王位を継ぐ者(1)

 

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「だからぁ、それはお前が考えるべきことだろ」
「だから、僕は結婚を考えていないと言っているじゃないですか」
「一国の王が結婚を考えないなんて話、聞いたことないぜ。もうラインハットも大分復興してきたんだから、国王のお前にもいい話が来てんだろ? もうちょっと本気で考えろよ」
「兄さんこそ、ちゃんと本気で考えて下さいよ。せっかくマリアさんという素敵な方と結婚したんですから。そろそろ兄さんたちの……」
「あー、もう、うるさいうるさい。お前、まさか、マリアにもおんなじようなこと言ってねぇだろうな?」
「姉上に言えるわけがないでしょう! だからこうして兄さんに言ってるんですよ」
「ああ、良かった。まあ、そこまでデリカシーのない奴だとは思わなかったけどさ」
「僕は早く叔父さんになりたい……」
「自分からオジサンになりたいなんて、奇特なヤツだぜ……」
昼食の後のひと時だった。ラインハットの王兄夫妻が暮らす王室上階の部屋で、机の上の書類に向かう兄に向かい、弟がその机に寄りかかるようにして言葉をかけていた。ラインハット国王である弟デールも、宰相に位置する兄ヘンリーも、互いに時間がないながらもこうして言葉を交わす時間を作って話をするようにしている。ヘンリーが十余年ぶりに奇跡的にも祖国への帰還を果たし、崩れかけていた王国を立て直すための仕事に忙殺されながらも、二人の兄弟はそれまでの失われた時間を埋めるように話をするようにしている。しかしデールは国王としての執務に、ヘンリーは宰相としての執務に追われるだけで、顔を合わせないまま一日が過ぎる日も珍しくはない。
ヘンリーは今日中に目を通さねばならない書類の束を前に休みを取ることなく働き続け、その最中にデールがほんの少しの休息の時間でこの場所を訪れていた。最近では顔を合わせれば必ず同じ話題になり、進展の見込みなどない話題にヘンリーは辟易していた。
「こんなくだらねえ話をするくらいだったら仕事に戻れよ、オウサマ」
「どこがくだらない話なんですか。これからのラインハットにとってとても重要なことですよ。王位継承者がいなければこの国はまた滅ぶ危機にさらされます」
「んな大げさな。お前が嫁さん見つけて、子供ができれば、王位継承問題なんて起こらないだろうが」
「本来、兄上が王位継承者だったんです。ですから兄上の子供が王位を継ぐ者になるべきなんですよ。僕もそうしたいし、国民だってそれを望んでいるんですよ」
何者かに誘拐され、行方不明となったヘンリーが生きて戻ってきたことにも当然国民は沸いたが、それから少ししてヘンリーがマリアと結婚するという明るい話題に、ラインハットは一層盛り上がったのだった。そして今、ラインハットの国民は皆、ヘンリーとマリアの間の王子または王女の誕生を心待ちにしている。ヘンリーはその期待を嫌でも感じつつ、日々の終わりの見えない仕事に忙殺されるだけで、すでに一年を過ごしていた。
「本来も何もないだろ。今はお前がこの国の王をやってるんだから、先ずはお前が子を為すのが順番だ」
「でも国民は兄上とマリア姉さまの子供を心待ちにしていますよ。国民の期待に応えるのも兄上の仕事の一つでしょう」
「仕事で子供を作れってか? ふざけるな。マリアに謝れ」
「ところでマリア姉さまは今どちらにいらっしゃるんですか?」
「教会に行ってるよ。一日に一度は行くからな」
海辺の修道院で修道女として暮らしていたマリアは、ヘンリーと結婚した後も毎日欠かさず城の教会に通い、神に祈りを捧げることを日課としていた。それは朝早い時もあれば、今のように昼過ぎになることもある。ヘンリーの仕事を手伝うことができず、夫の邪魔をしたくはないため、マリアはこの私室でのんびり過ごしていることはあまりない。太后の部屋に行って話をしたり、厨房に入って食事の手伝いをしたり、広い中庭に出て掃除を始めたりと、まるで侍女のような行動をすることも多々ある。そのため城の者たちはマリアに敬愛の念を抱きつつも、もう少し部屋で落ち着いていてほしいと願うこともあった。中には、あまり部屋にいないのは夫との仲が悪くなったのではないかと、ヘンリーとの不仲を噂する者まで出てきていた。
「マリア姉さまは子供が欲しくないのですか?」
「……さあ、どうだろうな」
「聞いてないんですか?」
「んなこと、聞けるか」
「いや、だって、夫婦でしょう? 結婚したら次は子供って、普通考えるものなんじゃないんですか?」
「あー、もう、うるっさいな、お前は! ほら、お前もそろそろ仕事に戻れよ。時間だろ」
ヘンリーが頭をかきむしりながら部屋の壁に掛けられている時計を指差す。デールは時計の針を見て息を呑み、慌てて部屋を出ていこうとした。しかし振り返ると再び同じ言葉を兄に投げる。
「兄さん、早く僕に甥か姪を見せてくださいね。僕、早く叔父さんを楽しんでみたいんです」
「時間が経てば俺もお前も勝手にジジイになるよ。焦るな」
