2017/12/03
海辺の修道院の役目
「ちょうどお昼の時間になりましたので、私たちの昼食と同じものをお持ちしましたよ」
「すっかり寝ちゃったなぁ」
「まだ眠いけど、ゆっくりもしてられないな」
「お二人とも、子供のようにぐっすり眠っておられるから、起こすのも戸惑いましたが……」
「起こしてくれなかったら明日の朝まで寝てそうだから、起こしてくれて助かったよ。ありがとうマリアさん」
修道院の客室で眠っていたリュカとヘンリーは、ベッドの上に起き上がると、まだ開ききらない目をこじ開けて室内のテーブルに移った。ふらふらする二人を心配そうに見るマリアだが、テーブルの上に乗る食事に鼻をひくつかせると、すぐさま食事を始めた二人に、今度は安心したような笑みをこぼした。
海側に開かれた窓から、夏の日差しを受ける海の景色が広がる。穏やかな波が繰り返し音を立て、窓から入る潮風はほんのり涼しく感じられる。修道院近くで採れたのだろうか、デザートに出てきた甘みのあるオレンジを、心地よい波音を聞きながら食べるのは、昨日まで死ぬ思いで砂漠と山道を進んできた二人にとっては至福の瞬間だった。
早々に食事を終えると、再びすぐさま睡魔が襲って来た。しかしラインハットの現状を思い起こし、寝ていられる状況ではないと、リュカもヘンリーも顔を叩いたり、手をつねったりしながらどうにか目を開けた。
「お疲れのようだから、まだ眠っていらしたらいいのに」
「いや、ちょっと急がなきゃいけないんだ。マリアちゃん、ここから南の塔まではどれくらいの距離があるか、知ってるか?」
「ごめんなさい、私にもよく分かりません。けど、副修道院長様にお話を聞いたり、修道院の本を調べれば多分分かるんじゃないかと思います」
「ずっと昔から塔の管理をしてきたはずだから、塔について詳しく書かれた本があるに違いないよ」
「ただ、今は勉強部屋は講義に使われているので、入ることができません。夕方には部屋が空くのでその時にお調べになるのがいいと思いますよ」
マリアにそう言われ、リュカとヘンリーはマリアの修道女としての時間を借りていることに気付いた。本来であれば今、マリアもこの修道院の修道女として講義を受けているはずなのだ。
「悪い悪い、マリアちゃん、君も講義に戻ってきていいよ」
「いいえ、私は違う時間の講義を受けますので大丈夫です。それよりもお二人のお役に立ちたいんです」
南の塔まで同行すると決めたマリアは、リュカとヘンリーのためならと、既に懸命な態度を見せていた。そんな肩に力の入ったマリアを見て、リュカはテーブルに肘をつきながら笑いかける。
「マリアさん、今からそんなに気合い入れちゃうとすぐに疲れるよ。しばらくはここを出られないから、今はまだそんなに頑張らないで」
「ここを出られないって、どういうことですか」
拍子抜けするような顔をしてリュカを見るマリアに、リュカは木のコップに残った水を飲んでから答える。
「とうてい歩いてはいけないんだ。南には砂漠があるからね。だから僕たち、置いてきた馬車と仲間をここに呼ばなきゃならなくて」
「まあ、他にもお仲間がいらっしゃるんですか。それに馬車だなんて」
「ここからどうやって連れてくるか、だな。俺たちがここにいることも、あいつらは知らないままだからな」
ラインハットに置いてきた馬車とパトリシア、スラりんにピエールを連れて来なければ、南の砂漠をもう一度越えることを二人とも考えられなかった。たとえ水と食料を準備して歩きで進んだとしても、砂漠を越えること自体が目的ではない。砂漠の先にどのような道のりが続いているのか、再び砂漠が広がろうものなら、手持ちの水と食料では足りなくなるだろう。いずれにせよ、荷物を運ぶための馬などの動物が必要にはなる。
「あっちへ行くまでに、歩いて一週間くらいかかるな。それから戻ってきてとなると、修道院を出るのは二週間後くらいになるか」
「オラクルベリーで馬を借りられないかな。あのおじさんのところにパトリシアみたいな馬がいたりとか」
「そうそうあんないい馬がいるかよ。でも馬を借りられたら早く済みそうだな」
「北にある大きな町ですね。この修道院にも月に一度、行商人の方が見えるんですよ。その方も馬で荷物を運んでいらっしゃるから、きっと馬を扱うお店もあるんでしょうね」
三人であれこれと話をしている時、少し開けられたままの扉が軽くノックされた。女しかいない海辺の修道院では、基本的に男性の立ち入りを禁じている。生死を彷徨うような状態で発見されたリュカとヘンリーは図らずもここの修道女たちに助けられ、しばらくの間介抱を受けた経緯こそあれ、彼らが男性である以上、女性しかいない修道院では特別な気遣いが必要だった。女性が同室にいる間、部屋の扉を開けておくことも気遣いの一つだった。
開かれた扉から顔を覗かせたのは、副修道院長だった。自然と厳しい顔つきの彼女の姿を見て、リュカもヘンリーも思わず背筋を伸ばす。
「お食事は終わりましたか」
すっかり話を始めていた三人は、まだテーブルに残されたままの木製の食器を慌てて重ねた。舐めたように綺麗な皿を見て、副修道院長はふと笑みをこぼす。
