2017/11/24

魔物使いのじいさん

 

この記事を書いている人 - WRITER -

宿ではあくまでも仮眠を取る予定だった。夜には起き出して、夜のオラクルベリーを散策するはずだった二人だが、結局宿で目覚めたのはあくる日の昼前だった。
宿に泊まる他の旅人たちは、既に宿を出て各々行動を開始している。その中で一部屋だけ静まり返り、人の気配さえ見せない様子を訝った宿の女将が、鍵も掛けられていない部屋にためらいがちに入り中を見た瞬間、その場でまるで母のような笑みを浮かべていた。
「お客さん、もうこんな時間ですよ」
女将の大声に身じろぎをするリュカとヘンリーだが、よほど疲れているのか、ただ寝起きが悪いだけなのか、目を覚まそうとしない。宿の女将は出来損ないの可愛い息子を見るような目で二人を交互に見ると、テーブルの上に置いてあるグラスに水差しから水を注ぎながら、二人が起きるための言葉を思いつく。
「美味しい朝食があるんだけどねぇ。私が一人で食べちゃおうかしら」
女将がそう言うや否や、リュカとヘンリーは嘘のように目をパチリと開け、ベッドの上に起き上がった。しかし、つい一秒前に聞いた女将の言葉がもう頭には残っていないらしく、自分でもどうして突然目覚めたか分からない様子で、リュカとヘンリーは互いに顔を見合わせた。
「おい、リュカ、何か言ったか」
「あ、おはよう、ヘンリー」
「ああ、おはよう。じゃなくて、何で朝になってんだ」
「うう、良く寝た。お腹空いた」
「そうだな、腹が減った。飯でも……」
「下に用意してあるから、とりあえずは水でも飲んで、顔を洗って下りておいで」
突然聞こえた第三者の声に、リュカとヘンリーが驚いて声の主を振り向き見る。宿の女将が楽しそうに二人を見ると、テーブルの上に水を注いだグラスを二つ置いて、そのまま部屋を出て行ってしまった。しばらくの間、女将の出て行った部屋のドアをぼうっと見ていた二人だが、彼女と昨日宿のカウンター越しに話したことを思い出すと、ようやく話の合点が行ったように「ああ」と溜め息を漏らした。
「この宿、朝飯までつけてくれんのか」
ベッドから起き出し、テーブルの上に置かれていたグラスの水を飲み干すと、ヘンリーは息をつきながらそう言った。水は常温で、起きたばかりの身体に優しい。
「昨日、そんな話はしてなかったと思うけど、でもくれるんだったらありがたくもらおうか」
リュカはベッドの上で伸びをすると、ヘンリーに手渡されたグラスを受け取ろうと手を伸ばした。しかしもらい損ねて、ベッドの上に水が撒き散らされてしまった。
「あっ、しまった」
「はっはっ、まるで寝小便したみたいだな」
ちょうど水が撒き散らされた位置が、寝ると尻の辺りになると、ヘンリーは指差して笑う。リュカは慌てて掛け布団で水を拭こうとするが、それはそれで返って怪しまれるような跡になった。リュカは諦めてしおらしく「ごめんなさい」と謝り、テーブルの上の水差しに手を伸ばした。素直に謝るリュカを見ながら、ヘンリーは内心、「もしかして、こいつ本当に……」と訝しんだ視線を投げていた。
宿のフロントに行くと、女将に食堂に回るように手で合図された。既に人気のない食堂には二人分の朝食が用意され、色鮮やかなオレンジジュースまで注がれていた。朝は焼きたてのパンだったものだろうが、冷えて固くなったパンでもリュカとヘンリーは黙々と美味そうに噛みしめていた。用意された朝食をあっという間に平らげると、今度は女将に「風呂はあっち」と指示され、有無も言わさないその雰囲気にリュカとヘンリーは大人しく従う。大きな浴槽に張られた水で軽く身体を洗い流すと、その冷たさに身体と脳が本気で目覚めた。
風呂から出る頃には既に昼を過ぎていた。窓の外に見える町の様子には、朝目覚めてから既に何時間も経っているように感じられた。荷物を担ぎ、宿を出ようと再びフロントに来た二人に、女将は二つの包みを二人にそれぞれ手渡す。
「あんたたちみたいな若いのは、すぐに腹を減らすからね。これを持っていきな」
包みの中にはパンと果物が入っていた。あまりにも親切にしてくれる女将の対応に、リュカもヘンリーも少々気が引けたが、女将は豪快に笑って二人を送り出そうとする。
「この町にいる間はここを使わせてもらうよ」
「宿業やってて、これほど嬉しい言葉はないよ。今日も二人分を空けておくからね」
「ありがとうございます。あと一日か二日くらいだと思いますけど、よろしくお願いします」
「好きなだけ泊まっていきな。待ってるよ」
宿の女将の対応を見ながら、リュカは幼い頃に父と泊まったアルカパの宿を思い出していた。目の前にしていたオラクルベリーの宿の女将の姿が、アルカパにいたビアンカの母の姿と重なる。快活で、宿泊客の快適さを第一に考え、出来うる限りのサービスを施す姿は、非常に似通っていた。同じ宿業を営む者として、性格や雰囲気が似てくるのかも知れないと、リュカは宿を後にしながら考えていた。
宿を出ると、日は中点を超え、既に傾き始めていた。空にはところどころ雲がかかっているが、雨が降るような雰囲気はない。リュカは荷物を担ぎ直し、ヘンリーを見る。
「どこに行こうか」
「昨日は夜に起きて、占いのところとか、地図を売ってるところに行く予定だったが……まだ時間もあるな」
「じゃあ、夜まで寝てようか。もう一度宿に戻ってみる?」
「お前はどこまで呑気なんだよ。……そうだ、ここには暇つぶしするのに最適な場所があるじゃねぇか」
ヘンリーの顔が突然輝いたように見えたリュカは、今までに感じたことのない危険を肌に感じた。リュカの意思も確かめずにヘンリーは足取り軽く、先を歩き出した。
「ちょっとヘンリー、どこに行くんだよ」
「せっかくあんな立派な遊び場があるんだぞ。遊ばないともったいないだろ」
「遊ぶって言ったって、そんなお金ないんじゃないかな」
「俺が思うに、あの場所では金が増える、そんな気がする。だから、行くぞ」
有無を言わさぬヘンリーの態度に、リュカは逆らう言葉を失った。リュカ自身も、あのカジノという空間に興味を持っていたのは事実だ。しかしそれはカジノ内にある闘技場に限ったことであり、闘技場で戦いを繰り広げる魔物たちの姿をもう一度見てみたいと思っていただけのことだ。ヘンリーのような金が増えるという発想は一つもなかった。
宿から歩いてすぐに、カジノの建物が見えた。既に人で賑わいを見せているようだ。空にはまばらに雲が散り、大方青空が見え、外を歩くのに丁度良い気候だが、ヘンリーは迷わずカジノの建物の中に入ろうと入口に向かっていく。リュカは建物の中の酒やら煙草やらが充満した臭いを思い出し、少し気分が悪くなった気がした。
「ヘンリー、昼間から酒を飲むの? また倒れちゃうよ」
後ろから嫌味混じりにリュカに言われ、ヘンリーは怒ったような顔つきで振り向き、言い返す。
「うるせぇな、もう酒は飲まない。悔しいけど、俺が下戸だって分かったからな」
「そうだね、それがいいよ。水とかジュースはないのかなぁ、それなら飲むのに」
建物の真正面で、入口上部に掲げられた大きなカジノの看板を見上げる。昼間は光も発さず大人しくしているが、これが夜になると色とりどりの光輝く看板になる。今は大人しくしている看板を見上げ、二人の心も少し落ち着いた。人々の賑わいも心なしか、夜よりも落ち着いているように見える。
