2017/12/03

洞窟の奥深くで眠るもの

 

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洞窟に入ると、ひんやりとした冷気が辺りを満たした。村にあるあの洞穴の宿屋とは違った冷たさに、ヘンリーは筏の上で身震いした。それと共に、洞窟内に感じる独特な空気に、思わず辺りを注意深く見渡す。
「そう言えばこの洞窟、魔物が出るんだ」
「なんだと? そんなこと聞いてない」
「今思い出した」
「そういう重要なことをどうしてすぐに思い出さないんだ、お前は」
「でも僕が小さい時に入っても大丈夫だったんだから、大丈夫だよ」
リュカの言葉にも疑わしげな目を向けるヘンリーだが、当のリュカはそんなことにはお構いなしに筏を進めて行く。静かな水の音が洞窟の中に響く。その小さな音を聞いて洞窟の魔物たちが起き出すんじゃないかと、ヘンリーは全身を緊張させながら辺りの気配に集中した。
洞窟内に、もちろん灯りはない。村の老人いわく、この筏を使って洞窟内に入っていたのはパパス以外にはいなかったという。それを聞いて、リュカは父が家ではないこの場所に、何かを隠していることを確信していた。文字の読めない幼いリュカにも見つからないように気をつけていたものが何なのか、考え始めると気になって仕様がなかった。
洞窟に入って間もなくは入口からの明かりが届いていたが、長い木の棒で川底を突きながら進む内、リュカもヘンリーも互いの姿が見えないほどの暗闇に身を置く羽目になった。リュカが手探りで川底を棒で突き、進もうとするが、時折筏が両岸に乗り上げたりして、その度に筏が止まったり戻されたりしてしまう。
川底や岸を探っているリュカの横顔が、突然灯りに照らされた。リュカが驚いて明かりを見ると、ヘンリーが手の平の上に火を浮かび上がらせていた。
「目立つからあんまりやりたくはないんだけど、仕方ないな」
「助かるよ。やっぱり火の呪文って便利だよね。いいなぁ、使えて」
「これくらいは役立たせろよな。ただあんまり長くは持たない。ずっとこんなことしてたら、魔力が切れてぶっ倒れる」
「そうだね。どこかに火が移せるようなものがあるといいんだけど」
「パパスさんがここに来る時はどうしてたんだろうな。同じように困ったはずだけど」
「たいまつとかを持ってたのかな」
ヘンリーは魔力を調整しながら、ごく小さな火を進む方向にかざし、川の両岸を照らした。リュカは目を凝らし、川の両岸を見極めると、ぶつからないように慎重に筏を進めた。洞窟の中の小川は火の明かりに照らされても表面をてらてらと光らせるだけで、その澄んだ水の様子はもう分からない。たとえ川の中に魔物が潜み、突然二人の前に現れたとしても、二人ともその姿を先んじて見つけることはできなかった。幸い、小川の中に生息するような魔物はいなかったようで、リュカもヘンリーも川の中にまで危険を感じることもなく、無事に洞窟の奥にまで進んだ。
会話をすることもなく、ただ黙々と筏を進めた先で、大きな空洞に出た。小さい火を少々大きくして、ヘンリーが両手をかざすように火を頭上に掲げる。視界が広がり、洞窟の天井に向けた二人の目に映ったのは、天井の隅にびっしりと寄せ集まる魔物の姿だった。思わず火を消してしまったヘンリーと、突然真っ暗になった衝撃に驚いたリュカが、慌てて筏にしがみつくように身を伏せた。
「ちょっとヘンリー、火を消さないでよ」
「ああ、悪い。だけどよ、あれって魔物だろ」
「そうだね、小さい頃に見たことがある気がするよ。ずっと前からこの洞窟にいるんじゃないかな」
「そうなのか。お前が小さい頃に遭ってるような魔物だったら、大丈夫かな」
洞窟の天井の隅に集団で止まっているのは、ドラキーという蝙蝠型の魔物だった。洞窟の侵入者である二人の人間に気が付いているようだったが、すぐさま襲ってくるような気配ではなかった。魔物ではあるが、あまり好戦的ではないようだ。
ヘンリーは再び呪文を唱え、手の平の上に火を浮かばせた。先ほどより照らす範囲が小さくなっているのは、ヘンリーの恐怖心の現れだったが、リュカはそんなことには構わずに目を凝らして周りの景色を窺った。
じっくりと待つうちに目が慣れ、小さな火でも相当な範囲を見渡せるようになる。小川ではなく、池や湖のような大きな水たまりが空洞内に広がっていた。その中ほどに、水面ではない何かがあるのに気付き、リュカはその地点へ向かって筏を進める。
近くまで来ると、そこに一本の太い棒が立っているのが見えた。それは筏を繋いでおくための舫い杭だった。小さな小島の上に、錆びた鉄の杭が出ている。リュカは寒々とした洞窟の中で、ほんのり心が温まるのを感じた。間違いなく、父はここにいたのだと確信した。
小島に筏をつけ、杭に舫いを繋いでおく。二人が降り立った小島のほぼ中央に、下に降りる道がある。ただ黒い穴にしか見えない道を見て、リュカは期待を膨らまし、ヘンリーは尻ごみするようにその場で立ち止まる。
「そうだ、いいこと思いついた」
リュカはそう言いながら、手にしていた筏を進めるための長い棒をヘンリーに向けた。まるで戦いを挑むかのようなリュカの姿勢に、ヘンリーがあからさまに怪訝な目を向ける。
「何だよ」
「これに火を移して、たいまつにしよう。そうしたら魔力を無駄に使わないで済むよね」
「ああ、そういうことか。早く言えよ」
リュカが向けてきた長い木の棒の先に、ヘンリーは火を移そうと慎重に手をかざした。簡易松明を手にしたリュカは、下に降りる道を照らす。そこには明らかに人の手で作られたような階段が続いていた。
「魔物の気配がするね」
「俺でもわかるくらいだから、ウジャウジャいんのかね」
「みんながみんな、悪い魔物じゃないはずだよ。襲われそうになったら、戦うけど」
「その前に死なないようにしような」
自分の身長ほどもある長い松明で階段の下を照らし、魔物が見えないことを確認しながら、リュカは階段を下り始めた。ヘンリーもその後に続くが、時折自身で後ろの状況を確認することを忘れなかった。



土の階段はところどころ草に覆われていた。陽の光の届かないこんな洞窟の中にも育つ植物があるのだと、リュカは草を踏んで足を滑らせないように慎重に進む。長い松明を長く持つと、松明が不安定に揺れ火が消えそうになるので、リュカは松明を短く持ちかえていた。
階段の下には自然の風景とは違う景色があった。松明を掲げ、辺りが見えるほどに照らすと、そこには人の手で作られた石の柱が何本も建てられているのが見えた。彼らの両側に立つ二本の柱は、列になって真っ直ぐ前に続いているようだ。石柱に近づき、リュカはその柱に手を当てる。
「これを、父さんが?」
信じられないと言った表情でヘンリーを振り返ると、彼はそんなリュカの想像を否定するように首を横に振る。
「それはないだろう。パパスさんがここに入るずっと前に、誰かがここを使ってたんじゃないのか」
言われてみればと、リュカは再び石柱を見上げた。サンタローズの老人が言うには、父以外の人間が筏を使ってこの洞窟に入ったことはないらしい。父が一人でこの大きな石柱を造り、立てている姿は流石に想像できなかった。
「ずっと昔に人が使ってたってことだね。遺跡ってやつだ」
「洞窟の中に住むような人間がいたのか。暗いヤツらだな」
石柱がずらりと一直線に並ぶ姿は、暗がりの中でも荘厳なものだった。階段を下りる前までは、この場所に魔物の気配を感じていたが、この聖なる空気をまとうような柱の建造物を目にすると、ここに魔物は近づいてこないんじゃないかと想像する。
