神の褒美
昼の陽光は明るく、竜神の背に乗るリュカたちを心地よく照らしている。青空はどこまでも広がり、南の海の方へと目を向ければ、そこにぽつぽつと白い雲が浮かぶ景色が見えるだけだ。リュカたちが魔界で戦っている最中、この地一帯が暗雲に包まれ、世界は間もなく完全なる闇に覆われかけていた余韻はどこにも見当たらない。リュカたちを乗せる竜神は広く晴れ晴れとしている世界の景色を琥珀色の目に映しながら、その心は非常に安らかに凪いでいた。
ラインハットを後にしてすぐ、リュカの視線は自然とある方角へと向けられていた。幼い頃、父に連れられプックルと共にラインハットへ向かうべくこの広い平原を歩いた。その平原が今リュカたちの眼下に広がり、大きな川を挟んで向こう、懐かしきサンタローズの村がある。竜神の背に乗り移動すると、世界はこれほどに狭いものかと、あっという間に見えた山深い村の景色にリュカは思わずその景色に見入る。
竜神が突然そこで旋回をした。ポピーが小さく悲鳴を上げてリュカにつかまる。ピエールもバランスを崩しそうになり、転がりかけたところをアンクルに支えられた。今リュカは、ずっと手にしていたドラゴンの杖を持っていない。杖は魔界の奥深くで彼の手を離れ、今も恐らく魔界の奥底にあるままとなっているに違いない。以前にも竜神の背に乗り、空から世界を見たことがあったが、その際にはドラゴンの杖を通じて竜神とも意思疎通を図ることができた。しかし今は竜神の意のままに空を飛び、リュカたちにもその行先は分からないのだった。
しかしこの場で竜神が旋回をしたということは恐らく、とリュカはサンタローズの村に寄ることを期待する。ただ、この山がちの地形に竜神が降り立てるような広い場所がないようだと、リュカは遥か下方のまだ小さな地図ほどに見えるサンタローズの村をじっと見つめる。
意思の疎通が図れたわけではない。しかしそれはただリュカが竜神の意図を読めないだけで、竜神は当然のようにリュカの心情に気づいている。伊達に神様をしているわけではないと言わんばかりに、竜神はその場で垂直方向に一回転をすると、ポピーだけではなく皆が悲鳴を上げる中、世界の救世主には特別だというように神としての力をほんのわずかに放った。途端に光に包まれたリュカたちには、一体何が起こっているのか分からず、ただその身体は竜神の背を離れていく。
祈りを捧げるシスターが両手を合わせる、村の小さな教会の遥か上方から、高らかな竜の鳴き声が響いた。目を閉じていたシスターはその声に静かに目を開ける。ちょうど時は昼頃。一日に二度の食事で事足りている彼女はこの後も本来ならば村の復興をと、数少ない村人たちと力を合わせて手を働かせていた。
胸には、数カ月前に過労と心労に倒れた神父から譲り受けた首飾りが光っている。ずっと村の再生を共に夢見ていた恩人でもある神父が亡くなってしまったことに、彼女はこらえきれない悲しみを抱きつつも前を向き、それでも神は人間を見捨てはしないのだと信じ続けた。神への信仰が彼女の心のよりどころであったことは確かだ。しかし、彼女のその役目は唐突に終わってしまったのだ。
神の奇跡としか言いようのない出来事が、このサンタローズの村に起こっていた。少し前まで村の上空、のみならず、その暗雲は遥かにどこまでにでも広がっているような景色があった。しかしその暗雲の景色はある時、一度に吹き飛んでしまった。そして神への祈りを欠かさず、サンタローズの村はいつか必ず復興を遂げるのだと、日々の仕事は小さいながらも手を動かしていたシスターの目の前に、かつてこの村に住んでいた者たちが次々と姿を現したのだ。それは初め、夢だと思った。しかしかつて村に住んでいた者たちは皆、相応の年月を経て、年を重ねた姿となっていた。武器屋を営んでいたパパスの喧嘩友だちを自称する男も、幼いリュカが村のあちこちを動き回るのを静かに見守っていた宿屋の主人も、パパスを相手に自ら酒を口にしてしまっていた酒場のマスターも、他にも村に暮らしていた人々が村に戻ってくる光景を目にして、シスターはしばし信じられない思いでただ立ち尽くしていた。戻ってきた者たちは皆が皆、己の意思でこの村に戻ってきたのだと話す。しかしどうやって戻ってきたのかは誰も分からないという、不思議としか言いようのない現象がそこにあった。彼らの話を聞いてシスターは、やはりこれは夢なのだと思わざるを得なかった。しかしたとえ夢でも構わないと思った。人間は夢を見るものだ。夢なら夢で、この世界を目指して現実を生きていけばいいと、彼女は常と変わらず神に祈りを捧げながら夢と現実に向き合うことを覚悟した。
彼女の夢は、サンタローズの村をあの時の平和の姿に戻すこと。それは徐々に再生していくしかないものだと当然理解していた。しかしそれさえも、夢は大きく覆してくれた。一晩だ。寝て、起きたら、村の景色は一変。村を包んでいた毒の沼地の臭気が感じられず、村に漂う空気は日に晒され、清らかな川の上を心地よく滑り、空気を吸い込んだ肺をまるで傷めない。シスターは自分があの頃の少女に戻ったかのような錯覚を覚えた。荒れ果てていた村の景色は、彼女が幼い少女だった頃の景色そのままのものに戻り、かつての惨劇など何もなかったかのような平和な光景を見せていた。
気づけば、長閑な村の風景を演出するように、すっかり昔の景色のままの村には家々が建ち、臭気を上げていたはずの毒の沼地は消え去り、そこにはふかふかに耕された畑が蘇っている。夢にしては出来すぎている。幼い自分がここまで村の景色を細かく覚えて、夢に再現しているのだろうかと思うと、それもまた不可能なのではないかと感じる。教会が頼りだと訪ねてくる村人たちと話をすれば、彼らが知らぬところで過ごした年月を感じることができる。時は、決して止まっていない。動き続ける時の中を生きてきたのであれば、この信じがたい現象は確かに現実に起こっていることなのだと認めることができる。
