2017/12/03

祈りの強さ

 

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ヘンリーが海辺の修道院を旅立ってから五日が過ぎた。真夏の日差しは日に日に和らぎ、日が落ちるのも早くなった。まだ秋が訪れるまでは時間がかかりそうだが、着実に季節は進んでいる。
ヘンリーが戻るのはまだ先だと、リュカはその日その日に修道院の修復を手伝ったり、南の塔への旅に備えて自己流で剣の稽古をしたり、食べられそうな野草や木の実を本で調べたりして、旅の準備を進めていた。
南の塔について記述のある文献にも目を通したが、そこには伝承の域を出ない程度の内容しかなく、リュカは神の塔について詳しく調べるのは諦めて、塔までの道のりについて出来る限り調べておくことにした。修道院から塔まで、修道女たちの足で十日ほどもかかったらしい。しかしその記録はまだ魔物の出ない時代のものであり、尚且つ彼女らは徒歩で塔まで向かったと言う。塔までは山道が続くものの、道は一本道で迷うことはなさそうだった。ヘンリーが馬車と仲間たちを連れて来てくれれば、五日ほどで塔に辿りつけるのではないかと、リュカは予測を立てた。
そんな折、オラクルベリーの町に出かけていた修道院長が修道院へ戻ってきた。リュカの姿を見ると、一先ず驚いた後に、「おかえりなさい」とまるで家族の一員のような一声をかけてリュカを安心させた。
「ヘンリー殿はどうされました。帰る場所を見つけられたのですか」
「いえ、ちょっと出かけてるんです。またここに戻ってきたら、今度は南の塔へ行く予定です」
「そうですか、南の塔へ。あの塔はこの修道院が管理するべき場所なのですが、魔物が出るようになってからは誰も向かわせてはおりません。塔の管理よりも人の命が大事ですから」
修道院長の言葉に、リュカは一時的にでもマリアを旅に同行させることを言い出せなかった。しかし修道院長ともあろう人が、管理する南の神の塔の開錠方法を知らないはずもなく、彼女はすぐにリュカに確認をしてきた。
「マリア……ですね」
何の前触れもなく出された名前に、リュカは素直に頷くしかなかった。修道院長に反対されたら、さすがにマリアを無理に連れだすことはできないと、リュカは目の前で自然と笑む修道院長の顔を覗きこんだ。
「あの子が自ら申し出たのでしょう、あなた達の役に立ちたいと」
リュカとヘンリーが修道院を出てからのマリアの姿を、修道院長は常に気にかけていた。修道院での暮らしに慣れるため、他の修道女に自ら進んで色々と聞き、実践し、講義室では熱心に書物に目を通し、講堂では人一倍神に祈りを捧げていた。必死にも見える彼女の姿を、修道院長は痛々しく思いながらも、ただ見守った。マリアという少女は恐らく、今はまだ時間を忘れるほどに何かに熱心になっていなければ心が保てないのだろうと、修道院長はそう思い、マリアの時間を邪魔しないように配慮した。
修道院で新しい人生を始めたように見えたマリアの時間は、本当のところ、修道院で止まっていたのかも知れない。そんな時、再び彼ら二人が修道院に姿を現したのは、それこそ神の導きに寄るものなのだと、修道院長は彼らの旅に同行するマリアを止めようとは思わなかった。
「昔に比べ、魔物は凶暴化していると聞きます。塔までの道のり、十分に気をつけて」
「はい、ありがとうございます。マリアは怪我一つさせずにお返しします」
「よろしくお願いしますね」
リュカが修道院長とそんな会話をしてから、さらに五日が過ぎた。ヘンリーが修道院を出てから十日になる曇天の日、マリアは修道院の裏庭の掃除をしながら、北に続く道を遠く眺めていた。太陽が顔を出せばまだ汗が滲む季節だが、曇り空の今日は長袖の修道服を着ていて作業をしていてもさほど暑くはない。それだけ季節が進んでいるのだと、マリアは得も言われぬ焦燥感に駆られた。
「ヘンリーさん、ご無事でしょうか」
北に続く道に、人影らしきものは見当たらない。ただ涼しげな風が草原の上を走るだけだ。空を覆う分厚い雲は、そのうち雨を降らすだろう。風に湿気を帯びているのを頬に感じ、マリアは恨めしげに曇り空を見上げた。
「まだ戻らないね、ヘンリー」
いつの間にか隣に来ていたリュカが、木のバケツに汲んだ水を下ろしてそう言った。修道院内で使用する水を川に汲みに行っていたのだろう。
「遅くはないですか?」
「遅くても二週間はかからないで戻ってくるとは思うけど、ヘンリーだからなぁ、もしかしたらオラクルベリーの町でちょっと息抜きしてから戻ってくるかも」
「息抜き、というのは何でしょうか」
「オラクルベリーにはカジノっていう遊ぶところがあってね、そこでは……」
「あっ、聞いたことがあります。いつか修道院長様がお話されておられました」
「修道院長様が? ……どんな話をしてくれたの?」
「多くの人で賑わっていてとても楽しいところだと。お昼に開かれる演劇が楽しいって仰ってましたよ」
「演劇……アレとは違うんだろうなぁ」
演劇と言われ、リュカはヘンリーと一度見た肌を露出した女性たちの踊りを思い出したが、無論、修道院長が説明したカジノの概念はそれとは異なるものだった。恐らく同じ舞台で、昼には健全な演劇が行われているのだろう。リュカは修道院長という神に仕える長となる人が一体カジノをどう説明したのか疑問だったが、どうやら賭け事や夜遊びが行われる場所としての説明はなかったようだ。
「アレって何ですか?」
「え? うーん、僕からは何とも言えないや。ヘンリーは興味があったみたいだけど、マリアはあんまり好きじゃないんじゃないかな」
「あら、そうなんですか。では今度ヘンリーさんに聞いてみようかしら」
「……演劇以外はあまりオススメしないけどね」
闘技場やスロットなどの賭け事に日常を捧げ、自らその日暮らしを堪能している人がいるということを、リュカはマリアに話すことはできなかった。せっかく慎ましやかな生活を送っている修道女に、わざわざ荒れた生活を送る町の人のことを話す必要もないだろう。
裏庭でそんな会話をしていると、ふとマリアの頬に一粒の雨が落ちた。どんよりとした厚い雲が、早くも雨を降らして来たようだ。時間はまだ昼前、厚い雲は今日一日晴れることはないだろう。
「今日は一日雨になりそうですね。外での作業は中止です。院内のお掃除に向かいますね」
