宿命からの解放

 

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広大な青々とした草原地帯が視界いっぱいに広がる。日はまだ昼前の時を示すように明るく輝き、暖かく緩やかな風が草原を撫でるように渡っていく。魔物の気配がない。魔法のじゅうたんが気持ちよさそうに飛んでいく先には、北を山に守られた立派な城が堂々と建っている。城の見張り塔の上に、ラインハットの国旗が風にたなびいている光景に、リュカは胸の中がじんわりと温かくなるのを感じた。
初めてこの地を訪れた時は、隣に父がいた。父との旅には慣れており、幼いリュカは父の強さを世界一だと信じ、旅する不安はなかった。サンタローズの村で留守番しているサンチョにも、またすぐに会えるのだと思っていた。大人たちに守られていた少年の心は、守りの外にある不安というものに行き着いていなかった。
あの時から二十余年の月日が流れた。様々なことが起こった。後悔は消えない。消えないものは抱えていくしかないのだと、今は半ば悟るようにそう思っている。その思いはきっと自分だけではない。寧ろ、親友の方がこの思いは強いに違いない。一見すれば責任感の欠片もないように見える彼だが、その実、恐らくリュカよりも大きく深く責任を感じ、責任を負っているからこそ、彼はこの国に戻ることを自ら決めた。そして今もこれからも、彼はこの国から逃げるようなことはしない。
魔法のじゅうたんが丘の上に位置するラインハットまで皆を運ぶ。見渡す広大な草原地帯には今、竜神が降り立ち、リュカたちをじっと見守っている。そうかと思えば、竜神はどこか落ち着きなくあたりを見渡し、その巨大な身を屈めて草原に鼻先をつけたりしている。リュカは一人、その竜神の行動に訝し気な顔つきを見せる。竜神はその必要もないだろうに実際に地上世界に平和が訪れたのかどうかをその身に感じたいがために、まるで犬がそうするように鼻先で草原地帯を嗅いでいるようにも見えた。やはり神らしくない神の姿に、リュカは思わず小さく噴き出していた。見たこともない巨大な竜が目の前に現れたことに、草原の中に隠れていたトンネラーが泡を吹いて倒れていたことになど、リュカは当然気づかなかった。
「リュカ殿。我々は外で待っております故、ご友人とゆっくりお話をしてきてください」
ラインハットの城下町の景色が近づき、そろそろじゅうたんを降り歩いて城へと向かおうかと思っていたリュカに、ピエールが静かな声で何事もないようにさらりと声をかける。しかしその声に、抑えるような響きが含まれているのを、リュカは見逃さない。
「なーに水臭いこと言ってるんだよ、ピエール。君も一緒に行くに決まってるだろ」
「いえ、しかし私はこの辺りにいるスライムナイトと同じですから、この国の人々を混乱させないためにも近づかない方が……」
「がう~?」
「プックルは行く気満々みたいだよ!」
「見た目としてはコイツの方がよっぽどヤバイだろ……」
「見た目だけで言えばアンクルも……でも! そういうことじゃないものね!」
「ピエールだけ行かないの? そんなの、さみしいな……」
「しかし城下町を歩いて向かうのでしょう? そこに魔物である私が入るわけには……」
「ああ、それはそうかも。でも、それなら問題ないよ」
ピエールの口にする心配事を取り除いてしまえば問題ないと、リュカは魔法のじゅうたんに手を当てながら進むべき方向を示す。リュカの意を汲んだ魔法のじゅうたんはやや速度を落としたかと思えば、緩やかに方向を変え、ラインハットの城下町の景色を右側に見るように回り込んでいく。城下町に暮らす人々の中に、リュカたちの姿に気づいている者もいるようだが、その顔つきに不安は見られない。明るい人々の表情を見ていても、このラインハットにも平和が日の光のように降り注いでいるのだと感じ、つられてリュカたちの表情も明るくなる。
日の光を受けた暖かな風が、魔法のじゅうたんを下方から押し上げていく。大きなアンクルも乗るじゅうたんだが、その重さを感じさせない軽々とした動きに、ラインハットの城下町からも歓声が上がる。高度を増した魔法のじゅうたんに緊張して息をのんだポピーも、人々の歓声を耳にすればそれだけでいくらか緊張を和らげることができた。
ラインハットの城下町を迂回し、向かう先はラインハット城の最上階。大きな窓からは既に、見覚えのある顔がリュカたちを見つけていた。その顔は呆れ顔でもあり、それだけでもなかった。ラインハットの上空に竜神が現れたことにはとっくに気づいていたはずだ。塔の見張りの兵が彼にその旨を知らせていたに違いない。そして普通であればラインハットの城下町を通り、正面の門からラインハット城へと入城してくるはずが、どうやら友好国の王は礼儀もへったくれもなく直接乗り込んでくるようだと、彼は兵に大窓を開けさせる。
「ヘンリー、来たよー」
「……知り合いじゃなかったら、攻撃を指示するところだぞ」
魔法のじゅうたんの上から手を振るリュカに、ヘンリーは怪訝な顔つきを隠そうともせず友を見下ろす。魔法のじゅうたんは頑張って高度を上げていたが、それでも少しラインハットの最上階には届かないらしい。ヘンリーの隣に並び立つマリアはただにこにこと笑っている。その表情には、リュカたちが無事に戻ってきたことへの安心が見えるようだった。無事に戻ってきてくれさえすればそれで良いのだと、マリアは元気な様子のリュカたちを見て嬉しそうに微笑むだけだ。その横には、まるでヘンリーをそのまま小さくしたようなコリンズの姿がある。背の低いマリアと並ぶと、じきにその背を越すのだろうと思わせるコリンズの表情はただただ驚きに満ち、口をぽかんと開けたものだ。