だから柱の陰に見えた光る何かも、リュカは魔物ではないのだと、普段の調子で近づいて行った。大した警戒心を払わないリュカの後ろ姿を見ながら、ヘンリーも大した警戒もせずにその後を突いて行く。
柱の陰に身を潜めていたのは、スライムの形をした魔物だった。しかしリュカは相手が魔物だと分かっても、好奇心を高ぶらせたまま更に近づく。後ろから来ていたヘンリーは、前で突然しゃがみ込んだリュカを見て、その先に何があるのかと首を伸ばして覗きこんだ。
「お前、こんなところで何してるんだい?」
「うわっ、魔物じゃねぇか。相変わらず普通に話しかけるの、止めろよな」
「だって悪い雰囲気は感じなかったから」
「どんな魔物相手でもそうだろ、お前は。アテになるか、そんなの」
二人の人間が目の前に現れ、柱の陰にひっそりといたメタルスライムは小さな身体をブルブルと震わせながら、二人を見上げた。そして地面に弾みをつけると、リュカに向かって飛びかかってきた。盾も何も持たないリュカは、その攻撃を両腕だけで防ごうとした。てっきりスライムの弾力ある感覚が腕に当たるものと思っていたリュカは、そのあまりの固さに、思わず身体ごと吹っ飛ばされた。地面に倒れたリュカは顔をしかめて両腕をさする。幸い、腕は折れていないようだ。
「なんだ、コイツ。普通のスライムじゃないのか」
「まるで鉄の塊だよ。気をつけて、ヘンリー」
「鉄の塊ね。このナイフじゃ戦えないのかもな」
こめかみに冷や汗を垂らしながら、ヘンリーはメタルスライムと対峙する。しかし転んだリュカが松明を手放してしまったため、洞窟内は暗闇に包まれていた。少しでも気を抜けば、魔物がどこにいるのか気配を感じられなくなってしまう。
だが、今度は何やら声らしき音を発した魔物に、ヘンリーは驚きで目を丸くする。
「こいつ、呪文を使えるのか」
ヘンリーがそう言った直後、メタルスライムの身体から火が飛び出してきた。人間のように手のないメタルスライムは、発動させた呪文を身体全体から発してくるようだ。慌てて交わしたヘンリーの後ろで、地面に生えていた草に火が燃え移った。洞窟内が再び明るくなり、魔物の姿が明らかになる。
「こりゃ本当に鉄の塊だ」
「まともに戦っても勝ち目はないかも。逃げた方がいいかもね」
リュカがそう言うと同時くらいに、メタルスライムは目に見えないような速さで移動した。身構える二人を他所に、メタルスライムの姿はみるみる小さくなり、地面の下に落ちるようにして姿を消した。
唖然とする二人は互いに顔を見合わせる。先ほど魔物の放った呪文のおかげで、草に燃え移った火が互いの表情を照らす。
「逃げちゃったね」
「俺らが逃げるまでもなかった。かえって逃げられると悔しいな」
リュカ達が進んできた道とは反対側に、メタルスライムは一目散に走って行った。両側に大きな石柱が並ぶ先に魔物が逃げるような場所があるのだと、リュカは再び木の棒を持って進み始めようとした。
「おい、松明にしておけよ」
「え?」
「火が消えてるだろ。ちょうどいいから、そこに燃えてる火を移しておけって」
「ああ、明るいからわかんなかった。松明の火が消えてたんだ」
辺りに生えている草を全部燃やしてしまうような勢いの火に、洞窟内は明るく照らされ、視界は良好だった。しかしその火も、草が全部燃えてしまえば消えてなくなる。リュカは急いで棒に火を移し、残りの草に火が燃え移らないように、踏んで火を消してしまった。
「あの鉄のスライム、どこに行ったんだろう。逃げた先に道が続いてるのかな」
「行ってみようぜ。それにこんな石の柱が並んでる先に何にもないってこともないだろ。パパスさんは仕事って言ってここに来てたんだろ?」
「うん、僕にはそう言ってた。だけどそれって本当だったのかな。僕に何か隠したくて嘘をついてただけなんじゃないのかな」
「俺には嘘をつくような人には思えないけどな。お前に隠れてってのはあるだろうけど、本当に何か作業をしてたんじゃないのか」
「そうなのかな。そうだといいんだけど」
「そうに決まってるよ。まだ子供だったお前には知られたくない作業だったんだよ、きっと」
リュカの心の中には、父に信用されていないという劣等感が棲みついている。それは幼い頃に、ラインハットの城下町で置いてけぼりに遭った時の気持ちに根付いていた。まだ子供だからと、父はリュカを安全な城下町に置いたまま、連れ去られたヘンリーを助けに一人で町を出て行ってしまった。その時の寂しさがリュカの胸の中の片隅に常に存在している。
洞窟に入る前は、父の過去を知りたいと言う純粋な好奇心だけで、リュカは行動を決めた。しかしこうして洞窟の中に入り、間違いなく父がここを使っていたことを感じると、これ以上進むのが怖くもあった。息子がまだ幼かったから見せたくない仕事があったわけではなく、ただ息子と言う存在に知られたくなかったものを隠していたら。そう考えるとリュカの足は踏みとどまりそうになる。
しかし、たとえ父が隠していたものがどんなものであろうとも、今のリュカはそれを知る必要があった。それほど色んな事を知らないまま、父とは二度と会えなくなってしまったのだ。今さら、知りたいとか知りたくないとか、そういう感情は問題ではないのだと、リュカは自分に言い聞かせた。母を捜し、救うためには、一番近しい人のことを知る必要があるのだと、リュカは落ち込みそうになる感情を押し上げた。
メタルスライムが逃げて行った先には、再び下に降りる階段があった。大きな石の柱同様、階段もしっかりとした石造りで、何人もの人の手が加わってこの場所が存在していたことが分かる。こんな真っ暗な洞窟の中にひっそりとある大きな石柱を振り返り見て、リュカは改めてこの場所に神々しさを感じていた。
階段をゆっくりと降りて行くと、もうそこには人々の生活していたような人工的な雰囲気はなかった。魔物の気配が濃くなったのを感じ、リュカは手にしている火を消そうかと一瞬考えた。しかし火を消したところで、魔物たちの目は闇に慣れている。火を消しても魔物たちの視界には大した影響はないのだと、リュカは堂々と火を持つことにした。
階段を下りたところには、また地面に草が密集していた。陽の当たるところに生えるような伸び伸びとした草ではなく、地面に張り付くように群生するような種類の草だ。もちろん人の気配など感じないが、これほどの洞窟の奥に草が生えていることに、リュカはこの場所に、ふと人の生活を見たような気がした。
「一体どこまで続くんだろうな、この洞窟。ここが今、地下二階になるのか」
「僕が子供の頃に来た時は、そんなに下に行った記憶はないんだけどな」
子供の頃の記憶がそれほど鮮明に残っているわけではないが、リュカはこの洞窟の中でこれほどしっかりと造られた階段を下りた記憶がない。時間と共に徐々に短くなる簡易松明を手にしながら、リュカは洞窟内を照らす。リュカ達のいる空洞には何もなく、一か所だけ、暗い道が先に伸びている。リュカは松明を掲げて、道の先を照らした。
進んだ先の道が二つに分かれていた。リュカとヘンリーは洞窟の壁や地面を調べて、何か進むべき方向への道しるべがないか確認したが、何も残されていなかった。父が一人で使っていたような場所に、わざわざ道しるべを残しておく必要もないのだと、二人は諦めてじゃんけんで進む道を決めようとした。
「最初はグー、じゃんけん……」
ヘンリーがチョキを出したところで、リュカは手を握ったまま止まってしまった。
