竜神の祝福

 

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光の中にいるのだろう。本来ならば、目も開けていられないような眩しさの中で、誰もがその真っ白な世界をその目に見ている。
大魔王ミルドラースを倒した。しかし大魔王を倒した彼らもまた、共に魔界の底へと落ちて行く運命と、成り行きに身を任せていたはずだった。助かることに執着する思いはなく、ただ悪しき者が滅び、世界はきっと救われたのだと感じれば、その思いだけで彼らの胸は満たされていた。それ以外の思いを抱えるほどの余裕もなかった。彼らの中に初めて、諦めに似た感覚がその身を包んでいたのかもしれない。
どこから、この白い眩しい世界に足を踏み入れたのかも分からなかった。
プックルの青い瞳は細く開き、真っ白な世界をぼんやりと見つめる。身体の重みをある時から感じなくなった。命が尽きるというのはこのような感覚かと、他人事のように思うが、それ以上のことは特別考えることもできない。ただ彼の脳裏に浮かぶのは、彼がこれまでに出会ってきた様々な者たちの姿だ。その中でも、彼の脳裏の正面に立つのは、木の枝を勇ましい武器のように構えてみせるあどけない黒髪の少年の姿だった。とっくに大人になった彼だが、プックルの目にはいつでも彼はあの時の少年のように見えていた。命懸けの戦いの最中でも、プックルの心の中にはどこか、あの少年と遊んでいる感覚が抜けていなかった。
命尽きればこのまま地獄へと向かうに違いないと、兜の奥から暗い景色を見つめていたら、いつしかそこは光に溢れた世界へと変化していた。見る景色はただただ白く、そこには何もない。何が起こったのかは分からない。が、不安もない。確かなことは、目に見える景色は地獄ではないと言うことだ。主と慕う男の母の、その身を犠牲にした力により、己は再び生の道へと戻された。それ自体が酷い罪だと確信しているのに、どうやら地獄ではないどこかへこの身は運ばれるようだと、ピエールは期待からも不安からも解放されたような心地に至っていた。己が身ではなく、ただ己以外の者たちが無事であることだけを祈るように、その目を閉じる。
このまま魔界と言う世界に落ちるのも一つの生き方だろうかと、アンクルはその脳裏にジャハンナの町に生きるアンクルホーンのネロを思い浮かべていた。同時に、まだ生き続けることができるのだと信じている己の心に驚く。飛ぶ力も失い、ただ魔界の山の谷底へと落ちて行くだけの身に、その命が続くと思うのは、いかにも異常だ。しかしいつ死んでもおかしくはなかったこれまでの道のりを経て、その末に大魔王などというものを倒したとなれば、かえって欲が出てくるのもまるで可笑しな話ではないのかも知れない。己の身に何が起こっているのかも分からない。ただただ眩しい白い世界に閉じ込められたようで、何も考えられないまま、恐らくどこかに辿り着くだろうと脱力したアンクルは、力を振り絞って翼を動かそうともしない。
双子の瞳は、眩い光に照らされ、輝いていた。身体を広げたはぐりんの上に立っていたはずだが、二人は今ただ宙に揺蕩うように、その身は完全に白い光に包まれていた。勇者として生まれ、その役目を果たしたティミー、勇者として生まれていたかも知れなかった、そして勇者の力となったポピー。勇者の力とは、一体どのようなものだったのかなど、勇者本人がよく分からないままだった。勇者と生まれたからには、勇者であろうと努めたつもりだった。まだ子供だと言われても、生まれたからには生きなければならないのだと、彼らを包むその環境にそう思えた。
父も母も、いなかった。しかし、父と母を知るグランバニアの国が、彼らを育んだ。父と母の話を寂しくも温かく語る彼らに影響されたことは間違いない。ティミーもポピーも父と母を語る者たちから寂しさを取り除きたいと感じた。同時に、彼らは父母に会いたいと思う純粋な心を基に、勇者として立ち上がるよりも先ず、父と母を追い求め始めたのだ。
父にも母にも会うことができた。それ自体が、非常に幸運なことだと、世界を見てきた兄妹は感じた。そして父と母が隣にいるという、生まれて初めての温かな環境が土台となり、双子は初めて“勇者”という己の使命だけに向き合うことができるようになった。それだけまだ、彼らは子供だった。
今、勇者としての使命も果たした。大魔王を倒した。悪しき者を滅ぼすためにこの世に生を受けた双子は、大魔王を倒したこれから、何のために生きていくのか。そのことに二人とも思いが至らない。しかし子供らしい思いは彼らの胸の中に在る。ただ、ささやかにでも父と母と、多くの温かな者たちと暮らして行けたらと、エビルマウンテンの谷へと落ちる身でありながらもそう願いつつ、双子の身体はまるで生まれる前は一つであったことを物語るように、大きな白い一つの光に包まれている。
身体が軽い。周りは真っ白。目の前には、ひと際明るい大きな光の塊が揺蕩う。彼女の両手は迷わずその光へと伸び、到底両腕に包み込める大きさではないにも関わらず、その光を抱えようとする。温かい。光ゆえに温かいのか、光に内包されている何かが温かいのか。彼女はそのどちらもだと思いつつ、己の身体の重さも感じない世界の中で決してこの光を離さないのだというように、抱きしめる。
ビアンカの両腕に包まれる光は、落ち着いたようにそれまでの強い光を控え、母と同じほどの明るい光に落ち着いた。互いに溶け合うようにその光は混じり合い、二度と離れ離れになどならないのだと、互いの結びつきは強まるばかりだ。かつては、自分を包んでくれた母の手があった。そして今は、己が母として子たちを包む。ずっと昔から続いている、不変で普遍の人の在り方なのだろう。その中に紛れもなく、自分もいるのだと感じる。
