2017/12/03

海辺の修道院

 

この記事を書いている人 - WRITER -

砂嵐が遠くで起こっているような、落ち着かない音が耳に流れ込んでくる。夢の中の音なのか、そもそも夢の中に音が存在するのか分からないが、耳障りなその音に、彼の意識が徐々に覚醒していく。
閉じた瞼の裏に橙色の光を感じると、彼は眉根に皴を寄せながらうっすらと目を開けた。しかしあまりの眩しさに、思わずまた目を閉じてしまった。
徐々に光に慣れ、再び目を開けると、ぼんやりと茶色い景色が目に映る。奴隷の寝床だった洞穴も土壁の茶色い作りだったが、そこに光が差し込むことはなかった。しかし今、彼が目にしている茶色の景色には、神々しいまでの光が降り注いでいる。焦点が定まってくると、それが土の茶色ではなく、木の茶色であることがわかった。天井を支える木の梁だった。
相変わらず耳障りな砂嵐のような音がする。決まった調子で繰り返されるその音に、彼はようやくそれが砂嵐ではないと気付いた。延々と繰り返される、波の音だ。彼のいる建物の外で、波が繰り返し押し寄せては引いている音だった。
景色がしっかりと見えてくると、体中に血が巡ってくるのを感じた。動かした手が触れたのは、清潔なシーツだった。彼が身体を横たえるベッドからは陽の匂いがした。窓から吹き込む風からは潮の匂いがした。波の音に紛れて、鳥のさえずる声が聞こえる。窓から差し込む太陽の光からも、輝くような音が聞こえるようだった。
五感が冴えてきても、まだ身体は思うように動かなかった。ベッドに手をつき、起き上がろうとしても、身体が言うことを聞かない。すぐに力が抜けてベッドの上に倒れ込んでしまう。何とかベッドから体を起こしても、しばらくそのまま動くことができなかった。体の節々が相当に痛む。
窓からはまだ空しか見えない。この景色はあの奴隷生活で見ていたものと変わりない。彼は周りを確かめたい一心で、時間をかけながらベッドから這い出し、窓枠に手を掛けた。
外には一面の海が広がっていた。風はそう強くない。太陽の光を浴びた海から反射した光が、青年の黒い瞳に焼き付けた。その光を受け、彼の瞳にも意志の光が宿った。穏やかに凪ぐ波から送られる風に、黒い前髪をなびかせ、彼は遠い目をしながら飽きることなく海を見つめていた。
「リュカ、目が覚めたんだな」
扉が開けられる音にも気が付かなかったリュカは、十年来の友の声に後ろをゆっくりと振り返った。窓枠にもたれかかり、身体を支えていないと倒れてしまいそうなほど、足元が覚束ない。しかしどこか自信のあるいつもの友の笑顔を見ると、リュカはつられて笑顔になった。
脱出してきたときの奴隷の服ではなく、ヘンリーは質素な布の服に着替えていた。奴隷の労働から解放された今、彼の顔には以前のような快活さが戻ってきている。友の無事を目にしたリュカは、体中から力が抜け落ちるのを感じ、窓を背にしてずるずると座り込んでしまった。
「おい、大丈夫かよ」
「大丈夫だよ」
「どこがだよ。まともに立てもしないのに」
「一緒に逃げてきた君に心配されるなんて、情けないね」
力なく笑うリュカに肩を貸し、ヘンリーは彼を再びベッドに腰掛けさせた。固いベッドだが、奴隷の生活を思い出せば、これ以上ない最上級のベッドだった。
部屋にある手作りの椅子を寄せて座ると、ヘンリーはぼんやりしているリュカの顔を怪訝な顔で見た。目覚めたばかりのリュカはまだ周りを確かめるように、視線を部屋の中に彷徨わせている。首が動かないのは、長い時間眠っていて身体が固まってしまったせいだろう。手も両脇にだらりと下げられたまま、何もできない状態だ。
ヘンリーは溜め息を一つつくと、何もわかっていない様子のリュカに話し始めた。
「まったく、情けないのはこっちの方だ」
「え、何が」
「……お前、どこまで覚えてるんだ?」
ヘンリーに言われ、リュカは記憶を呼び覚まそうとする。
大神殿の建設現場から逃げ出し、ヘンリー、マリアと三人で海の上を漂っていた。樽を壊し、海の中に入り、冷たい水が気持ち良かったのは身体が覚えている。その後、何かにしびれた記憶があったが、それが一体何だったのか、思い出せない。その後は、気がついたらここでこうして眠っていた。
「なあ、それ、本気で言ってるのか」
リュカのたどたどしい話を聞いて、ヘンリーが疑るような目つきで問いかけた。まだ頭の中に記憶があるだろうかと探ってみたリュカだが、他には何も思い出せなかった。
