2020/09/05

選択の余地(前編)

 

この記事を書いている人 - WRITER -

「ずっと乗りっぱなしで、尻、大丈夫か?」
「ええ。とてもゆっくりなので大丈夫ですよ」
「そっか。それならいいんだけどさ。俺はいまだに痛いからさぁ」
「まあ、そうなんですか。そうですよね、ラインハットからですものね。長い道のりでしたよね……」
そう言いながら彼女の口から吐き出される息は、白い。白い馬が一定の速度で、雪がまばらに残る広い草原地帯を進む。白馬の上には黒の修道服の上に胡桃色のマントを羽織る、一人の修道女。その横を歩くのは、鮮やかな青の正装の上に青丹色のマントを羽織る、一人の青年。
「うん、まあ、かなり飛ばしてきたってのもあるんだけどさ」
「あら、どうしてそんなに急いだんですか」
「早く会いたかったからに決まってるだろ」
そう言いながら青年は手綱を握る手に思わず力を込める。

三日前のこと、海辺の修道院に向かって、ヘンリーは雪の中早馬を走らせていた。季節はまだ冬の中頃。身を切るような寒さが常に前から迫ってくる。馬を潰しかねない勢いで走らせたため、修道院に着くころには白馬の体力も底を尽きかけていたが、ヘンリーの体力も非常に危うい状態に陥っていた。
それほどまでに急いでいたのは、偏に修道院にいるマリアに会うためだった。
彼女がラインハットを去り、南の海辺の修道院に戻ってから、ヘンリーは幾度となく手紙を送った。しかし彼女からの返事はないまま季節が一つ過ぎていた。想いを募らせているのは自分ばかりなのかと、もう手紙を送るのは止めようと思う度に、自らマリアとの交流を断つことなどできようもないと自覚した。
その日はラインハットにも雪が降っていた。冬のラインハットに雪が降るのは珍しくない。そもそも北寄りに位置するラインハットは夏が短く、冬が長い。幼い頃から雪を見慣れていたヘンリーにとって、寒さと白さにはある程度の免疫があった。しかも彼は約十年の間、世界一高いと言われる雪山の上で友と共に逞しく過ごしてきたのだ。寒さに耐える自信はあった。
白々と夜が明ける頃、ヘンリーは一人、ラインハットを発った。弟王のデールには一筆、書置きを残しておいた。『三日以内には戻る』とだけ書いておけば、弟王は理解するはずだと、彼は他の者には一切何も話さないまま南に向かった。弟王は南に向けられる兄の恋情にはっきりと気がついていた。そして密やかに兄の恋を応援していた。
南に向かって馬を進めて行けば、そのうちに雪も止むだろうと高を括っていた。オラクルベリーを過ぎれば、冬でも雪など降らない地域になるとヘンリーは知識の上で知っていた。海辺の修道院はラインハットよりも遥か南方に位置し、冬でも厳しい寒さが訪れることはない。
それが天変地異でも起きたのか、雪は一向に降り止まず、絶え間なくヘンリーの顔にマントに吹雪いてくる。まるで雪雲に追いかけられているようだと、ヘンリーは頭上に広がる寒々しい灰色の雲を睨んでいた。
「そんなに会わせたくないってのかよ……勘弁してくれよ」
手綱を握る両手はとうの昔に悴み、一体手綱をしっかりと握れているかどうかも分からないような状態だった。口で息をすれば寒さに喉が痛くなる。のどを潤すために唾を飲み込めば、喉の奥がひりついて咳き込みそうになる。そのような状態に気づいてしまえば前に進む力が弱くなると、ヘンリーは馬を走らせている目的だけを考えて、吹雪の中を突っ走って行った。
修道院に着いたのは真夜中の時分だった。吹雪いていた雪は小降りになったが、依然として細かく降り続いている。普段は雪など降らないような地域に降り続く雪の景色に、辺りの魔物も驚いているのか姿を現さない。森の中に身を潜めているようだった。
女ばかりの修道院。夜は固く扉を閉ざしている。扉脇の古びた燭台には魔除けの火が灯されており、扉近くの雪景色をわずかに橙色に染めているだけだ。真夜中の修道院の建物内はどこにも明りがなく、修道女たちが完全に寝静まっているのが分かる。ヘンリーは既に寒さを寒さと感じなくなってしまった状態で、ここまで突っ走ってくれた白馬を労うと、修道院を囲む木の柵の外で朝になるのを待つことにした。マントと一続きになったフードや肩に降り積もった雪を払うと、地面の雪の上にどさりと雪が落ちた。
木の柵に立って寄りかかり、静まり返った夜の闇に耳を澄ませる。生き物の音一つ聞こえない。やはり常々は雪など降らないこの地域に、積もるほどの雪が降ったことで、周りにいる生き物全てが面食らっているように何の音も発することができないようだった。
寒さの中で眠気を感じれば、途端に命の危険に直結する。ヘンリーは眠気に襲われることを恐れていたが、一向に眠くはならなかった。朝になり、修道院の扉が開いたら、マリアに会う。彼女に会える。それを考えるだけで、眠気は訪れない。
星も月もない雪空は暗い。東の空を見ていると、ほんの僅かだが朝が近づいているのが分かる。闇の中に白を帯びてくる朝の気配に、ヘンリーは時が進んでいるのを感じる。朝日が昇るはずの東の空は、果たして太陽が昇るのか、相も変わらず雪空に覆われているのか。修道院に朝が訪れたら、初めに院から出てくる修道女に話しかけ、マリアを呼んでもらおうとそれだけを考えていた。
一日中走り続けぐったりとしていた白馬が、重い首を上げて低く小さく嘶いた。尖る耳をそばだて、顔を向けるのは修道院の入口だ。まさか魔物が修道院に入り込んだのかと、ヘンリーは咄嗟に立ち上がり、身に帯びている細身の剣の束に手をかける。同時に呪文を唱える構えを取る。しかし白馬が反応したのは、修道院から姿を現した一人の修道女に対してだ。
修道院の扉脇に備え付けられている燭台の明かりの中、揺れる橙色の明かりを受ける一人の修道女の姿に、ヘンリーは短く息を吸ったまま動けなくなった。ちらつく雪を小さなその身に受け、どこかぼんやりとした様子で積もる雪の中を歩くのは、紛れもなく彼の想い人だ。長く癖のある金色の髪が、燭台の明かりを受けて橙に染まって輝いているように見えた。
彼女の名を小さく呼ぶと、彼女はぴたりと歩みを止めた。呟くような小さな声を、彼女が拾うとは思わなかった。表情は分からない。しかし今は、彼女が逃げてしまわない内に捕まえなくてはならないと、ヘンリーは無遠慮にも修道院を大きく囲う柵の中に入っていく。
歩みを止めたマリアが一歩後ずさる前に、ヘンリーは彼女の手をつかんだ。雪で冷え切った己の手よりも温かく、ようやく会えたという純粋な嬉しさに思わず「会いたかった」と素直に彼女に伝えた。
一言声に出してしまえば、もう後には退けなかった。彼は彼女に会うために、伝えるために丸二日近く馬を走らせ、はるばるこの海辺の修道院までやってきたのだ。彼女の小さな両手を掴み、正面から求婚する。
自分のやりたいことができるのは、生きている内だけだ。彼女の兄の勇気と優しさと覚悟に救われた己の命を、精一杯生きることが己の使命なのだと、ヘンリーは好きになった彼女の一生が自分の傍にあることを切に願った。
唐突な求婚を受けて戸惑うのは当然だ。彼女には人生を選択する自由がある。彼と共に生きるか、修道院での人生を選ぶか。ヘンリーは彼女が修道院での暮らしを選ぶのだろうと、心の奥底で達観していた。それを分かっていても、彼はマリアに直接、自分の想いを伝えずにはいられなかった。
視線を逸らし、降り積もる地面の雪を見つめる彼女を見て、これ以上彼女を困らせてはいけないとヘンリーは掴んでいた彼女の両手を離した。ちらつく雪が手に当たるが、その冷たさも感じない。視界の全てに細かな雪が入り込んでいるはずだが、それらは視界から消え、ただ俯くマリアの姿が映る。優しく義務感の強い彼女が間違えて自分との人生を選ばないように、ヘンリーは泣きそうになる呼吸を堪えて彼女に背を向けた。
「ヘンリー様!」
自分の名を呼ばれただけで、鼓動が一つ跳ねた。思わず後ろを振り向けば、雪の中を走ってくる彼女が、見事に転んでしまった瞬間を目にした。雪の上に座り込む小さな彼女の姿を見て、ヘンリーは一層彼女への想いを強くする。ドジを踏んでしまう彼女が、誰よりも好きなのだ。彼女を守ってやりたい。助けてやりたい。ただ傍にいたい。
マリアの正面にしゃがみこんで、彼女の髪や服についた雪を手で払う。一つ、揶揄うような言葉をかけると、彼女はようやくヘンリーの目を見つめた。そして今度は、彼女が彼の手を取る。
貴方のお嫁さんにしてくださいと、マリアは震える声で言った。どうして声が震えていたのか。ただの緊張なのか、修道女と言う身分を越えたことをしている罪悪感か、俺への同情で求婚を受けたからか。
内容はどうでも良いと思った。とにかく自分は今、途轍もない幸せな夢を見ているのだと感じた。

