2017/12/03

旅立ち

 

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修道院に流れ着いてから既に一月が経とうとしていた。
修道院での生活にも慣れ、リュカとヘンリーは一日一日を修道院の修繕や、修道女たちの手伝いなどをして過ごしていた。二階の回廊の手摺や、軋んでいた階段に新しい板を張ったり、古びた木の窓枠を新しいものに作り替えたりする内、二人の体力はみるみる回復していった。旅に出るためには体力作りを怠ってはならないと、二人は修繕や手伝いに力を注いだ。
二人が精力的に修道院の修繕に努めた結果、古びていた危なっかしい部分はほとんどが補強され、二人は修道院長を初め、修道女らからも礼の言葉を浴びせられた。そんな彼女らの言葉だけで報われる感覚を得たのは、二人とも初めてだった。あの大神殿建設の地で奴隷として働いていた時、労働とは苛酷なものでしかなかった。こうして人に感謝されるだけで、心も満たされ、何故か体力も回復したような気になるのは、リュカにとってもヘンリーにとっても不思議な感覚だった。
修道院の修繕の他にも、山へ入って食材を採る手伝いも申し出た。旅に出る前に、もちろん食材の確保はしていくつもりだが、魔物が潜む外界では何が起こるか分からない。金なら魔物に盗られる心配もないが、食べ物は魔物も真っ先に狙ってくる荷物だろう。もしかしたら旅の途中で全てを盗られ、身一つとなる可能性もある。修道院にあった本を借りて、食べられる山菜の見分け方や、保存食の作り方などに取り組んだ。
てっきり修道院の中で慎ましやかに暮らしているのだと思っていた修道女たちは、山歩きに慣れていた。山に入る時には、修道服から山歩きに適した服装に変えていた。それらの服も彼女たちが自ら作っているものだ。聞けば、この修道院には必要最低限ではあるものの、定期的に物資が運ばれてくるらしい。彼女たちはその機会に布地や本など、自分たちの仕事では不足するものを寄付として譲り受けている。しかし最近では魔物の数が増え、修道院に運ばれてくる物資は不定期になっているという。
二人は今、彼女たちの手で作られた靴を履いていた。生物の殺生を行わないため、動物の皮などはもちろん使わず、靴は布地を何枚も貼り合わせてできたものだった。普段の生活をするには困らないが、旅を始め、魔物と遭遇し、戦うことになれば、そう長くは持たないのではないかと思えるほどの靴だ。どこかの町に無事着いたら、まずは靴を買わなくてはならないとヘンリーは思っていた。彼女たちも同じような靴を履いているが、やはり何度も修理をしているらしかった。
山菜や木の実、茸を採り、山を下る途中で小川に立ち寄る。持ってきた木桶に小川の水を汲み、一日の生活の水として修道院に持ち帰る。背中には山菜が入った籠を背負い、両手に水を入れた木桶を持つ。彼女たちは日々を生きるために、こうして与えられた仕事をし、一日が無事終わる時には神に感謝をする。自分の力で生きている、という感覚ではないのだ。神によって生かされているという感謝の念が、彼女たちの思考の根底にある。
リュカもヘンリーも、そんな彼女たちの姿を尊敬の眼差しで見ていたが、同じように考えることはできなかった。二人は神という存在に対して半信半疑、というよりもむしろ、信じていないと言っても過言ではなかった。信じるのは、自分の目に見えるものだという思いが、二人には根付いている。
ただ、見えない何かを信じる彼女たちの心は強靭だった。彼女たちの心の中には常に神がいる。いつどこにいても、彼女たちはそれを拠り所にして、いかなる行動も起こせるのだ。こうして山を歩くことも、重い水を運んで持ち帰ることも、苦労を厭わない。むしろそうやって生きて行けることに、彼女たちは感謝している。そんな心のあり様は、リュカもヘンリーも少し羨ましく感じていた。
「辛いな、イヤだなって思うことってないんですか」
リュカはある時修道女の一人にそう聞いたことがあった。その時、問いかけられた修道女は少しはにかむような笑顔でリュカに答えた。
「こうすることが、私たちの暮らしですから。自然の恵みを分けていただき、自然の中で生かされている。一日一日が無事に暮らせたことを神に感謝し、それは生きている限り続くのです」
リュカやヘンリーはあくまでも修道院の客としての扱いで、手伝いをすれば彼女らから礼を言われ感謝される。しかし彼女たちにとっては生きるための労働であり、誰からも感謝されることはない。むしろ彼女たちが一日一日を無事に過ごせたことを神に感謝しているくらいだ。
そんなことを考えながら歩いていたリュカは、ふと気付いた。自らも無意識のうちに、死んだ父やまだ知らない母に感謝することがある。今、隣を歩くヘンリーにも、修道院で食事の支度などをしてくれるマリアにも、もちろん普段から世話をしてくれる修道女たちにも、自然と感謝の気持ちが生まれている。周りの人々によって自分が今生きているのだ、と考えることは、修道女にとって神に生かされていると考えるのと似ているのかも知れないと、リュカは彼女たちの心の中を垣間見たような気がした。
