王位を継ぐ者(2)

 

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新しい年を迎えてひと月が経ったラインハットには白い雪が降り積もっていた。城下町では子供たちの笑い声が響き、寒さにめげず大いに遊んでいるようだった。大人たちは今日一日仕事を休みにし、終日雪を除く作業を続けている。冬のラインハットは毎年同じように雪が降り積もり、国民らもこの景色と対応に慣れている。ラインハットが復興への道を進む最中この国に移住してきた者たちも、一面銀世界になった城下町の景色に面食らいながらも、周りの人々と助け合いながら道の雪をかいている。
この寒い時期は子供も大人も体の調子を崩しやすく、いつもより多くの者たちが教会を訪れ、神父やシスターに体を見てもらったり、煎じる薬草の種類を教えてもらったりしていた。神父もシスターも優先的に診ているのは子供たち、その中でも赤ん坊を連れた親が切羽詰まって教会に駆け込んできたときは、すぐに赤ん坊の様子を診始めた。小さな命は危機にさらされるとすぐにその命の火を消してしまうことがある、弱い存在だ。子供は国の宝と定めているラインハットにとって、子供や赤ん坊を診ることを優先することに異を唱える大人は一人としていない。
寒々しい廊下を早足で歩いてきたヘンリーは、珍しく城の教会を訪れていた。雪が降り積もった今日は、予定していた城下町の視察が取り止めとなったため、空いた時間で教会に向かっていたのだ。
部屋にマリアがいなかった。彼女が最もいそうなのは教会だろうと、ヘンリーはこの空いた時間でマリアに話をしようと思い、教会に向かっていたのだ。しかし実際に彼女と会って、何を話そうかなどと言うことは考えていなかった。会えば自然と話す内容も湧き出てくるだろうと、とにかく彼女に会うために廊下を颯爽と歩いていた。
教会の扉からいつもより多くの人が出てくるのを見て、ヘンリーは戸惑ったように足を止める。ヘンリーの姿を見た城下町の町民が慌てたようにヘンリーに頭を下げてたどたどしい挨拶をする。
「一体どうしたんだ? なんだかいつもより人が多いみたいだけど……」
「ええ、はい、今日はこの雪で怪我をした人もいるようで……いつもより人が多いのかと……」
そういう男性の町民も、すでに治してもらった後なのだろうが、まだ足を引きずるようにして歩いている。まだ違和感の残る右足をかばうようにして歩く男性の姿に、ヘンリーは安心したようにからりと笑った。
「なあんだ。しっかりしてくれよな。もう怪我なんかすんなよ」
「あ、はい、気を付けます。ありがたきお言葉……」
「そういうの、やめてくれよ。虫唾が走るぜ」
そう言いながら、ヘンリーは手を振って男性とすれ違うとそのまま教会へと入って行った。一国の宰相がふらりと教会に入るが、教会の雰囲気が少し引き締まっただけで、教会に訪れている町の人々が硬直することもない。ヘンリーの姿は城下町でもよく見られており、彼は人々との会話を楽しみ、そうすることで城下町の情報を得るようにしている。
ヘンリーの姿に気づいた神父が、彼の表情を見ただけで「いらしていませんよ」と答える。ヘンリーがマリアを探してここに来たことを、神父は聞かずともその顔つきで理解していた。
「俺、何も言ってないんだけど」
「マリア妃殿下でしょう? ですからいらしていませんよとお答えしたのですが」
幼い頃からヘンリーの事を知っている神父にとって、彼のひねくれたようでまっすぐな心を読み取るのは容易いことだった。大好きな女の子に会いに来たというような男の子の顔つきで、ヘンリーが教会に現れたことに、笑うのを堪えるのに必死だった。
「これから来られるのではないでしょうか。今はさしずめ……城の雪かきを手伝っているかも知れませんね」
「妃殿下ならばおやりになりそうなことです」
神父の言葉にシスターも口に手を当てて笑いながら同調する。修道女としての生活習慣が抜けきらないマリアは、夏は中庭の雑草をせっせと引っこ抜いたり、秋には落ち葉の掃除を始めたりと、到底妃殿下らしからぬ行動を続けていることを、国民の多くは知っている。下働きの者たちと他愛ない会話を楽しみつつ、仕事に精を出すのがマリアの楽しみの一つなのだと、太后がその行動を大目に見るよう周囲の人間に周知していた。
「マリアが雪かきだって? 冗談じゃない。風邪でも引いたらどうすんだよ」
「今どこにいらっしゃるのかは分かりませんが、そのうちこちらにもいらっしゃると思います。ヘンリー様もお時間があるようでしたら、ここで神に祈りを捧げ、お待ちになってはいかがですか」
「……うん、まあ、そうするよ」
ヘンリーは歯切れの悪い返事をすると、祭壇の前に立ち、祈りの言葉を口にする。しかし彼の祈りの言葉は神に対するものではなく、亡き父と母に対するものだった。恐らく今は旅の道中にいる友も同じように彼の亡き父に祈りを捧げる日々を送っているに違いないと、そう考えたヘンリーはそれ以降こうして父と母に祈りを捧げるようになった。届いているのかどうかなど誰にも分からない。しかし亡き父の姿を思い出し、亡き母の姿を想像するだけで、心が落ち着くのは確かだった。祈りの効果というのはこういうものなのかと、大人になってからようやくそれが分かった気がした。
ヘンリーが祈りを捧げている傍では、神父が次に並ぶ母子の様子を診ていた。母の腕に抱かれるのはまだ小さな赤子で、浅く早い呼吸をしているのが分かる。それだけで普通の状態ではないことが分かるが、当の母は取り乱しており、神父に対して必死に「お願いします、お願いします」と呪文のように繰り返している。
神父は真剣な顔つきで白い包みの中の赤ん坊の様子を診る。赤ん坊は泣き声を上げるでもなく、ただぐったりとして力のない様子を見せている。その様子をヘンリーは少し離れたところで見つめていた。自分の子供ではないというのに、弱弱しい赤ん坊を見るのは辛いと感じた。
神父もすべての病気や怪我を治せるわけではない。力及ばず、諦めざるを得ない場合も中にはある。しかし多くの修練を積み、経験豊かな神父にとって、今目の前にいる赤ん坊の状態はそれほど深刻なものではなかったようだ。ぐったりとする赤ん坊の小さな胸の辺りに手を当てると、神父は目を閉じて柔らかく呪文を唱える。いわゆる回復呪文の応用なのだが、病気そのものを治療するわけではない。ただ苦しい状態を和らげる一時的処置で、あとは親や周囲の看護が必要になり、その後に病気は快方に向かう。病気を治すのはその人の持つ力に頼るのが最も良いのだと、神父は教会を訪れる人々に説いている。今、神父が手当てをした赤ん坊も、徐々に呼吸が落ち着き、ようやく泣き声を上げた。母は神父に「ありがとうございます」と何度もお礼を言い、いくばくかの寄付をし、今度はシスターにこれからの看病の方法について真剣に聞き始めた。その母の様子を見て、神父は安心したように微笑み、そして次の人を診始める。
「あの子はあのお母さんのお陰で大事には至りませんでした」
教会に訪れた人々の状態を一通り診て一息ついた神父が、ずっと祭壇の横で突っ立っていたヘンリーに向かって話しかけた。ヘンリーは教会に訪れている人々を長いこと眺めていたが、その頭の中にはずっと先ほどの母と赤ん坊の姿がちらついていた。大事そうに赤ん坊を抱えて教会を出て行った母親は、外の寒さに赤ん坊を触れさせないようしっかりと抱きかかえ、家までの道を戻って行ったのだろう。そして自身の疲れなど忘れ、赤ん坊の完全な快復を願いながら、看病を続けているに違いない。