ヘンリーのふざけた言葉に返事をしないまま、デールは国王としての執務に戻るため部屋を出て行った。部屋の外で「デール様、お早く!」と兵士の急かす声が聞こえる。既にデールを待つ者が王室前で待っているようだ。デールは国王として国民の声を聞くため、謁見する者とよくよく話をし、ラインハットの国をよりよくするべく国民の意見を吸い上げている。この一年で驚くべき復興を遂げたとは言え、まだまだラインハットの国には問題が山積みの状態なのだ。城下町の水路の修復や家屋の修復などはまだ途上段階で、完全な修復には時間がかかる。魔物の太后に国を乗っ取られかけていたころに比べれば税金も下げることができたが、それでもまだ国民からは税金が高くて生活が困窮するという声が出る。ラインハット国が保有していた財産をある程度放出し、国の財政に充てているが、それだけでは国民すべてを満足させることはできない。足りない部分は外交で補おうと、ラインハット周辺で得られる資源を調べ、それらを外に出して利益を得るべく、ヘンリーが外に出かけることもあった。危険な旅になるが、妻であるマリアも伴い、国外での契約を取り付けることでラインハットの国を徐々に豊かにするよう努力している。その他にも様々な仕事が目の前にあるが、ヘンリーもデールもとにかくできることからこなしていくという形で、今までどうにかやってきていた。
「今はとにかく、国の復興が先だろ……」
そう呟くヘンリーは、自分が本心ではないことを呟いていることに気づいている。国の復興がまだ途上段階であることは確かだが、それでも国民からの不平不満はそれほど多くない。今までの偽太后による圧政から解放された国民はそれだけで自分たちは救われたのだという感覚を得ていた。その上、行方不明となっていた第一王子が国に帰還し、おまけに結婚するという明るい話題を振りまいたことで、国民は大いに気も高ぶり、お祝いの雰囲気の中で復興の足も早まる結果を導いた。
国の復興には国民の気力が必要なのだ。いくら国王が政治に励み、宰相が諸国を飛び回ろうと、国民の士気が上がらなければ国は立ち行かない。そしてその国民の士気を高める役割を担うのも、王族であるデールやヘンリーの仕事だった。
「子供……ねぇ……」
正直なところ、自分とマリアの間に子供が生まれても、果たしてその子供を可愛がることができるのか、ヘンリーには自信がなかった。実母を亡くしたのは記憶になく、先代の王である父とは分かり合えないまま、ヘンリーが行方不明の内に死んでしまった。ヘンリーは両親の愛情をもらったことがないのだと自覚していた。両親からの愛情を感じたことのない自分に子供が生まれたとして、その子供をどう思うのか、考えるだけで恐怖を覚えるようだった。
「あなた、どうかなさったのですか?」
唐突に耳に飛び込んできた声に、ヘンリーは椅子から飛び上がりそうになった。部屋の扉からマリアが入ってきて、訝し気にヘンリーを見つめている。机の上の書類の山を前に、ヘンリーは一点を見つめたまま止まってしまっていたようだ。
「あ、ああ、マリア。お帰り」
「お疲れのようです。お茶を入れ直しますから、一緒にいただきましょう」
マリアはそう言うと、机の上に乗るカップを手に取ると、そのまま奥へと姿を消した。デールが飲み干していったカップも一緒に片づけ、陶器の触れ合う音をさせながら奥で茶の用意をし始めた。すぐに奥へと姿を消してしまったマリアの後姿に、ヘンリーは見えなくなった後もぼんやりと眺めているような眼を向けていた。
「デール様がいらしていたんですね」
奥でカチャカチャと皿やカップが触れる音をさせながら、マリアが声だけでヘンリーに呼びかける。姿の見えない妻に、ヘンリーは「ああ」と短く返事をするだけだ。デールとの話の内容をマリアに話す気にはなれなかった。国民が自分たちの子供を待ち望んでいると彼女に話したところで、困らせるだけだろうとヘンリーは無言のまま再び目の前の書類に目を落とした。
マリアが茶の用意をしてくると、ヘンリーは机の上の書類を大雑把にまとめてよけて、カップを置く場所を作る。椅子の横に落ちた書類を拾い上げ、真剣な顔をして書類を見るヘンリーを、マリアは複雑な表情で見つめていた。
「あなた、休む時はしっかり休んでくださいね。体を壊してしまいます」
「平気、平気。メシだって食ってるし、ベッドで寝てるんだから、問題ないよ」
「そんなことを言って……ほとんど食べてもいないし、あまり眠れていないのでしょう?」
マリアはそう言いながら、小皿に乗せた木の実をヘンリーの前に差し出した。十数粒ほど入っている小皿を見ながら、ヘンリーは一粒をつまみ上げ、思わず笑う。
「あー、そういえばあいつ、よくこんなの食ってたよな。ガンドフが木を揺らして落ちてきた木の実を拾って食ったこともあったっけ」
「木の実は栄養が豊富なんですって。リュカさんはそのことを知っていたのかも知れませんね」
「俺はあんまり好きじゃないんだよな。何だか喉に詰まる感じがしてさ」
「でも栄養が取れるので食べておいてくださいね。ただでさえ、あなたは食事を十分にとっていないように思いますから」
「へいへい」
少々不満を表しながらもぽりぽりと木の実を食べ始めたヘンリーを見て、マリアはわずかに安心したように微笑む。夫が仕事の忙しさに追われ、もし倒れてしまったら、それほど悲しいことはない。国を支える夫には元気でいてほしい。仕事以外のことで気に病むことなどあってはならないのだと、マリアは先ほど扉越しに聞こえていたデールとの会話を思い出し、心の奥底に見え隠れしている本心をさらに下へと押し込めた。