もう一人、この手に包まなければならない人がいると、彼女は水色の目をキョロキョロとさせ、視線を巡らす。大人になったとは言え、母を喪ったばかりの彼もまた、この手が必要に違いないと、ビアンカは彼の妻として夫の姿を探す。
このままどこへ行くのかなど分からない。しかし手放してはいけない。どこへ行くにしても共に在らねばならないのだと、ビアンカは見つけた。今にも消えてしまいそうな弱々しい光だ。折角大魔王を倒したって言うのに、弱気になってるんじゃないわよと、彼女の手は優しく、逞しく、夫に差し伸べられる。
大魔王の遺した言葉が、胸に閊える。エルヘブンの村の知られざる歴史、宿命。それらは母マーサを経て、息子のリュカへと受け継がれていた。魔族の王の末裔、そのような話を誰からも聞いたことなどなかった。しかし敵からその言葉を受けた時に、それまで何とも知れずに胸の中で淀んでいた曇りがすっと晴れたような気になった。息子が勇者に生まれたこと、しかし妻が勇者に生まれなかったこと、特別考えたこともなかったことが彼の胸の中では常に疑問として在ったのだろう。
魔族の王の末裔と勇者の子孫、敵対していたに違いない二つの血筋が、今は時を経てまるで手を取り合うような形になったのは、あのマスタードラゴンの夢見ていた世界なのかも知れない。リュカは今もまだ、あの竜神が世界を統べているなどとは思っていない。しかし世界の多くの人々があの竜神を神と崇めているのなら、それはきっと人々の神であることに間違いはないのだろう。神は、神が神としてあるのではなく、人々に神と思われることで神という存在になるのではないかと、リュカは今になってそのようなことをおぼろげに考えるようになった。
大魔王と自らを名乗っていたミルドラースを倒し、この後、世界にはいったい何が必要なのだろう。魔族の王の末裔などと知らされた己の存在は果たして、この後の世界に必要なものだろうかと考えると、決して必要とはされないと思う。見える景色は真っ白。今リュカはエビルマウンテンの谷へと落ちている最中のはずだ。地上世界へ再び戻ることを考えること自体が夢みたいなもので、尚且つリュカは己の身に帯びる血筋のために、このままエビルマウンテンの谷底へと落ちることを望む思いすら、胸の内に潜ませる。
周りを包む白い景色がふっと、一瞬輝くような白さを見せた。あまりのまぶしさに目をつむったリュカの瞼の裏に、暗い景色が映った。このエビルマウンテンの山々をまるで俯瞰して見るようなその景色に、リュカは見入る。
相変わらず魔界の山には多くの魔物たちがうろつく。その中に一体、ひと際大きな体躯を見せる巨人が、はっきりとリュカをその大きな一つ目で見上げていた。ギーガの近くには、彼もまた巨人であるはずのゴレムスが、マーサの想いを永遠に受け継ぐというように、上に向けた手の平から青白い清らかな光を絶やしていない。動かなくなったゴレムスだが、それ故に、彼の中に残る主の想いは不滅となった。彼らは共に、この魔界という魔物の世界を守るのだと言っているようだった。
直後、リュカの瞼の裏には続けて四体の黄金竜の姿が映りこんだ。その内の一頭の頭の角には、濃紫色の布がゆるくなびいている。シーザー、ドラゴ、トリシー、グレイトの黄金竜の家族もまた、揃ってリュカを見つめていた。彼らもまた、魔界に暮らす魔物だ。シーザーの目はどこか寂しげだった。シーザーにドラゴが寄り添う。子でありながらも体の大きなトリシーとグレイトは、息を合わせたように大口を開けて吠えたようだが、リュカにその声は聞こえなかった。
続けて瞼の裏に移る景色は、魔界で唯一存在する人間の町ジャハンナを俯瞰するようなものだった。町を囲む水路に、清らかな水が流れている。エビルマウンテンの山頂に立つゴレムスはマーサの灯りを守り、ジャハンナの町を流れる清らかな水の流れもまた、守られた。水車の傍にはアンクルホーンのネロが飛び、やはりリュカを見上げるような目を向けていた。暗い魔界の景色の中でも、赤く光る一つ目を見つけられないわけがないと、同じようにリュカを見つめるロビンの目にも出会った。ロビンのボウガンがまた壊れていた。しかしそんなことは何でもないというように、ロビンは茫然とした様子でリュカを見上げていた。
目を開ける。瞼の裏の景色は消え、代わりに目の前に現れたのは、ドラゴンの杖。その杖頭にかたどられる竜が、正面からリュカを見つめている。眩しいはずの真っ白な世界の中で、リュカはドラゴンの杖を目の前に認め、それに向かって手を伸ばした。伸ばす己の手は、人間のそれではなく、鋭い爪を剥き出しにした、硬い鱗に包まれた竜の手だった。見間違いかと目を瞬けば、今度はいつも通りの己の手に戻っていた。指に光るのは、母マーサから譲り受けた命のリングだ。これほどの白く眩しい光の景色の中にあっても尚、命のリングはそれ以上に輝く。この世の中に命以上に尊いものなどないのだといわんばかりに輝くリングに、ふとリュカの目から涙が零れた。
この後の世に、自身が必要かどうかなど考える必要はないのだと、命のリングはリュカにその輝きを見せる。息子であるリュカにただ生きていてほしいと願う母の想いが、光に現れている。その光に、リュカは純粋にただ生きたいとだけ感じる。誰かのために生きるという思いを超えて、自分がただ生きたいと感じるだけだ。それこそが、親が子に願う思いそのもの。親は何も考えなくとも子に思う。元気に暮らしていてくれたらそれでよいと。その願いを受けるということは、結局子は自身を大切にしなければならないということなのだ。