教会の中で祈りを捧げていても、高らかに聞こえた竜の鳴き声に、シスターの口元に笑みが浮かび、小さな皺が刻まれる。外に出ている村人たちは、一様に晴れ渡る空を見上げているのだろう。静かな村に、人々の明るい歓声のような声が聞こえる。彼女は今、神の奇跡というものを当たり前のように信じている。きっとこの村の奇跡は、神の御慈悲による奇跡に違いないのだと、そうでなければ説明がつかないものだと、もう彼女の中でサンタローズの復興した景色は夢ではなく現実のものとして受け止められている。
魔界の悪しき王は滅びたと、彼女は祈る際に両手を当てる亡き神父の首飾りを通じて神の声を聞いた。今まさに、その竜神がサンタローズの村の遥か上空を飛んでいるに違いない。もう一つの太陽かと見まごうほどに輝かしい竜神のその背に、かつてこの村に暮らしていた小さな男の子がいるのだろう。帰ってきた、彼が。神の奇跡もさることながら、一体あの小さな男の子だった彼が起こした奇跡はどれほどのものかと、彼女はまるでいつもと変わらない様子で神への感謝の言葉と共に祈りを捧げる。
唐突に目の前に現れたのは、一つの木の扉だった。リュカたちが並び立つのは明るい日に照らされた暖かな外で、開けた視界に映ったのは古びた木造の教会だ。それはこの村で唯一、惨禍を逃れた建物だった。いつから建つ建物なのかも知らず、しかしリュカは幼い時にこの近くにまで走ってきて遊んでいたことを覚えている。村人たちは皆、幼いリュカに優しかった。それというのも、この村に拠点を構えた父パパスの人望のなせる業でもあったに違いない。この村でリュカは、リュカ個人であるというよりも、パパスの子であることでこの村で安全に暮らせていたのだろう。
「リュカ、ここは……」
ビアンカが辺りをキョロキョロと見渡しながら、多少困惑しつつリュカに呼びかける。ビアンカはこのサンタローズという村がラインハットの襲撃を受け、ほとんど滅ぼされてしまった時の景色で、記憶が留められている。ましてやここを訪れるのはそれ以来のことで、彼女は自分の目に映る景色を初めて見るものとして捉え始めている。しかしそれはリュカも似たような状況だった。
ラインハットの援けによりサンタローズの村の復興は進んでいることを知っていたリュカも、まるで過去に少年であった彼が暮らしていた時と同じ村の景色が広がっていることに、驚かないではいられなかった。夢でも見ているような気分で、あまりに平和で、幼い頃の記憶そのものの村の景色に、リュカもまた驚きの表情でしばしその場に立ち尽くしていた。
「あれ? マスタードラゴンは上に飛んでるよ」
「私たち、どうやってここに来たのかしら……?」
ティミーとポピーもこの場所には足を踏み入れたことがない。かつてリュカが父パパスと、従者サンチョと共に暮らしていた村の話をしたことはあったかも知れない。しかしそれがこの場所だとは当然気づかず、見知らぬ村の景色にただ訳も分からない様子で辺りを見渡すだけだ。
その時、目の前の教会の扉がきしむ音を立てて開き、中から一人のシスターが姿を現した。村人たちが教会を訪れることは珍しいことではない。しかし目の前に立つ四人は明らかに旅人であり、シスターの視線がリュカと出会うと、彼女は息を吞んでしばしその顔に見入った。
サンタローズの村の景色は、彼らが少年と少女であった頃のように、美しく輝いている。日に晒された緑は力強くも温かく、耳には近くを流れる川のせせらぎの音が心地よい。健康的な作物を育てる土壌があり、よく耕された畑からは良い土の匂いが運ばれてくる。教会の周りに咲く花々はどれも瑞々しく、そこが荒れ果てていた地であったことなど忘れ去っているかのようだ。子供の頃のあの景色であるにも関わらず、リュカの前に立つのはこの村で苦労を重ねてきたであろう一人の立派なシスターであり、シスターの前に立つのは幼い頃から想像も及ばぬほどの壮絶な人生を送ってきた遠い国の王であることに違いはない。夢のような現実があるとすれば、彼らが今目の前に見ている光景そのものなのだろう。
「ようこそ、お帰りなさい。サンタローズの村に」
落ち着いたシスターの声に、リュカの心もまた落ち着いた。サンタローズの村はあの頃の景色を取り戻している。つい数か月前にリュカはこの村を訪れている。その際にはまだ村の景色はあの時の惨状をあちこちに留めており、果たしてこの村は元の姿に戻るのだろうかと半ば諦念に近い思いがリュカの胸にはあった。一度、壊されてしまったものは完全には元には戻らない。たとえ見た目に元に戻ったとしても、それは元あったものとは異なるものだ。村が壊れた景色を知っているリュカやシスターの心の中にはいつまでもその記憶が残るのだ。それだけでかつての平和なサンタローズの村は、完全に元の姿に戻ることはない。
しかし今は嘘のような平和な村の景色が周囲見渡す限りに在り、その温もり溢れる景色にリュカもシスターも、その心は無垢な童心の頃へと帰る。彼らの頭上、遥か上を、静かに緩やかに旋回を続ける竜神が見守っている。
「リュカさん。あなたがパパスさんとこの村から出かけて行った日。あの日のことをつい昨日のことのように覚えています」
見た目にはすっかり元の景色を取り戻したサンタローズの村に立っていれば、シスターの言葉をそのまま受け止めることができると、リュカは小さく頷いた。リュカもシスター同様、決してこの村の景色を事細かく覚えているわけではない。しかし見渡す景色のどこを切り取っても、リュカの記憶の中の景色のどれかと一致するのは、無意識にも幼い頃の記憶が残っているためなのだろう。何故それほどに村の景色を覚えているのか。それはきっと、あの時が最も楽しかったからに違いない。すぐ隣で、妻が小さく鼻をすする音が聞こえた。