ヘンリーは自分の母親の愛など知らないというのに、自ずとそのような想像をした。そんな自分に驚いた。母と子というのはそういうものだという、一般的な教えのようなものが自分の身体にも刷り込まれているのだろうかと思った。
「あいつも、大事にされていたな、赤ん坊の頃から……」
ヘンリーがぼそりと呟くのが誰なのか、神父には当然のように分かった。ヘンリーの継母としてラインハットの迎え入れられた今の太后は、その後一年の内に弟デールを生んだ。我が子を目に入れても痛くないほどに可愛がり、デールは親の愛情を一身に受けて素直に育った。太后のデールに対する愛情は、先ほど教会に訪れた母と子とそう変わらないものなのだろう。母が我が子を愛するのは当然のことで、それは必然の事なのだと思えた。
「ヘンリー様をお産みになった前のお妃様も、今もヘンリー様の事を愛しておられると思います」
ヘンリーが生まれる前からこの城の神父として働く彼にとっては、ヘンリーの実母は今も“お妃様“という存在のようだった。ヘンリーの珍しい緑色の髪が母譲りであることはヘンリーも知っている。しかしそれ以外の母のことを、ヘンリーは何も知らず、知りたいと思ったこともなかった。
「じゃあ……どうして俺を残して死んだんだよ」
ヘンリーはそう言いながら自分自身にナイフを突き立てたような痛みを覚えた。聞かなくても分かっていることだった。母は自分を産んで、ほどなくして亡くなったとヘンリーは聞いている。母の死が自分を産んだからだということを、ヘンリーは誰に聞くでもなく知っている。
神父はシスターにおおよその対応を任せ、ヘンリーの傍に歩み寄ってくると静かに話し出す。
「あなたのせいでお亡くなりになったわけではありませんよ、お妃様は。あなたのお陰でこの世に喜びを見ることができたのです」
「そんなの、嘘だ。母上は……俺の母上は、俺のせいで死んだんだろ」
「残した子にそう思われるのはさぞかしお辛いことと思います。ヘンリー様、亡きお妃様のためにも、どうかご自分を責めないでください。あなたがこうして元気に生きていることが、亡きお妃様にとってのこの上ない喜びなのですよ」
「そんなの、誰が分かるってんだ。誰もそんなこと分かりゃしない。母上は俺を恨んでいるかも知れないじゃないか」
「決してそんなことはございません。神が……」
「神様が何だってんだよ! 神様なんてクソくらえだ! みんな、神様が持って行っちまうじゃないか」
「……ヘンリー様」
その声にはっと顔を上げ、ヘンリーは声の方を振り向き見た。マリアが困惑した様子で教会の扉の前に立っている。マリアだけではない。教会にいる全ての者がヘンリーの大声に驚き、その内容に眉をひそめた。よりによって教会という場所で神をなじる言葉を、ヘンリーは容赦なく神父にぶつけたのだ。
神父は神を冒涜する発言をしたヘンリーを責めるでもなく、ただその心を労わった。理不尽に家族を奪われた者は、神を信じることでその心が救われる者もあれば、神をなじることでその心を保つことができる者もいる。神父は神父でありながらも、万人に神を信じろという強制の心を持たない。ただ人々の安寧の助けに神の御力が必要だと感じた時、静かにその御力を借りるという立場だった。
自分を責めない神父に、ヘンリーはもはや何も言うことができなかった。責めてくれれば言い返すこともできた。しかし神父はただ興奮しているヘンリーを静かに見守るだけだ。ヘンリーは神父のその態度にも苛立ちを覚えた。結局は神という存在も、人々を見守るだけで何も手を下しはしないのだ。
鼻をすするヘンリーの前に、きれいに折りたたまれたハンカチが差し出された。マリアが心配そうにヘンリーを見上げながら、恐る恐るハンカチを差し出している。ヘンリーは首を横に振り、袖口で乱暴に顔を拭った。マリアの顔をまともに見られず、ヘンリーは険しい顔をしたままずっと俯いている。
「俺……マリアを失いたくないんだ。お前が傍にいてくれれば、それでいい」
「何を仰っているのですか。あなたさえ必要としてくれていたら、私はずっとお傍におります」
「あんまり神様と仲良くなんかするなよ」
「え……?」
「お前を危険な目に遭わせたくない。だから、やっぱり……子供はいらない」
「…………」
ヘンリーの言葉は取り留めのないものだったが、その本心は確実にマリアに伝わっていた。しかしヘンリーが恐怖を感じている本心が伝わりながらも、結論の「子供はいらない」という言葉だけがマリアの胸に突き刺さった。
彼が兼ねてより子供はいらないと言っていたことはマリアも十分に知っている。その言葉を何度も耳にしている。しかしそれはすべて太后やデールと話をしている時で、今回のようにマリアに直接その言葉を伝えたことはなかった。正面から「子供はいらない」と言われたマリアは、彼の意思を理解していたつもりだったが、まるで「マリアはいらない」と言われたに等しい衝撃を受けていた。
「……ごめん、もうすぐデールとの会議の時間だ。行ってくる」
「……はい、行ってらっしゃいませ」
ここでマリアを待っていたはずのヘンリーだったが、今となってはマリアと何を話したらよいのか分からなくなってしまった。デールとの会議の時間にはまだ時間があったが、真っ当な理由なしではこの教会という場を立ち去れず、少々の嘘をついてマリアの横を通り過ぎて行った。マリアはヘンリーの後姿すら見ることができず、ただ俯いて教会の冷たい床をぼんやりと見つめていた。
「マリア様、ヘンリー様は少々気が高ぶっておられただけです。ご安心ください」
「ええ……はい、分かっております、神父様。お気遣いなきよう……」
「ヘンリー様も幼い頃から色々とご苦労されております。たとえば……」
「神父様」
神父が話す言葉を遮るようにして、マリアがその穏やかな性格に合わない強めの口調で話しかけた。
「私たちは夫婦です。ですから、ちゃんと直接、あの人に聞きます」
ヘンリーの過去を、マリアは人伝にしか聞いたことがない。その主な噂というのは、ヘンリーはわがまま王子だったということだ。今のヘンリーしか知らないマリアにとっては、たとえわがまま王子であろうとも彼は昔から純粋で傷つきやすい男の子だったのだろうと想像することができた。幼い頃から比べればまるで別人のように変わったと多くの人々がそう語るが、マリアは彼が少年の頃から変わったなどとは思えなかった。
「あの、いつも通りこちらでお祈りしてもよろしいでしょうか?」
「ええ、もちろんです」
マリアは教会に並べられる長椅子に腰かけると、姿勢を正し、両手を組み合わせて、目を閉じて静かに祈りを捧げ続けた。あの場所に残してきてしまった兄に、あの場所で今も働かされている者たちに、マリアは真剣に祈りを捧げる。日に一度は皆の無事を祈らずにはいられなかった。
『神様が何だってんだよ!』
ヘンリーの叫びがマリアの脳裏に蘇ると、マリアは思わず目を開けてしまった。途端に教会の景色が視界に飛び込み、祈りの世界から現実に引き戻されてしまう。祈りはこの教会に留まり、決してあの場所に届くことはないのだと示されたようで、マリアはもう一度きつく目を閉じて祈りを捧げ始めた。
ヘンリーの言う通り、神は全てを助けてくれるわけではないのだろう。しかし祈りを捧げることでしか自分の心は救われないのだと、マリア自身、心のどこかでその事実に気が付いていた。