偽太后の圧政によって荒らされていたラインハット城は当時、城の中の掃除も行きわたらず、中庭の草木も手入れがなされないまま伸び放題の状態だった。魔物にとってはその環境が過ごしやすいのか、城内は非常に荒れていて、城に仕える人の数も少なくなってしまっていたため、荒れた環境を修復する者も行きわたっていなかった。
しかし魔物に乗っ取られかけていた城を取り返し、急速に進む復興の中で、ラインハット城は元の姿を取り戻していた。城の中の清掃も行きわたり、広い中庭の草木も庭師の手入れによって整えられ、人々はその環境で人間として生きる気力を取り戻した。環境が汚れていれば、心も汚れる。清らかな環境の中では、人は清らかな心を持つことができるのだと、マリアはラインハット城の清掃に身を乗り出すこともあった。
王兄の妻としてラインハットに迎えられたマリアにそんなことはさせられないと、周りの者はマリアのそのような行動に困惑していた。身分など関係なく、自ら城の掃除や給仕に乗り出すマリアに慈愛を感じる人々も少なくなかったが、やはり王兄であるヘンリーの妻に、城仕えのような仕事を任せるわけにはいかない。マリアも人々を困らせる意図は全くないが、できることをしたいと願うため、毎日通う教会の神父に相談したところ、教会の仕事を任せられるようになったのだった。
ラインハット城の教会には子供たちが文字の読み書きを習うため通ってきていた。城下町から通う子供らの人数はさほど多くはない。しかし偽太后の圧政に苦しめられていた彼らは生きるのに必死だったため、読み書きを習う余裕などなく、かなり大きくなってからもまだ文字を知らない子供たちが多くいた。そんな子供たちに、マリアは読み書きを教える先生となって毎日教会に通っていたのだった。
マリアもそれほど読み書きが得意な方ではなかったが、全く文字を知らない子供たちにとってはマリアの知っている知識で十分だった。さらに知識を得たければ、教会には豊富な書物が揃っている。文字の読み書きがある程度できるようになった子供はそれぞれ教会の書物を手に取り、自ら学びを進めていた。
ラインハットはまだ復興の道の途中だが、確実に国が良くなっている証拠として、子供の誕生が続いていることが一つ挙げられた。新しい命が誕生すると、その父母は教会を訪れ、祝福を受ける。マリアはこの数か月、その光景を幾度となく目にしており、そのたびに目を細めて父母に抱かれる赤子を見つめていた。
今日も教会には神父の祝福を受ける赤ん坊と父母の姿があった。マリアは子供に読み書きを教える先生として教会の隅に長机を並べて子供たちの様子を見ていたが、近くを通った赤ん坊のすやすやと眠る姿を見て、思わず頬を緩めていた。
「マリアさまは、赤ちゃんいないの?」
マリアの様子を見ていた子供が素直に問いかけると、マリアは微笑んだまま困ったように目を逸らす。ヘンリーと結婚し、夫婦となった二人の間に何故子供がいないのかというのは、子供の純粋な疑問だった。大人になって結婚すれば、自然と子供が生まれるのだと子供たちは思っている。幼い質問をする子供を、年長の子供がたしなめ、その場はすぐに収まった。
子供の問いかけに答えることができないのは、マリア自身、答えを持っていないからだった。
マリアはヘンリーの求婚を受ける形でこのラインハットに来た。ヘンリーの立場を考え、一度は断った申し出だったが、彼の熱意に押され、応えようと思った。彼が結婚を申し出なければ、マリアは恐らくあの海辺の修道院で人生を終えることになっただろうと、今もそう考えることがある。それで良いのだと思っていた。あの修道院でずっと兄とあの場所に残された人々の無事を願い祈り続けるのが、自身の役目なのだと思っていた。
ヘンリーと結婚してからは、目まぐるしい毎日が始まった。王宮生活などしたことのないマリアには覚えることが数えきれないほどあった。そのほとんどを城仕えの人やヘンリーの義母である太后に教わることになった。誰もが優しく、マリアはこの平和な時間に身を置いていていいのだろうかと自問自答することもあった。
忙しさの中に身を置いている時には、周りの目を気にする余裕もなかった。しかしラインハットでの生活が始まって一年を過ぎるとさすがに気持ちにもゆとりができ、ようやく周りを見渡すことができるようになった。相変わらず周りの人々はマリアに優しかった。優しい故に、彼らの本当の期待に気づくのが遅れた。
マリアは神父の祝福を受ける赤ん坊を眩しく見つめる。母の腕に抱かれた白い包みの中にはまだ生まれて間もない赤子がすやすやと眠っている。片手に収まりそうなほどの小さな命を、母も父も大事な宝物を扱うように優しく包み込んでいる。その姿こそが神の奇跡なのだとマリアは感動し、そして悲し気に目を伏せた。
「さあ、今日はもうこの辺でおしまいにしましょう」
先ほどまで町の人の話を聞いていたシスターが子供たちに声をかけた。子供たちは「まだ早いよ」などと小さな文句を言いながらも、それぞれ本を片づけてそれぞれの家へ戻って行った。親を失った子供は城で預かり、国の大切な子供として保護し育てている。教会の中に子供たちの姿がなくなると、途端に教会の内部の熱が冷めたような気がした。
「マリア様もお疲れのようですね。少し休まれた方が良いかも知れません。お部屋でお休みになってはいかがですか?」
シスターの言葉は優しく包み込むようで、マリアはその言葉に身を委ねそうになる。しかし部屋で休むことなどできない。部屋では夫のヘンリーが休むことなく働き続け、今も疲れた体に鞭打って難しい書類を睨んでいるに違いないのだ。そのような夫の目の前でゆっくりと休むことなどできないと、マリアは小さく首を横に振った。
「いいえ、私は何も大したことはしていません。あの、もしよろしければ私にもシスターのおつとめのお手伝いをさせていただけませんか?」
「何を仰ってるのですか。マリア様にお手伝いをお願いするなど、とんでもないことでございます。私がヘンリー様に叱られてしまいますわ」
「ですが私も何かしていなければ……」
そう言いながら椅子から立ち上がろうとしたマリアは、ふとめまいを感じ、子供たちが本を広げていた机に手をついた。よろめいたマリアを見て、シスターは慌ててマリアの背中に手を当て支える。再びマリアを椅子に座らせると、シスターは誰にも聞かれぬよう小声でマリアに囁く。
「近頃体調を崩されているということはありませんか?」
シスターの意図を読めず、マリアはただ小さく「そんなことはないと思います」とだけ答える。
「少し気持ちが悪くなったりしたこともないでしょうか?」
「あまり覚えがありませんが……何故ですか?」
「……女性は身ごもると初めのうちは気持ちが悪くなったり、体調を崩しがちなのです。ですからもしかしたらマリア様もそうなのではと思ったのですが」
マリアも女性の妊娠についての知識を少しは持ち合わせている。お腹に新しい命が宿り、十月十日お腹の中で命を育てている間、女性は体調を崩しやすいと言われている。特に初めのうちはその度合いが強く、酷い場合は寝込んで動けなくなることもあるという。
「大丈夫です。私は……赤ちゃんを授かっていません」
言葉にして伝えた途端、マリアは目頭が熱くなるのを感じた。事実を伝えただけだというのに、何故涙を流してしまいそうになるのか。先ほど、神父に祝福を受けていた赤子の姿を思い出す。小さな小さな命は非常に尊く、神の奇跡を見ているようだと感じた。その奇跡を恐らく自分は見ることができない。罪を背負った自分には、神の奇跡を得ることはできないのだと、マリアはすべての人に頭を下げたい気持ちだった。
「マリア様、とにかく今日は休まれてください。しっかりと食事を取り、十分な休息が必要です。そしてそれは、ヘンリー様にも必要なのだと思います。どうかヘンリー様にも十分に休むようお伝えください」
「……そうですね、夫にもそう伝えておきます」
端的に返事をしながらも、マリアはヘンリーが休むことはないのだろうと思っていた。ヘンリーがあのような事務仕事を好き好んでしているわけではないのは分かっている。何故彼があれほどまでに国のために尽力しているのかというと、それは彼の後悔にあった。マリアに直接話したことはないが、彼が幼い頃の行き過ぎた行動を悔いていることは、ラインハットの人々の話を聞いていれば自ずと分かることだった。そして結婚してからも何度か彼がうなされるようにリュカの名を呼ぶのを、マリアは耳にしていた。『リュカ、すまない……』と苦しそうに呟く彼の苦しみを確かめることのできない自分は、果たして彼の妻なのだろうかと自信を無くす。
マリアは教会を後にし、ヘンリーがいるであろう部屋に戻る足取りも重く、城の廊下を歩いていく。すれ違う人々は皆丁寧にマリアに頭を下げ、挨拶をする。マリアは一年経っても王兄の妻である立場に慣れなかった。マリアも足を止めて丁寧にお辞儀をして挨拶に応え、ここにいるのが申し訳ない気持ちで廊下を静かに歩いていく。そのまま部屋に向かおうとしていた足は自然と部屋から遠のき、城の中庭に向かっていた。天気の良かった今日は洗濯物が風にそよぎよく乾いているだろうと、マリアはまるで城仕えをする侍女のように中庭に干されている洗濯物を取り込みに行ってしまった。



