2020/09/05

選択の余地(中編)

 

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修道院から望む海辺の景色はいつでも穏やかなものだ。寄せては返す波音は静かで、延々と繰り返される波音を聞いているだけで、荒れていた心も徐々に落ち着きを取り戻す。自然の力は偉大で、小さな人間に圧倒的な安心を与えてくれる。たった一人の人間が不安や悲しみに暮れていても、その感情を底から掬ってくれる。
マリアは両手を組み合わせ、海に祈りを捧げていた。陽光に照らされる海はただ穏やかで、彼女の祈りを受け入れ、願いを叶えてくれるような気さえする。自然の力は偉大だ。その偉大な力に頼るように、マリアは両手を固く組み合わせ、海に祈りを捧げ続ける。
陽光が雲に遮られる。気づけば空一面を雲が覆っていた。風が冷たい。金色の長い髪が風に煽られる。マリアは片手で髪を抑え、白波を立て始めた海を不安に見つめた。
波間に何かがぷかりと浮かんでいる。西からの海流に乗って、この海辺の修道院には様々なものが流れ着く。その海流のお陰で、マリアと二人の青年は命を助けられた。あの時、三人は大きな樽を割った小舟のようなものにすがり、この浜辺にたどり着いた。
冷たい風に、彼女は身を震わせた。波間に浮かぶそれは、まるで海辺の修道院にたどり着くのが目的であるかのように、ゆっくりと近づいてくる。遠くからでもそれが、一つの樽だということが彼女には分かった。目を背けたい意識とは裏腹に、目を背けてはいけないという意識が働く。
彼女の両脇から駆け出す二人がいた。リュカとヘンリー。彼らは何故かあの大神殿で出会った頃のような奴隷の姿のままだった。髪はぼさぼさ、身体にも顔にも至る所に傷をこさえ、厚手ではあるものの寒さに耐えられるようなものではない奴隷の服に身を包み、彼らは海の中に入って行く。これほど冷たい風が吹く中、躊躇なく冷たい海に入って行く二人を見て、マリアは彼らを止めたかったが、声は出なかった。二人の背中は義務感に満ちていた。波間に漂う樽を引き上げ、中を確かめなくてはならないと。
マリアの目の前に、一つの樽。人が入れそうなほどに大きな樽だ。灰色に染まった空からは、雨が降り出していた。砂浜がぽつぽつと雨に濡れ、暗い色に変わって行く。
樽の蓋を拳で叩いて開けようとするリュカ。それを止めようとするマリアの手を、ヘンリーがつかむ。
『離してください! お願いだから、開けないで!』
『マリア、分かるよね。この中にはきっと、誰かが入ってる。あの時の僕たちみたいに』
『俺たちが助けられるかも知れない。すぐに開けて確かめてやらないと』
『いや! だって、この樽は……』
死体用の樽。
あの高い高い山の頂で働かされ、疲労と苦しみの末に命を落とした者が入れられ、海に流されるだけの樽だ。彼ら三人が生きたまま大樽に入れられ、生きたまま海辺の修道院にまで流れ着いたのは、この上ない幸運に恵まれたことだった。あらゆる機会が重なり、彼らは偶然にその機会を掴むことができた。
雨に濡れ続ける樽は、人一人が入れるくらいの大きさだ。あの場所で奴隷一人が死んでしまった時、看守たちは死体を樽に詰め、水路から滝へ流してしまう。今思えば、あれは彼らなりの埋葬の方法だったのかも知れない。看守であった兄も、誰かの死体を樽に詰め、流したことがあるのだろうか。
リュカの強い拳が、樽の蓋を外してしまった。近づこうとするマリアの腕を、相変わらずヘンリーがつかんで止めている。マリアは自分が泣き叫んでいるのにも関わらず、その泣き声はまるで聞こえなかった。全ての音が、止まっていた。ただ目の前の景色だけが動いている。