「何かあったの?」
「何かないと、俺たちここでこうして生きてるわけないだろ」
「ヘンリーがどうにかしたんじゃないんだ」
「俺はどうにもできなかったよ。お前よりも先に気を失ったみたいだからな」
「じゃあ、どうしてここにいるの?」
「それを俺が聞きたい。お前がどうにかしてくれたんだろ」
「僕、知らないよ。運よくあの樽の舟でここまで流されたのかな」
「お前が知らないことは、俺も知らねぇよ」
リュカが自分以上に記憶に乏しいのを見て、ヘンリーは諦めたように肩を落とした。しびれくらげに攻撃され洋上にぷかりと浮かび、陽が落ちてからも魔物と遭遇したことを話そうかと考えたヘンリーだが、リュカがあまりにも涼やかな顔で窓からの風を受けているのを見て、話すのを止めた。話したところで、自分もそこで話に詰まるのだ。
ヘンリーは海に似つかわしくない狼のような魔物の一撃を背中に喰らったことを鮮明に覚えており、直後に記憶を失くしていた。それは気を失ったということだと、ヘンリーは客観的に分かっていた。おそらく致命傷だったはずだ。
今こうして生きて立っていられるのは、おそらくその場でリュカが手当てをしたからだろう。それさえもリュカは覚えていないようだ。話して感謝したところで、その話自体を疑ってくるかもしれない。面倒なことは避けようと、ヘンリーは何も話さないまま、リュカと同じように窓の外に目をやった。
奴隷の現場で見ていた空とは、もう違っていた。もう自分たちを縛り付けるものは何もないのだ。朝起きて、苦しい労働を強いられることもなく、劣悪な環境での生活を繰り返すわけでもない。自分の頭で考え、行動することができる。窓の外に広がる空の下には、彼らの知らない大きな世界が広がっている。
「助かったんだな」
「信じられないね」
「あんなひどいところを抜け出せたんだから、もうあれだな、じじいまで生きられるな、俺たち」
「じじいまでかどうかは分からないけど、しぶとく生きて行けそうだよね」
この部屋から聞こえる波の音はずっと穏やかだ。この場所には嵐など来ないのではないかと思えるほどだ。あまりにも穏やかな状況に、リュカは一瞬ヘンリーと共に天国に来てしまったのかと思ったが、こっそりつねった足はしっかりと痛かった。
しばらくして、リュカはふと不自然な状況に気がついた。あの樽舟に乗っていたもう一人の姿が見えない。
「マリアさんはどこにいるんだ? 彼女も無事なんだよね」
恐る恐る聞いたリュカに対して、ヘンリーは何でもないことのように答える。
「無事だよ。今は修道院の子供の相手をしてるんじゃないかな」
「そっか、良かった。無事だったんだね」
リュカはほっと胸を撫で下ろし、つかえていた一つの塊が取れたような気がした。ヘンリーだけがこの場所にいることに、マリアが助からなかったことを想像し、リュカは生きた心地を一瞬忘れた。ヘンリーはあまり嘘をつくのが得意ではない。だからマリアが無事であるというのも信じられるものだと、リュカは気が抜けたようにベッドの上に寝転んだ。
「ヘンリー」
「何だ」
「ところで、ここ、ドコ?」
「ここは海辺の修道院だ。とくに名前なんかはないらしい」
「修道院……聞いたことあるけど、どういうところだっけ」
「神に仕える人たちが暮らすところ、ってとこだ」
「あの山の上と同じところじゃないよね」
「あそこにいるやつらは神じゃない何かに仕えてるんだろ。だから、あの場所とは違う」
「うん、それならいいや」
ヘンリーの断定的な物言いに、リュカは安心して目を瞑った。そのまますぐに睡魔に襲われそうになったところを、ヘンリーの声に起こされる。
「ところで腹減らないか? ここの人が飯食わせてくれるぞ」
その言葉に、リュカはぱちっと目を開けた。
「本当に?」
「起きたばかりでまだ腹が減ってないってんなら話は別だけどな」
「お腹なんかいつでも減ってるよ。今にもお腹が鳴りそうだ」
リュカがそう言った途端、寝転ぶ彼の腹が豪快な音を立てた。まるで牛が鳴いたような大きな音に、二人は思わず顔を見合わせて大笑いした。



部屋の中に流れる潮風を負かすように、食事の良い香りが部屋の中に立ちこめる。リュカが目覚めたという知らせを受けた修道女が、手早く食事の用意をしてくれた。漂う食事の匂いに、動物らしきものは全く感じられない。彼女が運んできた食事は、修道院の畑で採れる菜っ葉を使った粥が主で、他にも野草のお浸しや茸類を蒸したもの、デザートに葡萄と野苺が添えられていた。