修道女らの中には親を失い、孤児としてここへ引き取られた女性もいる。親の顔を知らずに育ったような子供もいる。どんな事情で彼女たちがこの修道院に来たのか、リュカもヘンリーも詳しくは聞いていない。しかし彼女たちはそれぞれに深い心の傷を負い、この海辺の清らかな修道院で長い年月をかけてその傷を癒していくのだろう。心の拠り所を神に求めた彼女たちを、二人は間違っているとは思えなかった。ただ、自分たちはそうではなかった、というだけだった。
昼間は身体を動かした労働をし、夕方には部屋にこもり勉強会を毎日開いた。昼間の労働で身体は疲労しており、しばしばリュカは机の上で舟を漕いでいたが、その度にヘンリーに本の背を頭に落とされた。激痛が走る後頭部を抑えるリュカを見て、一緒に勉強会に臨んでいるマリアはくすくすと笑っていた。
子供の頃は人に教えられるのを嫌い、意地になって一人で本を読んでいたヘンリーは、今、自分が人に教えていることに心の中で苦笑していた。人に教わるのが嫌いな自分が、いざ教える側に回ると、その立場が心地良く感じるなど、新しい発見だった。しかし考えてみればそれも当然のこと、ヘンリーは人に比べて優越を感じる時に心が満たされるのだ。それは子供の頃から変わっていなかった。子供の頃と異なるのは、相手を負かしてやったという意地汚い優越ではなく、自ら教えたことが人の身になっているという嬉しさが滲み出てくることだった。
二人の中でもマリアは物覚えがよく、勉強の時間を設けてから一週間後にはもう簡単な童話を一冊読みこなしてしまっていた。ヘンリーが褒めると、マリアは照れたように本で顔を隠した。リュカが羨ましそうにマリアを見ていると、彼女は恥ずかしそうにリュカからも顔を隠した。
夕方から始める勉強会は、修道女の就寝時間の一時間前には終了する。借りている部屋には夜の暗闇が迫り、途中、ランプに火をつけて続けていた。ランプに使う油も貴重なもので、三人はその小さな灯りに顔を寄せ合って本を開いていた。暗がりではあるものの、互いの表情は良く見ることができた。
本の上に真剣な目を落としているマリアの横顔に、ヘンリーはふと彼女の疲労を感じた。ランプの灯りに照らされた彼女の顔には、少女らしからぬ影が落ちていた。まだ少ないながらも食事は普通に取れるようになり、修道女として日々の労働をこなし、充実した日々を送っているはずだ。
「マリアちゃん、ちゃんと夜寝てるのか。何だか疲れてるみたいだけど」
ヘンリーにそう問いかけられ、マリアはふと顔を上げた。正面に座るヘンリーと目が合うと、にっこりと笑って答える。
「はい、大丈夫です」
笑顔のマリアに、先ほどの影は見えなかった。再び本に目を落とし、先を読み進めようとするマリアを、ヘンリーはもう止めなかった。同じく本を読んでいたリュカが分からない文字があると言ってヘンリーに問いかける。目を擦りながら問いかけるリュカを見て、ヘンリーは時間が予想以上に経っていたことに気付いた。眠そうにしているリュカの隣で、マリアはいつもと変わらぬ顔で本を黙々と読み進めている。
思い返してみれば、マリアが眠そうにしているところを見たことがなかった。
「今日はもう、終わりにしよう。いつの間にかここから月が見えなくなってる」
いつも月が窓の中央に見えたくらいで、勉強会は散会していた。ヘンリーに終わりを告げられると、リュカは堪えていた欠伸を思い切りした。
「ヘンリーって、勉強好きだったの?」
「何だよ、急に」
「だって、時間も忘れるくらい集中するなんて、らしくないなぁって思ってさ」
「お前だって、そうだろ」
「僕は『ああ、もう月が見えるのにまだ終わらないのかな』ってちょっと前から思ってたよ」
「言えば良かったじゃねぇか」
「でも、マリアさんも集中してるし、ジャマしちゃ悪いかなって」
「お前にしては気遣ったんだな」
「うん、まあね」
ヘンリーの嫌味にも気づかないくらいに、リュカは既に眠気を覚えているようだった。そんなリュカだが、翌日同じところを読ませると、すいすい読むことができたりするのだ。リュカはリュカで、その時を集中しているらしかった。一瞬の集中力に関しては恐らく敵わないのかもしれないと、ヘンリーは秘かに思っている。
「そうだ、今日はお昼に少しだけお菓子を作ったんです。良ければお持ちしましょうか」
「え、ホントに?」
「はい、月に一度、ここではお菓子を作るそうです。その時にお二人の分も、と思って多めに作っておいたんです」
「じゃあ、こっそり食べに行こうかな。もう遅い時間だしね」
眠気が飛んだリュカが席を立つと、マリアがそれを止めた。
「お部屋にお戻りになってください。後でお持ちしますから」
「確かに、こんな暗がりに厨房で三人、菓子を立ち食いしてるのも気味が悪いな」
「ふふ、そうですね。では後でお部屋の前に置いておきますね」
「あれ、マリアさんは食べないの?」
「私はもういただきました。残してあるのはお二人の分なんです。では、後で」