リュカを包む光が一層強まる。白い光の向こう側から誰かの手が伸びてきた。その手は一体誰の手かなどと考えることもなく、リュカは躊躇なくその手を掴んだ。母マーサの手であるとは思わなかった。母ならばきっと、今のリュカに手を差し伸べることはないだろう。彼はまだ生きたいと願ったのだ。その彼に救いの手を差し伸べるのは、彼が生涯の伴侶として選んだ彼女に違いなかった。
互いに姿は見えない。しかししっかりと掴んだ手の感触をそのままに、彼らを包む光は究極にまで強まった。掴んでいる手も見えない。何も見えずに、目の前は白一色に染まる。しかし手を掴んでいる感触だけは確かなまま、リュカは地獄の谷の底を強く蹴るようにして、上へ上へと飛び上がっていった。
そんな彼らを、地獄の谷へと落ち行く竜神を模した杖と、杖の周りをくるくると飛ぶ聖なる水差しが、光と水を放ちながら大事な者たちを押し上げていく。



床に両足を付いている感覚が、唐突にリュカの体に蘇った。まばゆい光の景色から徐々に解放されると、彼の視界には見覚えのある景色が映った。どこまでも神々しい、神の城。目の前には、あまりにも巨大な玉座が置かれている。竜神のために作られたその巨大な玉座を目にすれば、あのエビルマウンテンの奥深くに置かれていた大魔王のための玉座が陳腐なものにすら思えた。勇者にもなりたかった、神にもなりたかった、そして大魔王を自称するようになってしまったあの者が行き着いた先には、ただ禍禍しいだけの見た目の玉座を用意することしかできなかったのだろう。
目の前の巨大な玉座に在るマスタードラゴンが、ゆったりとした雰囲気を纏いながら、正面に立つリュカを見つめている。琥珀色の竜の目は、いつになく多くの水気を含んでいるようにも見えた。隣に感じる温かな雰囲気に、妻ビアンカが寄り添ってくれているのを感じる。
初め、視界に入らなかったのは彼らが跪いていたからだった。リュカと竜神との間に、ティミーとポピーが並んで座っていた。彼らが戦いの疲労を感じていたからなのか、それとも竜神の前において跪くのが勇者たる者のすべき所作だからなのか、そのどちらでもないのか、それは分からないが二人は揃って座っていた。我が子二人が静かに竜神に向かって跪いている後姿に、リュカは改めて成長したティミーとポピーの姿を目にしたような気がした。ビアンカを支えるように、プックルが赤い尾をふらふらさせながら彼女の横に座っている。リュカの視界に映らずとも、彼の後ろ少し離れたところに、まるで気配を消すかのように静かに立つピエール、自身は別に勇者でも何でもないからと距離を取るように立つアンクル、いつでもどこか見えないところに潜むのを常とするはぐりんの気配も感じる。皆が揃って、この地上世界、この天空城へと戻ってきたのだと思うが、それもまだ夢なのかもしれないとリュカは目を瞬き、そして竜神を見つめた。
「わが名は マスタードラゴン 世界のすべてを 統治するものなり」
低い声のはずだが、それは決して地獄の底から轟く大魔王の声などではなく、天の上から降り注ぐ光のごとき神の声だった。竜神の低い声には、全てのものを上から抑圧し、閉じ込め、支配するといったような音は感じられない。どこまでも広がりを見せるようなその声に、全てのものを包み込もうとする柔らかさすら見せている。それは竜神が初めの初めから持ち得ている雰囲気なのかも知れないが、リュカにはそう思えなかった。竜神の慈しみある低い声には、どこか人間味を感じる。
「伝説の勇者ティミーと その父リュカ そしてその一族の者たちよ」
マスタードラゴンの琥珀色の目が正面に跪く勇者ティミー、その隣に同じように跪く妹ポピー、そして再びリュカを見つめ、隣に寄り添い立つ勇者の子孫であるビアンカを見つめる。床に立ってはいるものの、まだ足元の感覚がおぼつかない。竜神は果たしてこの景色を予期していたのだろうかという思いがふとリュカの胸に浮かぶ。
「そなたらのはたらきで 世界に再び平和がおとずれた」
いかにも竜神らしい言葉を竜神の姿で述べるマスタードラゴンの堂々とした姿に、リュカは、これは夢なのではないだろうかと疑ってしまう。エビルマウンテンの奥深く、大魔王ミルドラースとの死闘を経て尚、どうしてこの天空上へとたどり着いたのか、どうしてこうして己の両足で立っていられるのだろうか。不可思議なことがあまりにも多く、これらはすべてが夢なのだと思えば、何も不都合なことがなくなることに、リュカは一瞬目の前が暗くなったような気がした。
マスタードラゴンの前に跪いていたティミーとポピーが、息を合わせたように同時にその場に立ち上がった。二人はどうやら竜神の前に宿命を負わされた勇者として跪いていたわけではなかったようだ。力を使い果たし、体中から力が抜けていた二人はその場に立つこともできず、ただしゃがみ込んでいただけだった。しかし、真正面の巨大な玉座に在るマスタードラゴンがゆったりと低い声で話しかけている姿を見ているうちに、彼らの体の中には再び気力が沸き上がってきたのだ。それはやはり宿命を帯びた勇者としての精神が影響してのことなのかも知れない。悪しき大魔王を倒し、勇者としての宿命を終えても、まだ幼い彼らの人生はこれからも長く続く。そしてこれからも彼らは“勇者”と“勇者の妹”として変わらず生き続ける。
「心から礼を言うぞ」
マスタードラゴンの言葉に返事をするでもなく、ティミーもポピーもただ静かに竜神の言葉を聞いている。世界を統べる竜神が直々に宿命を負わせた勇者に礼を述べるその姿には、礼を述べる以上の何かを感じた。竜神の懺悔や反省のようなものを、リュカは勝手に感じていた。これほど幼い子供に勇者の宿命を負わせたのだ。竜神から懺悔も反省もあって良いと思うのは、親心として仕方のないことだろう。