人生、捨ててしまおうと思ったことは正直、何度もあった。
ラインハットから連れ去られた時、子供ながらに自分の人生は終わったと思った。命は助かっても、奴隷の身分に落とされた時、近いうちに人生は終わると思った。マリアの兄であるヨシュアさんが俺たちを逃がそうとした時、俺が代わりに残るよと言ったのに、止められた。友の故郷がラインハットに焼き払われたと知った時、死をもって償うべきだと思ったが、友がそれを許さなかった。
魔物に支配されそうになっている故郷を目の当たりにして、己のやるべきことを見出した。全てはラインハットの中の歯車が狂ってしまったことで、様々な悲劇が起きたのだ。それならばラインハットを正さなくてはならない。それができるのは王子と言う血筋から逃れられない自分なのだろうと、今度は生きて役に立つ人間になろうと努めた。
その中で修道院に立ち寄ることがあった。マリアと再会した。彼女が危険な旅についてくると言い出した時、俺は真っ向から反対した。女の子を危険な旅に連れて行くことはできない。マリアの無事を祈る兄ヨシュアのためにも、彼女を危険な目に遭わせるわけには行かないと。
ヨシュアの名を出せば、彼女は大人しくなるだろうと思っていたが、違った。彼女は彼女の意志で、俺たちの旅の手助けがしたいのだと言う。彼女は彼女なりに、自分が生かされた意味を見出そうとしているのだと、この時は思った。リュカはそもそもマリアが一緒に旅に来ることを反対していない。俺が頷けばいいだけの話だった。
マリアを連れて、リュカと魔物の奴等と山道を登る途中で、俺は魔力の使い過ぎで一度倒れた。情けないと思った。こんなはずじゃなかったのにと思った。高熱を出して意識も朧げになる中、俺の頭を労わるように撫でる小さな手の感触は覚えている。そんな優しい手を差し伸べてくれる人がいるのだと、俺は毛布に包まりながら泣きそうになった。
神の塔と呼ばれる場所で、俺は何が何でもと言う意識で彼女を守った。そうでもしなければ、彼女はいつでも自分の命を簡単に投げ出してしまいそうだったのだ。その儚い姿に、もしかしたら彼女は死に場所を求めて旅について来てくれたのだろうかとさえ思った。
絶対に死なせないと強く思ったのは、彼女の兄ヨシュアさんへの誓いだけではなく、俺自身の想いもあった。彼女がいなくなるなんて、嫌だ。この時にはもう、彼女のことを好きになっていた。
神の塔で無事に鏡を手に入れ、ラインハットへ向かう途中も、気づけばマリアを見ていた。最後まで見届けるためにラインハットまでついて来てくれると彼女が言った時、本当は飛び上がるほど嬉しかった。ラインハットで偽太后を倒し、これから国が復興の道を進み始めようとする時にも、マリアにはずっと傍にいて欲しかった。
でも彼女は海辺の修道院が自分のいるべき場所だと、ラインハットを去って行った。俺は彼女の選ぶ道を邪魔したくはないと彼女を送り出したが、完全に手を離せるほど大人でもなかった。ラインハットから何度となく彼女に手紙を送った。彼女からの返事は終ぞなく、居ても立っても居られない俺は直接彼女の声を聞くために、二日近くかけて馬を飛ばし、海辺の修道院に向かったのが三日前のことだ。

