吐くと同時に自らその炎の中へと飛び込むように、大魔王の手の指を数本斬りつける。スライムナイトとしての身体ならば、炎の中に飛び込むなどと言うことはできない。しかし今は竜なのだと、多少の無茶を見せつつも、己の右手に内包されたようなドラゴンキラーの切れ味を見せるように敵の身体を爪で薙ぐ。
四本の腕を同時に攻撃されているミルドラースの意識は、到底どこかに集中できる状況になかった。己の身体だというのに、四本の腕を同時に器用に動かすことはできないようだ。その為にただ暴力的に振り回す有様だ。大魔王を自称しておきながら、今は半ば混乱の状態に陥っている。それを冷静に見るのはリュカとアンクル。黒竜と赤竜が攻撃していた大魔王の二本の腕は、ほとんど動かなくなった。それを見て二匹の竜は宙を飛び、大魔王の翼に飛びかかる。黒斑点の竜が炎を吐いている。緑の竜も上方より飛んできた。黒竜と赤竜は互いに目を見合わせることもなく、しかし互いにやるべきことを見定め、ミルドラースの翼の付け根へと飛びかかった。この大魔王を自称する異形の魔物をどう倒すべきなのかは、誰にも分からない。しかしとにかく、この者を地上世界へと出現させてはならないと、竜へと姿を変えた者たちは皆揃って、大魔王の翼を折ってしまおうと猛攻撃を仕掛け始めた。
下方から飛び上がってきた二匹の金竜が、揃って雄たけびを上げながら、大魔王の両翼の付け根へと突っ込んできた。痛みを感じないミルドラースの頭部は今も復活せず、自身に何が起こっているのか分からないまま、大魔王は二人の勇者による激しい突撃により、既に四匹の竜によって受けていた損傷により、両翼を一息に捥がれた。四本の腕は動かなくなり、背に生える大魔王の翼も失い、失った頭部は未だ復活せず、今宙に浮かぶミルドラースの姿には到底大魔王たる威厳は感じられなかった。しかしまだ息絶える気配はない。第一が、首から上を失って尚生き永らえているのだから、この魔物が倒れるなどということがあるのかどうかも分からない。
両翼を失ったミルドラースが、その巨体を宙に支えることが困難となったというように、徐々に空間を落ちて行く。はためく翼はなく、放っておけばそのままエビルマウンテンの谷底へ向かって落ちて行くのではないかと、その姿に皆がそう感じた。
下方から後から飛び上がってきた水色の竜が、共に飛ぶ銀竜と共に見たのは、翼を失ったミルドラースの赤黒い巨体の、その膨れ切った腹に現れた二つの目だった。首から上の復活を望んでいたミルドラースの執念が、その目だけを膨れた腹に作り出してしまった。ぎょろりと目線を動かすミルドラースの視界に入るのは、目の前を飛び上がって行った水色と銀の二匹の竜の姿だった。ミルドラースの怨念は竜へと向かう。自身を否定したあの憎きマスタードラゴンと同じ姿をした竜に対し、凄まじい憎悪の炎が燃え上がる。しかし両翼も失い、頭部も復活せず、四本の腕も動かない状態にあって、ミルドラースに出来ることはほとんどない。
腹に出現した二つの目が赤く染まる。まだその巨大な体内に溜まる魔力が、両目に凝集されると、ミルドラースはその魔力を自身でも何だか分からないままに放った。暗黒の空間に広く滲んでいく大魔王の魔力は、そのまま空間に行き渡る凍てつく波動となる。どこかに隠れる間も無かった八匹の竜たちは、誰もが凍てつく波動の力から逃れることができなかった。パルプンテという不可思議極まりない呪文の効果で竜へと変化していたリュカたちの姿が、放たれた凍てつく波動を浴びて、その姿を元のものへと戻していく。
宙で元の姿に戻るリュカたちは、アンクル以外、宙で留まってはいられない。両翼を失ったミルドラースも落ちて行く。それに合わせるように、リュカたちもまた、中空をゆっくりと落ちて行く。下に見えるのは、エビルマウンテンの谷底であろう暗黒だ。共に落ちて終わりか、という諦念はリュカの脳裏に過りもしなかった。このような先の無い状況に陥っても尚、誰もが何一つ諦めていなかった。唯一飛ぶことのできるアンクルは、真っ先に救うべきものへと手を伸ばし、金竜だった二人を今にも抱きかかえようとしていた。そして人間の姿に戻ったリュカの目の先に、先に落ちて見えなくなっていたはずの桃色の宝玉の光が、ほとんど錯覚に見えるほどに小さく見えていた。竜神もまた、何も諦めていないのだと、その温かみある桃色の光に知らされる。
