2017/12/03

生きる目的

 

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朝日は既に昇っているようだった。外は青い色で明るい。窓辺で鳥の鳴く声が聞こえる。閉じられた窓の隙間から流れ込む風に、修道院の裏庭に咲く花の香りがほんのりと漂う中、リュカは夢見心地のまま目を覚ました。隣のベッドではヘンリーが背中を向けてまだ眠っているようだった。
リュカはヘンリーを起こさないよう静かに起き上がると、両腕を天井に向けてぎこちなく伸びをした。身体に走る痛みは昨日に比べてかなり収まったが、まだ身体に違和感が残る。しかし床に足を着くと、しっかりと地面を踏む感覚が足に伝わってきた。誰かに支えてもらわなくとも、一人で立てそうだと、リュカはほっと息をついていた。
ベッドから立ち上がり、昨日と同じように窓から海を眺めた。昨日と同じように穏やかで、浜辺に寄せる波もかすかな飛沫を上げるのみで、見渡す限り至って平和な光景だった。修道院がこの場所にあることを、リュカは心で理解した。厳かな城でもなく、活気溢れる町でもなく、この永遠に変わらないとも思える穏やかなこの場所が、今の彼には必要だった。
リュカの中の平和な記憶は、十余年前に遡る。その当時と同じような時間が今、流れているということが、俄かには信じられなかった。自分の身体を見ると、手も足も大きく、背も伸びて、すっかり成長している。必死にその日を生きてきただけで、あっという間に大人になってしまった。
今ならば、とリュカは歯噛みするような思いに駆られた。大人になった今ならば、もしかしたら父を死なせることもなかったかも知れない。どうしてあの時、僕は小さかったんだと、考えても詮無いことが脳裏を掠める。
たとえ話を考えたところで、何が正解だったかは誰にもわからない。過去を振り返っても、過去を変えることはできない。穏やかな海の上に浮かぶ太陽を、リュカは眩しそうに、睨むように見つめた。
「父さん、絶対に母さんを見つけるから」
白い太陽が水平線の彼方に浮かぶ。太陽を見つめていた目を閉じ、リュカは父の死を悼むように手を組み合わせた。
今も時折、夢に出てくる父の最期。その場面が脳裏に浮かぶ度、拳が震え、身体が震える。まだ幼かった自分の非力を責めずにはいられなくなる。あの時、首に当てられた鎌の冷たさが蘇る。そしてそれを持っていた悪魔の顔をした魔道士の姿もはっきりと覚えていた。たとえ頭から振り払おうとしても、あのおぞましい魔道士の顔だけは忘れられそうにもなかった。
「……リュカ、起きてたのか」
昨日と同じように背後で聞こえた友の声に、リュカは後ろを振り向いた。ヘンリーはぼさぼさの頭を手櫛で押さえつけながら、片膝を立ててベッドに身を起こしていた。しかし目は完全に覚めているようで、彼の顔はとても寝起きのものとは思えなかった。
「おはよう、ヘンリー。今日もいい天気だよ」
「ああ、ここから空が見える。言われなくても分かるよ」
「今日はここの周りの花畑を歩いてみようかな。昨日ここの人達も言ってたよね、裏の花畑は今が見頃だって」
「お前、よくそんなこと覚えてるな。人の話聞いてないようで聞いてるんだな」
「何だか馬鹿にされてる感じがするんだけど」
「気のせいだろ」
リュカが訝しげに睨んでくるのに構わず、ヘンリーはベッドを離れて、テーブルの上に置かれている水差しを手に取った。伏せられている木のコップを手にし、水を注ぐと、一気に飲み干した。リュカも同じように、水を一杯口にした。水を飲んだ後、喉が渇いていたのだと気がついた。
「水ってうまいんだな」
「そうだね」
「腹が減ったな」
「うん、そうだね」
「よし、何か食べさせてもらうか。昨日とおんなじような粥でもあればいいんだけど」
粥と言ったヘンリーも、聞いたリュカも、同時に腹を鳴らした。二人で顔を見合わせて、苦笑しながら部屋の扉に向かう。
「相当頑丈にできてるね、僕たち」
「ああ、間違いないな」
ヘンリーが扉を開ける寸前、外から控えめにノックされる音を聞いた。驚いてヘンリーが後ろに飛び退くと、すぐ後ろにいたリュカにぶつかった。まだ完全に回復していないリュカは、堪え切れずにそのまま床に尻もちをつく。ドンッという派手な音が部屋の外にも響いた。
「えっ、だ、大丈夫ですか? 入りますね」
扉を開け、部屋の中を覗くマリアの目には、自分を見つめるヘンリーと、床に腰を下ろしているリュカの姿が映った。状況が分からないマリアは、ただ不思議そうに首を傾げる。
「どうなさったのですか? 何か大きな音がしましたけど」
「ああ、何でもない。こいつが倒れただけだ」
「……ひどいね、ヘンリー」
「事実だろ」
リュカが尻をさすりながら顔をしかめていると、マリアがその傍らにしゃがみ込んで様子を窺う。
「リュカさん、お怪我はないですか?」
「うん、大丈夫。ありがとう。マリアさんは優しいね、ヘンリーと違って」
「俺は俺なりに優しいだろ、いつも」
「どうかなぁ」
「お前の生意気な性格、子供の頃から変わってねぇな」
「君に言われたくないんだけど」
仏頂面で話す二人の会話を聞いて、マリアが小さな声で笑う。
「本当にお二人は仲がよろしいですね。……それはそうと、そろそろ朝食を召し上がりませんか。厨房に用意してあるので、もしよければお持ちしますけど」
「ちょうど腹が減ったって話してたところだよ。こっちに運んでくるなんて面倒だろ。俺たちが行くからいいよ」
「でも、お二人が厨房で食事をされたら、また修道女の皆さんから色々と聞かれますよ、きっと」
マリアの言葉の意味を、リュカもヘンリーも察した。男のいないこの修道院では、二人の青年は修道女たちの興味の的なのだ。決して厳格な雰囲気が漂うことのない海辺の修道院に住まう彼女らは、時に好奇心に忠実に行動する。そして修道女の服を着た娘たちの話が止むことはない。修道女としての洗礼を受けてはいるものの、普段はそれぞれ一人の娘に過ぎない。