修道女は食事を部屋のテーブルに置くと、早々に部屋を出て行ってしまった。まだ年若い娘だったが、リュカの顔をちらと見るなり顔を赤くし、頬に両手を当てながら立ち去って行った。リュカもヘンリーも首を傾げたが、それ以上に目の前の食べ物から立ち上る香ばしい匂いに鼻がひくつき、リュカは早速木のスプーンを手にした。
「俺も食べたんだけど、感動ものだぜ」
ヘンリーの言う通り、粥を一口すすった瞬間、リュカは自然と目頭が熱くなるのを感じた。暖かい食べ物を口にしたのはいつ以来だろうか。記憶は子供の頃に遡る。暖かいものが喉を通るだけで、リュカはサンチョが作った食事を父と一緒に食べていた時の雰囲気を感じた。村の外には魔物がいたが、まだ幼かったリュカは身の回りの平和を信じて疑わなかった。子供の頃の世界は、完全に守られた世界だったのだと、今にして分かった。
「ヘンリー」
「何だ」
「食べた時、泣かなかった?」
「……泣くわけないだろ、何言ってんだ」
一口一口が身体にしみわたる。何日も食さずにずっと寝ていたリュカにとっては、今最も必要としているものが凝縮されている食事だった。スカスカのスポンジのような身体の細部にまで、菜っ葉粥がしみ込んで行くのが分かる。舌に程好い温度の粥は、あっという間にリュカの胃の中に収まってしまった。空っぽだった胃に粥が入ると、更に食欲が増したようで、途中ヘンリーに横取りされた野苺二つを除いて、デザートまであっという間に完食してしまった。
「ごちそうさまでした。本当においしかった」
そう言いながらリュカは口に手を当てて欠伸をした。涙目になっているリュカの黒い瞳を見ると、ヘンリーはテーブルの上の木の器を重ねて、手にした。リュカがまどろんだような目を向けるヘンリーは、部屋の扉に向かっている。
「腹が膨れりゃそりゃあ眠くもなるわな。しばらく寝てろ。そうすりゃ一気に回復するだろ」
足で扉を開け、両手に木の食器を持ったヘンリーが姿を消す。リュカはヘンリーがそのままいなくなりそうな気がして、焦る気持ちでベッドから立ち上がった。しかしまだ力の入らない足は言うことを聞かず、リュカはその場で床に倒れてしまった。ただならぬ音を聞いたヘンリーが、驚いた表情で部屋を覗き込んだ。
「おい、大丈夫か?」
「いてて……足に力が入らないや」
「無理すんなよな」
ヘンリーは心配半分、呆れ半分といった表情でそう言うと、持っていた食器をテーブルの上に置き、リュカに肩を貸し、立ち上がらせた。完全にヘンリーにもたれかかるリュカは、まだ到底一人で歩ける状態ではない。再びベッドに腰掛け、リュカは足をブラブラと動かしてみた。どこかくすぐったいような、自分の足ではないような遠い感覚に、リュカは納得行かないような鼻息を漏らした。
「あの、すごい音がしましたけど、大丈夫ですか?」
開けられたままの扉から、一人の女性が姿を覗かせた。その女性はリュカを見るなり、目を見開き、息をのんで、その場に立ち尽くした。言葉も忘れて呆然としている修道服の女性に、リュカはベッドに腰掛けたまま頭を下げた。
黒の修道服に身を包み、腰まで流れるような金色の髪を下ろしている彼女は、リュカを見つめながらみるみる目を潤ませた。そんな彼女に、リュカは素直に礼を述べる。
「ここの修道院の人ですね。どうもありがとうございました、助けてもらって」
まるで他人行儀な言葉に、修道女は表情を一変させて、不安な面持ちでリュカを見つめた。切りそろえられた彼女の金色の髪が、部屋の中に流れる潮風に揺れる。顔立ちはまだ子供のように幼いが、リュカは目の前の修道女を綺麗な人だと素直に感じた。
「おい、リュカ」
「何?」
「お前、本当に分かってないのか?」
「何がだよ、ヘンリー」
「俺は一目見て分かったぞ」
「あ、あの、私のことお忘れですか、リュカさん」
戸惑いを見せる修道女の声を改めて聞き、リュカははたと気付いた。
「マリアさんなの?」
「ああ、良かった。私のことをすっかり忘れてしまったのかと思いました。そうです、マリアです」
ほっと息をつきながら微笑むマリアを見て、リュカは樽舟での記憶と重ねようとしたが、無理だった。マリアの様子はあまりにも違っていた。頼りない子供のような様子は微塵もなく、洗練された一人の女性に様変わりしていた。まるでずっと前からこの修道院にいるような、独特の清楚さを身に帯びていた。
「僕ってどれくらいここで寝てたの?」