「あ、お前汚ねぇぞ、後出しだ、後出し。勝負はやり直しだ」
勝つことに意味のないじゃんけん勝負だが、ヘンリーは負けるのは我慢ならないと言わんばかりに、やり直しを求めた。しかしリュカは動きを止め、手を握ったまま辺りの様子を窺っている。
「ヘンリー、何か臭わない?」
「何がだよ」
「何か、臭いよ。何かが腐ったような……」
三方向に伸びる道の分岐点で、リュカは松明をあらゆる方向に向けて様子を見た。松明の火が揺れ、洞窟内に風が吹いているのが分かる。火が傾いた方向とは逆から、異臭が漂ってくるのをヘンリーの鼻も感じた。
「まるであの毒の沼みたいな臭いだな。この洞窟内にもあるのか」
「いや、これって魔物だよ。どこかからか多分、来る」
リュカがそう言った直後、彼らの近くの地面が突然、隆起した。ぼこぼこと地面を下から割る何かがある。リュカは松明を手にしたまま、その火を地面の近くに寄せた。ヘンリーもその後ろでナイフを構える。
地面から出てきたのは、人の手だった。リュカもヘンリーも思わず小さな悲鳴を上げて、半歩後ずさった。鼻が感じていた異臭が更に強まる。
地面から出てきたのは、人間の形こそしているが、既に人間ではない腐った死体だった。皮膚の隙間からところどころ骨が覗き、頭に生えている髪もまるで後からくっつけたように不自然で、眼球が飛び出しているものまでいる。そんな魔物と化した人間が三体、リュカとヘンリーの前にゆらゆらと立っている。吐き気を催したヘンリーは口と鼻を押さえたが、リュカは左手に松明を持ちながら目を逸らさずに三体の腐った死体をかわるがわる見つめた。
腐った死体は三体とも、リュカの持つ松明の火の明かりを見ている。その目はうつろで、焦点が合っていないようにも見える。しかしかつて人間だった彼らは揃って、火の灯りに憧れのような眼差しを向けているように見えた。腐ってしまった身体を支えているのは、もはや骨や筋肉ではない。彼らが足で立ち、よろよろと近づいてくる原動力は、この世に残された彼らの思いだけだった。
「死んでも死にきれないって、こういうことなんだろうね」
リュカの声が憐れみに満ちているのを、後ろにいたヘンリーは即座に感じた。ただ気持ちの悪いと思っていただけの魔物が、リュカの一言でまるで違うように見えてくる。
ゆっくりと近づいてくる腐った死体たちは、もしかしたらサンタローズに住んでいた人たちなのかも知れない。十年ほど前に村が襲撃を受けた時、なんとかこの洞窟まで逃げ伸びてきたが、そのまま死んでしまったのかもしれない。誰に見届けられることもなく、こんな真っ暗な洞窟の奥でひっそりと死んでしまっていたとしたら、そう考えると腐った死体の放つ臭気など何も気にならなくなった。
そんな思いを抱えながらも、ヘンリーは今目の前に対峙する魔物として、腐った死体を冷静に見た。前で戦闘意欲を失くしかけているリュカに強く声をかける。
「俺たちはここで死ぬわけにはいかない。戦うぞ、リュカ」
ヘンリーの言葉に、リュカは目を覚ましたように瞬きを二、三度した。後ろを振り向くと、ヘンリーはナイフを右手に構えながら、呪文の詠唱に入ろうと集中を高めている。その姿を見て、リュカは憐みの表情のまま、ベルトに挿していた檜の棒を右手に持った。左手に持つ松明の火は小さく揺れ、ゆっくりと近づく腐った死体の姿をしっかりと映している。人間としての生を失い、なりたくもなかった魔物になってしまった彼らの動きは、かなり鈍かった。
「僕たちでお墓を作ってあげよう。それでいいよね」
「ああ、賛成だ」
ヘンリーが幻惑の呪文を唱えると、腐った死体の目の前には突然、明るい世界が広がった。洞窟の中は相変わらず闇に包まれ、リュカの持つ松明の小さな灯りだけで照らされている。呪文をかけられた魔物の前だけに、平和だった頃のサンタローズの景色が現れたことに、リュカもヘンリーも気づいていなかった。
腐った死体のゆっくりとした歩みが止まる。幻惑の中に幸せを見たような魔物の穏やかな雰囲気に、リュカは手にしていた檜の棒を思わず下に下ろす。攻撃など加える必要はないんじゃないかと、一瞬胸の中に迷いが生じた。
だが、こんな穏やかな表情をしている腐った死体の目は、やはりどこも見ていなかった。呪文の幻惑の中に過去の幸せを見たところで、呪文の効果がなくなれば、彼らは死んでも死にきれない魔物として再びこの洞窟内に取り残されることになる。
リュカは再度、檜の棒を右手に固く握りしめた。不意打ちのような攻撃は気が引けたが、これも彼らのためだと、腐った死体の後頭部に檜の棒を叩きつける。腐ってしまった身体には痛覚が残されていないようで、腐った死体はリュカの打撃に地面に転がりながらも、痛そうに顔をしかめたりすることはなかった。何故自分が地面に倒れたのかも分かっていないような様子だ。そんな鈍い反応が、リュカにとっては救いだった。
ナイフを片手に持つヘンリーだが、それを武器に腐った死体に近づくことはなかった。痛みも感じない死体にナイフで切りかかったところで、戦闘にまだ慣れない自分の力で目の前の魔物が倒れるとは思えなかった。ナイフを握りしめたまま、ヘンリーは再び呪文の詠唱に入ろうとする。
しかしヘンリーは目の前の腐った死体が二体しかいないことに気付かなかった。もう一体の魔物がヘンリーの背後から覆いかぶさるような攻撃をしかけてくる。背中に強い打撃を喰らったヘンリーは、たまらず地面に倒れ込み、息をするのも苦しいと言わんばかりに咳き込んだ。
幻惑の呪文を逃れた一体は、地面に倒れたヘンリーをはっきりと敵と見ていた。鈍い動きながらもすぐさま攻撃に転じる姿は、人間の頃の防衛本能が残っているからなのかも知れない。両手を組み合わせるようにして、ヘンリーの頭上に両拳を振り下ろす。
そんな腐った死体の横から、リュカが檜の棒で思い切り脇を突いた。崩れるように倒れた腐った死体だが、やはり痛みを感じないらしく、すぐに立ち上がろうとする。しかし、リュカはそれを封じた。渾身の力を込めて、檜の棒で腐った死体の首を打った。元々脆い腐った死体の身体は、リュカの打撃に耐えることができず、首が地面にごろりと転がる。
「うわっ」
すぐ脇に転がってきた首を見て、地面に座り込んでいたヘンリーが飛び上がった。胴と離れてしまった首は、さすがにもう動かなかった。
リュカは地面の一部が柔らかいことに気付き、そこに松明代わりの棒を突きたてた。両手が自由になったリュカは、手にしていた檜の棒をベルトに挿して、両手を前に構える。真空の風を生み出し、それを刃として魔物に投げつけた。まだ幻惑の中にいた二体の腐った死体は真空の風の中で、既にぼろついている身体を切り刻まれ、悲鳴を上げることもなくその場に崩れ落ちた。
「本当は、こんなこと……」
松明の頼りない灯りに照らされるリュカの横顔は、苦しそうに歪んでいた。まだしぶとく動く一体の腐った死体を見て、ヘンリーは手にしていたナイフを投げつけた。残った一体もその一撃で地面に崩れ倒れた。
洞窟の中に松明の灯りが小さく揺れている。一定の方向から微弱な風が流れ、小さな火がちりちりと音を立ててなびいている。
地面に転がる腐った死体に近づき、リュカはその身体を運び始めた。腐臭が鼻につくが、それ以上に彼らを弔わなければならないという思いが強い。腐った死体が現れた土を更に掘り返し、倒した三体を丁寧に横たわらせる。ヘンリーも背筋に冷たい感覚を感じながら、胴体と切り離された首を運んだ。