リュカは昨日の彼女たちの質問攻めの姿勢を思い出し、頭を悩ませた。ヘンリーも言葉に詰まっている。
「ここで待っていてくださいね。運んできますから」
「あ、俺も手伝うよ。一人じゃ無理だろ」
「じゃあ、お願いしてもいいですか。リュカさん、ちょっと待っててくださいね」
二人が揃って部屋を出ていくと、リュカは再び窓辺に向かった。閉じられていた窓を開けると、心地よい潮風が流れてくる。彼らと少しの間会話をしただけで、白く輝く太陽は位置を変えていた。穏やかな太陽の暖かさに、春の空気を感じる。この辺りにはまだ春が訪れたばかりなのだろう。裏庭の花が見頃だというのも、春を迎えたからだ。
修道院前にも、花は咲いていた。その中を猫がのんびりと散歩しているようだ。窓から顔を出し、下を覗くように身を乗り出すと、リュカに気付いたように猫が顔を上げる。リュカがじっと見つめていると、猫が甘えるような声で鳴いた。その声に、リュカは唐突に胸が締め付けられた。
「プックル……」
リュカの声が、潮風に空しく流されていく。



数分後、部屋の中には三人分の食事が用意された。リュカ、ヘンリーと共に、マリアも席に着いている。
「マリアちゃん、食べてなかったんだな」
「元々食が細いんです。あまり食べなくても大丈夫なんです」
「じゃあちょっとは食べた方がいいよ。食べなきゃ生きられないんだからね」
「ただでさえガリガリなんだからさ、頑張って食べて、ちょっとは太った方がいい」
「では頑張っていただきます。お二人もたくさん食べて体力つけてくださいね」
三人が食事をする客室には、緩やかな潮風が時折通り過ぎる。波の音を聞きながら食事をしていると、リュカもヘンリーも見たこともないリゾート地にいるような感覚になった。無性に海のものを食べたくなるが、ここは修道院であり、魚や肉が調理されることはない。食事に出されるのは山菜や茸、木の実、果物が主だったものだ。奴隷として過ごした時のものとは比べられないものだが、それでも二人は魚や肉を無意識に思い浮かべていた。
食事の途中、マリアが手を止めて木のスプーンをテーブルに置いた。まだ半分ほどしか食べていないのを見て、リュカが心配そうに彼女を見る。目が合うと、マリアは穏やかな表情で話し始めた。
「昨日、リュカさんがおっしゃってましたよね」
唐突に言われた言葉に、リュカは首を傾げた。マリアとの会話を思い出そうとするが、特別なことを言った記憶もない。
「何でも自分で決められるって。修道女になりたいなら、話してみればいいって。そうおっしゃったんです」
「そう言えば、そんなこと言ったかな」
「私、朝のうちに、修道院長様にお話ししたんです。私を修道女にしてくださいって」
マリアの行動の速さに、リュカもヘンリーも内心驚いていた。のんびりしているようで、意外にも思ったことはすぐに行動するのかも知れない。
「そうしたら、早速この後、洗礼の儀式をしましょうとお言葉をいただきました。ですから、リュカさんにお礼を言いたかったんです。本当にありがとうございます」
「いや、僕は何もしてないよ。でも良かったね、おめでとう」
リュカが口の横に飯粒をつけながらそう言うのを見て、マリアは思わず笑ってしまった。和やかな雰囲気が部屋の中に漂う。いち早く食事を終えたヘンリーが、片手で机に頬杖をつきながらマリアを見ながらぼそりと言う。
「マリアちゃん、本当に修道女になりたかったのか?」
ヘンリーからもリュカと同じような言葉をもらえると思っていたマリアは、予想していなかった彼の言葉に、返答に詰まった。
「修道女なんて肩っ苦しい暮らしだろ。色々自由に決められるんだったら、町に出て楽しく過ごすってのもいいと思うけどな、俺は」
ヘンリーの軽い口調に、マリアは視線を落としながら首をゆるゆると横に振った。そして意志の強い目を彼に向けて話す。
「私はここで、ずっとあの地にいる方々の無事をお祈りすると、決めたんです」
彼女の頭にも心にも、兄ヨシュアの存在が常に存在しているのだと、リュカもヘンリーもすんなりと理解した。マリアは再びスプーンを手にして、食事を再開した。黙々と食べるマリアを見て、二人は掛ける言葉を見失ってしまっていた。たとえ二人が否定的なことを言っても、彼女の意思が揺らがないことは明らかだった。
食事を終えると、マリアは食器を厨房に戻しに部屋を出た。彼女はそのまま修道女洗礼の儀式の準備をするために、修道院長の部屋を訪ねると言う。部屋に残されたリュカとヘンリーは起きた時に話していたように、修道院前の花畑に出てみることにした。男二人で花畑を歩くなんてと、ヘンリーは渋面だったが、リュカは今朝見た猫の姿が気になっていた。
一階に下り、そのまま正面の扉を開けると、眩しい陽光が二人を照らす。修道院前には色とりどりの花が咲いていた。春の柔らかな陽光を浴びて、花は生き生きと伸びている。リュカは花畑の中を通りながら猫の姿を探したが、見当たらなかった。元来、気ままな生き物だ。またひょっこりと姿を現すだろうと、あえて探すのを諦めることにした。探して、見つけ出したところで、その猫はプックルではない。空しさや切なさが募るだけだろう。
二人はそのまま近くの浜辺まで歩いて行った。修道院前の浜辺に寄せる波は、ずっと穏やかだった。わずかな白波を立てて繰り返される波を見ていると、マリアがこの場所を選んだ理由がおぼろげにわかった気がした。じっと自分を見つめ、静かに祈りを捧げるにはこれ以上の場所はないと思えるほどだ。ただ、リュカもヘンリーも互いにこの修道院に留まることは考えられなかった。日々祈り、暮らし、穏やかな波を見つめ、永遠と思える時間を静かに過ごすのが、自分の幸せに繋がるとは思えなかった。じっとしていても始まらない、という感覚が二人には備わっていた。