「マリア姉さま!」
廊下を歩いていたところを後ろから呼び止められ、マリアは思わず肩をびくつかせた。明るい口調で呼び止める国王の声に、マリアは笑みを作って振り向く。
「どちらへ行かれる予定ですか? もしかして図書室ですか?」
「ええ、はい、少し本をお借りしようと思いまして……」
「ちょうど良かった。僕も図書室で少し調べ物があって……一緒に行きましょう」
デールはそう言うとマリアの隣に並び、歩調を合わせて歩き始めた。マリアはヘンリーと異母兄弟であるデールの物腰の柔らかさに緊張を解きながら、拒む理由も見当たらず、隣を歩いていく。
厨房では昼食の準備が既に始まっていた。賑やかで活気ある厨房の中を通り抜け、一度中庭に出る。中庭には昨日降った雪が積もり、一面白い景色が広がっていた。雪の上には数人の足跡がつき、それらは主に厨房で働く者たちのものだったが、一つだけ、これから二人が向かおうとしている図書室へ伸びている足跡があった。それを見て、マリアは表情を固くし、静かに足を止める。
「あ、あの、やっぱり私、教会に行って子供たちの読み書きの準備を……」
「大丈夫ですよ。兄上は既に図書室からどこかに戻ってます。ほら、足跡がこちらにも向かっているでしょう?」
デールが指し示すところをマリアはじっと見つめる。彼の言う通り、図書室に向かって伸びていた足跡と同じ跡が、引き返すようにこちらにも伸びている。
「それに僕、さっき兄上を上で見かけましたよ。今はきっと兵たちの様子を見に行ってます。忙しいですよね、兄上もいろいろと」
「ええ、そうですね……」
「足元、気を付けてくださいね。結構雪が深いみたいですから」
「はい、お気遣いありがとうございます、デール様」
デールに手を差し出され、マリアは申し訳なさそうに自分の手を静かに乗せる。子供の頃から王子として育てられ、今は国王になったデールには王侯貴族が身に着ける作法がしっかりと身についている。それは彼にとっては常識というだけのものなのだが、外部からやってきたマリアには今も慣れない作法の一つだった。
扉を開け、再び城の中に入ると、その温かさにほっと息をつく。図書室近くは城の中でも非常に冷えた場所だが、それでも外の空気を遮断する大理石に囲まれているだけで温かさを感じることができた。
図書室に入ると、更に温かさを感じた。それは少し前まで誰かがいたことが感じられる温かさだった。図書室に残る温かい空気に、マリアは思わず身を固くする。つい先ほどまでこの場に夫がいたのだろうと、複雑な思いを抱いた。
「マリア姉さま、兄上のことがお嫌いですか?」
唐突なデールの言葉に、マリアは思わず言葉を失う。言われた言葉の意味を理解するのにも時間がかかった。まさかそのような言葉をかけられるとは思わず、マリアはデールの真意がどこにあるのかを無駄に探ろうとしてしまった。
「決してそのようなことはありません」
「じゃあどうして避けてるんですか?」
「避けてなんて……そんなことしてません」
「もし図書室に兄がいたら、マリア姉さま、引き返していたでしょう?」
デールの指摘に、マリアは自分が非常に浅はかな行動をしてしまったことを反省した。それほど余裕なく夫であるヘンリーを避ける行動をしたことを、マリアは恥じた。
マリアは黙り込み、デールは窺うように義理姉を見る。窓の外には再びちらちらと雪が降り始めていた。困っているマリアの様子を見て、デールは彼女の返事を待たずにずらりと並ぶ本棚の間に姿を消してしまった。マリアは窓の外に振る細かい雪をぼんやりと見つめていた。
デールは数冊の本を抱えて戻ってくると、窓辺に置かれた席に腰を下ろした。その席には栞が挟まれた分厚い本が一冊置かれており、その本はヘンリーが途中まで読んでいたものだとマリアにも分かった。ヘンリーは頻繁にこの図書室を訪れ、調べ物をしていると聞いていたが、彼の仕事の邪魔をしたくはないマリアはその姿を一度も目にしたことがない。机に置かれる分厚い本の背表紙を見て、マリアは彼が友のために情報を集め続けていることを改めて知った。伝承について書かれているその本を、ヘンリーは細かく読み込んでいるのだろう。
ただでさえ宰相の立場としての職務があるというのに、少しでも空いた時間にこうして図書室にこもって調べ物をしている夫は、果たしていつ休んでいるのだろうかと、マリアは本能的に彼の身体の心配をした。
「デール様」
マリアは小さくこの国の王に呼びかける。普通であればこうして国王を呼ぶなどと言うことはあり得ないことだと、修道院での生活を続ける心づもりだったマリアは今もそう考える。しかしデール自身の優しく穏やかな性格に甘え、マリアは同じ年のデールにどこか親しみを感じながら話しかけた。
「はい、何でしょう」
先ほどまでの話などまるでなかったかのように、デールはマリアを振り向く。デールが机の上に開いているのはラインハットの国の行事についてまとめられている本だった。この冬を越した後、ラインハットでは春を祝う祭りを予定している。国を盛り立てていくために、国王であるデールを始め、国の者たちは祭りを開催して、進む復興を祝う目的でも祭りを成功させようと準備を進めていた。
「私はあの方の……何なのでしょう……」
伝えたいことが何なのかもわからないまま口に出た言葉は、マリア自身にもよくわからないものだった。
「兄上と一緒にいるのが辛いですか?」
デールは普段、兄のヘンリーと職務の上で共に行動することが多い。この後も図書室での調べ物を済ませたら、玉座に戻り訪れる民の声に耳を傾け、その後兄のヘンリーと共に城下町を歩く予定だ。しかし降り続く雪がこれから酷くなれば、城下町の視察は取り止めとなり、代わりに兄と外交についての話し合いができるかもしれないとデールは考えている。近頃、兄のヘンリーは非常に無口で、思い悩んだような表情を見せることがあった。それが仕事とは関係のないことなのだろうと、デールには分かっていた。
「そんな、辛いだなんて……私はあの方に貰っていただけて大変感謝しております」
「兄はそんな堅苦しい言葉なんて望んでいないと思いますよ」
ヘンリーが職務の上で悩むようなことはほとんどない。おおよそ即断即決の兄の判断に、ほとんど間違いはないとデールは信じている。たとえ判断を間違えることがあっても、それを後になって全力で挽回しようとするのもヘンリーだった。その兄が仕事のほんの少しの隙間に悩む表情を見せる。小さくため息をつく兄を見て、デールは彼が何を考えているのかが手に取るように分かるようだった。
「兄上ってとても分かりやすい人なんですよね」
「えっ?」
「だってマリア姉さまを好きになって、居ても立ってもいられずに修道院まで白馬で迎えに行っちゃうような人ですよ。なかなかいないでしょう」
そう言いながら笑うデールを見て、マリアはもう一年以上前になるその時のことを思い出した。おとぎ話によくあるような『白馬に乗った王子様が迎えに来てくれる』という行動を、彼は本当にやってのけたのだ。しかし彼はそれを意図的に行ったのではなく、彼がたまたま王子様で、たまたま乗ってきたのが白馬だったというだけのことだった。あの海辺の修道院では今もおとぎ話のような本当の話が修道女たちの間で楽し気に話されているようだ。
「今も変わらずマリア姉さまの事が大好きですよ、兄上は」
特別な気遣いをするでもなく、屈託なく笑うデールの顔を見ていたら、その顔がヘンリーと重なるのをマリアは感じた。異母兄弟とは言え、やはり二人はどこか似ているのかも知れないと思った。
デールの言葉にマリアは俯いて返す言葉を探す。しかし本当にデールの言う通りなのだろうかという疑念が胸に浮かぶ。