そう言いながらマリアはもう一度、北に続く道に目を向けた。まだ雨粒は視界を邪魔しない。草原を撫でる涼しげな風の音に紛れ、何やらガラガラと自然の音ではないものが混じる。その音が馬車の車輪の音だとすぐに気がついたのは、つい五日前に修道院長が馬車に乗せられて帰ってきた時の音と同じだったからだ。
見たこともない大きな白馬が大きな荷台を引きながら向かって来る。立派な幌のついた荷台には、さほど荷物が積まれていないのか、車輪の音が荷台の大きさにしては軽い。
大きな白馬に跨るのは、紛れもなくヘンリーだった。道中の日差しや雨を避けるためにだろうか、布を頭に被っているが、その下から出る緑色の髪が彼だと主張していた。
「ヘンリーさん!」
走りだそうとするマリアの手を、リュカが引っ張って止めた。修道院の周りは木の柵で囲われ、裏庭から外へ出るには小さな木戸を通らなければならない。その木戸の鍵を持っているのは副修道院長だ。
「マリアはここで待ってて」
そう言うなり、リュカは急いで修道院内へ戻って行った。マリアは訳も分からずその場で立ち尽くし、ただ近づいてくる大きな白い馬の姿を瞬きもせずに眺めていた。ヘンリーがこちらに気付いている様子はない。しかし、彼は馬車の進みを明らかに遅くした。無意識に祈るように両手を組み合わせる。
「ちょっと行ってくるね」
修道院内に一度戻ったリュカが手にしていたのは、旅の最中では常に身に帯びている剣だった。彼が腰に差した剣を見て、マリアは自分が行こうとしていたのは修道院の外で、魔物の出る世界だったのだと気付かされた。木戸を通らず、柵をひらりと飛び越えて出て行ってしまったリュカの後ろ姿を見て、マリアは組合せた両手に力を込めた。
リュカは外に魔物の姿を見ていたのだ。そして馬車に乗るヘンリーも魔物の気配に気づいて馬車の進みを遅くしていたようだった。深い茂みから現れた魔物は目にも鮮やかな鳥の姿をしていた。その横には大きなイタチのような魔物が三体。
「リュカ、なんで出て来たんだよ」
ヘンリーの声が遠くに聞こえた。助太刀しようと修道院を出てきたリュカを怒っているようだ。
「だって身体がなまってたから」
リュカの返事に、マリアは唖然とした。リュカはヘンリーを助けに行ったのではなく、運動がてら外に飛び出して行ったような雰囲気だった。
白馬から飛び降りたヘンリーが、リュカよりも短い剣を構えて魔物と対峙する。リュカはその向かいから、挟み打ちを仕掛けるように剣を構えた。しかしそんな彼らの他にも、馬車の脇から出てきた何者かの姿を見て、マリアは思わず大声を出した。
「ヘンリーさん、そこにも魔物が!」
鎧兜に身を包んだ騎士のような魔物が、緑色のスライムに乗っていた。その騎士はほとんど真横にいるヘンリーと並んで、鳥やイタチの魔物を正面に剣を構えている。そしてあろうことか、そのスライムナイトは同じ魔物であるイタチに向かって斬りかかって行った。イタチも驚いたように後ろに飛び退ってその攻撃を避けたが、遠くにその光景を見ているマリアも口をぽかんと開けて驚いていた。
彼らの戦いぶりは、敵と正面切って戦うと言うよりも、追い払うだけの動きでしかなかった。どうやらこの辺りの魔物は彼らにとってさほど相手にならないようだ。通りかかる人間に向かって牙を剥く魔物も、リュカやヘンリー、そしてスライムナイトの剣捌きを見るなり、分が悪いと判断したようで、そのまま茂みの中に逃げ込んでしまった。
両手を痛いほどに組み合わせていたマリアだが、リュカが修道院の方を指さすのを見て、固く握りしめていた両手の力を緩めた。魔物との戦闘はあっという間に終わった。頭に被る布を手で持ち上げてこちらを見るヘンリーに、マリアは修道女らしからぬ元気さで大きく手を振った。
再び馬車が進み始めた。大きな白馬の横にリュカとヘンリーが並んで歩く。その反対側には、先ほど彼らと共に戦ったスライムナイトの姿もある。そして白馬の背には何やら揺れる水色の物体があるようだ。
近くまで進んできた白馬の背中を見ると、そこにも魔物の姿があった。マリアでも知っている、スライムという小さな魔物だ。白馬の背に乗せられる鞍から、横を歩くリュカの肩に飛び乗ったスライムは、警戒するような目でマリアを見つめている。真剣なその目に、マリアも思わず身体を強張らせた。
修道院の裏には馬を繋いでおく場所が設けられている。オラクルベリーから来る行商人や、旅人が馬車を有していた場合、この場所に馬を繋いでおくのだ。リュカが手にしていた手綱を軽くその杭に引っ掛けると、白馬の首を一度撫でてから、再び柵を飛び越えて修道院内へ入ってきた。
「早速明日には出発しよう。マリア、準備は整ってるよね」
「え? あ、はい、もちろん。いつでもご一緒できますよ」
「リュカ、その前に紹介しろよ、こいつら」
柵の外で腕組みしているヘンリーに、同じく外にいるスライムナイトが話しかける。
「この方ですね、これからしばらく一緒に旅をする女性というのは。初めまして、ピエールと申す者です」
丁重に兜頭を下げ、同時に下の緑色のスライムも同じ格好をするのを見て、マリアは物珍しそうにピエールをまじまじと見つめた。そして慌てて頭を下げて挨拶をする。
「あの、マリアと言います。皆様のご迷惑にならないよう気をつけます。よろしくお願いします」
「ピーピー」
リュカの肩に乗り、まだ警戒の姿勢を解いていないスライムが小さく泣き声を発する。リュカはスラりんを手の上に乗せ、マリアの前に差し出すようにして見せた。
「この子がスラりん。この子も僕たちの仲間なんだよ」
リュカの手の上で揺れているスライムをこわごわと見るマリアに、リュカは更にスラりんを前に差し出した。
「一度抱っこしてみたらいいよ。そうすれば怖くないって分かるから」
「あ、はい。大丈夫よ、怖くないからね」
マリアはスラりんにではなく、自分に言い聞かせるようにそう言いながら震える両手を前に出した。リュカが軽くその上にスラりんを乗せる。見た目よりも冷たくないスラりんが、マリアの手の上でふるふると揺れ、表面を滑るように顔を移動させてマリアを見上げた。まるで幼い子供のような純真無垢のスラりんの瞳に出会い、マリアは自然と笑顔を零した。
「大丈夫よ、怖くないでしょう?」
「ピィ」