二人にまだ靴はない。裸足のまま浜辺に出て、砂の感覚を足で踏みしめ歩いて行く。リュカが波打ち際の辺りで腰を下ろすと、ヘンリーも少し離れて胡坐をかいて座った。服は修道女の手によって作られた質素なものだが、清潔なものであるというだけで二人には十分だった。袖が短くできていて、今の季節には丁度良い仕立てだった。
海は群青色に染まっていた。見渡す限り、どこもかしこも海だった。一体自分たちがどこからこの場所に流れ着いたのか、方角の見当もつかない。当てもなく海の上を彷徨いながら、この海辺の修道院に流れ着いたのは、運が良かったというよりも、そんな運命だったのかも知れないとリュカはふと思った。
「よくこんなだだっ広いところを無事に来れたもんだな」
ヘンリーはどこまでも続く水平線と空の境目に目をやりながらそう言った。ヘンリーの空色の瞳が見据える彼方に、リュカもその漆黒の瞳を向ける。瞳の色は違えど、海の輝きから受ける光の数は同じだった。
「そうだね、僕達はまだ神様に見捨てられてないんだよ、きっと」
「見捨てられた方が楽できたかも知らねぇぞ」
「本気で言ってないよね」
「当たり前だろ」
「でももしかしたらもう、見捨てられてるかも知れないね、僕たちがそれに気付いてないだけで」
「ま、気付かないんなら、まだ大丈夫ってことだ」
ヘンリーの言葉に、リュカは微笑みながら心の中で頷いた。そもそも、存在すら不確かな神様に見捨てられるも何もないのだ。神の存在自体を疑う二人にとっては、自らの意思だけが頼りだった。
波はあくまでも単調に、延々と繰り返される。小さな蟹が砂浜の上をゆっくりと横切っていく。そんな小さな蟹に、容赦なく波が覆いかぶさる。人間の目から見たら小さく穏やかな波も、蟹にとって見れば常に脅威に晒されているほどの大波だ。波が引いて行くのと同時に、蟹の姿も消えていた。しかし視線を移動させると、何事もなかったかのように海側に近づいた蟹がちょこちょこと歩いていた。海に生きる蟹は生きている間、何度も波に飲まれ、場合によっては生命の危機に瀕することもあるのだろう。しかしそれが蟹の生きる道だった。海の脅威と隣り合わせで居ながらも、海の傍でないと生きられない蟹を見ながら、リュカは心のどこかで安心していた。
しばらく二人で、海を眺めていた。舐めれば塩辛い海も、見ているだけだとこれ以上にない清らかな水のように見えた。澄んだ海の景色の前で、二人はそれぞれに思いを馳せた。
「ごめんな、リュカ」
隣で呟かれたヘンリーの言葉の意味が分からず、リュカはヘンリーをゆっくりと振り向き見た。ヘンリーはリュカとは目を合わそうとはせずに、ただじっと足元の砂に視線を落としている。そこに何があるわけでもなく、ヘンリーはただリュカと目を合わせることを拒んでいるようだった。
「謝るなんて、君らしくないね。どうしたの」
リュカは視線を海の彼方に戻し、ヘンリーの言葉を待った。波の音が数回通り過ぎると、ヘンリーはようやく言葉を続ける。
「全部、俺のせいで、お前の人生をメチャクチャにしちまった」
小さな声だが、はっきりと聞き取れる言葉だった。緑色の髪が弱い海風に揺れながら、ヘンリーの横顔を隠す。
「謝ることじゃないと思うよ。ヘンリーは悪くない」
「だけど、俺があの時、部屋の下に隠れなかったら、さらわれもしなかったし、お前の親父だって……」
ヘンリーはそこで言葉を止めてしまった。それ以上は言葉にできないというように、まっすぐに口を引き結んでしまう。リュカはヘンリーの頭の中を覗いたように、鮮明に父の事を思い出した。
父が殺されたあの日のことを思い返さない時はなかったが、父の最期を知るヘンリーがその時のことに触れると、リュカの脳裏にはあの惨劇がまざまざと蘇った。巨大な火の塊の中で、徐々に小さな黒い影になっていく父の姿。思い出せば今でも全身が震えるような恐怖や怒りや悲しみが押し寄せるが、それらの感情とヘンリーを結び付けて考えたことはなかった。
むしろ奴隷として生きてきた十余年、リュカが生きてこられたのはヘンリーがいたからに違いなかった。奴隷に貶められた原因を顧みることはできなかった。あの頃、リュカもヘンリーもまだ子供だったのだ。力も何もない子供が、自分の人生を切り開くことなどできず、ただ時をかけて力をつけるしかなかった。そんな時に、ヘンリーという友がいてくれたことで、生き延びることができたのだと、リュカはむしろヘンリーに感謝すらしていた。
過去を顧みても、父が生き返るわけではない。もし過去に戻れたとしても、恐らく同じ運命をたどることになるだろう。過去に戻り、子供に戻った自分に、父を救うことができるとはリュカには考えられなかった。
「そういうの、止めようよ、ヘンリー」
「そういうのって、何だ」
「考えたらキリがないよ。何とかだったら、何とかじゃなければ、そんな風に考えたら何もかもがダメになるような気がするんだ」
水平線の彼方に目を遣りながら話すリュカの隣で、同じように遠くを眺めながらヘンリーが聞いている。海という広大で果てしない光景の前では、二人は自然と素直な言葉を吐き出すことができるようだった。
「確かにね、父さんを亡くしたのは今でも辛いし、僕は一生父さんを殺した奴を許さないと思う。でも、こうなったのは仕方がないんだと思う」
しっかりとした口調で話すリュカの隣で、ヘンリーは再び視線を足元に落としていた。両膝を立て、両腕で抱え込むように座るヘンリーは、黙り込んだまま俯いている。深い罪悪感を感じる友に対して、返すべき言葉が見つからないでいた。
「それに、僕にはやらなきゃいけないことがあるから」
リュカの強い意志を感じる口調に、ヘンリーは今朝のことを思い出した。起きて、窓辺に寄ったリュカが独り言を呟いていたのを、ヘンリーは聞いていた。
「母親を探すのか」
心を読まれたかのように虚を突くヘンリーの言葉に、リュカは少し驚いて彼を見る。ヘンリーの目は少し赤かった。彼のためにも、赤くなった目は見なかったことにして、リュカは再び海に目を遣る。
「父さんの遺言でもあるし、それに、僕自身、会いたいなって思うんだ」