リュカとヘンリーがカジノの建物の前で立ち止まっていると、左の通りから突然、人々の歓声が聞こえた。町の人々が集まり、大通りのわき道近くでざわついている。多少の異様な雰囲気を感じた二人は、カジノに入る足を止め、ざわついている町の人々の中に混じった。
道の両側に人々が連なるように並んでいる。その道のど真ん中を、緑色のローブを身にまとった一人の老人と、カジノの店員のようなバニースーツを着こなす若い女性の姿が見えた。しかし町の人々の注目を集めているのはその二人ではない。
老人と若い娘の後ろにずらずらと並んでいるのは、紛れもない魔物の姿だった。ぴょこぴょこと飛び跳ねる青透明色のスライムを先頭に、蝙蝠の羽を広げて宙に浮かぶドラキー、老人と同じ色のローブの中は骨と皮しかないような魔法使い。緑色のスライムにまたがった騎士は、隣にいる中身の気配が感じられない鎧兜だけの戦士と話をしながら通りを悠然と歩き、その鎧の肩にはホイミスライムがべったりと張り付いている。その後ろにも、延々と魔物が列をなして行進していた。町の人々の反応は様々で、恐怖におののき逃げ出してしまう人もいれば、魔物に声援を贈っている人もいる。中には魔物に近づいて握手を求める人までいる。魔物たちはそんな人間を相手に暴れることもなく、むしろ歓声に包まれて気分を良くしている雰囲気さえ漂わせながら、町を練り歩いていた。
「闘技場に行く奴らなんだろうな」
ヘンリーの言葉にリュカは頷くのも忘れて、楽しげに歩いたり飛んだりしている魔物の姿に見入っていた。魔物が堂々と町を歩くなどということが信じられず、しかしどこか嬉しい気もした。
「あのおじいさん、すごい人だね。あれだけの魔物をどうやって……」
「爺さんの隣にいるあの女も一体何者なんだ? 彼女も魔物に懐かれてるみたいだな」
「何だろう、あの銀色のドロドロした魔物。他にも見たこともない魔物がいっぱいいる」
リュカが夢中になって魔物を見ているのを良いことに、ヘンリーはリュカの肩を力強く叩いて言う。
「よし、それだけ興味が沸けば入らずにはいられないだろ。昼も夜も関係なくやってんのがいいところだな。酒も煙草もやんない俺たちだって十分楽しめるはずだ。さぁ、行こうぜ」
ぼうっと魔物の練り歩く行列を見ているリュカの腕を引っ張り、ヘンリーは目の前まで来ていたカジノの開かれた豪奢な扉を入ろうとした。魔物の列は老人の進む建物の裏口から入場しているようだった。思わず魔物の後を付いていきそうになるリュカを、ヘンリーは「こっちだ、こっち」と強引に引っ張り、昼間も込み合った娯楽施設の中へ入っていった。
昼間のカジノも煙草と酒の入り混じる臭いが立ち込めていた。しかしやはり夜よりは人がまばらだった。中には子供を連れてきて、一緒に楽しんでいる親子もいる。子供が熱中しているのは闘技場のようだ。リュカはこのカジノに来て、初めて平和な雰囲気を感じていた。
「互いに持ち金で遊べるだけ遊ぶ……じゃなくて、適度に遊ぶぞ。時間は日が暮れるまで」
「長い時間、遊ぶんだね……」
「楽しいことをしてりゃ、時間なんてあっという間に過ぎる」
話をしているのもまどろっこしいように、ヘンリーは早速カジノ内を歩き出した。まずは広場に居並ぶ赤いレバーのついた機械に向かって行った。リュカもその後についていく。
スロット台の前では何人かの人がそれぞれの台の前に立ち、真剣な表情で機械を睨んでいる。昼間から酒を飲んでいる一人の男は、目の前でぐるぐると回るカラフルな表示を食い入るように見つめ、タイミングを見計らって右手のレバーを勢い良く下ろす。その作業を飽きることなく延々と続けているようだ。次々とコインを投入する男の機械からは、投入した以上のコインが戻ってくる気配はない。
「何か色々とマークがあるようだけど、あれを揃えればいいんだな」
「でもヘンリー、あの人が使ってるのはお金じゃないみたいだよ」
リュカにそう言われて、ヘンリーは初めてコインを入れる男の手元を見た。確かに自分たちが持っているお金とは違うものを入れている。
「この場所専用のものが何かあるのかもな」
ヘンリーが独り言のように呟いた時には、既にリュカはカジノの店員の女性に問いかけていた。女性はトレイの飲み物をリュカに進めたが、リュカはそれを慌てて断る。自然に色っぽい仕草で応える女性に対して、リュカは素直にお礼を述べただけでヘンリーの下へと戻ってきた。
「あっちのカウンターでお金をコインに換えるんだって」
「じゃあ俺がコインに換えてくるから、お前はこの辺で待ってろ。どの台が出やすいか、見極めておけよ」
「そんなの分かるわけないよ」
リュカの反論も待たずに、ヘンリーはさっさとコイン売り場へと歩いて行ってしまった。リュカも一緒についていこうかと思ったが、ふと人々の歓声が上がるのを耳にし、その方向へと目を向ける。
そこは闘技場だった。今の時間はまだ昼過ぎだが、闘技場の周りには夜とさほど変わらないくらいの観客で賑わっている。見れば先ほど目にした親子の姿がまだそこにあった。観客である子供にカジノの店員の女性が飲み物を渡し、子供は普通の顔をしてそれを飲んでいる。隣にいる父親と思える男が子供が手にしている飲み物を見ても咎めないのを見て、リュカはそれが酒ではないことを確信した。
「ヘンリーにも一つ、持ってきてあげよう。すぐに戻れば大丈夫だよね」
リュカはそう一人呟くと、スロットが居並ぶ広間を後にして、闘技場へと歩いていった。人の群れを縫って、売り子からジュースを二つ受け取ると、すぐに元の場所に戻ろうと踵を返す。しかしリュカの好奇心に火をつけるような人々の歓声が再び上がる。真剣勝負を繰り広げる闘技場の様子に、リュカは自然と闘技場に向かう足を止めることができなかった。
闘技場でのチケットを買わないと中には入れないようだが、外側からも闘技場の中を覗くことはできた。先ほどの親子も、子供が手摺にしがみつくようにして闘技場を見下ろしている。リュカも同じように闘技場を囲む鉄の手摺越しに中を覗き見た。
白い毛むくじゃらの巨体の魔物と、黄色い鱗に覆われた小型ドラゴン、それに丸っこい体に鋭い棘を持つサボテン型モンスターの対戦が行われている。白い毛むくじゃらの魔物イエティが雄叫びを上げると、その対戦相手が身を竦ませるだけではなく、周りにいる観客も何人かその影響を受けて、その場に立ち尽くしてしまう者もいた。黄色い小さな竜のドラゴンキッズが火の息を吐くと、その熱気が観客席にまで届くようにも感じる。サボテンのダンスニードルは戦いを楽しむと言うよりも、奇妙な踊りを繰り返し踊り楽しみ、それを見る観客も野次を飛ばしつつそれを愉快に応援している。リュカは隣の子供と同じように手摺から身を乗り出し、時を忘れて魔物同士の闘いに噛り付いていた。
結局、勝負はイエティという白毛むくじゃらの魔物が勝利を得た。チケットを購入していた客はその勝敗に一喜一憂し、勝負に勝った者は配当金を得ようと換金所に列を成し、負けた者は悔しがりながら再び勝負に挑もうとチケット売り場に列を成す。リュカは潮が引いて行くように移動する観客の動きには目もくれず、闘技場を眺め続けていた。闘いを終えた魔物達が互いの健闘を喜び分かち合っている。リュカはその姿を微笑ましく、また感心するように唸りながらじっと見つめていた。