スラりんの返事を聞いて、マリアは不安定に揺れるスラりんをしっかり抱くように胸に寄せた。マリアに撫でられ、スラりんは気持ちよさそうに目を閉じかけている。
「マリアなら大丈夫だとは思ってたけど、すぐに慣れたね」
「魔物にも良い方々はいらっしゃるのですね。どうやってお仲間に?」
「そういう話は後でたくさんするね。とりあえず、みんなには今日一日休んでもらって、明日ここを出よう」
「ああ、久々のまともなベッドだ。さすがに休みなしの行軍は疲れる」
「オラクルベリーで休んでこなかったの?」
「一刻も早く戻った方がいいだろうと思ってな。昨日、一応その辺の川で身は清めてきたつもりだけど」
言われてみれば、ずっと歩き通しだった割に、ヘンリーは身ぎれいにしていた。髪が泥土で固まっているわけでもなく、身につけている服も一度川で洗ったのだろうか、目立つような汚れは見当たらない。
「昨日、突然川を探し始めたと思ったら、川に飛び込みましたからな、ヘンリー殿は。何が起こったのかと思いましたよ」
ピエールが首を傾げながら言う隣から、ヘンリーは柵を飛び越えて修道院内へ入ってきた。
「水の補給もしなきゃいけなかっただろ。だから川を探してたんだよ」
「オラクルベリーを越えた時に、修道院が目の前だって分かってたよね。だったら修道院に戻ってきてからお湯をもらえば良かったのに」
「うるせぇな、いいだろ別に。身体が汚れて気持ち悪かったんだよ」
どことなく歯切れの悪いヘンリーの言葉に、リュカは鼻を鳴らすような返事をすると、柵の外にいるピエールに声をかけた。
「さすがに修道院の中には入れないから、悪いけど明日の朝までその辺りで待っててくれるかな」
「勿論そういたします。どうぞお気になさらず、リュカ殿」
「スラりんもピエールとパトリシアと一緒に外で待っててくれるかい?」
「……ピー」
マリアの腕に抱かれて気持ちよさそうにゆらゆら揺れていたスラりんが、少々不服そうに目を半開きにしてリュカを見上げる。マリアも困ったようにスラりんを手で撫でていたが、伸びてきたリュカの手に渋々と飛び移った。
「何だか、可愛そうですね」
「でも修道院内でスラりんが歩いてたら、みんなびっくりするでしょ。それでマリアに迷惑がかかってもいけないから」
「それにこいつらは元々外で暮らしてるやつらなんだから、可愛そうでもなんでもないんだよ。外が家みたいなもんなんだから」
素っ気なく言い放つヘンリーに、スラりんがリュカの手の上からヘンリーの顔面目がけて飛び掛かった。バチンッと大きな音を立ててヘンリーの顔への攻撃が決まると、スラりんは草地に着地して楽しそうに笑った。
「スラりん、てめぇ、何しやがる」
ヘンリーが足を出してスラりんを踏みつけようとすると、スラりんは柵の隙間からするりと外へ出てしまった。そして草を食んでいたパトリシアの首にひょいと飛び乗った。
「すっかりスラりんと会話ができるようになったね、ヘンリー」
「これのどこが会話だよ、一方的過ぎるだろ。俺にはあいつが何を言ってるのかさっぱりだ。ピィピィ言うだけだし」
ヘンリーが赤くなった顔を手で押さえ、口を尖らせながら言う姿を見て、マリアは思わず噴き出してしまった。
「皆さん、仲がよろしいんですね」
「マリアもすぐに慣れるよ。スラりんはもうマリアに慣れたみたいだし。明日からよろしくね」
「はい、よろしくお願いします。では早速旅の準備をしてきますね」
「多少荷物は多くても馬車で運べるから、食料と水は多めに積んでおいた方がいいかも。僕が後で運ぶから準備だけお願いできるかな」
「もちろんです。大方準備はできていますので、順に運んでいただけますか」
そう言うと、マリアは裏庭から表の修道院入口に向かって小走りに走って行った。分厚い雲から落ちる雨粒は先ほどよりも大きくなり、徐々に雨足が強くなってきている。馬車の荷台に荷物を運びいれるなら早い方が良いだろうと、リュカもマリアの後を追って歩き始めた。
「おい、リュカ」
後ろから呼び止められ振り向くと、ヘンリーがまだ顔を擦りながらリュカを見ていた。その表情はあまり明るくない。
「どうしたの?」
「いや、どうっていうことじゃないんだけど……マリア、何だか元気そうだな」
ヘンリーの目には、修道院を出発する前に見たマリアに比べて、今のマリアは生き生きとして見えたらしい。自分のいない間に何かがあったのかと、ヘンリーは疑わしげな視線をリュカに向けている。
「きっと楽しいんじゃないかな、修道院の外に出られるって」
「楽しい? なんでだよ。魔物だって出て危ないじゃないか。下手したら……」
「そういうことも覚悟してるんだろうけど、それ以上に楽しみなんだと思うよ、この旅が。僕たちだって命からがらあの場所から抜け出して、修道院でお世話になって、この修道院を出る時、なんとなく楽しくなかった?」
「言われてみれば……そうだったかもな。やっと自由になれるって思ったのかも」
「そういう思いに似てるんじゃないかな」
「だけど彼女は修道女で……」
「その前に一人の女の子だよ。ヘンリーはさ、もうちょっとマリアを一人の女の子として見てあげた方がいいと思うな。その方がマリアも嬉しいはずだよ」
「一人の女の子って……そりゃあそうだけどさ」
「ま、僕もマリアに負けないくらい楽しみにしてるんだけどね、これからの旅。目的は君の王国を救うことだって分かってるけど、目の前のことは楽しんだ方がきっといいよ。そうしないと、辛くなる」
それだけ言うと、リュカはヘンリーに背を向けて修道院入口に向かって走って行った。ヘンリーはまだじんじんと痛む鼻の頭を手で擦りながら、雨避けの布を頭に被ったまま彼の後を追って歩き始めた。



「そろそろ塔が見えてきてもいいんじゃないのか」
「まだ山道に入ったばかりだから、もしかしたらあと一日はかかるかも」
「もう修道院を出て五日になりますね」
パトリシアの引く馬車が、山道を着実に進んで行く。荷台から顔を覗かせ、パトリシアの疲労を気にするマリアだが、そんな彼女の心配など吹き飛ばすような速さで白馬は馬車を引っ張って行く。実際、パトリシアにとってマリアのような女性が一人乗っているような荷台を引っ張ることなど、何とも感じていないのだろう。