「それを俺にも手伝わせてくれ。俺にはお前を手伝う義務があるはずだ」
「そんなことはないよ。君には君の目的があるはずだよ」
「お前が嫌だと言ってもついていくからな」
ヘンリーの意思は固い。それは彼の抱える強い罪悪感から生まれるものだろう。そしてそれは、恐らく彼が生きている限り消えないものだ。ヘンリーにも、リュカにもそれは分かっていた。
「一つだけ条件をつけるよ」
リュカがヘンリーに向かってそう言うと、ヘンリーは俯いていた顔を上げた。
「何だよ、条件って」
「君は君のしなきゃいけないことを見つけたら、僕を手伝うのは止めること。その時は僕が君の事を手伝ってあげるからね」
「……何だよ、偉そうな口聞いて」
「子分が親分のためにするのは普通のことだろ。親分はいつも無理しがちなんだから、子分の僕がしっかりしてなきゃ」
リュカはそう言いながら、ヘンリーと過ごした奴隷時代の事を思い出した。
捕らえられて早々は、まだヘンリーの我侭ぶりが抜けず、彼は何かと不満を漏らしていた。しかしリュカが何かヘマをやらかして罰を受けそうになると、決まってリュカを庇った。「一つ年上なんだから」とヘンリーは事ある毎にそう言って、リュカを庇い続けた。
ヘンリーはリュカの父を死なせてしまった償いきれない大きな罪を、リュカを庇うことで何とか消化させようとしていたのだ。それで償うことができるとは思っていなかったが、彼は残されたリュカにそうして接することしかできなかった。配給されるなけなしの飯も、今日は気分が悪いと言ってリュカに分け与えたり、脱出の計画が露呈した時も、企てを起こしたのは自分だと名乗り出て、あらゆるところでリュカを自分の後ろへと隠した。
しかしいくらリュカを庇っても、ヘンリーの心は軽くはならなかった。罪の上塗りをするような気持ちにさえなった。他にどうすることもできないほど、彼は子供で、不器用だった。
今もヘンリーの罪の意識が消えることはない。しかしリュカに初めて面と向かって謝ったことで、今までには感じたことのない微かな解放感を得ていた。言葉にして、相手に伝えることで、自分の過去をはっきりと認めることができたのだ。
「ありがとう、ヘンリー」
「なんだよ、それ」
「ヘンリーが一緒にいたから何とかあの奴隷生活にも耐えられたんだ」
「そんなの、お互い様だ」
「君がいつも僕をかばってくれてたのも分かってる」
「そんな大層なことはしてない」
「お礼言うのはこれくらいにしておくね」
「ああ、それがいい」
二人は互いに、横目で目を見合わせた。穏やかに澄んだ海の前で座り込んでいる二人の姿は、あまりにも汚かった。奴隷の地から抜け出し、海水に晒されたままでいた髪はバサバサと固くなり、身体中の垢を拭ったとは言え、完全に洗い流したわけではない。この状態のまま修道院を出て、町や村に辿り着いたところで、誰も二人の相手などしないのではないかと思われた。
「きったねぇなぁ、お前」
「ヘンリーに言われたくないよ」
「修道院の人たちも、よくこんな汚いのを受け入れてくれたな」
「修道院に戻って、湯をもらえるように頼んでみよう」
「こんな格好で、マリアちゃんの洗礼式には行けないもんな」
ヘンリーがそう言いながら立ちあがると、ちょうど修道院の上から鐘の音が鳴り響いた。遠くの海にまで響き渡る澄んだ鐘の音を聞いて、リュカは海の上に浮かんでいるような錯覚を覚えた。ヘンリーとマリアを乗せた樽舟を掴む手の感触を思い出す。意識が途絶えがちになったあの時、リュカの意識を一瞬、覚醒させたのがこの鐘の音だったことを、今はっきりと思い出した。
修道院から一人の修道女が姿を現した。浜辺に歩いてくる修道女の姿をした女性は、マリアだった。修道院前の花の香りを連れてきた清楚な雰囲気漂うマリアを見て、二人は思わず自分らのみすぼらしい格好を見下ろした。
「マリアちゃん、君の洗礼式に出る前に、ちょっと湯をもらいたいんだけど」
「あら、どうしたんですか」
「洗礼式ってのに出るのに、この格好はあまりにも汚いだろ」
バサバサの髪を手でかくヘンリーを見上げながら、マリアは小さく笑う。
「あら、私の方がお二人よりも数倍汚かったわ。髪だってこんな色じゃなかったでしょ」
「マリアさんて僕と同じ黒い髪をしてるんだと思ってた。そしたら突然そんな綺麗な髪になってるんだもん。びっくりしたよ」
「お二人とも、お湯をもらいたいと思えるほどに回復されたということですね。では修道院の方にお願いしてきますね」
「洗礼式はその後で、ってことでいいかな」
「はい、そうしましょう。お二人に来ていただければ私もうれしいです」
濃紺の修道服がすっかり馴染んだマリアは、二人に背を向けると小走りに修道院へ戻って行った。洗礼を受ける前から、彼女はすっかり修道女になっていた。途中、砂浜に足を取られ転び、恥ずかしそうに二人を振り返ったが、服の砂を払ってそのまままた小走りに駆けて行った。
「マリアさん、顔が晴れ晴れしてるね」
「そうかもな」
「自分の道を、ちゃんと見つけたんだね」
リュカの言葉に、ヘンリーは何も言わないまま修道院に向かって歩き始めた。後ろから吹く潮風が二人の背中を柔らかく押す。リュカは砂浜を踏みしめ、地に足が着いている感覚を確かに感じ取りながらヘンリーの背中を追うように歩いて行った。
院内に戻ると、一階の厨房の隣にある浴室へと案内された。ちょうど調理で使った湯が余っていたようで、浴槽には水でうめられたぬるま湯がたっぷりと張られていた。脱衣場には修道女の手によって新調された服が用意されている。下着まで用意されていることに、リュカもヘンリーも感謝するのと同時に、恥じ入るような気持ちになった。
念入りに身体の汚れを落とし、洗い流すと、生まれ変わったような気分にさえなった。十余年、積もりに積もった汚れを全て取り払ったのだ。過去を過去とし、これからは未来を歩んで行くのだと、自然と気分が高揚するのを二人とも感じていた。