「まさかあの日以来、二人とも帰らなくなるなど誰が思ったでしょうか……」
シスターの少女の頃の記憶の中でも、旅人パパスの姿は憧れの大人の男性の姿だったのだろう。パパスは長い航海の旅を終え、約二年ぶりにサンタローズの村へ、息子のリュカと共に戻ってきたのだ。そして数か月滞在しただけですぐに、ラインハットへと向かうこととなった。誰もが知り合いのようなこの小さな村で、二年ぶりに帰郷した父子の旅人を温かく迎え入れてくれたのは、この村でずっとその父子を待ち続けていた従者の存在も大きかった。村人たちは皆が皆、他所からやってきた旅人を受け入れ、惨劇の後でさえもこうして信じ続けてくれている。改めて考えてみると、幼い頃には何も気づかなかったこれらのことは、サンタローズの村人の温かさがあって初めて生まれたことなのだと、それを代表するかのように成長した少女の姿に過去の村の姿を知る。
「しかし今あなた方はこうして帰ってきてくれました」
シスターとしてサンタローズの村の教会で立派に日々務めを果たしている彼女だが、言葉を口にする音に、シスターという立場を超えた、突き抜けたような明るい喜びの音が表れ始める。今や、リュカを見つめる目はまるで少女の頃のような純粋な驚きや喜びに満ち、目には内から滲み出るような光が表れ、白い歯を見せてにっこりと笑っている。目に湛える涙の雰囲気は、村の悲劇を乗り越え、あの頃の明るい村の景色が戻ってきた嬉しさに明るくなる。
「しかも世界平和というお土産まで持って……。」
生まれも育ちもサンタローズの彼女にとっては、村が元気を取り戻すことに比べて、世界平和はお土産に収まってしまうのだと、リュカは思わず笑顔になった。人にとっての幸せとはそういうものだし、それで構わない。隣にいる家族が、友人が、仲間が笑ってくれていれば、それが人の最たる幸せというものだ。リュカ自身もまた、そのために今まで戦ってきたのだ。この世界を救いたいと初めからそんな大層なことを考えていたわけではないし、究極的にはそれを考えたことはないのかも知れない。しかし大事な者たちを守るためには、大事な者たちに笑って過ごしてほしいと思えば、己には恐らくこの道しか選ぶことはできなかった。それが運命、宿命と言われるのなら、それを否定することもできないが、紛れもなくリュカは己の行く道は己が決めたのだと思うことにしている。そうでなければ、無責任ということになってしまう。
シスターが突然、組み合わせていた両手をぐっと握りこみ、両目をきつく閉じ、「ほんっとうにうれしいっ!」と叫ぶように言った。その一言に、彼女のこれまでの長年の苦労が報われたのだと、リュカも一緒に笑顔になって喜んだ。これまで彼女はどれだけの絶望に追いやられていたのか。しかし彼女もまたこの村で、絶対に諦めてなるものかと歯を食いしばり、村の生き残りの者と共に支えあって生きてきた。その彼女の苦労がここでこうして報われたのなら、リュカとしてもこれほどうれしいことはない。
―わーい、うれしいなあっと! リュカが帰ってきた! わーい、わーい!―
あの時の少女が飛び跳ねて喜んでいる姿が、リュカには見えたような気がした。リュカにとっても取り戻せない時間は、シスターとなった彼女にとっても取り戻せない時間だ。しかしこれからの時間を、恐らく神様のご褒美でもあるサンタローズの復活と共に彼女が歩んでいけるのなら、彼女が背負ってきた苦労はここでようやく報われることになるだろう。リュカにはそれが本当にうれしいことだった。
「あ、あら、私ったら取り乱してしまいました……」
赤面する彼女を見て、リュカはシスターが本当に目の前で飛び跳ねて喜んでいたのだと気づいた。
「ううん! シスターが喜んでくれて、私もうれしい!」
「そうだよ! ボクたち、そのために頑張ったんだもん! みんなが喜んでくれれば、それが一番うれしいよ!」
目の前でここまで感情露わに喜びを表すシスターの姿を見て、ポピーもティミーも一緒になって喜んだ。手を取り合い、ぐるぐると回り出す姿を見れば、やはり成長してシスターとなった彼女は少女に戻ったように見えてしまう。それはきっと、彼女がまだ若き娘であった頃の時間を失ってしまったからなのかもしれない。少女の頃に辛く悲しい現実に当たり、彼女はまだ成年前の娘であるにも関わらず、ただの子供のままではいられなくなった。年相応の子供のままでいては、ただの大人の足手まといになってしまうからだ。
恐らくリュカよりも十ほども年上の彼女だが、その表情はまるで彼女がまだ一人の若き娘であった頃を思い出させるように幼く、無垢なものだった。温かく、命ある村の景色に包まれ、サンタローズの村でのこれからの生活が輝くばかりのものとなった彼女の未来を共に喜ぶように、リュカも手を差し出し、彼女と固く握手を交わした。
「ウソみたい……。私、夢を見てるのかしら。村がすっかり元通りだわ」
事情を話し、教会を去る時も、シスターは明るくリュカたちに手を振り、そして教会の中へと再び入っていった。リュカの帰る場所はここではない。彼は家族と仲間と共に、ここから遠い地にあるグランバニアへと戻らねばならない。サンタローズの景色を目にすれば、リュカはここが自分の帰るべき場所なのではと錯覚を起こしかけるが、隣を歩く大人の姿をしたビアンカに、双子の子供たちがいれば、それはただ思い出に浸っているだけなのだと自覚できる。
「世界が平和になったばかりなのに、いつの間に修復したのかしら?」
「不思議だね」