最近、マリアは夫のヘンリーと話すことが極端に減っていた。今までも忙しさの余り会話の機会が減っていたが、近頃では部屋で同じ時を過ごしていても、会話らしい会話をしないままどちらかが眠りに就いてしまったり、朝はマリアが早くに部屋を出て教会に向かったりと、積極的に二人の時間を作ろうとすることもなくなっていた。二人で同じ時を過ごしていても、一体何を話したらよいのか分からなくなってしまうのだ。それはヘンリーも同じなのだろうと、マリアは悲し気に目を伏せる。
ラインハットは少しずつではあるが、人口が増え始めていた。ラインハットの悪政が終わり、復興の道も順調に歩んでいることが外にも知れ渡り、移民が増え始めているのも一つの理由だったが、それと合わせて新しく誕生する子供の数が増えているのだ。これからも順調に復興が進めば、その数はまだまだ増えるのかも知れない。
毎日教会に通うマリアは、その新しい命を目にする機会が増えていた。小さな新しい命を目にするたびに、心が洗われ、自分を包む余計な衣が全て剥がされていくようだった。しかし赤子を連れた夫婦が教会を去ると、自分の中に再び罪の意識が渦巻き始め、たまらず神に祈りを捧げたくなる衝動に駆られるのだ。自分には訪れない新しい命を望んではいけない、愛する夫との間に新しい命を望んではいけない、これ以上の幸せを願ったら罰が与えられるだろうと、マリアは神に謝罪の言葉を心の中で述べる。神の答えを聞くことはないが、マリアは自主的にそうせざるを得ない心境に追い込まれていた。
「兄と一緒にいるのは、辛いですか?」
デールは先ほどと同じようなことを同じように聞いてきた。マリアはその言葉にはっと顔を上げ、先ほどの柔和な笑みを浮かべていたデールと違い、今度は真剣な表情でマリアの顔を見つめていた。それはラインハット国王としての糾弾のような言葉なのかと、マリアは全身を固くしながら小声で告げる。
「少し……辛いです」
「そうですか……」
デールは短くそう答えると、テーブルの上に広げる本に目を落とした。国王としての職務は忙しく、このような時でもぬかりなく本の内容に目を通し、職務に必要なことを確認し、頭の中に入れているようだ。
「もしマリア姉さまがお辛いのでしたら、兄との離縁を考えるのも一つの手段かと思います」
デールの口から現れた非常に事務的な言葉に、マリアは息を呑んだ。
「離縁……」
「僕だってこんなこと言いたくありません。せっかくこんな素敵な姉さまができたんだから。でも、一番大事なのはマリア姉さまのお気持ちですよ。兄上だってそう思っていると思います。マリア姉さまが愛してくれないのだったら、兄上だって……辛いでしょうけど……どうにか気持ちを切り替えてくれるでしょう」
それはこのラインハット王国に生まれた王子としてということなのだろうかと、マリアはヘンリーの縛られた身分の事を思った。ヘンリーは一度完全に離れていたこの故郷に自らの意志で再び戻ってきた。この国の者として、国を治める立場の者としての義務感が彼をこの国に戻らせたのだろう。そして今はその義務を果たすため、彼は国のためにと尽力している。
ラインハットの国を思う夫の心に、果たして自分は寄り添えているのかどうか、マリアにはまるで自信がなかった。王宮のことなど全く知らなかったマリアはこのラインハットに来てから様々な本を読み、太后からも話を聞き、侍女の仕事にも寄り添い、それなりの知識を身に着けたつもりだった。しかし王宮で生活する分には問題ないほどにはなったものの、ヘンリーが手掛ける職務には何も役に立たないものなのだ。政治も外交も、本に書いてあることはマリアにとって難解なものばかりで、読み解くことができない。太后にその旨を相談したところで、『女性が立ち入る問題ではない』と一蹴され、ヘンリーの仕事の内容を理解することはできなかった。
共に過ごす時間も短く、少し時間が空いたからとお茶を入れようと思えば、ヘンリーはすぐに呼び出されてどこかへ姿を消してしまう。夫が多忙で、国が復興し安定していくことは望ましいことだと分かりつつも、マリアはどうしようもなく寂しい思いを一人抱えていた。
ここにもし、二人の子供がいれば、マリアは生き甲斐を見つけることができるのではないかと密かに思っている。しかしそれも叶わないことなのだ。ヘンリーは子を必要としないとはっきりマリアに伝えたことがあった。それでは一体自分はどうしてここにいるのだろうかと、海辺の修道院にいた時とさほど変わらない生活を送っていることに、ふと気づくことがある。
子はかすがいという言葉を聞いたことがある。結婚し、夫婦となり、子を授かる。それは一般的な家族の在り方で、最近ではラインハットの城下町でもそのような家族となるものが増えている。夫婦となった男女は子を授かることでその関係がより強いものになる、というのは一つの当然の出来事だとマリアは思う。中には子を授かろうとしても授かれない夫婦もいると耳にしたこともある。そのような夫婦には、城で保護している親を亡くした子供を引き取らせることで家族を築く助けを国が行っている。国も親子の在り方を重視しているということなのだろう。
マリアの頭の中に様々なまとまらない思いが行き交う。何をどうしたらよいのか分からない。ヘンリーには幸せでいてほしい。自分は今のままでも幸せだ。だけど赤ん坊や子供を見ると平静を保てなくなる。周囲には子供はまだかという視線を投げられる。ヘンリーが職務に忙しくしている姿を見ると寂しく感じる。自分もこのラインハットのためにできることをしたい。教会の仕事も、城の中での仕事も、神父やシスター、侍女たちがその役目を果たし、自分の居場所はそこにはない。王兄の妻となった自分に果たせる役目は、夫を支えることだと理解しながらも、今のこの状況で夫を支えているという実感はない。
「いきなり離縁だなんて考えないでくださいね。もし僕がマリア姉さまに離縁の話をしたって兄上が知ったら……僕、多分、兄上に殺されます」
「そんなこと……」
「いえ、冗談じゃなくて、本当に。兄上はそれくらいマリア姉さまのことが好きなんですから。誰が見たって分かりますよ、それくらいのことは」
「そんなこと、ないと思います……」
「ただマリア姉さまの幸せを考えてくださいね。あまりお二人で話す時間もないようでしたら、お手紙を書かれてはどうですか?」
デールの考えに、マリアは目を瞬き、驚いた表情を見せる。同じ部屋で暮らす夫に手紙を書くなど、マリアには思いつきもしなかった。しかしデールの言う通り、同じ時間を過ごすことが少ない夫には手紙を残しておくのも良い方法だと、真剣にそのことを考え始めた。
「姉さまからの手紙が机に置かれていたら、兄は仕事なんかそっちのけでまず手紙を読むと思いますよ。まだお二人が結婚する前、修道院から送られてきた手紙を、仕事そっちのけで封を破いて読み始めましたからね、兄上は」
その手紙は修道院長からの手紙だったのだが、ヘンリーは海辺の修道院から送られてきた手紙というだけで、それはマリアからの手紙だと思い込み、勢い余って中の便せんも少し破いてしまうような勢いで封を開けてしまったのだ。それを隣で見ていたデールはにやにやしながら兄の様子を見ていたが、ヘンリーが赤面しながら手紙をデールに渡し、『修道院長様からだった』と残念そうに呟く姿を今もデールははっきりと覚えている。
「デール様、お話を聞いていただきありがとうございました。何だか、心が晴れたような気がします」
実際に言葉に出して気持ちを伝えるのは難しいことも、手紙という形であれば伝えることができるかも知れないと、マリアはまとまらない自身の気持ちをまとめることを決意した。
部屋で手紙をしたためていてはいつヘンリーが戻るか分からないため、マリアは教会に行ってシスターに便せんを数枚貰い、手紙を書くことにした。教会の厳かな雰囲気の中であれば、自分の気持ちも静まり、まとまるだろうと思ったからだ。図書室で数冊、子供が読む童話本を借りると、マリアはそのまま教会へと向かった。図書室に残ったデールは部屋を去って行ったマリアと、今もラインハットのために力を尽くしている兄のことを思い、懐中時計を見ながら調べ物に集中した。