湯から上がり、用意された衣服に手を伸ばす。広げてみると同じ大きさだと分かり、リュカもヘンリーも手に取った衣服に袖を通す。ヘンリーにはぴったりだったが、リュカには少しばかり寸法が足りないようだった。それを見て、ヘンリーが不服そうな顔をする。
「お前、いつの間に俺よりでかくなったんだよ」
「そんなこと言われても、僕だって知らないよ」
くるぶしが見えるほどに寸足らずのズボンを履くリュカだが、それで特に困ることもないと、気にせず髪をガシガシと拭く。ヘンリーは首にタオルをかけたまま、浴室を出ようと扉を開けた。そこで思い立ったように、ヘンリーが後ろを振り向く。
「そう言えば、ヨシュアさんから服をもらってたよな」
ヘンリーの言葉にリュカは思い出すように視線を巡らせる。あの大神殿建設の現場から逃れる際、ヨシュアはリュカたちに荷物を渡した。街に入る時があれば、奴隷の格好では困るだろうと、衣服を一着渡してくれたのだ。
「そうだった。じゃあ部屋に戻ったらそれを着てみよう」
「荷物を包んでたあの風呂敷みたいなのも、使えるかもな」
「ああ、あの紫色の布だよね。僕が小さい頃に着てたマントみたいな色なんだよなぁ」
「言われてみれば、似てるな」
「あれをマントにすれば、旅に出たくなるかも」
「そういうもんか」
そんな発想が出てくること自体、ヘンリーには不思議だった。旅に出たくなる色など、この世に存在するのかと、ヘンリーには想像もできなかった。それほどに、リュカにとって旅というものが身近だということだ。十余年もの間、奴隷として束縛された人生を強いられて、より苦しく辛かったのはリュカなのかも知れないと、ヘンリーはふと思った。ヘンリーは幼い頃から、城の中という閉塞的な環境に慣れていたのだ。
二人は一度部屋に戻り、早速荷物の包みを開けてみた。包みを広げてみると、予想以上に大きな布であると分かった。しかも布自体、かなり頑丈なものだ。ヨシュアは三人の無事を心の底から信じ、願っていたのだと、その布を見ただけで感じられた。布の包みの中には一着の衣服と、金、薬草や聖水なども入れられていた。水の入っていた革袋からはもう一滴の水も出ない状態だった。
床の上に荷物を広げて見てみると、リュカもヘンリーも海の上を彷徨い進んできたのだと実感した。荷物を守っていた紫色の布が潮を吹いている。白く浮き出た潮を手で払い、リュカは布を身体にまとってみた。幼い頃に身に着けていたマントの感覚が蘇ってくる。それだけで顔が綻ぶ。幼い頃の思い出は楽しいことが多かったということには、思い及ばなかった。
「ああ、ヨシュアさんの服も俺のサイズだな」
ヘンリーは包みの中から出したヨシュアの衣服を広げ、身体に当てながらそう言った。荷物の中には一足のブーツも入っていたようで、ヘンリーはそのブーツを履いて足を持ち上げてみた。
「これは大きいな。あ、この青い包帯みたいなのを足に巻けば丁度いいかも」
「それって足に巻くものなんだ」
「手か足に巻くものだとは思うが、どっちなんだろうな」
話しながらヘンリーが足に青い帯状の布を巻き始める。その後にブーツを履いて歩いてみたが、やはりブーツのサイズは大きかった。
「悔しいがこれはお前に譲ってやる。大事に使えよ」
「うん、そうする。じゃあ、このマントとブーツと青い包帯は僕がもらうね。ヘンリーは服が二着になって良かったね」
「長旅になるんじゃあ、替えの服も必要かも知らねぇから、これでいいか。あとは靴があれば、俺はもう旅に出られる。格好だけだったらな。行き先も何も決めてないから、旅に出ようにも出られない」
「ここには本がたくさんあるよね。それで色々調べないと……。そういうのはヘンリーに任せるね。僕はほら、字が得意じゃないからさ」
「ふざけるな、お前にはさっさと字を覚えてもらって、俺の手足になってもらうんだ」
「小指くらいにはなれるように努力するよ」
「志をもっと高く持てよ」
ヘンリーとの会話の調子がすっかり戻っていることに、リュカは安心した。だがこうしてリュカと共に時間を過ごす限り、ヘンリーのリュカに対する罪悪感が一瞬たりとも消えるわけではない。罪の意識を心の深いところで感じながら、ヘンリーはリュカと正面を向いて話をしているのだ。リュカはそんなヘンリーの本音を、見ないように努めた。
「マリアちゃんの洗礼式、もうすぐだろ。早く行こうぜ」
ヘンリーが裸足のまま部屋を出て行こうとするのを見て、リュカも履いていたブーツを脱いで後に続いた。羽織っていたマントもベッドの上に投げ出し、二人同じ格好をして再び部屋を出た。



修道院内は陽光で明るく照らされていた。院内の長椅子には修道女たちが静かに着席している。修道女の洗礼式が執り行われる時には、こうして全員が揃い、新たな修道女を受け入れるのだろう。独特の神聖な雰囲気に溶け込めず、リュカとヘンリーは一階の礼拝堂には下りず、二階の回廊から式の様子を窺うことにした。
静まり返る修道院内で、小さな足音が響く。長椅子の並ぶ中央の通路を、マリアがゆっくりと歩いて行く。壇上に上がり、修道院長の前で一礼をした。修道院長が院内に響く声で、マリアに語りかける。
「洗礼の儀式を執り行います」
修道院長の声を真正面に受けたマリアが、緊張のあまり身体を固くしているのがリュカにもヘンリーにも伝わってきた。修道女になるという決意が固いのは確かだが、この儀式が終えた後には人生がまるで違うものになるかもしれないという怖さがあるのかもしれない。
「それではこれより、私たちの新しい友マリアさんに、神の祝福が授けられます」
修道院内が静まり返っている。長椅子に座る修道女たちも、皆一様に真剣な面持ちで前を向いている。リュカもヘンリーも、息をするのも注意するように、静かにマリアを見守った。
「我が修道院へ導かれし我らの友、マリアよ。そなたに聖なる神の祝福を授けましょう」