上から土を被せ、地面に埋めると、リュカとヘンリーはあの海辺の修道院で何度となく耳にしていた祈りの言葉を口にする。祈りの言葉は、そのまま鎮魂の調べになり、死にきれなかった人間の荒れる魂を鎮めようとする。修道院のシスターのように滑らかな言葉にはならないが、リュカは目を瞑り、思いを込めて、地面に言葉を落としていった。
祈りが届いたかどうかは分からない。まるでおとぎ話のように、彼らの白く輝く魂が地面から現れて、天に召されて行く様子が見えるわけでもない。結局は自己満足だったのかもしれないが、リュカにはこうする以外の良い方法が思い浮かばなかった。
洞窟のどこかで、水の跳ねる音が聞こえた。上の階には小川が流れているような洞窟だ。今リュカ達が地下階にも水場があっても不思議ではない。どこまで続くか分からない洞窟の中を、リュカとヘンリーは無言で、再び歩き始めた。



徐々に短くなっていく松明を手に、リュカは洞窟の奥へ奥へと進んで行った。そのすぐ後ろから、ヘンリーがところどころ壁にナイフで傷をつけながら歩いている。道の分岐に来ると、そこに順番に数字をつけているようだ。
景色の見えない暗い中を進むのは、進んでいる感覚も鈍り、まるで同じ場所でずっと足踏みしているような感覚になる。時間間隔もなくなり、今がもう真夜中だと言われれば、それを素直に信じてしまうほど、時間の目安となるものは何もない。奴隷として生きていたあの山頂の生活でも、朝になれば看守が奴隷たちを起こして働かせ、一日の労働が終われば奴隷たちを窮屈な寝床へ押しやり、休ませた。毎日が生死の境をふらついているようなあの場所に戻りたいとは思わないが、それでも人間としての時間は守られていたのだと、リュカは新しい発見をした気分だった。
洞窟を進んだ先に偶然見つけた泉で、二人は渇いていた喉を潤した。しかしそこは行き止まりで、すぐに道を引き返す羽目になった。
二人が泉を離れようとした時に、水の中から巨大な亀が現れ、泉の水を飲んだ人間を探すように黄色く光る目を巡らせた。亀が一匹くらいならと、二人はそれぞれに武器を構えて戦おうとした。しかし二人が攻撃しようとすると、亀は固い甲羅の中にすっぽりと入ってしまい、攻撃を全く受け付けなかった。
「相手は亀だろ。逃げちまおうぜ」
埒が明かないと、ヘンリーはさっさと戦うことを止めようとした。リュカもそう考えていたようで、松明の灯りを伸びる道に向けて、進む方向を確認する。
二人は元来た道を一気に駆け出した。泉から出ていた亀の魔物は一目散に逃げて行く人間たちを追いかけようとしたが、亀の歩みでは到底追いつけず、何事もなかったかのようにすごすごと泉の中に戻って行ってしまった。
逃げ出した二人は途中、リュカの持つ松明の火が消え、ほぼ同時に洞窟の壁に激突した。目に見えない壁に思い切りぶつかるよりも、あの亀の魔物とまともに戦った方が良かったかもしれないと、リュカもヘンリーも少しだけ後悔した。
ヘンリーの呪文で再び松明に火をつけ、リュカは洞窟の壁に近づき、印があるかどうか調べた。ナイフで傷つけた×印の代わりに、何か違う模様を見つけ、リュカは松明を手にしたままその壁をまじまじと見つめた。
「これ、何だろう」
松明の小さな灯りが揺れる壁面に、何か落書きのような絵が描かれている。ごく小さなもので、リュカが少し屈まなければ分からないような低い位置に、はっきりと刻まれていた。年月でいくらか風化していたが、その形は今でも十分に伝わるほど明らかなものだった。
「猫だ」
リュカが岩壁にへばりつくようにその絵を見る。ヘンリーもその隣で食い入るようにその絵を見つめた。尖った耳、口には大きな牙、口髭、頭には猫らしくないトサカのような毛があるような猫だ。決して上手くはない絵だが、二人ともそれが猫だということはすぐに分かった。目が点で描かれているため、可愛らしい印象すら出ているが、その目は左を向いているようだった。
「間違いないな、これ」
ヘンリーは確信を持って呟いた。リュカも言われるまでもなく、その小さな猫の絵を見て確信していた。岩壁の絵をそっと手でなぞる。しっかり刻み込まれたその絵は、少々雑に扱おうとも消えることがないよう洞窟の中の道しるべを果たす役目を持っている。
「プックルを描く父さんなんて、想像したこともないや」
リュカの声が少し震えた。屈まなければちゃんと見えないような位置に描かれている猫の絵は、幼い頃のリュカの身長に合わせて描かれたに違いなかった。一人でサンタローズの洞窟に入って探検をしてしまうような子供だったリュカに、当時のパパスは期待していたのかも知れない。もしかしたら勇敢な息子はひょんなことからこの洞窟に入りこみ、父の後を追って来るのではないかと、その時のために息子に道しるべを刻み込んでいた。
「道が分かれているところには、猫が描かれてるのかもな。しかしパパスさんがこんな絵を描くような人だったとは」
「父さんが描く絵なんて見たことないよ。想像したこともなかった」
猫の目は左に行けと言っているようだ。リュカは宝探しをするような浮き上がった気持ちで、次の猫を見つけようと洞窟の壁を丁寧に調べながら進んで行った。
途中、何度か魔物と遭遇しながらも洞窟の道の広さに助けられ、魔物との戦闘はどうにかこなせた。進む先にもう分かれ道はなく、父の描く道しるべもなかったが、進んだ一本道の先には下に降りる道が続いていた。それはちゃんとした階段ではなく、地面の土を階段状に整えただけの粗雑なものだ。
父が仕事場としていた場所が見つからない限り、前に進むべき道があれば進むしかない。リュカはどんどん短くなる棒の松明で辺りを照らしながら、少し急ぎ足で階段を下りて行く。
下りた先には再びどこまで続くか分からない道が伸びていた。地下から水がわき出しているのか、ところどころ池のような広い水たまりがある。リュカたちはうっかりその水たまりに入りこまないよう、オレンジ色に光る水面を目で確認しながら、迂回するように水たまりを避けて進む。何度か草むらに潜む兎の魔物と目が合い、飛びかかられたが、それも反射的な行動であって決して戦いたいから人間に向かってきたものではなかった。リュカが檜の棒で応戦したり、ヘンリーが呪文で火を何度か飛ばすと、兎の魔物は再び草むらに逃げ込んでしまった。二人も無駄な時間を過ごしたくはない一心で、逃げた魔物を追うことなどせずに前に伸びる道をひたすら進んだ。
しばらく一本道が続いた後、再び分かれ道に当たった。リュカもヘンリーも慎重に洞窟の岩壁を調べ始めるが、パパスが残した猫の絵は見当たらなかった。
「おかしいなぁ、どうしてないんだろう」
リュカが独り言のように呟きながら壁伝いに進むと、そこには池どころではない湖のような広い水場が広がっていた。松明を頭上に持ち、光を反射する水面は見渡す限り広がり、決して底の見えることのない広い湖に普通の人間ならば足を踏み入れようとは思わない。当然リュカも、目の前に広がる大きな水場を前にして、そこを突き進もうとは思わなかった。
「そういうわけか。ここはそもそも分かれ道じゃないってことだな」
後ろから顔を出したヘンリーも、分かれ道の先にあった大きな水場を前にして納得するように頷いた。洞窟の中の暗い水は、陽に照らされ色鮮やかな川や海とは違って、得体の知れない生物が潜んでいるような不気味さが漂う。近づき、少しでも水に触れようものなら、暗い水の中から何か見たこともないようなものが出て来て、引きずり込まれるのではないかという恐怖心が生まれる。まるで表面に氷でも張ったかのような静かな水面だが、その静けさに平穏を感じる隙はまったくない。リュカもヘンリーも大きく広がる水場を横目に警戒しながら、前に続く道を早足で進んだ。
