2017/12/03

駆け出しの旅人

 

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修道院を後にして半日以上が経ち、西にそびえる山々の合間に陽が落ちようとしている。夕刻になってようやく太陽が顔を出し、辺りを明るく照らしていたが、それもつかの間、太陽はすぐに隠れようとしていた。しかし彼らの視線の先には、既に新しい光が見えていた。遠くに町の灯りが見えているのだ。
ずっと歩き通しでかなりの疲労を伴ってはいてもおかしくはなかったが、リュカもヘンリーも身体の疲労に勝る精神力を備えていた。奴隷として働かされていた時間が無駄ではなかったのかもしれないと、二人は心の中で苦笑していた。たとえ子供の頃に運よくあの場所を逃げおおせたとしても、果たしてその後生き残ることができたのか、そう考えると、奴隷としての時間を正当化できるような気がした。
「あれがオラクルベリーって町か」
「何だか、明るいところだね」
「本当だな、辺りが暗くなってくると、あの明るさが目に眩しいくらいだ」
「修道院とは全然違うなぁ」
歩く速度は緩めず、二人は早足でもう目に見えている町に向かう。これまで、運よく魔物とは遭遇していなかった。
しかしその時、周囲の草むらがガサガサと音を立てた。町を目の前にし、二人の緊張が緩んだのを感じたのか、草むらの影から魔物の目がきらりと光る。いち早くその気配に気づいたリュカは、檜の棒を手にし、草むらに向かって構えた。思わずブーメランを持っているかのように構えを取った自分に驚いた。子供の頃の記憶を、身体が覚えていた。無意識に足元を見たのもそれだった。プックルは今、いないのだ。
リュカに一足遅れて、ヘンリーも草むらを睨むように見つめる。呪文の詠唱を始め、ヘンリーの指先に小さな火が浮かび上がる。リュカたちの戦闘態勢に応じるように、草むらの影から魔物が姿を現した。
銀色の毛皮に身を包み、青く透き通った目で睨みつけてくるイタチのような体をした魔物だった。それが三体。体長はリュカの半分ほど。用心してかかれば難なく倒せるだろうとヘンリーは頭の中で考えていたが、手は少し震えていた。銀のイタチは鋭い牙を見せて人間を威嚇するが、二人ともそれには動じずに、ただ魔物の出方を窺っていた。
「何かさ」
「何だよ」
「この魔物ってキラキラして、キレイだね」
「間の抜けるようなこと言うな、アホ」
イタチはそんな間の抜けた二人の会話を機に、飛び掛ってきた。牙を剥いた顔が迫ると、さすがにリュカも焦ったが、身体は思いの外冷静だった。銀のイタチの攻撃を身を屈めてかわし、同時に檜の棒で魔物の足を打った。イタチは叫び声を上げると、片足を引きずり一度後退する。しかしすぐにまた飛びかかってきた。今度は爪を振りかざし、リュカの左腕に三本の赤い筋をつけた。痛さに一瞬顔をしかめるが、痛みには慣れている。リュカは傷には構わず両手で檜の棒を握りしめ、間近にいるイタチの頭を上から叩きつけた。一撃をくらったイタチは叫び声さえ上げられずに、地面に仰向けに倒れた。呼吸はしている。完全に伸びてしまったようだ。リュカはその状態を覗きこむように確認すると、すぐにもう一匹に注意を向けた。
リュカに背中を向ける形で、ヘンリーは一匹のイタチと対峙していた。呪文の火をイタチに飛ばし、その銀色の毛皮に火がつき、イタチの身体が燃え始める。自慢の毛皮に火をつけられ、イタチは慌てて地面に腹をすりつけて火を消した。怒りを露わにしたイタチが、猛烈な勢いでヘンリーに突進してくる。ヘンリーはすかさず呪文を唱えたが、間に合わないと思い、懐に手を突っ込んだ。ナイフを手にしたヘンリーは、その切っ先を真っ直ぐにイタチに向けて構える。しかし、その手はやはり少し震えていた。
突進してきたイタチは、ヘンリーの目の前で思い切り飛び上がった。意表を突かれたヘンリーは、思わず飛び上がったイタチを無防備に見上げた。するとイタチは、空中で器用に一回転をし、大きな尻尾を振り回してきた。ヘンリーはかろうじてそれを避けたが、尻尾の中から放出された大量の土煙りをまともに食らってしまった。土が目に入り、視界がまったく利かない状態に陥る。ヘンリーが両目に手を当てて視界を取り戻そうとする。イタチはそれを見て勝利の雄叫びとばかりにシャアシャアと声を上げると、視界の利かないヘンリーに歩いて近づいて行った。
ヘンリーはイタチが近づいてくる気配を感じながら、秘かに呪文を詠唱していた。素早く完成した火の玉を、薄眼を開けて確認したイタチに向かって飛ばした。油断していたイタチは、その顔に火の玉を暗い、顔の銀の毛皮がごっそりと焼け取れてしまった。まるで違う生き物になったかのような、つるりとした顔のイタチは、熱さと痛さと恥ずかしさとで、この場から逃げ去ってしまった。
視界の戻ったヘンリーが目を瞬かせながら周囲を見渡すと、魔物の気配がなくなったのを確認した。直後、どっと疲れたようにその場に座り込んでしまった。
「大丈夫、ヘンリー」
「あれ、そういやもう一匹いなかったか」
「うん、そこに伸びてるよ」
リュカが普段の調子で指差す先には、イタチ二匹の伸びた姿があった。二匹とも頭に大きなコブを作って、同じように仰向けになって完全に意識を失っていた。ヘンリーはそれを見るや、あんぐりと口を開けてリュカを見上げる。
「お前、強いんだな。ガキの頃は親父さんとずっと旅をしてたんだもんな。魔物との戦いにも慣れてるのか」
「そんなことないよ、小さい頃は父さんにずっと助けられていたんだから」
「あの親父さんの息子なんだ、弱い訳がない」
ヘンリーの言葉は、リュカにとって最大の褒め言葉だった。父の背中に追いつきたかった子供の頃の思いは、まだリュカの心の中に沈んで残っている。それが少しでも認められるような言葉に、リュカは自然と笑顔になるのを抑えられなかった。
「じゃあ、今後、魔物との戦いはお前に任せた」
「え?」
「そうしたら俺は楽できる。頑張れよ、リュカ」
そう言いながらヘンリーは立ち上がり、手にしていたナイフを腰布に差した。恐らく調理用のナイフを見て、リュカが訝しげに問いかける。
「ヘンリー、そのナイフ、どうしたの」
「修道院の台所からちょっと拝借してきた」
ヘンリーは事もなげにそう言うと、再び町に向かって歩き始めた。リュカもその後をついて歩く。
「僕が持ってるような檜の棒、他にもあったよ」
「俺にはそんな余裕はないんだ」
「どういうこと?」
「お前はガキの頃も、変なブーメランみたいなのを使ってたな。今もその檜の棒だ」
「うん、そうだよ。それがどうかしたの」
「お前は、魔物を倒すのが目的で、殺すのが目的じゃないってことだ」