「おい、コラ」
後ろから頭を叩かれて、リュカは思わぬ痛さに顔をしかめながら後ろを振り返った。そこには苦笑を隠しきれないヘンリーが立っていた。彼の姿に手にしていたジュースの存在を思い出すと、リュカは左手のものをヘンリーに差し出した。
「中身あるのか、それ?」
ヘンリーの言葉で、ようやくリュカは自分の周りが水浸しになっていることに気付いた。売り子からもらったジュースはいつの間にかほとんど零れ、リュカの足元に水たまりを作っていた。どうやらカジノの観客と同じくらいの熱中ぶりで魔物たちの戦いを見ていたようだ。両手に持っていた木のコップの中身を一口で飲み干し、リュカは再び近くを通ってきた売り子にびしょびしょになったコップを返した。今度はヘンリーが売り子から二つのジュースをもらい受ける。
「お前がそんなに我を忘れるなんて珍しいな。そんなに面白かったか」
怒った様子でもなく、楽しそうに話しかけてくるヘンリーに安心し、リュカは素直に感想を述べる。
「うん、面白かった。あ、でも、僕お金は賭けてないよ。ただ魔物の闘いが面白かっただけなんだ」
「そのために俺がこうしてコインに換えて来てやったんじゃねぇか。さ、チケット売り場に行くぞ」
「えっ、でも、どの魔物が勝つかなんて、分からないよ」
「そんなの、ここにいる奴ら全員一緒だ。誰にも分からねぇよ」
「だったらどうやってみんなチケットを買ってるんだろ」
「勘とか、運だな」
リュカの意見など聞かずに、ヘンリーは迷わずチケット売り場の列に並び始めた。手にしたジュースを鼻で確認した後、ちびちびと飲み始める。カジノでの熱気を丁度良く冷ますような爽やかなレモン水だった。安心して一気にそれを飲み干し、空になった木のコップをすぐに売り子に返した。
二人の前に並ぶ客たちは互いに次の闘技の予想をし合っている。闘技場ではすでに次の対戦相手がそれぞれ準備に余念のない様子で、まだ開かれない檻の中で体を動かしているのが窺える。リュカは列に並びながらその檻の中を目を凝らして見てみたが、どれも見たこともない魔物のようだ。
「チケット売り場の上に次の魔物の名前が貼り出されてるな。なになに、彷徨う鎧にドロヌーバ、それにパペットマンとキメラだと。キメラは聞いたことはあるけど、強さなんてさっぱり分かんねぇな。リュカ、お前ちょっとは分かるんだろ」
「さぁ、僕も初めて見る魔物ばっかりだからよく分かんないよ。ただ……」
「ただ、何だ」
「あの檻の中を見てると、何となくだけどあの鎧の魔物が勝ちそうな気がする」
「よし、お前の直感を信じるぞ。負けたら何か罰ゲームをしてもらうからな」
思いもよらぬヘンリーの言葉に必死に抵抗したリュカだったが、ヘンリーの強引さには今まで一度も勝てた試しがない。ヘンリーはいかにも楽しそうに、「負けたらこのカジノで一番強い酒を一気飲み」という罰ゲームを課した。一方的な罰ゲームの設定に反論することも許されず、リュカはただ祈るような気持ちで自分の指名した魔物が勝つことを願うしかなかった。
チケットを購入し、二人は闘技場の観客席に入りこむ。すり鉢状の観客席の前方は既にほかの客で埋め尽くされている。恐らくほとんどがこの闘技場の常連なのだろう。二人は仕方なく観客席中段に足を進め、そこで試合を観戦することにした。
試合開始の鐘が鳴らされると、闘技場は観客たちの一層の熱気に包まれた。檻の柵が勢いよく外され、中から準備万端の魔物たちが一斉に飛び出してきた。広い砂地の闘技場で間合いを計り、四体の魔物はそれぞれの相手を見定めようとしている。その魔物たちを見ながら、リュカは全身に鳥肌が立つのを感じた。どの魔物も、自分が敵わない相手だと分かったのだ。
半鳥半竜のキメラが火の息を吐き出したのを皮切りに、魔物たちはそれぞれ決めた相手にかかっていった。キメラの火の熱に、一瞬土器のように体を硬くしてしまったドロヌーバが、すかさず飛び掛ってきた彷徨う鎧の剣の一撃を受け、壊れるように倒れてしまった。その瞬間、ドロヌーバに大穴を狙っていた一部の観客がチケットを放り投げる。周りのその様子を見て、ドロヌーバはチケット売り場での配当率が一番高かった魔物だと、ヘンリーは思い出した。
次に標的にされたのは奇妙な踊りを踊り続ける土の人形だった。その踊りに少なからず翻弄されているキメラが苦しそうに再び火の息を吐き散らす。パペットマンは熱を感じない体質なのか、埴輪のような表情を変えないまま踊り続けている。キメラが息も絶え絶えになっている理由が分からないリュカは、不思議そうにキメラを見つめ、実際にコインを賭けてもいないのに応援しだしていた。
その横から彷徨う鎧が重い鎧をガチャガチャと鳴らしながら、剣を振りかざしパペットマンに斬りかかった。パペットマンはやはり表情を変えないまま、自分がその剣で倒されたことにすら気づいていない様子で、砂地に倒された。残った二体の魔物は、最初から互いが勝ち残ることが分かっていたかのように目配せをし、間合いを取り直す。
「お前が賭けた奴が残ってるじゃねぇか」
「ヘンリー、ところでいくら賭けたの?」
「そりゃあ男たるもの、賭けられるだけ賭けてやったよ」
ヘンリーはいたずらが成功した時のように嬉しそうに笑うと、リュカは唖然として言葉も返せなかった。
試合を動かしたのは彷徨う鎧の攻撃だった。その重そうな装備に似合わず、彷徨う鎧の動きは思った以上に軽やかだ。重い装備をものともせず、剣を両手で持ちながら飛び上がって、宙に浮かぶキメラに剣の切っ先を向けた。キメラは慌ててそれをかわし、相手に火を吐こうとする。しかし準備が足りなかったのか、キメラの吐く火は黄色いくちばしの先にポッとわずかに出たに過ぎなかった。
彷徨う鎧は体勢を立て直し、またすぐに相手に剣を振りかざした。その剣はキメラの羽を打ち、キメラは打たれた痛さにはばたきを止め、地面にどさりと落ちてしまう。相手がゆっくりと近づいてくる間に、キメラはなにやら呪文を唱えようとしていた。魔物の言葉のようだが、リュカはキメラから感じる雰囲気にその呪文の正体が分かる。
「あれは、治癒魔法だ」
「何ぃ、じゃああいつ怪我治しちゃうのか。せっかく勝負が着いたと思ったのに」
しかしキメラの唱えた魔法は発動する気配がなかった。先ほどのパペットマンの不思議な踊りで魔力をそがれていたことに、キメラ自身気付いていない。彷徨う鎧はそれが分かっていたかのように、余裕を見せる態度でキメラに剣を向けた。首筋に剣が当てられると、キメラは残念そうにうなだれ、広い砂地の上で自分の敗北を認めた。その瞬間に、闘技場を囲む群衆の多くは、ヘンリーと同じようにチケットを握り締めたまま歓喜に沸きあがっていた。
「すげぇな、リュカ。当たったじゃないか。早速換金してこようぜ。この調子で行けば、いい景品がもらえるかもしれないぞ」
「そんな、たまたまだよ」
「なーに、謙遜するなって。じゃ、次行くぞ、次」
「次って、また賭けるの?」
「決まってんだろ、お前に罰ゲームやらせるまで俺は続けるぞ」
その後もヘンリーに引きずられるまま、リュカは試合の予想をする羽目となった。十戦続けた結果、リュカが酒を飲んだ回数はたったの一回に留まった。一番強い酒を飲んだというのに、顔を少し赤くしただけで平然としているリュカを見て、ヘンリーは「何だよ、つまんねぇな」と悔しそうに口を尖らせていた。