しばらく一本道を進むと、今度は上に上る土の階段が見えた。洞窟の中の割には広い道で歩きやすく、二人は横に並びながら姿勢を屈めることもなく普通の感覚で歩いていた。暗い視界にも気付かない内に慣れ、松明の灯りが届く範囲以上に視界は広がっていた。
広い階段を上ると、今度は今までにないほどの狭い道が伸びていた。特に分かれ道はないが、とにかく狭く、天井も低い。二人とも身を屈めながら進み、狭い道にこもる松明の煙をじかに吸い込まないよう、マントの裾や服の袖を口や鼻に当てがった。
「あれ、何だろう、ここ」
狭く続いていた道の先に、突然開けた場所に出た。天井もそれなりに高く、リュカは曲げていた腰をゆっくりと伸ばして、手を上に向けた。土肌の天井は手を伸ばせば届く位置で、普段通り立つ分には問題ない場所だ。
しかし足を一歩踏み出した瞬間、足元がぐにゃりと柔らかく沈むのを感じた。慌てて足を引っ込め、リュカは足元を松明で照らす。どこかから水がしみ出しているのか、目の前の開けた場所の地面は泥でぬかるんでいるようだった。沼地とまではいかないが、歩きづらいところではあった。
「先に道があればここを進みたいなぁ」
リュカは松明の灯りを高く持ち、広場をできる限り照らした。広場をちょうど真っ直ぐ抜けたところに、暗い道が続いているようだった。
「歩きづらいけど、行ってみよう」
「リュカ、急げ」
ヘンリーの切迫した声が後ろから響き、リュカは突然背中を押された。つんのめりなりそうになりながら、何とか体制を立て直したリュカは、背中を押したヘンリーを振り向く。だがヘンリーはすぐにリュカを追い越して、広場の中央まで行ってしまった。
「ヘンリー、一体なに?」
「魔物だ、それもとんでもない数の……」
ヘンリーの声が震えているのが分かった。リュカはつい何秒か前まで自分のいた道を見てみた。どこから湧いて出てきたのか、次から次へと腐った死体が向かって来るのを信じられない思いで見つめた。腐った死体の中には、兵士の格好をした骸骨も混じっている。
「この人たちは、村の人と……ラインハットの兵士?」
リュカの独り言に、ヘンリーは返事をしなかった。洞窟内に耳をつんざくような轟音が響きわたる。一瞬眩しく光った洞窟の中で、魔物と化したかつての人間たちがばたばたと倒れて行くのを、リュカは唖然としながら眺めた。
ヘンリーは続けざまに爆発呪文を唱えようと、再び呪文の詠唱に入る。まるで悪い夢を断ち切りたい一心で、彼はリュカを見ようともせずに魔物に呪文を浴びせようとしていた。我に返ったリュカも、広場を埋め尽くそうとする魔物たちを前に、戦う覚悟を決めた。手にしていた松明をぬかるむ地面に突き刺して立てる。
見える範囲は狭いが、広間一面が腐った死体と骸骨兵で埋め尽くされているのは、嫌でも雰囲気でわかった。運の悪いことに、広間の真ん中で魔物に取り囲まれる状態になった二人は、互いに背を向けながら必死に魔物と対峙するしか手段がなかった。ヘンリーは魔力のある限り爆発呪文を唱え、リュカも大勢の魔物を一度に相手にするために、真空呪文を唱え続ける。目の見える範囲から魔物が消えたと思った直後に、再び暗闇から魔物がうじゃうじゃと現れる。
「一体どれだけ戦えば済むんだ」
先の見えない戦いに、ヘンリーは思わず力のない叫びを上げた。ずっと魔力が持つわけではない。魔力が切れた瞬間、気を失って倒れる可能性が高い。その瞬間に魔物の餌食となり、リュカもヘンリーも目の前の腐った死体と同じ立場になるのが想像できた。
「これじゃキリがないね。どうにかしないと」
大して暑くもないのに、リュカの額から汗が流れ落ちていた。慣れない呪文の連唱で、思った以上に体力が削られていた。
檜の棒を使い魔物を一体二体払ったところで、その攻撃はたかが知れていた。棒に打たれても痛みを感じない腐った死体も骸骨兵も、そのほとんどが何事もなかったようにリュカにすがるような目を向けて向かって来る。
リュカがぬかるむ地面から足を思い切り引き抜いた瞬間、地面全体が大きく揺れた。地面だけではない。まるで洞窟全体が揺れているような地響きが鳴る。立っていられなくなり、リュカもヘンリーもぬかるんだ地面に両手を突っ込んで、四つん這いになって大きな揺れに耐える。
泥の地面に立てていた松明が揺れと共に倒れた。洞窟内を小さく照らしていた火が消え、辺りは真っ暗になる。互いの姿が見えなくなったが、二人ともそんなことにそんなことに構っている余裕はなかった。
真っ暗の中、二人は突然、足元の地面がなくなるのを感じた。唐突に宙に放り出され、胃の底が持ち上がって口から出るような、息の止まる瞬間を同時に感じた。
次の瞬間には、見えない水の中に落ちていた。真っ暗で上も下も分からない水の感覚に溺れかけながらも、偶然に手が触れた土の感触にしがみつくように水から這い出た。泥水を飲んでしまったヘンリーが苦しそうに咳き込むのを聞いて、リュカは一先ず胸を撫で下ろした。
灯りがないながらも、リュカはじっと目を凝らして辺りの様子を窺おうとした。目に見えるものは何もないが、辺りに数体の魔物の気配を感じた。恐らくリュカ達と一緒に上から落ちた魔物たちだろう。慌てふためく様子で水をバシャバシャと叩いているのは、ヘンリーではなく魔物たちのようだ。その数が少ないように感じるのは、落ちてきた魔物の多くが水の中に消えてしまったからなのかも知れない。
暗闇の中、リュカはじっと待った。無暗に動けば、また足元が崩れてどこかに落ちてしまうのではないかと思った。今度も下が水場とは限らない。固い岩の上に落ちて、そのまま旅を終えてしまうのは避けなければならないところだ。
洞窟内に再び灯りが灯った。ごくごく小さな灯りだが、完全な暗闇の中では十分な明るさだった。
「お前さ、頑張ってメラが使えるようになってくれねぇかな」
泥まみれのヘンリーが、疲れ切った顔をして右手を掲げて火を浮かべていた。その灯りに照らされたリュカも、ヘンリーに負けないほどに泥まみれになっていた。
「でも僕には火の呪文が使えないみたいだから、仕方ないよ」
「今度洞窟探索する時は、しっかりした松明を持って来ようぜ。俺、辛いわ」
つい先ほどまで爆発呪文を連発していたヘンリーは、魔力が少ないのを表すように、今にも消えそうなか細い火をつけるだけだ。それも長くは持たないだろう。立ち上がったヘンリーは既にふらついている。リュカはついさっきまで松明としていた棒を探したが、泥に埋もれてしまったのか見当たらなかった。たとえ見つけたところで、ずぶ濡れになってしまった木の棒に火がつくとも思えなかった。
歩けるほどの固い地面にヘンリーを引き上げ、リュカは頼りない灯りに照らされる洞窟内を見渡した。泥や水の中から腐った死体や骸骨兵の手が伸びていたりする。彼らと戦うことも、彼らを助けることもできない有様だ。上を見上げると、あったはずの岩盤がなくなっていた。吸い込まれそうな黒い穴が上に空いているだけだ。リュカ達がいた階の地面が丸々落ちてしまったようだ。至るところに土砂が堆積している。
リュカの目の前に、堆積した土砂の向こう側に道が続いているのが見えた。ただの黒い穴にしか見えない道だが、先に道が続いている証拠に、一筋の風が小さな音を立てて流れるのを聞いた。
「こっちだ、ヘンリー」