ヘンリーに言われて、リュカは初めてそのことに気がついた。子供の頃も意識したことはなかったが、目につく武器がたとえ格好良い剣であっても、結局手にしていたのは杖やブーメランだった。修道院の台所に包丁やナイフが置いてあるのはもちろんリュカも知っている。しかしそれを旅に使う武器にとは考えつかないことだった。
「じゃあヘンリーは魔物を殺すのが目的ってこと?」
「お前よりはそっちの意識に近いだろうな。さっきも言っただろ、俺には余裕がないんだって」
「僕も余裕はないんだけど。さっきだって必死だったよ」
「何かこう、根本的なところで違うんだろうなぁ、俺とお前は」
二人は互いに、分かったような分からないような感覚のまま、町に向かう足を速める。彼らの遥か後ろでは、伸びていたイタチが二匹とも意識を取り戻し、互いに頭のたんこぶを見てゲラゲラ笑っていた。



あと数十歩で町に着くという距離まで歩いてきた二人は、そこでぴたりと足を止めた。遠目から見ても、町の灯りが奇妙な色を放っていることには気づいていた。しかしすぐ目の前でみると、その光景はさらに信じられないものだということがわかった。
リュカもヘンリーも、見たことのある灯りと言えば、火が灯るような橙色の灯りだ。しかし今、二人の目の前に広がる町の風景は、赤や青や黄など、自然の火では生み出せないような明かりが町全体を照らしているものだった。町の入り口から真っ直ぐに伸びる大通りの向こうには、点滅する色とりどりの明かりがあり、二人は口を開けたまま、しばし言葉を失った。
町に入ると、人通りの多さにも二人は驚いた。もう夜になろうという時間だが、町の人々は一日の始まりを今迎えたかのように、生き生きと町を闊歩している。町全体を照らす眩しいばかりの明かりのおかげで、夜でも足元に注意を払う必要もない。リュカはふと夜空を見上げたが、星の数が少ないことにも驚いた。
町の外から見えていた、大通りの突き当たりにある建物の周りでは、一層人々が賑わっているようだ。町まで歩いてくる途中では鳥や虫の鳴き声くらいしか耳にしなかった二人には、町の人々の賑わうざわざわとした声が耳に痛いほどだった。
「何なんだ、ありゃあ」
「お祭りでもやってるのかな。ここからでも賑やかな感じがするね」
「祭りもいいけど、とりあえず宿だ」
初めての旅にヘンリーは相当疲れているようだった。町に着くまではその疲労にも気付かないほど気を張っていたが、町の人々の平和な様子を見ると、途端に身体に疲労を感じたのかもしれない。大通りの突き当たりの華やかな建物には目もくれず、宿を探そうと早速大通りからの道を逸れようとした。
ヘンリーほどではないにしろ、リュカも久しぶりの旅に疲労を感じていた。子供の頃よりも疲れを感じるのは、恐らくもう守られる身ではないからだった。むしろ旅慣れないヘンリーを守らなくてはならないのだ。町に着いて、足が急に重く感じた時、リュカはそのことに気がついた。
修道院での慎ましやかな生活と比べると、天と地ほどの差がある町だ。町全体が人々の熱気に包まれているようだ。そこかしこに通りゆく町の人に宿の場所を聞いてみようと、リュカは歩き出した。しかしその時、リュカの鼻の前を香ばしい匂いが通り過ぎた。思わず唾を飲んでしまうような、美味しそうな匂いだ。リュカが振り向くと、ちょうどヘンリーと目が合った。ヘンリーも同じような顔をしていた。
「あっちからだろ」
「あそこに出てる煙って、そういうこと?」
「この美味い匂い、忘れるわけがない」
「僕も思い出した。肉だね、これ」
二人の頭から宿探しは一瞬にして消え去った。今の二人にとっては、休息よりも食欲が勝っていた。奴隷として過ごした日々、修道院での質素な暮らし、そこでは肉が食事に出されることはなかった。肉の匂いが鼻を突いた瞬間、二人の記憶は子供の頃に遡った。
大通りを真っ直ぐに早足で進む二人を、町の人々は物珍しそうに見ていた。行き交う人は多いが、皆あまり急いで歩いたりはしない。賑やかだが、町の時間はゆったりと流れている。その中で、旅人二人がもの凄い勢いで歩き、一直線に一際明るい町の建物に向かうのを、町の人々は笑うような、呆れるような顔で見ていた。
街の中心にあるとびきり大きな建物の周りは、本当に祭りのような騒ぎで賑わっていた。建物の周りにはいくつかの屋台が並び、酔いどれの客に酒の肴を薦めて売っている。その中でも大して賑わっていない屋台が一つあった。そこから肉の焼ける煙が出ているのを見て、二人は迷わずその屋台の前に立った。
「おっ、お客さん、見る目があるねぇ。どうだい、一つ……」
店の男が全てを言い終えない内に、二人は何も考えないまま焼き鳥が刺さった串を掴み、いきなり食べてしまった。店の人間の目の前で堂々と無銭飲食を働こうとする二人の旅人に、店の男は口をあんぐりと開けていた。
「こりゃうめえや」
ヘンリーが口の周りを肉の脂で汚しながら、大きな声で言う。リュカも口いっぱいに肉を頬張りながらしきりに頷く。
「ホント、美味しいね。僕、こんな美味しい肉が食べられて幸せだよ」
「俺もだ。生きてて良かったと初めて思った」
大袈裟に聞こえる二人の褒め言葉が、賑わう人々の間にも聞こえた。一斉に焼き鳥を売る店に人々の視線が集まり、店の男は思わずその変化にたじろいだ。リュカとヘンリーは串を手にしたままその場を離れ、巨大な建物の周りをまわり始めた。その直後、焼き鳥の店には人が列をなし、暇を持て余していた店の男は二人の旅人が無銭飲食して行ったことなどすぐに忘れて、商売に励み始めた。
「ちょっと食べたらお腹が空いてきたよ。まだ荷物には少し、木の実が残ってるけど」
リュカがそう言いながら、手にしている荷物を広げようとしたが、ヘンリーがそれを止める。
「何バカなこと言ってんだ。せっかくこんなデカイ町に来たんだぞ。もっと美味いものを食べに行こうぜ」
「ところで宿を探すんじゃなかったっけ」
「宿なんかで休んでられるかよ。とにかくここに入ってみるぞ、リュカ。さっきの肉より美味いモンがあるかもしれねぇ」
ヘンリーが先に歩くのをリュカは止められなかった。ヘンリーの言うとおり、この町にはもっと美味しい食べ物があるかも知れないと、どこか期待していたからだった。串一本の焼き鳥で、二人の食欲に火がついてしまったようだ。
二人は建物の正面に色とりどりに掲げられていた看板すら目にしていなかった。たとえそこに書いてあった「カジノ」という文字を目にしても、二人はそれが何なのかを確かめるために入り口をくぐったかも知れない。



建物の中だと言うのに、遠くが霞んで見えることに、二人は自分の目がおかしくなったのかと思った。目をこすっても、霞んだ風景は消えない。
「おかしいなぁ、霧がかかってるわけでもないのに」
「それに、何だか臭えところだな。息苦しい」