マリアは小脇に本を抱えたまま、部屋を出て行った。廊下にはほんの数か所、まだ燭台に灯りが灯っている。既に暗い場所に目が慣れているマリアにとっては、十分な明るさだった。廊下を歩いて行くマリアの小さな足音が徐々に小さくなっていく。
「じゃ、俺たちも部屋に……」
ヘンリーがそう言いかけた矢先、部屋の外で何かが倒れる音が響いた。金属製の音に、リュカは燭台が倒れたのだと分かった。まだ修道服に慣れていない頃、マリアは何度か修道服の裾に燭台の足を引っ掛け、倒したことがあったのを、リュカは思い出した。
「マリアさん、また引っかけちゃったかな」
「もしかしたらそうかもな」
ヘンリーも同じ状況を思い浮かべていたようだ。
「怪我してないか、ちょっと見てくるね」
「え? ああ、頼む」
リュカが部屋を出ると、月明かりだけが差し込む修道院の中で、小さな人影が床に座り込んでいた。足を片手で擦っているようだった。リュカが近づいて行くと、転んだマリアが慌てて立ち上がろうとする。
「大丈夫? マリアさん」
「あ、はい、えーと、何のことでしょう」
派手な音を響かせて燭台を倒したと言うのに、咄嗟にごまかそうとするマリアにリュカは思わず笑った。倒れていた燭台の火は当然消えていた。修道院内は遠くにある燭台が二、三個と、月明かりだけで照らされている。遠くの燭台の灯りは二人のところには届かない。リュカとマリアは月明かりの中で、互いにそのシルエットを見ることができた。
顔を上げたマリアの目に映ったのは、リュカの影だった。しかしマリアの目にはリュカの影として映らなかった。
「……兄さん」
マリアの呟きがリュカに聞こえた。燭台を立て直したリュカは、マリアを振り向き見たが、暗くてその表情は見えない。しかし彼女が静かに涙を流す雰囲気を感じた。彼女の傍にリュカもしゃがみ込み、手を差し伸べると、マリアはその手を両手で強く握ってきた。
「良かった、兄さん、無事だったのね」
マリアの穏やかで必死な声に、リュカは何も応えることができずにいた。暗がりで見えはしないが、マリアは今、心の底から安心したような顔をしているのだろう。
マリアの幸せな夢を壊したくはなかった。リュカは暗闇に紛れ、彼女が必要とする役を演じようとした。大神殿で束の間話をしたヨシュアを思い出し、リュカは小さなマリアの頭を優しく撫でた。マリアはリュカの手を握り、俯きながら言葉を落とす。
「ごめんなさい、ごめんなさい」
「何を謝っているの、マリア」
「だって、私だけあの場所から逃げるだなんて……幸せを祈ってるだなんて言われても、私だけ、なれない」
マリアの声は震え、途切れがちに続く。修道院での生活にも慣れ、この頃マリアは自然に笑顔を見せるようになっていた。少なくともリュカの目にはそう映っていた。マリアがこれほどの闇を抱えていることを、リュカは日々の生活の中で忘れかけていたことに気付いた。マリアの気持ちを宥めるように、彼女の頭を優しく撫で続けた。
「マリアが幸せになってくれれば、僕も幸せなんだよ」
ヨシュアの本心を今聞いたかのように、リュカの口から自然に言葉が出て行く。リュカたちを脱出させる時、ヨシュアの表情から読み取れたのはそんな気持ちだったのだ。ヨシュアは樽の蓋を閉める時、辛い表情ではなく、満足したような表情を見せていた。
身を呈して家族に守られる辛い気持ちを、リュカは既に知っている。だからこそ、そんな家族の気持ちを無駄にしてはいけないと、マリアに語りかけた。
「僕に謝ることなんてない。マリアはマリアのこれからを考えるんだ。僕は大丈夫だから」
「良かった……兄さんは大丈夫なのね」
「そうだよ。だから安心して」
「うん」
リュカが何度となくマリアの頭を撫でているうちに、マリアは気が抜けたようにリュカの身体に倒れ込んできた。自分の胸に支えたマリアからは、静かな寝息が聞こえた。マリアを起こさぬように、彼女の身体を静かに抱えながら立ち上がると、リュカの前には一人の修道女が立っていた。手には小さなランプを持ち、その灯りに泣き眠ってしまったマリアの顔が仄かに照らされた。
「マリア、今日はちゃんと眠れそうですね」
「今日はって、どういうことですか」
修道女は涙で頬に張り付いたマリアの髪を指で避けると、少々ためらいがちに話し始めた。
「この娘は、残してきてしまったお兄さんのことを考えると、毎夜眠れずにいたようです。眠ろうとしてもすぐに目が覚め、その度に祭壇の前に行ってはずっとお祈りをしていました」
修道女の話を聞きながら、リュカは先ほどの勉強会でのヘンリーの言葉を思い出した。ヘンリーはマリアに「ちゃんと眠っているのか」と心配していた。日中顔を合わせるマリアは自然の笑顔で振る舞い、徐々に順調に心の傷を癒しているのだとばかり思っていたリュカは、まさかマリアが毎日寝付けないでいたことなど想像していなかった。
「私たちではこの娘の傷を和らげることもできませんでした。ですから、ありがとうございます」
「いや、僕は何も……」