「年頃の男性には十分とはいかない量だったでしょう」
そう言いながら副修道院長は静かに部屋の中へと入ってきた。空いた席に腰を下ろし、リュカとヘンリーを交互に見つめる。
「それで、南の塔へはいつ往かれるのですか。旅の準備にあたっては私もお手伝いしますので」
「南には砂漠が広がっているので、まずは馬車を取りに戻らないといけないんです。そこまで戻るのに、歩いて行ったらかなり時間がかかってしまうので、何か手段はないかと思って」
「オラクルベリーに馬を扱う店はあるのか? もしあればそこで馬を一頭買って、それを足に戻ろうと思うんだが」
「馬を買う? あなたたち、そんな大金を持っているのですか?」
二人の青年の姿を見れば、副修道院長がそう疑うのも無理はない。二人の姿はこの海辺の修道院を出た時とはまるで変わり、服やマントは擦り切れ、どこの泥土にまみれたか、ところどころ乾いた土が張り付いて今も床の上に土埃を落としている。彼らのどこを見ても、金に困らないような旅をしているようには到底見えない。
「何やら悪いことをして馬を得ようとするのなら、私はそれを止めなくてはなりませんよ」
「そんなことしません。大丈夫です、お金じゃないけど、石みたいなのを持ってます」
「石、ですか?」
「はい。ええと、ヘンリーが持ってるよね、あの石」
「これだろ」
ヘンリーが懐から出し、テーブルに乗せた美しいブローチを、副修道院長とマリアがしげしげと見つめた。窓からの陽光を受け、七色に光るブローチから目が離せなくなった二人は、思わず同時に溜め息をついた。
「キレイですね。私、こんなにキレイなものを生まれて初めて目にしました」
「……そんなもんか?」
ブローチの煌めきに見入るマリアの横顔を、ヘンリーは思わずじっと見つめた。
「相当に高価なものなのでしょう? 一体どうやって手に入れたのですか? まさか、盗みを働いたわけではありませんよね」
訝しげな目つきを向けてくる副修道院長に、リュカは驚いたように目を見開く。
「まさか、そんなこと僕たちしませんよ。これは……」
「旅先で会った富豪をちょっとばかり助けてやったんだよ。魔物に囲まれてるところを馬車で拾って助けてやったってわけだ」
まさかこの場でヘンリーがラインハット王国の第一王子だったなどということを話すわけにもいかない。たとえ話したところで、既に疑心を抱いている副修道院長を信じさせるのは難しいだろう。
唐突なヘンリーの嘘に、リュカも何とか調子を合わせる。
「そうなんです。だから僕たち、決して悪いことなんかしてません」
「そうですか。まあ、あなた達の言うことですから信じましょう」
副修道院長はまだ訝しげな表情を崩さないが、それでもテーブルの上に置かれる煌めくブローチに目を向けると、美しい宝石の魔力に魅入られるようにうっとりとそれを見つめる。
「私に宝石の価値は分かりませんが、恐らくこの宝石と馬を交換したい商人は多くいるでしょうね。オラクルベリーの町に行けば、馬を扱う店もあるはずです」
「オラクル屋で売ってくれるといいんだけど」
「あの店はたまたまパトリシアを売ってただけだろ。あれだけデカイ町だ、他にも馬を扱うところはあるさ」
「明日にでも早速行ってみようか」
「そうだな、ゆっくりもしていられない。さっさと行って戻ってくるか」
「ではお二人がお帰りになるまで、私が南の塔のことについて調べておきますね。二週間ほどでお戻りになれるんでしたっけ」
リュカとヘンリーはオラクルベリーの町からラインハットまでの道のりを思い浮かべ、凡その見当をつける。明日の朝早くに修道院を出れば、その日にはオラクルベリーに着く。オラクルベリーからラインハットまでは徒歩で一週間は見なければらない。そこを早馬で駆けたとしたら、時間は半分、若しくは三分の一くらいには縮められるだろう。ラインハットに早馬を置いて、馬車を連れて戻ってくるとなると、十日くらいは見なければならないだろう。
「十日、いや、二週間経って戻ってこなかったら、南の塔への話はなかったことにしていいよ」
リュカの一言に、マリアは眉をひそめた。笑顔で話すリュカだが、話の内容がそんな和やかな雰囲気のものではないことを、マリアは嫌でも感じ取った。二週間で戻らない時、それは彼らが旅の途中で命を落とした場合のことを言っているのだ。
「あの、私も一緒に行ってはいけませんか」
「それは私が許しません」
マリアの言葉の直後、副修道院長がまるで彼女の言葉を予想していたかのように否定する。彼女もマリアと同じように、リュカの旅に対する覚悟を感じ取っているのだろう。決して死ぬわけにはいかない、しかしいつ死ぬとも分からない旅の途中に彼らはいる。
「マリア、あなたに与えられた使命は南の塔の封印を解くことです。北の町に向かうことはあなたがすべきことではありません」
「でも……」
「マリアちゃん、大丈夫だよ。一度行った道をまたちょっと行くだけなんだから。君がいい子にして待っててくれれば、すぐに戻ってくる」
彼女の不安げな表情を和らげようと、ヘンリーは子供をあやすようにマリアの頭を軽くぽんぽんと叩きながらそう言った。しかしマリアはそんな彼の行動に安心を得るどころか、むしろ半ば怒ったような固い顔つきになる。