リュカがそう言った瞬間、洞窟内が再び真っ暗になった。視界をなくしたリュカが瞬間よろめいたが、その身体を後ろから支えるようにヘンリーが両手を伸ばした。
「無茶でも真っ暗なまま進むぞ。俺はもう限界だ」
「多分、大丈夫。なんとなく目が覚えてるから」
リュカはヘンリーがマントを掴むのを後ろに感じながら、洞窟の壁に手をついて進み始めた。後ろから魔物の気配を感じつつも、進む先からは何故か魔物の気配を感じなかった。洞窟内に微かに吹く風が、どこか温かい。
堆積していた土砂を踏み越えて進んだ先の道は、両手を広げれば両方の壁に手がつくほど狭い道だった。天井も低く、少し屈んで行かなければならないほどだ。幸い分かれ道はなく、リュカは両手を壁につきながら、ひたすら真っ直ぐの道を進んだ。
風の音を聞いたのは、更に下に続く階段からだった。耳を澄まさなければ到底聞こえないほどの微かな音だが、他に何の音もしない洞窟の中ではその音がしっかりと聞き取れる。階段の形を一段一段確かめながら、リュカは更に地下の洞窟を進んで行く。その途中もリュカは壁に手を突きながら歩いていたが、ふと右手が洞窟の壁とは違う何かに触れた。岩壁でも土でもない、人工的な形をしたものに、リュカは用心しつつもその人工的な作り物をしっかりとつかんだ。手で掴むような金具があり、リュカはそれをぶら下げるように持つと、顔を近づけた。
「油の臭いがする」
リュカが実際に嗅いだ臭いは油ではなく、蝋だった。かつてこの洞窟で使われていた古いランプで、十年以上前に使われたきり誰の手に触れることもなかった割には、まだランプとしての形をしっかりと留めていた。
暗闇に何かを手にしたリュカの近くで、小さく火が灯る。ぐったりした様子で指先に小さな火を点けたヘンリーは、リュカが手にするランプを見るなり急いでその芯に火を移した。しぶとく何度か挑戦する内に、凝り固まっていた蝋が溶け出し、ようやくランプに火が灯った。
「助かった。もう真っ暗なのはゴメンだ」
「父さんが使ってたんだろうね、このランプ」
リュカは今にも消えそうな小さな火を見つめながら、かつての父がこの洞窟を歩いていたところを想像した。サンタローズの村にいる時には、仕事と言って何度も家を空けていた。一体この奥で父は何をしていたのか、リュカの期待と不安とが一層強まる。
ランプに照らされる範囲はごく狭い。しかし真っ暗な洞窟の中を進むのに比べたら、進む速さは倍以上になった。でこぼことしている土の地面の様子が分かるだけで、歩くには困らない。上の階のように水にぬかるむようなところもなく、大して歩きづらくもないでこぼこした道が前に伸びている。
途中まで道は一本道だった。しかし少し進んだ先に、期待通りの分かれ道があった。リュカはランプを掲げ辺りの景色に目を凝らす。ヘンリーも同じように目を細めながらぐるりと見渡した。
「こっちはまた池だ。行き止まりってことでいいな」
ヘンリーが指差す方向にはまたどこまで続くか分からないほどの大きな水場が広がっていた。たとえその先に道が合ったとしても、かつてこの場所を行き来していた父がその先の道を行っていたとは考えられない。リュカはヘンリーの考えに同意しながら、反対側の道に向かってランプを掲げる。二人がジャンプしても到底届かないほどの高く広い洞穴が、ずっと続いているようだ。
「ヘンリー、こっちだよ、間違いない」
静かに独り言のように言うリュカに、ヘンリーが振り向く。リュカが灯りを向ける方向に、上の階で見たような人工的な大きな石柱が立っていた。洞窟の中には似つかわしくない巨大な石の柱は、道を作るように両脇にずらりと並び、灯りの届かないずっと先まで真っ直ぐ続いているようだった。
「一体何だったんだ、ここは」
「昔、誰かが使ってたのは間違いないね。それも神聖な場所として」
歩き始める二人の前には、途中、倒れた石柱が道を塞いでいるところもあった。昔から存在するであろうこの洞窟で、忘れ去られた立派な石柱は年月の風化と共に古びて、何かの拍子に崩れたり倒れたりしてしまっている。洞窟内の道は自然のものではなく、規則正しく四方向に伸びていた。倒れて道を塞ぐ石柱を避けるには道を迂回する必要があったが、両脇に石柱が並ぶこの広い道から逸れたくはなかった。押してもびくともしない石柱を、リュカはヘンリーとどうにかして乗り越え、更に奥へと進む。
ひたすら進んだ先で道は突き当たり、左右二方向に分かれていた。二人は手分けして洞窟の壁や地面に手がかりがないか探したが、猫の絵などの印は何も見つからなかった。
「おかしいなぁ。ここには何も残してないのかな」
「ここまで来たら、あとは勘で行けってか。パパスさんもなかなか厳しいな」
腕組みをしていたヘンリーが、手を左頬に押しつけながら言う。リュカは尚も壁に張り付くようにして手がかりを探したが、昔この場所を使っていた人々の生活の跡も、後ろに並ぶ石柱以外には何も見当たらない。
「とりあえずこっちに行ってみよう」
「何か見つかったのか」
「ううん、何にもないよ。勘ってヤツ」
「まあ進まないことにはどうしようもないからな。行ってみるか」
魔法力も底を尽きかけているヘンリーはリュカに異を唱えることもなく、素直に従う態度を示す。考えても何も分からないと、リュカはただ二つ続く道の一方を適当に選び、魔物の気配の薄れていく洞窟内を歩いて行った。
右側の道に進み始めた二人は、石柱も何もなくなったただの洞窟の道に、徐々に不安を増していく。相変わらず道は広いが、歩く地面もさほど平らな場所ではなくなり、ところどころ大きな石が頭を出して、二人の足を引っ掛けようとする。小さなランプ一つの灯りでは、十分に足元を照らすこともできず、二人とも何度か石に足を取られ、よろけていた。
回り込むようなカーブした道に、まるで元の道に戻ったような感覚になりかけた頃、道が唐突に広くなった。まるで多くの人々の足で踏み慣らされたような平らな地面の広場は、この洞窟内ではそれだけで特別の場所のように思えた。
「父さんはこの場所で何かをしていたのかな」
「何かあるか、探してみようぜ」
ヘンリーもリュカと同じように、この場所が特別な場所だと感じたようだ。二人はまだ先に続いている道に進むのは止め、広場の中をゆっくりと歩き回り始めた。壁も出っ張ったり引っ込んだりしている場所はなく、きれいに平らに削られている。リュカは左手を壁に当てながらゆっくり進んでいたが、平らな壁には目印らしい傷はなく、知らず高まっていた期待がみるみるしぼんで行くのを感じた。
左手の壁が、途中で途切れた。広場は四角いものだと思い込んでいたリュカは、宙に彷徨った左手の置き場所を失うと同時に、左側に現れた暗い道にランプを向けた。ランプの火が微かな風に震え、リュカの前髪も仄かに温かな風を感じた。
「階段だ」
ランプの灯りが届くか届かないかくらいの場所に、下に降りる階段があった。この特別な広場から更に下に降りる階段を見て、仄かに温かい風を感じて、リュカは確信した。だが思いの外、気持ちは落ち着いていた。リュカがしっかりとした足取りで左手の道に進む後を、ヘンリーは無言でついて行った。
石造りのしっかりとした階段だった。長年の年月を経て風化はしているものの、大きく崩れた様子もない。ここには魔物も入り込まないのかもしれないと、リュカは何故か誇らしい気持ちで階段を下って行った。
階段の一番下の段を踏んだ瞬間、洞窟内に突然灯りが灯った。真っ暗な洞窟を歩いてきた二人には眩しいほどの、強い明かりだった。リュカもヘンリーも何度か目を瞬いて、何が起きたのかと辺りを見渡した。