なだらかな山道が続く。山の天気は変わりやすいことは三人とも身を以って知っているが、今のところ空は晴れ、空気は涼やかで落ちついている。長年使われていない山道だが、それでも馬車が一台通るくらいには平らで、さほど車輪を傷めずに進むことができていた。
修道院を出て初日、一番の難所と思っていた砂漠を越えた。パトリシアの引く馬車の存在が非常にありがたく、リュカもヘンリーも交代で荷台の中に入り、直射日光を避けて砂漠を縦断することができた。スラりんも直射日光には弱いようで、砂漠縦断中はほとんどマリアと馬車の荷台で休んでいた。
鎧兜に身を包むピエールは一日中強い日差しを浴びればひっくり返るだろうと、リュカが馬車で休むことを進めたが、彼はその提案を拒んだ。自分が休んでリュカが砂漠を歩くことなど許されないと、その日の昼過ぎくらいまでは何とか行軍を続けることができた。
そして、突然倒れた。慌てて皆が介抱に向かうと、ピエールの緑色スライム部分が一部、火傷を負っていた。砂漠の砂の上をずっと裸足で歩いていたようなものだ。リュカがピエールを馬車の荷台に引っ張り込むと、マリアが慌てて皮袋から水を桶に移し、ピエールの緑色スライムを水に浸けた。間もなく目を覚ましたピエールは、慌てて桶から出ようとしたが、ヘンリーに抑えつけられたまましばらく水に浸かった状態で体力を回復していた。
二日目には砂漠を越え、森の中を進んだ。周囲に魔物の気配はあるものの、さほど好戦的ではないのか、魔物の方から近づいてくる様子はない。これほど大きな馬車が進んでいるから、リュカ達の行軍に気が付いていないわけでもないはずだった。
そして修道院を出てから五日目、道はなだらかに上りになった。馬車は山道を進み始めていた。道の両脇には丈高い木がまばらに生える林が広がっている。朝陽が昇り、夜に比べていくらか行動も沈静化する魔物たちだが、それでもこれほど目立つ馬車が山道を堂々と進んでいるのに、姿も見せずに林の中から姿も見せないのは、リュカにとって不思議でならなかった。
「魔物が好みそうな地形だし、そこら中にいる気配はあるんだけど、どうして寄ってこないんだろう」
「俺が呪文をかけてるんだよ、気付かなかったか」
山道を登りながら不思議に感じていたことをリュカが呟くと、パトリシアを挟んで向かいを歩くヘンリーが答えた。
「魔物除けのトヘロスって呪文をその都度かけてるんだ。だからあんまり魔物も寄ってこないんだろうよ」
「その呪文、いつ覚えたの」
「修道院に着く前には覚えたよ。俺だってただ馬車を連れに戻って帰ってきただけじゃないんだ」
「じゃあ修道院を出る時には……」
「使ってたよ、当たり前だろ」
「ヘンリーはすごいなぁ。でもどうしてその呪文を覚えようとしたの。他にも色々あるよね」
「魔物と遭って戦う以前に、遭遇しないのが一番だろ」
「でも、何となくヘンリーらしくないって言うか……」
「あの、リュカさん、ヘンリーさん、近くに川があれば水を汲んでおきたいのですが。スラりんさんが皮袋の上で飛び跳ねて、水が残り少ないと教えてくださって……」
マリアが馬車の荷台からひょっこりと顔を出してそう言うと、ピエールがすかさず進む馬車の斜め右方向の森の奥を手で示す。
「あちらから水の気配を感じます。恐らく川か沢があるのではないかと思われますが」
「じゃあそっちの方へ行って一度休憩しようか。水も汲んで、食事もして、それから一気に山を登ろう」
リュカがパトリシアの手綱を握り、馬車を森の中へと誘導する。森に群生する木々の感覚は広いが、馬車が通り抜けるにはぎりぎりの幅だった。馬車の両脇をリュカとピエールが確認しながら進み、後方からヘンリーがトヘロスの呪文を再度かける。森の中に棲息する魔物の何体かは、珍しく山に足を踏み入れてきた人間を遠巻きに見るだけだ。
ピエールがさし示した方向には、細い川が流れていた。水は冷たく、喉を潤すのに丁度良いと、リュカは馬車の荷台にいるマリアとスラりんにも声をかけた。
「ここで水を飲んで行ったらいいよ。皮袋の水も一度入れ変えよう」
「はい、ではありがたくいただくことにします。食事の準備も始めて構いませんか?」
「もちろん。ヘンリー、後で火を頼むね。僕はその辺で薪を集めてくるから」
リュカはそう言いながら、近くに落ちる枝木を拾い集め始めた。人がほとんど踏み入れることのない森の中には、長い間放置された枝木が散在している。薪を拾い集めるのもさほど苦労はしない状況だ。
「ヘンリー殿、いかがなされた」
馬車の荷台から水を入れる革袋を持ったピエールが、川の水面をじっと見つめているヘンリーに声をかけた。彼の視線の先に川魚が泳いでいるわけでもなく、ただ一定の速さで水が流れているだけだ。
「ん? 何だ?」
ピエールの言葉が聞こえていなかったようで、ヘンリーはゆっくりと横に来たピエールを振り向き見た。その顔色は木陰で見るにしても青白く、決して調子が良いとは言えないものだ。
「どこか悪いのではないのか。もし具合が悪いのなら、リュカ殿に知らせた方が良い」
「何でもねぇよ。ああ、水を汲んでおくんだな。俺がやっとくからお前はリュカ達の方を手伝ってやれ」
ヘンリーはそう言うと、ピエールが持ってきた革袋二つのうち一つを手にして、注ぎ口を川の中へと突っ込んだ。冷たい川の水が手に触れた瞬間、彼の全身が震えるのをピエールははっきりと目にした。
「やめておきなさい、どう見ても普通の状態ではない」
「どうかしたの」
異変に気付いたリュカが、両手に薪を抱えながら二人のところへ近づいてきた。ヘンリーはその声には振り向かないまま、革袋の注ぎ口から水を直接注ぎ入れている。川の流れも手伝い、あっという間に注ぎ終えた革袋を手にして立ち上がろうとしたヘンリーだったが、思いの外革袋が重かったようで、ふらりとよろめいた。
「ヘンリー、疲れてるみたいだね。ちょっと馬車で休んでたらいいよ」
「疲れてなんかいるもんかよ、ただここまで歩いてきただけじゃねぇか」
言葉は強いものの、川沿いの小石だらけの場所で革袋を引きずろうとするヘンリーから、リュカは半ば強引に革袋を取り上げた。その瞬間、触れたヘンリーの手に感じた熱に、リュカは彼の異変をはっきりと感じた。うつろな表情をする彼の額に、リュカは自分の手を当てる。
「いつからこんな感じ?」
「山ってのはこんなに寒いところだったか。川の水も氷みたいに冷たいしよ」