「ヘンリーさん、私は子供ではありません」
「え?」
「南の塔までご一緒させていただく、旅の仲間です。魔物と戦うことはできなくても、一人の大人として見て下さい。それに、その『マリアちゃん』と呼んでいただくのもまるで子供扱いされているようで……。これからは『マリア』とお呼びください」
まさかマリアのような娘からこれほど怒気をはらんだ言葉を聞かせられるとは考えもせず、ヘンリーはもとよりリュカすらも無意識に椅子の上で背筋を伸ばしていた。一体何が悪かったのかと、彼女の怒りの基になる心情には思い至らずにいるヘンリーの隣で、リュカはマリアが何故俯いて口を引き結んでいるのかが分かった気がした。
「そうだよね、一緒に危険な旅に出てくれるんだ。僕たち、必死でマリアを守るけど、マリアも必死についてきてね」
「はい、リュカさん。あなた達の足手まといにはならないように頑張ります」
一転してリュカに笑顔を見せるマリアに、ヘンリーはいかにも面白くなさそうな目を向ける。
「……何だか良く分からないけど、とりあえずちょっとの間待っててくれ、マリアちゃ……いや、マリア」
「本当は一緒に北の町へも行きたいのですが、あなた方の無事を祈りながらここで待つことにします。どうか、どうかご無事で」
真剣な顔つきで言うマリアの一言の直後、教会の鐘が響き渡った。どうやら午後の講義の時間が終わったようだ。院内に修道女たちの声が小さなさざめきのように聞こえてくる。
「これから午後のお勤めの時間です。その間は講義室を自由に使えますから、もし調べ物をなさるのならお使いください」
副修道院長はリュカとヘンリーにそう言い残すと、二人が舐めたように片づけた木製の食器を重ねて手に持った。マリアも慌てて残りの食器を手にして、副修道院長の後について部屋を出て行こうとする。しかし思い出したように部屋の中を振り向き、修道女そのものの笑顔でリュカたちに言った。
「オラクルベリーの町までに必要なものはこちらで用意します。もちろん、水も食料も」
「良かった。こっちからお願いしようと思ってたんだけど、頼むのも悪いかなって」
「今朝のあのひどい状態を見たら、お二人に何もせずにそのまま旅に出すことなんてできません。よろしければ服も洗ったり繕ったりしますので仰ってくださいね。その間の着替えも用意しますから」
それだけ言うと、マリアは先に行った副修道院長の後に小走りで続いた。途中で転ぶんじゃないかと本能的に疑ったリュカとヘンリーだったが、どうやらマリアは無事に階段を下りていったようだ。
「さて、色々と調べてくるかな。昔っから南の塔の管理をしてる修道院なんだから、それこそ情報の宝庫だろ」
「これから半日じゃ大したことも調べられないだろうから、後は僕たちが馬車を取りに戻ってる間に、マリアに任せることにしようよ」
「お前はすぐにそうやって、面倒なことから逃げようとするよな」
「そういうわけじゃないけど、マリアだってやるべきことが欲しいだろうなって思って」
「彼女はこの修道院で修道女としての勤めがあるだろ。俺らはそれを一時的に邪魔してるんだぞ。そういうこと、自覚しろよな」
「そうなのかな」
「どういうことだよ」
「今はこの修道院で修道女としているけど、それがマリアの本当の生き方なのかなって。人の生き方なんて、そんな風に決められるものなのかな」
まるで今のマリアの修道女としての生活を根底から覆すようなリュカの言葉に、ヘンリーは反論の言葉を詰まらせた。
この海辺の修道院に流れ着くまで、彼らは奴隷だった。その前は、リュカは父と目的も分からないままの旅をし、ヘンリーはラインハットで王子として日々を過ごしていた。マリアに至っては、奴隷の身分となる前は何をしていたのか彼らも知らない。兄のヨシュアと二人で、細々ながら日々生活をしていたのかもしれない。
人の人生は何がきっかけで変化するのか分からない、そのことは彼らが身を以ってよく知っていることだ。奴隷の身分からからくも逃れ、今彼らはラインハットの国を救うべく、封印された南の塔に向かおうとしている。リュカには父パパスの遺言でもある母を救うという大局的な目的があるが、ヘンリーが同じ目的を持つ必要はないと、彼は考えている。無二の友人であるからこそ、自分の旅の目的に巻き込むわけにはいかないと、リュカはある種の冷静な目でヘンリーを見ていた。
マリアに対しても、リュカは似たような考えを持っていた。この海辺の修道院で修道女として生きることを決めたのは彼女自身だ。しかしそれが本当に彼女のためになるのか、恐らくマリア自身にも分かっていないだろう。彼女の心の中には常に、大神殿建造の地に残された奴隷たちと、兄ヨシュアの存在があるはずだ。自分だけ助かってしまったという負い目を、彼女は強く感じているに違いない。だからこそ、修道女として生きる道を選び、彼らへの懺悔の気持ちを一生胸に刻んで行こうとしているのだ。だが、それが彼女に与えられた生き方だと、リュカは思っていない。
「ヨシュアさんはマリアに幸せになって欲しいって、僕たちに彼女を託してくれたんだ。修道女としての生き方の他に、彼女の道があるんなら、それを見つけるのもいいんじゃないかって」