二人がそう感じる空気は、建物の中に煙草や酒の臭いが充満しているせいだった。唐突に足を踏み入れた大人の世界に、二人は戸惑ったように辺りをキョロキョロと見渡す。
入口付近にはウサギの耳の形をしたヘアバンドをつけた女の人が数人、トレイに飲み物を乗せて優雅に歩いている。店のカウンターに立つ女の人も同じような格好をして、何やら仕事をしているようだ。建物内には色々な施設や機械が置いてあり、人々はそれらの前で熱狂する声を上げている。二人は目的としていた食べ物のことなど頭から吹っ飛び、ここが一体何なのかを知りたくなった。
一際人々が集まり、騒がしい施設に向かって二人は歩いて行った。人込みをかき分け、施設に近づいてみる。すり鉢状に下りる階段があり、その下にある広場には魔物の姿があった。施設の人々はその魔物の名を好き好きに呼び、腕を振り上げて熱狂している。町の中に魔物が入り込んでいることにまず驚いた二人だが、町に魔物がいる異様な光景に人々は誰一人として恐怖を抱いている様子はないことに更に驚いた。
「一体何なんだ、これは」
ヘンリーは一言呟くと隣のリュカを見てみた。しかしリュカは既に目に興味の火を宿らせて、広場の魔物の姿を食い入るように見ている。
「ここの魔物たちって、人を襲わないんだね。ほら、ちゃんとあの人の合図でお辞儀なんかしてる。へぇ、頭がいいんだなぁ」
町の人以上にすぐに魔物の姿に馴染んだリュカを見て、ヘンリーは呆れた顔で言う。
「妙なことに感心するなよ。魔物が町の中にいるんだぞ。それで平気でいられるなんて、おかしいと思わないのかよ」
ヘンリーは自分でも当たり前のことを言っているはずだった。しかし周りの人々が魔物の戦いを応援し、娯楽に興じている姿を見ると、リュカの方がもっともなことを言っている気がしてくる。ただ町の人々が自分のために魔物を応援したり野次を飛ばしたりしているのに対し、リュカはまるで仲間の様子を丁寧に見るような感覚で、広場の魔物を眺めているようだった。ヘンリーはしばらく怪訝な顔で闘技場を見下ろしていたが、鉄の柵の奥から次々と現れる魔物に声援を贈る観客を見ているうちに、この町が平和なんだと理解しようとした。
「あら、お兄さんたち新顔ねぇ。ここは熱いでしょう。とりあえず飲み物はいかが?」
闘技場を眺めていただけの二人の後ろから声がかけられた。二人が振り向くと、この施設の従業員であろうバニースーツを着る金髪の女性がトレイに飲み物を乗せて立っていた。トレイに乗るグラスには、仄かに黄色がかった泡の出る飲み物が入れられている。リュカもヘンリーもほぼ同時にグラスを取り、思い出した喉の渇きをうるおすため、それを水のように一気に飲み干した。すると今まで感じたことのない熱が喉から胃へと駆け抜け、リュカは軽く咳き込み、ヘンリーは顔中が熱くなるのを感じた。
「な、何ですか、これは」
「お酒よ。飲んだことないの?」
「酒って、こんな味だったのか。うう、目の前がぐるぐるする……」
「あらあら、顔が真っ赤ねぇ。うふふ、かわいい」
化粧を施した女性がヘンリーの顔を覗き込みながら、笑って彼の頬に手の甲をつけた。ひやりとする女性の手の甲が、ヘンリーには心地よかった。だが間もなく目の前にいる女性の顔もゆらゆらと揺れ始め、ヘンリーは自分が床に座り込んでしまったことにも気が付かない様子だった。
「ヘンリー、しっかりしなよ」
「俺はしっかりしてる」
「どこがだよ。立てなくなってるじゃないか」
「何だよ、お前は平気なのかよ」
「少し喉がシビれたけど、大丈夫みたいだよ。こんなところで座り込んでちゃ、いつまでたっても宿に行けないよ」
リュカがヘンリーの腕を取るが、ヘンリーの腕はだらりと垂れるばかりで、そこに彼の意思はひとかけらもなかった。リュカは大きく溜め息をつくと、自分の息から酒の臭いを感じ、思わず顔をしかめた。しかしヘンリーのように立てなくなるわけでもなく、意識もしっかりしていることを自覚すると、ヘンリーの両腕を自分の肩から下げさせるようにして、そのまま彼を背負った。バニースーツの女性はそんな二人をじろじろと見ながら、にやりと真っ赤なルージュを塗った口を歪ませた。
「あなたたち、これから宿に行くのね」
「はい。あ、そうだ、この町で宿を探していたんだ。どこか安い宿を知りませんか、僕たちあまりお金を持ってないんで」
「安い宿、ねぇ。……いいわ、今簡単に地図を書いてあげる。多分そこなら一番安いわよ。あなたたち二人で一部屋なんでしょう」
女性の質問にリュカは素直に頷くと、バニーの女性は笑みを浮かべたまま、おもむろにバニースーツの胸の内側から紙をとペンを取り出した。リュカはその小さな隙間にどうやって紙とペンが収まっていたんだろうと首を傾げたが、女性がトレイの上で描く地図を見ながら町の様子を思い出していた。
「ここがこのカジノね。それでここの通りに出て、この小さな路地に入って……」
女性の説明を一通り聞いたリュカはお礼を言い、眠ってしまったヘンリーを背負って一路宿へ向かうべくカジノを後にした。女性は楽しそうな笑みで二人の背中を見送っていた。
町の中心地から遠ざかって行くにつれて、体にまとわり付いていた熱気も剥がれ落ち、リュカは夜風を心地よく全身に浴びていた。ヘンリーは背中で気持ちよさそうにすやすやと寝息を立て、リュカの苦労などお構いなしに夢まで見ているようだった。はっきりとした言葉にならない寝言を言っている。
「酒に弱かったんだね、親分。らしくないなぁ」
リュカの独り言に気が付けば頭でも軽く殴りそうなヘンリーだが、幸い彼は完全に眠りこけていた。
カジノの場所から遠く離れた東のはずれに、バニーの女性から教えてもらった宿がぽつんと建っていた。リュカは街の入り口付近で大きな宿屋らしい建物を見かけていたのだが、今目の前にしている宿はこじんまりとして、注意して見なければここが宿だとは誰も気づかないくらい影の薄い建物だった。入り口にちびている松明の明かりが余計に宿の印象を薄くさせる。安宿を探しているというリュカの言葉に女性は協力してくれたのだろう。リュカは心の中で女性にお礼を言いながら、宿の入り口を入って行った。
入ったところの小さなロビーでは、男女二人が受付のところで宿の人と話をしていた。露出度の高い女性が連れの男性の体にしなだれかかる姿を見ても、リュカは特に疑問を抱くこともなく、彼らの話が終わるのを静かに待っていた。間もなく話が終わり、男女二人が振り返ってリュカと、その背中で眠りこけているヘンリーを見る。その途端、男女の表情が怪訝なものに変わった。リュカはそんな彼らの変化には気づかないまま、ずり落ちそうになるヘンリーを背負い直して、宿のフロントに立った。リュカの後ろで部屋に向かう男女二人が含み笑いをしていたことにも、もちろん気付かなかった。