そのようなリュカの心に反応するように、竜神は二人の勇者から視線を外し、彼らの後ろに控えるように立つリュカへと琥珀色の目を向けてきた。リュカは何故か、初めからこの竜神を恐れることも崇めることもなかった。寧ろ、初めからこの竜神が少なからず憎らしいと思った。もしかしたらそれは己が魔族の王の末裔だなどという生まれであるためだろうかと、今はそんなことも頭を過るが、そもそも自身がそのような生まれであるかどうかも定かではない。たとえそのことについてリュカが竜神に問い、竜神がその答えを持っていたとしても、この神は答えないに違いない。たとえ答えたとしても、それをリュカが素直に受け入れることもない。いずれにせよ、この場で何かがはっきりとしたところで、何にもならない。もう、悪しき大魔王は倒したのだ。それでよいではないかと、リュカを見つめるマスタードラゴンの琥珀色の瞳がそう言っている。
「……と、堅苦しい話はなしにしよう」
相変わらず低い声だが、途端にその声に人間らしさが漂い始める。それだけで、この天空城の玉座の間の空気が一気に和らいだのが誰にも感じられた。ティミーが口を開け、白い歯を見せ、思わずの笑みを見せる。ポピーの表情は僅かに困惑を見せながらも、やはり口元には笑みを浮かべる。和らいだ空気に甘えるように、プックルが大口を開けて欠伸をした。ピエールの緑スライムが緊張から解き放たれたように、柔さを見せ、天空城の床への接地面積を広げる。アンクルが知らず浅くなっていた呼吸を深めるように、一度深呼吸をした。
ビアンカが横でリュカを見上げる。リュカもビアンカを見つめ返す。彼女の水色の瞳は、天空城に満ちる光を受け、きらきらと輝いていた。それは子供のころから変わらない、好奇心に満ちた目だった。
悪しき者は確かに滅びた。前に立つ二人の勇者が中心となって、皆の力で倒した。世界には再び平和が訪れたと、この世界を統べる竜神自らそう告げた。じわじわと現実に対する実感が体から湧き上がってくる。しかしまだ、リュカにはこのあまりにも理想的な景色が現実のものとは受け入れられない。これは自分が最期に見ている夢なのではないだろうかと、目の前のビアンカの美しい水色の瞳を見つめるが、リュカには決して景色が見えているだけではない。自分の手を握っている彼女の手が、とても温かかった。
「私も長く人間をやったせいか、こういう言葉遣いは疲れてしまうのだよ」
「マスタードラゴン様!」
「わっはっはっはっ。まあ、よいではないか」
竜神の姿のマスタードラゴンが笑うと、その口からは意図せず炎が上がってしまうことを、以前にヘンリーと注意したことがあった。今もまた、竜神は己の姿を忘れたように笑うものだから、危うく目の前に立つティミーとポピーがその炎を浴びそうになった。咄嗟にポピーがヒャダルコの呪文を唱え、炎をかき消したから良かったものの、二人が炎を浴びるようなことがあればリュカは構わず竜神にでさえも攻撃を仕掛けようかと構えてしまっていた。しかし腰に父の剣は帯びているものの、今まで手にしていたはずのドラゴンの杖がなかった。大魔王を倒したことが現実だとするならば、ドラゴンの杖はエビルマウンテンの谷底へと落ちてしまったのかも知れないと、また一歩、見える景色が現実に近づいた。
「さて、リュカよ」
マスタードラゴンが玉座に座しながら、ゆったりとリュカに呼びかける。その琥珀色の瞳には、まるで今しがた見たビアンカのような好奇心に似た雰囲気が表れている。仮にも神と呼ばれる竜がその胸に好奇心を抱くようなことがあってよいのだろうかと思わず眉をひそめるが、思い出せばこの竜神は長年人間の世界に人間の姿で入り込んでいたのだった。たった今自らも、長く人間をやったせいで神らしい言葉遣いも疲れるなどと言ってしまうほどに、どうやら人間に近づいてしまっているらしい。リュカは魔界のジャハンナという町で、魔物から人間へと姿を変えた者たちがいたのを見てきている。万が一にでも、この竜神が“人間になりたい”などと言って、完全に人間に姿を変えてしまうことがあるのかも知れないと思うと、それを強く否定できないのがリュカのプサンに対する印象だった。
「地上では懐かしい人々がそなたらの帰りを待っていることだろう」
竜神の声は優しくやわらかなものだった。言葉の内容も相まって、竜神が地上世界に生きる者たちを慈しんでいるのが感じられる。いかにも神らしい威厳ある言葉と音を以てリュカたちに話しかけてはいるが、やはりどこかこの神には落ち度があるように思え、リュカは訝し気な表情を隠さない。しかし今のこの場所で、竜神に対してそのような不遜とも言える表情を示しているのは、どうやらリュカだけだった。大魔王を死闘の末に倒した後とあっては、家族も仲間も、素直に純粋にこの竜神の神たる言葉を正面から受け止めているようだ。その雰囲気に、リュカはこれはもしかして己が魔族の王の末裔たる証なのかもしれないなどと、無理にこの状況に理由をつけようとした。
「私がそなたらを送り届けてやろう」
「ホントl!?」
何の迷いもなく竜神にそう問うのは、勇者ティミーだ。彼は勇者である前に一人の子供として、純粋に竜神に期待し、尚且つ甘えた様子すら見せる。リュカはその後姿を見ている。後姿を見ているだけで、ティミーの表情が明るいのが分かる。息子は純粋に再び竜神の背に乗れることを楽しみにしている。竜神の背に乗って地上世界に戻れることを楽しみにしているのがありありと感じられる。そして彼が率先して明るい空気を生み出せば、それは親であるリュカにも波及し、思わずその表情は綻ぶ。子供が楽しそうにしている。それだけで親が嬉しく思うというのは、世に生きる親子の間には多く存在する関係に違いない。
「久しぶりに人間界も見てみたいしな。では一足先に外で待っておるぞ」