「それで俺たちの旅に巻き込んで、もし彼女に何かがあったら、それこそヨシュアさんに何の言い訳もできないけどな」
「でもマリアから一緒に旅に出たいって言ってくれたんだから、僕にはそれを止められないよ」
「無理にでも止めるべきだったと思うけどな、俺は」
「そうかな」
「そうだよ。まあ、本当に無理だったから、マリアが一緒に来ることになったんだけどさ」
そう言いながら、ヘンリーはやれやれと言った様子で椅子を立った。どうやらそのまま講義室へ向かうようだ。リュカもこのまま部屋で何もせずに過ごしていても無駄だと、彼と共に修道女たちが出て行ったあとの講義室に向かった。
修道院内では修道女たちの午後の勤めが始まっていた。院内の掃除、夕食の支度、庭の花畑の水やり、院周りに植えられている作物の世話や収穫など、各々の部屋で綻びた修道服の修繕を行っている者もいる。それぞれに与えられた仕事に従事し、一日一日を大事に生き、神に感謝する日々を送る、彼女らを見ているとそんな毎日を過ごす世界もあるのだと思う一方で、自分だったらそんな毎日から抜け出したいと思うようになるだろうと、リュカは思わぬ自身の好奇心の強さにこっそり驚いていた。
講堂内ではまだ幼い少女が一丁前に修道女としての務めを見よう見まねでこなしている。まだ修道服は与えられていないのだろう、町からそのまま来たような普段着を着ている。多い髪を両脇に束ね、顔の横で元気に跳ねさせているその少女は、何故か階段を下りてきたリュカとヘンリーを睨むようにじっと見つめていた。
講堂内を移動し、講義室へと向かう二人に、少女は怒ったような顔つきのまま歩み寄ってきた。リュカが首を傾げながら歩みを止めると、少女は腰に両手を当ててリュカを見上げて言う。
「マリア姉ちゃんをどこかに連れてっちゃうって本当?」
先ほど、講堂内で話していた彼らの会話を、少女は聞いていたのだろう。いかにも許さないという顔つきだが、話を聞いていた少女の前で堂々と嘘をつくわけにもいかないと、リュカは屈んで少女に目線を合わせながら答える。
「僕たちの旅にちょっとだけついて来てもらうんだ。でもすぐに戻ってくるよ」
「ちょっとって、どれくらい? 一日?」
「うーん、一日じゃちょっと戻れないかな。僕たちもまだよくは分からないんだけど、多分一週間か十日か、それくらいかな」
「そんなに? どうしてマリア姉ちゃんじゃなきゃいけないの? マリア姉ちゃんはここのしゅうどうじょなんだよ。ここで毎日おいのりをしてるんだよ。それをジャマするの?」
「私がついて行きたいって言ったのよ。だからこの方たちと旅をご一緒するの」
厨房から講堂内に戻ってきていたマリアが、状況を察するかのように会話に入りこんできた。手には以前リュカとヘンリーが借りていた衣服がきっちり畳まれた状態である。どうやら二人に着替えてもらっている間に、彼らの旅装の綻びを直そうと思っているようだ。
「どうしてマリア姉ちゃんじゃなきゃいけないの? お外にはこわいマモノがいっぱいいるんだよ」
マリアの顔を見て、そう言うなり、少女は今にも泣き出しそうな顔で口を引き結んだ。そんな少女の頭を撫でて、マリアは落ち着いた様子で応える。
「私はね、この方たちにとても助けていただいたの。だから今度は私が恩返しをする番なのよ」
「マリア姉ちゃんはこわくないの?」
「私は平気よ。リュカさんもヘンリーさんも、とってもお強い方たちだって知ってるもの」
マリアの言葉にも、少女は不安そうな表情を変えない。海辺の修道院での暮らしはまだ浅いマリアだが、すでに修道女として溶け込み、目の前の少女には完全に懐かれている。そんなマリアを一時的にとは言え旅に連れて出てしまうことに、リュカもヘンリーも少なからず罪悪感を覚えた。
マリアを心配そうに見上げる表情から一変して、少女は再び怒ったような顔つきでリュカとヘンリーを睨んできた。
「マリア姉ちゃんを危ない目にあわせたらぜったいにダメだからねっ」
「うん、約束するよ。絶対に無事に戻ってくる」
「怪我一つさせるもんかよ。安心して待ってろ」
リュカとヘンリーの自信ありげな雰囲気に、少女は渋々納得したように一つ頷いた。そして修道院の正面出入り口に向かって歩き出す。まだ小さな少女だが、それでも修道院で暮らす上での仕事を与えられている。どうやら庭の花に水やりをしに向かったようだ。
「あの子、私のことを本当の姉のように慕ってくれているのですよ」
少女が扉を開けて出て行くと、マリアが小さな声でそう言った。その表情はどこか悲しげなものだ。
「そうみたいだね、大事なお姉さんを旅に連れ出さなきゃいけないなんて、ちょっと気が重くなってきたよ」
リュカがそっと本音を漏らすと、マリアは微笑しながら首を横に振る。
「それはお気になさらないでください。旅について行きたいと言い出したのは私なんですから」
「いや、でもやっぱり残った方がいいんじゃないのか、マリア」
「私がここに残っても、誰かがあなたたちと一緒に神の塔へ向かわなくてはならないでしょう? 一体誰がその役目を買ってくれるでしょうか」