「……ええと、お客さん、お泊りですか」
フロントに立つのは年配の女性だ。ためらいがちに話しかけるその女性に、リュカは宿泊で一部屋を借りたいことを伝えた。女性は疑るような目つきでリュカをじろじろと見て、リュカが背負う人の顔を覗きこんだ。
「あんたが背負ってるのは、女?」
「え? いや、違います。男ですよ」
「ふうん……」
フロントの女性はまたひとしきりリュカとヘンリーを見つめた後、宿泊の手続きを手早く済ませた。料金は前払いで、リュカの手持ちの金でも十分に足りる金額だった。宿に名前を記すこともなく、ただ料金を払っただけで手続きは終わった。リュカは初めて自分で宿の手続きを行ったことに満足した様子で、再びヘンリーを背負い直し、案内された部屋へと向かった。その後ろで、フロントの女性が呟いた言葉は、リュカには届かなかった。
「あれだけいい男が二人でねぇ。女にゃ困らないだろうに、物好きもいるもんだ」
足元を仄かに照らす明かりがあるだけで、廊下は暗い。リュカは暗さに目を慣らして、注意深く廊下を進んだ。
フロントで渡された鍵の番号と部屋の番号を確認し、リュカは部屋の鍵をひねる。部屋の中に入ると同時に、廊下の暗がりとは一変した内部の明かりに圧倒された。外から見た薄暗く印象の薄い宿からは想像も付かない仄かなピンク色の明かりに、リュカは思わずその場に立ち尽くした。
「……まぁ、真っ暗よりはいいか」
リュカは一人そう呟くと、背中に背負っていたヘンリーをベッドに下ろした。眠りこけているヘンリーは勢い良くベッドの上に転がったが、安宿にしては広いベッドの上から落ちることはなかった。起きる気配を微塵も見せないヘンリーを見下ろし、リュカは苦笑しながらその隣に腰を下ろした。
改めて部屋の中を見渡すと、入口近くに仕切られた部屋らしきものがある。リュカは再び立ち上がり、その小部屋を目で確かめてみた。大きな壺に水が張られており、近くにはタオルがかけられていた。
「これで身体を拭いていいってことかな。飲み水じゃなさそうだね」
修道院の部屋のテーブルには、常に水差しが置かれていたのを思い出す。しかしこの部屋には水差しらしきものは見当たらない。飲み水は宿の人に頼まなければならないようだ。
「ちょっとぐらい飲んでも平気だよね」
リュカは喉や胃に残る酒の存在を消したいがために、壺に張られている水をすくって一口飲んだ。至って普通の水だと分かり、二、三口の水を飲んだ後、タオルを水に浸して身体を清めた。修道院から半日余りを歩いてきただけだったが、それなりに身体は汚れている。それだけリュカは修道院での清潔な生活に慣れていた。
部屋に戻ると、ヘンリーはすやすやと良い夢でも見ているような表情で眠っていた。その時ようやく、リュカは部屋にベッドが一つしかないことに気がついた。
「よっぽどお金がないって思われたのかな。一人部屋を用意してくれるなんて」
ヘンリーが寝ていてもまだゆとりのある大きなベッドに、リュカは腰掛け、枕を抱きしめて眠っているヘンリーを向こう側に押しやった。寝返りを打つように転がるヘンリーは、何やら言葉にならない寝言を言いながら、枕を抱きしめたまま逆側を向いた。
「ま、いいや。これならぼくも寝られそうだ」
二人並んでもまだゆとりのあるベッドにリュカは気分を良くし、大の字になって寝転んだ。ピンク色に染まる部屋の景色も、もう気にならなくなっていた。それ以上に身体に疲労が押し寄せ、先ほど知らずに飲んだ酒の効果で、リュカは一気に睡魔に襲われた。
この宿が旅人が利用するような普通の宿ではないことにリュカは気付かないまま、朝までぐっすりと眠った。



まだ朝早いオラクルベリーの町を、二人は特に当てもなく歩いていた。夜、あれほど賑わっていた町の景色が一変しており、まだ町全体が靄のかかるような夜明けの静けさに包まれている。人の通りもほとんどなく、昨夜の熱気がまるで嘘のように涼やかな朝を迎えていた。
宿で先に目覚めたのはヘンリーだった。初めての二日酔いに痛む頭を押さえながら薄眼を開けると、目の前にリュカの寝顔があった。あまりの驚きに、ヘンリーはベッドから飛び起き、そのまま床に落ちてしまった。ドンッという大きな音にリュカが目覚め、床に尻もちをついているヘンリーを見て、そのまま首を傾げた。
その後、部屋の異様に気付いたヘンリーは、まだ寝ぼけ眼のリュカを部屋から出し、荷物を持って早々に宿を出ようと入口に向かった。宿のフロントには、年配の女性が眠そうな表情で彼ら二人をじろじろと見ながら一言言った。
「昨夜はお楽しみでしたか」
その言葉に、リュカはあの大きな施設で見た魔物たちを思い出した。あの場所の熱狂ぶりにはついていけない気がしたが、町の中に入れられている魔物の姿に興味が湧いた感覚を思い出す。
「はい、楽しかったです。また今日も……」
「バカ! 余計なことを言うな。とっとと行くぞ」
「え? うん。でもまだこんな早い時間だよ」
「いいから、早く出ろ」
ヘンリーに強引に背中を押され、リュカは倒れそうになりながら宿を飛び出して行った。路地裏を早足で歩き、宿が見えなくなったところで、息をついたようにヘンリーが足を止めた。
「お前さぁ、あの宿がどういうところか、入って分かんなかったのかよ」
地面に荷物を下ろし、後ろを振り向きながらヘンリーが言う。リュカは一度首を傾げたが、宿の部屋の中を思い出してみると、確かにおかしな雰囲気だったと答えた。
「言われてみれば、そうだったかも。部屋の明かりは見たこともないピンク色だし、ベッドは一つしかないし。でも、僕たちがお金がなさそうだったから、安い部屋にしてくれたのかなぁって」
「あの宿は全部、あんな作りだろうよ」
「どうして?」
おかしいとは気付きながらも、その内容に行き当たらないリュカに、ヘンリーは小声で教えてやった。ヘンリーの説明を聞いたリュカは、自分たちが宿泊した宿が旅人が普通に利用するような宿ではなかったと分かり、赤くなったり青くなったりしていた。
「とにかく、もうあんな連れ込み宿はゴメンだ。宿を出る時の気まずさったらなかったぜ」
昨日一気に飲み干した酒がまだ残っているのか、ヘンリーはズキズキと痛む頭を押さえつつ、小さな声で呟く。
「ごめん、僕も気をつけるよ。安ければいいってもんじゃないんだね」
「まあ、いいさ。俺も……酒には気をつけるようにする」
昨夜、一杯の酒で意識を失ったヘンリーはそれ以上あまり強い口調でリュカを責めることもできず、こめかみを押さえながらどこに向かうかを考え始めた。
「とりあえずは水と飯だ。またあの賑やかなところに行けばありつけるかもな」
「そうだね。ここからあの建物も見えるし、行ってみよう」