樽の中からリュカが人を引きずり出す。リュカが掴んだのは、人間の両足だ。裸足ではない、しっかりとしたブーツを身につけていた。しかしそのブーツも足の大きさに合っていないのか、ぶかぶかのようだ。リュカが戸惑い、思わず手を止める。マリアの腕を掴むヘンリーの手が震えている。彼らがそのことに気づいたのだと、マリアは今一度叫ぶ。
『お願いだから、もう、止めて下さい!』
マリアのその声に、リュカとヘンリーの姿が消え去った。雨に濡れる砂浜に残されたマリアと一つの樽。樽の端からは動かない人間の足。マリアは強くなるばかりの雨に打たれながら、涙を流しながら、力なく樽に近づく。自らの手で樽の中の人間を、既に死んでしまった人間を引きずり出す。
骨と皮ばかりになってしまった人間は、力のないマリアでも引っ張り出すことができた。涙が止まらない。大声を上げて泣いているが、自分の声は聞こえない。
土気色の兄の顔を見て、マリアはその頭を掻き抱いた。妹の幸せを願い、自らの命を顧みずに妹の命を二人の青年に託して、三人を地獄から逃がした。助かるかどうかは、恐らく賭けだった。しかしその賭けに出るほど、あの場所から逃げる術はなかった。
自分は兄の願い通り助かったというのに、自分の願いは届かなかった。兄の無事を願い、毎日祈り続けていたというのに、兄はもう、動かない。あの山の頂で命を落とし、奴隷が入れられ流される樽に自分が入れられ、こうして海辺の修道院に流れ着いた。こんな形で会いたかったわけではない。生きて会いたかったというのに。
雨に打たれる浜辺で、マリアは座り込んだまま兄の頭を胸に抱き続けた。大声を上げて泣く。その内に波が押し寄せ、兄ヨシュアとマリアをさらった。海中に沈んでも尚、マリアは小さくなってしまった兄を抱き続けた。このまま海底にまで沈んでいけばいい。深海でひっそりと、兄に懺悔し続けよう。海の中に、自分の泣き声がこだまする。

「マリア」
静かに呼ばれたその声に、マリアは重く暗い眠りから目覚めた。顔に当たる外気が冷たい。頭の上を温もりが何度も行き来している。目を開けても暗い景色だが、頬を温かい指先が撫でた時に、そこに彼がいることを知った。
「大丈夫か?」
布団から出るマリアの頭をヘンリーが優しく撫でていた。明かりを消した部屋の中では彼の表情を窺い知ることはできない。眠る時には窓から覗いていた月も空を移動し、今は見えない。その中でも頭を撫で続ける彼の手は、冷たい外気に晒されているにも関わらず温かく、心までも温めてくれるようだった。
「ごめんなさい」
「謝ることじゃない。夢見が悪かっただけだろう」
「でも、私、多分、声を出して、あなたを起こしてしまったのではないですか?」
「気にするなよ。俺は元々、あんまり眠りが深い方じゃないしさ。よく夜中に目を覚ますんだ」
それは本当のことでもあり、少しの嘘も混じっていた。ヘンリー自身、夢見の悪い夜を過ごすことがある。それは過去の出来事であったり、これから起こるかも知れないことであったり、もしかしたら過去に起こっていたかも知れないことであったりと、場面は様々だ。夢と言うのは支離滅裂で、断片的で、容赦なく精神に攻撃をしてくる。その癖、目覚めた瞬間に内容を忘れ、途轍もない疲労感だけが身体に残っているのだ。
ただ、今のヘンリーは夢見が悪くて目が覚めたわけではない。隣のベッドから苦しそうにうめき声を上げるマリアに気づき、目を覚ました。それまで彼は、心地よい疲れと共に安らかな眠りに就いていた。