リュカもビアンカの言葉に相槌を打つように返事をする。実際、今のサンタローズの景色のあり様は、ありえない現象なのだ。リュカは幾度かこの村を訪れ、廃墟となってしまっていた村の景色を目にしている。ビアンカもまた、実はサンタローズの村がラインハットの襲撃を受けたという話を聞いた直後に、一人勝手にアルカパの町を飛び出し、村の惨状を目にしたことがあった。その時の衝撃が今も胸に残っているために、彼女はすっかり元通りとなってしまったような村の景色に、夢でも見ているようなふわふわと浮ついた気分で村の中を歩いている。
「もしかしたら私たちへのプレゼントに、神様がチカラを貸してくださったのかもね」
「きっとそうだよ」
それがどこの、何の神様などという話をリュカはしなかった。今も、この村の遥か上空をゆるやかに竜神が飛んでいる。たとえばあの竜神の力でサンタローズの村がこうして昔の景色を取り戻したとしても、リュカは特別礼を述べるつもりはない。竜神もまた、リュカに礼を言ってもらえるとも思っていないだろう。これが竜神の力によるものなのかどうかを確かめるつもりもない。竜神もまた恩着せがましくやってやったという態度をとることもないだろう。ただ、サンタローズの村がこうして昔の平和な景色を取り戻したという現実があり、そこには確かにその年月を経たかつての村人たちが戻り、この村と共に生きていこうとしているという事実がある、それだけで良いとリュカは空を見上げて竜神の姿を目に確かめることもしなかった。
リュカの記憶では、このサンタローズの村で過ごしたのはほんの数か月の間だけのことだ。しかし彼はこの村の地理を不思議なほどにしっかりと覚えている。それほど広い村ではなく、幼いリュカでも一日あれば村全体を回れるほどにこじんまりとしているのだ。彼は外での父との旅とは異なり、この村では一人で自由に動き回れることができたために、その時の楽しくわくわくした思いと共に様々覚えていたに違いなかった。
それはビアンカも同じだった。ビアンカは隣町アルカパに住む少女でありながらも、このサンタローズの景色はきらきらした思い出と共に脳裏に、また胸の中に残されていた。教会を出て少し歩くと、近くをゆっくりと散歩をする一人の老人と出会った。横には村の若者が付き添ってはいるものの、杖を手に歩く老人はさほど付き添いも必要ではないほどにしっかりとした足取りを見せている。空から照る陽光が気持ち良いというように青空を見上げ、杖を支えに背筋を伸ばす。その老人の姿を見て、リュカは思わず立ち止まり、信じられないという思いで口をあんぐりと開ける。
「あっ、あなたはいつぞやの……」
歩く老人に付き添う若者が、リュカを見て目を丸くし、声をかける。以前リュカは、ヘンリーとデール、そしてサンチョと共にこの村を訪れ、目の前の若者とも話をしたことがあった。その時、若者は寝たきりとなっていた老人の世話をしていたが、まさかその時の老人が今健やかに歩いているとは思えず、リュカは返事もままならないまま目を瞬き、老人を見つめている。
「僕も驚いているんですよ! おじいさん、急に元気になって歩き出すようになって……一体何が何だか……」
そう話す若者は、困惑よりも喜びを前面に出し、その表情はただにこやかなものだった。
「かと思ったら、村も景色が変わっちまって……これが神のゴカゴってやつなんですかね?」
「そうそう、その、神のゴカゴってやつだよ、きっと。でも……良かったね」
「はい!」
明るく返事の出来る若者を見て、リュカはこの村には特にこのような若い力が必要だろうと思った。村が元の姿に戻った奇跡があったとして、そこで終わってはいけない。人の命というのはこれからも言わば永遠に繋がっていくものだ。
「おお、旅人さんかの?」
老人がリュカたちを見つめる目に、強く生きる力を感じる。光がある。あの時の寝たきりとなっていた老人と同一人物とは思えない力強さを感じるが、間違いなくあの時の老人だった。杖を頼りに歩く姿を見せるものの、その背筋は丸くなってはおらず、その内杖も必要ではなくなるのではないかと思うほどに彼は自分の足で地に立っている。
「ふむ……どこかで見かけたことがあるような……」
顎の白髭を左手で触りながら、老人はじっくりとリュカを見つめる。今、彼の頭の中には彼がこれまで経験してきた長い歴史の場面場面が次々と映し出されている。それは目にもとまらぬ速さで変化し、老人の思考とは別に移り変わる。しかしそれが唐突に、一つの場面で止まる。老人の脳裏に止まって映された景色には、かつてこの村に住居を構え、村人たちからも慕われていた屈強な戦士の姿が現れている。旅に出ていることが多かったために村にいることが珍しいほどだったが、寧ろそれが故にあの戦士の存在は目立ち、老人にとっても大きなものとなった。
夢うつつに、あの時の戦士は異国の王だったと、老人は知らされた。驚くことはなかった。ただ納得するばかりの過去の事実に、老人はあの時の戦士パパスがどこか威風堂々としており、村人たちの信頼も間もなく厚くなったことをも思い出す。村の奥にある洞窟に足を踏み入れる許可を与えられたのも、老人がパパスという男を信じることができたからだ。その後、村は残酷な運命を辿ることとなったが、老人は決してパパスという男を疑わなかった。妻を探し旅を続けているという男の言葉に嘘はないと感じていた。ましてや彼にはまだ幼い子があった。幼子を連れる旅を続ける理由として、彼が話す妻を探す旅というのは、彼の真剣な表情も含めどこにも嘘は見当たらなかった。
その時信じた男の面影を、老人は目の前に立つ青年に見出した。青年はどこか優しげであり、あの時の屈強な戦士を彷彿とさせる雰囲気は感じられないながらも、その目に宿る意思の強さたるや、寧ろあの時の戦士を超えているのではないかと思えてくるほどだった。落ち着き、穏やかな顔つきを見せながらも、青年の精神は逞しく、そして揺るぎなくそこにあるのだと感じることができた。