二人は複雑な路地裏に入りこんでいたが、オラクルベリーを象徴するカジノの建物は町のどこからでも眺めることができた。道を何度か折れつつも、二人は程なくしてカジノの建物の東側に出られた。
巨大な建物の前では、食べ物の湯気が漂っていた。しかし昨夜の喧騒は嘘のように引いており、代わりに酒や煙草や賭け事に荒れた体を休ませようと、目を赤くした人々が静かに粥などをすすっている。二人も粥を注文し、木の器に盛られた粥の湯気に顔を突っ込むようにして、あっという間にそれを平らげた。水は無料でいくらでも飲めるようで、二人は喉の渇きを潤すために水をがぶ飲みした後、荷物の中から水を入れるための革袋を取り出すと、水差しから直接革袋に水を補給した。二人のそんな姿を見ても、粥を出す屋台の若い男は温かい目で見守っていた。旅人が多く集まるこの町では良くある光景なのかも知れない。
荷物は多少重くなったが、腹ごしらえもし、水の補給もちゃっかり済ませた二人は、町の中を見て回り始めた。まだ朝日が柔らかい時間、町に構える店が開きだすのはもう少し日が昇ってからのようだ。道具屋、武器屋、防具屋の店主たちはこれから開店準備をするべく、店の周りの掃除などをしていた。
二人の姿は、町の人々から見て明らかに旅人の姿だった。このオラクルベリーには他にも多くの旅人が集っているようだったが、二人ほど軽装で旅をしている人間はあまりいないようだ。だが、互いに旅人と分かれば情報交換もしやすいと、リュカとヘンリーがきょろきょろと辺りを見渡す姿を見ていた戦士が一人、二人に近づいてきた。
「君たちも旅をしているのかね」
二人より年が一回りほど上だろうか、立派な口髭を蓄えた戦士の身なりをした男が、二人の後ろから話しかけてきた。一見、強面の顔つきをしているが、そんな外見に臆することもなく、リュカはいつもの調子で答える。
「はい、まだ昨日始めたばかりです」
「昨日? 一体どこから来たんだ?」
「南の海辺にある修道院から……」
「あんたはどこから来たんだ。もう旅をして長いのか」
リュカの言葉を遮るようにして、ヘンリーが戦士の男に問いかける。警戒心を見せるヘンリーに、戦士の男は背伸びしている子供を見るような気分で、仄かに笑みを浮かべながら話した。
「私は船で港に着いた後、北に向かったのだが、そこでやけに寂れた村を見たんだ。もしかしたら君たちが何かを知っているのではないかと思って尋ねてみたのだが」
「寂れた村? なんだ、そこは」
「私にもよく分からない。だからこうして旅をしている者に聞きまわっている。今のところいい情報が得られず、あの村がどうしてあれほど人気がないのか全く分からないのだ」
戦士はそれだけ話すと、他の旅人からの情報を集めるためか、軽く挨拶をしてから早々に立ち去ってしまった。リュカは修道院でもらった手書きの地図を取り出し、ヘンリーと顔を突き合わせて見てみた。しかし地図にはこの町から北の地形は描かれていない。修道院を出る時はあくまでもこの町に来ることが目的で、それ以降のことは考えていなかった。
「さっきの男は地図を持ってるんだろうな」
「見せてもらえば良かったね」
「あの男、足が速いな。もう姿が見えない」
「旅を急いでるのかな」
町には人が出始めていた。朝方、靄のかかっていた町の空気が澄み始め、高くなってきた陽から心地よい暑さを感じる。店の前を掃除していた店主らが、じきに開店する気配を見せ、リュカとヘンリーは顔を見合わせた。
「旅をするにはとりあえず、武器が必要だな。お前のそんな檜の棒じゃ心許ないもんな」
「あっちに武器屋の看板が見えるよ。行ってみよう」
「さっきの男だって、一度は武器屋に寄ってるはずだ」
「お店の人に話を聞くのがいいかもね。いろんな人と話してるから、色々知ってるよ、きっと」
カジノの建物と町の入り口を結ぶ大通り沿いに、様々な商店が軒を連ねていた。武器屋、防具屋、道具屋、もろもろの商店には旅人の姿が既に散らばっていた。彼らの話を立ち聞きしているだけで、多少の情報が得られるようだ。そこここに旅人の姿が見られるが、最近ではその数も減っているという。外の魔物が増え、凶暴化しているというのだ。修道院から半日歩いただけの二人にはまだその実感は沸いていなかった。
武器屋を覗いてみると、四人の客を相手に一人の店主が様々な話をしながら商売をしている。リュカとヘンリーが入ってくるのを見るなり、「いらっしゃい!」と小気味よい挨拶で迎えてくれた。店内を見渡した二人は、武器の主役とも言える剣の品ぞろえがあまりないことに気がついた。二人とも、武器と言えば剣だろうと、漠然とした思いこみがあった。武器屋の店内には見惚れるような剣がずらりと置かれているものだと思っていた。
色々と陳列されている中で、ヘンリーの目を引いたのがチェーンクロスという鎖状の武器だった。上手く使いこなせるようになれば、敵の間近に行かずとも攻撃を仕掛けることができそうだ。だが提示されている値札を見て、ヘンリーは手持ちの金とは相談できない代物だと、さっさと諦めることにした。その他の武器を見ていても、手持ちの金を全て使い果たすかしないと買えないものばかりで、ヘンリーは修道院長が宝石を渡してくれた理由をこの時知ったような気がした。
「お客様、そちらのチェーンクロスがお気に召されましたか」
店主が明るい口調で話しかけてくると、ヘンリーは苦笑いしながら応える。
「まあな、いっぱしの武器でも持ってりゃ、旅するにも気が入るかも知れねぇからな」
「最近は魔物も多くなりましたからね。しかし、町の中で魔物を飼い馴らすじいさんもいますけどね、この町には」
店主の話に、他の武器を見ていたリュカが振り返った。武器屋に来たはいいものの、武器にはあまり関心がないリュカは、店主の話に興味をそそられヘンリーの隣に並んで話を聞くことにした。
「町の中で魔物を飼うなんて、そんなこと、できるんですか」
「お客さんたちはまだカジノには行ってないんですか?」
店主にそう言われて、二人は同時に首を傾げた。まさか昨日の晩、酒を飲まされたところがカジノだったということは、まだ二人とも気付いていない。
「普段はちゃんと檻の中に閉じ込めているから大丈夫なんですが、カジノの闘技場へ出場させるべく、たまに街の中を魔物を連れて練り歩くんですよ。しっかり人間に慣れているから大丈夫とは言うんですが、私にはどうにも怖くてね」
店主のその説明で、二人は昨日寄った賑やかな施設がカジノだと分かった。確かにあの場所には、町の中にはいないはずの魔物の姿が当然のようにあり、闘技場を取り囲む客たちもあの場所でだけは魔物を敵として見てはいなかった。戦い合う魔物たちもどこか楽しげに見えたのを、リュカは思い出す。
「町の中を魔物を連れて歩くなんて、ちょっと見てみたいなぁ」
「俺は遠慮しとくわ。いきなり暴れ出したりしたらどうすんだよ」