修道院長はそう言うと、両手で持っていたグラスを高く掲げた。グラスの中にはルビー色の水がほんの少量入っている。グラスを傾け、修道院長はルビー色の聖水をマリアの頭の上から少しずつ振りかけた。マリアは胸の前で手を組み、俯いた状態でその水を受けている。全ての聖水を受けたマリアは、修道院長がグラスを持っていた手を下ろすのを見ると、顔を上げて院長を見つめる。
「さあ、これであなたにも聖なる加護が与えられました。これからはその美しき魂が穢されることのないよう、正しき道を学ぶのですよ」
「……はい、ありがとうございます」
マリアの声は少し涙ぐんでいた。感動の涙なのか、安心した涙なのか、それとも未来に対する不安の涙なのか、マリア自身にも分からなかった。そんな彼女を、修道院長は全てを見通すような目で見つめていた。
礼拝堂の長椅子に着席していた修道女たちが一斉に静かに立ち上がる。マリアが修道院長の後ろに掲げられている十字架に向かって手を組み合わせると、修道女たちも同じように手を組み合わせ、頭を少し下げた。院内は殊更に静かで、締め切った窓を通して波の音が聞こえるほどだった。普段は修道女のにぎやかな声が聞こえるが、今は修道院らしく厳粛な雰囲気に包まれていた。
既に修道女としてこの院に暮らす女性も、このような儀式を執り行ったのかと考えると、不思議なものだった。彼女たちもそれぞれ、事情を抱えてこの修道院に暮らすようになったのだろう。各々抱える事情は違えど、互いに辛い過去があるならば、それを心の底から慰め合うことができるはずだ。
もしかしたらマリアにはそういう思いがあったのかも知れないと、ヘンリーはほんの少し彼女の修道女としての人生を認める気持ちになった。残してきた奴隷たちの無事を願って日々を暮らすのはあまりにも過酷な生き方だ。そんな渦中に彼女をいさせたくはなかった。マリアはマリアで、最も自身に合う生き方を見つけたのだと、修道女たちに自然と受け入れられたマリアを見てそう思うことにした。
「さあ、皆さん、今日のお仕事に戻りましょう」
院長のその一言で、修道女たちは各々移動を始めた。彼女たちに与えられる日々の仕事は決まっていて、それは交代制で行われているらしい。食事の支度をする者、院内の掃除をする者、修道院周りの小さな畑の世話をする者、浜辺で海草の採取や塩作りに従事する者、日々を生きるだけで仕事はいくらでもあった。たった今、洗礼を受けたばかりのマリアにも、既に仕事が割り振られているようだ。一人の修道女の案内で、マリアはそのまま院内の掃除を始めるようだった。
「みんなこうして、生きてるんだね。何だか、お世話になりっぱなしなのも、悪いよね」
リュカがこめかみを掻きながら、小さな声で言う。リュカに言われて初めて、ヘンリーもちょっとした罪悪感を覚えた。ただで食事を提供してもらい、衣服も用意され、風呂にも入らせてくれることに感謝こそすれ、悪いことをしているという意識はなかった。
「ここは女ばっかりだから、俺たちにできる仕事を院長さんに聞いてみるか」
「うん、そうしよう。力仕事なら僕たちの方ができるもんね」
洗礼の儀式を終え、修道院長は一度祭壇奥にある部屋へと戻ったようだ。リュカとヘンリーは階段を下り、長椅子の列を通り過ぎ、祭壇の奥へと向かう。通路の途中、箒を手にしたマリアがにこやかに二人に頭を下げる。洗礼の儀式の緊張感から解放され、人生に区切りをつけ、これからを見つめるマリアの目は生き生きとしているように見えた。
「どちらへ行かれるんですか」
「うん、ちょっと修道院長様のところに」
「俺たちにも仕事をくれって頼んでくるんだ」
「まあ、そんなことなさらなくても良いと思いますよ」
「でも、ここにいる間はみんなと同じように生活したいし」
「ちゃんと体力が回復するまでは厄介になるだろうからな。それまでの間、俺たちにできることをするつもりだ」
「……無理、なさらないでくださいね」
マリアの表情が微かに曇る。その視線の先にはヘンリーがいた。マリアに見上げられたヘンリーはぎこちなく笑うと、すぐに視線を逸らして歩き出してしまった。置いて行かれる格好になったリュカは、マリアに「また後でね」と声をかけると、ヘンリーの後を追った。
修道院長室の扉を叩くと、中からはっきりとした返事が聞こえた。その声だけで、二人の身体に微かな緊張が走る。やはり修道院長には他の修道女にはない威厳が備わっているのかも知れない。扉を開けると、院長は椅子に座り、机で書き物をしていた。小さな丸眼鏡をかけたまま、部屋に訪れた二人の青年を見つめる。
「どうかしましたか、お二人とも」
「あの、ここでお世話になるばっかりじゃ悪いと思って、僕たちに何かできることはありますか」
「身体を動かしていた方が、体力の回復も早いから……です」
慣れない敬語を使うヘンリーを見抜いたように、修道院長が小さく笑う。ヘンリー自身、敬語の使い方が今一つ分からなかった。ラインハットの城にいる時はもちろんのこと、奴隷の身に落とされてからも誰かに敬語を使って話したことはなかった。
「本当にお願いしてもよろしいのですか」
「もちろんです。僕たちにできることだったら」
目覚めてからまだ二日目のリュカだが、食事も取れるようになり、普通に歩くこともできるようになった。年若いにしても、驚異的な回復力だと、修道院長は顔には出さずに驚いていた。
「無理だと思ったら途中でお止めになっても結構です」
「はい、無理をしても皆さんに迷惑かけるだけだろうから、しないようにします」
「では……この修道院は古く、あちこちが傷んでいます。その修繕をお願いできればと思うのですが」
「海風をもろに喰らってるからな。傷んで当然だ」
ヘンリーは無理に敬語を使うのを諦めたようだ。修道院長もそんなヘンリーを素直に受け入れている。
「貴方達が先ほどいた二階の回廊、あの手すりの柱に朽ちかけているものがあるのです。それらの補強から、まずお願いしようと思いますが、どうでしょうか」
「他に優先するところがあるんじゃないのか」