「昔、この村にいたパパス殿は……」
老人の言葉は非常にはっきりとしており、誰もが白髭に覆われた口からパパスの名が出たことを聞いた。リュカの両目が僅かに見開かれる。
「なんと、グランバニアという国の王様じゃったそうじゃ。わしゃ、もうびっくりじゃわい!」
老人がパパスを思い出したのは、間違いなくリュカの表情にあの頃のパパスを見出したからだった。しかし老人自身がそれには気づかず、ただにこやかに笑ってそう話しただけだった。老人は恐らく、ほとんど寝たきりとなっていた状態の時にも、人の話す言葉は聞こえており、村のシスターなどからかつてのパパスの素性などを耳にしていたのかもしれない。それとも、これもまた“神のゴカゴ”なる妙な力が働いた結果に起こったことなのかも知れない。その経緯などリュカには分からないことだが、老人の隣でリュカと同じように驚いている若者の姿を見ても、この村にも新たな風が吹いているのだということを感じ取ることができた。この場では誰もが、笑顔を見せている。この村の惨状を目にし、記憶にも残っているリュカやビアンカからすれば、サンタローズの村がこうして昔の姿を取り戻し、明るい日に照らされ、村のどこからも生きた土の匂いが漂うだけで目頭を熱くし、思わず笑顔になる。
「おじいちゃん、この村では身分をかくして暮らしてたんだね。それって、すごくかっこいいかも!」
「わたしもこの村に住んでみたいな……。だってなんだかやさしい感じがするの」
ティミーとポピーの言葉に、老人はただただにこにこと笑顔を向けるだけで、隣に立つ若者は首を少し傾げながらも合わせるようににこやかに子供たちを見ている。ここで細かな話をすれば、この若者などはひっくり返ってしまうかもしれないと、リュカは「また来ますね」と言い残し、健康的な老人と若者に手を振ってその場を後にした。
「ねえ、お父さん、どうしてボクたちをここに連れてきてくれなかったの?」
「ラインハットからそんなに遠くないところよね。来ようと思えば来られたのに、どうして?」
リュカは旅の間、子供たちをこのサンタローズの村に連れてくることはしなかった。子供たちの心に、無用な傷を作りたくはなかったのだ。ただでさえ彼ら二人は生まれた時から父も母も知らず、ましてや勇者などという宿命まで負わされてしまっていた。どこの親が我が子を辛い目に遭わせたいと思うのだろうか。要らぬ痛みを負わせることなど望まぬリュカが、ティミーとポピーをこの場に連れてこなかったのは当然のことだった。
「お父さんも、おじい様のことを思い出すから、ちょっと寂しくなっちゃうんじゃないかしら? ね」
ビアンカの言葉には、彼女自身の思いも含まれているのだとリュカは感じた。こうして昔の景色を不思議と取り戻したサンタローズの村であっても、一度は滅ぼされかけてしまったサンタローズを知っている者であれば、彼らの心がリセットされることまでにはならない。この村は確かにラインハットの襲撃を受け、深い深い傷を負ったのだ。その傷があるだけに、あの頃の平和な時間を思い出すと、戻れないという現実の辛さ、寂しさに行き当たってしまう。
「そうだね……そんなところかもね」
ビアンカの寄り添う言葉に、リュカは甘えて乗じることにした。彼女の言葉が全くの嘘というわけではない。寧ろそこにはリュカの本心がある。確かに、この村に来ればあの時の思い出が胸に沸き、決して戻れないという一抹の寂しさを覚えてしまう。それが自分のことのように分かり、想像できるから、ビアンカはそうやって子供たちにささやかに説明したのだ。
「……そっか。あの、ごめんなさい」
ティミーが落ち込んだように、反省するように小さな声で謝るその反対側で、ポピーが静かにリュカの手を取り、手を繋いだ。その仕草は、父の寂しさを慰めるような優しさでもあり、彼女自身が感じる寂しさを紛らせるものでもあった。父が寂しい思いをしていると思うと、それだけで自身も寂しさを感じてきてしまうのが、ポピーという利発で心優しい娘なのだとリュカは彼女を自らの誇りにも感じている。
「あはは、大丈夫だよ。来てみたら意外と……寂しくもないもんだね」
「ふふ、それなら良かったわ。……あ、じゃあちょっと行ってみましょうよ」
「どこへ?」
「そんなの、決まってるじゃない」
そう言いながらビアンカが目を向ける方向には、ぽつぽつと立つ村の民家がある。その景色が、リュカが幼い時に見たものと全く同じであるかどうかはもはや分からない。しかしその中に一つ、リュカにもはっきりとその姿を覚えている家がある。この村では珍しい二階建てであるために、その家は遠くからでも眺めることができる。当時とまるで同じ姿だと、リュカは感じた。つい数か月前にこの村を訪れた時にはもちろんその家はなく、ただ家の近くにはリンゴの木が立つだけだった。まるで夢の世界にいるようだと感じるその景色を見て、リュカはやはりこの村には“神のゴカゴ”が働き、村自体が当時の姿を思い出すように、あの頃の平和なサンタローズの姿を取り戻したのだと考えざるを得なかった。
季節は夏を迎えているのか、青々とした木々の景色に、復活した村の強さまでをも感じる。耳に聞こえる、村の中を流れる川の音が涼しい。妻となったビアンカと、心優しく元気な二人の子供たちと、平和な姿を取り戻したサンタローズの村の中を歩いているだけで、リュカの心はふわふわと浮ついた状態となっていた。夢なら覚めるなと願うが、感じる夏の暑さも、耳に聞こえる川の涼やかな音も、健康的な土の匂いもすべては本物だ。近づいてくるかつて住んでいた家がどこか小さく見える違いはあるが、それだけだった。
「ここ、すごく懐かしいわ……。ねえ、リュカ、覚えてる?」