ヘンリーの求婚を受け入れたマリアは今、彼と共に修道院より北にある町オラクルベリーに向かっている。夕闇に染まる街の明かりが見えると、マリアは思わず目を輝かせた。オラクルベリーはここ何年かで急速に発達した町だ。その規模は大きく、町全体が活気に沸いている。明るく光る色とりどりの町の明かりを見て、マリアは不思議そうに首を傾げた。
「あれは一体……火の明かりではないのでしょうか」
「ああ、あれは魔法の力で作り出しているんだろうな。魔力を使ってあんなことができるんだなって、前にリュカと来た時も思ったよ」
「もうすぐ暗くなるのに、あの町は眠らないのでしょうか」
「眠らない、か。そうだな、多分眠らないのかも」
「まあ、どうしましょう。私、ずっと起きていられるかしら」
「えっ?」
「えっ?」
ヘンリーの声に、マリアも同じような声を出す。町が眠らないから自分も一晩中起きていなくてはならないという考え方をする生真面目なマリアが可笑しくて、可愛いとヘンリーは思う。
「修道院に比べたら別世界みたいなものだろうな。でもいくら何でも四六時中眠らないヤツはいないと思うぜ。大丈夫だよ、ちゃんと宿を取って休むから」
「ああ、そうなんですね。良かったです」
そう言いながら街を見つめるマリアの目には、人々の活気あふれる街に対する憧れが見えるようだった。静かで慎ましい海辺の修道院での暮らしを不満に思ったことはないのだろうが、いざ様々な人々が生活を営む町を目にすれば、彼女の中に隠れていた好奇心が見え隠れする。そんな彼女の様子を窺い見て、ヘンリーはこの街に連れてきてよかったと一つ鼻で息をつく。
街の入口を入れば、いよいよ町の明るさは目に染みるようだった。大通りを真っすぐ進んだ正面には、街を代表する娯楽施設の建物が聳えている。魔法の力で色とりどりの明かりを放つ施設を、マリアは思わず目を細めて見つめる。
「修道院長様は以前、この街で演劇をご覧になったようですが、あの建物の中なのでしょうか」
「演劇ねぇ、そうだな、多分そうだろうな。俺は見たことないけど」
「演劇場ではないのですか?」
「うーん、まあ、色々と詰まってる場所だよ」
ヘンリーもこの街には以前、リュカと共に訪れただけで、町全体を詳しく知っているわけではない。ただマリアが見つめる娯楽施設に足を踏み入れたことはある。その時の記憶そのものをマリアに伝えるには、少々後ろめたい気持ちもあった。おおよそ修道女が足を踏み入れるような場所には思えないからだ。
「あの、何だかこのままだとちょっと目立つようなので、馬から降りた方が良さそうですよね」
街の中に入り、白馬に乗る娘とその横を歩く青年の姿は少々人目を引いた。人々から見上げられる視線に気づいたマリアは逡巡し、自ら馬を下りようと大きな馬にしがみつくようにして身体をずらした。彼女の両脇を後ろから支えるようにして、ヘンリーは彼女を地面に下ろす。
「あ、ありがとうございます」
「どういたしまして」
「私一人じゃ馬に乗ることも下りることもできないなんて、お恥ずかしい限りです」
「マリアは身体が小さいんだから仕方がないよ。いいんだよ、そういう時は俺を頼れば。一緒にいるんだからさ」
「でも重いでしょう」
「重いもんかよ。マリアなんて、鳥の羽みたいに軽い。軽すぎて心配になるくらいだ。もっとちゃんと食べないとダメだぞ」
「ヘンリー様こそ、少しお痩せになったのでは? しっかり食事を取ってらっしゃいますか?」
心配そうに見上げてくるマリアに、ヘンリーはおどけたように応える。
「誰のせいで痩せたと思ってるんだよ。マリアがこの何カ月も手紙の返事をくれなかったから、そりゃあ傷ついて傷ついて、食事も喉を通らなかったんだからな」
「えっ、ああ……ごめんなさい……」
「ははっ、まあ、いいよ。今はこうして隣にいてくれるんだから。おかげで食欲も沸いてきたってもんだ。宿を取ったら、飯屋に行こうぜ。マリアも腹が減ってるだろ?」
「そう、ですね。そうかも知れません。どこからか良い匂いがするような気もしますし」
そう言いながら鼻をひくつかせるマリアを見て、ヘンリーはおよそ修道女らしからぬ食への欲求を表す彼女に思わず笑う。やはり彼女の生きる場所は、修道院ではなく、一般的な生活ができる町や村なのかも知れないと思う。
「修道院じゃ食えなかったようなもの、たくさん食おうぜ」
そんな彼女を、これから一つの国に縛り付けてしまうことを、ヘンリーはほんの少しだけ後悔している。
大通りを途中で逸れ、宿屋が立ち並ぶ一角に入る。娯楽施設の煌びやかな光が止み、宿屋の看板を照らす落ち着いた火の明かりがあちこちに見られた。ヘンリーがどの宿がいいかと視線を巡らせていると、隣を歩くマリアが弾んだような声を出す。
「あちらにも何だか魔法を使った明かりがあるようですね。あれも宿なんでしょうか」
マリアの指し示す建物を見て、ヘンリーは一瞬にして顔を真っ赤に染めた。娯楽施設のような色とりどりの明かりを灯しているわけではなく、明らかに怪しげな暗い明りを灯すその場所は、いわゆる好き合う男女が共に過ごすような宿だ。ヘンリーは白馬の手綱を握る手に思わず力を込めながら、思い切り頭を横に振った。
「ちっ、違うと思う! ……あっ! ほら、こっちの宿にしよう。ここなら、その、大丈夫だからさ」
「大丈夫、ですか」
「そう、大丈夫。それに馬を止める場所も必要だろ。あっちにはさぁ、そういう場所がないと思うんだよ」
「ああ、そうかも知れませんね。外見は変わった明かりをしているけど、こじんまりとしているようだし……」
物珍し気にじろじろと怪しげな宿を見るマリアの手を強引に引いて、ヘンリーは反対方向にある宿へと向かう。
オラクルベリーを訪れる旅人は少なくない。宿の多くははるばる遠くから訪れる旅人たちのために馬を預かる場所を設けている。宿の建物の壁に馬を繋ぐための金具があり、宿の宿泊手続きを済ませれば馬を預かり世話までしてくれる。その代わり、宿賃は通常よりも高めだ。
ヘンリーは白馬の手綱を金具に取りつけると、ここまで頑張って仕事をしてくれた白馬の首を撫でて労わりの言葉をかけ、宿の中へ足を踏み入れた。宿のカウンターには数名の旅人の姿があり、既に手続きを終えた者らがこれから町へ遊びに繰り出そうとしたり、宿の者が旅人を部屋へ案内しようと荷物を持っていたりする。宿のロビーにいくつか置かれるテーブルについて、一休みしている旅人もいる。ちょうど手続きを終えた旅人とすれ違うように、ヘンリーはマリアを連れて宿のカウンターに手をついて、宿の主人に話しかけた。