「この修道院には子供もいます。子供たちの安全を守るためにも、二階の手すりの補強は大事なのです」
木製の手すりの柱を補強するには、まず木を調達することから始まる。普段の生活に使用している薪用の木では、柱を作るには脆いのだろう。丈夫な木を求めるとなると、修道院の外に出て、裏山に少し足を踏み入れなければならないが、魔物と遭遇する可能性があるということを、院長は言外に含んでいるようだった。
「道具だけ貸してもらえれば、やりますよ」
リュカが返事をする横で、ヘンリーも頷いた。しばらくしたら、二人は旅に出るのだ。外の様子を知るには良い機会かもしれないと、仕事を断る理由は全くなかった。
「くれぐれも無理はしないように。それだけは約束してください」
修道院長の部屋を出ると、院内を掃除している修道女の一人に話しかけた。修道院の外にある物置に道具があると聞き、リュカとヘンリーはそのまま修道院を出た。物置には修道院には似つかわしくない斧やのこぎりが置いてあった。修道女の中で誰が使えるのだろう、と首を傾げながらも、二人はそれらを手にしながら、裏山へと足を踏み入れて行った。

木を切り、集めてくるだけで夕方になっていた。リュカもヘンリーも、多少へたばりながらも、無事に修道院へと戻ってきた。心配になって修道院入口まで出てきていたマリアが、二人の姿を見てほっと胸をなでおろす。
「ああ、良かった。お怪我などはないですか?」
「うん、大丈夫。魔物にもあわなかったし」
「この修道院の雰囲気が魔物を遠ざけてるのかも知れねぇな」
修道院を出た時よりも清々しい顔で、二人の手には束になった木の束が集められていた。それらを物置の横に置き、斧とのこぎりを戻し、二人は各々に身体を伸ばした。
「お昼に一度戻られるかと思ってましたのに、戻られなかったので心配してました。お食事の準備はできていますので、召し上がってくださいね」
「お腹ぺこぺこだよ。助かる」
「こいつがその辺の草とかキノコを食べようとするもんだから、俺は止めたんだ。中には毒のあるものもあるから止めておけって」
「ヘンリーに言われなかったら、あのキレイな模様のしたキノコを食べてたよ、僕」
「そう言えば野草のことが書かれている本も、修道院にはあるそうですよ。後で持ってきてみましょうか」
修道院に向かって歩きながらマリアがそう言うと、リュカは思い出したようにヘンリーを見る。
「そうだ、文字を教えてよ、ヘンリー」
「何だ、急に」
「マリアさんも文字が読めないんだよね。一緒にヘンリーに文字を教えてもらおうよ」
木を切ってきた疲れなど忘れたかのように、リュカが目を輝かせて二人に言う。リュカの言葉を聞いたマリアも、同じように顔を明るくした。
「よろしいんですか。教えてくださると、とてもうれしいです。私も色々な本を読みたくて……」
マリアに笑顔で見つめられ、ヘンリーは一瞬息を止めた。そして目を逸らし、二人に背を向けて、修道院に向かって歩き出す。
「とりあえずはメシだ。腹が減ってどうしようもない。教えるのはその後だ」
「あ、ごめんなさい。そうですよね、すぐにお食事の準備をしますね」
マリアが慌てたようにヘンリーを追い越して修道院に戻って行く。小さなその後ろ姿が修道院の扉の向こうに消えると、ヘンリーは一度足を止めた。すぐ後ろを歩いていたリュカがヘンリーの肩にぶつかり、二人とも少しよろめいた。
「何だよ」
「それはこっちのセリフだよ。どうして急に止まるの」
「……俺の勝手だろ、そんなの」
「そりゃそうだけどさ。なんか変だよ、ヘンリー」
「お前に言われたくねぇな」
「僕は変じゃないよ、いつも通りだよ」
「元々変わってるって意味だ」
「そうかなぁ」
「そうだよ」
リュカとヘンリーが他愛もない会話をしながら修道院に戻って行くその近くで、花畑の中の猫が気持ちよさそうに風を受けていた。
食事を厨房で済ませ、リュカとヘンリー、マリアは修道院の一室を借りて文字の勉強をすることにした。他の修道女が何人か、先生役を買って出ようと申し出てきたが、彼女たちは日中休まず働いているのだ。その後に更に仕事を押し付けるような形になると、リュカはそのありがたい申し出を丁寧に断った。修道女たちに他の目的があったことなど、リュカは気付いていない。
幸い、マリアはまだ修道女としては新人で、日中の仕事量も他の修道女の比べたらさほどではないらしい。まだ仕事を覚える段階だが、先輩の修道女たちはマリアに優しく、徐々に日々の仕事に慣れてもらうつもりのようだ。夕刻になっても、マリアの表情には元気が残っている。
勉強するために借りた部屋には、本棚がずらりと並んでいた。修道院内の図書室のような部屋だった。修道院内には子供も何人かいる。そんな子供たちのために、文字を覚えるための本も用意されていた。その本を見つけたヘンリーは本棚から本を抜き出し、机の上で広げて二人に見せた。
「よし、じゃあまずはこいつを一冊、今日中に終わらせる」
本には挿絵がふんだんに描かれており、その場面場面で使われる言葉が同じ頁に記されているようだった。しかし一冊分を仕上げるには、普通何日かかけて勉強するものだった。リュカが不満そうにヘンリーを見るが、ヘンリーはそんな拒否反応にはお構いなしに、早速進めようとする。
ヘンリーが読んだ後に、リュカとマリアが読み方を覚えるために揃って復唱する。生きるために既に言葉をふんだんに使ってきた二人にとっては、子供が文字を覚えるのとは違う感覚で、意外にも素直に頭に入りこんでくる感覚を得ていた。今まで言葉で使っていたのはこの文字だったのか、という新しい発見が二人の学習意欲を上げる。
「僕たち、案外覚えるの早いかも」
「言葉と文字を同時に覚えるわけじゃないから、そうなのかもな」
「ところで、ヘンリーさんはどうしてこれほど読み書きができるんですか」
本を片手に、まるで物語を暗記でもしているかのように文字を音にするヘンリーに、マリアは率直に問いかけた。マリアの問いに答えあぐねるヘンリーの前で、リュカが素直に答えようとする。