「ひどい熱だ。ピエール、この水を馬車に運んでおいてくれるかな」
リュカは手にしていた革袋をピエールに渡すと、ほとんどもたれかかるようにしているヘンリーを背負い、馬車に向かって歩き始めた。寒いと言って震える感覚とは別に、ヘンリーの身体は燃えるように熱い。
「まあ、どうかなさったのですか」
馬車の荷台から鍋やら器やらを出し、食事の支度をしていたマリアが、リュカに担がれるヘンリーを見て驚いたように声を上げた。そして手にしていた木の器を草地に置くと、心配を前面に出した表情のままリュカに駆け寄る。
「熱を出したみたいだから、馬車で休ませる」
リュカはヘンリーを肩の上に担ぎ上げると、そのまま馬車の荷台に乗りこんだ。広い荷台にゆったりとヘンリーを寝かせ、端に寄せて置いてある毛布をヘンリーの身体に巻きつけた。ほとんど眠るように目を閉じているヘンリーも、本能的に毛布に包まるように横になって身体を丸める。
「良かった、毛布を準備しておいて」
「山の上で野宿となったら、毛布がないと凍えてしまいますものね」
荷台に上がったマリアは、目の前でガタガタと震えるヘンリーを見て、残りの二人分の毛布もかき集めてヘンリーの上に被せた。ピエールが荷台に置いた冷たい水の入った革袋を引き寄せると、その水を手近にあった食事用の器に移す。
「ヘンリーさん、少しでもお水を飲めますか。たくさん汗をかいているのでお水を取らないといけません」
マリアはヘンリーの頭を抱え上げ、横座りする自分の膝の上に乗せた。既に意識の朦朧としているヘンリーだが、口に器の端が当たると、本能的に少しずつ水を飲み始めた。
「あとはとにかく身体を休めるしかありませんね。氷のうがあればいいんですけど」
「氷のうだったら、スラりん、この水をたくさん飲んでからヘンリーのおでこの上に乗ってくれるかな」
マリアの横に来ていたスラりんに、リュカが革袋の水を差し出す。注ぎ口から直接水をスラりんの口に流し込むと、スラりんは水を飲んで一回り大きくなった身体を弾ませてヘンリーの額の上に飛び乗った。いつもであればそんな乱暴なスラりんの行動に怒り出すヘンリーだが、今はほとんど何も感じていないように苦しげに目を閉じている。
「スラりんさんだったら、おでこから落ちることもなさそうですし、ちょうど良いかも知れませんね」
そう言いながら、マリアは手持ちの布を水に浸して絞ると、ヘンリーの顔に浮き出る汗を拭った。
「薬草がありますよね。それで粥を作りましょう。治りも早くなるはずです」
ヘンリーの頭を持ち上げ、自分の膝をどかすと、マリアは静かに彼の頭を荷台の上に乗せた。ヘンリーの額の上で、スラりんが上手くバランスを取っている。
「多分、呪文を使いすぎたのかも知れないな」
荷台の端に腰掛けながら、リュカが毛布に包まるヘンリーを見てそう言った。
「どういうことですか」
「呪文って使いすぎると身体がおかしくなるんだよね。異様に眠くなったりするんだ。でもこんなにひどい熱を出すなんて、よっぽど無茶してたんだろうな」
この旅に出る前に彼が覚えた魔物避けの呪文トヘロスと、ヘンリーは必要以上に使用していたのだろう。効果が少しでも薄れそうになったら、呪文の重ねがけをするように、自らの残りの魔力とは相談もせずに呪文をかけていたに違いない。
「いつもだったら僕のことを注意するくらいなのに、ヘンリーがこんなに考えなしに呪文を使うなんて、珍しいや」
「風邪、ではないんですね」
「多分ね。しばらく休んだら自然と治ると思うよ。僕たちが食事をする間、しばらくスラりんに看ててもらおう」
「そうですね、では……」
「マリア……」
荷台を降りようと足を下ろしたマリアに、ごく小さな声が届いた。毛布に包まるヘンリーがうわごとのようにマリアの名を呼んだようだ。その目は閉じられたままだ。
「お呼びですか、ヘンリーさん」
横向きに身体を丸めて眠るヘンリーを上から覗きこみながら、マリアが応える。マリアが毛布の上から身体をさすると、ヘンリーはどこか安心したような表情を見せた。
「マリア、しばらくヘンリーの傍にいてやって。その方が良さそう」
「あ、でも私もお手伝いしないと」
「どっちにしろ、ヘンリーがその状態じゃ火が起こせないよ。ヘンリーが起きるまで馬車を進めるから、その間は看病してあげてて。ピエール、僕たちだけでもうちょっと先まで進むよ、大丈夫?」
「問題ございません。ヘンリー殿のおかげで今まで魔物との戦闘は避けてきたわけですし、体力は余っています」
「じゃあ、そうしよう。マリア、スラりん、よろしく頼んだよ。それと僕たちが魔物と遭って戦いが始まっても、馬車の中からは出てこないようにね」
「はい、分かりました。どうかお気をつけて」
マリアが疲れも見せずににっこりと微笑むのを確認してから、リュカは荷台から離れた。ピエールに馬車の後方を見るよう指示を出し、パトリシアの手綱を握って再び馬車を森から出す。
塔までの山道をかつては修道女たちを乗せた馬車が行き来していたのだろう。パトリシアが引く馬車が通るにも十分な道幅があり、馬車で進むのにそれほどの労苦はない。魔物が頻繁に出没するようになってから修道院の管理が行き届かぬ状態にはなっているものの、馬車の通る道には何故か雑草も生えず、まるで近年までこの道が使用されていたかのような状態が保たれている。
「神の塔って言われるくらいだから、何か特別な力でもあるのかな」
山道はまだまだ続き、目的地の塔の姿はまるで見えないが、分かれ道があるわけでもないしっかりとした一本道が続く先を見つめながら、リュカは一人呟いた。山頂の辺りには灰色の雲が被り、先にどれだけの道が続いているのかはまだ拝めない。
周囲の魔物の気配を感じながらも、ヘンリーの呪文が効いているのか、魔物の方がある一定以上の距離から近づいてこない。道の両脇に広がる木々の間にちらちらと魔物の姿を見るものの、魔物たちは人間が進める馬車の行く手を遮ることはない。呪文の効果が目に見えないだけに、リュカは今のこの状況が不思議だった。そしてヘンリーが呪文書の中からトヘロスという呪文を選んで覚えたことも、不思議だった。
「ヘンリーだったらもっと派手な呪文を覚えそうなのになぁ」