「……マリア、起きてるか?」
ベッドに寝ているマリアを気遣うような低い声だが、その声は確実にマリアを起こそうとしていた。夫の声が後ろに聞こえ、マリアは薄く開いていた目を彷徨わせる。部屋はヘンリーの机の上に灯る小さな明かりでぼんやりと照らされている。ベッドに横になりながらも眠れず、ずっと起きていたマリアには部屋の景色がありありと分かる。
「読んだよ、手紙」
彼の声に何かの決意が滲み出ていて、マリアはゆっくりと後ろを振り返る。暗がりの中で一瞬互いの目が合ったが、それは互いにすぐに逸らされてしまった。
「ごめんな、こんな時間に起こして」
日付はとうに超えている時間だった。いつもヘンリーがこのような遅い時間に部屋に戻ってくることをマリアは知っている。それが彼が仕事で忙しいのか、この部屋に戻りたくないのか、理由は知らない。恐らくその両方の理由があるのだろうとマリアは思っていた。
昼前にマリアは教会に行き、ヘンリーへの手紙をしたためた。書き始めてみると、驚くほどにすらすらと書き進めることができた。言葉にして伝えようとすればたどたどしい言葉運びの上、伝えたいことの半分も伝えられないようなことも、手紙であれば素直に書き表すことができた。妻にしてもらった感謝、ラインハットで平和に過ごすことができることへの感謝、常に自分に良いように様々な事を取り計らってくれることへの感謝。彼への感謝の気持ちは尽きることがないのだと改めて気づかされた。
そして感謝の気持ちを書けば、その次に自分の素直な思いを書き進めることもできた。言葉では決して伝えられないような嫌な気持ちも書き綴った。嘘偽りのない気持ちを彼に伝えるべきだと、マリアは自分自身と向き合いながら真剣に便せんに向かっていた。
「少し起きて話をしよう。俺、茶でも入れてくるからさ」
「……いえ、私が用意いたします。あなた、食器の位置もよくお分かりにならないでしょう?」
相変わらず優しさで包み込む夫の言葉に、マリアは思わず微笑む。いつもであればベッドに横になるマリアを起こさないよう静かに隣に横になり、そのまま背を向けて眠ってしまうヘンリーだが、今日はこの夜中にマリアを起こし話をしたいと求めてきた。壊れ物に触れるような緊張した優しさだけではなく、今は彼の中に強い真剣な思いを感じられ、マリアは安心するような恐怖を感じるような複雑な思いでベッドを出た。
マリアが茶の支度をしている間、ヘンリーは自分の事務机の上に置いてある手紙に目を落としていた。マリアの丁寧な字が綴られた便せんは五枚あり、書かれた字が机の上のランプの明かりにぼんやりと照らされている。ヘンリーは手紙の字を見ながら、少し鼻をすすった。
「この寒い中、毎日お疲れ様です。温かいものを飲んで体を温めてください」
マリアは部屋の奥で茶の支度をして運んでくると、ヘンリーの事務机の上に盆を置き、湯気の立つポットと二つのカップを机に置いた。茶の香りが部屋に広がり、ヘンリーもマリアもその香りに気持ちが安らぐのを感じる。マリアが好んで飲む茶は心を静める作用のあるもので、香りにその作用があるようだった。
「マリア、ごめんな」
「私の方こそごめんなさい。勝手なことを手紙に書いてしまいました」
「そうさせたのは俺だ」
断定的なヘンリーの言い方に、マリアは思わず黙り込む。ヘンリーは熱い茶を一口すすると、ほっと息をつき、しばらく黙り込む。マリアも冷える手をカップにつけて温めながら、黙り、俯いている。
「俺はまた、逃げてたんだな」
ぼそりと呟く意味が分からず、マリアはヘンリーを窺いみるように、しかし顔を直視できずに机の上に置かれた大きな手を見る。彼と共に旅をしたことがあった。その時はこの手も泥に汚れ、魔物との戦いに傷つき、外の空気に触れることでかさついていたように思えた。しかし今は毎日城の中での事務仕事に追われ、外に出る時でも一国の宰相として守られた立場で出かけるため、特に見た目に痛々しいところは見受けられなかった。
「今が幸せでさ。今のままでいいって思ってた。マリアが隣にいてくれれば、それでいいんだって」
「私も同じです。あなたが傍にいらしてくれたら、それだけでもう、幸せなんです。それは、本当です」
「うん……ありがとう。そう言ってもらえて嬉しいよ、俺」
義理の弟の前でも減らず口を叩き、義理の母には本心で寄り添いたいと思いつつもどこか越えられない壁を感じ、当然国民の前では宰相としての立場を崩さず姿勢を正しているヘンリーだが、唯一素直な口が利けるのが妻のマリアだった。それはマリア自身が素直に気持ちを伝えてくれるからなのだろうと、ヘンリーは手紙の内容を思い返す。その内容の中の鋭い言葉を思い浮かべると、ヘンリーは思わず眉をしかめ、口元を引き締める。
「お前が、その、『離縁』なんて書いてたからさ、俺、焦っちゃって……まさかそんなこと考えてたなんて思わなかったから」
「あっ、あれは、その、デール様がそういうことも考えてもいいって……」
「はあ!? デールが? 何考えてんだよ、アイツ。明日一発ぶん殴ってやる」
「いや、そうじゃなくって、私もそう考えるべきなのかも知れないと、そう思ったので、この手紙を書いたんです」
「そう考えるべきって、俺と……別れたいって?」
「別れたいだなんて、そんなこと思うわけないじゃないですか。ただ、私は、あなたとは一緒にいない方がいいのかもしれないと……あの、手紙はお読みになったんですよね?」
「うん、読んだ」
そう返事をしながら、ヘンリーも話の本筋がずれてしまっていることに気づいた。マリアの手紙にはヘンリーと別れたいなどと言う言葉は一つも書かれていなかった。
かつてラインハットが王位継承問題で揺れていたことはマリアも知らされており、ヘンリーが頑なに子を望まない理由も彼女は理解を示している。ヘンリーはデールが今の国王であり、世継ぎは国王であるデールから出すべきだと周りの人間にもそう伝えている。しかしそれとは別に、ラインハットの国民は生還を果たしたヘンリー王子の奇跡に酔い、王子の結婚を心から祝福し、そして宰相となったヘンリーに子が生まれることを望んでいる現実があった。
マリアは子供が好きだった。穢れのない子供たちが純粋に好きだった。全ての事を純粋に考えることのできる子供に触れていると、自らも浄化されるような感覚に陥ることもあった。子供は皆、神様が授けてくれるものなのだと、マリアは本心でそう思っていた。
「俺の本当の母上は、俺を産んだら死んじまった」
何でもないことのように呟くヘンリーの声が、やたらとマリアの耳に響いた。彼の中にある大きな恐怖がそのまま感じられて、マリアは机の上の彼の手をただじっと見つめる。手は少し震えているように見えた。
「赤ん坊を産むのって、そういう危険があるってことだろ?」
「命を生み出すのですから、母親は命がけで新しい命を……」
「そんなの、いやなんだよ。マリアが命がけでなんて、考えただけで俺が死んじまいそうだ」
「あなた……」
「もちろん、全ての母親がいなくなるわけじゃないってわかってるよ。今もデールの母親はいてくれるし、世の中の母親もたくさんいるんだもんな。でもさ、マリアがそんな辛い思いをしなくたっていいじゃないか。そんな、死ぬほどの辛い思いをしなくってもさ。お前は十分辛い思いをしてきたんだ。だからもう辛いことなんてしなくていい」
マリアは自分の生い立ちなどをヘンリーにほとんど告げていない。マリア自身、果たして自分がどこで生まれたのかも知らず、物心がついた時には両親はおらず、兄と二人で生きていた。もしかしたら困窮した生活に困り果てた両親が子供である自分と兄を売ったのかもしれないと考えたこともあった。しかし分からないことをいくら考えても、結局は分からないままなのだと、物心がつく前の幼い時のことは考えないようにしていた。後ろを振り向いて考えても所詮過去を変えることはできない。生きるには前を向くしかないのだと、マリアは自分に言い聞かせるようにしている。
「辛いものですか。世の中の母親は皆、子供を産むことを辛いだなんて思っていませんよ。子を授かり、生み、母になることは、喜びなのです。ヘンリー様のお母さまだって、きっと今も元気なヘンリー様を見てお喜びになっているに違いありません」
マリア自身に父と母の記憶はない。子供の頃、兄に両親のことを聞いたこともあったが、兄は寂しそうに笑うだけで何も答えようとはしなかった。兄を困らせたくない思いで、マリアはそれ以来両親についての事を聞くのは止めた。自分には兄がいるのだからそれでいい、それだけで幸せな事なのだと思うようにし、思えるようになっていた。
「死んじまったら、そんなこと、俺には分からない」
ヘンリーの実の母は彼を産んで数日で息を引き取ったという。マリアにとってもそれは決して他人事ではなく、もしかしたらマリアの母も同じような運命を生きていたのかも知れない。ヘンリーの言う通り、死んでしまった者の気持ちを生きている者が感じることはほとんど不可能だ。しかしそうやって気持ちを切り捨ててしまうことは違うとマリアは思う。
「神に仕える身としてこのようなことを申し上げるのは心苦しいですが、そう思うようにしてください」
「そう思うようにって?」
「ヘンリー様のお母さまは今もヘンリー様を見守っていらっしゃる。お父様も同じく、あなたを天から見守っていてくださっています。それは生きる者がそう信じるほかないのです」
「そんな勝手なことでいいのかよ」
「勝手ではありません。亡くなった方や遠くにいる方を思うというのは、その方のことを考え、感謝し、温かい心で寄り添うことなのだと思います。誰だって『分からないものは分からない』なんて言われたら悲しいでしょう?」
マリアの言葉にヘンリーは決まり悪そうに表情を固くし俯いた。死んでしまったら終わりだと言葉にはしつつ、ヘンリーもやはり死んでしまった者の魂は残っているのではないかと思う心がある。そうでなければ今となって亡き母や父の事を考えることもないはずだ。