「いいえ、あなたがマリアのお兄さんの声をちゃんと聞き届けてくれたのでしょう。マリアにはその声がしっかりと届いたのだと思います」
「でも、僕はヨシュアさんじゃないから、ただウソをついただけです。本当はこういうこと、しちゃいけないんでしょう」
「私は……修道女としてではなく、一人の人間として、ついても良い嘘はあると思うのです。嘘でしか救えない時だって、あるでしょう」
「……そうですね。僕もそう思います」
神に仕える修道女にそう言われ、リュカは自分の行動は認められたのだと安心した。必死に兄の影を求めるマリアの前で、現実を突きつける非情なことがリュカには到底できなかった。抱えるマリアの寝顔が安らかなのを見て、リュカは自分は間違ったことはしていないと確信した。
「お手数ですが、そのままマリアを部屋まで運んでいただけますか」
「もちろんです」
リュカは快く返事をし、前を歩く修道女の後ろをついて行った。部屋に入り、マリアをベッドの上に横たわらせ、布団をかけてやっても、マリアは起きる気配を見せなかった。今までずっと睡眠もまともに取れなかったマリアは、その時間を取り戻そうと一気に深い眠りに入ったようだ。
修道女たちの部屋を出て、先ほどまでいた勉強部屋に戻る途中、リュカはある種の満足感を得ていた。誰かのために役に立てたという思いは、リュカの心の一部を埋めてくれた。いつも誰かを頼りにしてきた自分が、誰かに頼りにされたことが、リュカには誇らしかった。
勉強部屋に戻ると、ヘンリーの姿はなかった。部屋の明かりは燃え尽きたように消え、ヘンリーは既に借りている寝室に戻っているようだ。しかしまだ部屋の中は暖かかった。つい先ほどまでヘンリーがここにいたのが分かる。すっかり机の上の本も片付けられているのを見て、リュカも寝室へ戻って行った。
リュカたちが客室として借りている部屋は静まり返り、外の波の音が小さく響いているだけだった。月明かりは届かず、リュカは手探りで部屋の中を移動し、ベッドまでたどり着いた。隣のベッドでは既にヘンリーが横になっている気配だけを感じる。しかし寝息も何も感じないヘンリーの様子に不安を感じ、リュカは身を乗り出してヘンリーの様子を窺った。
「何だよ、リュカ」
布団をかぶったヘンリーが不機嫌そうな声を出す。
「何だ、起きてたのか」
リュカは安心したように息をつくと、力が抜けたように自分のベッドにぼすんと腰を下ろした。ヘンリーは星空を見上げるように、窓の外を眺めていた。少し窓が開いているのか、春にしては冷たい風が部屋の中に流れ込んでくる。布団に包まって身を縮めているヘンリーを見ながら、リュカはベッドから立ち上がり窓を閉めた。
「寒いんなら窓を閉めればいいのに」
「別に寒くはない」
相変わらずヘンリーの声は不機嫌なものだ。特に珍しいことでもないが、いつもとは違う不機嫌さにリュカは首を傾げる。
「どうかしたの、ヘンリー」
「別に、どうもしねぇよ」
取りつく島もないヘンリーの返事に、リュカは会話を諦め、自分のベッドに戻った。一晩眠れば、朝には何事もなかったようにまた会話もできるだろうと、リュカは布団の中に潜り込んだ。勉強会の途中から眠くてどうしようもなかったリュカは、間もなく睡魔に襲われた。耳には心地よい波の音が繰り返されている。
「……マリアちゃん、大丈夫だったか」
ヘンリーがぽつりと布団の中からくぐもった声を出した。眠りかけていたリュカは、夢の中で聞いたようなヘンリーの声におぼろげに答える。
「大丈夫なんじゃないかな」
「何だよ、それ」
噛みついてくるようなヘンリーの声に、リュカは思いがけずに目を覚ました。ヘンリーを見ると、彼はリュカに背を向けたまま布団をかぶり、じっとしている。
「僕、何かおかしなこと言った?」
リュカは半身を起こした状態で、背を向けているヘンリーに問いかけた。何度か波の音が繰り返し響いた後、ヘンリーが寝返りを打ってリュカの方を向いた。
「無責任だ」
「どういうこと?」
「マリアちゃんはお前を頼ってきたんだろ」
暗い声で話すヘンリーの言葉に、彼が先ほどの廊下での出来事を見ていたのだと知った。しかしリュカにはヘンリーに怒られるようなことをした意識はない。むしろマリアの心を少しでも救うことができたと、誇らしいとさえ思っているのだ。
「僕をヨシュアさんだと思ったみたいだね。だから僕はちょっとの間だけ、ヨシュアさんになろうと……」
「でもお前はお前だ。ヨシュアさんじゃない」
「そんなの、僕が一番知ってるよ」
「知ってても、わかってない」
「何だよ、それ、訳がわからないよ、ヘンリー」
「……俺もだ。もう、いい。寝る」
「うん……その方が良さそうだね。おやすみ」
会話を強制的に終わらせた二人だが、互いに納得の行くものが得られず、しばらく布団の中ではっきりと目を覚まして怒りを溜めていた。リュカは良いことをしたはずなのにどうして怒られなければならないのか、といら立ちを腹に溜め、ヘンリーはなぜこんなにも腹が立つのか分からないという、未知のいら立ちを腹に抱えた。