そう言いながら、リュカはヘンリーが使える呪文を思い浮かべる。火の呪文であったり、爆発を起こす呪文であったり、見た目にも派手で効果も一目瞭然な呪文を好んで使うイメージが彼にはある。攻撃的な呪文にばかり目が行くような性格だと思っていたが、今回は一転して守りに走ったように見えたことが、腑に落ちない違和感の正体だとふと気付いた。
今までと今回の旅で違うことと言えば、マリアが仲間に加わったことだ。ヘンリーは修道院に戻る前には魔物避けの呪文を習得したと言っていた。覚えたばかりの呪文とは言え、それを必要以上に多用するほど、彼の考えは浅はかではない。しかし彼は、誰にも何も言わず言われず、トヘロスの呪文を重ねがけするほど何度も使っていた。
「マリア、なんだろうな」
ヘンリーにとってマリアは、絶対に守らなければならない存在なのだろう。魔物が現れれば、戦って守れば良いという程度のものではなく、彼女から危険を遠ざけるためには初めから魔物と遭遇しないようにすればよいと、そう考えてトヘロスの呪文を習得したのだと、リュカは想像した。修道女であるマリアは戦う術を持たない。武器防具を持たない彼女が自身の身を守るのには限界がある。そんな彼女を、ヘンリーは何が何でも守らなければならないと、魔物避けのトヘロスという呪文を必死に習得し、その思いの強さから呪文を必要以上に多用してしまった。
「だけど、あんなになるまで無茶するなんて、やっぱりヘンリーらしくない」
馬車の周りを包むようなトヘロスの呪文の効果はまだしばらく続きそうだ。その間、リュカは馬車を進め続けることにした。馬車の後方を歩くピエールからも異常を知らせる声はかからない。このまま行けば、ヘンリーが目を覚ますまでは呪文の効果が持続しそうだと、リュカは距離を稼ぐためにもパトリシアの歩みを早めるよう手綱を引いた。
ヘンリーが目覚めたら無理をするなと注意しようと考えるリュカだが、それと同時に何故それほど無茶をしたのか彼に確認してみようと考えながら、せっせと山道を登って行った。



目を開けると、そこにはマリアの寝顔があった。目覚める直前まであった頭痛はどこかへ吹き飛び、ヘンリーはしばらく彼女の寝顔を静かに見つめた。
「…………」
無言のまま少し体勢を起こすと、その拍子に自分の頭から何かが滑って行くのを感じた。ずるりと滑り落ちた半透明の水色の物体が、丸い二つの目と笑ったような口を開けて自分を見上げるのを見て、ヘンリーは思わず小さな悲鳴を上げた。
その悲鳴を聞いて、眠っていたマリアが目を覚ます。
「あら、私も寝ちゃったんですね。ごめんなさい、ヘンリーさんを看てるつもりだったのに」
口に手を当てて控えめな欠伸をしながら、マリアも身体を起こした。揺れる馬車の中を四つん這いで移動し、木の器とたっぷりと水の入った革袋を手にすると、寝ぼけ眼のまま水を器に注ぐ。
「はい、ヘンリーさん、お水をたくさん飲んでくださいね」
「あ、ああ、ありがとう」
渡されるがまま器を受け取り、ヘンリーは水を一気に飲み干した。飲んでみて気がついた喉の渇きに、すぐさま二杯目の水を器に注ぐ。
「もう寒くはないですか」
震えの止まったヘンリーの様子を見て、マリアが確認するように問い掛ける。ヘンリーは何の事かと首を傾げたが、自分が毛布でぐるぐる巻きになっていることに気付き、今度は途端に暑さを感じた。
「何でこんな状態なんだ、俺」
「体調を崩されていたんですよ。リュカさんが仰るには、呪文の使いすぎだとか」
「呪文の使いすぎ? 俺が?」
状況が今一つ飲みこめないヘンリーだが、それよりも今感じている暑さに身体に巻きつく毛布をたまらず剥いだ。三枚も巻きつけられていたことに、自分が眠っている間に何かの異常があったことは簡単に推測できた。
「ヘンリー、起きた?」
馬車の荷台に顔を出したリュカの顔が夕陽に照らされていることに、ヘンリーは自分が馬車の中でぐっすりと眠っていたのだと嫌でも気がついた。馬車が山道に入ったところまでは記憶にある。しかしその頃はまだ、朝陽が昇った頃だったことを覚えている。
「リュカ、なんで起こしてくれなかったんだよ。無駄に時間が過ぎちまったじゃねぇか」
「無駄じゃないよ。ヘンリーの呪文のおかげで、もう山頂に着いたんだ。目の前に塔が見える」
そう言ってリュカが指差す先には、オレンジ色に照らされる一つの塔が見えた。思っていたよりも高くはない。しかし塔の頂にはうっすらと雲がかかっている。それだけ山を登ったということだろう。
「魔除けの呪文が効いているうちに急いで行こうって進んだら、着いちゃった」
「ヘンリー殿もマリア殿も目を覚まされたようですな。私たちも少し休んだら、塔に向かいますか」
ピエールの言葉を合図に、一同は馬車のすぐ近くで食事の準備を始めた。ヘンリーが火を起こし、マリアが手早く薬草粥を作る。リュカは修道院でもらい受けたチーズをいくつかに切り、粥の入った器に適当に入れた。
「薬草って食べるとあんまり美味しくないからさ、これで少しは美味しくなるよ」
一同が食事を済ませる頃には夕陽が大分沈みかけていた。東の空には月が顔を出している。真ん丸の月は、日が沈んでも彼らの視界を助けてくれるだろう。先ほどまで塔の上にかかっていた雲も、風に流されどこかへ消えていた。
「大して高くない塔だし、封印さえ解ければすぐに行って戻ってこれるはずだよね」
「そうだな、今から行っても問題ないだろう」
「では向かいますか」
近くの茂みでパトリシアと一緒に草を食べていたピエールが、出発の雰囲気を察して二人の横に並んだ。しかし一方で、緑色のスライムがキョロキョロと辺りを見渡し、水が入っている革袋を見つけると、ぴょんぴょん跳ねて水を求めた。食事の片づけをしていたマリアが器に水を注ぐと、ピエールは一度律義に頭を下げてから器の水をあっという間に飲み干した。
塔の入り口まで馬車を進めると、塔の脇に馬を繋いでおく鉄の杭が立っていた。かつて修道院に住まう修道女たちが馬車でここまで来ていたことが窺える。あるいは馬に乗れる修道女もかつてはいたのかも知れない。
リュカは持っていた手綱をその杭に軽く引っ掛けると、パトリシアの首を軽く叩きながら声をかける。
「また留守番だけど、僕たちが戻るまで待っててね」
パトリシアは半ば不機嫌そうに鼻を鳴らすが、己の立場をわきまえているのか、まるで頷くように長い首を静かに下げた。