マリアの言う通りだった。南に位置する神の塔の封印は、修道女の祈りが鍵となっている。いずれにせよ、誰か一人、修道女を連れて行かなければならない。そうすると、最も適した人物がマリアだということは、リュカもヘンリーも分かっていることだった。修道院長が留守をしている今、副修道院長も他の修道女も、誰も好き好んでリュカたちの旅についてくるなどという危険は冒さないだろう。自らその役目を買って出てくれたマリアの厚意を、二人は到底振り払うことなどできないのだ。
「あの子のためにも、マリアを無事に連れて帰らないとね」
「私も妹ができたみたいで、それが嬉しいんです。私には兄しかいませんでしたから」
人に守られるばかりの自分に、守らなければならない年下の少女がいるということが、マリアにとって嬉しいことなのだろう。自分を頼りにしてくれる存在がいるというだけで、彼女は修道院での生き甲斐を一つ、見出したのかも知れない。弟も妹もいないリュカだが、マリアのそんな気持ちの変化が何となくわかるような気がした。自分を頼ってくれる存在がいれば、自分がここで生きていてもいいのだという、はっきりとした安心感を得ることができる。
「後でこちらに着替えていただいてよいですか? お部屋に置いておきますので」
「あ、じゃあ今ここで着替えるよ」
「……そんなことをしたら、今すぐ副修道院長にここから追い出されますよ、リュカさん」
「お前さ、ちっとは成長したらどうなんだよ。まるでガキの頃と感覚変わってねぇよな」
マリアとヘンリーに半ば呆れられるような視線を向けられ、リュカは思わず肩をすくませた。本来であればこの修道院は男子禁制の場所なのだ。そんな場所で下着一枚にでもなろうものなら、修道女たち全員から箒で叩かれて院を追い出されるかも知れない。
「湯を沸かしておきますので、湯浴みの後で構いません。よろしくお願いしますね」
マリアは両手で二人分の着替えを抱えたまま、先ほどまでいた客室に向かって階段を上がって行った。リュカとヘンリーはそんな彼女の後姿を見届けた後、再び講義室に向かって行った。
二階の南東に位置する講義室には、数人の修道女たちがまだ居残っていた。各々、調べ物をしているようだ。見慣れない男性の姿に、講義室に残っていた修道女たちは一瞬警戒心を見せたが、それがリュカとヘンリーだと分かると、安心した様子で再び机の上の書物に目を落とした。
講義室は自習室も兼ねており、そこには様々な蔵書がいくつもの本棚にきっちり並べられている。その多くが町の教会やここではない修道院、はたまたどこかの富豪の厚意で寄贈されたものだ。種類としてはやはり神の教えについてや世界の伝承、子供向けの本までが同じ本棚に並んでいる。一方で、娯楽の要素を感じるような本は置かれていない。当然、北の町オラクルベリーにあるようなカジノについてなど、どの本を調べても載っていないのだろう。清貧な生活を送る彼女らには全く必要ではないものだ。
「何かお探しですか」
本棚の前でうろつく二人に、一人の修道女が話しかけてきた。年は二人よりも五つ、六つほど上だろうか、頭に被るベールの中からは肩までの短い黒髪が覗いている。読んでいた本を本棚に返しに来たついでに二人に話しかけたようだ。
「僕たちこれから南の塔へ行くんです。そこまでの道のりとか、気をつけなきゃいけないこととかがあったらと思って、調べに来たんですが」
「南の塔へ行かれるんですね」
「知ってるんですか」
「もちろんです。この修道院はそもそも、南にある神の塔を管理する役目も負っているのですから」
女性は本を棚に戻すと、そのまま同じ本棚の中から一冊の本を取り出した。まるで本の位置を全て記憶しているかのような手つきだ。
「あの塔は神が私たちを試すために作られたと言われています。己の見たことしか信じぬ者は、その傲慢さ故に神の祝福を受けられないでしょう」
すらすらと頭の中にある知識を述べつつも、彼女は本をめくる手を止めない。彼女が手にする本の内容を横から覗きこむリュカだが、到底文字を追うことはできない速さでページがめくられてしまう。
「勇気を出して一歩踏み出した者だけが、その祝福を受けられるとか……」
「いかにも神様の啓示ってヤツだな。曖昧で何にも分かりゃしねぇ」
「でも多分、その言葉の中に何かの答えはあるんだろうね。塔については行ってみないと分からないことだらけかも」
「ああ、ありました。神の塔についての記述があります。この本を参照すれば、あなた方の旅にも役に立つのではないでしょうか」
真面目さからぶれない修道女の指がさし示す場所に、神の塔における記述が詳しく載っていた。自分たちで探す手間が省けた喜びもあったが、それ以上にこの修道女が何の迷いもなく一冊の本を取り出し、リュカ達に必要な知識をすぐさま案内してくれたことへの驚きが強かった。もしかしたら彼女はここにある本全てを記憶しているのだろうかと、訝るほどだ。
借りた本を持ち出す許可を得て、二人は講義室を後にした。講義室内で読むこともできるのだが、他にいる修道女たちの視線を刺さるほどに感じたため、客室に戻ることにしたのだ。