「二部屋空いてるか?」
愛想のよい主人は心からの笑顔で出迎えてくれたが、彼のその言葉に瞬時眉をひそめる。
「二部屋、ですか?」
「そう、二部屋」
「そちらのお嬢さんと、ですよね」
「ああ、そうだよ」
「二部屋、ですか?」
念を押してくる宿の主人の言いたいことは分かる。手を繋いで、明らかにそれらしい雰囲気を醸している二人を見て、果たして二部屋必要なのかと素直な疑問を視線でぶつけてくる。ヘンリーが眉をしかめて今一度「そうだよ、二部屋!」と言おうとした時、マリアが小首を傾げてヘンリーを横目に見上げる。
「あら、二部屋なんですか? 私はてっきり同じ部屋かと」
「へっ?」
「神の塔への旅でも、馬車の中で一緒に眠ったことがありましたね。何だか懐かしいです」
今から数か月前、彼らは海辺の修道院から南にある神の塔を目指し旅をしていた。険しい山道を数日かけて登り、帰りも馬車を引き連れながら数日かけて山を下り、そのまま旅の扉と言う世にも不思議な泉を抜けてラインハットへ向かったのだ。旅の最中は当然、二人は寝食を共にしていた。ただ、その場には他にもリュカがいたし、魔物の仲間たちもいた。
「なあんだ、やっぱり恋人同士なんだろ? じゃあ一部屋でいいな」
「私は構いませんよ。ゆっくりお話もできるでしょうし」
「……じゃあ一部屋で、頼む」
ヘンリーが呟くようにそう言うと、店の主人は空いている部屋を一つ用意すると、案内役を務める一人の女性の店員に指示を出す。ヘンリーは彼女に連れてきた馬の特徴を述べ、世話を頼むためにいくらか金を払った。思わぬ高額な金銭を渡され、世話を任された女性の返事にも張りが出る。
オラクルベリーを訪れる旅人は少なくない上に、ちょうど三日前に降った雪がまだあちこちに残っており、そのために町で足止めされている旅人も多くいるらしい。そのためこの宿にもいつも以上に旅人が訪れており、一部屋を勧めたのはなるべく部屋を空けておきたいという理由もあったようだ。これから夜にかけて、この街に向かっている旅人もいるのだろう。町のシンボルでもあるあの娯楽施設は観光名所としても有名になってきている。宿を取ってからあの施設に夜な夜な遊びに行く旅人もいるに違いない。
「宿の方も困っていたようですし、一部屋にしておいて良かったかも知れませんね」
「うん……まあ、そうかもな」
宿の廊下を案内係の女性の後について行き、部屋の前で鍵を渡されると、「どうぞごゆっくり」とただただにこやかに二人を部屋に送り出してくれた。外には夕闇が広がり、部屋は既に暗い。しかし宿泊準備の整った部屋には二つの明かりが灯されていた。外気が閉ざされた部屋の中はそれだけでほんのり温かい。しかしそれでも部屋の中では白い息が漂うくらいには冷えている。一部屋ごとに暖炉があるような宿が他にあったのかも知れないと思い、ヘンリーはもう少し宿を吟味すれば良かったと後悔した。
「荷物を置いたら飯屋に行こう。こう寒くちゃ温かいものが食べたいな」
ヘンリーはマリアが修道院からまとめて持ってきた荷物の包みを部屋のテーブルに置くと、早速部屋を出ようとする。しかしマリアが部屋の窓から外の景色を眺めている姿を見て、足を止めて呼びかける。
「どうかしたのか?」
ヘンリーの声に、マリアは小さく白い息を吐いて応じる。
「いえ、何でもないです。……さあ、参りましょう。私、街を歩くなんて初めてなので、ちょっと緊張してしまいます」
彼女の言葉を聞いて、ヘンリーは改めて彼女のことを何も知らないのだと思った。
マリアのことを初めて知ったのは、人生で最も酷い場所だった。年中、寒風吹きすさぶような高い高い山の頂で、使い捨ての労働力として過ごした中で、偶然彼女に出会った。何故彼女がこんな場所にいるのか、それまで彼女はどうやって生きていたのか、ヘンリーは何も知らない。ただ彼女には現場を監視する立場の兄ヨシュアがいて、どういう経緯か二人の兄妹はあの死と隣り合わせの場所に入り込んでしまった。あの場所で生き始める前に彼女が一体どこでどうやって生きていたのか、何も知らないままだ。
ただそんな過去を聞き出すのは彼女の傷を抉るようなことだと、ヘンリーは彼女の言葉に合わせて明るく振舞う。
「リュカと来た時にもさ、あのギラギラした建物の近くの屋台で食べたことがあるんだ。あ、でもこの辺りにも飯屋が色々とあったよな。近くの方がいいかな」
「明日には町を出て、ラインハットに向かうのですよね? それなら近くで食事を済ませて早めに休んだ方が……」
「いや、明日はさ、一日この町で過ごそうと思ってるんだ。ラインハットへは明後日かそれ以降に向かえば問題ない」
「えっ? でも国の方々はヘンリー様をお待ちに……」
「平気平気、ちょっとくらい俺がいなくたって。それにさ、せっかくマリアと町にいるんだから、少しくらい一緒に町を歩いてみたいし」
「では明日はラインハットのために町で色々と情報を集めるとか、そういうことですか?」
「相変わらず真面目だな~。違うよ、俺はただマリアと一緒に町を歩きたいだけ。町で何かしたいことがあったら教えて欲しいんだけど、なんかある?」
「何かしたいことだなんて、そんな、私のために貴重なお時間を割いていただくわけにはいきません」
きっぱりと断るマリアの姿勢が彼女らしいなとヘンリーは小さく笑う。彼女から何かをしたいという言葉を聞けるとは初めから思っていなかった。ヘンリーはオラクルベリーの町に入った時の彼女の言葉を思い出す。
「そうだ、明日は修道院長様も行ったっていう劇場を見てみよう。修道院長様がご覧になるくらいだから、修道女のマリアが見たって良いものだと思うけど、どうかな?」
マリアが人々の暮らす町や村に対して憧れを抱いているのは彼女の様子から窺える。彼女の人生のどれほどが、あの汚泥にまみれた山頂と慎ましく静かな修道院での生活だったのかは分からないが、普通ではない人生を過ごしたからこそ、普通の生き方に憧れるのは当然だろう。
「良いのですか?」
「もちろん。じゃあ、それで決まりな。……へへっ、マリアとデートかぁ。夢みたいだな」
小さく呟くヘンリーの言葉に、マリアは一拍遅れて顔を赤く染める。そして食事を取ろうと部屋の扉を開けるヘンリーに続いて、彼女は無言のままついて行った。