「お前さ、もっと普通に来られないの? ちゃんと正面から来いよ」
「だってピエールが外で待つなんて言うからさ。連れてくるにはこれがいいかなと思って」
「何? 俺のところに来られないってのはどういうことだよ、ピエール」
「いえ、せっかくですからリュカ殿とヘンリー殿とでゆっくりとお話をされてはいかがかと……」
「水臭えこと言ってんじゃねえぞ。お前も俺に言いたいことがあるんじゃねえのかよ、ん?」
そう言いながらヘンリーが指差し見るのは、今はピエールの腕から外され、腰のベルトに付けられているドラゴンキラーだ。この武器はリュカたちがまだ魔界に旅立つ前、それを予期していたヘンリーがグランバニアへと贈り物として届けたものだった。リュカという主が行くのなら、間違いなくその従者も行くのだろうと、ラインハットという国においても国宝となりうるほどの価値あるドラゴンキラーという武器を、惜しげなく贈ったのだった。
「…………その節は、ありがとうございました。では、私はこれで。アンクル、私をここから降ろしてほしいのだが」
「はーん? よく聞こえないなあ……。礼を述べる時はちゃんと相手に伝わんないと意味ないだろ」
「聞こえているではないですか。では、もう良いでしょう。アンクル、私を……」
「ピエール、お礼を言う時はきちんと相手の目を見て言うものよ。ほら、一緒に行きましょう。ね?」
ビアンカが諭すように言うと、ピエールはきまり悪く黙り込んでしまった。それを見てヘンリーは声を抑えて笑っている。そしてそんな彼らのやり取りとはお構いなしに、プックルが魔法のじゅうたんの上で姿勢を低く構えた。
「えっ? プックル、ちょっと待っ……」
リュカが最後まで言わない内に、プックルは目測をつけて飛び上がった。魔法のじゅうたんでは届いていないラインハット最上階だが、己の跳躍力をもってすれば問題ないと思ったのだろう。しなやかに伸びあがるプックルの躍動感溢れる動きは美しいものだが、それを正面から受け止める位置に立つヘンリーはたまったものではない。
「うわあぁ! バカ野郎!」
「にゃうう!」
咄嗟にマリアとコリンズを横に押しのけたのはさすがだとリュカは驚きつつも冷静に見ていた。宙にふわふわと浮かぶ魔法のじゅうたんは、固い地面のように安定した場所ではない。プックルは飛び上がる際に力の半分を魔法のじゅうたんに吸い取られたように思ったほどの跳躍力を得られず、彼の想像ではヘンリーの頭をも飛び越して大窓の内側へと入り込むつもりだったのだろうが、上手く行かなかった。ただヘンリーを脅かすつもりだったものが、ヘンリーの顔面に体当たりを食らわせる結果となり、ヘンリーは後ろに倒れ、プックルはバランスを崩しながらも床に転がってすぐに体勢を立て直した。さすがに悪いことをしたと思ったプックルが、猫のような声を出しながら倒れたヘンリーに近づき、その顔を舐めた。
「お前らなぁ……もっと普通になれよ」
「ごめん、ヘンリー。大丈夫?」
最も重量あるプックルがじゅうたんの上から抜け、アンクルが魔法のじゅうたんを下から支えるようにして押し上げた。それを支えにしてリュカたちが次々とラインハットの最上階の大窓から、昼前の明るい日差しを受けながら、まるで侵入者のごとく入り込んでいく。その光景をラインハット城の中庭に出ていた調理場の者が目にするなり、手にしていた料理の材料を落としてしまっていた。彼女の目に見えているのは、何やらふわふわと波打つ大きなじゅうたんを下から支えている悪魔のような外見を持つアンクルの姿だ。卒倒しかねない女性に、ことの成り行きを見ていた城の兵が慌てて説明を始める。
「大丈夫じゃねえよ。いってぇなぁ、もう……」
後ろに倒れ、したたかに打ち付けた腰をさすりながら立ち上がるヘンリーの姿を見たティミーが、素直に謝る気持ちで回復呪文を投げるように唱える。勇者の手から放たれたベホマラーの呪文を受けて、ヘンリーのみならず彼のすぐそばに寄り添っているマリアとコリンズにもその影響が及んだ。腰の痛みから解放されたヘンリーがすっと立ち上がるのと合わせ、何やら調子のよくなったマリアもコリンズも不思議そうに母子互いに目を見合わせている。
「とりあえず中に入れよ」
「うん。お邪魔します」
「まるで友達の家に入るような感じよね~」
「でもお母さん、窓からなんて、まるで泥棒みたいだわ……」
ビアンカが半ば呆れたような顔でそう言う隣で、ポピーは呆れるというよりも不安そのものの顔つきで、先に窓から入り込む父の後姿を見つめる。そしてピエールも弾みをつけて中へと入り込むと、リュカが大窓越しに揺れている魔法のじゅうたんを引き入れ、畳んでいく。その姿をヘンリーは腕組みをしながら静かに見ていたが、リュカが魔法のじゅうたんを畳み終える前に窓枠からぬっと姿を現したアンクルの姿に、今度は腰を抜かしそうになる。リュカがグランバニアにどれほどの魔物の仲間を従えているのかを、ヘンリーは知らない。さぞかし様々な種の魔物がいるのだろうと想像はしていても、実際に魔界から飛び出してきたかのようなアンクルの魔物らしい魔物の姿を見れば、腰が引けるのも無理はない。おまけにその手には悪魔にぴったりのようなデーモンスピアが握られている。
「……ったく、心臓に悪い」
「ああ? 悪かったな、こんなナリでよ」
「あ、そっか。アンクルは初めてだよね。見た目は怖いかも知れないけど、とても頼りになる仲間だよ」
「見た目が怖いのはコイツだけで十分なんだよ」
「がう」