客室に戻ると、部屋には誰もおらず、先ほどマリアが抱えていた着替えがベッドの上に置かれていた。テーブルの上にある水差しにはたっぷりと水が足されており、二つの木製のコップと、別の皿の器には焼き菓子まで並べられていた。
「何だか、ここまでしてもらって悪いな」
「でもせっかくだからもらおうか」
二人が同時に焼き菓子に手を伸ばすと、互いに互いの手を見て思わずその手を止めた。先ほどの食事の時には気がつかなかったが、彼らの手には泥土がこびりつき、爪の中まで真っ黒だった。旅をしている時は大した異常を感じない状態だが、この修道院という清らかな場所にいて、彼らの汚れた手はあまりにふさわしくなかった。悪いことをした意識はないが、清潔を大事とする彼女らの前では、目の前の水よりも焼き菓子よりも、まずは身ぎれいにすることが必要だと二人とも感じた。
「洗い場、使わせてもらうか」
「その方がよさそうだね。本は暗くなってからでも明かりをつければ読めるし」
リュカもヘンリーも、ベッドの上に置かれている着替えを手に取ると、テーブルの上の焼き菓子を恨めしそうに見つめながら、修道院内の洗い場に向かった。
「リュカさんとヘンリーさん、無事に町に着いたのかしら」
彼らが修道院を再び旅立って翌日の午後、修道院周りに植わっている花々に水をやりながら、マリアは北の空を眺めた。真夏の空は元気に青く、白い綿のような雲が幾重にも重なって彼方に浮かんでいる。
彼らがこの修道院に久しぶりに姿を現したのが一昨日、そして昨日の早朝、まだ日の出を迎えない時間に、リュカとヘンリーは再びこの修道院を旅立って行った。一度行った道をまた行くだけだと、軽い調子で出て行った二人だったが、外には魔物がはびこっている。またこの修道院に無事な姿を現す保障はどこにもない。
北のオラクルベリーの町には昨日の晩には着いているはずだった。町で首尾よく馬を見つけ、その先の旅路の足にできていれば、行動の早い彼らのことだ、すでにオラクルベリーの町も旅立っているだろう。
その先、彼らがどこへ戻っているのか、マリアは知らない。一度、彼らの今までの旅路を聞き出そうとしてみたが、二人とも詳しいことをマリアには教えなかった。馬車と仲間を連れに戻るだけだと、ただそれだけしか彼らは言わなかった。その仲間がどういった人々なのかも、どこで出会ったのかも、一切のことに二人は口を噤んだ。
「リュカさんとヘンリーさんのお仲間ですもの、悪い方のわけがないわ。……でも一体どんな方なんだろう……」
彼らが修道院に戻ってきたら、マリアは一時的にとは言え、彼らと共に南の塔へと旅立つことを心に決めている。その意志はゆるぎないものだが、二人以外にも旅の仲間がいるということに、少なからず不安や緊張を覚えるのも事実だった。
真夏の日差しが和らぐのは遅い。花に水やりをしながら、マリアのこめかみからは汗が滴り落ちる。修道服の袖口で汗を拭って、一度顔を上げると、マリアは修道院に向かって来る人影を遠くに見た。町からの行商人でもない、修道院長が帰ってきたわけでもない。つい昨日見送った人物と同じ旅装をした若者が、修道院に向かって歩いて来ているのだ。
「リュカさん?」
紫色のターバンとマントに身を包む彼は、紛れもなくリュカだった。修道院を出て一日で、どういうわけか再び彼は姿を現した。しかし彼と共に北に向かったヘンリーの姿がない。その状況に、マリアの顔から血の気が引いた。
「リュカさん!」
手にしていた水やり用の如雨露を落とし、マリアはまだ修道院の外を歩くリュカに向かって駆け出した。幸い、近くには魔物の気配はなく、マリアは息を切らしながら、悠々と歩いてくるリュカに駆け寄る。
「昨日出て行ったばっかりだけど、ただいま」
いつもと変わらぬ笑みでリュカが答えると、マリアは一瞬言葉を忘れてその場に立ち尽くした。
「オラクルベリーで無事に馬は手に入れたんだけどね、一頭しか買えなくて、それでヘンリーが一人で行ったんだ」
「一人で? 一人でどこまで行ったんですか」
「スラりんとピエールのところまで、馬車を取りに……」
「馬車を取りに戻るまで十日ほどかかると言ってましたよね。そんな遠いところへ、一人で行くだなんて、どうしてそんな危険なことを……」
今にも泣きだしそうになっているマリアを見て、リュカは自分がそれほどマズイことをしたのかと首を傾げた。
オラクルベリーで首尾よく馬を手に入れることはできた。しかも早馬で、ラインハットへの道のりも予定より縮められる目処が立った。しかし早馬は一頭しか買えなかった。馬を売り渡した商人に二人で乗ることは可能かと問い掛けてみたが、それでは早馬の価値もなくなる上、馬が潰れてしまうだろうと二人乗りは断じて勧めなかった。
一人でラインハットへ戻るのなら俺が行くと、ヘンリーが有無を言わさず決めた。オラクルベリーからラインハットへ行くには、再びラインハットの関所を通らなければならない。リュカ一人では関所を通過するのは難しいだろうと、ヘンリーはリュカの意見もさして聞かずに、そのまま一人旅立ってしまったのだ。
「それで僕は戻ってきたってわけ。町にいるだけのお金も持ってなかったし、それだったら修道院で待たせてもらう方がいいかって思ってね」