塔の正面にはぴたりと閉じられた大きな扉がある。堅固な石造りのもので、大層古びてはいるものの、扉に細かく刻まれる模様は長い年月の風化にも耐えてその形を留めている。それが模様なのか、古代の言葉なのかも分からないが、扉一面にぎっしりと刻まれた模様を見ているだけで、この塔が普通の塔ではないことを皆感じていた。
「修道女の祈りが鍵になってるってことだったよね」
リュカはそう呟きながら、扉を手で押してみた。封印されている塔の扉はもちろん開かない。扉の模様一つ一つをくまなく見ても、その中に鍵穴らしきものはない。
「私、やってみますね」
既に緊張した面持ちで前に進み出てきたマリアが、扉の前に立ち、表面の模様をぼんやりと見つめる。模様の意味も古代文字も知らないマリアにとって、扉の模様は何もヒントにはならない。何も分からないまま、とにかくいつも通りに祈ってみるしかないと、マリアは扉の前で両手を組み、静かに目を閉じた。
マリアの祈りに、扉は何の反応も示さない。目を開け、顔を上げたマリアの姿を見て、リュカはもう一度扉をそっと手で押してみた。封印は解かれておらず、リュカの力を以ってしても扉はびくともしない。
「もう一度、やってみます」
「そう言えば、修道院から借りてきた本があったよね。あれに何か書いてないかな」
塔への旅に出る前、リュカとマリアは修道院から数冊の本を借りて馬車に置いていた。その中に、塔の封印を解くヒントがあるのではと、リュカは荷台から本を抱えて戻ってきた。地面にばさりと本を置き、その中の一冊に当たりをつけると、リュカはページをぱらぱらとめくった。
リュカが手にした本の題名は『神の塔の乙女』。そこには「神の存在を疑う少女は真実を確かめるために、神が住むという塔に登った」とある。
「真実を確かめるためって、どういうことなんだろう」
「いや、それ以前にこの少女ってのは、神の存在を疑ってたのか」
ヘンリーの指摘に、リュカもマリアももう一度本を覗きこんで書かれている文を目で追う。
「普通、修道女って神を信じてるもんだろ。なのに、なんでこの少女は神を疑ってかかってるんだ」
「神様を信じられないような経験をしたのかな」
「まるで俺たちだな、それじゃあ」
ヘンリーが鼻で笑うのを見て、マリアは怒り出すわけでもなく、ただ新しい発見をしたようにリュカが手にする本の文章を何度も目で追った。そして本に書かれる少女と、今の自分とをこっそりと比べてみる。
果たして自分は心の底から神を信じているのだろうか。マリアの胸に常にあるのは、あの大神殿建造の地に置いて来てしまった兄や奴隷の人たちのことだ。修道院で毎日毎日祈りを捧げているのは、彼らの無事をひたすらに願ってのことだった。修道院で修道女になろうと決意したのも、彼らに対する後ろめたさを少しでも軽くしたいという、ただの自己満足に過ぎない動機なのだと、マリアは気が付いている。
もし神を信じきることができれば、わざわざ修道女になる必要もなく、必死になって毎日祈りを捧げる必要もない。それをあえて、修道院での生活を選び、自らを修道院という神に近い場所に縛り付けているのは、己が神を信じていないからに他ならないのだと、マリアは本に書かれた少女と同じ境遇にいるのだと思った。
「私も、きっと同じです。修道女だけど、神を……信じていないのでしょうね」
そう言った途端、マリアは扉を目の前にして、一体何に祈れば良いのか分からなくなってしまった。神に捧げる祈りが必要ではないとなると、封印されたこの扉は一体何を求めているのだろうか。
「マリア、無理はするな。封印が解けなかったら、それはそれで他の入り口を見つけてやる」
ヘンリーの諦めにも似た言葉に、マリアは焦りを感じた。勢いこんでここまで来たものの、何も彼らの役に立てないまま塔の前で跪く自分に、途方もない無力を感じる。
「それでは何のためにここまで来たのか。私はあなた達のお役に立ちたくて……」
「そもそも俺の我儘に付き合ってもらってるだけなんだ、マリアも、リュカもな」
「そんなのお互い様だよ。困った時はお互い様」
「そうだな、困った時はお互い様ってやつだ。だからマリアも一人で悩むな。俺たちも一緒に悩んでやる」
ヘンリーはそう言いながらマリアの肩に手を置き、そのまま彼女の隣に胡坐をかいて座りこんだ。そして睨むように扉を見つめる。
「いっそのこと呪文で吹っ飛ばしてみたらどうだろうな」
「意外に開くかもよ。というか、壊れるかもしれないけど」
マリアを挟むようにして、リュカも彼女の隣に座りこんだ。呪文を唱えるかのように、両手を扉に向けている。
「要は中に入れりゃいいんだろ。扉が壊れようが知ったこっちゃないよな」
「まあね。ただ後で修道院に戻った時にどうやって説明しようかなーって考える必要は出てくるかもね」
「言わなきゃバレねぇよ。誰かが確かめに来るわけでもないし」
「どうかな。副修道院長様あたりが、誰かに確認させにここまで人を派遣する可能性もあるなぁ」
「ああ、あの人ならもしかしたらやるかもな。俺たちのこと、あんまり良く思ってないだろうし」
彼らが不穏な会話をしているのを聞きながら、マリアは思わず微笑んでしまうのを止められなかった。彼らは彼らで本気で扉の開錠を考えているのだろうが、その実、彼らの会話には優しさが満ちている。封印を解かなければならないと思い込んでいるマリアの重圧を、彼らなりに和らげようとしているのだ。
根拠のない『大丈夫だ』とか、『何とかなる』などの言葉ではなく、マリアと同じ場所で、同じ視線で、共に考えてくれていることに、マリアは微笑みながらも目じりに浮かぶ涙を指で拭った。
彼らの軽快な会話を両側に聞きながら、マリアはもう一度手を組み合わせ、扉の前で目を閉じた。心の底から神に祈ることはできない。その代わり、心の底から彼らのために祈りを捧げようと思った。神の姿は目にすることができないが、彼らは今、実際に隣に座りこんで言葉を交わしている。目に見える存在で、温かみがあり、人間味があり、手を伸ばせば触れることもできる。彼ら二人のためと思えば、祈りの形ははっきりとしたものになると、マリアは一心にその思いを封印された扉にぶつけた。
まるで目の前から朝陽が昇って来たのかと錯覚するほど、眩い光が扉から噴き出してきた。目を閉じていたマリアにも、その光が強烈なものだと分かった。目を閉じていても目が痛いと感じるほどの光だ。