足元に強めに擦り寄るプックルの赤毛を撫でながら言うヘンリーに、アンクルは鼻で笑いながら自らも大窓から城の中へと入り込んだ。その体の大きさと、禍禍しいように見える悪魔のような翼や角に、コリンズはマリアの後ろに半分隠れるようにしてアンクルを覗き見ている。
「まあ……よく無事で戻ったよ」
「うん」
ヘンリーがそう言いながらリュカの肩にぽんと手を置き、リュカは短く返事をするだけだった。子供の頃は一歳の年の差を優位にヘンリーが背の高さを誇っていたが、今ではすっかりリュカの方が背が高くなってしまった。肩に触れただけで、彼がどれだけの戦いを潜り抜けてきたのかを思わせられる。今もし、彼の父パパスが隣に並んでいたら、もう息子は父を超えてしまっているのではないかと思いつつ、ヘンリーはもう一度リュカの肩を軽くたたくと、彼らを部屋の奥へと誘導していく。



ラインハット王兄の私室であり、家族で過ごす部屋でもあるこの場所で、リュカはヘンリーと向かい合わせに座っている。部屋には広く立派なじゅうたんが敷かれており、プックルは爪を引っ込めその上を歩き、気に入った場所を見つければそこに寝そべり、丸くなってしまった。普段、この部屋に他の人間が入るようなこともないのだろう。景色はどこを見ても立派な、それこそ王族にふさわしいものだが、普段は王兄家族が暮らす暖かな空気が漂い、その空気に誰もが無暗に緊張するようなこともなかった。ピエールは控えたところに立つべく、リュカたちが座る大きなソファの後ろ側にまるで近衛兵のように立っているが、その目は部屋のあちこちを興味深そうに見渡していた。アンクルに至っては、大きな身体で好きに歩き回り、高価な調度品を手に取って見たりするものだから、ビアンカが身内のものとして諫めた。
和やかな雰囲気の中で、リュカは話した。魔界でのこと、母のこと、大魔王のこと。親友に語る内容としては、話し出せばキリがなくなってしまう。しかしこの場でいつまでも長々と話しているわけにもいかない。リュカにも帰るべき場所があるのだ。首を長くしてリュカたちを待っている大事な人々がいるということが、リュカの頭の中にちらつく。
「しかし驚いたなあ」
リュカが嘘をつくような人間ではないことをヘンリーは十分に理解している。それでも本心からリュカの言うことを信じることができたかと言われれば、ヘンリーには自信がない。地上のこの世界でも十分信じがたいような体験をしてきたリュカであり、ヘンリーもまたその一部を共に経験してきている。天空に浮かぶ城に入城したこともあった。竜の神がこのラインハット上空に飛ぶ姿も目にしている。魔界という世界があるということも、一応理解しているつもりだった。しかしその魔界という真っ暗な世界で、凶悪な魔物らのいる世界を旅し、そんな中でもリュカたちを助ける魔物がいたという。そして魔界にも人間の町があると聞いた時には、思わず「嘘つけ」と言ってしまった。あまりに厳しい旅の中で見た夢なのだろうというくらいに、ヘンリーは思ってしまったのだった。
「リュカの息子が伝説の勇者だったとは……」
リュカの息子ティミーが伝説の勇者だということは既にヘンリーは知っている。今や立派な一人の戦士のようにも見える、天空の武器と防具を身に着けた勇者ティミーの姿を見れば、彼がいわゆる勇者として唯一足りないのは背丈くらいのものだと思う。しかし彼は努めてリュカの息子が勇者であることを信じようとしていなかった。認めてしまえば、まだ子供であるリュカの息子に勇者という宿命を押し付けることになる。誰が親友の子供に勇者などという思い責任を押し付けたいと思うのか。その思いは実のところ、ティミーの父であるリュカと同様、ヘンリーも持っていた親のような感情だった。
しかし、ティミーはもう大魔王を倒してしまった。この現実を以て初めてヘンリーはティミーを勇者と認め、安心して受け入れ、言葉にすることもできた。ヘンリーの心からの言葉に、言われたティミーは明るい笑顔を見せる。皆を心の底から晴れやかにするようなティミーの笑顔は、それもまた勇者であるという証明なのかもしれないと、ヘンリーは同じようににこりと笑みを見せた。そして勢い口を滑らせる。
「トンビが鷹を産むとはこのことだったか!」
そう言って豪快に笑うヘンリーに、すかさず反応を示すのはビアンカだ。むっとした表情も隠さずに口を開きかけたが、それよりもいち早くとりなすのがヘンリーの隣に座るマリアだ。
「まあ、あなたったら。そんなことをおっしゃるとビアンカさんに悪いですわ」
ヘンリーには全く悪気はない。彼はただリュカをからかうつもりでそう言っただけだった。ビアンカもまた、彼に悪気があるとは微塵も思っていない。今咄嗟に反応したのも、決して本気で怒ったわけでもなく、単に口先だけの文句を言おうとしただけだった。しかしいざビアンカの水色の瞳に軽く睨まれていると分かると、ヘンリーの空色の瞳は僅かに慌てるように揺れた。どこか逆らい難い、気の強い姉のような雰囲気を見せるビアンカが、ヘンリーは少々苦手だった。
「おっと、そうだったな。悪かったな、ビアンカさん。そんなつもりじゃあ……」
「ふふ、分かってるわよ。だけど、口は禍の元よ。国王のお兄様なんだもの、この立場にいるのなら色々と気を付けた方がいいと思うわ」
「ああ、その通りだな……。まったく、ビアンカさんはリュカには過ぎた奥さんだ」
「うん、僕もそう思う」