見違えてしまったマリアを見て、リュカは唐突に、自分だけ置いて行かれたような不安を感じた。マリアが普通の修道女と変わらない状態にまで回復している一方で、自分はまだ一人で立ち上がれもしないほど疲労している。再び床に立とうと両足を床につけたが、まだ上手く力が入らなかった。
「ちょうど五日間、らしいぜ」
「らしいって、どういうこと」
「俺も二日間は起きなかったみたいだからな。マリアちゃんに聞いたんだ」
「私はすぐに目覚めたんです。リュカさんとヘンリーさんのおかげです」
マリアはそう言いながら、テーブルの上に置かれた食器を手に持った。すっかり空になっている食器を見て、安心したように笑顔を見せる。
「リュカさん、お食事が済んだら、眠くなりませんか?」
「うん、眠い。そんなに寝てたのにまだ眠い」
欠伸をするリュカを見ながら、ヘンリーとマリアは各々に笑う。
「お前は俺たちが想像できないくらいの力を出したんだよ。人間じゃできないようなことをやったんだ」
「何それ……ふわぁ」
欠伸が止まらなくなったリュカは、目じりに涙を溜め、そのままベッドの上に横になった。ベッドの上に起き上がっているのもだるくなっていた。ただ、腹が満たされた状態で横になったベッドの感触は、まるで空に浮かぶ雲に乗っているように気持ちが良かった。
ヘンリーに雑に掛け布団をかけられると、リュカは五秒と経たない内に寝息を立て始めてしまった。相変わらずの寝入りの速さに、ヘンリーは半ば感心するような溜め息をついた。
「こんだけすぐに眠れるやつが、どうやってここまでたどり着いたんだか」
「私なんかには想像もつかない力を使ったんでしょうね。またリュカさんが目覚めるまでそっとしておきましょう」
「起き抜けに腹が減ったとか騒ぐかもしれないから、その時はよろしくな」
「はい、分かりました。シスターたちにも話しておきますね」
にこやかにほほ笑むマリアは、リュカの使った木製の食器を手にすると、開かれたままだった部屋の扉に向かった。修道院の木の床にマリアの靴の軽い音が響く。小気味良いその音が部屋から遠ざかるのを、ヘンリーは夢見心地に聞いていた。
マリアが部屋から出て一分と経たないうちに、修道院の客室の寝息は二人分に増えていた。ベッドの上で猫のように背を丸めて眠るリュカと、ベッドの端に突っ伏して深い眠りに入ったヘンリー。しばらくして一度部屋に戻ってきたマリアに気づくこともなく、彼ら二人は陽が傾き、太陽の力が弱くなる頃まで、そのまま眠り続けていた。
子供のような寝顔で眠る二人を見て、マリアは思わず小さな笑い声を漏らした。リュカの掛け布団を少し引き上げ、ヘンリーには別の毛布を用意し、背中にかけた。
「ここは安全な場所です。思う存分、身体を休めてくださいね」
涼しくなってきた潮風を遮るよう、部屋の窓を閉めたマリアは、彼らの穏やかな寝息を耳にしながら静かに部屋を後にした。



西日が部屋の中を照らす頃、リュカとヘンリー、マリアは再び部屋の中で顔を合わせていた。早めの夕食も済ませ、食後の茶をテーブルに置きながら、三人は今までを振り返って話をしていた。
「私もここに辿りついた時の記憶はないんですが、シスターに私たちがこの浜辺に流れ着いた時のことを聞きました」
マリアの話を二人は遮ることもなく、静かに聞いた。
今から五日ほど前、修道女はいつもと同じように仕事に従事していた。彼女らの主な仕事は日々の食材を集めることだ。山に入り野草や木の実を採ったり、裏庭の小さな畑を見て回ったり、浜辺では海水から塩を作っていた。
浜辺の仕事に従事していた修道女が、海の上に浮かぶ魚ではない何か大きなものが向かってきているのを目にした。昔よりも魔物の数が増えているという頭があった彼女は、慌てて修道院に戻り、修道院長に話した。
修道院長と数人の修道女が手に檜の棒を持ち、海から襲いかかってくる魔物と対峙するべく、浜辺に出た。女しかいない修道院には、魔物を退治するような術を持つ者はいない。修道院長を始め、彼女らは自らの命を賭す覚悟を決めて浜辺に出たのだ。
ゆっくりと迫ってくるそれが魔物ではないことに気付いた瞬間、彼女らは目を疑った。みすぼらしい舟とも呼べないような木の屑のような乗り物に、人が腕を伸ばしてしがみついていた。舟につかまっているようだが、その意識はないようで、意識の外で腕に力を入れているようだった。