二階建ての家の脇の道を歩きながら、ビアンカは独り言のようにそうリュカに問いかける。ビアンカの隣でリュカも家の二階の窓を見上げる。あの二階の部屋でビアンカと本を読んだ記憶がおぼろげに蘇ってくる。当時、自分は本を読むことはできなかったかと、リュカの記憶は少々あやふやだ。蘇る記憶には、ビアンカが得意げに指先に火を生み出す景色が浮かび、それに続いてリュカ自身が初めて回復呪文を成功させたことを思い出す。父の喜んだ顔が自分よりも下に見える。宙にふわりと浮いているような感覚。笑顔の父に高く抱き上げられ、父が心底喜んでくれていたのだと、今になってそれがリュカには分かったような気がした。
リュカが無言で立つその横顔を見つめながら、ビアンカははっと気づいたように言葉を続けた。
「……って、ううん。なんでもないわ。昔のことばかり思い出しても、意味ないものね」
彼女はリュカが寂しくならないように、辛くならないようにとそう言っただけだった。しかしその実、彼女自身がかつての平和で楽しかった頃のことを思い出すことに、そこはかとない淋しさを感じていたのだ。あの時は隣町アルカパで彼女の父ダンカンが風邪に倒れ、その薬を求め彼女は母と共にこのサンタローズの村を訪れていたのだ。ビアンカの思い出す景色の中には、はっきりと、かつての元気な母の姿があった。アルカパの町で宿を切り盛りする元気そのものの母だった。お転婆の止まない娘ビアンカをよく叱る、温かな母だった。鮮明に思い出せてしまうために、二階の窓を見上げるビアンカの瞳には知らず涙が滲む。
道を歩き、家の正面へと回り込んだ。変わらずある井戸、そしてあの時にはなかったはずのリンゴの木が育っていることに、リュカはこれが夢ではないのだと思うことができる。しかし今、木に実はなっていない。村人が収穫したのだろうと、リュカはそこにも生きている命を感じた。
その時、民家の玄関の扉がゆっくりと開いた。人が住んでいると思っていなかったリュカもビアンカも思わず驚いて、家から出てきた人物をじっと見つめてしまった。その視線に気づかないではいられなかった家の住人の男は、前掛けをしたような姿で、どうやら四人家族と見える彼らに会釈する。
「あ、あの、この家に住んでいるんですか?」
「え、ええ、つい先日からですが……あ、旦那様に何か用ですか?」
目が合ったからと、すかさず話しかけたビアンカに、どうやら使用人らしきその男が答える。体形はやせ気味で、使用人としてはどこか頼りないと感じてしまうのは、リュカが勝手に一人の使用人を想像してしまうからだ。
「旦那様なら上にいますよ」
そう言うと、彼は玄関から出てきて用をすることを後回しに、再び家へと戻り、彼の言う“旦那様”を呼びに向かったようだ。まるで誘われるようにリュカが歩く傍で、ティミーが不思議そうにリュカに問いかける。
「お父さん、このおうちの人と知り合いなの?」
「いや、そうじゃないんだけどね」
「私、お父さんとおじい様が暮らしていたおうちに行ってみたいなぁ」
「あはは、ここがそうなんだよ、ポピー」
リュカが自然に笑いながらそう言うと、ティミーとポピーが同時に「えっ!?」と素っ頓狂な声を上げた。開かれたままの玄関の扉を手で押さえ、リュカは家の中を覗き込んだ。すぐ奥に見える台所もあの時のまま、そこにいつも立っていた太っちょの使用人の姿がリュカには見えるようだった。この建物も一度は跡形もなく壊れ、崩れていたというのに、家だけではなくその中までもあの時のままに姿を戻している。
二階から階段を下りてくる先ほどの使用人の男性に続き、後からもう一人、“旦那様”が下りてきた。その姿を目にして、リュカよりも寧ろビアンカの方があからさまに肩を落としていた。リュカにも彼女がそのような雰囲気を隠せなかった理由はわかる。どうしても彼らは、あの二階から下りてくる人物に屈強な戦士像を描いてしまっていたのだ。しかし旦那様と呼ばれる男の姿は使用人よりも瘦せており、足元までを覆うローブに身を包んだその姿は戦士とは呼べず、言うならば一日中城の図書室にこもっているような学者を彷彿とさせるものだった。リュカも思わず肩に力が入っていたが、その旦那様の姿を見て静かに深く息をつくと同時に、肩から力が抜けるのを感じていた。しかし、これで良かったのだとも思っていた。この家に住む人ならば、父に似ていない人がいい。あの時のあの思い出は、この村がこうして奇跡的に復活を遂げたとしても、合わせて復活できるようなものではないのだ。それだからこそ、大事にリュカの胸に在り続けてくれる。
「この家はその昔、伝説の勇者の祖父パパスと勇者の父リュカが住んでいたそうだ」
使用人の男性がリュカたちに茶を用意しようとしていたが、リュカはそれを丁重に断った。旅をする中で時間がさほどないと短く説明すると、学者を思わせる家の主人は旅人に聞かせるにはうってつけだと言うように、立ち話の中でそう話し始めたのだ。
「それを……知っていたんですね」
「ああ、まあ、たまたま知ったのだがね。しかしそんな大事な場所を放っておくこともできないと、私は自らこの場所に住むことで、かつての勇者の祖父と父が住んだ家を守ろうと、そう考えたのだよ」
「そうなんですね。それは、ありがとうございます」
「いやいや、礼には及ばんよ。しかし驚かんかね? これほどこじんまりとした家に、勇者に連なる者たちが住んでいたなど」
「そう考えてみると、そうかも知れませんね。僕はここをよく知っているので……」
「なに? 知っていると? そうか、それで見学しに来たのだな」
「見学……」
「見学! そうね、見学させてもらいましょうよ。私、二階もちょっと見てみたいかなぁ、なんて」
それはビアンカのただの好奇心や純粋な願望から出た言葉だった。そして瞬時に相手の言葉に乗り、この機を逃さないという判断ができるビアンカに、リュカは内心で感嘆するばかりだった。この強かさは彼女が持って生まれた特性だと、あの時強引にリュカをこの家の二階へと連れて行った彼女の手を思い出す。