ヘンリーは温くなった茶を半分ぐらい飲み、小さく息を吐いた。部屋の中の温度は冷えており、微かに白い息が二人の間に舞っている。ヘンリーが暖炉の火をつけようと席を立ったが、マリアがそれを止めた。この時間に暖炉の火を点けてしまえば、城の誰かを起こしてしまうことになると、マリアはソファに置いてあった毛布を持ってきてヘンリーの肩にかけた。そしてもう一枚を自分の身体に巻きつける。
「寒さに慣れているはずですが、さすがにこの時間は寒いですね」
「マリアは怖くないのか?」
「何がですか?」
「その……子供を産むってことだよ」
女性が命がけで行う出産という行為を、ヘンリーはどうしても素直に受け入れられなかった。ましてや女性としても体が小さめのマリアが赤ん坊を産むなど、彼の想像をはるかに超えていた。
「産むことそのものを考えないわけではないですが、それよりもあなたの子が授かれたら……嬉しいでしょうね」
毛布に包まりながら、マリアは温かく微笑んだ。久しぶりに見た妻の幸せそうな笑みに、ヘンリーは己の浅はかな心配など追いやられたような気分になった。
マリアの手紙にも子供についての事が書かれていた。しかしその内容は王位継承問題に絡むもので、たとえヘンリーに子供ができ、その後デールが結婚し子供ができたとして、過去と同じような王位継承問題が起こることはないという提言のようなものだった。それはヘンリーとデールという深い絆で結ばれた兄弟が、過去の過ちを顧み、未来にその教訓を生かすことができれば、この国が再び王位継承問題に揺れる心配など皆無だと信じているという彼女の思いだった。妻の手紙を読みながら、ヘンリーは彼女が一人の王国の人間として本気でこの国の事を思っているのだと感じた。
今ではデールの実母である太后も過去の過ちを反省し、でしゃばることなく息子の国王としての務めを陰ながら支えている。その姿はやはり母親そのものだが、彼女は彼女で息子への本来の愛情を取り戻したかのように、独り立ちした息子を見守るという立場でこの国を同じように支えてくれている。
一度間違ってしまった道を正し、二度と道を踏み誤らないようにするべく、今は国中の者が協力し合い、国は順調に復興を遂げている。誰もが二度と国を破滅に向かわせないという強い思いを持っている。マリアはマリアの立場から、確実にこの国の今の在り様を見つめていたのだと、ヘンリーは彼女に頭が下がる思いだった。
「もちろん、あなたが『子供はいらない』と仰るのであれば……私は従います。ですがもし、あなたが国のためを思って『子供はいらない』と仰るのであれば、それは違うのではないかと私は思うんです」
手紙を書き、それを夫が読み、全てをさらけ出したマリアにとってはもう隠す気持ちは何もなかった。伝えたいことを伝えることが今では非常に簡単なことに感じられた。
「……俺だって、お前との子供、欲しいよ」
ヘンリーは頭を掻きむしりながらほんの小さな声で呟いた。教会に行ったとき、小さな赤ん坊を腕に抱く母親を見た。白い包みに眠る赤ん坊の顔を見て、ヘンリーは自分の胸の内にわき起こる感情を自分で疑ったのだ。
『かわいいなぁ』
そんな言葉が胸の中にわき起こったのを、ヘンリーは「嘘だろ……」と言葉にして否定していた。しかしすやすやと眠る赤ん坊は信じられないほど小さく、白い布の中でほんの少し動くだけでも、ヘンリーは胸の内に温かい感情がこみあげるのを止められなかった。もしあの赤ん坊が自分とマリアの子供だったら、一体どのような気持ちになるのだろうと、その先の感情を知るのが恐ろしく、ヘンリーは敢えて考えないようにしたほどだった。
しかし今は子供の事を素直に考えても良いのだと思った。彼女は決して感情だけで子供が欲しいと言っているのではない。順調に復興を進めているこのラインハットには二度と王位継承問題など起こらず、この先もラインハットという国を存続させるためにも未来を担う子を育むことは必要な事だと彼女は説いている。たとえこの先、ヘンリーの子が生まれ、デールにも子が生まれたとして、果たして権力争いが起こるのかを考えた時、過去を顧み反省をしている者たちがいればそのような争いなど起こるはずもないとマリアはこの国の行く末を信じていた。
未だ不穏な空気が漂う世界だが、その中で明るい未来を築いていこうとするのは王国の役目なのだと、ヘンリーはマリアの考えの中にその意味を見出した。王位継承問題に揺れたラインハットという国を盛り立てていくためには、本当の意味で過去の問題を乗り越えなくてはならないのだと、ヘンリーはようやく未来に目を向けることができた。
カップに残っていた茶を飲み干し、ヘンリーは鼻をすすった。真夜中の暖炉を消した部屋は冷えており、机の上のランプの明かりに二人の白い息が見える。マリアも残っていた茶をこくりと飲み干すと、体に巻きつけていた毛布を手に取り椅子の上に乗せ、盆にポットとカップを乗せて奥へと姿を消した。
「人間、いつかはこの世を去ります」
奥からマリアの静かな声が聞こえてくるのを、ヘンリーは彼女の所に向かいかけた足を止めて聞いた。儚く感じられる彼女の言葉だが、その声には強さがあった。
「生きている間は、私、懸命に生きていたいんです」
マリアがカップとポットを軽く水に流し、台の上に乗せる。冷たい水にさらされたマリアの手は真っ赤になっていたが、暗くてその色を目にすることはできない。しかしヘンリーは彼女の冷たい手を包んで、温かい息を吹きかけた。
「俺も同じだ。生かされている限りは、手を抜きたくない」
ヘンリーもマリアも、あの高い山の頂上で命を失っていてもおかしくない状況だった。実際にあの場所で命を落としてしまった者たちは多くいる。しかし彼らはその中で生き残り、今ではこうして人間としての暮らしを取り戻し、王国復興という偉業まで成し遂げている最中だ。
「あなたとこうしてゆっくりお話ができて良かった。何だか胸の中がすっきりしました」
「マリアが手紙を書いてくれたからだよ。ありがとう」
「あの手紙は後で破るなりしておいてくださいね。拙い文でお恥ずかしい限りです」
「捨てるもんかよ。大事に机の引き出しにしまっておくよ」
ヘンリーはマリアの左手を握ったまま、部屋に戻った。茶の温かさが余韻として残るが、夜も更け部屋の冷え込みは非常に厳しいものとなっている。ヘンリーは椅子の上に置いてあった毛布をマリアの肩にかけると、机の上に開いて置いたままにしておいたマリアの手紙を机の引き出しの奥深くにしまい込んだ。
「なんかあった時に見返したら、気持ちが引き締まりそうだよな」
「喧嘩した時とかですか?」
「なんせ『離縁』なんて言葉が書かれてるもんな。どんな気付け薬よりも効きそうだ」
おどけて言うヘンリーに、マリアは思わず小さな声を立てて笑う。マリアも自分で離縁などと言う言葉を手紙に書いた時は心苦しく、本当にそのような事態になってしまったら自分はどうなってしまうのだろうかと気が気ではなかったが、ヘンリーと話をした今となってはその事態に陥る必然性が全く感じられなくなった。ほんの少しの言葉を交わすだけで、夫への変わらない愛を感じ、この人の傍でずっと支えていこう、共に生きていこうと思えることがマリアの幸せだった。
「私はあなたよりも長生きしますよ」
マリアはまだ誰も分からない未来の事をはっきりと断言するようにヘンリーに伝えた。それは予言でも何でもない、ただの彼女の自信だった。
「さびしんぼうのあなたを置いて先に逝くことなんて絶対にしません」
「マリア……」
「だから安心していてください。私はずっと、あなたの傍におります」
言葉には言霊というものが宿るとマリアは様々な本を読む中でそのようなことがあることを知った。言葉には力がある。ただ思っているだけではなく、言葉にして外に出すと、それは実現するのだとマリアはそう信じ、ヘンリーの不安を取り払ってしまおうと試みた。疑り深いヘンリーは予想通り難しい顔をしてマリアの顔を見ていたが、マリアがヘンリーの両手を取って温かい息を吹きかけるとその大きな手に力が注ぎ込まれたようだった。
「どれだけじいさん、ばあさんになってからの話をしてるんだよ」
「さあ、どれだけでしょうね」
「まあ、マリアは可愛いおばあさんになってるだろうけど……」
「あら、あなただって偏屈だけど本当は素直なかわいいおじいさんになってると思いますよ」
「はっはっはっ、言うようになったなぁ、マリア。俺が偏屈なじいさんになってるって?」
「ちゃんとかわいいって言ってるじゃありませんか。ほら、今だって目に涙を溜めて……本当は泣き虫さんですものね、あなたは」
マリアはそう言いながらヘンリーの両目に指をなぞらせて涙を拭ってやった。この暗がりでマリアには気づかれていないと思っていたようで、突然涙を拭かれたヘンリーは鼻をすすりながら後ろを向いてしまった。三つ年上だがまるで少年のような夫の姿に、マリアは心が温かくなり、自分もじんわりと目に涙を浮かべる。
「私のせいで遅くなってしまいました。さあ、もう寝ましょう」
「え? あ、えーと、あの……」
「どうかしましたか?」
「ん? ああ、いいや、何でもない……。明日も朝から仕事だしな。これ以上夜更かしは……マズイか」
「あまり無理なさらないでくださいね。またこうして少しお話ができると嬉しいです」
「もちろん、その時間を作るようにするよ。今まではちょっと……無理に仕事をしていたところもあるからな」
ラインハットの復興に向けて多忙だったのは確かだが、ヘンリーはそれ以上にマリアとの話の時間を設けるのが怖く、急ぎもしない仕事を自ら請け負って進めていた部分もあった。そのような執務をこれから省いていけば、妻との時間を作ることができると、ヘンリーは明日の仕事の調整を朝のうちに行うことを考えていた。
机の上のランプを消すと、部屋の中は真っ暗になった。ヘンリーが指先に呪文で火を灯し、二人でベッドまで戻って行った。冷え切ったベッドは二人の体温で時期に温まるだろうと、ヘンリーもマリアも互いに手を繋ぎながら間もなく眠りに落ちてしまった。蟠りのなくなった心に、睡魔は素直に訪れてくれたようだった。