昼間の労働と、夕方からの勉強で、身体はほど良く疲労しているはずだが、一向に眠気に襲われない意リュカは、一度眠ることを諦めた。腹を立ててもしょうがないと、先ほどまでの話とは何の脈絡もない話をし始める。
「ヘンリー、僕さ、そろそろここを出ようかって考えてるんだ」
唐突なリュカの言葉に、ヘンリーが振り返る。リュカは窓の外に見える星空を眺めながら続けた。
「ここに長くいると、旅に出辛くなると思ってさ。旅に出るのは早い方がいいってずっと考えてたんだ」
リュカの言葉の響きは、親友に対する相談ではなく、決定事の報告だった。口調は穏やかで、柔らかい響きさえ持っているが、その意思の強さは声に出ていた。
「一応言っておくけど、無理に僕についてくることなんかないんだよ」
「……お前みたいな頼りないのを、一人で出せるかっての。第一、俺だってここでずっと暮らせるわけじゃない。いずれここを出るのは修道院長さんとの約束事だっただろ」
「うん、そうだね。ありがとう」
「礼を言われる筋合いはない。俺が決めたことだ」
ヘンリーはそう言い捨てると、再び布団の中に潜り、窓側を向いて身体を丸めた。リュカもベッドの上で仰向けになりながら、月明かりを照り返す海の揺らめきが映る天井を見つめた。
ヘンリーに旅に出ることを告げたことで、リュカ自身もこの修道院を出ることへの決意が固まった。実際に口にするまでは、もうしばらくここで世話になっても良いかと思っていた。それほどに、ここでの生活は穏やかで過ごしやすいものだった。手放すのが惜しいと思い始めていたのだ。
心地よい環境に長くいればいるほど、旅に出る決意が弱くなると、リュカは唐突に旅に出ることをヘンリーに話した。体力が回復するまでは、という条件のもと、二人は修道院で生活することを許されていたが、二人の体力はとっくに回復していた。修道院長もそんな彼らの様子にかなり前から気付いていたはずだ。しかし彼らの旅立ちを催促することはもちろんなかった。心も身体も傷ついた二人が回復したと言い出すまでは、修道院で生活することを快く受け入れるような寛容な態度だった。
リュカは明日、修道院長に旅に出ることを告げようと、天井の揺らめきを見ながら決めた。ヘンリーもそれを止めることはないだろう。恐らく彼も、自分と同じようなことを考えていたはずだ。このままここでの平和な生活に慣れてしまってはいけないと。
胸の支えが一つ取れたような気がして、リュカは大きく息をついた。繰り返される波の音がリュカの眠気を誘う。ヘンリーの寝息が聞こえたと思った直後、リュカも安心した眠りに就いた。



翌朝、いつも通りの食事を済ませると、リュカはヘンリーと共に修道院長の部屋を訪ねた。部屋に姿を見せた彼らの表情を見るなり、修道院長は全てを見通したかのようのゆっくりと頷いた。
「そちらの椅子に腰掛けてお待ちください。マリアを呼んできます」
二人の否応の返事も聞かずに、修道院長は一度部屋を出て行った。修道院の中でも特別な修道院長の部屋に残され、まるで祭壇の前に座らされているような感覚にさえ陥る。罪の告白を迫られているようで、二人は落ち着かない状態のまま彼女が戻るのを無言で待った。
マリアは今日も変わらず、朝から勤めを果たしていた。厨房で食事の後片付けをしていたらしい。腕まくりしている袖を慌てて下ろし、修道院長に促されるまま、リュカの隣の椅子に座った。
「あ、あの、お茶をお入れしましょうか」
この部屋の雰囲気にマリアも落ち着かないようで、椅子から立ち上がり、部屋の奥にある簡易台所に向かおうとする。
「いえ、貴方もここで彼らの話を聞いていてください。お茶は後でゆっくり飲みましょう」
修道院長に柔らかく制され、マリアは緊張した面持ちで再び椅子に腰を下ろした。静かな空気が辺りを包む。この部屋の裏庭には、色とりどりの花が咲いている。窓の外から仄かに香る花の香りが、部屋の空気を和らげた。
「僕たち、明日にはここを出ようと思ってます」
リュカは修道院長の目を正面に見ながら、はっきりと言った。ヘンリーも同じように彼女をじっと見つめている。リュカの隣で、マリアは一瞬息を止めていた。
「急な話ですね、と言いたいところですが、貴方がたとしては急なことでもないのでしょうね」
「そうだと思います」
「ここで目覚めた時から決めていたことだからな」
リュカもヘンリーも意志の揺らぎは微塵も見せない。むしろ新しい道に向かうことに高揚する心を、修道院長に見られていた。マリアは膝の上の修道服を軽く手に握り、俯いている。
修道院長はそんな三人の様子を見ながら、一度席を立つと、棚から何やら包みを取り出してきた。麻布の包みを、彼らの前の机に置く。
「これは貴方がたのここでの労働の対価としてお渡しするものです。十分な旅の資金とまでは行かないでしょうがしばらくはこれで凌げるでしょう」
机の上に差しだされた包みに、リュカが手を伸ばす。結ばれている紐を解き、丁寧に布をめくると、煌めく宝石が二つ。朝の光に晒された宝石はそれぞれ濃い紫色と翠色に輝く。この古びた修道院には似つかわしくない宝石を見て、リュカもヘンリーも思わず修道院長を窺い見た。