光は徐々に引いて行き、辺りは再び夕陽が照らす橙色の景色に落ちついた。目をきつく閉じていたマリアもリュカもヘンリーも、その後ろで様子を見守っていたピエールとスラりんも、ゆっくりと目を開けて辺りの景色に目を慣らす。
マリアの目の前にあった模様の扉は、きれいさっぱりと消えていた。まるで初めからなかったかのように、扉は存在していない。扉が消え去った向こう側には、塔の内部に橙色の夕陽が差し込んでいる。目を凝らして見ると、塔の内部に草地があるように見える。
「中に魔物がいますね」
ピエールの一言に、リュカが頷いた。
「封印されてたのに、どうやって入りこんだんだろう」
「何かのきっかけで中に入り込んで、そのまま棲みついてしまったのでしょうか」
大して高くない塔での探索は、夕陽が落ちる時間の今から始めても十分に間に合う想定だったが、魔物が棲みついているとなると話が変わってくる。しばし考え込むように唸るリュカの前に、ヘンリーが進み出た。
「俺は行ってくるよ。大して大きい塔じゃない。すぐに行って戻ってくる」
ヘンリーの焦りはリュカにも伝わった。彼は国で待つ弟デールのためにも、一刻も早く塔に保管されている真実の鏡を手に入れたいのだ。彼の言う通り、決して大きな塔ではない。魔物が棲みついているとは言え、上手く逃げ回ればそれほど時間もかからずに鏡を取ってこれるだろう。
「僕も行くよ。後はピエール。スラりんはマリアと一緒に馬車で待ってて」
「いえ、私も行きます」
マリアの言葉に、リュカとヘンリーが同時に彼女を振り向く。彼らに反論の余地を与えないかのように、マリアは立て続けに言葉を続ける。
「もしかしたら閉ざされた扉は中にもあるかも知れません。この本にも『神はいくつかの試練を少女に与えた』とあります。塔の中にも試練と呼ぶものがあるのではないでしょうか」
先ほどリュカが開いていた本の同じ頁に、マリアの読んだ記述がある。リュカとヘンリーがその記述に目を落とすと、思わず二人は唸り声を上げた。
「私、試練を乗り越えて見せます。ですから、私も一緒に連れて行ってください」
マリアの意志は言葉以上に瞳に表れていた。塔を見上げるマリアの横顔を強い夕陽が照らし、彼女の深海色の瞳が強く輝いているのが分かる。
「ヘンリー」
「ん?」
「マリアをよろしく」
「ああ、分かった、任せとけ」
すんなりと受け入れたヘンリーに、リュカは少し驚いたように目を大きくした。そんなリュカの様子に、ヘンリーは怪訝な目を向ける。
「何だよ」
「いや、意外に素直だなって思って」
「いいから早く行こうぜ、日が落ちちまう。リュカ、お前が先に行って様子を見てこいよ」
「私が先に行きます。リュカ殿は後についてきてください」
ピエールが剣を手に、塔の入り口を入って行った。扉が開いた時から魔物の気配を感じ、リュカは意識的に気を引き締めてピエールの後に続いた。残されたヘンリーもマリアを伴い、すぐ後に続くべく歩き出す。
「てっきり反対されるのかと思っていました」
マリアの小さな声に、ヘンリーは歩みを止める。
「反対って?」
「私が塔に上ることです。だって、魔物がいるんですよね。戦えない私はどうしたって足手まといになります」
「確かにそうだな、足手まといになるかもしれない。だけどマリアの言う通り、塔の中にも試練があるんだとしたら、考える人数は多い方がいい」
「……見苦しかったでしょうか。私がついて行きたいばっかりに、理由をこじつけるみたいなことをして」
「ついて行きたい、って思ったんだろ。ついて行かなきゃいけない、じゃなくて」
ヘンリーの問いかけに、マリアはその言葉の意味の違いを考えた。答えは考えるまでもなかった。
「自分の目で確かめたいって思いました。塔の試練が私に乗り越えられるのか、文献に載るような塔がどのようなものなのか、置かれている不思議な鏡というのがどういうものなのか。こんな傲慢な考え方、修道女らしからぬことと、院長様に叱られるかもしれませんが」
「君が自らしたいことを、俺は止められないよ。しなきゃいけない、って思うんだったら、止められるけどな。しなきゃいけないことなんて、ないんだからさ」
そう言いながら笑うヘンリーの足元に、弾んでぶつかってくる者がいた。魔物の気配は感じていなかったヘンリーは、何事かと足元に視線を落とす。
「ピー」
「どうした、スラりん。一緒に連れて行けってか」
「ピーピー」
「そうみたいですね。パトリシアさんさえ大丈夫なら、一緒に連れて行きましょう」
「パトリシアみたいなどデカイ馬を襲うような魔物も、この辺りにはいないだろうな。じゃあ仕方ない、お前も連れて行ってやるよ」
ヘンリーの許可を得るまでもないと言わんばかりに、スラりんはマリアの足元にすり寄り、まるで子供がそうするように抱っこをせがむ。そんなスラりんの姿を見て、ヘンリーが声を尖らせた。
「そんな甘ったれてるようだと、連れて行かないぞ。お前も一人前と認められたかったら、自分の足で歩けよ」
「まあまあ、いいじゃありませんか。でもスラりんさん、私も自分の身を守らなくてはならないから、危ないと思った時は手を離してしまうかも知れませんよ」
マリアの言葉を聞いているのかいないのか、スラりんはマリアの足元でぴょんぴょん弾んでいる。もしかしたらこの旅を一番楽しんでいるのはスラりんなのかもしれないと、その姿を見てマリアは微笑む。スラりんを抱き上げたマリアを確認し、ヘンリーは彼女に背を向けて塔の入り口に向かう。
「マリア」
「はい」
塔の中に入ったピエールとリュカの姿が小さく見える。周囲の様子を窺い、魔物の気配に神経を集中させているようだ。入り口をくぐったヘンリーも、早くも魔物の気配を感じ始める。
「とりあえず、絶対に俺から離れるなよ」
ヘンリーの真剣そのものの背中に、マリアはスラりんを胸に抱えながら、表情を引き締めて返事をする。
「はい、絶対に離れません」
この言葉を交わした瞬間、二人の間にあった雰囲気ががらりと変わったことに、二人とも気付いた。恩人でもなく、友人でもなく、旅の仲間でもなく、他の何かに形を変えた空気がそこに生まれたことを、ヘンリーもマリアも塔を照らし終えそうな夕陽の橙色に見た気がした。

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