部屋の外で侍女の呼ぶ声がする。ヘンリーは名を呼ばれながらもおざなりに返事をして、あと少しだけと書類の束に目を通していた。
ヘンリーは早朝に目を覚まし、まだ暗い中呪文でランプに火をつけ、机に向かっていた。これほどの書類の山をすべて真面目に読む奴なんてどこにいるんだと悪態をつきながら、それでもヘンリーは真面目に書類に目を通し、そのほとんどにサインを書いている。
ヘンリーが目を覚ました時、マリアはまだ隣で安らかな寝息を立てていた。彼女が静かに休めている姿を見ると、安心する。マリアと結婚した直後、ヘンリーは有頂天に近い状態で、彼女さえ隣にいてくれれば他には何もいらないと本気で思っていた。それは今も大して変わらない気持ちだが、それでは自分だけが良い思いをしているのではないかと最近は少々気に病み始めている。
マリアは今、この部屋にいない。今は侍女と共に食事の支度をし、デールや義母と共に朝の食事を前にしてヘンリーを待っているのだろう。彼女は朝、目を覚ますとすぐに身支度を整え、部屋を出て行ってしまう。朝早くから、城に仕える者たちは仕事に従事し、その仕事をマリアも進んで手伝うのが日課だった。海辺の修道院で修道女として暮らしていた彼女は、おつとめをすることで気持ちを落ち着かせることができるのかも知れない。のんびり部屋で本を読んだり、編み物をしたりするよりは、掃除をしたり料理を手伝ったりと体を動かしている方が落ち着くのだと言っていたこともあった。
マリアと結婚したというのに、彼女といる時間はせいぜい夜眠りに就く時だけだった。しかも大した話もしないまま、どちらかが疲れの中で眠ってしまい、そして朝を迎えるという日が続いていた。ヘンリーが部屋で仕事をしている時、彼女は気を遣ってか部屋を離れ、様々な場所で立場を忘れて仕事をしているらしい。
当然、ヘンリーの妻である彼女にも与えられる仕事はある。国王デールや王兄ヘンリーと共に客人を迎えたり、ラインハットの経済を立て直すためにヘンリーと共に外国に足を運んだこともあった。しかしそれも公式なもので、ヘンリーと共に過ごす私的な時間ではない。ヘンリーは彼女と結婚し、ずっと共にいられる幸せを感じるはずだったのに、結婚してからの方がむしろ寂しさが募ってきたことに、思わずため息をつき、書類に見切りをつけて部屋を出た。
「兄上、遅いですよ。忙しいのは分かりますが、母上やマリア姉さまをお待たせするのはいかがなものかと……」
「悪い、悪い。なかなかキリが悪くてさ」
「わらわは先に食事を始めようと言ったのじゃが、マリア妃殿下がもう少し待ちましょうと言うのでな。待っておったんじゃ」
「それは申し訳ありませんでした、母上。さあ、では食事を始めましょう」
ヘンリーがマリアの隣の席に着くと、すぐに食事がテーブルに運ばれてきた。マリアは自分で運ぶべきなのではとそわそわしているが、身分上そういうわけにもいかない。緊張した面持ちで背筋をピンと伸ばし、前に並べられる食事を落ち着きなく見つめている。
「マリア、まだ慣れないか。もっと気楽にしていいんだぞ」
「え? あ、はい。私は大丈夫です」
「どこがだよ。肩なんかガチガチじゃないか。ほら、リラックス、リラックス」
そう言いながらヘンリーがマリアの肩に触れると、マリアは尚身体を強張らせ、顔を赤くして俯いてしまった。マリアの様子を見て、デールも太后も微笑む。
「結婚して一年が経つのに、まだ新婚のようですね、兄上たちは」
「結婚する前の恋人同士のようじゃ。いつになったら夫婦らしくなるのか……。子でも出来れば夫婦らしくなるのかも知れんがのう」
太后はゆるやかな笑みを浮かべながら紅茶を上品に一口飲むが、マリアは太后の言葉にぴたりと動きを止めてしまった。湯気を立てている美味しそうなスープも、瑞々しいサラダも、マリアの前では途端に温度も色も失ったように見えてしまう。
「母上、ところでデールの結婚の話はどうなってるんですか。既に何人か候補を挙げていらっしゃったと思いますが……」
ヘンリーが口の中のサラダを飲み下してそう言うと、太后は考えるような顔をして小さくため息をついた。
「わらわが聞きたいくらいじゃ。デールはどんな話を持って行っても一向に首を縦に振らんでな」
「兄上が結婚したのですからそれでいいではないですか。あとは兄上に子供ができれば、僕はその子に王位を継がせるつもりなんですから」