修道院前の浜辺に流れ着くまで、彼女らは必死に祈っていた。彼が生きていること、無事にこの浜辺まで流れ着くこと。いつもは定刻に鳴らす修道院の鐘を何度か鳴らし、彼の意識に呼びかけようともしたが、彼は目覚めなかった。
海に入って助けに行くことはできなかったが、彼は無事に浜辺に辿りついた。既に修道院の中では数人の修道女たちが彼を介抱するための準備を整えていた。しかし彼女らは舟の中で身を寄せ合うようにして眠る二人の男女を見つけ、声を上げて驚いた。予想もしていなかったことに、修道女が一人院に戻り、三人分のベッドを整えに行った。
浜辺で彼らの状態を見て、まずすぐに運び込めそうな女の子を介抱することにした。その後に二人の青年を数人がかりでやっとのこと修道院の中に運び入れた。かなり雑な運び方だったが、彼らが意識を戻す気配もなく、修道女は何度か彼らの息を確認したりしていた。今にも死にそうなほど、三人とも弱っていたのだ。彼らが眠り続ける間、修道女たちは出来る限り彼らの身を清め、院にある質素な服を着せた。そして、ひたすらに祈った。
それから丸一日、誰一人として目を覚ます気配はなかった。しかし翌日の昼頃になって、女の子が目を覚ました。目覚めるなり、マリアは信じられない勢いでがばと起き上がり、「兄さん!」と叫んだ。マリアの介抱をしていた修道女は驚きながらも、彼女の兄が傍で眠る二人の青年のどちらかだと思い、「こちらにいらっしゃいますよ」と優しく答えた。ベッドの上に起き上がったマリアは、まだ死んだような顔で眠るリュカとヘンリーの顔を見ると、嬉しさと悲しさとで両手で顔を覆って泣き出してしまった。何も事情を知らないシスターはただマリアの髪を撫でて、何とか彼女の心の傷を癒そうとした。
その明くる日の早朝、ヘンリーが静かに目を覚ました。悪夢でも見ていたのか、彼もマリア同様ベッドから飛び起きそうになったが、背中に走る痛みのせいで起き上がることができなかった。それが何なのか、ヘンリーはしばらくの間考えも付かずにいたが、そこへマリアが姿を現すと、彼はその痛みの原因を思い出した。マリアは気遣うような顔つきでヘンリーを窺ったが、彼は魔物の攻撃をもろに背中に喰らったことを彼女に話したりはしなかった。ただ、助かって良かったと、彼女の無事を心から喜んだ。
マリアには気づかれなかった背中の傷を、彼の介抱をしていた修道女は当然知っていた。マリアに席を外させると、修道女は薬草などで彼の怪我の治療を始めた。
ヘンリーが目覚めてから三日が経っても、リュカは目覚めなかった。身動きもせずに昏々と眠り続けている。修道女らが止めるのも構わず、ヘンリーは自分が目覚めた日からずっとリュカに付き添っていた。マリアもほとんど付ききりで彼を看るつもりだったが、修道院長からまずは自分の体力回復に努めることを諭され、食事をありがたくいただき、眠る努力もした。ヘンリーに少しでも疲れの色が見えると、マリアが彼に代わってリュカを看るようにしていた。
ヘンリーとマリアから自分が意識を戻すまでのいきさつを聞き、リュカは肩身が狭くなる思いだった。二人がいち早く辛い思いをしていたにも関わらず、自分はのうのうと五日間も寝ていたのかと謝ると、ヘンリーに頭を叩かれた。
「お前は相変わらずバカだな。生か死かって瀬戸際にいるお前の方が、よっぽど苦労してるじゃねぇか」
「そうなのかな。でも僕、そんなことも知らなかったわけだしさ」
「そりゃそうだろ、意識がないんだから。当たり前のことを言うな」
二人のやり取りを聞いているマリアが微笑む。すっかり元気に、とまではいかないが、言葉のやり取りをできるほどに回復したリュカとヘンリーを見て、マリアは心から安心した笑みを見せていた。その思いはヘンリーも同じようだった。リュカとの会話を楽しんでいるのが分かる。マリアの笑みに気付いたヘンリーは、落ち着かなさそうに頭をかいた。
「なんにせよ、心配かけてごめん。お世話になったここの人たちにもお礼を言わなきゃ」
リュカはそう言いながらベッドから足を下ろし、床に立とうとした。しかし長い眠りから覚めてさほど時間が経っていないため、彼の足元は覚束なく、まだ普通に歩くことは難しいようだった。
「ほら、肩貸してやるよ。つかまれ」
ヘンリーは椅子から立ち上がり、リュカに肩を貸すと、ぎこちない足取りでマリアが開けたドアに向かった。