家の主人が快く家の中へと招いてくれたため、リュカとビアンカが先に家の中へと入り、続いて後ろに立っていたティミーとポピーも「お邪魔しまーす」と元気に挨拶をして入っていく。子供とは言え、ティミーが背中に背負い身に着けている天空の剣の煌めきに、家の主人も使用人も思わず目を丸くしている。ただものではないと一目に分かるその神々しい武器に、彼らは互いに目を見合わせて首を傾げた。
今家に住む二人と共に二階へ上がると、リュカは変わらぬ部屋の景色に、また一つの思い出が脳裏を過るのを感じた。机ではよく、父パパスが調べ物や書き物をしていた。幼いリュカには父が何を読んで、何を書いているのかも分からなかった。今にして思えば、父はリュカには何も知らせないために、積極的には文字も教えなかったのではないかと勘繰ってしまう。そもそもそのような時間もなかったというのが真実なのだろうが、当時の父としては旅に無邪気に連れ立つ幼い息子に、魔界に連れ去られた母を捜す旅をしているのだなどとは言えなかったのだと思う。父が読むもの書くものには必然と、魔界のこと、勇者のこと、伝説の武器防具のことなどがあったのは確かだ。リュカは幼いながらも父の手助けをしたかった。しかし父は子供に僅かな荷でも背負わせたくはなかった。二人の子供の親となったリュカには、当時の父の想いを我がことのように想像することができた。
ビアンカもまた、この部屋に思うことがあったようで、彼女は迷わず部屋の端に置かれる本棚へと歩み寄っていった。本棚にはあの頃と同じように、びっしりと隙間なく本が並べられている。並ぶ背表紙を人差し指で追いながら、彼女の指は一冊の本で止まる。
「信じられない……」
ビアンカが丁寧に引き出したその本は、何かの事典のように分厚い本で、表紙には『天空城』とあった。初めのページをめくると、そこにはあの天空城の簡素な絵と合わせて、古い言葉で天空城の辿った一つの歴史が語られている。
「おじさまは……知ってたのね」
「ああ、その本は私が苦労して手に入れた本の一つなのだよ。とても興味深いものだろう? この本には伝説の勇者にまつわる話も……と、何故この本のことを知っているのかね?」
リュカとビアンカは寧ろ、この家の主人のその言葉に驚きを示した。学者の雰囲気を醸す家の主人の言葉に嘘は見られず、彼がただ勇者の伝説であったり、天空城のことであったりを純粋な興味を持って調べ続けていたのだと感じられる。
「僕の父が、この本と同じものを持っていたようで……」
「お父さんは昔、ここに住んでいたんだよ!」
「おじい様とお父さんと、サンチョさんも一緒だったのよね?」
「なに? 昔ここに住んでいたと……?」
家の主人は訝し気な表情で、家族に違いない四人の旅人を改めて眺める。彼が最も違和感を覚えていたのは、まだ子供でありながらも、見たこともないような立派な武具を身に着けるティミーだった。子供が身につけているものだから、少々華美なものでもそれは玩具の類なのだろうと思うようにしていたが、それにしては放つ輝きが目に眩しく、心にまで沁みるようだった。
彼は先ほど、自分の口で言ったのだ。“この家はその昔、伝説の勇者の祖父パパスと勇者の父リュカが住んでいたそうだ”と。その言葉が今、彼自身に跳ね返り、目の前に立つ立派な天空の装備品を身に着けるティミーの姿に、彼の目は飛び出そうなほどに丸くなる。
「す、すると、あなた方が! あわわわわ」
腰を抜かしそうになる彼をリュカは慌てて支えるが、その手さえも恐れ多いと言わんばかりに家の主人は目を白黒させて言葉も継げない。しかし彼のそんな慌てふためいた状態も見ないまま、ティミーとポピーは初めて目にする父と祖父とサンチョの暮らしたこの家の景色を隈なく見回している。
「あ~ん……誰もいなかったら、このおうちでゴロゴロしたかったのに……」
「ねえ、お父さん。ここを別荘にしようよ」
「何を言い出すのよ、この子は……。もう住人がいるでしょ。ティミーったら失礼な子ね」
おほほほと口に手を当てて笑うビアンカの笑顔は少し引きつっていたが、それはもしかしたら彼女自身が少し同じようなことを考えていたからかも知れなかった。家の主人などはティミーの言葉を聞いて更に腰が引けたように「そ、それは当然、もちろん、あなた方がそう仰るのなら……!」と、後先考えずに家を譲る気になっている。リュカは彼を支えながら、かつては父がよく座っていた椅子に座らせると、落ち着いた様子で彼に言う。
「僕たちには僕たちの家があります。だから……大事に住んでください」
ここはリュカの思い出の場所だ。思い出の場所は、思い出の場所としてあってくれればそれで良い。誰が起こした奇跡か分からないが、このサンタローズの村はこうして昔の姿を取り戻した。思い出の場所を、大事にしてくれる人がいるのなら、それは非常に幸せなことだとリュカはもう一度このサンタローズの家の景色を見渡す。ほんの数か月、暮らしただけの思い出だが、ここにはリュカの濃密な幸福の時間が詰まっている。それがここにあるというだけで、これからのリュカの人生の支えにもなるのだ。
リュカたちがサンタローズの家を去る時も、家の主人も使用人も、決して欲深いような願いなど一つも口にしなかった。ただ握手を交わすだけで感激を露わにし、「この手はもう洗わん!」などと少々不穏なことも言っていた。
家を出て、再び村の道に出る。窓を見上げる。ふとリュカの目には、窓の向こうに立つ父の姿が映ったような気がした。子供の頃はきっと気づいていなかった。しかし父パパスはいつもいつもこうして幼いリュカが外で遊ぶ様子を二階の窓から見つめていたに違いなかった。その表情は心配するようなものだっただろうか、嬉しそうに口髭生やす口角の上がったものだっただろうか、いずれにせよその表情は慈しみ深いものだったに違いない。今も心の中で慕う父パパスを思えば、リュカにはそうとしか考えられなかった。