言葉だけはどうにか神としての威厳を保とうとしているものの、その行動はおおよそ神としての落ち着きは失われているように見えた。マスタードラゴンは座していた巨大な玉座の前に立ち上がると、一度大きく両翼を広げ、加減なく羽ばたいた。その勢いに巻き込まれるように、玉座の両脇に立つお付きの天空人二人がたまらず吹き飛ばされてしまった。天空人らもまた背に白い翼をはばたき、中空にどうにかとどまったが、これがリュカたちならば天空城の玉座の間の壁にたたきつけられていたかも知れない。竜神のその行動に、リュカはまたしても訝し気な顔つきを見せる。
しかしリュカのその表情を知ってか知らずか、マスタードラゴンは構わずリュカたちに背を向け、玉座の間の後方開けた大窓から、大きく羽ばたき飛んで行ってしまった。まるで神の自覚がないような落ち着きない行動に、リュカ以外の者たちは揃って唖然とした様子を見せている。
目の前から竜神が飛び立ち、ぽかんと口を開けていたティミーとポピーが、互いに目を見合わせた後に、後ろを振り返った。どこにも不安な様子はない。しかしこの状況は一体何なのだと問うようなその目に、リュカは困ったように笑う。
「あの……お父さん。わたしたち、勝ったのよね?」
ポピーもリュカと同様、今この時を現実のものとは感じていない節があったようだ。それもそのはず、リュカたちは先ほどまで魔界の奥深く、エビルマウンテンという大魔王の居城の中にいたのだ。ミルドラースを倒したという意識は確かに、一同の中に共通してあるものだった。しかしその後彼らは揃ってエビルマウンテンの谷底へと落ちて行っていたはずだった。それが気づけば、地上世界の天空城にまで彼らの体は浮上していた。その状況にあって一体何が信じられるのだろうかと、ポピーがそのような言葉を口にするのは当然のことと言えた。
「世界は平和になったのよね?」
「平和になったかどうか……見に行ってみようか」
リュカ自身もまた、平和になったとは応えられない。彼自身、まだその世界を目にしていない。子供の前で噓をつくことはできないが、不安を与えることも違うだろうと、そう答えた。
「さあ、行きましょ。グランバニアのみんなが頼れる王様を待ってるわよ」
リュカの言葉を後押しするビアンカは、既に世界が平和になったことを信じている。その信じている彼女の強い思いが先に立ち、リュカもまた世界が平和になったのだと思うことができる。彼女はいつでも、リュカを引き上げてくれる。エビルマウンテンの谷底からこの天空城へと、不可思議な力で移る際にもきっと手を引いてくれたのだろうと、リュカはおぼろげに脳裏に残る白い世界にそう思える。
「プサンさんってドラゴンの姿の時は見ちがえるほどりっぱだよね!」
再び玉座に振り返り、既にそこから飛び立っていってしまったマスタードラゴンの姿を思い出しながら、ティミーは明るい声でそう言った。大魔王を倒した今、彼は勇者としての使命を終えた。これから彼は平和な世界で、世界を救う勇者ではない一人の人間として生きることになる。しかしそれを知ってか知らずか、彼は変わらない少年らしさを生き生きと見せる。勇者として生まれ、勇者として生きてきたティミーは、大魔王を倒したのちもずっと、“勇者”として生きるのだろうと、リュカは我が息子を笑顔で見守る。
ティミーはこれから、世界を救った勇者として生きる。彼にはそれが似合うと、世界を救ってしまった後でようやくリュカは息子を心から勇者として認めることができた気がした。
「人間の時ももうちょっとしっかりしてるとかっこいいのになあ」
ティミーがそう言いながら思い出す竜神の姿は、かつて洞窟の中で延々と回り続けるトロッコに乗っていたあの情けない中年男性の姿に違いなかった。初めに遭遇した時から、竜神は本来とは異なる意味でぶっ飛んでいた。人間の姿をしながら、壁に激突したトロッコからどこか平然と立ち上がり、何十年もトロッコに乗せられたままで参ったと、訳のわからないことを口にしていた時点で、普通の人間であるはずがないと誰もがその存在を訝しんでいた。しかしどうやら竜神が憧れた人間の姿というのは、あのようなものだったのだろうと思うと、それはそう間違ったものでもないのかもしれないと、平和が訪れた世界でならそう思う心のゆとりも生まれる。
「世界が平和になったとたん、これだものな……。いやはや、マスタードラゴン様は何を考えているのやら……」
先ほど主である竜神のはばたきで吹き飛ばされてしまったお付きの天空人が、いかにも困り顔を見せながらそう呟く。竜神のお付きである彼だが、主である竜神の勝手気ままな行動を止めるようなことはできないらしく、ただ小さな溜息をついて変わらず玉座の横に立っている。主の自由な行動に振り回される彼に内心同情するリュカだが、リュカ自身にも思い当たる節もあり、彼はこっそり複雑な表情を示した。そういえば自身もまた、さまざま勝手な行動をして仲間たちに迷惑をかけてきたのかも知れない。
「まさかプサンとかいう人間に戻ってしまうおつもりではないだろうな……」
もう一人の天空人がそう言うのが聞こえると、ティミーは驚いたように声を上げた。
「ええっ、まさか……。それはない……よね? お父さん」
ティミーにはせっかくあのかっこいい竜神の姿があるのに、何故またあの中年男性に戻ることなどあるだろうかと、お付きの天空人が零す言葉が信じられないようだった。しかし結局自信もなさそうにそう父に問いかける彼は同時に、あの竜神ならばそれもありうる話だと心のどこかで思っているに違いない。
「さあ……どうだろうね」
リュカとしてはこう答えるほかなかった。リュカ自身、天空人の言葉は十分に起こりうる現実を表していると思えたからだ。つい先ほどまで目の前で堂々たる竜神の姿を見せていたにも関わらず、リュカの思い浮かべる竜神の姿はすんなりとあのプサンという中年男性に置き換わってしまう。それほどに、あのプサンという男の姿は自然なのだ。そしてこの世界に平和が訪れたとなれば、それをよいことにあの竜神は平気で人間の世界に再び身を置きかねないと思ってしまう。