強い明かりと思っていたのは、大きな燭台に灯る火だった。それがこの洞窟内に二つ置かれている。リュカが踏んだ最後の階段が燭台に火を点けるためのスイッチになっていたようだ。
二つの燭台に照らされた洞窟内で、まず二人が感じたのは木の匂いだった。この洞窟に入ってからは一度も感じたことのないその匂いに、二人ともこの場所に特別なものを既に感じていた。
木の匂いの正体は、洞窟のほぼ中央に置かれた机と椅子、それに隅に置かれた二つの本棚だった。足元に不安のない明るい洞窟の中を、リュカは手にしていたランプの火が消えたことにも気付かないまま歩きだした。机の上にランプを置き、その机の上に置かれたままになっている本に目を落とす。古い文献が三冊ほど、無造作に机の上に置かれていた。どれもが昔の伝承に関するものだ。
「父さん、何を調べてたんだろう」
パラパラとページをめくってみたが、古い言葉で書かれた文献はリュカにもヘンリーにもさほど読めなかった。本棚に並んでいる本もほとんどがその類のものであり、たまに違う本が並べられていても、それは武器の扱い方についてや、このサンタローズ周辺に棲息する魔物の種類など、父が残そうとしていたものとは違うもののように思えた。
本棚が置かれている向かいには大きな水場があった。どこかから水が湧き出ているようで、近づいて見下ろして見ると、水は透き通っているように見えた。その水場伝いに、右手にはちょっとした段差があり、部屋が続いているようだ。
燭台の灯りは、部屋の奥にまで届いている。リュカは洞窟の奥深くに、火の光に照らされて、何か輝くものを見た。
滑らかな段差を上り、洞窟の奥にまで来ると、輝きを放った正体が土の地面に突き刺さっていた。
「すごい、何だろうこの剣……剣だよね、これ」
「多分な、とてもそうは見えないけど。何かの装飾品かもしれないぜ」
ヘンリーが言うように、それほど見事な装飾を施された剣だった。パパスがいなくなってからずっとこの場所でこの状態で保管されていたに違いない。しかし年月など微塵も感じさせないほど、光り輝いていた。燭台の火がようやく届くくらいの場所にあるというのに、剣の存在感たるや、この真っ暗な洞窟の中の燭台の火を凌ぐほどだ。
リュカは剣の柄を掴もうと、手を伸ばした。無暗に剣に触れたら、何か良からぬことが起きるのではと本能が感じたが、何事も起こらず柄に手を触れた。
「何かがくっついてる」
掴みにくい柄に眉をひそめたリュカは、その柄に何やら筒状のものが巻きつけられているのを見た。燭台に灯る橙色の淡い明かりに、リュカが身につけるマントと同じ色に照らされている。巻きつけられている厚手の布を丁寧に外し、リュカは小さな筒を手にとってまじまじと見つめた。筒の蓋のところに、あまり上手ではない字で書かれた文字は、自分の名前だった。
『リュカへ』
リュカは小さく息を呑んだ。かじかんでもいない手が震える。筒の中に詰められた父の過去の思いを見ようと、リュカは様々な気持ちが交錯したまま、その封を開けた。
蓋を開け、中から丸められた二枚の紙を取り出す。筒の中で長い年月を過ごした手紙は、まるでタイムスリップをしたように真新しいまま残されていた。父が書いた文字は、立派な戦士の武骨な手から生み出されたとは思えないほど、流麗なものだった。

リュカよ
お前がこの手紙を読んでいるということは
何らかの理由で私はもうお前のそばにいないのだろう
すでに知っているかもしれんが
私は邪悪な手にさらわれた妻のマーサを助けるため旅をしている
私の妻、お前の母にはとても不思議な力があった
私にはよく分からぬが、その能力は魔界にも通じるものらしい
多分、妻はその能力ゆえに魔界へ連れ去られたのであろう

一枚目の手紙に書かれた父の文字を、リュカは何度も初めから読み返した。隣にいるヘンリーも、ただ静かに手紙の文字に目を落としている。
「父さんは、どんな気持ちでこれを書いてたんだろう」
リュカがぽつりと言った言葉に、ヘンリーは何も答えられない。この洞窟の奥深くで、一人で、書いた手紙をここに残したパパスの気持ちは、もしかしたらパパス自身も明確には答えられなかったかもしれない。
「それにしてもお前の親父さんがこんな手紙を残してたなんて……ひょっとしたら遠からず自分に何かが起こるような予感があったのかも知れないな」
父と共に世界を旅していたリュカは、父がどれほどの覚悟で幼い息子を連れ、旅をしていたか、今でも分からないのが本当のところだった。父は強く、勇敢で、サンタローズの村人たちからも一様に尊敬されるような、誇れる人だった。そんな父が魔物との戦いに敗れ、この世からいなくなってしまうことなど、旅をしている最中は頭の中に過ることもなかった。
そんな楽観的な子供のリュカの考えとは対称的に、パパスは常に覚悟を決めていた。村や町を出る時には必ず教会に立ち寄っていた父は、毎回その場所で覚悟を決め、神にひっそりと告げていたのかもしれない。
「それだけ危険と隣り合わせの旅をしてたってことか……」
「僕は本当に、なんにも知らなかったんだな」
「お前はまだ子供だったんだ。知らないで当然だろ」
「少しは教えてくれても良かったのに。子供だからって、何にも教えてくれないなんてひどいよ」
「最期に教えてくれたじゃねぇか」
ヘンリーに言われ、リュカは最期の父の言葉を思い出した。『母は生きている』というその言葉だけで、リュカは今旅をしているのだ。
「今だってこの手紙で教えてくれてる。親父さん、お前のことを心の底から信頼してるんだよ。そうじゃなきゃ、こんなもの残さないと思うぜ」
隣で呟かれたヘンリーの言葉は、リュカにとっては新鮮なものだった。リュカの中ではずっと、父に信頼されていない、頼りない子供に過ぎない、という劣等感にも似た思いがくすぶっていた。何も知らなかった、知らされていなかった自分は、いかに父に守られていたかを思い知らされる。
しかし父は息子の成長をしっかりと目にしていた。日々、心身ともに大きくなっていく我が子に、パパスは真剣な思いを込めてこの手紙をしたためたに違いなかった。まだわずか六歳だった息子をこれだけ信頼し、自分の夢さえ託そうとしている父親は、世界中を探してもそうはいない。
「二枚目の手紙があるんだろ」
ヘンリーが指差すのに合わせて、リュカは少し心の中に温もりを感じながら、手紙の続きを読んで行く。

リュカよ、伝説の勇者をさがすのだ
私の調べたかぎり、魔界に入り、邪悪な手から妻を取り戻せるのは……
天空の武器と防具を身につけた勇者だけなのだ
私は世界中を旅して天空の剣を見つけることができた
しかしいまだ伝説の勇者は見つからぬ……

リュカよ、残りの防具を探し出し、勇者を見つけ
そして我がマーサを助け出すのだ
私はお前を信じている
頼んだぞ、リュカ

手紙を最後まで読み終えても、リュカは二枚目の手紙に目を落したまま動けなかった。幼い頃に見ていた父の姿と同じとは思えない父を、手紙の中に見た気がした。母を捜していたという父の遺言は、子供の頃のリュカにもすんなり受け入れられるものだった。しかし、父は母を捜すために、いるかどうかも分からない伝説の勇者を捜していたと言う。
ただでさえ終わりの見えない旅だが、伝説の勇者を捜すなど、果たして終わりのある旅なのかどうかすら怪しいものに思えた。そんな旅を、共に歩く幼い息子には何も知らせないまま、一人抱え込み、パパスは続けていた。
「何やら大変な話しになってきたな。伝説の勇者か」
