「たった一人の三十年戦争」を読んで
小野田寛郎(おのだひろお)さん、お名前は存じていましたが、細かなことは知らずに今まで過ごしてきました。こちらの本を読む前は、第二次世界大戦で生き残った兵のお一人、というぼんやりとした印象だけがありました。たまたまこちらの本が家に無ければその印象だけで私の中ではおしまいになっていたと思います。(第二次世界大戦という呼び名も、戦前から生きる方々から見れば違和感だらけなのかも知れません。私の父も生前は常に大東亜の時は~、大東亜が~と言っていました。)
本を読んだ後となっては、どうしてこの方の事を知らないでいられたのだろうかと、日本人として不思議な気にもなりました。本当に、いつもいつも思いますが、無知は罪だとつくづく思わせられます。知るか知らないかで、考え方が完全に転換することもあるし、今まで開いていなかった目が開いた感覚を得たりと、本を読むことで得るものは大変に大きなものがありますね。
とっても余談ですが、私はこの小野田さんという人の印象を、鳥山明さんが書かれた昔の漫画「ドラゴンボーイ」に見たことがあります。だから初めて出会った気がしなかったんだ……。
こちらの短編集の中にあるドラゴンボーイという漫画は、ドラゴンボールの原型とも思える漫画で、その中に登場する機械兵がいるんですが、上官の命令を忠実に守り抜こうとするその姿が小野田さんを髣髴とさせているんですよね。鳥山先生ご自身も、小野田さんをどこか意識してこの機械兵を描かれたのではないかなぁと思ってしまいます。
小野田さんは昭和十四年に中学を卒業後は、貿易商社に就職して中国に渡っていたそうです。そこで中国語も身に着け、それがもとで後に諜報要員として陸軍中野学校へ送られることに。中国で働いていた頃は「どうせ二十歳になれば徴兵だ」と刹那的に遊んでいたと。実際、昭和十七年に満二十歳を迎え、徴兵検査を受けて甲種合格となっています。
諜報要員として陸軍中野学校で学び、のちにルバング等へ派遣された小野田さんは、これほどの本を書いているにも関わらず、島での三十年の生活の中では一切メモを取らなかったという……信じられない。そんなこと、人間ができるのかと。全て、自分の記憶だけで当時の事柄を思い出し、事細かに当時の生活や人とのやり取りや島の状況やその時の思いなどを書いているということに、人間はやはり底知れない生き物なんだと思わせられます。
メモを残さないのは、敵に捕まった時に証拠を残さないため。小野田さんはその習性で、ルバング島での三十年間、一切メモを取らず、日にちから行動から全てを頭の中に記録してきた、ということです。こんなこと、できますか? 作り話の世界じゃないんですよね。やっぱり事実は小説よりも奇なりって真実ということなんでしょうね。いやはや。
ところで小野田さんは戦後三十年が経ってようやくルバング島から日本へ戻ったわけですが、この三十年の間に、戦争が終結していた情報は空から撒かれるビラや現地の人が残す新聞や、手に入れたラジオなどから得ていました。それならば何故、早くに日本に戻らなかったのか。
その情報が真実なのか、疑わしい。信じられない。敵が撒く偽情報かも知れない。偽情報で動くことはできない。
これが戦争ということなんでしょう。そうやすやすと目に見える情報を信じることはできないと考えるのは自然な防衛行動。しかも生きるか死ぬかの状況で、その上仲間たちの生死も預かるような状況で、先ず「物事を疑う」のは当然の行動だったのではないでしょうか。
ただ、昭和二十一年の四月初めには、小野田さん含む四人の他の兵たち、四十一人全員が投降していたとのこと。それでも尚、戦争が終わったとは思えない、いつまた友軍が来るか分からないからこの地を守らなくてはと思うのは、それほどに小野田さんが日本という国を信じていたからなのではないかと思います。意地になっていた部分ももしかしたらあったのかも知れませんが。
それほどに信じていた日本という国が、いざ三十年の時を経て戻った時には、様変わりしていた。ジャングルで三十年の時を過ごしていたから猶の事、小野田さんには戦後の日本の変貌ぶりが堪えたようでした。
生還して病院に入院中、当時の田中内閣からお見舞金が届けられたそうです。その金額は百万円。
その百万円を何に使うかと記者会見で聞かれた際に、小野田さんは「靖国神社に奉納します」と。それだけで小野田さんがどのような思いを抱かれているかを察し、小野田さんご自身の人柄も知ることができます。
しかしそれを人に「今の世の中を知っているのですか。お金オンリーの世の中なんですよ」と言われてしまう。……今の日本に繋がる世界がここにありありと見えてしまうから寂しいものです。何と言うか、虚しい。
広島の平和記念公園で見た言葉にも衝撃を受けたそうです。
慰霊碑に書かれた「安らかに眠ってください 過ちは繰り返しませぬから」の文字。私も実際に目にしたことがあります。
この文字の意味を小野田さんは戦友に、”これはアメリカが書いたものか?”と聞いています。三十年を必死に生き抜いてきた小野田さんからしてみればそう思うのも当然でしょう。しかし戦友の方はそれを否定し……。