リュカは素直にそう反応しただけだったが、そんなリュカの姿を見ながら、向かいに座るマリアがにこにこと笑っている。マリアはただただ、リュカもビアンカも、ティミーもポピーも、彼らの大いなる支えとなった魔物の仲間たちも、無事にここへ戻ってきてくれたことが嬉しかった。リュカたちがこの世界を旅だった頃から、マリアは毎日祈りを捧げていた。祈るということが無駄に終わってしまうことも彼女は知っている。しかし他に何かができるわけでもなく、あの日あの時海辺の修道院で洗礼を受けてから、彼女は祈りを捧げることで己を保ってきたようなものだった。夫ヘンリーはそんな妻に言ったことがあった。マリアの祈りの力は間違いなく俺の力になっているのだと。目に見えないものだからこそ、形や大きさで図ることはできず、それは祈りを捧げる者の想いの強さや、祈りの強さを受け止める側の想いの強さで、それはどこまでも大きくなることができるのだと、ヘンリーは半分ふざけて、本当は本気でそう妻に言ったのだった。
「すぎたおくさん、って、何?」
「しっかりした妻ってことよ、お兄ちゃん」
「……これで“勇者”だもんな。オレでもなれたんじゃねえの、勇者」
子供たちの言葉に、大人たちが笑う。たった今、リュカは息子のティミーが大魔王ミルドラースを倒したのだと話したばかりだが、天空の武器と防具を身に着けたティミーの姿にはその勇ましさを想像することもできるが、こうしてひとたび話をすれば途端に彼の子供らしさが溢れてしまう。そこに、人々が想像するような、頼れる、猛々しい勇者の像は見られない。しかしだからこそ、ティミーの持つ根明の性格に人々は引き込まれ、知らず明るい気持ちにさせられてしまう。その明るさが、暗い暗い魔界に潜む大魔王をも倒す力にもなったのだろうと、ヘンリーは屈託なく笑うティミーを見ながらそう思った。
「ともかく世界が平和になり、我がラインハットの国民たちも大喜びだよ」
リュカたちが魔界で大魔王ミルドラースと対峙していた時、呼応するように地上世界にも魔物の群れが各地を襲いかけていた。空は暗雲に覆われ、今のように太陽を拝むことが叶わなかった。ただの天気の変調ではないことは、誰の目にも明らかだった。
リュカたちが魔界へと旅立つ前に、ヘンリーは友から地上世界を任された。世界を一瞬にして飛び回ることのできる友のこと、その言葉はラインハットのみならず各地へと向けられていたことには容易に想像が及んだ。彼はその時、友が魔界に旅立つことを止めようと声をかけた。息子を勇者にしてしまうつもりかと。子を想う親であればこの言葉で思いとどまるかもしれないと、友であるリュカの気持ちを量ったが、彼は勇者である息子を信用する以上に、子供の負った宿命ごと引き受ける覚悟で魔界へ旅立つことから逃れなかった。
ヘンリーはただ、もうこれ以上親友が妙な運命に巻き込まれるのを見たくはなかったのだ。その初めはヘンリー自身が引き起こしたようなものだからと、彼はいつまでもその罪を胸に刻み、ふざけるような言葉を交わしながらも、その芯には常に懺悔の想いが過っている。ラインハットという国の立て直しを着実に進め、未来へと進む一方で、ヘンリーの罪の意識は永遠にあの時で止まったままでもあった。彼の意識があの時に立ち止まる一方で、幾度となく過酷な運命に見舞われようとも立ち止まらなかった親友は、彼の想像よりも遥かに先を先を見つめていたようだった。決して立ち止まらないと決めてしまった親友の覚悟を、彼は認めるほかなかった。任された地上世界を守るべく、己にできることを尽くすことが親友の助けになるのならと、ラインハットの国を覆うような暗雲が突如として現れ、元来ラインハット近くに生息する魔物らの動きが活発化すれば、それに真正面から立ち向かう覚悟がヘンリーにもできていた。
国の兵たちと共に国を守るべく、手にする武器を振るっているうちに、一度は完全に世界は暗黒に飲み込まれたのかと見まごうほどの闇が空を覆いかけた。その景色に、彼は親友の、一見優し気ながらも頑固であることが隠し切れない表情を思い出した。全身に悪寒を覚え、この世界はついに闇に包まれてしまうのかと、彼は心の中で親友に毒づくと同時に、親友の破滅など信じないと武器を握る手に今一度力を込めた。地上世界を任されたからには、たとえ世界が闇に包まれようとも諦めるわけには行かないのだと、それ以上は無暗に悪い想像など働かせずにただただ武器を振るい、呪文を放った。決して諦めないというのはこういうことだと、彼は自身に言い聞かせて戦い続けた。
日の光がこれほど眩しいものだっただろうかと、まるで吹き飛ぶように空を覆っていた暗雲が散り散りに消えていった時、そう感じた。戦っていた魔物の気性が嘘のように大人しくなった。魔物が目の前から消えていなくなるようなことはなく、その存在は確かにこの世界に残りながらも、目の前で戦う人間から慌てて逃げ出すように、背中を見せてどこへともなく走り出した。唐突に空に現れた陽光の力に人間は驚くだけだったが、魔物らはその強い光の力に恐れを為したに違いなかった。
戦いは突如として終わった。ヘンリーは全身を包んでいた悪寒から解放され、合わせて絶望の緊張感から逃れることができたと、目から涙が零れたが、すぐにそれを拭ったために彼のその姿を見た者はいない。
リュカたちが世界を救ったのだと、誰の便りを受けるでもなく彼はそうと悟った。辺りに流れる空気が日を浴びて暖かくなり、戦う兵たちは束の間ぽかんと立っていたが、城の見張り塔に立つデールが空からの陽光を受けた鏡を持ち、その隣に立つマリアが両手を組み合わせると、鏡の光は一瞬輝きに満ち溢れた。マリアの斜め後ろに立っていたコリンズはあまりの眩しさに目を開けていられなかった。その光は、ラインハットの人々に真の平和がようやく訪れたのだと知らせたのだ。