宿屋が数件立ち並ぶ一角には、食事をするための店も立ち並んでいた。食事を提供する宿もあるが、寝泊まりだけを提供する宿も少なくない。二人が宿泊する宿は通常、食事も提供する宿のようだが、遅くに宿泊手続きをすれば当然食事の準備が整わず、外で食事を済ませることになる。
空いている店に手早く入り席に着くと、店内に置かれているメニューが書かれている大きな板を見る。食事の注文などしたことがないマリアにヘンリーはメニューの内容を説明すると、彼女は豆のスープとサラダに決める。パンがついてくると言うそのメニューに、ヘンリーも同じものをと店員の女性を呼び止めて注文した。
「店の中はあったかくていいな。宿は暖炉もないし、寒いだろうから食事で身体をあっためて帰ろう」
「そうですね。また風邪をぶり返してもいけないですし」
「もう平気だよ。治ったよ、風邪は」
「でもまだ病み上がりなんですから、無理しないでくださいね」
今から三日前、ヘンリーが海辺の修道院を訪れマリアに求婚した後、彼は高熱を出して倒れてしまった。丸二日近く、ほとんど休みなく馬を走らせる間、絶え間なく雪が降り続き、身体が冷え切っていた。彼女に是の返事をもらった途端に張り詰めていたものが取り払われ、彼は素直に風邪を引いたのだった。
「ホント、情けないよな。しばらくラインハットで過ごしている内に身体がなまっちまったんだ」
「それでいいんですよ。あなたの人生が平穏だということですもの。喜ばしいことです」
静かに微笑むマリアにヘンリーは適当な言葉を返せなかった。それまで全く平穏とは程遠い人生を送っていた過去が脳裏を過る。空腹でたまらない、寒さが全身を突き刺す、寝床が冷たくて体の震えが止まらない、空気の薄さにまだ慣れない、裸足の足が靴を履いているように固い、疲れているのに眠れない。そのような感覚を十年余り経験してきた。
しかしそれは、マリアも同様だ。彼女はリュカやヘンリーほど長期間の奴隷生活を強いられたわけではないが、小さな女の子のようなマリアが数か月でも同じような経験をしたらすぐさま命を落としていただろう。実際、あの場で初めて出会った時、彼女は足首を砕くような怪我をしていた。砕いた岩を運ぶ際に、自分の足に落としてしまったに違いない。回復呪文が使えるリュカが彼女の傷を癒し、その場は無事に収まったが、あのまま放っておかれたら、あの劣悪な環境の中で傷はみるみる悪化し、少なくとも足を駄目にしていただろう。
そして何よりも彼女を苦しめているのは、唯一の肉親である兄をあの場に置いてきてしまったことだ。彼女の兄ヨシュアは妹を逃がすため、何度も問題行動を起こしていたリュカとヘンリーに大事な妹を託した。生きていつか逃げ出そうと企み続ける二人の青年に、彼は彼と妹の人生を賭けた。ヨシュアは三人を逃がすために自らを犠牲にする覚悟を持っていた。問題行動を起こして牢に入れられていたリュカとヘンリーを脱獄させたのだから、彼自身が懲罰の対象となるのは明らかだ。マリアにもそれが分かっていた。それ故に彼女は今も苦しみ、日々の祈りを欠かさない。兄が今も生きているという願いを捨てず、あの山の頂で働かされている全ての人々のことを思い、日に一度は必ず静かに祈りを捧げるのだ。
彼女自身も辛く厳しい経験をしてきた。しかしそんなことは露ほど感じさせず、目の前の人への思いやりに溢れる彼女の言葉に、ヘンリーは改めて胸を熱くする。己の弱音など吐き出さず、他人を思いやる心を持つ彼女を、ヘンリーは救ってやりたいと思う。
運ばれてきたスープからは香ばしい湯気が立つ。店内は人々の体温や料理の温かさで温度が上がり、マントを羽織ったままでは少々汗ばむほどだ。しかしヘンリーもマリアもマントの前を合わせたまま食事を始めた。マントの下に来ている服は王族が身につけるような目にも鮮やかな衣装、そして片や白黒の修道服。マントを外してしまえば目立ってしまう彼らの服装は、隠しておくのが適当だった。
「なぁ、マリア、他にもいろいろあったのに豆のスープなんかで良かったのか? 腹が減ってるなら他にも頼むけど」
「いえ、大丈夫ですよ。それよりもヘンリー様こそ私なんかに無理に合わせなくていいんですよ。本当はお肉が食べたいのでしょう?」
そう言いながら目の前で微笑むマリアに、ヘンリーははたと気がついた。彼女は修道女だ。殺生を好まず、肉類を食さない。修道院での食事も茸や木の実、豆など自然に採れるものから作っていた。
ヘンリーは湯気の立つスープをそのままに、店内にあるメニューの木の板を見る。店内にはそこここに明かりが灯されているが、全体的に仄暗い。橙色の明かりに揺れるメニューの中から、彼は茸のパイ包み焼きを追加で注文した。
「お肉の包み焼きもあるのに、いいんですか?」
「マリアと一緒に食べたいからな。二人分らしいから、後で取り分けて一緒に食べよう」
そう言いながらヘンリーはフォークでサラダを突き刺してばりばりと食べ始めた。風邪もすっかり治り、元気に食事をしている彼の姿に、マリアは安心したように微笑んで、祈りの言葉の後に自らもパンをちぎって食べ始めた。
「城に戻ったらさ、料理人にもマリアの食事について気をつけてもらうようにするよ。肉や魚は出さないでくれって」
彼の口調は至って軽いものだが、その言葉にマリアは忘れていた緊張を体中に感じた。ラインハットの王兄と結婚するということは、自分もラインハットの人間になり、王兄妃殿下という立場になる。今の自分の立場とはあまりにもかけ離れた存在を想像して、思わずパンを喉に詰まらせた。慌ててグラスの水を飲み、喉につかえていたパンを飲み下す。深呼吸をするように大きく息をつくマリアに、ヘンリーは首を傾げる。
「大丈夫か?」
「ええ、はい、すみません、大丈夫です」
「うん、それならいいんだけど」
「あの……私……本当に私でいいんでしょうか。本当だったら他にもっとあなたに合う人がいるんじゃないかと……」
マリアは自分でも自分の素性をよく知らない。両親の記憶すらない。もしかしたら流行り病で亡くしたのかも知れないし、貧困の末に兄妹は捨てられたのかも知れない。まだ記憶も残らないような幼い頃から、兄に手を引かれ、その日その日を懸命に生きてきた。自分はまだ良い。しかし幼い妹を連れ、二人で生きなければならないという使命感を持つ兄は大変な苦労をしたに違いない。
それでもどうにか、近くにいる優しく温かな人の手をすがり、兄は妹と共に生きてきた。しかし助ける手を差し伸べてくれる人たちも決して生活に余裕があるわけではない。真面目な兄は他人に必要以上の迷惑をかけられないと、自らその手を離し、最後にすがって行きついたのがあの大神殿の地だった。信仰の末に必ず訪れる幸せといざなわれ、兄妹は踏み入れるべきではなかった場所に足を踏み入れた。