二人の手には、最初に持っていた何倍、何十倍ものコインがある。コインを数え、ヘンリーは景品売り場の看板に出ている品物を見上げる。
「これであの飲み薬が一つは手に入るな。魔力を回復する薬だと。便利そうだな」
「他にも色々あるんだね。でもこのコインだけじゃ全然手が届かないや」
「どうせならもっといいヤツが欲しいよな。じゃあ、今度は何でコインを増やすかだな」
ヘンリーは人で賑わうカジノの中を楽しそうに見渡す。リュカは悪い予感が湧きあがるのを抑えられなかったが、さっさと歩き出してしまったヘンリーの後ろをついていくことしかできなかった。
ヘンリーは初めに興味を持っていたスロット台の前に立ち、何度かドラムを回すが、出る目は揃わない。リュカも同じように挑戦してみたが、目が回るだけで何も面白いことはないと思いながら、コインだけはみるみる減って行った。挽回するべく、次にはカードゲームのポーカーに挑戦したが、ここでもやはり勝つことはできなかった。ルールそのものを把握するのに手間取ったせいもあった。
「もうコインがないよ」
「あるじゃねぇか、そこに」
「これを使ったらもう本当にないって」
「それだけ残しておいたってどうしようもないだろ。賭けちまえ。最後に賭け事の女神さんが微笑んでくれるかも知れねぇぞ」
「神様なんて信じてないくせに」
都合の良いヘンリーの意見に苦い顔をしていたリュカだったが、最後に派手に負けたと同時に、二人して思わず笑っていた。手持ちのコインは全て失い、もうこのカジノで遊ぶことはできなくなった。だが諦めきれないといった様子のヘンリーが、こっそり残りの金を数え始めるのを見て、リュカは慌ててそれを止めた。
「ばーか、冗談だよ。俺だってそこまでバカじゃない」
「目が真剣だった気がするけど」
「……おっ、あっちに人が集まってるぞ。何か面白いことでも始めるのかも。行ってみようぜ」
いかにも話をはぐらかしたヘンリーだが、彼の言う通り、カジノ内の一角に人だかりができていた。人だかりの向こう側に大きな舞台があり、舞台上が色とりどりの光で照らされる。その怪しげな色彩の光に吸い寄せられるように、二人は舞台に向かって歩きだしていた。
舞台を囲む人垣はほとんどが男たちだ。彼らの多くは酒が入っているようで、赤ら顔を舞台に向けながら、歓声を贈っている。まだ昼間の健全な感覚でいたリュカは、思わずカジノの入り口を見遣った。すると予想以上に時が立ち、外ではすでに日が暮れ始めているのを見て、リュカはあっという間に時間が過ぎて行ってしまったのだと実感した。カジノの建物は出入り口以外に内と外とを繋ぐところがなく、ほぼ完全に密閉された空間だ。それだけに時が流れるのを忘れてこの場に入り浸る人間が多いのかもしれない。周りを見渡しても、リュカたちがカジノに入ってきた時と、顔ぶれが大して変りないように思えた。
舞台を囲む男たちが各々に野太い歓声を上げ、リュカはその声に舞台を振り返った。舞台上には派手な衣装に身を包んだ踊り子たちが次々と姿を現し、男たちの歓声に応えるように妖艶な舞を披露する。露出度の高い衣装を着た上、激しい踊りを披露する踊り子の姿を見て、リュカは見てはいけないものを見たかのように目を逸らしてしまった。居心地の悪いリュカとは対称的に、ヘンリーは周りの男たちと同化してしまったように、舞台の上をまじまじと見つめている。
「確かに、あの腰つきは何かグッと来るもんがあるかもなぁ」
リュカは舞台の上を見る代わりに、ヘンリーの横顔を見てみた。真剣というよりは、注意深い表情にさえ見える。
「よく、ちゃんと見られるね」
「何言ってんだ。これも社会勉強ってやつだぞ。お前も男だったらしっかり見とけよ」
「社会勉強ね。前の方で『ぬげー』とか言ってるけど、あれも社会勉強?」
「あれは勢いだ。時にはそんな勢いも大事だ」
「あの女の人たちがあれ以上脱いだら、素っ裸になっちゃうよ。それはまずいんじゃないかな」
「……お前は何気にとんでもないことを言うよな」
「もしそんなことになったら、僕、このマントを舞台に投げるね」
「さすがにそんなことにはならないだろうから安心しろ」
そんな会話を交わす最中も、ヘンリーはリュカの方を振り向くでもなく、ずっと舞台を見つめ続けていた。友人のそんな楽しげな様子に、リュカはもう一度舞台を見ることを試みたが、身体をくねらせながら踊る踊り子のどこを見たらいいのか分からず、再び目を逸らしてしまった。
考えてみれば、つい何日か前までは修道院という規律正しい場所で過ごしていたのだ。修道院に住まう彼女らは皆一様に足元まで隠すようなスカートを履き、極力肌を露出しない服装で日常を送っていた。今、目の前にいる踊り子たちとはまるで別世界に生きているような女性ばかりだった。そのような場所で一カ月ほどを過ごした後に、突然のこの刺激に素早く順応してしまうヘンリーに、リュカは半ば感心するような気持ちになった。
「でも、こんなところにマリアさんがいたら、びっくりするんだろうなぁ」
男たちの大きな歓声の中、リュカは独り言のようにぼそりと呟いた。到底誰にも聞かれることのないほどの小さな声だったが、リュカの呟きに合わせてヘンリーの表情が一瞬、固まった。舞台とは明後日の方を向いているリュカを見ると、ヘンリーは頭を掻きながら場所を移動し始めた。
「あれ、どうしたの、ヘンリー」
「……やっぱりこういうのはあんまり楽しくねぇな。他んトコ行こうぜ」
「何でさ、あんなに楽しそうに見てたのに」
「た、楽しそうになんか見てねぇよ。俺はただ、社会勉強のためにだなぁ……」
ちらちらと舞台を振り向き見ながら、名残惜しそうに立ち去ろうとするヘンリーの後ろを、リュカもついて行く。しかしその途中、リュカは観客席の中に、一際熱心に踊りを鑑賞している老人の姿を見つけた。
「あの人は……ちょっと待って、ヘンリー」
「何だ、今度はお前が見たいってのか。それならそうと、仕方ないから付き合ってやる」
「違うよ。そうじゃなくて、ほら、あの一番前に座ってるおじいさん、さっき見た人だよね」
「さっき見た? どこで」
「ここに来る前に、外で魔物を連れて歩いてた人だよ。僕、ちょっと話を聞いてみたいんだ」
「あのじいさん、目を血走らせて踊り子のねえちゃん見てるじゃねえか。今話しかけても無駄な感じがするけど」
ヘンリーの意外に冷静な忠告に耳も貸さず、リュカは踊り子たちに声援を贈る男たちの間をすり抜けて行く。ヘンリーも気が進まないながらも、この人混みでリュカを見失ったらコトだと、渋々付いて行く。騒いでいる男たちの間を歩いて進むリュカ達に、当然老人は気付くはずもなかった。
隣までたどり着き、老人に声をかけるが、周りの歓声に紛れその声は届かない。おまけに、踊り子たちを真剣過ぎるほどの眼差しで見つめ、少しも隙を見せない。リュカは止む無く、老人の肩を叩いて注意を引こうとした。それでようやく、老人はリュカを振り向き見た。その表情には欠片も歓迎の感情は見られなかった。
「あの、すみません。ちょっとお話を聞きたいんですが」
「ああ? 何だって? よく聞き取れんから、また後にせい」