「がうがうっ」
ビアンカが身に着ける水の羽衣の裾に頭を擦り付け、プックルが促す。竜神が飛び立った玉座の間の大窓へと向かおうとするプックルに、ピエールが冷静に一言口にする。
「あの、我々は一体どうやってここへ?」
誰もが思っていたことを、ピエールが初めて言葉にした。そもそもエビルマウンテンという魔界の奥深くからどうやってこの天空城へと移ってきたのか、誰も分からないままだ。その様子のままにリュカたちが一様に竜神お付きの天空人へと目を向ければ、彼らも困ったように横に首を振る。
「我々もよくわからないのです。しかし気づいたら、マスタードラゴン様の前に貴方がたがいらしていました」
「その瞬間は何も見えないほどの眩い光が溢れ、我々も何も目にしてはいません。恐らく……神のご加護があったのでしょう、としか……」
天空人は決してふざけるでもなく噓をつくでもなく、本心からそう言っているだけだった。マスタードラゴンが突拍子もない行動を起こすことに常に不安を感じながらも、一方で当然のように竜神として崇めている。いかにも胸を躍らせながら見える大窓から飛び立った竜神の姿を目にしても、それが彼らにとっては紛れもない神なのだ。
「あの神さんに聞いても何も分からねぇんじゃねえの? とにかくオレたちは助かったってことで、いいだろうよ」
ピエールも現実的な思考を持つ仲間だが、同じくアンクルもまた異なる視点で現実的な思考を見せる。ピエールの言うことにも頷けるし、アンクルの言うことに否定する気もない。そしてもし竜神がリュカたちをどのように助けたかを話せるとしても、あの竜神は話さないのではないかとも思う。それこそ、竜神自らが神の御業という言葉くらいに片づけてしまいそうだとリュカは思ってしまう。
「僕たちが聞いても……分からないことなのかもね」
「分からないっていうのも、なんか、カッコイイよね! いかにもカミサマっぽい!」
そのような素直な感想が何の含みもなく言えるのが勇者ティミーだとリュカは思う。そして彼の根っからの明るさは、勇者という立場も相まって、半ば強引に物事を動かす力を持っている。それこそ神がかりの力を以てして、彼は誰をも導いてしまうのだろう。
「ね、ねえ、でも私たちもそこから飛び降りなきゃいけないのかな? そんなこと……できそうもないんだけどな……」
プックルが歩き出し、それにティミーも迷わずついていく先には、マスタードラゴンがつい先ほど飛び立った天空城の大窓がある。その先にはどこまでも広がるような青い空があるだけだ。ポピーは竜神の広い背がそこにあったとしても、到底この場から飛び降りる気にはなれず、両足を震わせている。
「あ、いえ、マスタードラゴン様は恐らく城の入り口にてお待ちになっているかと」
「貴方がたがそこから飛び降りてしまっては、地上まで真っ逆さまに落ちてしまいます」
二人の天空人がそう案内するのを聞いて、先を歩いていたプックルとティミーがぴたりと足を止め、振り向いた。彼らは魔界の奥深くでの死闘の状況をまだその身に引きずっていた。彼らは足場を失い、エビルマウンテンの谷底へと落ちていくはずだったがどういうわけか助かり、今は地上世界のこの天空城まで戻ることができた。ある意味で、奇跡という現象に心も体も慣れてしまっていたのかも知れない。
「……早く言えよ。あっぶねえなぁ」
「………………うう、良かった………………」
半目になって天空人を睨むアンクルがいる一方で、ポピーは心底ほっとしたように涙目になりながら胸をなでおろしていた。まさか竜神と同様に大窓の向こう側へと飛び降りるとも思っていなかった天空人は、アンクルに睨まれることに困惑した様子で首をかしげていた。
この天空城という環境もまた、リュカたちの人間としての感覚を鈍らせているのかも知れない。しかし彼らの感覚もまた、地上世界に戻ればあっという間に元に戻り、順応するに違いない。何せ魔界という初めて足を踏み入れた環境でも、彼らは慣れ、生き抜いてきたのだ。まだ眩しく感じる地上世界のこの光にも、だいぶ目が慣れてきたのもその証拠だ。
リュカたちが天空城の玉座の間を後にしようと扉を開くと、その向こう側からこの城に住む天空人たちの声が聞こえてきた。明るいおしゃべりのような人々の声を聞いたのは、あの魔界の町ジャハンナ以来のことだ。明るい世界に戻ってきたのだという感覚が、リュカたちの胸に徐々に広がっていく。聞こえる声は明るい。その声を発する人々にただ会いたいと感じたリュカたちは、再びティミーを先頭にして急ぎ足で声のする方へと向かっていった。



「うわ~、きれいな空! 今の私たちの気分のようね!」
両手を広げ、真っ青な空しか見えないというように上を見上げるビアンカは、そのまま彼女の背にも白い翼を生やして飛んで行ってしまいそうにリュカには見えた。彼女には空も翼もよく似合うと思うのは、彼女が天空の勇者の血筋に有るからなのだろうか。しかしたとえそうだとしても、それは彼女の一つの個性に過ぎない。彼女という人物を作り上げたのは、あくまでも彼女の周りの環境であり、彼女が出会った人々であり、彼女を育てた両親であることには違いない。
その天空城の周りを、大きく弧を描いてマスタードラゴンが飛んでいる。玉座の間を出てきたリュカたちを見下ろしながら、まるで地上世界を統べる神としての喜びを表すように、宙返りをして見せた。大きな竜神の姿では、この巨大な天空城のなかでも窮屈なのだろう。神の喜びを全身で表すには、何も遮るもののないこの大空が必要なのだと、まるで子供のようにはしゃぐ竜神を見上げながらリュカはそう感じる。