エビルマウンテンの谷底を見つめていたリュカの視界を大きく遮るような幕が唐突に現れた。その身の形を自由に変えられるはぐりんが、凄まじい硬度を持つ身体を極力引き延ばし、まるで空飛ぶ絨毯を思わせる形へと変わる。ひらひらと空気を受けて留まろうとするはぐりんの上にリュカが落ちると、続いてはぐりんはその身にプックルとピエールを受けた。しかし決して飛行できるわけではないはぐりんは、その身に受けた者たちの重みも受け、更に落下速度を増し、エビルマウンテンの谷に向かってひたすら落ちて行く。
「リュカ!!」
同じように落ちていたビアンカを、アンクルの両脇に抱えられているティミーとポピーが母の腕を掴み、引き上げていた。リュカの名を叫んだビアンカの前を、はぐりんの平べったい身体の上に乗るリュカたちは速度を増して落ちて行った。アンクルがもどかしそうにするが、両脇に抱える双子を離すわけにはいかない。しかし必死の形相でリュカたちを見つめるティミーとポピーが、自ら身体をよじり、逃れるようにアンクルの腕からその身を抜け出した。落ちる先に、彼らをも受け止めるはぐりんの銀の幕。重みを増し、落ちる速度は更に増す。その状況を放っておくことなく、アンクルが慌てて下方へと滑空し、下からはぐりんごと仲間たちを支えようとするが、落下は止まらない。
両翼を失い、手足も動かず、己の体内に取り込んだ悪魔神官らの力も得られないミルドラースもまた、リュカたちと同じほどの速さで落下を続ける。その膨張し切った赤黒い腹に現れた二つの真っ赤に染まった目は、憎悪、怨念に塗れた様子でリュカたちを見つめている。大魔王を自称する者もまた、諦めてはいない。大魔王の憎き敵である勇者だけではなく、世界に詫び続けなければならないはずの魔族の王の末裔もまた、ミルドラースにとっては妬み嫉みの対象だ。生まれながらに特別な存在となった者たちは全て憎しみの対象だ。その執念たるや、リュカたちの想像を絶している。
真っ赤に染まる両目をカッと見開くだけで、ミルドラースの赤黒い身体は大火炎の呪文を生み出した。赤黒い巨体の上方に、メラゾーマの大火球がみるみる育ち、リュカたちを赤々と照らす。己の手で倒さねばならないという義務ではなく、己の手で倒さねば気が済まないといったただの我儘に、ミルドラースはメラゾーマの大火球を操り、投げつけてきた。
下で支えるアンクルは呪文を唱える余裕はない。はぐりんの上に乗るポピーがいち早く反応を示し、彼女にしかできないほどの速さで呪文を唱え、応戦する。マヒャドの呪文が放たれ、猛吹雪がメラゾーマの大火球を包み、押さえ込もうとする。メラゾーマとマヒャドの呪文が中空でぶつかりあった瞬間の衝撃が空中に弾け、その勢いではぐりん自身が煽られた。その揺れでリュカが肩膝を着いた瞬間、彼が腰に提げていた聖なる水差しが彼の元を離れ、宙へと飛び出した。
はぐりんの上からも飛び出し、何も受けるもののない宙へと飛び出した聖なる水差しは、もしかしたら自らの意思を持っていたのかも知れない。ただ宙に飛び出しただけの聖なる水差しの注ぎ口から、大量の水が噴き出し始めた。それはあっと言う間に辺り一帯に霧の景色を広げ、大火球も猛吹雪も、ミルドラースもリュカたちも、辺り一帯に存在する者全てを包み込んでしまう。
まるで鏡の中の世界だった。映すのは、とある男の遥か昔の姿。まだ人間だった頃のミルドラースの若かりし頃の姿。少年と言っても良いほど、幼ささえ残る面影だ。漆黒の目。そこにはまだ、光があった。彼には真っ当な志があった。世のため人のためと、人間の暮らすこの世界を、己の優位な立場を用いて働くのだと、まだ純粋に己を信じていた頃。そんな頃もあったのだと、マーサはリュカたちに教えたかったのかも知れないと、唐突に意思を持ったかのように噴き出した聖なる水差しにそう感じさせられる。