端から聞く気のない老人は、賑わいの中で声をかけてきたリュカをしっしっと追い払うように手を振る。リュカに一瞥もくれずに、舞台の踊り子から一時も目を離さない老人の様子に、リュカはヘンリーと目を見合わせた。ヘンリーは首をゆるゆると横に振るだけで、「諦めろ」と口の形だけで伝えてくる。しかし諦められないリュカはもう一度老人の肩を叩き、周りの大歓声にも負けないような大声で「あっちで待ってます!」とカジノ内のバーカウンターを指し示した。耳元で大声を上げられた老人はさすがにびっくりしたようにリュカを振り向き、煙たそうに眉根を寄せた。しかしリュカの漆黒のような目をみるなり、老人は今までの熱狂ぶりを一時忘れたかのように、リュカの顔を覗きこんだ。半ば睨むような目でリュカをしばらく見上げた後、老人は一つ頷いてまた踊り子たちに視線を戻した。
「来てくれるみたいだよ」
「ホントかよ。まあ、とりあえず待っててみるか」
「あれ、ヘンリーはもう見ないの?」
リュカのその言葉が聞こえていたのかいないのか分からないが、ヘンリーは先に歩きだして熱狂する男たちの間を通り抜けて行った。リュカも人混みにヘンリーを見失わないようにいそいそと付いて行った。
舞台が終わったのはそれからしばらくして、外の空気が夜の落ち着いたものとなった頃だった。しかしカジノの施設内の熱は上がるばかりで、夜にかけて一層温度が上がったのではないかと思えるほど、人々の目は爛々としているようだった。これが一晩中続くのだと思うと、リュカは人々の逞しさに感心すらした。リュカとヘンリーはバーのカウンター近くで、手持ち無沙汰の状態で老人を待っていた。バーカウンターに座り、カウンター奥に掲げられているメニュー表を見て、すぐに席を立ったのだ。と言うのも、メニュー表には酒とつまみしか書かれていなかった。酒の飲めないヘンリーはもとより、リュカも酒を好きだと言えるほど飲んだこともなく、旅の資金をこれ以上無駄にするのも憚られ、二人は大人しくカジノ内で配られているジュースを手にしていた。どうやら土地の名産がオレンジのようで、オレンジジュースだけはいくらでもただで飲めるようだった。
舞台が終わると、老人はまるで自分が舞台に立っていたかのように心地よい疲れを感じた表情で歩いてきた。一仕事終えたような爽快感さえ漂わせる老人の姿に、リュカはあの舞台はもしかしたら身体に良いものなのかもしれないと、踊り子の舞台に対する印象をほんの少し改めた。
オレンジジュースをちびちびと飲んでいる青年二人を見ながら、老人は不思議なものを見るような目をした。首を傾げ、二人に言葉をかける。
「なんじゃ、お主らも楽しめばよかったものを。若いんじゃから儂なんぞよりももっと楽しめるじゃろう」
老人の言葉に、一瞬返答に困ったリュカだが、素直な感想を言う。
「楽しむって言っても、何をどう楽しめばいいのか分からないんです。それに見ていても恥ずかしくなるだけだし。女の人があんなに肌を出すのはあんまり好きじゃありません」
あまりにも実直なリュカの返答に、老人ばかりではなく、ヘンリーも口を開けてリュカを見る。
「……お主の友人は坊さんか? なんじゃ、この欲の無さは」
「どうして俺に聞くんだよ。俺は坊さんには見えないってのか」
「儂には健全な青年としか見えんが。第一お主は踊り子さんたちをじっくり見とったではないか」
「うげっ、いつ見てたんだよ、じいさん」
ヘンリーが決まり悪そうに頭をがしがしとかき回すと、老人は白髭を揺らしてくぐもるように笑った。あれほど熱中して見ていた舞台の最中に、いつ自分らを振り向き見ていたのか、リュカにはそれが不思議だった。やはり多くの魔物を町の中に入れるだけあって、タダ者ではないのかもしれない。
「ところで何か話があったんじゃろう。酒をおごってくれるんなら、聞いてやってもよいぞ」
そう言いながら老人はバーカウンターの前の椅子に軽く飛び乗ると、リュカ達の応えなど聞かない内に、さっさと酒をオーダーしてしまった。仕方なくリュカは懐から金を出し、バーのマスターに金を払った。リュカとヘンリーはなくなったオレンジジュースの滴まで飲み干し、コップをカウンターに置いた。カジノ内にいれば、ジュースだけは飲み放題だ。二人はまた売り子が配りにくるのを待ちながら、話をし始めた。
「どうやってあれだけの魔物を仲間にしたんですか」
唐突なリュカの言葉に、老人は一瞬「何の話だ」と言わんばかりに怪訝な顔つきをした。しかしリュカの目を見つめる老人は、目の前の青年が言わんとしていることを何故か読みとった。
「そうか、仲間か。お主にとってはあやつらが儂の仲間に見えるんじゃな」
「仲間って言うか、ちょっと変わったペットみたいなもんだろ、あれって」
ヘンリーが一般人としての意見を述べるのを、老人は言われ慣れた言葉に対する頷きと共に苦い顔をする。言われ慣れてはいるものの、あまり好きな表現ではないようだ。
「え、だってペットって可愛がるものなんじゃないの? おじいさん、魔物を可愛がっているわけじゃないですよね」
「そうじゃな、そうかも知れん」
「じゃあ何だよ、可愛くもない魔物を好き好んで町の中に入れるなんて、単なる変人じゃないか」
「だから僕は仲間なんじゃないかって思ったんだよ。そうじゃないんですか?」
仲間という言葉に何の疑問も抱いていなかったリュカは、改めて当然のようにそう問い掛ける。老人は高級な酒をちびちびと飲みながら、リュカの黒い瞳を用心深そうに覗きこむ。壮絶とも言える過去を経験しながらも、少年のような純真さを忘れずに育った青年のこれまでを、老人は垣間見たような気に囚われた。人の目を見て、ここまで気が引きこまれた経験のない老人は、思わず愉快そうに皺だらけの笑顔を見せた。
「ふむ、お主は不思議な瞳をしておる。魔物を仲間と呼んだのもお主が初めてじゃ」
「だろうな。俺もそう思う」
「どうしてみんなそう思わないのかな」
「人は大体あの魔物たちを見て、どうやって捕まえたんだ、どうやっててなづけたんだ、どう調教すれば言うことを聞くんだ、とこう聞く。人は普通、人間が上で魔物は下、人間が善で魔物は悪だと思っているじゃろう。それが普通なんじゃが、儂はそうは思ってはおらん」
「魔物にも良い魔物はいるし、人間だって悪い人はいます。それって当たり前のことなんじゃないんですか」
リュカが平然とそう話すのを、老人は満足そうににこやかに頷いて見ていた。周りは昼間の穏やかな賑やかさから一変して、騒がしいほどに賑やかになり、誰も老人と青年のやり取りなどには目もくれない。隣に座る女性の燻らす煙草の煙が筋状になって伸び、それがヘンリーの顔までやってくると彼は小さくむせた。そんなヘンリーの様子に、隣の女性は色眼を使いながらしたたかに謝る。
「見込みありじゃ。ちょっと儂についてきなされ」
老人は手にしていた酒を一気に煽ると、高い椅子からひょいと飛び降りた。そしてリュカ達の反応などお構いなしに、人混みに慣れた足取りですたすたと出口へと向かっていく。予想外の老人の足の速さに、リュカは一瞬人混みの中に老人を見失ってしまった。しかしカジノの出入り口付近にちらっと緑色のローブが見えると、リュカはヘンリーの腕を引いて急いで老人の後を追った。