リュカは部屋を出て初めて、ここが修道院なのだと納得した。院内には白黒の修道服に身を包む女性と、まだ幼い子供がいるだけで、男性は彼ら二人しかいないようだ。二階の回廊からは修道院の象徴となる十字架が見下ろせる。長椅子が並ぶ講堂内には西日が差し込み、神聖な雰囲気を増長させている。潮風が通る海辺の宿室にいた気がしていたリュカは、思いもよらぬ神聖な空気が建物の中に満ちていることに、静かに安息感を得ていた。
ヘンリーに支えられながら歩いてくるリュカの姿に、院内の修道女らは皆気を遣うような視線で彼らに道を開けた。階段をゆっくりと下りると、そのまま講堂内の長椅子に向かって歩いて行く。修道女らが見守る中、リュカは頭を下げながら椅子に腰掛け、ヘンリーとマリアがリュカを挟むようにして椅子に座った。
三人は揃って祭壇に掲げられている大きな十字架を見上げた。白木で造られたはずの十字架は、年中潮風に当たっているからか、茶色く変色しており、人々に崇められるような神様の存在はそこにはあまり感じられなかった。代わりに、そこにはあたかも慈愛の精神に満ちた聖母がいるようだった。古びた木の十字架は黄金で作られた十字架よりも柔らかく、穏やかだ。それはまさに今彼らが必要としている安らぎの場所だった。
「皆さん、本当にありがとうございました」
リュカは椅子に座りながら深々と頭を下げた。修道女らも同様に頭を下げ、そしてリュカたちの回復を心から喜んでくれた。修道女と言っても、年齢は様々で、彼らの母親ほどの年齢の女性や、同じ年頃の女性、まだ小さな女の子も三人ほどいる。同年代の修道女たちは一様にしてリュカとヘンリーを好奇の目で見つめていたが、当の本人たちはまるでその雰囲気に気づいていなかった。
色めいた雰囲気さえ漂わせる彼女らの脇を、一人の年配の修道女が歩いてきた。密かに華やいでいた彼女らの雰囲気が一変し、緊張が高まるのが分かる。
「修道院長様、お世話になってます」
立ち上がろうとするマリアを制し、修道院長はにこやかにほほ笑む。顔に刻まれる皺に、修道院長の人生が多く刻まれている。リュカはそんな彼女の表情を見ながら、自身の今までの苦労を一瞬忘れた。
「マリア、楽にしていていいのですよ」
にっこりと微笑むと、修道院長は三人に向かって十字を切りながら祈りの言葉を紡いだ。修道院長の慈愛の雰囲気に、修道女たちは己の心を見透かされたような恥ずかしさを覚え、弾かれたようにそそくさと仕事場に戻っていった。
「リュカさんとおっしゃいましたね。事のいきさつはマリアやヘンリーさんから聞きました」
今、目の前にいる修道院長には全てを告白してしまいたい気にさせられるほど、何もかもを包みこんでくれそうな雰囲気が漂っていた。ヘンリーはおそらく、奴隷として過ごした十余年の話を彼女にしたのだろう。修道院長の瞳にはそこはかとない悲しみが浮かんでいた。
「しばらくここで休まれるとよいでしょう。あなた方の体力が回復しないうちに追い出す真似なんてしませんから、ご安心ください」
彼女の言う言葉に、ヘンリーは内心胸を撫で下ろしていた。女性しかいないこの修道院で、男である自分らは早々に立ち去らねばならないと、漠然とした焦りを感じていたのだ。まるで心を読み取るような修道院長の言葉に、ヘンリーは舌を巻いた。
「決して急いではいけませんよ。失った時間を急いで取り戻そうとするのではなく、先に続く道をどう進んでいくか。それを落ち着いて決めていけば、道は必ず開けてくるでしょう」
彼女の声は、まるで彼らの頭の中に直接語りかけてくるようだった。彼らが知らず感じていた焦りを気付かせ、同時に落ち着かせた。その証拠に、三人は院長の言葉を聞くと同時に、身体の力が抜けるのを感じた。今は何もない状況で、ただ生きているだけだが、ここから道は開けるのだと、修道院長の言葉に勇気を得た。
「あなたたちはもう立派な大人です。目の前には自由が広がりますが、自由の中の選択というのは最も難しいものです。ここにはシスターが何人かいますので、何か悩みやお困りのことがあれば彼女らに相談するのもいいでしょう。喜んで相談に乗りますよ」
院長はそう言うと、再び彼らの前で祈りの言葉を紡ぎ、奥の部屋に姿を消した。一人の女性に過ぎないが、修道院長に漂う独特の緊張感は他のどの修道女にもないものだ。
そんな緊張感から解放されたのは、リュカたち三人だけではなく、周りにいる修道女たちも同じことだった。年齢もそれぞれの彼女らが一様にして気になっているのは、普通の娘が考えるようなことだった。
修道女の中で一人の快活そうな少女がリュカとヘンリーに声をかける。