隣で呟くヘンリーは、目の前で輝く見事な剣に目を向けていた。パパスの手紙の中にあった、『天空の剣』だ。竜の形を模した豪快な柄に手を伸ばして見せたヘンリーだったが、その手は空中で止まり、剣を手に取ることはなかった。
「魔界に天空の剣に伝説の勇者、か。とりあえずこいつは持って行くんだろ? リュカ、お前持ってみろよ」
何かを期待するような目でヘンリーに見られると、リュカは父の手紙を丁寧に筒の中に入れ、懐にしまった。そして天空の剣の柄に右手をかけ、地面に突き立てられた剣を引き抜こうとした。剣は鉛のように重い。リュカは両手で剣の柄をしっかりと掴み直し、両足を踏ん張り、力いっぱい天空の剣を引き出した。あまりの剣の重みに身体がよろけそうになるが、どうにかこの美しい剣を手にすることができた。
「この剣、とんでもなく重い。誰がこんな剣を装備できるんだろう」
初めは剣自体が重いのだと思っていたリュカだが、次第に剣を持つ手に力が入らなくなり、リュカの身体が鉛のように重くなってしまった。まるで背中に大きな岩を背負わされたような感覚で、天空の剣で魔物と戦うことなど、到底考えられなかった。
顔をしかめ、必死に天空の剣と戦っているようなリュカの姿を見て、ヘンリーは小さく溜め息をついた。
「もしかしたら、ひょっとしたらお前なら、って思ったんだけどな。無理だったか」
「どういうこと?」
「その剣は伝説の勇者にしか装備できないんだろうよ。そうじゃなきゃ、パパスさんが使っててもおかしくないだろ。手紙に書いてあった伝説の防具ってのも、その勇者にしか身につけられないんだろうな、きっと」
ヘンリーの言葉に、リュカは素直に納得した。大きさは普通の剣よりも若干大振りではあるものの、リュカに装備できないような大剣ではない。それがどういうわけか、普通に持ち上げられないほどの重みを感じ、おまけに身体まで鉛のように重く感じてしまうこの剣が特別なものであるのは疑いようもない。
伝説の勇者にしか身につけられない武器が今、リュカたちの目の前に存在している。それは伝説の勇者がこの世に存在しているに等しい意味にも取れた。パパスも同じように考えていたのだろう。この剣を見つけた瞬間から、伝説の勇者は存在すると信じ、妻マーサを救うことを諦めずに旅を続けていた。もし伝説の武器や防具を見つけられないまま最期の時を迎えていたら、果たして息子に自分の夢を託しただろうか、とリュカは過去の父の様々な覚悟を思い知らされた。
「父さんにも装備できないものだったんだ。きっと、悔しかっただろうね」
もし自分に装備できればどんなに嬉しかっただろうと、リュカは今の自分の思いに父の思いを重ねた。
「僕も……悔しい」
父の願いを果たすため、リュカは自分の力で母を捜すのだとばかり考えていた。自分の力で母を救い出せれば、それで初めて父に認めてもらえるのだと、リュカはこの時になって自分の本心に気付いた。
しかし母を救い出すには、伝説の勇者なんて見ず知らずの他人に頼まなければならない。結局は誰かの手を借りなければ自分には何も成し遂げられないのだと、天空の剣という伝説の武器を手にしながらリュカは途方もない無力感を覚えた。
「でもお前にはその剣を持つことができたんだな」
ヘンリーの独り言のような小さな声に、リュカはゆっくりと顔を上げた。ヘンリーと目が合うと、彼が力なく笑うのを見た。
「俺には触ることもできねぇよ。とんでもない力を感じて、触れようとしても弾かれる感じがしたんだ」
ヘンリーのその感覚は、リュカにはないものだった。剣に触れて、柄を掴み、両手で持ち上げることには何の違和感も感じなかった。ただ武器として扱う心持ちになると、途端に剣がとてつもない重さになり、剣がリュカを拒んでいるのは嫌でも分かった。ついさきほども、剣を構えるべく持ち上げようとした瞬間、剣だけではなく身体全体が感じたこともない重力を感じ、動けなくなってしまった。
「俺よりもきっと、お前の方が伝説の勇者に近いんじゃねえかな」
「でも僕は勇者じゃないんだよ」
「お前じゃなくても、お前が探し続ければきっと見つかる。親父さんだってそう思って、お前に願いを託したんだ。きっとな」
そんな友の言葉に、リュカは初心に帰る思いだった。自分が旅をしている理由は、父の願いを叶えるためだ。単純で、間違えようのない理由だ。父の願いは母を救うこと。母を救うには伝説の勇者を探し、伝説の武器と防具を揃えること。パパスは死んでもなお、リュカに生きるための目的を残し、そしてそれを諦めないことを信じていた。
リュカは天空の剣を再び持ち上げようとした。しかしこの剣を、『剣』という武器と考えている限り、リュカの手には負えないただの鉛の塊になってしまう。
「この剣は……これは、父さんの願いだ」
口に出してそう言い、リュカは美しい装飾を纏った輝く金属を持ち上げた。持ち手に見事な竜の装飾が施された金属は、リュカの普通の力で難なく持ち上げられた。輝く金属の刃に、自分の顔が映り込む。リュカはほとんど無表情のつもりだったが、刃に映る自分の顔は少し笑っているように見えた。
「村に戻ろう。ここにはもう、何もないと思う」
「もう少し何かあるか、探さなくていいのか」
「うん、これだけで十分だよ。父さんはちゃんと僕に残してくれた、色々ね」
思っていたよりも明るいリュカの声に、ヘンリーは意外そうな顔をしたが、次の瞬間には思い出したように疲れ切った表情に戻ってしまっていた。
「ちょっとここで休んでいかねぇか。俺、結構疲れたんだけど」
言いながら地面に腰を下ろしたヘンリーを見て、リュカは得意気な笑みを浮かべる。不気味にも見えるリュカの自信ある表情に、ヘンリーは疑るような視線で見上げた。
「こういう時のために、一つ便利な呪文を覚えたんだ」
「お前、脱出呪文を覚えたのか」
「あれ、ヘンリーも知ってるの? なんだぁ」
「知ってるけど、俺には無理だったんだ。だってよ、あれって今まで歩いてきた道を全部覚えてなきゃいけないんだろ」
「全部って言うか、イメージが大事らしいよ。僕も使うのは初めてなんだけどさ、今なら上手く行きそうな気がするんだ」
リュカにしては珍しく自信ある様子でそう言い切った。普段ならそんなリュカの様子に疑問の視線を投げかけかねないヘンリーだが、天空の剣を持つリュカを見ていると、無条件に信頼できるような気がした。そして何よりも、早く村に戻って身体を休めたかった。
「信頼してるぞ、子分」
「任せてよ、親分」
リュカは右手に天空の剣を提げ、もう片方の手でヘンリーの手首を掴んだ。一体どのようにこの洞窟を脱出するのか想像もつかないヘンリーは、何が起こるか分からない不安と、リュカへ大した根拠のない信頼との狭間で、両足を中途半端に踏ん張っていた。リュカは魔法書で読んだ呪文の文句を間違えないよう、ゆっくりと詠唱する。
詠唱が終わると、二人の身体はぼんやりとした光に包まれた。そして身体が地面から少しだけ浮き上がると、途端に頭が何か強い力で引っ張られるのを感じた。真っ暗な洞窟の中を、二人の身体が飛びすさぶ。ぼんやりとした光に包まれているとは言え、すさまじいスピードで移動する二人は共に息もできないほどの風を浴びていた。
そして頭上から差し込む陽の光を感じる暇もなく、リュカとヘンリーはいつの間にか互いにしがみつくように抱き合ったまま、洞窟の出口からぽいっと吐き出された。

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