ラインハットの国にそのような事情があったことを、リュカたちは知らない。ヘンリーもまた事細かに教えるつもりもなかった。こいつは十分に苦労しているんだからと、これからはただゆっくり休めばいいのだと、そう思うだけだ。ようやくこの世界に真の平和が訪れたのなら、これからは運命も宿命も気にせずに互いに過ごすことができるだろうと、ヘンリーは口元に小さな皺を刻みながら笑みを浮かべる。
「俺もリュカの友人として鼻が高いぞ」
口にする言葉というのはどうしても多かれ少なかれ嘘が混じる。鼻が高いなどと口にするのは、ヘンリーがいつも通りにお道化ている証だ。本心でありながらも、本当に伝えたいことはこのような言葉に収まるものではない。結局、言葉というのは心全てを伝える手段にはならないということなのかも知れない。
「お前とは本当に長い付き合いだったな」
しかし何も伝えないでは、何一つ伝わらない。そして言葉として伝えれば、それが聞いた者の一部になることは間違いない。第一、伝えないままに別れてしまっては、もう後戻りもできないことを、ヘンリーもリュカも知っている。
「これからも仲良くしてこうな」
「うん、もちろん」
向かい合わせに座るソファを立ち上がり、二人は互いに右手を差し出し固く握手を交わした。世界は勇者とその仲間たちによって救われた。ただの御伽噺であればそれでお話はおしまいだ。しかし彼らの生きる世界は寧ろこれからが始まりのようなものなのだ。特に彼らはそれぞれ国を代表する立場であり、これからも人生を懸けて為すべきことが山ほどあり、その仕事に終わりはない。悪しき魔物の存在が小さくなったとは言え、悪しき者がすべて滅びたわけでもなく、恐らく世界はそのようなことにはならない。国を背負う者としては、寧ろこれからの方が面倒ごとが増えることにもなるのかも知れない。
しかしそこで不安を覚えたり、溜息をつくようなことにはならない。光が戻ったこの世界に誰もが顔を明るくしている。地上を照らす日の光があり、人々の明るい顔があれば、それでリュカもヘンリーも己の為すべきことに意気込んで向き合うことができる。苦難を知っているからこそ、彼らは光のありがたみを人よりも深く感じることができるのだ。
唐突にラインハット城の最上階の大窓から侵入するような形で入り込んだために、今になってリュカたちの前に茶と菓子が給仕によって運ばれた。質素な焼き菓子はマリアの手作りのもので、瓶に保存してあるものから出されたものだった。マリア自身がそれを言うことはないが、見た目は質素だが丁寧に形を整えて作られている焼き菓子を見て、リュカはすぐにそうと気づいていた。
床のじゅうたんの上に寝そべっているプックルは鼻を引くつかせ、赤い尾を一振りしたので、驚く給仕の者に代わりポピーが焼き菓子を受け取り彼に食べさせてやった。リュカたちの後ろに控えるように立つピエールにはマリアが直々に手渡しに向かう。ピエールの手を取り、焼き菓子を渡すマリアを見ても、ヘンリーは和やかな表情を見せている。リュカも彼の家族も途轍もない宿命を負い、その道を歩んできたが、寧ろ彼の家族よりも長らく主である彼と共に同じ時を過ごしてきたピエールの苦労を思うと、それもまた計り知れないものだとヘンリーはつくづくと思う。
リュカとヘンリーがマリアの兄ヨシュアの計らいであの大神殿からの脱出に成功し、十余年ぶりに地上世界へと戻った後、間もなく彼らの仲間となったのがスライムナイトであるピエールだ。ヘンリーは自らがラインハットに残ることを決めた際、これからリュカを支えていけるのは魔物の仲間であるピエールだろうと期待していた。そして彼の期待以上に、ピエールはリュカを支え続けてきたはずだ。魔物の生というものがどういうものなのか、ヘンリーは詳しくは知らないが、リュカを主と慕うピエールはこれからもその生が尽きるまでリュカを支えると同時に、グランバニアという国と共にあり続けるのだろう。
「やっぱり美味しいわよね~、マリアさんの作ったお菓子。ねえ、今度作り方を教えてもらってもいいかしら?」
当然ビアンカも出された焼き菓子がマリアの手によって作られたものと気づいていた。世界は平和になったのだということを示すように、ビアンカは明るい顔つきで小さな菓子を食べながら、今度はアンクルに菓子を手渡しているマリアにそう言う。
「ええ、もちろんです。でもビアンカさんの方がお料理などお上手でしょうから、あまり自信はありませんが……」
「マリア様の作るお菓子ってとても美味しいもの。私も一緒に作り方を習いたいな」
「あら、ポピーも? ふふ~ん、誰に作ってあげたいの?」
「えっ、誰にって……」
母ビアンカにそう言われて、ポピーはまるで意識していなかった「誰に菓子を作りたいのか」を意識する。彼らの正面に今座るのは、見た目にはうり二つのような父と子だ。同じ緑色の髪を伸ばし、にこにこというよりは、どこかにやにやとポピーを見るヘンリーと、その隣で慌ててポピーから視線を外したコリンズだ。
「お、お父さんとか、お兄ちゃんとか!」
「おお、良かったな、コリンズ! お前もきっとポピーちゃんの言う“とか”の部分に入ってるぞ」
「う、うるせーよ、オヤジ! 別にそんなのどうでもいいんだ!」
「もしコリンズくんがもらえなかったら、ボクが分けてあげるよ!」
「お前はもっとうるさいんだよ、ティミー!」
「お兄ちゃんはうるさくないもん! お兄ちゃんがせっかく分けてあげるって言ってるのに、何よその言い方!」
「何だよ、それ! なんでオレがティミーからもらわなきゃいけないんだよ!」
「分けてあげるって言ってるんじゃない!」
「お前からオレにくれればいいだろ!」