互いの顔はほとんど見えないが、ヘンリーはマリアがまだ訳も分からず涙を流しているのが分かっていた。夢の大半は忘れていても、最後に脳裏に過った場面くらいはまだ彼女の記憶に留まっているのかも知れない。それさえも消し去ってやりたいが、己にできることと言えばただ彼女の傍にいてやることだけだ。
海辺の修道院での暮らしの中でも、マリアは時折悪夢にうなされ、夜中に目を覚ますことがあった。修道院に流れ着いてからしばらくは、ほぼ毎日のように悪夢にうなされ、しかしそれは時を追うごとに回数を減らした。時間の流れの力は強力だ。時の流れは凡そのことを解決に導いてくれる。だが完全に悪夢を消し去ってしまうほどの力はない。
「あの、もう大丈夫ですから、ヘンリー様もお休みになってください」
「どこがどう大丈夫だって? いいよ、お前が寝付くまでここにいる」
そう言うなりヘンリーは一度彼女の傍を離れ、椅子の背もたれに投げかけてあった青丹色のマントを手にすると、羽織りながら再び戻ってきた。真夜中を過ぎた頃の部屋の中は冷え切っており、外よりはいくらかマシと言える程度の状況だ。風邪が治ったばかりの彼にそんな寒い場所にはいさせられないと、マリアは考えを巡らすが、恐らくその考えを彼はことごとく否定してくるに違いない。
マリアは目元を修道服の裾で拭うと、身を起こし掛布団をめくった。暗がりに目が慣れてきたヘンリーは、彼女の行動を目に止めつつ不思議そうに首を傾げる。
「あなたが起きているなら、私も一緒に起きています」
「ダメだ。寒いんだから風邪を引く。布団に入ってろ」
「あなたこそ、風邪が治ったばかりでしょう。しっかり身体を休めなくては」
「俺はもう大丈夫だって。修道院でマリアが優しく看病してくれたから、すっかり治ったよ」
「風邪を甘く見てはいけません。またぶり返すかもしれないでしょう」
「……夢見が悪い時ってさ、身体が疲れている時に見やすいんだよな。修道院からここまで歩き通しで疲れたんだよな。悪かったな」
ヘンリーの言葉にマリアは思わず黙り込む。彼の言う通り、身体が慣れない疲れに襲われている時は、夢見の悪い時が多い。修道院に流れ着いて間もなくは、嫌になるほど頻繁に悪夢に襲われた。兄の記憶がまだ鮮明に残っている時だったということもあるが、広い海を渡り、命からがらたどり着いた修道院でマリアは毎夜、うなされていた。修道院では同室に数人の修道女が寝泊まりしている。彼女らにどれだけの迷惑をかけたか知れないが、修道女として暮らす彼女らからは一度たりとて不満を聞いたことはなかった。広い海を渡ってきたまだ子供のような少女を、ただ労わるだけだった。
マリアは下に揃えて置いておいたショートブーツを履くと、ベッドを離れた。ヘンリーの不安な視線を感じたが、マリアが隣のベッドから布団を抱えて持ってくるのを見て、彼は小さく息を吐き出す。
「マリア、本気かよ」
「本気です。また風邪を引いたらどうするんですか」
そう言いながら、マリアはベッドの脇に座り込むヘンリーの背から、掛け布団をばさりとかけた。かけられるままにしている彼を見て、マリアは掛布団に手を回して彼が寒くないように、後ろから抱きしめるようにして布団を固定した。ヘンリーは身じろぎもせず、ずっとされるがままだ。
「ごめんなさい。私がご迷惑をおかけしてるんですよね。私がしっかりと眠れていれば……」
「眠れないものは眠れないんだ。仕方ない。いいんだよ、俺がこうしていたいだけなんだから、気にするなって」
これ以上謝っても堂々巡りになると、マリアは大人しく先ほどまで横になっていたベッドに再び潜り込んだ。横向きに寝転がると、ベッドの上に頭だけを乗せているヘンリーと目が合った気がした。部屋は真っ暗だが、彼の瞳はこの暗がりの中でも空色に輝いているように見えた。