「それで、マリアはどちらの方の恋人なんですか」
そんな唐突な質問をきっかけに、娘たちの話に花が咲き始めた。修道院にはそろそろ夜が訪れようとしている。院内に明かりを灯す火を持ち、蝋燭に火を移していく修道女がいたり、夕餉の支度を急ぐ修道女もいる。彼女たちに与えられた仕事は恐らく当番制なのだろう。ちょうど当番ではない手の空いた修道女らがリュカたちの周りに数人群がり、興味津々で話をし出した。
修道女とは言え、元々は町や村で普通に過ごしていた娘たちや、母親や子供だったりするのだろう。各々事情を抱えて、この修道院にいるのかもしれないと、リュカは彼女らの人生を想像しようとした。しかし、リュカに想像などさせる隙も与えないほど、彼女らの話は矢継ぎ早だった。
リュカたちの奴隷として過ごした十余年の話には、親身になって涙を流し、この修道院に辿りつくまでの海の上での数日を話せば、心の底から労をねぎらってくれる。人を思いやる感情は彼女らが元来持っていたもので、それはこの修道院で更に磨かれ洗練されたものと感じられた。リュカもヘンリーも、いつの間にか色々なことを話し、図らずも次第に心が整理されていくのを感じた。
親身に彼らの話を聞く一方で、修道女たちの興味はやはり、リュカとヘンリーと、マリアの関係だった。奴隷の時に知り合いになり、共に逃げてきた三人という事実を、彼女らはどこかおとぎ話のような感覚で聞いていたようだ。おとぎ話には夢が詰まっている。修道女らはそんな乙女の夢をリュカたち三人に重ね始めていた。リュカもヘンリーも彼女たちの話の勢いにたじろぎ、助けを求めるようにマリアを見た。マリアも困ったように笑っていたが、あまり嫌な顔はしていなかった。
彼女らの話は小一時間ほど冷めることなく続いた。修道院の上にある鐘つき台から見る夕陽がとても綺麗だとか、修道院の周りに咲き乱れる花は今が一番の見頃だとか、花嫁修業でここに来ているが親がなかなかいい相手を見つけてくれないとか、彼らの方が女性の悩みを聞いている時間が続いたこともあった。
しばらくして、時を見計らったように修道院長が再び姿を現し、修道女たちの華やいだ心を落ち着けるように、これから特別講義を始めると伝えた。いつもならこの後、彼女らは就寝準備を始める時間だった。しかし修道院長は落ち着きのない彼女らを見かねて、講義の時間を設けたに違いなかった。修道女達は各々、肩を落としながら部屋に教本を取りに戻って行くのを、リュカもヘンリーもどこか安心した気持ちで見送った。そして今のうちにと、二人は席を立ち、与えられている客室に戻ろうとした。
しかし、横にいるマリアが彼女たちの後を追わないで横にいることに、リュカは問いかけた。
「マリアさんは一度戻らなくていいの?」
リュカの言葉に、マリアは長椅子に腰かけながら目を伏せた。
「私はまだ、修道女ではないですから」
「そういうの、あんまり関係なさそうだけど。でももしそんなことが気になるんだったら、修道女になればいいんじゃないかな」
リュカが簡単なことのようにそう言うと、ヘンリーが口を挟む。
「お前な、修道女になるったって、そう易々となれるもんじゃないだろ」
「そうなの? なんだか、今話をしていたみんなのことを見てたら、マリアさんはもう修道女でもおかしくないと思うよ。修道院長さんだっけ? 話してみたらいいんじゃないかな」
「そんな、私なんて……」
「修道院長さんも言ってたじゃないか、これからは自由だって。自分で決められるんだよ、何でも」
リュカは自分にも言い聞かせるような強い口調で、マリアに話した。その言葉の重みに、マリアはリュカを見上げて見つめた。しかし、何かを恥ずかしがるように、再び目を伏せてしまう。
「私、文字が読めないんです」
「え?」
「せっかく教本をいただいても、私には読めないんです」
マリアの言葉にヘンリーは少し驚いたように目を開き、リュカはきょとんとした表情で首を傾げた。マリアは言いたくなかったことを告白したかのように、二人から目を逸らし俯いている。
「そんなの、僕も一緒だよ。僕もほとんど読めないんだ」
「え、そうなんですか?」
「そうだったのか、リュカ」
「あれ、ヘンリー知らなかったっけ。まあ、あの場所じゃ文字を読む必要もなかったからね」
リュカが文字が読めないのは当然だとでも言わんばかりの態度で言うと、マリアは安心したように静かに息を吐いた。