平穏な村の景色を眺めていると、川の土手を何かが駆け上がってくるような気配を感じ、リュカは咄嗟に身構えた。危険を感じるような鋭い気配ではない。しかしそれが何者であるかが分からないために、思わず家族を守るために身構えたのだ。
土手の草むらから姿を現したのは、一匹の猫だ。いや、ただの猫ではない。リュカに向かって一直線に駆けてくる大きな猫は、頭から背に向かって豊かな赤毛を靡かせ、いかにも嬉しそうな顔つきで向かってくる。
「プックル!」
「まあ! かわいい!」
子供の姿に戻ってしまったプックルは容赦なくリュカの胸へと飛び込むと、リュカは難なくベビーパンサーとなってしまったプックルを抱きとめた。ビアンカがプックルに顔を寄せ、プックルもビアンカの頬を何度も舐めた。
「えっ!? プックルなの!?」
「ウソでしょ? どうして? でもかわいい!」
「私たちにも何が何だか……」
プックルを後から追いかけ来たのであろう一匹のスライムが、ピエールの声で話している。確かに色は緑色をしているが、見た目にはどこからどう見てもスライムそのものだ。緑色のスライムが、怪訝な顔つきで話す様子を見て、リュカのみならず誰もが思わず笑ってしまう。笑われたピエールはショックを受けたように、表情豊かに驚き、落ち込んでしまった
「あっ、ごめんなさい、ピエール。悪気はないの!」
「ええ、分かっております、ポピー王女。私の姿がスライムになってしまったばかりに……」
「僕たちの先入観だね。スライムならスラりんみたいに話してくれるものだと勝手に思ってるんだ」
「にゃう~」
「でも村の人がピエールを見たらびっくりしちゃうわ。ほら、おいで、抱っこして隠していてあげるから」
「えっ!? いや、ビアンカ嬢に頼るわけには」
「おい、これって、オレたち戻れんのかよ。っていうか、誰の仕業だよ、こんなの」
いつものアンクルの声が聞こえるが、いつものアンクルの姿は見えない。プックルやピエールと同じように草むらからがさがさと出てきたのは、一匹の赤茶色をした子ヤギだ。可愛らしい声で鳴くはずの子ヤギが、アンクルの野太い声でリュカたちに話している。どうやら彼らを魔物の姿でこの村に入れるわけには行かないと、咄嗟に竜神が機転を利かせるように彼らの姿を変化させたのかも知れない。他に彼らの姿を変える要素も見当たらず、リュカのみならずビアンカも、ティミーとポピーも、一様にしてサンタローズの村の遥か上空を飛ぶ竜神を眩しく見上げた。
「そんなことができるの? マスタードラゴンって」
「おばあ様だって、あのジャハンナの町で魔物を人間に変えてたんだもん。マスタードラゴンだったらこれくらいできるんだよ、きっと!」
ティミーが自信を持ってそう言えば、むべなるかなという思いで誰もが頷いてしまった。兎にも角にも今このサンタローズの村では普通では起こりえないことが様々起きていることに、リュカは幼い頃に体験した妖精の国での冒険をも思い出す。まだまだ世界にはリュカの知らない物事が溢れているのだろうと、そう思うとリュカの表情はまるで少年の頃のような好奇心に満ちたものとなった。
「プックル! 今なら僕の方が早く走れるかも!」
「にゃうっ!」
そんなことはないっ!と言い切るプックルを置いて、リュカは村の広い道を先に走り出してしまった。小さなプックルが「にゃっ!」と抗議の声を上げたかと思うと、リュカの後を追いかけだした。あっという間に追いつき追い越すプックルに、リュカは「ダメかあ~」と笑いながらゆっくりと止まった。
「まったく、男の人っていつまで経っても子供よねぇ」
「お父さん、楽しそうでうれしいな」
「プックル! 今度はボクと勝負だ!」
「小さいとは言え、プックルはそもそも猫ですからね。なかなか……」
「今のオレなら勝負できるかもしんねぇぞ」
前足をかく子ヤギの姿のアンクルは、背に羽のような模様を見せながらその場に飛び上がろうとする。平和の景色を取り戻したサンタローズの村で、世界を救った勇者たちが、後先のことを何も考えないままに好きに遊んでいる。その景色を一人、遥か空から見下ろす者の琥珀色の瞳は優し気に、しかしどこか悲し気に光を湛えている。
遥か昔のこの世界で、惨く滅ぼされてしまった小さな村をもう一つ、マスタードラゴンは知っている。その元凶が自身にあることも、一人静かに理解している。今、その時の罪滅ぼしをしたということでもない。しかしこの世界を救った者たちへの褒美を神が与えることに何の問題があるだろうかと、マスタードラゴンは平和の景色を取り戻したサンタローズの村で笑う彼らの姿に、嬉しく微笑む。
そして同時に、あの時もこうしてあの村に平和を取り戻してやっていればという思いも過るが、そこでマスタードラゴンは人間らしい思考を止めた。世を統べる神として、人間という生き物に寄り添いすぎることの危険を知っている。この世界を救うのが人間ならば、この世界を滅ぼそうとするのもまた人間であったりもする。こうして地上から遥かに高い空に舞い、人間たちとは距離を置くことが、神という存在に求められていることに違いない。
神はただ、世界の平和を祈る。それを理解していながらもこうして手を差し伸べずにはいられなくなってしまったマスタードラゴンは、微笑むその琥珀色の瞳の中に、長らく人間の姿に扮し、人間世界に紛れ込んで過ごした日々を思い出している。竜神は一人、見下ろす世界の救世主らに羨望のまなざしを向けている。人間とはいいものだと感じる竜神は、もはや己の神らしからぬその心の在り方を悪いものだと思うことはない。