「俺たちはこういうのをもらいたくて、ここで働いていたわけじゃない」
「そうです。これはここの人たちのために使ってください」
「御心配には及びません。建物こそ古いですが、生活に困窮しているわけではありませんから」
「第一、この宝石は一体何なんだ」
「この修道院にはあんまり、似合ってないですね」
リュカが宝石を一つつまんで、光に見透かした。リュカにはこれが本物かどうかなど分かるわけもなかったが、修道院長が差し出したものが偽物であるはずもなかった。
「この石は昔、北の王国より賜ったものです」
「王国? 国から献上されたってのか」
「こんな海辺の寂れた修道院を気にかけてくださった先代の王様が、身寄りのない修道女たちの生活を案じて、お守り代わりにくださいました」
「そんな大事なもの、もらえません」
「もし、貴方達の旅に必要でなかったら、その時にはお返しいただければ結構です。お守り代わりとしてお持ちください」
修道院長は麻布の包みを再び包み直し、それをリュカとヘンリーの前についと差しだした。もう断る雰囲気は見当たらない。二人ともしばらくその包みを見ていたが、ヘンリーが先に礼を述べると、リュカも慌てて頭を下げた。
「あの、私からはこれを……」
マリアはそう言いながら、修道服の袖を探った。袖の内側に縫い付けていたのか、一部を剥がすように取り去ると、糸がついたままの小さな袋を渡す。隣に座るリュカが受け取ると、マリアはいつもの笑顔で二人に話した。
「兄が、渡してくれたものです。すこしばかりですが、お金が入っています」
思わぬマリアの明るい声に、リュカもヘンリーも言葉も出せないまま、その小さな袋に目を落とした。
「それと他にも兄が渡してくれたものは全て、旅のお役に立ててください」
「マリアちゃん、これはもらえないよ。これは君が持ってるべきだ」
「いいえ、私がお金を持っていても仕方ないですもの。兄はこれを役立てて欲しいと思っているはずです。お二人のお役に立てれば、兄も喜ぶでしょう」
リュカは布についた糸を取り、袋状になっている包みを開けた。中には千ゴールドほどの札が小さく折りたたまれて入っていた。どこかの町に着けば、即座に金が必要になることは分かる。ヨシュアが用意してくれた金は、町でも数日間は悠に暮らせるだけの金額だった。
リュカは再び袋の中に金を入れ、修道院長から譲り受けた宝石の包みの隣に並べた。マリアのためにも、ヨシュアのためにも、この金は自分たちがもらうのが良いと、リュカはマリアのすっきりとしたような表情を見て微笑んだ。マリアがいつもと違うように見えるのは、昨夜良く眠れたからなのだろうと、リュカは安心したようにマリアを見ていた。
「お二人とも、どうもありがとうございます。ありがたくいただきます」
「絶対に無駄な使い方はしない。約束する」
「無駄に思えるようなことでも、人生にとって無駄なことはありません。お二人が使いたいと思えば、その時お使いください」
修道院長の慈愛の笑みがリュカとヘンリー、マリアも包む。三人は各々、修道院長の優しさに後押しされるように、気持ちが上がって行くのを感じた。
「近々、こんな日が来るのだろうと思っていました。ずっとお渡ししたいと思っていたものもお渡しできましたし、今日はゆっくり旅の準備をしてください」
「いいえ、今日もいつも通り仕事をさせてください。そのつもりで今日は朝早くにお話ししようと、こうして来たんです」
「そうそう、それに旅の支度っつったって、大した荷物があるわけじゃないし、仕事が終わってからでも時間は十分あるからな」
そう言うと、リュカとヘンリーは席を立って改めて礼をした。修道院長が小さく一つ頷くのを見て、二人は部屋を立ち去った。いつも通り与えられた仕事をし、その場所場所で修道女たちにも挨拶をしてくのだろう。
「では、私もお勤めに戻ります」
マリアは表情に笑みを残したまま席を立った。修道院長はそんなマリアを静かに見守りながら、一声かける。
「……マリア、あなたの道は見つかっていますか」
椅子を戻しかけたマリアの手が止まる。癖のある長い髪の間から、修道院長の真剣な眼差しを見たマリアは、同じような真剣な眼差しで彼女を見つめる。
「私はこちらの修道院で神にお仕えする者として、日々祈りを捧げていきます。それが今の私にできることだと思います」
マリアのきっぱりとした物言いに、修道院長は真剣な中にも、ほんの少しだけ悲しみを混ぜたような目を見せた。しかし真剣で一途なマリアには、そんな微かな修道院長の気持ちは伝わらない。
「そうですか。ただこれだけは覚えておきなさい、マリア」
机の上で手を軽く組み合わせながら、修道院長はマリアを見上げて言う。マリアも修道院長を正面に見つめ、直立した。
「人は常に、始まりの時にいます。毎日が人生の始まりなのです」
修道院長の声を胸に刻もうと、マリアは緊張した面持ちで彼女を強い眼差しで見つめる。
「過去を受け入れ、顧みることは必要ですが、過去に囚われてはいけませんよ」