「そうだ、じゃあ修道院の本を借りて、一緒に文字を覚えようよ」
名案を思いついたと顔を明るくしてリュカが言うと、マリアも笑顔で首を縦に振った。
彼らがそんな話をしていると、祭壇奥の部屋から修道院長が静かに扉を開けて出てきた。マリアは長椅子に座りながら背筋を伸ばし、院長に小さく頭を下げる。修道院長はリュカ達のところまで歩いてくると、内緒話をするような小声で彼らに言う。
「今から彼女らにこれからの講義は中止と告げに行きます。こんな暗くては講義などできませんからね」
元から講義をするつもりなどなかったのだと、修道院長の言葉は語っていた。確かにこう暗くては、魔法の火でも傍に置いておかない限り、教本の文字を目にすることはできない。
「今のうちに部屋にお戻りなさい。さもないとまた彼女らにつかまりますよ」
そう言われて、彼らはようやく院長の言葉の意図を察した。修道女たちに囲まれて困っている彼らを助けるために、これから講義を行うなどと嘘を言ったのだ。修道院長がいたずらっぽく笑うと、まるで子供が笑ったように無邪気な表情だった。その純粋さがあるから、修道女に敬われ親しまれる修道院長となっているのだろう。
「じゃあ話の続きは部屋に戻ってからだね」
「マリア、貴方は自分の部屋に戻りなさい。これほど暗くなってから殿方と同じ部屋にいることは、修道院長として見過ごせません」
「はい、分かりました」
「リュカさんもヘンリーさんもまだ目覚めてから間もないのですから、身体をゆっくり休めてください」
年配の落ち着いた優しさに、リュカは記憶にない母親を想像した。それこそ親身になって心配してくれる修道院長の姿は、リュカの想像する母親像に少し近いような気がした。
「マリアさん、また明日ね。明日はちゃんと早くに起きるから」
「無理なさらないでください、リュカさん。ヘンリーさんも」
「俺は次いでかよ」
苦笑いしながら言うヘンリーに、マリアは慌てて言葉を修正しようとする。そんな二人を見て、リュカと修道院長は各々笑っていた。
ちょうど廊下に出てきた修道女たちに、修道院長が講義の中止を告げに行く。そのゆっくりとした足取りに、リュカもヘンリーも「今のうちに部屋に戻れ」という彼女の気遣いを見た。修道院一階の長椅子の並ぶ講堂に歩いてくる修道女たちを尻目に、リュカとヘンリーは足早に部屋へ続く階段を上った。
二階の回廊にある古びた木格子の手すりにもたれかかりながら、二人は階下を見下ろした。修道院長が部屋から出てきた修道女たちをせき止めるかのように、彼女らに話をしている。修道女たちは一様に安心している様子だったが、同時に講堂の中を覗き込んでいた。
「リュカさん、ヘンリーさん」
小さな声で呼びかけるマリアの声に、二人は真下を見る。マリアは小さく手を振りながら、にこやかに「おやすみなさい」と声をかけた。リュカも小さく手を振り返すと、すぐ後ろにある客室に戻ろうと、すぐに足を向けた。マリアも修道院長の後を追うように、足早にその場を立ち去った。
リュカが部屋の扉を開けると同時に、ヘンリーがようやく部屋に向かってきた。暗くてあまり表情などは分からないが、少し様子のおかしなヘンリーに、リュカは首を傾げた。
「ヘンリー、どうかした。腹が減ったとか」
「ん? そんなんじゃねぇよ」
「なんか、変だよ」
「お前ほどじゃないけど、俺だって疲れてるんだよ」
確かに疲労の色は見なくとも感じるが、ヘンリーの周りを包む雰囲気はそれとは異なるような気がして、リュカは再び首を傾げた。しかし当の本人も小さく首を傾げているようで、リュカはそれ以上ヘンリーを窺うことはしなかった。
部屋の中には月明かりが差し込んでいるだけで、青白い小さな世界が広がっている。倒れ込むようにベッドに横になると、シーツも枕カバーも清潔なものに変えられていることに気付いた。リュカたちが部屋を出ている間に、修道女たちが部屋の中の世話までしてくれたのだろう。部屋のテーブルの上には水差しも置いてあった。
しかし水差しの水に手をつけることはなく、リュカもヘンリーも数秒と経たない内に寝息を立て始めていた。閉じられた窓の外では、穏やかな波の音が繰り返されていた。

Message

メールアドレスが公開されることはありません。

 




 
この記事を書いている人 - WRITER -

amazon

Copyright© LIKE A WIND , 2014 All Rights Reserved.