カジノの外に出ると、外の空気が新鮮に感じられた。思わず肺の中の空気を入れ替えるように何度も深呼吸を繰り返す。カジノの建物を囲む堀の水面が、建物の外側の眩い光を照らして色とりどりにきらきらと反射している。この大きな施設のおかげで、夜歩く時には欠かせない月明かりの存在が薄くなってしまっていた。
少し腰を曲げ、いかにも年寄りの姿勢で歩く老人だが、その足取りは意外にもきびきびしており、真っ直ぐに目的の場所へ向かっているようだった。リュカたちが後ろについてくるかを振り向き確認もせずに、老人はカジノを出てまっすぐ西に向かい、しばらく歩くとカジノなどあったのかどうか疑るほどの、明かりもないじめじめとした小さな路地に入っていく。ヘンリーはリュカの肩を叩いて警告の言葉を伝えたが、リュカは横に首を振る。そして友人をなだめながら、リュカは路地の角を左に曲がっていった老人の後を急いで追った。
小走り気味に歩いていったリュカが角を曲がると、暗闇の中にあった老人の姿が消えていた。リュカの肩越しにその様子を見たヘンリーは、背筋に凍りつく感じを覚え、思わずリュカに言う。
「あのじーさん、ああ見えて元気な幽霊だったんじゃねぇか?」
「そうなのかなぁ」
「そこで悩むなよ、怖いだろ」
「これ、何をそこでこそこそしとるんじゃ。早く来んかい」
暗がりの壁からひょっこりと顔だけを現した老人に、ヘンリーは飛び上がって驚き、それを見てリュカは大笑いした。
老人の住処は高い塀に囲まれたところにあった。しかしそこに建物はなく、地下に続く階段があるようだったが、明かりもない暗がりでは何も見えず、老人の影が地面から半身出ているように見えるだけだった。その光景が一層薄気味悪く、ヘンリーは再度リュカに「やっぱり引き返そう」とはっきり提案したが、リュカはむしろ新しい発見をした時のように目を輝かせて、地面から半身の影を出す老人のところまで歩いて行った。ほとんど真っ暗闇の中に置いて行かれるのはごめんだと、ヘンリーも渋々リュカの後をついて行く。
老人がいともたやすくその階段を下りていく後ろで、リュカとヘンリーは手探りで一段一段確認しながら、地下へと潜っていった。階段の途中で、地下から明かりが差し込み、ようやく階段の形が見えるくらいにはなった。
地下に降りると、あまりにも場違いなバニースーツに身を包んだ女性が一人、バケツにモップを突っ込んでいた。弱い明かりの中だったが、その女性が昼間、老人に付き添っていた人だと分かり、リュカは一人納得したように頷いた。年のころはリュカやヘンリーよりはずっと上で、バニースーツという見た目の軽さとは裏腹に、物腰はとても柔らかく落ち着いているように見える。老人が急に客人を連れてきても、一向に動揺する気配を見せない。
「助手のイナッツじゃ」
「あら、珍しいですね、先生がお客様を連れてくるなんて。しかもこんないい男」
イナッツと呼ばれた女性は頭の三角巾を取ることもなく、額の汗を拭いながらリュカとヘンリーに色目を使ったようだったが、そのあまりにもちぐはぐな装いに色気を感じることもなく、むしろ爽やかな雰囲気さえ漂わせる。暗がりではっきりとは見えないが、バニースーツにはあまり似合わないような健康的な体型をしているようだ。バケツに突っ込むモップを握る手も力強い。
「先生、お客様が来るんだったら先に言っておいてくださいよ。そしたらちゃんとバニーとしてお迎えできたのに。これじゃあ色気もへったくれもないわ」
イナッツはバケツに付いている二つのローラーで何度かモップの水を絞ると、モップを壁に立てかけ、バケツの水は奥に続く部屋に向かって流した。奥の部屋に排水する箇所があるのだろう。そうしてようやく、頭の三角巾を取ったが、一仕事終えたイナッツの髪は心地よく乱れていた。
「たまたまカジノで会ったんじゃ。こいつは見込みがありそうじゃったからの」
「そうやって今まで何人に逃げられてるのよ」
「今回は儂から声をかけたんじゃない。この黒いのが声をかけてきたんじゃ」
「先生に? どうして」
「儂の魔物の仲間を見せて欲しいとな。変ったヤツじゃろ」
「先生ほどじゃないと思うけど。でも、変ってるわね」
イナッツは三角巾を前掛けのポケットにしまいこみ、そのまま奥の部屋へと姿を消した。奥には簡易キッチンがあり、イナッツは指先に火を灯し、茶を入れるために湯を沸かし始めたようだ。地下の部屋ではあるが、水にも火にも困った様子はない。そして奥の部屋の更に奥の方から、魔物の咆哮が聞こえ、リュカとヘンリーは思わずびくっと身を震わせた。
「お前さんたちの気配に気づいたんじゃろうな。魔物たちの様子がいつもと違うようじゃ」
「お、おい、大丈夫なのかよ」
ヘンリーがリュカの後ろに隠れるようにしてそう言うと、モンスターじいさんは白い口髭を揺らしながら笑う。
「儂が連れてきた魔物はみんな大人しいからのう。それに、万が一のためにと、頑丈な檻の中に入ってるから安心せい」
モンスターじいさんが指差す先には、地下室の頼りない明かりに照らされた大きな鉄格子らしきものが見える。魔物の咆哮はその鉄格子の向こう側から響いてくる。しかし鉄格子が荒々しく揺らされるわけでもなく、格子の間から魔物の手が伸びてくるわけでもなく、ただ様子を窺うような鳴き声が聞こえるだけだ。
「どうやって魔物が仲間になったんですか」
リュカはカジノで聞いたことを、改めて老人に問いかける。するとモンスターじいさんは嬉しそうに、魔物について語り始めた。恐らく今までも何度となく、カジノの闘技場での魔物に興味を持った人に対し、魔物の賢さや素晴らしさを語ろうとしてきたのだろう。しかし誰一人として、本気で魔物のことを分かろうとする人はいなかった。人間と魔物は敵対し、相容れないものであると、初めから決まっている、そう思っている人々に対し魔物が善であることを説くのは不可能に近かった。
老人がまだ若い頃は今の世の中よりもずっと平和で、魔物の数もそう多いものではなかった。また魔物自体もそれほど凶悪なものはいなかったと言う。老人も若かりし頃は世界中を旅し、様々な魔物とも遭遇したが、当時の魔物はまだそれほど魔の力に侵されていなかった。
「魔物と一口に言っても、生まれた時から魔物だったものなんて、そんなにおらんのだ。生まれながらの魔族は別じゃが、大体は魔の力に魅せられた動物やら植物やら、時には静物もがその力に憧れ、手にしようと心を失くしてしまう。それが、魔物になる瞬間じゃ」
「……何か、怖いんだな」
老人の話を聞きながら、ヘンリーは思わず身を震わせてそう呟いた。その隣で、リュカは腕組みをしながら、先ほどまで闘技場で観戦していた魔物の姿を思い浮かべていた。闘技場で戦う姿は魔物そのものだったが、彼らからは殺気を感じなかった。多くの人間の歓声を受け、対戦相手の魔物と戦うことを、彼らは純粋に楽しんでいるようにすら見えた。
「先生、また根を詰めて話をすると逃げられちゃうわよ」
イナッツが四人分の茶を運んできた。マグカップや湯飲みなど、容れ物はばらばらだが、テーブルの上に適当に並べるなり、、イナッツは自分専用の花柄のカップに口をつけた。モンスターじいさんも大きなマグカップを力強く掴むなり、一口飲んで喉を潤す。
「こやつらは平気そうじゃ。今までのヤツらとは一味も二味も違う」
「いつもそんなことを言って、結局逃げられちゃうのよねー」