「でもどうやって魔物と仲良くなれたんだろう。あの、そのおじいさんはどこにいるんですか」
リュカが子供のような興味津々の目つきで問い掛けると、店主の男性はその純朴さに応えるように優しい口調で場所を教えてくれた。ただモンスターじいさんの生活は不規則で、いつその場所にいるかは分からないとのこと、それと夜になれば闘技場に出す魔物の様子を見にカジノに姿を現すことが多い、ということだった。リュカは夜になったらまたカジノに行こうとヘンリーを誘うと、ヘンリーは「お前はいつのまにそんな不良になったんだ」と呆れられた。
武器を購入することは諦め、二人は店主に礼を言って店を後にした。とにかく手持ちの金では武器も防具も、道具を買い足すことさえ危ういほどに困窮していることがわかった。
ヘンリーは道具袋の中身を漁り、一つの緑色の宝石を取り出した。それは修道院を出る時に、修道院長に渡された宝石の一つだった。旅の途中で何か困ることがあれば使いなさいと、まさに今の二人の状況を見透かしたようなことを彼女は言っていた。
「そうか、ヘンリー、それがあったんだ。じゃあ、さっきの武器屋に戻って武器と交換してもらったらいいよ」
「いや、この石はあの武器がいくつも買えるくらいの値打ちがありそうだ。もし使うんだったら、どこかで金に換えてからの方がいいと思う」
「お金に換える? どこで?」
「知らねぇよ、お前もちょっとは考えろよ」
「考えたって分からないよ。まだこの町に来たばっかりだし、何があるのか分からないし」
「まあ、それもそうか。とりあえず、武器はまた後で考えることにしようぜ」
「もしかしたら、防具なら手持ちのお金でも買えるかも知れないね。ちょっと行ってみようか」
「お前って、前向きな奴だなぁ」
「防具屋ってどこだろう……」
ヘンリーの言葉も聞かないうちに、リュカは町行く人に防具屋の場所を聞いていた。人見知りしないリュカの性格に、ヘンリーは改めて感心させられた。リュカは何の躊躇もなく知らない人に話しかけ、すぐに仲良くなってしまうのだ。幼い頃から父に連れられ旅をしていたから、というだけではあまりにも理由が小さい。元来、持ち合わせた特技のようなものだろうと、ヘンリーは笑顔で戻ってくるリュカを見ながら思った。
「この通りじゃなくって、町の裏通りにある防具屋の品ぞろえがいいんだって。場所を教えてもらったから行ってみよう」
そう言うと、リュカは先に歩き出してしまった。ヘンリーは軽やかな足取りのリュカの後ろ姿を見ながら、昨日の晩、自分が気を失っている時に何かあったのかと、一抹の不安を覚えていた。
オラクルベリーの町が徐々に賑わいを見せていた。空は青く、雨が降るような心配はなさそうだ。昨日、この町に来たばかりの時は、あのカジノの騒々しい雰囲気に飲まれ、町全体が賑やかで楽しげなところなのだろうという期待があった。しかしよく見渡してみると、人々の表情は思いの外暗かったりする。井戸端会議でも場違いに真剣な表情で話しこんでいたり、下を向いて歩いている人も多い。この町を訪れている旅人の表情も決して明るいものではなく、彼らが運ぶ外からの情報もあまり耳に良いものではないようだ。漠然とした雰囲気だが、リュカもヘンリーもその雰囲気を肌に感じていた。
それだけにカジノであれだけ騒いでしまうのかも知れない。人々は漠然とした不安から逃れようと、娯楽に飛びつき、そこに身を浸すことで、束の間不安から逃れることができる。何も考えなくて良い瞬間が、そこにはあるのだ。あの場所が賑わうということは、それだけ人々の不安が大きいということなのかも知れなかった。
防具屋は町の裏通りの一角にあった。裏通りには商店はあまり見当たらず、民家が多く建ち、町の人々の拠り所となる教会の建物も見えた。表通りのような華やかさや賑々しい感じはなく、教会があるだけでこの通りが洗練されているような感じさえする。
しかしそんな洗練された空気を破るように、商売人の声が二人を捕まえた。
「お客さん、ここらの旅人の中じゃあ身軽な装備をしてるね。どうだい、うちで防具を新調していったら」
気の良さそうな若い店主が店の中から二人に声をかけた。入口の扉は日中、常に開けているようで、ちょうど反対側の扉も開放しており、店の中を通り抜けられるようになっていた。元々、防具屋を覗いてみようと町を歩いていた二人は、店主の言葉に機会を得たかのように素直に防具屋に入店した。
店に入り、並べられている防具を見ると、やはり手持ちの金では交渉すら難しいことが分かった。防具を購入したところで、町での宿代に当てる金も使い果たしてしまうのは本末転倒にもほどがある。
「ヘンリー、宝石を売ってお金を作るんじゃなかったの?」
リュカは自分の道具袋から黒い石を取り出し、手の平に乗せていた。防具屋の店主も眉をひそめながらその石を覗きこむと、リュカとヘンリーの身なりを上から下まで見て、首を傾げた。
ヘンリーは頭ではこの宝石を金に換えて旅に必要なものを手に入れるのが良いと分かっていても、何故か石を売る気になれなかった。それは修道院長が『お守り』として渡してくれたものであり、それを持っている限り、無事でいられるような気がしていたのだ。しかしそんなことをリュカに話すのも癪で、なんとなく話をはぐらかし、防具屋の店主に違う話を振り始めた。
「俺たち、これから北に行こうと思うんだけど、北へは街道か何かが続いているのか」
「お客さんたち、まさか地図も持たずに旅をしているのかい」
「とりあえずこの町まで来るのが目的だったからな。この町から北の地図はないんだ」
「そりゃあお客さん、無謀ってもんだよ。地図もなしにこの世界を歩こうだなんて。世界地図ならオラクル屋で売ってるから、夜に行ってみるといい」
「オラクル屋? 何だ、それは」
ヘンリーの問いに、店主はそこまでの道を細かに教えてくれた。聞く限り一本道のようだが、裏通りのかなり奥まったところにその店はあるようだ。
「それでうちの防具はどうだい? そんな軽装での旅はお勧めできないから、何か買っていったほうがいいと思うよ」
商売魂を存分に見せる店主に、ヘンリーは「また来るよ」と軽く手を振っただけで、そのまま店を出てしまった。呆気に取られたリュカも、その後を慌ててついていく。商売っ気のある若い店主だが、店を出る客を強引に引き止めるようなことはせず、「また待ってるからね」と気の良い返事をしてくれた。
防具屋を出て、再び町の裏通りを歩き始める。当てもなく歩いていたはずの二人だが、自然とその足は教会に向かっていたようだ。気がつけば、二人の前には教会の大きな扉が待ち構えていた。
「お祈り、していこうか」
「誰にだよ」
「えーと、自分に?」
「まあ、神様に祈るよりはマシかもな」