自分自身が何者かもわからないような娘が、果たしてラインハット王兄の妻として相応しいとは誰も思わないだろう。求婚され、承諾したとはいえ、これは二人だけの問題ではないのだ。
「じゃあ俺、ラインハットの王兄なんかやめるよ。このままここで、お前と一緒に暮らす」
ほんの少しの怒気を孕んだ声でパンを口に入れてかみ砕きながら話す彼に、マリアは一瞬絶句した。魔物に滅ぼされかけた国は今、彼を必要としているはずだ。弟王であるデールも兄である彼をこれ以上ないほどに頼っているのをマリアは知っている。
「なっ、なんてことを仰るのですか」
「本気だよ。だってラインハットは俺がいなくてもどうにかなるだろうけど、俺はマリアがいないとどうにもならない」
そんなことを言いながらもヘンリーは次々と食事を平らげる。特別なことを言っているつもりがないのだろう。彼にとっては至って普通のことを普通に話しているだけだった。
「滅多なことを言うものではありません。ラインハットはあなたを必要としているんです。あなただってようやく国に戻れて、弟君であるデール国王と共に歩めることを嬉しく感じているでしょう?」
ヘンリーが熱情に訴える代わりに、マリアは冷静に今の状況を彼に諭す。マリアは彼があの過酷な山の頂で十余年も過ごしていたと聞いている。故郷に生きて帰れたことを大事にすべきだと、彼女はあくまでも客観的に述べる。そもそも彼がもし国を飛び出し、マリアと共に人生を歩むことを決めれば、デール国王はもちろんのこと、ラインハットは再び先の見えぬ暗闇に入り込みかねない。リュカと共に救った国を再び危機に陥れてしまうようなことを、彼が望んでいるはずがない。
マリアの真剣な言葉に、ヘンリーは無言のままサラダを平らげた。彼自身にも分かっている。死んだと思われていた国の第一王子が、十余年ぶりに無事に帰還を果たした。王国を滅ぼそうと画策していた魔物を倒し、兄弟二人三脚で国の復興に向けて動き出していることに、ラインハット国民の期待は大きい。
たとえ彼が彼女との町での平凡な生活を望んだとしても、彼女に平穏は訪れない。自分のせいでラインハットという国に深い傷をつけてしまうという重責を彼女に常に抱えさせることになってしまう。二人で逃げるようにどこかの町や村でひっそりと過ごすなどと言うことが、現実的でないのは分かりきったことだ。逃げた先に幸せが待っているとは考えられないのだ。
「そう、だな。もう逃げることは許されないんだよな……」
ラインハットから逃げることはできない。マリアを手放したくはない。ヘンリーの中で答えは出ている。やはり彼女を連れてラインハットへ帰らなければならない。そこに選択の余地はない。
二人が向かい合うテーブルに、出来立ての茸のパイ包み焼きが出された。マリアが皿を自分の方に寄せるのを止め、ヘンリーがナイフで器用に切り分ける。食事の所作一つを取っても、彼は紛れもなく王族の人間だった。奴隷として十余年の月日を過ごしたようには到底見えない。ラインハットに無事戻り、国で数か月過ごす中で彼は幼い頃に身につけていた王子としての所作を思い出し、既にそれは自然と身に着いてしまっている。様々ないたずらで城中の者を困らせていたという彼だが、それも町や村の乱暴な男の子のするようなものではなく、ただ寂しさゆえに構って欲しいという幼心から生まれた衝動のようなものだったと、マリアは彼の性格からそう理解している。彼の心根は誰よりも傷つきやすく、優しい。
切り分けられたパイ包み焼きからは温かな湯気が立ち上る。火傷をしないようにと息を吹きかけて食べようとしたら、正面から視線を感じてマリアは顔を上げた。ヘンリーが彼女を見ていた。視線が合うと、彼は少し慌てたように目を逸らし、自分の取り皿に取り分けたパイ包み焼きを食べ始めた。マリアも知らず早まる鼓動のまま、小さく切り分けて少しずつ食べ始める。口の中に食べ物が入っている間は話すこともできないと、二人は無言で食事を続けた。言葉を交わしづらい雰囲気があった。
マリアが食べきれなかったパイ包み焼きの皿を手に取ると、ヘンリーは残りをあっという間に平らげた。グラスに残る水を一気に飲み干すと、店員を呼びつけた。マリアが慌ててマントの内側から小物入れを出して食事代を出そうとしたところを見て、ヘンリーが思わず笑ってそれを止める。
「あのさ、仮にも一国の王様の兄をやってる俺が、女の子に食事代を出してもらうって、あまりにもカッコ悪いだろ」
「いえ、ですが私が食べたものは私が払わなければ」
「これからのお前の人生をもらうんだ。こんな食事代なんて気にするな」
そう言って再び席にやってきた店員が注文の品と代金を確認すると、ヘンリーは手早く会計を済ませ、マリアに有無も言わさずに店の外に出た。マリアは慌てて懐に小物入れをしまうと、急いで彼の後を追って店を出た。
外は冷え冷えとしていた。道の端にはまだ雪が残り、夜の冷え込みで更に凍り付いてしまいそうだ。今日は一日晴れており、今も夜空には星空が広がっている。マリアは修道院で見上げる星空とはどこか異なる景色に、白い息を吐きながら不思議そうに小首を傾げた。
「どうかしたのか?」
店の前で立ち止まって上を見上げるマリアに、ヘンリーが問いかける。
「町では星が少なくなるのでしょうか」
修道院では数多の星が夜空に瞬いていた。月明かり、星明りで修道院の周りの景色が見えることもあった。しかしオラクルベリーで見上げる星は、明らかにその数を減らしている。
「町が明るいからかもな。町の明るさで、修道院では見える星も、ここじゃ見えないのかもな」
「そういうことがあるんですね。私、夜空というものはどこでも同じなのだと思っていました」
「この町は夜も特別明るいから、尚のこと星が見づらいのかも知れない」
飲食を済ませた店の外にも明りは灯され、町のそこかしこに旅人を誘うための明かりが灯されている。それは火の明かりだったり、魔力で生み出された不思議な色の明かりだったりと、夜だというのに視界は明るい。夜空を見上げるマリアの横顔も、橙色の明かりに照らされ揺れている。白い頬が明かりに揺らめくのを見つめ、ヘンリーは左手を差し出した。
「手を繋いで宿に戻ろう」
差し出された手に、マリアは拒む理由もなく右手を差し出す。まだ店内の温もりが残っていたのか、互いに温かい手と感じた。夜空に星が瞬く時間でも、オラクルベリーの町は眠らず、道を歩く人は少なくない。その中を二人は、仄かに恋人同士の熱を持ちながらゆっくりと歩いて行った。