イナッツは全く期待しない表情でモンスターじいさんを横目で見ると、カップから立ち上る湯気を吹いた。モンスターじいさんは助手のイナッツの言葉など気にせずに、話を続ける。
「じゃが、魔物となったものも、魔の力以外のものに魅かれた時、良心を取り戻すこともある。それがお前さんたちも見たあのカジノの魔物たちじゃ」
「そうか、そういうことだったんですね。あの魔物たちは何だか魔物らしい魔物じゃないなぁって思ってたんです。だって、町の人と握手なんてするし、応援にも手を振って応えたりするし、普通はそんなことしないじゃないですか」
「するわけないよな、魔物なんだから」
ヘンリーは当然のことを言ったつもりだったが、モンスターじいさんとイナッツと、おまけにリュカにまで奇異な目で見られると、まるで自分が非常識なことを言ったのかと急に自信を失った。
「じゃああの魔物たちは良心を取り戻したっていうことですね。でも、それってどうやって……」
リュカの言葉を聞いた老人はにやりと笑顔を浮かべると、もったいぶるように一口茶をすすり、静かにマグカップをテーブルに置いた。そして意味ありげにリュカの顔を覗き込むと、白い髭の中で口角を上げる。
「決まってるじゃろ、愛じゃよ、愛」
老人は「決まった……」と言わんばかりの表情でリュカを見つめていたが、リュカはその期待に応えることはなく、ただ首を傾げただけだった。ヘンリーに至っては、老人の言葉自体にあまり興味を持たず、聞き流すように湯のみの茶をすすっている。しかしそんな反応には慣れている老人は、めげずにリュカの黒い瞳を覗き込み、何やら確信めいた雰囲気を漂わせながら再び語りだす。
「愛を持って魔物と戦う、これが大事なんじゃ。お主のような若造には愛というのはちと難しいものかも知れん。しかし儂が思うに、お主は既にそれを実践している気がするのじゃが。以前に魔物がなついてきたことはなかったかの」
老人の言葉に、リュカは幼い頃、まだ父と旅をしていた時のことを思い出した。まだ魔物と戦ったことのなかった自分に、父は「あのスライムを倒してみろ」と、魔物と戦うことを初めて許してくれた時があった。リュカは必死になってスライムを木の棒で倒すことに成功したが、その直後、気がついたスライムがまるで「自分も連れて行け」と言わんばかりに、リュカの腕の中に飛び込んできたのだ。リュカは父にスライムも旅に連れて行きたいと意思表示をしたが、父は魔物を連れて村や町に入ることはできないと、リュカの腕の中に収まるスライムを脅かすようにして追い払ってしまった。
その時に愛を持って戦ったつもりはなかったが、リュカには魔物の命を奪う意識はなかった。ただ初めて戦う魔物の前で、自分の身を守るのに必死だった。また、心のどこかで、いざとなったら父が助けてくれるという安心感もあった。その安心感がリュカにほんの少しの余裕を持たせたのかも知れない。
「お前はどこか魔物を魔物として見てないよな」
「どういうこと?」
「この町に来る時だって、あの変なイタチみたいな魔物を見て『キラキラしてきれい』なんて抜かすし、魔物を前にしても緊張感ってもんがない」
「だってキレイだったよ。ヘンリーはそう思わなかった?」
「思うも思わないも、そんな余裕あるかよ。相手は魔物なんだぞ」
二人の青年の会話を聞きながら、モンスターじいさんは一人、満足そうにゆっくりと二度、三度、頷いた。
「お主たちはこれからも旅をしていくのじゃろう。もし旅の途中、魔物が『仲間』になりたそうな目をした時は、今度は拒む必要はないぞ」
「でも魔物を連れては歩けないって……」
「お父上がそう言っておったんじゃろう。幼い頃は仕方なかったんじゃ。親が我が子を得体の知れない魔物の前にさらすことなどできようもなかったじゃろうからの。じゃが今は、お主も大人になった。全ては自分で考え、自分の責任で、したいことをすれば良い」
その言葉を聞くと、リュカはまだ自分が大人になったという自覚がないのだと感じた。幼い頃父に言われたことは、幼い自分に向けての言葉で、大人になった自分に向けての言葉ではないのだ。もし今、父が生きていて、隣にいたとしたら、一体どんな言葉をかけてくれたのだろう。魔物を仲間にすることに、首を縦に振ってくれただろうか。
「だけど先生、このかっこいいお兄さんじゃあ、仲間になる魔物もいっぱいいそうね」
イナッツが荒れた手でカップの茶を継ぎ足しながら話す。魔物が人間の容姿なんか気にするんだろうか、と首を傾げるヘンリーと、自分がかっこいいと言われたことにはっきりと戸惑いを感じているリュカに、老人はくぐもった笑いをこぼした。
「そうじゃな、現にこの儂もそれで困っておったから、お主も例外じゃないかもしれんのう」
「……じいさん、何が言いたいんだよ、それ」
「言わずとも分かるじゃろう、察しが悪いのう、そっちの緑色は」
愉快そうに笑う老人を見ながら、ヘンリーは呆れたように肩をすくめた。
「オラクル屋だったら何か貴方たちの旅に役に立つものが売ってるかも知れないわ。ちょうど今の時間だったら店を開けているはずよ」
イナッツにそう言われ、リュカとヘンリーはこの町での目的の一つを思い出した。
「そうだ、俺たち、オラクル屋ってところで地図を買うんだった」
「早く行かないと店が閉まっちゃうね」
「あの店は夜営業してるから、時間的には今ようやく開店したところだと思うわよ」
イナッツがそう言って茶を一口飲むと、部屋の奥の檻の中から魔物の咆哮が聞こえた。地下室に低く響く魔物の声に、ヘンリーはこっそりと身を震わせていた。
「さっき食事は済ませたばかりなのに、もうお腹が減ったのかしら」
イナッツは席を外し、檻の方へと歩いて行った。檻の中から感じる魔物の気配が落ち着かないものだと、リュカはその雰囲気を感じていた。しかしその雰囲気は決して敵意を感じるようなものではない。むしろ魔物たち自身が不安や恐れを感じているかのように思え、リュカはイナッツの後を追いかけるように席を立った。
「そうだった、俺たち、そのオラクル屋ってところに行く予定だったんだ。そこで地図を買うって話を聞いて……おい、リュカ、そろそろ行くぞ」
ヘンリーの呼びかけにも、リュカの返事はない。どうやら魔物の様子を見に行ったイナッツの後を追って、魔物のいる檻の中に入ってしまったようだ。ヘンリーは、信じられない、といった苦い表情で、明かりの洩れる檻の鉄格子を見つめた。普段は鍵がかけられている鉄格子が、今は半分ほど開いた状態のままになっている。その無防備さにヘンリーは思わず席を立って、身構えた。
「大丈夫じゃよ。檻の中から魔物が飛び出してきたら、儂がどうにかするわい」
「じいさんに何ができるんだよ。魔物と戦うってのか」
「お前さんは一度、檻の中にいる魔物を見てきたらいい。色んな誤解が解けるやも知れん」
「誤解も何も、人間としては俺が正しいだろ、どう考えても」
「何も正しいことが一つとは限らんじゃろ。いいから、とりあえず来なされ」
「俺はあいつと違って繊細なんだ。どうして好き好んで魔物のいる檻の中に入らなきゃ……」
「それは繊細じゃなくて、単なる怖がりと言うんじゃ」