修道院長の言葉はいつも物事の中心を突いてくる。しかし具体的な話をすることはない。答えを導き出すのは自分自身でしかないと、彼女は暗に言いたいのだろう。マリアは彼女の話に胸を突かれる思いだったが、実際にどうすればよいのかはまだ分からなかった。
過去を顧み、過去に囚われるのは、マリアにとって必然のことだった。そこから逃れる術はまだ見当たらない。
「この修道院でゆっくりと考えなさい、自分自身の幸せを」
その言葉に、マリアの脳裏には兄の言葉が蘇る。『お前の幸せを祈ってる』と、兄は樽の向こう側で言っていた。思い出すと目が熱くなり、堪えようと修道服を両手で握りしめる。マリアの目から涙はこぼれなかった。
「……では、お勤めに戻ります」
「今日も一日、よろしくお願いしますね」
「はい、呼んでいただいてありがとうございました」
マリアは部屋を出ると、厨房に戻ろうと足早に向かった。途中、窓から海の景色が眺められ、思わず足を止める。
一か月ほど前、三人はこの海辺に打ち上げられ、修道女らの手によって救出された。目覚めてからは、三人ともそれぞれに修道院の仕事を手伝いながら、日々を過ごし、一か月経った今ではその暮らしにも慣れてきた頃だった。その間にリュカとヘンリーはしっかりと自分の行くべき道を選び、明日には旅立とうとしている。旅立つことを想定していた彼らは、事前に周囲の環境や、目指すべき町の様子などを、書物や修道女の話から聞いたりしていた。彼らのそんな生き生きとした姿を、マリアはどこか羨望の眼差しで見ていた。
彼らを羨ましく思うなど筋違いだと、マリアは自身を心の中で叱った。自分の道は自分で決めなければならない。決めた道は、修道女としてこの海辺の修道院で祈り続けることだと、マリアは己に言い聞かせる。それが最善の生き方で、間違いではないと信じた。己の幸せはその先にあるのだと、信じるようにした。
「私はここにいられるだけで、幸せです」
マリアは一人、そう呟くと、足早に厨房へと向かった。朝食の片付けが終わったら、次には食材を採りに外へ出る予定だった。ちょうど、片づけを終えた修道女が厨房から出てきて、急ぎ歩くマリアを見つける。
「マリア、外へ出る支度をしてきなさい」
「あ、はい。すみません、片づけをお任せしてしまって」
「いいのよ、修道院長様と彼らと、大事なお話があったのでしょう。さきほど、二人が明日ここを出ると挨拶に見えたわ」
「そうですか」
「北の町に行くには朝早くに出るでしょうから、今日のうちに色々と準備をしておきましょう」
「え、準備って……」
「二人の旅装の仕上げや食べ物や水、色々とやるべきことはあるわよ、マリア」
修道女のその言葉に、マリアはほっとした表情で微笑んだ。彼らのためにできることがある、そう思っただけでマリアは沈みかけていた心が浮き上がるのを感じた。
「男の人二人では、どうしたって細かいことは忘れがちですからね」
「そうかもしれないですね。私もしっかりとお手伝いします」
お勤めを早くに終わらせれば、それだけ自分の時間ができる。マリアは今日の勤めを早々に終わらせるべく、外へ出る支度をしようと急いで部屋へと戻って行った。



まだ太陽が水平線から顔を出す前、リュカとヘンリーは身支度を調え、修道院前に出ていた。しかし彼らの旅立ちの朝は、生憎の曇り空だった。太陽が昇ったとしても、顔を出すことはなさそうだ。
二人とも、修道女たちの手によって調えられた旅装に身を包んでいた。リュカは主にヨシュアから譲り受けた服やブーツを履いていたが、頭に巻くターバンは修道女の一人が用意したものだった。彼の幼少の頃の話を耳にした時、彼女は町から来る商人に濃紫色の生地を注文し、取り寄せたらしかった。
「お前、そう言えば初めて会った時、そんな格好してたな」
「何だかこのターバンとマントを着けるだけで、旅も大丈夫な気がするよ」
「その檜の棒はどうしたんだ」
「これは僕が自分で用意したんだよ。魔物が出るんだから、何か武器を持ってないとね」
「そんなんで魔物が倒せるのかよ」
「倒せなくてもいいんだ、ただ追い払えれば。僕たちのジャマをしてほしくないだけだからね」
二人がそんな話をしている時、修道院の中から二人が姿を現した。まだ夜明けまでには少し時間がある。修道女たちはまだ寝静まっている時間だった。
ほんの少し背中の曲がった修道院長と、その後ろからはマリアが付いてきていた。二人は彼らがこの時間に旅立つことを知っていた。まだ冷たいとも感じる潮風を浴びるリュカとヘンリーに、二人は歩み寄って行く。
「もうお支度は万全ですか」
「僕たちだけではこうは行きませんでした。結局皆さんに色々と準備してもらっちゃって」
リュカが手に持つ袋には、修道女たちが用意してくれた食べ物、水、薬草など、旅には必携のものが揃っていた。北の町に行くまでの簡単な地図も、腰のベルトに結び付けた道具袋に入っている。ヘンリーの持つ荷物は少ないようだが、同じような内容のものが入っているのだろうと、リュカは確認もしていなかった。
「本当に皆さんにはお世話になりました」