大理石造りの城の中は涼しく、窓を開けて風を通しながら部屋の中で仕事をするにはちょうど良い日だった。夏を迎えたラインハットで、ヘンリーは机の上に水の入ったグラスを置きながら、相変わらず多くの書類に目を通し、この国の声に耳を傾けていた。
そろそろ妻のマリアが教会から戻る頃だろうかと、席を立ち窓から下を眺めると、中庭に数人の子供とマリアの姿があるのを見つけた。中庭には夏の日差しが容赦なく降り注ぎ、子供たちは汗をかきながら楽しそうに中庭で遊んでいる。マリアは今も週に何度か教会で子供たちに読み書きを教えている。しかし今日は特別に城の許可を取り、中庭で子供たちを遊ばせているようだった。
ヘンリーは真顔で窓から身を乗り出し、マリアの様子を窺った。木陰で休んでいるマリアは子供たちの元気な様子を見てうれしそうに微笑んでいるようだ。しかしいくら木陰で休んでいるにしても夏の昼の日差しは非常に暑い。ヘンリーはその光景を笑ってみていられるほど余裕もなく、窓から離れると仕事を放り出して部屋を出て行ってしまった。
数分後、ヘンリーは息を切らしながら中庭に出ていた。子供たち数人がヘンリーの姿に気づくと、元気に走りながら挨拶をする。この国の頂点にも近い存在のヘンリーだが、子供たちに対しては近しい存在で、突然後ろからのしかかられても一緒に子供のようになって遊び始めてしまう時もあった。
「マリア、大丈夫か?」
「あら、あなた。どうしたのですか、こんなところにいらして」
「どうしたのですか、じゃねぇよ。お前、そんな身体なんだから、こんな暑い所にいたら調子を崩すんじゃないのか」
「木陰はとても涼しいんですよ。お水も用意していますし。それに子供たちの元気な姿を見ていると、こちらまで元気になれる気がするんです」
「でもまた気分が悪くなったら大変だろ。無理しないで部屋で休んでいてもいいんだぞ」
「最近はとても調子が良いんです。シスターに聞いてみたら、それは安定期に入ったからでしょうと仰ってました」
そう言いながらマリアは椅子に座りながら両手で腹を優しく擦っている。マリアの隣に駆け戻ってきた少女が転びそうになり、マリアは思わず手を差し伸べそうになる。しかしその前にヘンリーが少女の脇を支えてやり、転ぶ前に体を起こしてやった。
「ヘンリーさま、ありがとう」
「気をつけろよ。それと、あまりマリアに激しく抱きついたり、体を押したりしちゃ……」
「あなた、この子だってそれは良く分かっていますよ。そんな叱るように言わないであげてくださいな」
「うん……でもさ、心配なんだよ、お前のことが」
ヘンリーはそう言うと、マリアの頭を撫でる。マリアは初め、ヘンリーのその仕草があまり好きではなかった。子ども扱いされているようで、頼られていないようで、彼の隣に立てていない自分を責める気持ちになることもあった。しかし彼は決してマリアを子ども扱いして、頭を撫でているわけではないと分かり、それからは彼のその仕草も愛おしく受け入れられるようになった。
「ヘンリーさまはマリアさまのことが大好きだよねー」
先ほど転びかけた少女がまるでその関係に憧れるように微笑みながら言うと、近くにいた少年が面白おかしく『尻にしかれてるんだろー、ヘンリーさまは』と加減なく言い放つ。ヘンリーがふざけて拳骨を振り上げると、少年は笑いながら走って中庭の真中へと逃げて行ってしまった。暑い日差しが降り注ぐ中、子供たちは汗をかいて遊び、全身で楽しさを感じている。今日は特別子供たちが遊べるようにと中庭を開放しているが、明日からはまた教会での読み書きの練習や、年長の子供たちは教会や城での仕事に従事する時間も設けられている。子供たちの成長には規律のある生活が望ましいと神父やシスターが主体となってラインハットの未来を担う子供たちを育てている。
「マリアさま、赤ちゃんいつ生まれるの?」
マリアの座る椅子の横に、草地にぺたっと座る少女がそう聞くと、マリアはお腹をぽんぽんと軽く叩きながら上を見上げて答える。
「冬の終わりくらいに生まれるって、シスターが仰ってたわ」
マリアの座る椅子の上には大きな木の枝が伸び、木登りを楽しむ男の子たちが数人いた。木の枝に座り足をぶらぶらさせている男の子に、ヘンリーが「気をつけろよ」と声をかけている。
「マリアさまの赤ちゃん、かわいいんだろうなぁ」
「当然だろ、マリアの子供だからな」
「あら、あなたの子供でもあるんですよ」
「そうですよ、兄上の子供なんだから、きっと手を焼かされますよ~」
ふと混じってきたデールの声に、ヘンリーとマリアは後ろを振り返った。デールが脇に書類の束を抱えて中庭を突っ切って二人の所まで来ていた。デールの後ろを子供が三人、まるで追いかけっこを楽しむようについてきている。
「兄上、こんなところで堂々といちゃつかないでくださいよ。仕事、途中で放り出してここに来たんでしょう?」
「放り出してなんて……いや、そうだ、放り出してきた。でも、それはな、マリアがこんな暑い所で子供たちといたから心配になって……」
「姉上が大好きなのは分かりますけど、大人としてもう少し抑えてもらえませんかね」
「何言ってんだ。俺はこれでもかなり抑えてるつもりなんだぞ」
「……そうですか。じゃあ、もういいです。好きにしてください」
茶化しにも乗らず、ただ素直に思っていることを言葉にする兄に、デールは笑ってため息をついた。兄弟のやり取りが微笑ましく、マリアは二人を見ながらずっとにこにこと笑っている。
「でもマリア姉さま、本当にご無理なさらないでくださいね。僕も甥か姪の誕生を楽しみにしてるんですから」
「やっとオジサンになれるってか?」
「そうですよ。子供が生まれたら、僕だって国王の仕事の一環として、『叔父の時間』を設けるつもりですからね」
「本気かよ」
「本気です。それくらいの時間を捻出できるくらい、国内の情勢は落ち着いてきました。これも兄上たちのお陰です」
デールはそう言って真剣な顔つきで二人に頭を下げた。ラインハットは順調に復興を遂げている最中だが、一歩間違えれば、この国は既に存在していなかったかも知れないのだ。魔物の謀略により偽太后が権力を掌握し、国は完全に壊滅に向かって突き進んでいた。国民も重い税に苦しみ、救いのない生活に命を落とした者もあった。そのような過去から目を背けてはならないと、デールは週に一度は城下町を歩き、国民の様子を自分の目で確かめ、どのような細かな困りごとも見逃さないようにと、直に人々の話を聞いて回っている。国王の地道な行動もあり、ラインハットの国民は徐々に王国への信頼を取り戻していったのだ。
復興のきっかけを作ったのは他でもない、奇跡的に生還したこの国の第一王子であるヘンリーであり、共に旅をしてきたマリアであり、そして今もどこかで旅をしているリュカという青年だった。彼らがこの国に目を向け、訪れ、国を救うという意思を持たなければ、ラインハットは今頃完全に魔物に乗っ取られた国は滅びていたかも知れない。彼らの強い意志に、デールは今もこれからも永遠に感謝し続けるのだろうと思っている。
「叔父の時間なんて設けてないで、お前も早いところヨメさん見つけて、子を授かればいいだろ」
「それはまた追い追い考えますよ。今はただ、マリア姉さまの安産を願うばかりです」
「まあ……そうだな」
「困ったことがあれば母上も相談に乗ると言っていましたよ。母上もマリア姉さまの子供が楽しみなんです」
「太后様にはもう何度もお話を聞いていただいているんです。それにもう生まれる子供のケープを編んで下さっているとか」
「この暑い中ケープを編んでるって? 母上も相当楽しみにしてるんだな」
ヘンリーはマリアの腹に子が宿ってから、全てのものに棘がなくなったような気がしていた。今となっては何故自分がマリアとの間に子供を作ることを拒んでいたのか、分からないほどだった。王位継承問題に揺れたラインハットを憂う心は当然、ヘンリーにもデールにも、原因を作った太后にも残っている。しかし未来に向かっているラインハットでもう同じような過ちは絶対にしないと、それぞれが反省し、決意しているこの状況で、新しい命を拒む理由はもうなかった。子供を産むことに対する母体の危険性についても、ヘンリーはマリアの生命力を信じることにした。今も完全に不安が拭えたわけではないが、マリアが幸せそうに腹を擦る姿を見ると、ヘンリーはこれでよかったのだと思うことができた。未来を生み出すということは、危険も伴うが、希望に満ちていることなのだと、妻の穏やかな表情を見て感じることができた。
今を生き、これからを生きる。それがこれからのラインハットに必要な事なのだと、ヘンリーはマリアの笑顔を見ながら改めて強くそう思うことができた。そしてこの幸せが、旅の中にいる友のもとにも訪れてほしいと、ヘンリーは夏の強い青空の下で願っていた。