モンスターじいさんも席を外し、魔物のいる檻へ向かうと、部屋の中にはヘンリー一人取り残される形になった。魔物は檻の中にいると分かっているのに、もしかしたらこの部屋中のどこかから魔物が現れるんじゃないかと疑い始める。一人きりでいるよりはと、ヘンリーは慌てて三人のいる檻に向かって行った。
檻の鉄格子の中からリュカの声が聞こえる。それと同時に、魔物の低い声も聞こえる。ヘンリーが恐る恐る鉄格子を掴んで外から覗くと、リュカは魔物の餌を手にしながらイナッツと話をしていた。
「そっちのスライムには主に水で大丈夫。それとこっちのドラキーは土を好んで食べるのよ。それとね……」
イナッツが地面に置かれたいくつものバケツを指差しながら、リュカに教えている。バケツの一つに、スライムが顔を突っ込み、身体全体を喉のように鳴らして水を飲んでいる。仄かな明かりに照らされてオレンジ色に浮かび上がる毛むくじゃらの魔物イエティは、魔物らしく肉の塊を手にしている。しかしそれを食べることはなく、獣らしくない優しい動きで、そっと肉の塊をバケツに戻した。今は空腹を感じていない様子だ。
檻の中の魔物たちは一様に、初めて檻の中に入ってきたリュカを興味津々の目で見つめていた。まるで多くの魔物に取り囲まれているリュカの姿を見て、ヘンリーは呪文の詠唱を始めようと、両手を前にかざした。
「こら、そんなことをしとらんで、お前さんもこっちに来い」
「ヘンリー、大丈夫だよ。この子たちに敵意はないから」
リュカが笑顔さえ浮かべて言うのを見て、ヘンリーはようやく檻の中に入ることにした。しかし入口の鉄格子を通り過ぎた瞬間、何かが飛びかかってきて、ヘンリーは咄嗟に身体の前で両腕を交差してそれを弾いた。弾力のあるひんやりとした感触に、ヘンリーの背筋に悪寒が走る。
「な、何だよ、攻撃なんてしないんじゃなかったのか」
「あはは、その子はスライムだよ、ヘンリー。攻撃とかじゃなくって、遊びたかっただけなんじゃないかな」
「遊ぶって、俺がスライムと、どうやって遊ぶってんだ」
相手がスライムと分かって、ヘンリーは冷静に目の前に転がった魔物を見てみた。目の前のスライムはきょとんとしたまま、まるで敵意のない丸い目でヘンリーを見上げている。そしてリュカの足元に行くと、猫のようにすり寄った。
「ここにいる魔物たちはみんな、元は外にいた凶暴な魔物だったんですよね」
リュカがそう問いかけると、モンスターじいさんは白い豊かな髭を手でしごくように撫でながら、嬉しそうに応える。
「そうじゃよ、元々はそこら辺にいる魔物と変わらない、凶暴なヤツらじゃった。しかし今では町の闘技場の人気者じゃ」
「魔物たちも、何だか楽しそうだし、喜んでいる感じがします」
「そう、誰だって楽しく生きるのが一番じゃ。魔物にも楽しい人生を知って欲しかった。儂のそういう愛がこやつらに通じたんじゃろうなぁ」
モンスターじいさんが目を細めて笑っていると、その肩に黄色い触手を足のように何本も生やしたホイミスライムが止まる。じいさんの耳元で何事かを話しているようだが、その言葉は人間の言葉ではないようだ。足元には大きく丸い、色鮮やかな鳥の魔物が、地面に散らかる餌の始末をしている。リュカがしゃがみ込んで鳥を呼ぶようにチッチッと口で音を出すと、鳥の魔物は興味深そうにリュカのことを見て、首を小刻みに傾げる。と同時に、予想していなかった方向から突然、小さな竜の魔物が飛んできて、リュカは思わず尻もちをついた。
「舌打ちで寄ってくるのはドラゴンキッズなんじゃ。意外じゃろ」
自分が呼ばれたと勘違いしたドラゴンキッズは、リュカの肩の上に止まり、小さいながらも堂々とした様子でじっとしている。イナッツがバケツの中から小さな肉を取って見せると、ドラゴンキッズはすぐさまリュカの肩から飛び、肉を足で掴むなり、地面に降りて肉を食べ始めた。その竜の背中を何の躊躇もなく撫でるリュカを見て、ヘンリーは信じられないといった表情で友を見下ろす。
「どうしていきなりそんなに平気なんだよ、お前は」
「ヘンリーこそ、カエルやトカゲは平気なのに、ここにいる魔物たちはダメなんだね」
「カエルやトカゲみたいな可愛いもんと一緒にするな」
「でもこれで僕にもヘンリーにいたずらができるってわけだね。ああ、早く魔物と仲間になりたいなぁ」
「な、何考えてるんだよ」
ヘンリーがおびえた声を出しているのを、リュカは楽しそうに笑って見ていた。
一通り餌をやり終えて、イナッツは「はい、今日はもうおしまい」と普通の人間の言葉で魔物たちに知らせた。すると魔物たちは各々、食事の後の昼寝を決め込むように、身づくろいを始めたり、そのまま地面に横になってしまうものもいた。魔物の活動時間帯は昼間ではなく、これからのはずだ。モンスターじいさんは何やら色々と書き込まれたノートを見ながら、ぶつぶつと呟いている。
「今日のカジノに出場するのは……」
闘技場のスケジュール管理を行っているようで、ノートにはぎっしりと魔物の名前が書かれ、過去の勝敗についてもメモが取られていた。地面に寝そべった魔物たちを見ながら、じいさんはスラスラとノートに魔物の名前を書き込んで行く。
「そうじゃ、お主ら、これからオラクル屋に行くとか言っておらなんだか」
「あ、そうだ、すっかり忘れてた。地図を買いに行かなきゃいけなかったんだ」
「すっかり遅くなっちまったな。オラクル屋ってところはこんな時間でもやってるのかね」
「それは心配要らん。オラクル屋の主人は昼夜逆転した生活をしているんじゃ。昼間に寝て夜に商売をするという変わった奴じゃから、今から行けばちょうど商売に精を出している頃じゃろう」
その後、イナッツにオラクル屋までの道を聞き、モンスターじいさんとイナッツが見送る中、二人は地下室の階段を上がっていった。階段を昇りきると、空には満点の星空が広がっていた。老人に連れられ通ってきた薄暗い路地も、光り輝く月と星の明かりで十分に見渡せ、二人は足元に不安を感じることもなく、目的のオラクル屋に向かって歩き出した。
「イナッツの話だと、この路地をずーっと行ったところにあるんだよな、そのオラクル屋ってのは」
「夜だけ商売をしてるなんて、変わってるよね。それにこんな裏道の奥にあるなんて、普通は分からないと思うんだけど」
「珍品ばっかり扱ってるって言うし、変わり者であることは間違いないだろうな。あのモンスターじいさんも変わり者だし、大きな街ってのは変わり者がいやすいのかも知れないな」
ヘンリーが妙に感心しながら先を歩くリュカにそう言うと、リュカは路地の傍らに潜んでいた猫に笑いかけながらそうだね、と返事をした。目の前の猫は一度びくっとしてリュカを見上げたが、リュカの特異な雰囲気を感じ取ったのか、彼の足に擦り寄ってきてにゃーんと一声鳴いた。リュカはしゃがみこんで猫の喉を擦ってやると、猫はごろごろと喉を鳴らして気持ちよさそうにしている。そんな親友の姿を見ながら、ヘンリーは思わず呟いていた。
「お前も十分この街の住人になれそうだな」
ヘンリーのそんな言葉など聞こえないリュカは、しばらく猫にかまってやっていた。

Message

メールアドレスが公開されることはありません。

 




 
この記事を書いている人 - WRITER -

amazon

Copyright© LIKE A WIND , 2014 All Rights Reserved.