言った瞬間に、コリンズは顔を真っ赤にし、釣られてポピーも言葉に詰まり、顔を赤くする。ティミーは「あ、でもコリンズ君はいつも食べてるもんなぁ」と、マリアの焼き菓子をいつでも食べられるコリンズには何の不満もないだろうというように首を傾げている。子供たちの様子を見ながら、今はもう、ティミーとポピーに勇者という運命の暗さを感じることもないのだと、リュカはそれが心から嬉しかった。魔界へと旅立つ前は、こうして子供同士が無邪気に語らう姿を見ても、この光景をこの先も見たいから旅を進めるのだと思っていても、何の翳りもなくこのような明るい未来をはっきりと思い描くことができなかった。
再び席に戻ってきたマリアが、今度はヘンリーの隣ではなくコリンズの隣に並んで座る。そしてあと一、二年のうちに背丈も越されるかもしれない息子のコリンズの頭を撫でると、リュカへと向き直りにこやかに話す。
「あなた方のおかげで世界が平和になり、兄もきっと浮かばれたと思いますわ」
マリアもきっとリュカと同じように感じたのだろうと、彼女の穏やかな顔つきを見ながらリュカはそう思った。彼女の口から兄ヨシュアのことが話されるときには、いつもどこか悲し気で後ろめたい雰囲気が見られたが、今それは見られない。彼女が兄を喪った悲しみは決して消えることはないのだろうと思う。それはリュカが父と母を喪ったこととも同じようなことだろう。しかしその悲しみを超えて得たものがあれば、悲しみを乗り越えることができるのだと、今の彼女はそれを示しているようだった。
世界の犠牲となった人々がいる。それを決して忘れてはいけない。しかしいつまでもそれだけに縛られていては、犠牲になった人々も浮かばれない。大事なのは、忘れないこと、覚えていること、思うこと。それが大事だと分かるから、人は己の心と向き合うためにも祈りを捧げるのかも知れない。
「ボクはさ」
まだ声変わりもしていないティミーは今、その身を天空の防具に固めており、まだ子供でありながらも彼が勇者であることを疑う者はいない。いつもは背に負っている天空の剣は今、ソファに座る膝の上に横に寝かせるようにして持っている。勇者の持つ剣は、勇者であるティミーの意思に反応するように、今はまるで穏やかな寝息を立てるかのようにその鋭さを眠らせている。
「ボクが伝説の勇者で良かったと思うよ」
世の人々が想像する勇者像とは恐らくかけ離れたところに、勇者ティミーは立っているに違いないとリュカは思う。そう思うのは、リュカ自身がそう思うからだ。父パパスの遺志を継ぎ、リュカは勇者を探す旅を続けた。世界を救うと言われる人物であれば、屈強な体つきをした大人の男に違いないと、その想像は父パパスに酷似したものとなっていた。
我が子が探し求めていた勇者と知った時、リュカの胸にはただ絶望が溢れた。同時に、自らはまるで覚悟が決まっていなかったのだと思い知らされた。我が子が勇者であるならば、それを丸ごと引き受けなければならないのが親なのだと、勇者の息子を前に立たせるのではなく、勇者を守るために己が前に立つのだと、生まれたその覚悟に迷いはなかった。
親が子を育て、成長させるのと鏡合わせのように、子が親を育て、成長させるということを、リュカはティミー、ポピーの存在に大いに知らされた。これからも彼らには様々なことに気づかされ、そのたびにリュカもまた人としての成長を遂げていくのだろう。自分が勇者で良かったと胸を張る息子の姿は、世界が平和を迎えた今は心安らかにその言葉を受け入れられる。
「ふーん、ティミーは伝説の勇者だったのか」
まるで今知ったかのようにそう嘯くコリンズの表情は、彼が頑張って作っている不遜さが表れているが、その目にはただ純粋な憧れが見えてしまっている。ティミーが身に着ける天空の武器も防具も嘘のようでありながらも本物の煌めきを放ち、ラインハットの王子として育つコリンズも見たことのない宝石のように輝いているのだ。
「あれ? コリンズくん、知ってたよね?」
「もう何度も話したことがあったじゃない。忘れてたの?」
「忘れてねえよ。でも、ホントに悪いヤツをやっつけるなんてさ……お前、えらいんだな」
「えらい……えらいのかな、ボクって」
「私はお兄ちゃんがえらいとは思わないけど……すごいなとは思う」
「それならポピーだってすごいよ! ポピーの力がなかったら、ボクたち進めなかったと思うもん」
「そう、かな?」
「そうだよ!」
「よしっ、じゃあ、なんだったら本当にオレの子分にしてやってもいいぞ! 二人とも!」
コリンズの無邪気ながらも反感しか買わないような言葉に、ティミーは目を瞬きぽかんと口を開けて彼を見つめ、ポピーはすかさず「はあ!?」とその場にいきり立つ。
「何なのよ、子分って! コリンズ君の子分になんかならないわよ!」
「いっ、いいじゃねえかよ! オレがお前たちの親分になれば、お前たちだって少しは楽に……」
「コリンズ君こそお兄ちゃんの子分になればいいのよ!」
ポピーがここまで感情をむき出しにして、舌まで出して怒っている姿など、リュカはこのラインハットでしか見たことがないような気がしていた。ふと妻のビアンカの顔を覗き見れば、彼女は何やら楽し気ににこにこと笑っている。彼女も娘のポピーがこれほど怒る姿を見慣れていないはずだが、どこか余裕を持って傍観するように娘を見守っている。彼女にとって、娘と友好国の王子が喧嘩することは特別悪いことでもないようだ。
「コリンズ君ってわがままっぽいけど、本当は根はいいヤツ……なのかな?」