気軽な調子で言うリュカだが、彼は彼で一人、オラクルベリーの町から半日かけて修道院まで戻ってきたのだ。その事実に、マリアは改めてリュカを心配そうに見つめる。
「どこかお怪我などされていませんか? 大丈夫なんですか、リュカさん」
「うん、この辺りの魔物はそれほど強くないし、一応ちゃんとした武器も持ってるしね。呪文をちょっと見せただけで逃げちゃう魔物もいるくらいだったから、平気だよ」
「そうですか、それは良かったです」
「僕よりもヘンリーの方が呪文は得意だから、多分あっという間に行って戻ってくるんじゃないかな。ヘンリーの呪文を見たら、多分この辺りの魔物はほとんど逃げちゃうと思うよ」
リュカの言葉に、マリアは意外そうに目をぱちくりさせた。修道院内にいた時、ヘンリーが使うのは火の呪文だけで、それも暗いところを灯したり、厨房で火を使う時にお願いする程度のものだ。外にいる魔物相手にあのささやかな呪文では、魔物も驚いて逃げたりはしないだろうと、マリアは思わず首を傾げる。
「とりあえず修道院に戻ろう。ここは外だから危ない」
「あ、はい。そうですね」
リュカに言われて、修道院の外で立ち話をしている自分に気がついたマリアは、慌てて修道院に向かって足を進めた。リュカも周りの気配に気をつけながら、腰に差す剣に手を添えつつ、昨日旅立ったばかりの修道院に向かって行く。
修道院に戻ると、入口周辺に咲く花々の前で、マリアが足を止めた。入っていた水がほとんど流れ出てしまった如雨露を拾い上げ、残りの水を丁寧に撒く。そしてぼんやりとした表情で、修道院の外、北に続く道を遠く眺めた。
「リュカさん、嘘をついているわけではありませんよね」
「嘘? どういうこと?」
唐突なマリアの言葉に、リュカは首を傾げながらこめかみの汗を手の甲で拭った。リュカには嘘をつく理由も内容も、何も思い当らない。
「オラクルベリーの町で旅慣れている修道女を見つけて、そのまま南の塔へ向かおうとしているとか」
「どういうこと? そんな話、僕も聞いてないよ」
純粋に分からないといった顔で話を聞いているリュカに、マリアは真面目な面持ちで如雨露を握りしめながら言う。
「私、ヘンリーさんに信用されていないんだろうなって。南の塔にご一緒させていただこうと言った時も、ヘンリーさんは良い顔をされてなかったし、北の町についていくと言った時だってまるで私のことを子供扱いして取り合ってくれませんでした。だから、私では信用できないから、どなたか他の方を探しに行ったのではないかと」
「それはないよ、マリア。ないない」
「本当に? でも私のことを信用してくれていないのは、痛いほど感じます」
マリアが悲しそうに顔を歪めるのを見て、リュカは幼い頃の自分の記憶と重なるのを感じた。
幼い頃、まだ記憶もないほどに小さな頃から、リュカは父パパスと旅をしていた。常に父親に守られながらの旅で、物ごころついた時くらいには『自分は父の足手まといなのだ』という意識がはっきりとではないが芽生えていた。父は強く、魔物に屈することはないという誇りがあるのと同時に、早く父の助けとなりたい、自分も強くなりたいという思いも徐々に増していったのは事実だ。
共に行動する父にいち早く、認められたかった。『大丈夫か、リュカ』という息子を気遣う言葉ではなく、『よくやった、リュカ』と自身の行動が認められる言葉が欲しかった。自分は守られるだけの存在ではない、父と並んで戦うことができる一人の人間なのだという、自信が欲しかった。
目の前にいるマリアは今、その頃のリュカと同じ気持ちなのかも知れない。自分を過保護に扱うヘンリーに認めてもらいたい、恐らくそう思っているのだ。
ただヘンリーはヘンリーで、マリアを過保護に扱っているわけではないことを、リュカは理解していた。ヘンリーはただ、女性は弱いもの、守られるもの、という意識が強いのだ。更に、マリアはヘンリーよりも三つ年下の女の子だ。彼にとってマリアという少女は、何が何でも自分の手で守らなくてはならないと思うほどに、小さく弱い存在だと思い込んでいるに違いなかった。
「ヘンリーは女の子の強さをあんまり知らないんじゃないかな」
そう言いながら、リュカは思い出すように笑った。彼は強い女の子を一人、知っている。まだ子供の頃、一匹の猫を助けるために、無鉄砲にも魔物のいる町の外に出てお化け城の探検をするような、勇ましい女の子がいたことを、リュカは忘れるわけもなかった。彼の中で、女性はむしろ男性よりも強いところがあることを、身を以って知っている。
「僕はマリアが強い女性だって知ってるからさ、君が一緒に来てくれることにも上手く反対できなかったんだ」
「私が、強いんですか」
「そうだよ。だって外には魔物がいるんだよ。それなのに僕たちの旅に同行してくれるなんてよっぽどの覚悟がないとそんなこと言えないよ」
「でもそれは、あなた方に命を救っていただいたから……」
「それと引き換えにしても、自分の身を危険に晒すことができるなんて、とても強いことだと思う。結構人って、嫌なことから逃げたくなるものだよ。特に生きるか死ぬかの旅に出るなんて、誰だって好き好んでしないでしょ」