宿の部屋に着くと、マリアは喉の奥から湧き上がる欠伸を口の中で噛み殺した。修道院から半日以上をかけて歩き続けてきたため、疲労が溜まるのも無理はなかった。半分ほどの時間はヘンリーが連れた白馬に乗って進んでいたが、それでも修道院での慎ましやかな生活に慣れきっていた彼女にとっては、修道院で一日中お務めをしていた時の数倍の疲労があった。
「やっぱ寒いなぁ、この部屋。さっさとベッドに入って寝た方がいいかもな。起きてても寒いだけだし」
そう言いながら、ヘンリーも大きな欠伸をしている。食事も済ませ、胃も落ち着いてきたため、一気に睡魔が襲ってきていた。男性で体力があるとは言え、半日以上白馬の手綱を引いて歩いてきたためそれなりに疲れている。
ヘンリーは青丹色のマントを外し、椅子の背もたれに投げるようにかけると、寒い寒いと言いながら部屋の入り口寄りのベッドに潜り込んだ。昨日まで風邪のために本調子ではなかった彼が、半ば無理をしていたのではないかと心配になったマリアは、彼の様子を確認しようとベッドの傍に近づく。
「大丈夫ですか? まだ熱が……」
「いいや、大丈夫。大丈夫だからマリアもあっちのベッドで休むんだ」
近づくマリアを制するようにそう言うと、ヘンリーは口元まで布団を引き上げて寒さを遮断する。窓寄りにはもう一つ、窓からの月明かりに照らされるベッドがある。部屋のテーブルの上には一つ、ランプがあり灯が揺れていたが、灯の明かりがなくとも今は月明かりだけで、青白く部屋を見渡すことができる。
「明かり、消しておいた方が良いですよね」
「うん、そうだな。また必要になったら俺が点けられるし」
火の呪文を使うことができるヘンリーは、魔力さえ底をつかなければ暗闇でも明かりを灯すことができる。マリアは自分にもその能力があればよいのにと、呪文の勉強をしたこともあったが、攻撃呪文のみならずあらゆる呪文を唱える特性を何一つ持っていないことを身に染みて理解しただけだった。
世界中のどれだけの人々が呪文を使うことができるのかは知らないが、少なくともマリアの知る限りでは西へ旅立ったリュカ、そしてヘンリー、修道院長に副修道院長は呪文を使うことのできる人々だ。修道院で修道女としての徳を積めばもしかしたら呪文を使うことができるようになるのかと思っていたが、どうやら呪文を使えるかどうかは生まれながらの素質が多く関係しているらしい。
戦うこともできない、呪文を使うこともできない自分がよくもあの神の塔への旅に同行したものだと、マリアは今になって反省するような気持ちに落ちる。ただあの時は命を繋いでくれた彼らに恩返しがしたい気持ちだけが彼女を動かしていた。彼らの役に立てるならば、その場で命を落としても構わないとさえ思っていた。
テーブルの上のランプの灯を吹き消すと、部屋は月明かりだけの青白い世界になった。窓から離れたベッドに横になるヘンリーの表情はもう分からない。ただ少し動いたような気配だけが漂う。体勢を変えただけかも知れない。
「マリアも疲れてるよな。早めに休んで、明日に備えようぜ。修道院長様が見たっていう劇場を覗いてみたいんだろ?」
彼の声は入口の扉の方へ向かっていた。寝返りを打つように体勢を反対に変え、今はマリアに背を向けているようだ。
「え、ええ。あ、でもそんな無理に行かなくても良いんです。私なんかのために大事なお時間を割いてもらうのは……」
「いいや、無理にでも行く。これは決定事項だ。だから、早く寝ておけよ」
そう言うなり、ヘンリーは頭まですっぽりと布団を被ったのが分かった。反論は許さないと言わんばかりの彼の優しい態度に、マリアは思わず笑みを零す。マリアが気になっていた場所のことを覚えていた事にも、彼女は感謝する思いだった。
オラクルベリーの町の夜はこれからが長い。今の時分に宿を出て、町に遊びに行く者たちの姿が窓の外に見えた。海辺の修道院での暮らしに比べたら、まるで別世界だと感じる。修道院でお務めをする毎日を過ごしていた彼女にとっては、夜になってから町に遊びに出かけるということ自体、想像の外にある世界だった。
先ほど、彼と店で食事をした。それだけで彼女は胸に満ち足りた思いが溢れるのを感じた。他愛もない話をし、様々な表情を見せる彼を見ているだけで心が温まった。明日は町の劇場に連れて行ってくれるという。自分はどれだけ恵まれているのだろうかと、思わず両手を組み合わせて窓の外の星空を眺める。
ヘンリーがマリアの境遇に同情を寄せ、責任を感じているのは彼女にも分かっていた。実は面倒見の良い彼が、兄をあの場所に置いてきてしまったことに責任を感じて求婚してくれたのだろうと、マリアは悟っていた。それを受け入れても受け入れなくても、彼の心に残る傷は長く残り続ける。その中で最善をと、彼女は彼からの求婚を受け入れた。
窓を触ると凍るような冷たさが指先に伝わる。外は寒い。白い息を吹きかけると、そのまま窓は白く曇った。まだ冬の時分。しかしあの場所はこの季節が延々と続いている。マリアたちを助けた後の兄ヨシュアの処遇を想像すれば、胸の中に絶望が広がる。絶望の中で、手を組み合わせ、窓の外の星空に向かって静かに祈りを捧げる。兄の無事を、あの地に残された人々の無事を願う。今の彼女に出来ることがそれくらいしかないことが、いつでも歯がゆく感じる。
焦点の合わない視線を窓の外に向けていると、後ろから規則正しい寝息が聞こえてきた。兄は妹の幸せを願い、彼らを助ける賭けに出た。兄の思いを無駄にしてはならないと、マリアは自信の幸せについて考える。しかし自分の幸せのために、大事な人の人生を縛り付けてしまうことを、今更になって恐れた。兄の無事を願い続ける自分が彼の隣にいることは、彼を苦しめることにはならないのか。
既に寝息を立てて眠っているヘンリーを起こさないよう、マリアはずっと身にまとっていた胡桃色のマントを取ると、丁寧に裏側に折りたたんで枕元に置いた。そして窓側のベッドに身体を横たえると、布団の中で身を丸くし、目を閉じる。足元まで覆う修道服が布団の中でごわつく。自分はやはり、一生この修道服に包まれた暮らしを送るのが正解だったのではないかと、瞼の裏に浮かぶ兄の笑顔を思い浮かべ、静かに眠りに就いた。