知らずに教会に足が向いていたのは、もしかしたら修道院の雰囲気を思い出したかったからかも知れなかった。オラクルベリーの教会の造りの方が、海辺の修道院に比べて頑強で、心なしか華やかにすら見える。威厳あるべき教会に華やかさを感じるのには違和感があったが、この賑やかな町には丁度良い雰囲気とも言えた。
教会独特の大きな扉を開け、中に入ると、外から感じられた華やいだ雰囲気は全く感じられず、教会として当然の厳粛な空気に満ちていた。祭壇には大きな十字架が立てかけられている。この町を訪れた旅人たちが何人か、熱心に祭壇の前で祈りを捧げていたり、頼れる神父に導きを得ようと、真剣に話をしたり聞いたりしている。旅人が多いからだろうか、神父の姿は一人だが、シスターの姿が何人か見受けられた。修道服で教会の中を静かに歩く彼女たちを見ると、リュカもヘンリーも海辺の修道院での生活を思い出し、心が安らぐのを感じていた。
祭壇の前で熱心に祈りを捧げるでもなく、リュカとヘンリーはただ長椅子に腰を下ろし、しばらくの間ぼんやりと教会の中を見渡していた。互いに一言も話さず、腕組をしながら、中空に視線を漂わせる。そんな二人に異様な雰囲気を感じ取ったのか、シスターの一人がリュカとヘンリーに声をかけてきた。
「どうかなさいましたか、旅の方」
心配そうに二人の旅人を覗きこむシスターは、恐らく二人とさほど変わらないほどの年頃だった。しかしまだ世界のことを何も知らない二人に比べ、このオラクルベリーという都市で生活をしているシスターは相当に大人びて見えた。しかしそれと同時に、どこか町娘のような独特な明るさもその表情に感じられた。
「何かお悩み事でも? お話して楽になるようなことでしたら、私が伺いますが」
彼女のその一言をきっかけに、リュカは旅の目的と、これからの行く先について相談を始めた。まだ若いシスターだが、これだけ大きな町にいて様々な旅人の話を聞いているからか、相談に応じることには慣れている様子だった。旅人の漠然とした悩みにも、答えを導き出すことはできないにしても、彼らの心を癒し落ち着かせる術は知っているようだった。
一通り話を聞いたシスターは、リュカの旅の助けとなるような情報を頭の中から引き出した。幾人もの旅人の話を聞いていたシスターは、町の外に出ないとは言え、駆け出しの旅人よりはよほど情報通だった。
「お母様を探す旅をするためにまずこれから北に行くのですね。噂ではここから橋を渡っていった先にある北の王国は、今とても情勢が不安定のようです。もしそちらに行かれる際には十分気をつけて行かれた方がよろしいですよ」
「北の王国、ですか。どうしてそんな事になっているんですか」
「詳しいことはよく分かりませんが、何でも十年ほど前に、新しい王様が即位した後に新政を開始し、それまで平和だった国ががらりと様相を変えてしまったとか。今では財政も圧迫し、税金の重圧に民が日々暮らすのも精一杯だと、そう旅の方たちに聞いております」
目を伏せながら静かにそう語るシスターの様子は、まるで自分の目でその窮状を見てきたかのようにさえ感じられた。旅人から毎日話を聞くことで話の内容が体にすり込まれ、慈悲深いシスターは自分がその話の中にいるような錯覚さえ覚えているのだろう。
奴隷生活から抜け出し、しばらく修道院と言う俗世から離れていた二人にとって、世界情勢のことなどすぐには飲み込めないものだった。しかしそんな二人でも、世界が十余年前の安穏としていた時代とは異なっていることくらいはすぐに理解した。
このオラクルベリーという大都市を訪れる人の中には、すっかり物騒になってしまった世の中から脱出しようと、一時の安らぎを求めている者もいるのかも知れない。もしかしたら、不安や恐怖から逃れるために、旅の終着点をこの町と決め、入り浸っている者もいるのかも知れない。それはあの奴隷として働かされた大神殿を幸せの地だと信じ、行き着いた人々の考え方とあまり変わりないものに思えた。行き着いた先が、地獄かそうでないかの違いがあるだけだと、ヘンリーはぼんやり考えていた。
「これくらいのことしかお話できませんが、この街にはよく当たると称される占い師がいらっしゃいます。もしよろしければ、一度訪ねてみてはいかがでしょうか」
「どこにいるんですか、その人は」
「この教会から程近いところです。民家が密集している路地の一角ですが、オレンジ色のテントを張っているのですぐに分かると思います。ただ夜にしか占いはやっておられないようなので、一度体を休めてから行かれるといいでしょう」
「夜か。何で昼間はやってくれないんだろう」
ヘンリーがもどかしい気持ちでそう呟くと、彼女は苦笑しつつも占い師の言い分を代弁した。
「何でも夜空に燦然と輝く星が道を記してくれるようです。ですから星が現れる夜にならないと占いが出来ないということですよ。今日は雲一つなくてよく晴れ渡ってますから、占いをするには良い日和なのではないでしょうか」
シスターに色々と話を聞いてもらった二人は少しばかりの寄付金を出そうとしたが、シスターは柔らかくそれを断った。
「こういうところでお金を使うものではありません。そのお金は貴方がたが生きるためにお使いください」
シスターはそう言うと、二人に礼をした後、他の迷える旅人のもとへと歩み寄って行った。いかにも商人のようないでたちをした小太りの男は、『カジノで負けてばかりで困っている』などと、どうしようもない悩みをシスターに打ち明けていたが、そんな話にも彼女は真剣に耳を傾け、助言を与えていた。
旅人のみならず町の人々もこの教会で神父やシスターに悩みを打ち明けたり、ただ話を聞いてもらいたかったり、この静かな雰囲気に浸りたいだけだったりで、教会と言う厳かな場所にしては少々賑やかな空気が流れていた。ほど良いざわつきに紛れ、リュカもヘンリーも教会の雰囲気に下手に緊張することもなく、冷静に穏やかに、今までを振り返ったり、これからのことを考えたりした。
「そう言えばさ、ヘンリー」
「何だよ」
「修道院からナイフを盗んできたこと、ここで謝っておいた方が良いんじゃない?」
真面目に祭壇奥の十字架を眺めていたリュカが、一体何を考えていたのかと、ヘンリーは怪訝な顔つきで隣の彼を見た。
「そのことを謝らなきゃいけないんだったら、もう一つ、謝っておかないとな」
「何それ、どういうこと?」
リュカが訳が分からないという表情で問いかけてくると、ヘンリーは懐から一冊の本を取りだした。手の平に収まりそうなほど小さな本だが、中には小さな文字がぎっしり並んでおり、一目見ただけで楽しい本ではないことが分かる。
「まだちょっとしか読んでないんだけどな。これはなかなか使えるぞ。後でお前にも貸してやるよ」