「それはそうかも知れませんけど、リュカさんやヘンリーさんだって危険な旅に出ていらっしゃるじゃありませんか」
「それは僕がやりたいことだからね。僕の場合は誰かのためにじゃなくて自分のために始めたことだし、今はヘンリーもそうだと思う。だけど、マリアは他人のために危険な旅に出ようとしてるよね。そういうところが強いところなんだと思う」
リュカにはマリアの覚悟が上辺のものではないことをはっきりと理解している。彼女は数日後に控える南の塔への旅で、命を賭けることを当然のように考えている。彼らの助けになるのであれば、慣れ始めた修道院での生活を捨て、このまま行く宛も分からない旅に出ることも厭わないほどの覚悟を決めている。
一方でマリアは、自分の胸に手を当てて聞いてみた。彼らの助けになりたいという意思に間違いはない。彼らのためならば命を賭けることも当然だと考えるのは、彼らが命を賭けて自分を守ってくれたからだ。恩返しの気持ちは彼女の中に常にある。
しかしそれだけではなかった。マリアは自分以外の人に何かできれば、という思いの他に、自分自身がそうしたいという思いが強いことに気がついた。彼らのためにできることをして、自分を認めて欲しいという欲求が思いの根底にあることに気がつき、マリアは途端に恥ずかしくなった。奉仕の精神の下に生活しなければならない修道女が、誰かに認められたい欲求を抱えているなど許されないことだと、マリアは修道服を握りしめて俯いた。
「でもさ、誰かのためにっていうだけじゃ、多分ヘンリーには弱いんだよね」
まるで今の心を見透かされたようなリュカの一言に、マリアは思わず顔を上げた。
「弱い、というのは……」
「弱いっていうより、重いのかな。マリアが僕たちのためにじゃなくて、自分のためにこうしたいって言えれば、ヘンリーだって何も言えなくなると思うよ。マリアが自分のためにしたいことを、僕たちは止められない」
「私は……あなた達に認めて欲しいです。南の塔に行って、封印を解いて、あなた達に『立派な修道女だ』って言って欲しい」
子供じみた考えだと、マリアは言っている途中から顔が赤くなるのを感じていた。どうしてこんなことを言ってしまったのか、相手がリュカだから受け止めてもらえるのではないかと、様々な思いが錯綜するが、吐露した自分の欲求はもう、リュカに知られてしまった。神に仕える修道女が我欲を述べるなど、マリアは恥ずかしさで目に涙を浮かべたが、そんな彼女の肩にリュカの手がぽんと置かれる。
「ヘンリーが戻ってきたら、そう伝えて。マリアが僕たちのために旅について来てくれるって言うよりも、そっちの方がヘンリーも納得すると思うよ」
「馬鹿にされないでしょうか」
「馬鹿にする理由なんてないよ。君がしたいことを言うだけなんだから」
「でも修道女なのにこんな子供じみた我儘な考え方をするなんて……」
「修道女になったのはついこの前からでしょ。それ以前にマリアは一人の女の子なんだから、修道女だからどうとか、こだわらなくていいと思うんだけどな」
リュカにとって、マリアは修道女という位置づけではなかった。海の流れに乗り、たまたま行き着いたのがこの海辺の修道院で、そして彼女はまるで運命を受け入れるかのように修道女としての洗礼を受けた。しかし彼女の人生がそこで終わったわけではない。むしろ修道女になったことで、彼女は新しい人生を始めることができたのだ。
リュカもヘンリーもこの海辺の修道院から新しい人生を始める前まで、ずっと閉ざされた世界を過ごして来た。子供の頃の行動は制限されたもので、奴隷として過ごした十余年は当然外の世界のことなど何一つ知らないままだった。マリアも彼らと似たようなもので、物心ついた時には既に光の教団の一員として入団しており、その後奴隷の身に落とされ、そして今は一人の修道女として人生を新たに出発させた。しかし彼女の人生はまだ閉ざされているのではないかと、リュカは思っている。
「マリア、生きるのはもっと自由なものだよ。ヘンリーが戻ってきたら一緒に旅をするんだから、もっと自分のこと、言えるようになってね。ずっと一緒にいることになるから、楽にやってかないと辛いよ、きっと」
「楽に、ですか」
「うん。それでさ、戻ってきて早々悪いんだけど……何か食べ物あるかな。お腹空いちゃって」
まるで子供のような笑顔で子供のような事を言うリュカに、マリアは思わず笑い出してしまった。リュカには自然と張りつめた空気を和らげる独特の雰囲気がある。マリアはその雰囲気に甘えることにした。
「すぐに何か用意しますね。客室でお待ちいただけますか」
「いつもここに来る度に何か食べさせてって頼んでるね。何だか情けないかも」
「その代わり、リュカさんが修道院にいる間は色々とお願いするかも知れませんよ」
「うん、僕にできることなら何でもやるから、言ってね」
自然と和やかな雰囲気が二人がいる花畑の周りを包む。マリアは如雨露を手にしたまま、リュカを連れて修道院内へと入って行った。修道院内を歩くマリアは、今まで背中に背負っていた見えないおもりが一つ、取れたような気がしていた。