日本は昭和二十年に連合国の前に屈服したが、小野田さんご自身はこの時、人間の誇りまで忘れて経済大国に復興した日本に無条件降伏させられている、と感じた、と本の中では書かれています。戦後に生まれ、現代に生きる人間の一人として、非常に申し訳ない気持ちになります。
「今だけ金だけ自分だけ」なんて現代を風刺するような言葉を聞くことがありますが、これと真逆の想いを抱いていた方が以前は多かったのではないかと想像できます。当時と今では、色々と発展を遂げて、世界は変化してきました。そんな様々な世界を見た上で当時の精神に戻ることができれば、また新たに明るい未来があるんじゃないかと、期待できる部分もある……と思ってもいいですよね? あまり未来に絶望するばかりじゃ、つまらないので。
当時のルバング島でのジャングル生活についても、細かく書かれています。よく三十年もの間病気もせずに無事に生きられたものだと、そこにも人間の計り知れない生命力を感じます。
ジャングル、密林、途轍もなく過酷な状況です。雨季の雨は地面から降ってくる、と言うくらいに激しいものらしく、戦後一緒になった奥様が聞いた小野田さんの寝言に「小塚、雨に濡れないところで寝たいなあ」とあったそうです。奥様は涙で、夜明けまで眠れなかったということです。想像して、自分の身に差し迫る状況と思うと、それだけで絶望的になります。それでもその状況でも生き続けられたのは、やはり根底に揺るぎない信念があったからかと思われます。
戦後三十年が経って、そこからが小野田さんの”戦後”と言うことになりますが、しかし小野田さんは日本に生還して一年足らずで、ブラジルへと渡っています。次兄の格郎さんがブラジルに夫婦でおり、その伝手もあり、移住を決めたそうです。日本では有名人過ぎて、人間関係も煩わしいと、ブラジルで牧場を営むことに。元々、行動力にも長けた方なのでしょうね。そして移住した後に、日本人女性と出会い、ご結婚をされたようです。人生と言うのは本当に、流れて行くものだなと感じます。
移住したブラジルでも小野田さんは日本の新聞には目を通していました。そこで一つのニュースにショックを受け、昭和五十九年夏に二カ月ほど日本に帰り、子供たちのキャンプ「自然塾」を開いています。そのニュースとは、大学受験浪人が就寝中の両親を金属バットで殴り殺した事件。
(子供がおかしい。このままでは日本はダメになる。子供たちに本当のたくましさや優しさ、生きる目的を見つけてもらうために、私にできることはないだろうか)
こう思って日本に帰って来た。何故このように考え、このような行動を起こすことができるのかと言えば、それは小野田さんご自身が”ささやかでも祖国に恩返しがしたい”と思われていたから。”三十年間、無意味な戦争で多くの方々にご迷惑をかけ、私は大きな負い目を持って生きている”と本の中でご自身の気持ちを表しています。
人間が生きて行くのって、決して自分のためだけに生きているわけじゃないし、人のために色々と動く方が余程人生は充実したものになるだろうということは、感覚的に分かるものがあります。人をいじめて困らせて怒りを買うよりは、人に真心から親切にしてお役に立つことができた方が良いに決まってますもんね。
小野田寛郎さんは2014年1月に91歳で亡くなられています。それまで様々に活動されていたようで、生きている間は全力で走っておられたのだなと思いました。こちらの本については様々な意見もあるようですが、私としては小野田さんにしか得られなかった経験を通して、学ぶべきところは学べればと思います。だってこのような体験談は、誰にでも書けるわけではありませんからね。いや、本当に。
だって、ジャングル生活で何が辛かったって、蜜蜂の空襲、と書いてありました。幅三、四十メートル、長さ百メートルにも及ぶ一大編隊で、その前後、左右には”哨戒機”が飛んでいる……こんなのに出会ったらひたすら逃げるしかないと。こちらの存在がバレると一斉に攻撃されるから、息を殺して大編隊が通過するのを待つだけしかできない。……おっそろしい……。私だったら、その光景を見ただけで卒倒しそうです。
そんな過酷なジャングル生活のお話も読んでしまうと、今まで書いてきたものと、これから書こうとしている私の拙いお話が更にさらに拙く見えてしまいそうでやる気が削がれるところもありますが、せっかくここまで書いてきたのでどうにか最後まで書ければと思います。それこそ、ドラクエのお話もリアルにリアルに書こうとしたら、とんでもなくR指定なお話になってしまうので、一応今後も路線は変えずに全年齢の方が読めるようなお話として書いて行ければと思います。(……今までの私の書いたお話、特に年齢制限は設けなくても平気でしたよね?(汗))
あと、小野田さんが心配されていたような世の中にならないようにも、私自身、子供をちゃんと育てて行くことをしっかり意識していきたいと思います。やはり、親の目が行き届いていないと子供は(恐らく自分でも気づいていない寂しい思いから)良からぬことをしがちなような気がします。
親の私にできることは、とにかく子供の話を聞いてあげること。それだけで子供はかなり安心できるんだと思います。その内、瞬く間に大きくなって巣立つんだから、それまではしっかり見ていければと……あ、そんなこと考えただけで泣きそう。でも、いずれはね。