Comment

  1. ピピン より:

    bibiさん

    初々しいヘンリーとマリアのやり取り、良いですね…
    宿屋のシーンが特に好きです。ヘンリーだけ意識してるのかわいい
    流石に「昨夜はお楽しみでしたね」は無かったですね(笑)

    • bibi より:

      ピピン 様

      コメントをありがとうございます。
      本編にはない話なので、書きたいように書きました。楽しかったです、私が(笑)
      宿屋のシーンがメインのようなものなので、気に入っていただけて何よりです。
      「昨夜は・・・」は入れようかどうしようか迷いましたが、まだ婚前なので避けてみました(笑)
      この二人も色々な場面を書きたいので、今後ももしかしたら短編でお話を書くかも知れません。

  2. ピピン より:

    bibiさん

    確かに。主ビア周りの想像しかしてこなかった自分には目から鱗でした。
    マリアが了承してくれたらすぐにキメラの翼で帰ったんだろう、程度のイメージだったので…(笑)
    こちらの方が二人にも思い出になるし物語として面白いですね。

    まだまだ5の新しい可能性を知れるようで楽しみです。

    • bibi より:

      ピピン 様

      こちらもコメントをありがとうございます。
      修道院からそのままキメラの翼でラインハットに戻ると、一つも自由な時間がなくなってしまうので、苦労の人生を送ってきた二人に楽しんでもらおうとこのような設定にしてみました。
      ドラクエという世界は余白がたくさんあるので、創作し甲斐があって楽しいです。
      特にこの二人においては、まだまだ書きたい場面があったりします。出産の時とか。
      本編が一通り終わったら、いずれ外伝的な形で色々と書いてみたいなぁなんて。……いつになるんだろ(汗)

  3. ケアル より:

    bibi様。

    改めてのコメントです。
    現在のマリア、ラインハットのマリアも今だに肉類を食べていないんでしょうか?

    マリアはヨシュアの将来をやっぱり分かっているんですね、結果がそのとおりになってしまうからマリアの心情がかわいそう…。

    次回は…あっ!更新されていたんでしたね(笑み)
    続きを楽しみに次にルーラします

    • bibi より:

      ケアル 様

      改めてコメントを頂きまして恐縮です。ありがとうございます。
      現在のマリアも恐らく、肉類魚類など命あるものは食していないと思います。
      たんぱく質なら豆類や海藻などからも取れるので、そちらで補っているかな。
      マリアは自分の精神を保つためにも、兄と残された奴隷の人たちへの祈りを止められずにいます。
      絶望を抱えていますが、諦めきれないし、自分が助かった奇跡があるので、もしかしたらまた奇跡は起きるかも知れないと信じてもいます。複雑です。
      彼女にスポットを当てても、色々とお話は書けそうです。暗くなりそうですが。

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