デールは長年離れていた兄を心から尊敬していた。まだ幼いうちにこの国を追いやられ、過酷な人生を過ごしてきた義理の兄は、ラインハットに戻ってからは自分を過酷な人生に追いやったこのラインハットに恨みつらみを持つわけでもなく、ただ熱心に国の復興に取り組み、それこそ身を粉にして働き続けている。ヘンリーがどのような思いでラインハットに戻り、王族としてラインハットに尽くしているのか、詳しいことはデールも知らない。兄はラインハットを見捨てて他の場所で生きることもできたはずなのだ。しかし魔物に貶められかけている祖国を見て、彼は国を救うために立ち上がり、恐らく戻りたくなかったこの国に戻ってきてくれた。
デールはヘンリーに幸せの中に生きてほしいと願っている。愛する人を妻にし、心の安らぎを得て、ヘンリーは一段と人間が丸くなったように思えた。今更ヘンリーを国王とするわけにも行かないため、デールはヘンリーの子供を次の王に擁立することが本来の兄の姿を取り戻すことなのだと、そう信じているのだった。
暫く誰も口を開かず、ただ静かに食器とフォークやスプーンがぶつかる音が緊張の中に響く。サラダとスープを済ませたヘンリーが、パンをちぎりながら嫌そうに口を開く。
「この国に王位継承者は一人でいい。それはデール、お前の子であるべきだ。お前が国王なんだから」
かつてラインハットは王位継承問題で揺れ、それがきっかけとなって王国自体が揺らぎ、魔物に国を乗っ取られるところまで追い込まれてしまった。過去の事実に、デールも太后も思い悩むようにしばらく黙り込む。ヘンリーが直接太后の過去の行動を責めることはない。太后の実の息子への愛情に、大人になったヘンリーは一定の理解を示すことができた。全てを許せるわけではないが、過去のことをいくら責めたところで今を変えることはできない。過去に失敗した者は、過去を反省し、前を向くしかない。
「でもそれって兄さんだけの考えですよね。今はマリア姉さまと夫婦なんですよ。マリア姉さまはそう思っていないかも知れないじゃないですか」
急に自分の名が出され、マリアはフォークですくいかけたサラダを皿の上に落としてしまった。マリアの食事はほとんど進んでおらず、ようやく二口目のサラダを口にしようとしたところだった。
「マリア姉さまは子供がお好きでしょう? 城の教会でも子供たちに読み書きを教えていますもんね。自分たちの子供が欲しいと思っているんじゃありませんか?」
「愛する夫との間に子を授かるのは、女の喜びじゃと思うが……そうでもないのかえ?」
国王と太后に顔を覗き込まれるように話しかけられ、マリアはフォークを持つ手を震わせた。自分自身に落ち着けと言い聞かせ、フォークをテーブルの上に静かに置くと、マリアは一つ小さく深呼吸をして体の中の空気不足を補った。
「あ、あの、私は……」
「マリアを追い込むなよ。ただでさえこういう場にまだ慣れていないんだ。いきなり母上やデールにそんなこと聞かれたって、正直に答えられるわけがない」
マリアの言葉を遮るようにしてヘンリーはそう話すと、グラスの水を一口飲む。ヘンリーの気遣いの言葉にマリアは黙り込み、音になろうとしていた言葉はそのまま彼女の胃の底へ沈んでいった。今はもう何を言いたかったのかも分からなくなってしまった。本当は言うべき言葉も見つからず、ヘンリーの言葉に救われただけだったのかも知れないと思った。
「とにかく、俺は国王のデールの子が次期国王になるべきだと思う。俺は……マリアさえ隣にいてくれればいいんだ。俺に子供は、いない方がいいと思う」
それがヘンリーの本心だった。夫の本心を聞いて、マリアは小さく頷き、そして再び食事に手をつけ始めた。特に緊張もなく、食事を進めることができたが、サラダにかかる塩の味すらあまり感じられなくなった。そして水を一口飲むと、マリアは落ち着いて言葉を口にする。
「私もヘンリー様と一緒になれただけでとても幸せです。これほどの幸せを私が手にしてよいのか不安になるほどです。ですから……私もヘンリー様の隣にいられれば、それだけで良いのです」
そう口にすると、マリアはそれが自分の本心なのだと思うことができた。彼の地に兄を置いてきてしまった自分が今はラインハット国王の兄と夫婦になることができた。これほどの幸せを越えるものなどないのだと、マリアは今の幸せをサラダと共に噛み締めた。兄の事を思えば、今の幸せを罪に感じるほどなのだ。十分すぎるほどの幸せを与えてくれたヘンリーに、マリアは心から感謝する思いを改めて抱いた。
愛し合う夫婦の熱に当てられたデールは、手で顔を仰ぐ仕草をして二人をからかう。ヘンリーはそんな弟に対して「悔しかったらかわいい嫁さん早く見つけろ」とデールの結婚を促すような言葉をかける。マリアは兄弟のやり取りを見て、口に手を当てて小さく笑う。
息子たちとその嫁の会話を目にしながら、太后は一人考え込むように、上品にスープをすすっていた。