そしてリュカたちに声が聞こえていた天空人たちもまた、外に出て喜びを露わにしていた。背に生やす白い翼ではばたき、竜神と同じようにそこらを飛び回っている。その中には、この天空城を住まいとする妖精の姿も混じっていた。
妖精はリュカたちが玉座の間から姿を現すなり、喜びの表情のままふわりと降りてきた。大人のリュカからすれば、まだ子供のような小さな身体の妖精に、合わせるようにリュカは少し身をかがめる。
「私の友だちのベラがあなたたちによろしくって言ってたわよ」
「ベラ……! ベラに会ったの?」
相手の身体の大きさが子供のようであるために、凡そリュカなどよりもずっと年齢が上の妖精にたいしてもどうしても親し気な口調になってしまう。妖精は妖精で、どこからどう見ても大人の人間であるリュカに対して、どこか子供に話しかけるような態度で言葉を返す。
「私たち、たまに会うのよ」
「どこで会ったの?」
「あれはどこだったかしら……何だかゴーレムがたくさんいたようだったけど。多分その辺りだったと思うわ」
妖精という存在は不思議なもので、人間の世界ではその姿を消していることが多く、人は妖精を目にすることができない。しかし純粋な心を持つ子供は例外で、リュカも子供のころには妖精のベラの姿をその目にしたことがあった。それ故に、妖精が人間の世界に紛れ込んでいること自体は特別不思議なことではない。
そもそも人間の住む世界と妖精の住む世界は隔てられているはずだ。リュカたちは旅の中で妖精の村へと続く森を歩いたことも、妖精の女王が住む城にも訪れたことがある。思い出してみれば、人間の世界から妖精の世界へと、地続きのところを歩いて入り込んだわけではなかった。まさしく今、魔界の奥深くから突然に地上の世界へとその身を移されたごとく、世界の境目をリュカたちは目にしていない。言葉などでは何も説明できないことというのは、こうしてあちこちにちりばめられているのかも知れないと、リュカは自身の経験にそう思う。
「妖精の村のみんなにもいつか報告に行かなくちゃね! お父さん!」
「わたし、またあの村に行ってみたいなぁ……」
まだ子供であるティミーとポピーはまだ、もしかしたら地上世界の森や水辺にいるような妖精をその目に捉えることもあるのだろう。彼らがまだ幼いうちに再びあの不思議な妖精の村を訪れることができたらと、リュカも笑顔で子供たちに頷いた。
妖精たちは世界の平和を喜ぶように、妖精の薄い羽根をパタパタとせわしなく動かしながら舞い上がると、円になって手を取り合い、踊り始めた。彼女たちが歌う歌は春を思わせるようで、今にもそこここに花の香りが漂ってきそうな温かさを感じる。
リュカたちの周りを天空人たちが取り囲む。世界を救った勇者とその一族、魔物の仲間も一緒になって、握手やら抱きしめあうやらで、歓迎の程度が思いのほか激しかった。それほどに天空人たちもこの地上世界の平穏を強く願っていたということに他ならない。
「ありがとうございました。あなた方のことはここで永遠に語り継がれていくでしょう」
そのように言う天空人の女性もいた。その言葉には一つも嘘偽りはないのだろう。現実に、リュカたちもまた過去の世界を救った伝説の勇者の話を今に聞いている。勇者の伝説は特に砂漠の国テルパドールに色濃く残り、その女王がかつての伝説の勇者と共に旅をした仲間のその子孫として今も勇者伝説を伝えている。テルパドールという国は、伝説の勇者と共に世界を救った者の子孫が国の女王であることに誇りを持っている。
そしてこれから先、伝説の勇者ティミーがこの世界の新たな伝説として語り継がれていくことになるのだろう。その遥か先の世界をリュカたちが生きることはないが、リュカたちの子孫がまたその世界を生きることになる。未来にあるその世界が再び悪しき者の手に脅かされないことを、リュカたちは願うだけだ。
「永遠に……か」
天空人たちに囲まれる中で、リュカの隣に立つビアンカが小さく呟いた。リュカは少し身をかがめて彼女の声を聞こうと、耳を寄せた。
「私ね、なんだったらもう一度石になってもいいかな……って思うの」
その言葉にリュカはぎょっとして、一度離れて妻をまじまじと見つめた。ビアンカは真剣な顔つきで、リュカの漆黒の瞳を食い入るように見つめ返している。彼女はふざけているのではなく、至って真面目な様子を見せている。それ故に尚更リュカは戸惑う。
「ただしリュカが永遠にそばにいてくれるっていう条件つきよ」
彼女はただ、夫への深い愛を言葉にしていただけだった。石になってもいいという言葉には、彼女の真実もあり、彼女の冗談もあった。もう二度と、決してあってはならない状況に準えて表現するほどに、彼女の夫リュカへの愛は深いのだと、彼女自身が己の本心に深く気づくこともなくそう口にしたのだった。
冗談交じりにでも照れたような顔つきを見せるビアンカを見て、リュカは嬉しそうに笑みを見せながら、彼女の頬を指で撫でた。一体いつから、どれだけ、彼女という存在に人生を支えてきてもらったのかという感謝の思いが胸に込み上げるよりも、彼女を一人の女性として愛しく思う感情が勝る。互いに食い入るように見つめる瞳の中に囚われ、そのまま溺れてしまっても構わないと思うリュカとビアンカの、両側に二人の子供たちが嬉しそうに抱き着いてきた。魔力すら持っているような互いの視線から解放され、リュカもビアンカもにこやかにティミーとポピーの頭を慣れた手つきで撫でてやった。
天空人たちの歓迎ぶりは明るく賑やかで、前に進もうとしなければいつまでもここでリュカたちを引き留めてしまいそうだった。人間とは異なる時間を生き、いったい寿命などあるのだろうかと思える彼らにとっても、魔界の大魔王を倒したことはそれほどに喜ばしいことなのだと一緒になって感じられた。天空人の神父が嬉しそうに「すべては神の御導きですぞ!」というその姿に、どうやらビアンカは何かぶつぶつと言っていたが、リュカには聞こえなかった。その態度を見るに、不満であることには違いなく、素直な彼女の態度にリュカはこっそりと笑っていた。