「いいえ、こちらこそ修道院の傷んでいた部分を色々と直してもらって、助かりましたよ。あなたたちの旅が無事であることを毎日お祈り申し上げております」
「さぁて、そろそろ行くとするか。あんまりゆっくりしてたら一日どころじゃなくなるからな」
ヘンリーはそう言って軽くまとめた荷物を肩に担ぐと、片手を差し出して修道院長と握手を交わした。次いでリュカも彼女と握手を交わす。修道院長は二人に祈りの言葉を述べ、胸の前で両手を組み合わせた。目に見える加護があるわけではない。しかし信頼する人から祈りの言葉を聞くだけで、二人とも見えない鎧を着たような気になった。何かに守られている安心感が身体を包む。
「マリアさんも、元気でね」
「はい。リュカさんはお母様を捜す旅になるんですね。無事に見つかることをここからお祈りしています」
笑顔のマリアの目には、うっすらと涙が浮かんでいる。彼女のそんな表情を見て、リュカは改めて旅立つことを意識した。心がどこか浮ついた気持ちになるが、それとは別に地に足が着いたような気分にもなる。旅立ちの時はこうして心が不安定になるのかもしれない。しかしそんな気持ちがリュカは快かった。
「……私はあの時、あなたたちの勇気に救われました」
マリアが穏やかな表情でリュカとヘンリーを見上げる。彼女の表情はどこか清々しいものだった。
「これから色々なことがあると思いますが、リュカさんたちの勇気がきっとこの世界を照らす光になってくださると、信じます」
「そうなれるように、頑張るね。ありがとう、マリアさん」
そう言って差しだしたリュカの手を、マリアは両手で優しく包んだ。まだ少したどたどしい祈りの言葉を紡ぐ。隣にいるヘンリーにも同じように祈りの言葉を述べたが、ヘンリーは何も言わないままマリアの小さな頭を見つめていた。
「ヘンリーさん」
「ん?」
「何だか、顔色があまりよろしくないようです。大丈夫ですか」
「ああ、まだこんなに暗いから、そう見えるだけじゃねぇかな」
「あまりご無理はなさらないでくださいね」
「……うん、そうするようにするよ」
調子の狂うようなヘンリーの素直な態度に、リュカは思わず彼を覗き見た。視線を感じたヘンリーはすぐにリュカから逃げ、修道院に背を向けた。東の空が白んできて、彼らの行く道を示し始める。太陽の気配を東の彼方に感じながら、ヘンリーは北へと歩き始めた。リュカも遅れないようにと、すぐに彼の後を歩き出す。リュカもヘンリーも、修道院長もマリアも、もう互いに言葉を交わすことはなかった。ただ、見守り、見守られながら、旅立ちの時は儚く過ぎて行った。
空には薄雲が一面にかかり、太陽は姿を現さない。しかしもう日は昇っている。太陽の位置を雲の向こうに確認しながら、リュカは一度後ろを振り返った。既に修道院は見えなくなっていた。草原地帯を歩き、西には山が連なり、東からは海の気配が漂う。何にも守られることのない外の世界にいることを、リュカは肌で実感した。
「ヘンリー」
「何だ」
「怖くない?」
「お前はどうなんだ」
「ちょっと、怖いよ、やっぱり。……でも」
「何だ」
「やっと、っていう気持ちが強いかな。やっと、自分の足で踏み出せた」
子供の頃は父の保護の下で旅をし、奴隷の身に落とされた後は毎日が監視の下で行動は極端に制限された。自分の力で、自分の意志で、こうして外の世界を歩くのは初めてのことだった。浮足立つのと同時に、地に足が着くという、不安定な心境になるのは当然のことだった。
母を捜すという旅の目的ははっきりとしているが、そのために何をすればよいのか、具体的には分からない。しかしとりあえずは情報を集めなくてはならないと、二人は北の町を目指している。恐らく、この旅に近道はないのだと、リュカは焦らないことを常に意識するようにした。父が何年もかかって、成し遂げられなかった目的なのだ。今の自分でさえ、あの時の父の足元にも及ばないだろうことをリュカは自覚している。
「俺らはさ、今までかなり苦労してきたはずなんだ」
唐突に言い出したヘンリーの言葉に、リュカは彼を振り向き見た。ヘンリーは足を止めずに、歩きながら言う。
「だから、これからはきっと楽しいことが待ってるはずだ。そうじゃないと、ワリに合わない」
ヘンリーの言い回しに、リュカは思わず笑ってしまった。良いこともあれば、悪いこともある。どん底に落とされるほどの悪いことを経験してきた自分たちには、極上とも言えるほどの良いことがあるに違いないと考えると、リュカの心が更に押し上げられた。
修道院を出た頃には薄曇りで、その間から陽光など差し込む余地もなかった空は、少しその雲の量を東に流しているようだった。雲の隙間から薄日が差し込み、空を見上げたリュカは思わず片目を瞑った。ふと足を止め、来た道を振り返るヘンリーに声をかけると、彼はふっと息をついてリュカの後を追う。
二人は北の街のことを想像し、他愛もない会話を続けながら、北へ向かう足を速めた。

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