一日中部屋に缶詰のようになって書類の山を捌くヘンリーだが、この日は更に朝早くから必死に働き続け、昼食を取るのも忘れ、夕方になるまでまるで取りつかれたようにいつもより多くの紙を処理していった。彼には本来の仕事とは別の目的があった。そのために慣れてきた事務作業を手っ取り早く済ませ、やりたいことをするために時間を設けようとしていた。
城の回廊に夕日が差し込む。この時間になってくると城の中の温度も徐々に冷えてくる。夏は涼しく冬はいくらか温かく過ごせる大理石造りの城だが、それでも冬も本番のこの時期になると外套を身に着けなくては夜の城を歩き回るには寒すぎた。
「まったくあいつは、新婚で浮かれてるのか何なのか、便りも寄こさねぇな」
ヘンリーは処理済みの書類を机の端に積み上げ整えると、眉間を指先でつまむようにして目を閉じた。冬は陽が沈むのも早い。今日の仕事はここまでと区切りをつけ、ヘンリーはペンとインクを片づけ、部屋を出ると、部屋の外で見張りをしている兵士に一言声をかける。
「図書室に行ってくる」
「はい、かしこまりました。じきに夕食の時間になりますが……」
「ああ、俺は抜きでいいよ」
「かしこまりました。ではヘンリー様の食事は後程お部屋までお運びいたします」
「悪いな」
週の半分はやり取りされる会話だった。ヘンリーはこのところ頻繁に図書室に行っては籠りっきりになって調べ物をしていた。ラインハットの城の図書室は様々な種類の蔵書が置かれている。元から本を読むのはそれほど嫌いではなかったヘンリーだが、今は必要に駆られて図書室での調べ物をする日々が続いている。
図書室に通じる廊下はさらに冷え込むが、歩いているヘンリーはその寒さを感じることもなく急ぎ足で図書室に向かう。ヘンリーが調べ物をしている内容は終わりの見えないものだった。
ヘンリーが図書室の扉を開けると、部屋の中の本の古びたにおいが鼻につく。決して嫌いなにおいではなかったが、まるで終わりの見えない調べ物を続けるヘンリーにとってはあまり良いにおいにも思えなくなっていた。
図書室には城の学者がいることもあるが、以前までは王族のみ立ち入りが許されている場所だったせいか、今もヘンリーの他に人は一人もいなかった。図書室の鍵は国王であるデールが持っているが、偽太后討伐以降は図書室に鍵をかけるのは夕食を済ませた後にデールが図書室に訪れて行うことになっている。日中は自由に図書室に出入りができ、その奥にある旅の扉も必要に応じて使えるようにしていた。ヘンリーがマリアを城に迎え入れてからは、ラインハットから海辺の修道院への寄付を行うようにもしていた。主にその時、図書室奥の旅の扉を使うことになっている。
ヘンリーは図書室に入るとすぐにランプに明かりを灯し、決まった場所へと足を運ぶ。城の図書室は広く、多数の蔵書を揃えている。その中でヘンリーが向かうのは、伝記や伝承にまつわる本が置かれる区画だった。伝記や伝承には信憑性に欠ける話が多くあり、全くの嘘をそれらしく書いているものもある。人々が面白がることが大事なのだと言わんばかりの作りこまれた話を綴っている分厚い本もある。しかしヘンリーはその中でも現実世界に結び付くような話を見つけるべく、一昨日調べた本と、その隣四冊ほどの本を大まかに手にして、明かりを置いてある机に戻った。
「天空の武器防具……天空……天空の……伝説の勇者……」
呟きながら調べるのは、リュカが旅の間に探している天空の防具にまつわる話だった。今もどこかで旅を続けている友が探し続けているのが天空の防具である天空の兜と天空の鎧だ。
数か月前、リュカはサラボナという町で結婚式を挙げた。ちょうどサラボナの地を目指し、妻であるマリアを伴い旅をしていたヘンリーはラインハットの商売相手でもあるルドマンから旅先に手紙を届けられ、その内容に面食らった。まさか友が旅の途中で結婚をするとは思ってもいなかった。友であるリュカが最もその事態を予想していなかったに違いなかった。
その状況で友の結婚式に参列しない訳にはいかないと、予定を早めてサラボナを目指し、友と、彼の幼馴染であるビアンカという女性との結婚式に参列することができた。話に聞いていた強気な女の子という印象は確かに感じられたものの、非常にしっかりとした女性で、頼りないリュカを支えてくれるのだろうと友の今後に安心を得たような気がしていた。
しかし彼が良き伴侶を得たことで、自らの罪が軽くなったわけではない。ヘンリーは今もリュカのために何ができるのだろうと考えながら、日々天空の防具の在処と伝説の勇者についての伝記を読み漁る日々を続けているのだった。リュカのために何かをすることができれば、自分のせいで彼が父を失ってしまったことの罪の意識が幾分か和らぐのだ。罪が消えることはない。しかしそれでもヘンリーは友のために何かをせずにはいられない気持ちを持っていた。
城の学者たちもデールの指示により、同様に伝説の勇者や天空の防具についての調査を進めている。天空の盾がサラボナにあるという調査結果は得られたものの、他の防具については今のところ有力な情報を見つけられていない。天空の剣は既にリュカが手に入れており、天空の盾についても現物があることを確認している。それだけに他の天空の兜と鎧も必ずあるのだという信念のもと、ヘンリー自らその在処を調べ続けている。
ランプの明かりに小さな文字が浮かび上がる。本を読み慣れているヘンリーは目で文字を追うのも早くなっていた。パラパラとページをめくり、おおよその内容が脳裏に過ぎ去っていく。仕事の時の数倍の集中力をもって伝記本を読み漁り、少しでも目に留まる内容があれば更にその部分を読み込んでいく。その繰り返しだったが、それで得られた有力な情報は今のところまだない。
集中していたヘンリーは図書室の扉がゆっくりと開かれることに気づかなかった。頭を押さえながら肘を机につき、険しい顔で本に目を落とすヘンリーに、小さな笑い声が届く。
「幼い頃のいたずら小僧が嘘のようじゃな」
「……母上」
図書室に入室してきたヘンリーの義理母である太后は、落ち着いたモスグリーンのドレスを身に着け、さらさらと裾を揺らしながらヘンリーのいる机の横を通り過ぎる。肩にはベージュのケープをかけ、背筋を伸ばして歩く姿はやはり一時期この国の頂点に立っていた太后という雰囲気を醸していた。本棚の列の中へ入って行くと、間もなく一冊の本を手に取って戻り、ヘンリーの向かいの席に腰を落ち着けた。
「どうされたのですか、母上」
「少し本を読みたくなってのう」
「そろそろ夕食の時間になります。お部屋に戻っていた方がよろしいかと」
「それはそなたも同じじゃ」
「私は兵に食事は部屋で取ると伝えてあります。後で運ばせる予定ですよ」
「マリア妃殿下が悲しむのではないか? 愛する夫と共に食事をしたいであろうに……」
そう言いながら太后は机に置いた本を静かに開いた。ヘンリーからはその本の内容を見ることはできない。しかしそれがラインハットの法が書かれている類の本だということは分かった。分厚いその本を慣れた様子でページをめくる太后をちらと見て、ヘンリーは彼女がその本を既に何度も読んでいるのだと雰囲気で察した。
「わらわが言うのも皮肉なものじゃが……」
太后は本に目を落としながら独り言のように呟く。ヘンリーも本に目を落としながら義理の母の言葉に耳を傾ける。
「この国を残して行きたいと思うておる」