だからと言って今、怪物と成り果てたミルドラースに何かを為すことなどできない。しかしただ知るだけで良いのだと、鏡に映される景色は言っているようだった。知ることで、そこに思いを巡らせることができる。ただの大魔王ではなく、その者もまた、ただの一人の人間だったのだと、知ることができる。知ることで、悼むことができる。ただの憎悪に駆られることが無くなる。歪んだ判断から逃れることができる。聖なる水が望むのは、人が駆られる憎悪という感情からの解放なのかも知れない。
メラゾーマの大火球が勢いを増した。ポピーが放っていたマヒャドの猛吹雪がかき消された。同時に、辺りに漂っていた水の気配に映されていた幻影は霧散した。ミルドラース自身もまた、己の過去の姿をその両目に見ていたのだろうか。今となって己の過去の幻影になど用はないと捨て去るように、ミルドラースは生み出したメラゾーマの大火球にのみ意識を向けている。リュカたちへと向かってくる大火球の方向を僅かに逸らすように、ピエールがイオラの爆発をメラゾーマに当てた。が、それも僅かの時を稼いだだけだ。
しかしそれで十分だと、リュカは辺りに散った聖なる水の気配を再び集めるように、バギクロスの呪文を唱えた。もう後はない。己に残る魔力を全て出し切る勢いで、巨大竜巻を操る。巨大竜巻の中に、激しく練り上げられたような雲が発生する。凄まじい摩擦の中に生まれる電気の気配に、プックルの赤毛が反応するように逆立った。
父の起こした竜巻に生じた雷の気を、天空の剣を構えるティミーが余さず拾う。皆の意識が、竜巻の中に生まれる閃光に集中する。誰もが、望むことは一つ。地上の世界も、この魔界も、全ての世界を諦めない。
まるでエビルマウンテンの谷底から魔界の空にまで伸びる柱のような竜巻の中から、ティミーは生み出した。雷は、一瞬しかその姿を見せない。リュカたちにはただ、辺りが地上世界の真昼よりももっと明るい光に包まれたとしか感じられなかった。しかしエビルマウンテンを見上げる魔界の魔物の目にそれは、まるで地上世界から姿を現わした竜神のように映った。
勇者だけでは、世界は救えない。勇者と、共に戦う者たちがいるから、勇者は立ち上がることができる。プックルが雄たけびを上げながら赤毛を逆立てる。ピエールが兜の奥から鋭くミルドラースを見つめる。アンクルははぐりんを必死に両手に持ち上げようと踏ん張る。はぐりんもまた、己の身に乗せる者たちを落とさぬよう支える。ビアンカは残りの魔力を全て預けるように、ティミーの腕を掴んでいる。ポピーもまた同じように、兄ティミーの肩に半ば寄りかかるように手を置き、彼女の残りの魔力を放出する。そしてリュカの起こした大竜巻の中に、ティミーは大雷撃を生み出す。共に戦う者たちの思いは集結し、生み出された竜の姿を模したようなミナデインの雷撃は、首のない大魔王の巨大な赤黒い身体を激しく貫いて行った。
悲鳴を聞いたような気がした。その悲鳴はもしかしたら、ミルドラースの巨体に取り込まれていた悪魔神官らのものだったのかも知れない。彼らもまた、元は人間だったものたちだ。ミルドラースの巨体がぼろぼろと剥がれるように朽ちて行くのと同時に、剥がれた一部一部に宿る悪魔神官の魂もまた、ぼろぼろと形を失っていく。その光景に虚しさと悲しさを覚えるのは、リュカたちが霧の鏡の中にミルドラースの少年だった頃の姿を見たからだろう。初めは誰も悪くない。一体何が、誰が、その者を悪に染めてしまうのか。しかしいくら今になっていくら疑問を抱いたところで、やはり時間を巻き戻すことはできない。
首のないミルドラースは声を上げることもできず、その巨大な赤黒い身体をぼろぼろと壊しながら、ゆっくりとエビルマウンテンの谷へと落ちて行く。その姿をリュカたちもまた、アンクルの支えきれないはぐりんの上に乗りながら見つめる。目の前で散り行くミルドラースの身体が辺りに漂う。赤黒い巨大な身体がみるみる縮んでいく。まるで分厚い衣を剝ぎ、リュカたちよりも小さくなったミルドラースの姿は、とうの昔に命を終えていたはずの、木乃伊のようなものだった。