Comment

  1. ぷち より:

    こんにちは!2度目のコメントです。
    フローラ推し、ヘンリー推しのぷちです。

    本編の方で涙涙しており、更新を心待ちにしていたら、ヘンリーのお話!!!!
    とっても楽しく読ませていただきました。マリアにぞっこんなヘンリー様はとても可愛い♡

    この1ヶ月ほど、本編を最初から読み返しておりました。
    bibi様の文章表現力にうっとり、わくわく、涙…いろいろな感情を誘われ、またDQⅤがプレイしたくなりますね。
    執筆は大変かと思いますが、どうか続けてください!

    息子さんとの様子もひそかに楽しみにしています(笑)
    冬休み、クリスマス、年末、年始…お母さん大忙しですね。
    bibi様、息子さん、旦那様、皆さん健やかによいお年をお迎えください。
    いつまでもファンです!!!

    • bibi より:

      ぷち 様

      早速のコメントをどうもありがとうございます。
      ヘンリー、いいですよね。私も好きなキャラなので、こうしてまるで主人公のような勢いで書きたくなる時があります(笑)
      フローラさんも奥深いキャラですよね。本編でこれからまた登場の時がくるので、それまでしばしお待ちください。
      ぷちさんの一か月をお邪魔してしまい、申し訳ないです……。でも、お読みいただいて大変嬉しく思います。
      今はちょっと息子が冬休みに突入しましたので、いつも以上にのんびり(ほとんど進まないということ……)書き進めてまいりたいと思います。

      ぷちさんもどうぞ良い年をお迎えください。温かいお言葉、本当にどうもありがとうございました^^

  2. ケアル より:

    bibi様

    ヘンリーがなぜ、子供を欲しいと思わなかったのか、謎が解けるシーンでありましたね。
    そして、マリアの本心を手紙という遣り方で素直に伝える描写。

    ん~~…。
    今回の話は私の野暮なコメント要らないですね(笑み)
    bibi様だからこそ、bibi様にも息子様がいるからこそ、夫婦の心境が描写できた素敵な読み物になりましたよ。
    お見事です!

    デールとヘンリーの会話、面白いですね。
    さりげないヘンリーに対しての弄り方が読み手はニヤニヤさせてくれます。

    bibi様、ティミーとポピーの双子と、コリンズ、どちらが年上になるんでしょうね?
    ゲーム本編で考えると…描かれていなかったかなぁ…。
    bibi様の小説で考えると…。
    マリアは「冬の終わり」と言っていた。
    チゾットで倒れたビアンカ、あの時のチゾットは雪が降っていた…。
    グランバニア到着し王家の証を取りに行き、王位継承の儀式の前には生まれていたということは、ティミーとポピーは、まだ冬の時期に生まれた?
    年上はリュカの子供たちでしょうか?
    bibi様どう思いますか?

    bibi様ダイヤリーを年末に更新しますか?
    挨拶は、その時にしようかとも思っていますが、どちらにしても、その時はまたコメントなりをしますね。
    bibi様の小説を読み始めて何年の年月が過ぎたでしょうか…。
    6年は立ちましたでしょうか…。
    過去にサイト移転されましたよね?
    そのあたりからですので、どうだったでしょうか?…間違えてましたら、ごめんなさい。
    あの時は、まだ子供時代のレヌール城あたりだったかと思います。これからもbibi様ファン代表(かってに決めてます)として応援していますよ!
    良いお年を迎えてくださいね。

    • bibi より:

      ケアル 様

      ご丁寧なコメントをどうもありがとうございます。
      ヘンリーとマリアのこのような話はいつか書きたいと思っていました。彼らにも彼らの物語があるので。それと、単に私がヘンリー贔屓なので(笑)
      恐らく、私に子供がいなければまた違った話を書いていたように思います。いろいろと経験をすることは良いことです。これからもいろいろと経験していこうと思います。経験値を積まなくてはレベルが上がらないですからね~。
      双子とコリンズは、双子の方が年上です。あくまでも私の設定ですが。その方が話が楽しくなりそうなので、そういうことにしています。
      コリンズが生まれる一年前ほどに、双子は生まれています。なので、リュカとビアンカが石像にされた頃、まだマリアは妊娠もしていません。このあたりの年表をこの前まとめていたら、大きく話に矛盾が出てきてしまったので(汗)、いつか長編の直しをしたいと思っています……。
      ダイアリーは年末にまた更新しようかなと思っております。焦って主人の実家に帰る前に、何とか……。
      その時には改めて皆様にご挨拶させていただきたいと思います。皆々様あっての当サイトですから^^

  3. ピピン より:

    bibiさん

    ようやく二人が本当の意味で夫婦になれたようで安心ですね。
    原作ではあまり語られない部分なのでこうやって取り上げて貰って良かった(*¯ᵕ¯*)

    • bibi より:

      ピピン 様

      原作ではただ浮かれてるだけの二人なので、こちらではちょっとシリアスになってもらいました。彼らにもいろいろと物語があっただろうな、と。
      また気が向いたら、こちらの国についても書いてみたいと思います^^

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