彼女の息子を溺愛する気持ちがあまりにも高ぶり、ねじ曲がり、それが原因となってラインハットは一時破滅の道を辿ろうとしていた。実の息子を第一王位継承者とするべく義理の息子であるヘンリーを攫わせ国から追い出し、デールが無事国王になると、彼女の権力欲は更に増した。ラインハットという国を自由に動かせることに慢心し、全ての者が自分の前にひれ伏す状況に我を失った。ただ息子デールを愛していただけだというのに、その感情以外の感情に心を支配され、挙句にラインハットを魔物に乗っ取られてしまった。魔物につけいる隙を与えた自身を、長年地下牢の生活の中で反省し続け、その後のデールの身をひたすら案じた。そして今は国王であるデールの陰で、宰相であるヘンリーの陰で、ラインハットを支える一端を担っている。
今彼女はラインハットの歴史や法を自ら学び、息子デールを助けようと知識を得ることに努めている。子供を可愛がるというのは、ただ可愛がるだけでは何も為さないのだと彼女自身身をもって理解した。子供のために何ができるか、ひいてはこの国のために何ができるかということを今の太后は真剣に考えて行動している。
「わらわも気づけばこの年になってしもうた。まだ若いと思っていても、年は確実に取っていくものじゃ。デールも、お主も、マリアもな」
「そうですね」
それだけでヘンリーは太后の言いたいことが分かった。しかし反論する術をヘンリーは持たない。年長者である太后の意見に耳を傾けるべき姿勢をヘンリーは落ち着いて持つことができた。
「……聡いお主にはわらわの言わんとしていることが分かるのであろう?」
「世継ぎのことですね」
「そうじゃ」
「それはデールにお話しください。俺はあくまでも宰相の立場で……」
「デールは結婚しないと決めておる。わらわがいくら話を進めようとしても、頑なに首を振る」
「強引にでも進めるしかないでしょう」
「デールが何故そこまで結婚を拒むのか、分かるか?」
ヘンリーが何を言おうが、太后はその内容に意を介さないように己のペースで話を続ける。この国で唯一、自分に真正面から意見を述べてくるのがこの継母なのだとヘンリーは最近になって気づいた。弟であるデールも、妻であるマリアもどこかヘンリーに気遣う態度を見せ、本心を素直に表そうとしない。その点、太后は思ったことをずけずけと容赦なくヘンリーに伝えてくる。
「デールはそなたを尊敬しておるのだ」
太后の伝える言葉は端的だが、的確だった。
「そしてこの国を大事に思うておる」
「それは俺も同じです」
「尊敬する兄の子供が王位継承者となり、自分はいずれその小さき王を支える。そうすることが罪を償うことなのだと……そう言うておったわ」
退廃してしまっていたラインハット国の窮状をどうすることもできなかったデールは、ただでさえ疑問を持っていた自分の国王としての資質に更に自信を無くし、完全に玉座に坐するだけの王となってしまっていた。王国滅亡への道を進んでいたところに、救世主の兄とその友がこの国を訪れた。デールにとってヘンリーは、幼い頃から変わらず頼れる兄で、今もその兄が傍にいるからデールはどうにか気力を保って玉座に座ることができていた。
兄が玉座に座らないのならば、兄の子に王位を継承すればよいと、デールは兄に対する遠慮などではなく尊敬の思いから本気でそう考えていた。心から尊敬する兄の子供であれば、何の躊躇もなく王位を継がせることができる。そのようなデールの想いを、彼の母である太后ももはや否定することなく後押しする気持ちを持っているのだろう。
ヘンリーが机に置いてある本に目を落としながら大きく静かに溜め息をつくと、目の前の本が横に退かされ、代わりに太后が開いていた本が前に差し出される。ヘンリーは眉をひそめながら太后が持ってきたラインハットの法についての記述に目を向ける。
「王国にとって、世継ぎを残さない女がどうなるか、知っておるか?」
太后の鋭い声に、ヘンリーは心臓を掴まれたような気持ちになる。差し出された本のそのページには、目に飛び込んでくるような『離縁』という文字がある。ラインハット王国は何千年という長い間続いている王国ではないが、それでもそれなりの歴史があり、歴史を紡いでいくのには王国の女性の力が必要だった。王国を絶やさぬよう世継ぎを残して行った女性たちの、命懸けの仕事のお陰で今もこうしてラインハットが存続している。歴史を作り上げていったのは何も国王の力だけではない。王を支え、未来を生み出していく女性の力がなければ、王国は途絶えていたかもしれないのだ。
「デールが結婚しないとなると、マリアが世継ぎを残さなくてはならない。もしマリアに世継ぎが生まれないとなると……」
「そんな! そんなことできません。マリアは俺の妻です。俺たちの間に子供がいなくてもいいって言ったのは俺です。だからマリアは関係ない」
「関係ないとは言えないのじゃ。マリアはもう王国の人間。さすれば世継ぎを生んで、王国繁栄のために働かねばならんのじゃ」
「マリアは子供を産む道具なんかじゃない。そんなんじゃ……」
「わらわの言葉が強かったのかも知れん。すまぬ」
興奮気味に机を叩いたヘンリーに、太后はとりなすように穏やかな声で話す。
「じゃが、もし王国繁栄の話など抜きにしても、マリアはお主との間に子が欲しいのではないか? 愛する夫との間に子を授かりたいと思う気持ち、わらわには分かるぞよ」
かつて太后がヘンリーの実父である先代のラインハット王を心から愛していたのかどうかは、もはやヘンリーには分からない。しかし途中から権力欲に取りつかれ道を踏み外したとは言え、ヘンリーの継母としてこの王国に迎えられた太后は、当初本気でヘンリーの父を愛していたのかも知れない。彼女のデールへの愛情を見ていれば、人を本気で愛することのできる人間だということは理解できた。
心を改めた太后の言葉は、素直に受け入れることのできる言葉だった。彼女は彼女の失敗を顧みて、ヘンリーに助言をしているのだ。王国を思う気持ちも彼女は強く持っていた。自ら王国を滅亡に導こうとしていた反省は、彼女の王国への思いをより強固なものにした。
「そなた、もっとマリアと向き合って話してやるが良い。そうでないと、マリアに逃げられてしまうかも知れんぞ」
太后もかつての高圧的な態度はなくなり、今は人間として丸くなり、少し冗談を言えるほどに余裕も出てきた。彼女は冗談のつもりで言った言葉だったが、ヘンリーはその言葉を重く受け止めた。太后の言う通り、最近マリアとまともに話をしていない気がした。交わす言葉も互いの体調を気遣うようなよそよそしいものばかりだ。一体これのどこが夫婦なのかと、ヘンリー自身首を傾げたくなる。
太后は開いていたラインハットの法がかかれている書物をそのまま机に置いたまま、「では、失礼するぞよ」と言い残して図書室を去って行った。ぴたりと静かに閉められた扉を見つめていたヘンリーだが、すぐに目の前の分厚い書物に目を落とす。王国に嫁いだ女性が子を為さぬ場合、離縁となるのは必然のことではないらしいが、それでも王国に居続ける理由が弱くなるのは事実だった。マリアはただでさえ王宮暮らしに慣れず、様々な場面で気を遣い、疲れている様子が見られた。
その状況を把握しつつも、ヘンリーは一体何をどうすればいいのか分からなかった。マリアと話をするにしても、何を話したらいいのかも分からない。改まって話をするなどと言えば、マリアは恐らく身構えて、固い殻に閉じこもってしまいそうだと、ヘンリーは彼女をそんな窮屈な状況に置きたくないと思った。
「ああ、もう、どうしたらいいんだよ……」
ヘンリーは頭を掻きむしりながら、再び伝記の本を荒っぽく引き寄せ、内容が頭に入らないにも関わらず本の字だけを目で追っていった。