我が名は ミルドラース
魔界の王にして 王の中の王
そ その……私が……
やぶれる……とは……
それがこの世に最後に残す言葉なのかと、どこまでも傲慢の中に生きたミルドラースの腐り切ってしまった心を覗いたような気がした。魔物としての力も失い、ただの木乃伊と成り果てたミルドラースが落ちて行く様を見つめていると、その者は唐突にその身を小さく丸めた。最期の抵抗だったのだろう。しかしその小さくなった木乃伊を包み込むような霧が一筋、どこからともなく流れてきたかと思うと、ミルドラースという大魔王だった木乃伊は霧の一粒一粒に溶けるように、その身を溶かしてしまった。
大魔王は倒した。しかしリュカたちもまた、この魔界のエビルマウンテンの谷底へと落ちて行く。辺りには、元よりこのエビルマウンテンの中空に漂う岩石の塊がいくつも周りを落ちて行く。地上世界を映していた岩石にはもう、地上世界の景色は見られず、それらはただの変哲もない岩石と姿を変えた。ミルドラースの大魔王としての力は完全に失われた。魔力を失ったものたちはただ、エビルマウンテンの谷底へと落ちて行くばかり。そのような状況においても、リュカたちの顔つきに絶望は漂っていなかった。ただ、助かろうとも思っていなかった。地上世界も、魔界も、全ての世界が救われたのならそれで良いのだと、胸に在る想いはそれだけで、皆の心の中から私心がなくなっていた。
その中においてただ一つ、人情という私心を露にする桃色の光がきらりと光った。人間の姿で長く生き、誰よりも長く生きた“人間”として、誰よりも人間を深く理解していたつもりの神が、ドラゴンの杖を通じて情を向ける。本来、神という立場で恣意的な行動に出ることは望ましくない。しかし世界を救った勇者たちがこのまま魔界の底に朽ち果てることなど、あまりにも可哀そうではないかと、竜神は明確な情を以てその力を僅かに彼らに託した。
漂う岩石の一つに引っかかっていたドラゴンの杖の、桃色の宝玉が温かな光を辺りに滲ませる。それはまだ、リュカたちが落下していく遥か先にある。そしてその光に導かれるように落ちて行くのは、先ほど宙に放たれた聖なる水差しだ。物に、魂は宿る。聖なる水差しに宿る魂は、生前のマーサの魂に違いない。マーサがずっと想い続けていたことは、ただ息子が健やかに生きてくれること、それだけだった。
聖なる水差しの注ぎ口から、水が注がれる。受けるのは、ドラゴンの杖の、光る桃色の宝玉から仄かに溢れる温かな光だ。神の情と、母の情が合わさり、それは虹色の空間を生み出した。リュカたちの目にはただ、魔界の闇の景色の中に生まれた凄まじいほどの光の氾濫にしか映らない。到底目を開けていられる状態ではない。目をきつく閉じ、何が起こったのかも分からないまま、リュカたちは一様に身を固くしていた。ただ互いに離れ離れにならないようにと、リュカたちは一塊になり、彼らに下る運命を受け入れるだけなのだと、静かにその時を待った。
何かを見ているわけではない。しかしリュカだけではなく、誰もが何か温かいものに全身を包まれるような感じを覚えた。落下していく感覚が消えた。身体の重さも感じない。何が起こっているのか、確かめたくとも目を開けることもできない。不安は感じなかった。何せ、身体が温かいのだ。生きているという感覚は確かだった。生きて、これから何が起こるのか、リュカたちはただひたすらその時を待った。天に運を任せる。
ただリュカの瞼の裏に映るのは、亡き父と母の姿。二人が並び、微笑んでいるように見えるのは、己の願望もあるのだろう。親が子に微笑んでいて欲しいと願うのと同時に、子だって親に微笑んでいて欲しいと願う。瞑る目に涙が滲む。瞼の裏に父と母の姿を映しながらも、リュカは隣にいる家族を両腕に固く抱きしめる。温かい。皆、生きている。力を使い果たし、ぐったりとしている妻も子供たちも一緒くたに抱きしめ、リュカは瞼の裏に浮かぶ父と母に心の中で“ありがとう”と、初めて罪の意識を消し、曇りない心でそう告げた。