ティミーの心の声が漏れ聞こえ、リュカは息子の言葉に、腕組みをしながら小さく唸るように長く息を吐きだした。じゅうたんに寝そべっていたプックルが耳をぴくりと動かし、のそりと起き上がると、凶悪にも見える牙を見せながら大欠伸をして見せる。その姿だけでコリンズは思わず震え上がり、小さく「ひぃっ」と声を出した。以前はリュカと共にプックルの背に乗せてもらったこともあるコリンズだが、やはり見た目に凶悪な姿をしているプックルは本能的に怖いらしい。
「あ、プックル、まだ寝ていて大丈夫だよ。大丈夫、そういうことじゃないから」
「がう?」
「うん、大丈夫。そういうことじゃないから」
「……どういうことじゃないのか説明しろよ、リュカ」
「……いや、僕にもよく分からないけど、何だろう、複雑だよね、うん」
「複雑なんでしょうね、娘の父親って……父さんもどんな気持ちだったのかしら……」
「コリンズ、ティミーくんもポピーちゃんもお友達でしょう? お友達に子分だなんて言うのはよくないことですよ」
「……はい、母上」
同じことを父であるヘンリーに言われれば素直に聞けないコリンズだが、母であるマリアに言われると素直に聞き入れることができるのは、マリアの持つ雰囲気であり、その雰囲気を作り上げている彼女の人生なのかも知れない。何もかもに反抗するのではないコリンズの態度は、実は聡明であることを垣間見せている。先ほど彼が言いかけた言葉も本当のところは、勇者の宿命を背負っていたティミーとポピーの重荷をいくらか自分も背負えればと思ったから出かけた言葉だった。小さい頃のヘンリーそっくりの容姿を見せつつ、後悔と反省を身に帯びるヘンリーと、亡き兄の言葉を守り、己の幸せに向き合う努力を続けたマリアからの愛情を受けたコリンズが、悪い子に育つはずがないとリュカも分かっている。それ故に、いつもは穏やかな娘ポピーをこれほど怒らせてしまうコリンズに対して、得も言われぬ複雑な感情を抱いてしまうのだった。
ラインハット城の最上階に位置するこの王兄家族の私室には、昼前の明るい日差しが入り込み、いかにも平和が訪れたのだと言うように、室内を温かく照らしている。薄く開いた窓からは緩やかに風が通り、ラインハットの周辺に広がる緑の草原の景色を彷彿とさせるような瑞々しい香りが漂う。この景色が少し前まで、暗黒に覆われかけていたのだ。それが再びの日の目を見るように、暗雲が吹き飛ぶように晴れ、その上を行く竜神が高らかに鳴いたのを見た人々が、互いに手を叩きあって平和の到来を喜び合った。
今また、ラインハットの遥か上空で、竜神が高らかな声を上げたのをリュカたちは聞いた。エルヘブンの村にいた時と同様、そろそろラインハットを引き上げろという神の指図だ。
「おい、リュカ、お呼びだぞ」
退屈そうに部屋の窓から外を見ていたアンクルが、窓の外に見えるマスタードラゴンの飛ぶ姿を目にして声をかける。見慣れないアンクルの姿は、ヘンリーたちにとってはまるで部屋の端に立つ悪魔の像のようでもあり、リュカの仲間と言えども思わず表情を固くしてしまう。一度は魔物によって乗っ取られかけていたラインハットという国においては、魔物という存在そのものに対する拒絶反応は強い。部屋の中でヘンリーたちの護衛を務める兵たちの顔に常に緊張感が漂っていたことに、リュカが気づかないはずもなかった。
「もうちょっとゆっくりしたかったんだけどなぁ。でもあんまりのんびりもしてられないみたいだし」
「早く帰ってやれよ、お前の国に。俺のところにはまたいつでも来られるだろ?」
「うん、そうだね。平和になったんだもんね」
「ただ来るにしても窓から入ってくるようなことはするなよ。ちゃんと正面から入ってこい」
「うーん……うん、なるべくそうするよ」
言葉を濁すようにそう返事をしながら、リュカはソファから立ち上がるとくるりと後ろを振り向き見る。ソファの後ろに立ち控えていたピエールが、ずっと手に持っていたクッキーを慌てて隠すように手の中に握りこみ、握る手の隙間から小さな欠片が床へと落ちた様子を目にして、リュカは思わず小さく笑ってしまった。そしてソファから移動し、ピエールの隣に立つとこそこそと一言二言交わし、その間にピエールは握りこんでしまったクッキーを緑スライムの口へと屈んで放り込んだ。マリアからのクッキーを食べてしまうのが惜しいと手に持っていたピエールの姿に、ヘンリーもどこか温かい笑みを浮かべていた。
「じゃあ、またね」
「おい、言った傍から窓に向かうんじゃねぇよ。普通の人間は四階の窓から出たり入ったりしないんだよ」
「それにリュカ、あなた、グランバニアの国王として、ラインハットの国王様にご挨拶しなくていいの?」
「あ、そっか。デール君にも会っておかないとね」
ちょうどその時、頃合いを見計らったようなタイミングで、王兄夫妻の私室の扉がノックされた。素早く扉が開かれ姿を現したのは、たった今話に出たラインハット国王デールだった。急いで階段を上ってきたのだろうか、少し息を切らしながらリュカのことを目を丸くして見つめている。
「リュカ王! 無事にお戻りになられたんですね!」
「あ、良かった。今ちょうどデール君のところに行こうと思ってたんだ」
「ビアンカさんが言わなきゃ、窓から帰ってただろ、お前」
「みなさんご無事で本当に喜ばしい限り……うわぁ!」
「がう?」
「ああ、悪いな、驚かせるつもりはないんだがな」
リュカの脇から現れたプックルと、リュカの後ろから近付いてきたアンクルの姿に、デールは思わず後ろに飛びのき驚いた。ヘンリーよりも寧ろ、デールの方がこのラインハット城の中に魔物がいるという事態に拒絶反応を示してしまうのは仕方のないことでもあった。そんなデールの姿を見て、リュカはやはり仲間の魔物たちを連れてこの城を歩くことはできないということを改めて感じた。