ヘンリーが手にしていたのは手の平サイズの簡易魔法書だった。もう一つ謝らなければならないと言ったのは、ナイフだけではなく、この魔法書も修道院から無断で持ち出したからだった。リュカは本を手に取り、ぱらぱらと捲って見た。子供の頃、ビアンカと一緒に魔法書を見ていた記憶が蘇る。しかし、当時は一つの文字も読めず、ビアンカに読んでもらうしかなかった。今、手にしている魔法書も当時見ていたものとあまり変わらないはずだが、文字を読み、内容を読み取ることができることに、リュカは素直に感動した。ヘンリーが修道院からナイフや魔法書やらを盗んできた事実など、どうでも良くなってしまったように、魔法書の文字に目を凝らす。
「俺の勉強が少しは役に立ったか」
ヘンリーがまるでいたずらが成功したような笑みを浮かべると、リュカはそれが盗品だということも忘れて、ありがとうと礼の言葉を述べていた。リュカは自分が魔法書を独占している隣で、ヘンリーが盗みに関して適当に懺悔の言葉を呟くのを、全く聞いていなかった。
教会を出ると、太陽がオレンジ色の光を伴ってゆらゆらと沈みそうになっている光景に、二人は目を疑った。朝も早くから宿を出て町を歩き、昼に腹を空かせるのも忘れて、いつの間にか一日の大半が終わろうとしている。彼らがいる通りは裏通りで、元よりさほど人通りは多くなかったが、今では更に人影はまばらだ。一日の仕事を終えてこれから酒場で一杯、というような若者連れもいれば、夕飯の買出しを終え、家で待つ家族のためにいそいそと歩き帰る主婦もいる。
「俺たちも一度宿に戻る……じゃなかった。まともな宿を見つけに行くぞ」
昨日みたいな宿は二度とごめんだと言わんばかりに、ヘンリーは町の裏通りから表通りに出ようと歩き始めた。リュカは昨日の異様な宿の雰囲気に気付かなかった自分を反省する気持ちと、酒を飲んで寝てしまっていたヘンリーにちょっとした不服の目を向けながら、彼の後について行く。
旅人向けの一般の宿は、町を入ってすぐのところに堂々と建っていた。町を訪れた旅人が町に着いてまずすることは、身体を休めることだ。町の入り口近くに宿を構えていることは商売上、当然のことなのだろう。昨日の晩、その宿を素通りした自分たちがリュカにもヘンリーにも信じられなかった。それだけ、二人の目にはあのカジノの色とりどりの明かりが興味深かったのだ。
町全体が賑わい、旅人も多くいるように見えるオラクルベリーだが、宿の空きには余裕があった。これでも旅人の数は以前と比べて減っており、宿泊客もさほど多くはないようだ。それだけに客取りに真剣で、宿のサービスも良いようだ。しかし宿代を負けてくれることはなかった。
二人は手早く宿帳に記入を済ませ、銀色の鍵を受け取ると二階へ上がった。
生まれて初めて大都市という場所を散策した二人は、緊張と興奮のため目だけは冴えていたが、生憎身体は疲労感に包まれていた。ようやく空腹も感じるほど時間の経過を感じたが、食事をするために再び外へ出るのは億劫だった。一先ず身体を休めたかった。
部屋に入ると、すでに部屋の中ではランプに明かりが灯されていた。外にはまだ沈みきらない夕陽が西の空にある。しかし東の空には濃紺の空に既に星が出ていた。雲はなく、空は晴れ渡ったままだ。
部屋のテーブルには陶器の水差しとコップが置いてあり、中の水には薄切りのレモンが入っている。その香りが部屋の中を清潔な雰囲気に仕立てていた。コップに水を注ぎ、一気に飲み干すと、朝からずっと水すらも飲んでいなかったことに気付いた。急に喉の渇きを覚え、リュカは続けざまに二杯の水を喉に流し込んだ。魔法の力でも借りているのか、水は冷えており、リュカはぼんやりしていた頭が冴えわたって行く感じを覚えた。
「ヘンリー、少し休んでから占い師のところへ行ってみようよ」
まるで疲れを忘れてしまったかのように、生き生きとした顔つきで話しかけてくるリュカを見て、ヘンリーは既にベッドに横になりながら、けだるい感じで応える。
「何でお前はそんなに元気なんだよ」
「ヘンリーもこの水を飲んだらいいよ。美味しいよ」
「たかが水を一杯、二杯飲んだところで元気になれるお前が羨ましいよ」
「まだ酒が残ってるんじゃない? 僕は平気だけど、ヘンリーはすぐに寝ちゃったからなぁ。それでまだ身体がだるいんじゃないかな」
「うるせぇな、残ってねぇよ」
多少ムキになって反論するヘンリーに、リュカは含み笑いを禁じ得なかった。しかしそんなリュカの笑いに、ヘンリーは気付かずにベッドの上で大の字になり、目を瞑っている。すぐにでも寝息を立てて眠ってしまいそうだ。
ヘンリーにとっては、こうして旅に出ることも、町を歩き回ることも、全てが彼の人生において初めてのことだった。一見平気なように見えても、実のところ彼の神経はかなりすり減り、体力も予想以上に奪われていた。彼自身、そのことに気づくことなく町を歩き、今こうしてベッドの上で横になって初めてその疲労に気付いていた。
その点リュカは、幼い頃から父に連れられ様々な村や町を歩き、魔物と遭遇する外歩きにもいくらか慣れていた。全てが初めてという感覚ではなく、一つ一つを思い出すような感じで、修道院からの道のりをある意味楽しんでいた。この旅路が幼い頃の様々な感情と結び付いたが、そのどれもがリュカに取っては嬉しく、楽しかった。あの時が来るまでは、リュカの思い出は楽しいことばかりだったのだ。
気付けば、ヘンリーは靴も脱がないままベッドの上で寝息を立て始めていた。幸い、今日の宿にはベッドが二つある。リュカはもう一つのベッドに腰掛けると、ヘンリーから借りた魔法書に目を落とした。
「ヘンリーも『メラ』が使えるんだなぁ。僕にも使えたらいいのに、便利そうだし」
指先に炎を生み出すヘンリーの得意げな顔に、幼い頃の少女の顔が重なる。ビアンカもこの呪文を得意としていたのを思い出し、リュカはなんとなく自分が『メラ』を使えない理由が分かった気がした。
「……他に僕に使えそうな呪文はないかな」
頁をぱらぱらと捲り、興味深そうに魔法書を読むリュカだが、そのうちベッドの上に寝そべりながら本に目を落とし、しまいには本の上に突っ伏して眠ってしまった。レモン水を飲み、頭が冴えわたっていたような気がしていたリュカだったが、全力で走り続けていた足が何かに躓いたように、突然身体の電池が切れた。
眠りの中、リュカの夢には幼い頃の父との旅路が、勝気な少女との小さな冒険が、坊ちゃんと優しく読んでくれる丸っこいおじさんの手料理がありありと蘇っていた。起きた時には忘れている夢だが、リュカは今、過去の幸せに浸ることができた。
「お父さん……」
そう幸せそうに呟くリュカの寝言は幸い、眠っているヘンリーには届かなかった。

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