「それはヘンリーがもともとは……」
リュカがそこまで言うと、ヘンリーはリュカの足を思い切り踏みつけた。リュカが小さく叫び声を上げ、隣に座っていたマリアを飛び上がらせた。驚きの表情のまま息をついているマリアに、ヘンリーは説明する。
「家に本が沢山あったんだ。それを読んでる内に文字を覚えたんだよ」
「お家に本がたくさんあるなんて、いいお家に住んでいたんですね」
マリアの意外な勘の鋭さにヘンリーは思わず口を噤んでしまった。リュカはまだ足をさすり、訳の分からない様子でヘンリーを見ている。
「そんなにいい家じゃないさ。ただ本があったってだけだ」
ヘンリーは言葉少なにそれだけ言うと、机の上の本に視線を落とした。マリアは半分納得したように何度か頷き、ヘンリーが声にする言葉を本の中の文字と一緒に追っていった。ヘンリーのその態度にまだ納得できないリュカは、しばらく不思議そうにヘンリーの顔を窺っていたが、ヘンリーに「今俺が読んだところ、繰り返してみろ」と言われ、慌てて本に目を落とした。
課題としていた一冊の本を読み終えた頃には、夜も更けていた。修道院内の様子も静まり返っている。既に修道女たちは眠りに就いているのかもしれない。そんな夜遅くまで休みなく勉強を続けていたことに、三人とも驚いた。眠気にも襲われず、それぞれが集中していたのは、三人ともがどこか勉強を教わること、教えることを楽しんでいたからかも知れなかった。
「今日はこの辺にしておくか。マリアちゃんも部屋に戻らないと、修道院長さんに叱られるかも知れないからな」
「そうですね、静かに部屋に戻ることにします。今日はどうもありがとうございました」
ランプの明かりに揺れるマリアの表情は、さすがに少し疲れているようだった。本人はさほど疲労を感じていなくとも、彼女もまだ目覚めてからそれほど時が経っていないのだ。
「もし良ければ、こちらの本をちょっとお借りしたいのですが」
「お借りするも何も、この本はむしろ俺が借りてるんだ。マリアちゃんが必要なら持ってっていいよ」
「マリアさん、部屋に戻っても勉強するの?」
大きく伸びをした後に、リュカが信じられないといった表情でマリアに問いかける。マリアは少し困ったような顔で、本を手にしたまま席を立った。
「まだ分からないところもありますし、今日中にちゃんと見ておこうかなと思いまして」
「勉強熱心だなぁ。僕はもう部屋に戻ったらすぐに寝るよ。眠い」
「マリアちゃんはずっとこの修道院にいるんだから、そんなに焦ることもないと思う。焦らなきゃいけないのは俺たちの方だ。旅に出るんだからな、リュカ」
ヘンリーにそう言われるが、リュカは拒むように首を横に振る。マリアのように今日の復習をすることは考えられないようだ。一冊の本を読み終えたと同時に、都合良く睡魔が襲ってきたらしい。
「こちらの本、お借りしますね。ではおやすみなさい」
「おやすみ。また明日ね」
リュカが小さく手を振ると、マリアも笑顔で振り返した。ヘンリーは肩肘を机につきながら、小さく手を挙げながらマリアを見送った。
ランプの明かりが弱弱しくなっている。油が切れる寸前なのかも知れないと、ヘンリーはランプの火を吹き消した。今日は月が大きく出ており、部屋の中が真っ暗になることはなかった。目が慣れてくると、部屋の中が深い青色に染まる。
「そう言えばさ、ヘンリー」
互いの表情はあまり見えないくらいの暗さだ。リュカはヘンリーがいるであろう方向を向きながら話した。
「どうしてさっき、自分がラインハットの王子だって言わなかったの」
まだ痛む足に、リュカはふと先ほどの会話を思い出していた。リュカの言うことを先読みしたヘンリーが、強引にその言葉を止めたのだ。
「俺はもう王子じゃない」
「そんなことないよ。十何年離れてたって、君が王子だっていうことは変わらないよ」
リュカの言うことには耳を傾けないとでも言わんばかりに、ヘンリーは席を立つと部屋を出ようとする。しかしまだどっしりと椅子に座っているリュカの気配に、ヘンリーは足を止めて小さく呟く。
「俺はもうあそこには戻れない。戻りたくもないんだ、正直言うとな」
ヘンリーはそう言うと、現実から目を背けたくなり、静かに目を閉じた。しかし目を閉じて、まず瞼の裏に映ったものは、弟デールの幼い顔だった。自分がこうして大人になってしまったように、弟もすっかり大きくなっているに違いない。しかし脳裏に描かれるのは、ずっと兄の後をくっついて離れない、従順な子分を気取った子供のデールの顔だった。
思い出が勝手に蘇ってくるのを止めるべく、ヘンリーは目を開けた。思い出の中だけではなく、今現実にも子分を気取るかのように、リュカがいる。そんなリュカの気配を背後に感じながら、ヘンリーはしばらくその場に立っていた。
「一度戻った方がいいんじゃないかな」
「どこへだ」
「どこへって、君が戻る場所は一つしかないだろ」
「……生意気だ、子分のお前に指図なんか受けないぞ、俺は」
「頑固だね、ヘンリーは」
「うるさい、お前に言われたくはない」
「でもさ、ヘンリー……」
「俺はお前の旅についていくと決めたんだ。これはもう、変えない。お前もそれだけに集中しろ」
ヘンリーは吐き捨てるようにそう言うと、ドアノブを捻って部屋を出て行った。暗がりに慣れた目は、修道院内を照らす月明かりで足元を見ることができた。手元に明かりを持たないまま、ヘンリーは二階の回廊を歩いて行く。リュカは腑に落ちないような顔をしながら、我慢できない欠伸を身体を伸ばしながら思い切りした。
「ま、いいや。きっと、なるようになるよ」
思考回路の止まりかけた頭ではもう難しいことは考えられず、リュカはこれからの旅も、ヘンリーの生きる先も考えるのは止めて、とにかく部屋のベッドを目指すことにした。

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