「この度は本当にありがとうございました。さあ、マスタードラゴン様がお待ちかねでございます」
なかなか前に進むこともできなかったリュカたちを迎えるように、天空人が一人リュカの手を引いた。近づくプックルに「ひいっ!」と怯えてしまっていたが、決して悪しき魔物を見るような目ではなかった。ただ大きな獣の姿をしたプックルの見た目だけが怖いのだろう。小さなころからのプックルを知っているリュカにはもはやその正常とも言える視点を持つことはできないが、キラーパンサーという魔物を怖がるのが寧ろ正常な反応に違いない。
魔界の大魔王を倒し、世界は平和になった。とは言え、地上世界から一切の魔物が消え去ったというわけではないのだろう。現にリュカの仲間たちであるプックルにピエール、アンクルはここに共にいる。これから向かおうとしている地上世界にもまだ魔物は存在している。ただ、邪悪を倒したことによって、地上世界に生きる魔物の悪性もまた弱められたということなのだろうかと、リュカは想像している。第一、“魔物が悪い”わけではない。“悪い魔物もいるだけだ”と、リュカは仲間の魔物を見ればそう思うことしかできない。
「お父さん!  はぐりんはどこへ行ったのかしら?」
辺りをキョロキョロと見渡すポピーの言葉に、リュカはすっかりはぐりんのことを忘れていたことに気づいた。エビルマウンテンの谷底へと落ちる皆を支えてくれていたはぐりんがこの場にいないことに、もしかしたらはぐりんはあのまま魔界の底へ……と沈んだ気持ちになりかけた時、ティミーが叫び声をあげた。
「うわぁ!  何? 何?」
そう言ってティミーは左肩に掛けて持ち歩いている天空の盾を肩から降ろした。はぐりんはまるで天空の盾の一部を擬態するかのように、ぺったりと張り付いてそこにいたのだった。ポピーに名を呼ばれたことに気づいたはぐりんが、自身の存在を主張するように天空の盾の上を動き回ったために、ティミーが悲鳴を上げたのだ。そして再びはぐりんは天空の盾の裏側に張り付き、すっかり気配を消してしまった。どうやら神々しい盾の裏側は居心地がよく、気に入ってしまったようだ。
「魔物って本当に、何なんだろうね」
天空の盾を覗き込むリュカの目を、はぐりんは盾の裏側から覗き見上げる。その口元はスライム族に特有の笑みを見せており、人目に触れないところにいる習性を持ちながらも、どこか安心している様子が伺えた。
「ティミー、重くないの?」
「うん、平気だよ。というか、はぐりんがいるなんて気づかなかったよ~」
ビアンカは心配そうにティミーに問いかけるが、ティミーは言葉通りそこにはぐりんがいるとは気づかないほどに重さを感じておらず、特別問題はないようだった。
「おお、やっと来たか」
竜神の姿は離れたところから既に見えていた。玉座の間を飛び出し、いかにも喜びを表すように天空城の周りを弧を描いて飛んでいたマスタードラゴンだったが、今は落ち着きリュカたちを待ち受けていた。大きな両翼も畳み、大きな尾をリュカたちの方へと向け、床に置いている。
「さあ、地上へ出発するとしよう。用意はいいかな?」
竜神の言葉からどこか厳かさが消えている。姿かたちはどこからどう見ても竜神そのものだが、リュカにはその中に存在している一人の中年の男性の姿がありありと見えていた。
「さあ、私の背中に乗りなさい」
マスタードラゴンの広々とした背においては、アンクルのような大きな魔物も難なく乗ることができる。リュカたちの方へと向けられている竜神の尾の先からぞろぞろとその背に乗り込んでいく。
竜神の背に乗り、どこまでも広がるような青空を見渡す。白い雲は遥か下、ところどころに浮かんでいる。その更に遥か下、もう戻れないと覚悟していた地上世界の景色が、明るい日に照らされて輝いているように見えた。あまりにも高い場所に浮かぶこの天空城から望む地上の景色は、まだ地図のように見えるだけだ。しかしそこには確かに生きる者たちがいる。そのせいか、地上を彩る緑も青も黄色も灰色も、全てが生き生きとして見えるのだ。
「しっかりつかまっているのだぞ!」
マスタードラゴンはそう言うや否や、勢いをつけて飛び上がった。やはり自身が竜神という自覚に薄いに違いない。神という自覚があればもう少し落ち着いていてもよいものだと思いつつ、落ちかけて悲鳴を上げたポピーを抑えながら、リュカは竜神の背にしがみついた。ティミーは声を上げて喜び、ビアンカもまるで危険を感じていないように明るい笑顔を見せている。竜神は決して誰も落とさないという自信があるのかも知れないが、それもうっかり落ちてしまったピエールを拾いに行くアンクルを見れば、到底信じられる自信ではないとリュカはポピーを支えながら思い切り眉を顰める。
しかし竜神に対して怒る気にはなれなかった。恐らく竜神自身が表しきれないような喜びをリュカたちに見せているのだ。その喜びはもちろん地上世界が救われたということであり、同時にリュカたちがこうして無事に地上世界へと戻ってこられたことを、神がこうして祝福してくれているのだ。あまりに大きく、乱暴でもあるが、これを神の祝福だと思い、リュカは少々苦い顔つきをしながらも声も出せないまま受け止めることにした。そのようなリュカの心情を知ってか知らずか、竜神は救われた地上世界全てに目を向けるようにして、天空城の周りを二度ほど弧を描いて飛んだ後、地図の一点に向かって飛び始めた。

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