Comment

  1. ケアル より:

    bibi様。

    このあたりでのリュカたちは、テルパドールでしょうか?
    チゾットあたりでしょうか?
    まだ、砂漠にいたりして?…。

    bibi様が何を描きたがっているのかと思ったら、今後のストーリーに関わる、コリンズの話しでしたか。
    リュカが石像から溶けて子供たちとラインハットに行ったら、いたずらコリンズいますもんね。

    マリアは、やっぱりまだ、ヨシュアと、セントベレス山の奴隷たちのことが、気になるというか…後ろめたい気持ちと私だけ幸福になるなんて…と言う懺悔の気持ちが入り交じって、自問自答のエンドレスループから逃れられないでいるんですね。
    やっぱり、ヘンリーが、ちゃんとマリアの気持ちを酌んであげないとなぁ。
    1年たったとはいえ、マリアのことを考えたら、ヘンリーもしっかりしないと!そ
    して、マリアにまだ過去を話していないんだ…。
    ゲームではマリアに、どこまで話している設定だったかなぁ…。

    離縁…。
    さすがのヘンリーも決まり事があるなんて思わなかったでしょうね。
    後編の見所は、マリアの気持ちをヘンリーが、ちゃんと聴けるか、ヘンリー自信の意見ばかり言わないでいれるか。
    次回も楽しみにしています。

    ビアンカ石像が神殿まで運ばれたbibiオリジナルストーリーどうしますか?

    • bibi より:

      ケアル 様

      いつもコメントをどうもありがとうございます。
      この辺りはまだテルパドール辺りかな。でも夏ごろにはもうリュカとビアンカは石に……。あちらの人生はずっと波乱万丈です。大変だ。
      ラインハットの話は一度書いてみたかったんです。単なる私の趣味です。まあ、この長編小説自体が私の趣味ですが。
      マリアは一生、兄への懺悔の思いを持ち続けると思います。幸せな人生を歩んでも、幸せを感じる度に罪の意識を感じる、でも彼女は幸せだと思っている、という複雑な感じでしょうか。
      ヘンリーはそんな彼女にずっと付き添い、支える存在であってほしいですね。親分は結局優しいので、そうしてくれるでしょう。

      ビアンカの石像の話は……書きたいんですが、まだ練れていませんので、忘れたころにちょっと挿話のように入れ込むかも知れません。本編は本編で進めていこうかと思います。書きたいことがありすぎて困る……^^;

  2. ケアル より:

    bibi様。

    この、本編サイドストーリーで、デモンズタワーから応援を呼びに行ったピエールたちの、その後を書いて貰えませんか?
    ピエールの後悔するシーンと、それを取り巻く仲間たちの対応。
    サンチョたちの動きなど
    。皆の心情を描写してくれませんか?
    読んでみたいんですbibiワールドを!

    • bibi より:

      ケアル 様

      そうですね、私もその辺りを読んでみたいです。……って、他人事ではいけませんね(汗)
      ちょっとだけ8年後を書き始めてしまったので、(私の心が)過去に戻れるか、自分自身と検討してみます。気になりますよね、そこ。

  3. ピピン より:

    bibiさん

    ヘンリーの悩みはもっともですよね。
    原作のヘンリーは結婚してからは浮かれてるイメージがあるというか、もっと主人公を援助している描写があっても良いと思います(笑)

    ルドマンのように(わずかでも)道具や資金の援助だったり、作中のように天空装備の情報だったり…

    • bibi より:

      ピピン 様

      コメントをどうもありがとうございます。
      原作では、結婚後のヘンリーはかなり浮かれている感じですよね(笑) なので、当サイトではもう少し彼に役に立ってもらおうかなと(笑)
      一応、彼もリュカに対して負い目を感じ続けるでしょうから、リュカのためならば何かしらお手伝いしてくれるはずです。
      ということで、次回の話にそれを盛り込みたいと思っています。

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