「い、いえ、皆さまリュカ王のお仲間、なんですよね? この度は世界を救ってくださって本当にありがとうございました。ラインハットの王として、国民を代表し心からお礼を言います」
王兄夫妻の私室の開いた扉を挟んで、デールがラインハット国を代表して言葉を述べる。本来であれば、友好国の国王同士、改まった場所と機会を設けて互いに言葉を交わすべきところ、どこかの家の玄関の扉を挟んでの立ち話のような雰囲気に収まりそうなこの場面を、デールの衛兵二人が思わず顔を見合わせて奇妙な感覚を共有している。
「リュカさん。いえ、グランバニアのリュカ王!」
デールは当然のようにリュカたちを階下のしかるべき場所へと招いて、改めて国王同士の話をしようと考えた。しかしそこで再び、ラインハット上空を旋回している竜神が高らかな声を上げる。ラインハットを襲おうとしていた魔物らの発する声とは異なり、竜神の声には恐怖ではなく畏怖がある。先ほども聞こえた竜神の声に、リュカが申し訳なさそうに指で上を指し示した。
「早くしろって言われてるみたいなんだ。だから、ごめんね、デール君」
「ははあ、そうですか……本当はもっとお引止めしたいところですが……さぞかしグランバニアではあなたの帰りを待っていることでしょう」
「うん、今度来るときはまたゆっくりできるように来るからね」
「はい、ぜひ」
「今度来るとき、なんて“ちゃんと”言えるようになったんだな、お前も」
「あはは、そうだね」
これまでにも何度もラインハットを訪れているリュカだが、ここを去るたびに毎度もう二度とここには来られないのかもしれないと、胸の中のどこかでそう思っていた。決して旅の最後まで諦めないと決めていたリュカだが、同時にもう二度とここへは来られないのかもしれないという覚悟も胸に秘めていた。そしてその覚悟は、言われるヘンリーも同様だったのだろう。
「やっぱりここから行くよ、ヘンリー」
「ああ」
そう言いながらリュカが懐から畳んだ魔法のじゅうたんを取り出すのを、ヘンリーは腕組みをしながら静かに見つめていた。ラインハットの兵たちは決して悪気もなく、リュカの仲間である魔物の姿に多かれ少なかれ驚きを隠さず、いつでも腰の剣を引き抜けるようにとその身体には目に見えて緊張が漲っている。ラインハットの国を無暗に混乱させないためにも、リュカは来たとき同様に、泥棒よろしく大窓から魔法のじゅうたんで飛び出すことにした。
先にアンクルが大窓から飛び出し、広がった魔法のじゅうたんの下へと潜り込む。今度はそれを中庭から見上げていた犬が、一声悲鳴を上げた後に、けたたましく吠え出してしまった。犬の鳴き声に反応するように、中庭に姿を見せる人々もアンクルの悪魔らしき姿に各々恐怖の反応を示している。
「……まあ、オレを見たらそうなるだろうな」
「国民には私から後で説明をしますのでご安心ください」
「よろしくね、デール君」
「お前たちも立派な救世主だもんな。何も勇者だけがこの世界を救ったわけじゃないだろ?」
「その通りですよ、ヘンリー様! みんながいてくれたから、ボクもポピーも戦えたんです!」
「勇者はお兄ちゃんなのかもしれないけど、勇者だけじゃ世界は救えなかった……」
「プックルもピエールもアンクルも、ものっすごく大活躍だったのよ!」
「がうがうっ!」
「いえ、私などは何も大したことは……」
「そんなことはありませんよ、ピエールさん。あなたはずっと、リュカさんたちを支えていらっしゃるじゃありませんか」
「……母上もこの……緑の騎士とお知り合いなんですか?」
互いに話したいことは尽きないが、それもまた“今度”という機会が巡ってくるという安心感が、彼らを包んでいる。リュカもポピーも、移動呪文の使い手であり、遠く離れたグランバニアの国からでも瞬く間にこのラインハットへと立ち寄ることができる。今のこのひと時の別れには、少しの寂しさも悲しさもなく、ただただ明るい未来を描ける別れだと、魔法のじゅうたんに乗り込んだリュカはもう一度大窓に向かって手を伸ばす。ヘンリーが身を乗り出すようにして手を伸ばし、もう一度握手を交わした。
「いつでも来いよ」
「うん。今度はうちにも来てよ」
「ああ、そうだな。お前の国も一度見てみたいもんだ」
「頼もしい仲間たちがたくさんいるよ」
「……おっかないのをけしかけるのはもうやめろよな」
「がう?」
「おっかないやつなんていないよなぁ、プックル」
このままではいつまで経ってもここを立ち去れないと、アンクルが「行くぞ!」と声をかけるなり、下から支える魔法のじゅうたんを運ぶように、大窓を離れて飛び上がった。ぱっと離れた互いの手の感覚はそのままに、リュカはその手を振り、ヘンリーもまたその手を振って一時の別れを告げた。
今までにこれほど明るい別れがあっただろうかと思えるほど、リュカは明るいヘンリーの顔を見つめ、ヘンリーは明るいリュカの顔を見つめた。お互い、一人ではない。家族がおり、苦楽を共にする仲間たちがいる。晴れ渡った青空を望めば、これから先には明るい世界が広がるばかりだと希望だけを抱く。
あっという間に小さくなったラインハットの景色の中に、ラインハットの城下町に住まう人々が空を見上げ、指さしたり大きく手を振る者の姿も見られる。竜神が青空を旋回している。あらゆる景色が今は光に満ちていると、リュカは自然と浮かぶ笑みそのままに親友の国を眺めていた。

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