「私が眠ったら、ちゃんとご自分のベッドに戻ってくださいね」
「うん、分かってるよ。だから安心して寝ろよ」
「頑張って早く寝るようにします」
「そんなこと頑張るなよ。真面目だなぁ、マリアは」
そう言いながら小さく笑うヘンリーに、マリアもつられて笑う。頭を優しく叩く彼の手は、夜の冷たい空気に触れている内にすっかり冷えてしまっていた。マリアはその手を取ると、自分の掛布団の中へと入れて両手で擦りながら温める。あっという間に温まった彼の手を握りながら、マリアは静かに眠りに就いた。



窓の外で鳥が朝の会話を始めていた。白く曇る窓の外は、空の青が広がっている。マリアは掛布団に包まりながら、しばらく窓を見つめていた。
修道院での暮らしの中では、まだ夜も明けきらぬ頃から目覚め、朝の掃除が始まる。その生活を厳しく辛いと感じたことはない。自分が生かされていることに感謝こそすれ、修道院での生活に不満を抱いたことはなかった。
今は既に日も昇り、修道院では朝の礼拝も終わっているような時間だ。これほどゆっくりと眠れたのはいつぶりだろうかと、マリアは手に感じていた温かさを探る。するとそこにはまだ、彼の手があった。
ヘンリーがマリアのベッドの端に頭を乗せて、眠っていた。身体に掛布団を巻きつけたまま、座った状態で眠ってしまったらしい。窓から斜めに差し込む朝日に照らされる彼の緑色の髪が目に眩しい。太陽の光を燦燦と浴びる大草原のようだ。以前、彼らが連れていたパトリシアという巨大な白馬がヘンリーの髪を食べようとしたという話を聞いたことがあるが、思わず納得してしまうほどの瑞々しい緑だ。
顔にかかる一筋の髪を指で除けると、彼が顔をしかめた。窓からの日差しが眩しいのだろう。なかなか目が開けられないようだったが、マリアが顔を覗き込むようにしてにこやかに「おはようございます」と呼びかけると、慌てたように身を起こした。
「ご自分のベッドにお戻りにならなかったんですね。大丈夫ですか?」
「ん? あ、ああ、このまま寝ちゃったみたいだな。あー、良く寝た」
そう言って掛布団を身にまとったまま立ち上がると、大欠伸をして伸びをする。彼の髪には寝癖がつくこともないのだろうかと、驚くほどさらさらと肩に下りている緑色の髪をマリアは羨ましそうに見つめる。それに比べ、彼女の癖のある金色の髪は、毎朝櫛を通さなくては毛先が絡まってしまう。
「今日はさ、演劇を見に行ってみようと思うけど、他にも行きたいところはあるか?」
包まっていた掛布団を丸めてベッドの上に戻すと、ヘンリーは窓辺に立ち、曇った窓ガラスを手で擦った。良く晴れた空には、一つの雲も見当たらない。これだけ晴れれば、道に残る雪も今日一日で溶けてしまいそうだ。
「……もし、できればで良いのですが」
「うん」
「この町の教会に立ち寄れればと」
「言うと思った」
振り返ったヘンリーは目を擦りながらマリアがまだ座っているベッドの脇を通り、テーブルの上の水差しに手を伸ばす。同じようにテーブルに置かれたグラスを手に取ると、冷たい水を少し注いで飲み干した。
「演劇ってのもさ、多分、時間が決まってるだろうから、それを確かめてから教会にもいつ行くかを決めようか」
「いいんですか?」
「もちろん。宿の人にでも聞けば分かるかもな。朝食はここで取れるだろうから、その時にでも聞いてみるか。……あ、水飲む?」
「あ、その、お気遣いなく。自分でやりますから」
マリアがそう言うなり、ヘンリーはもう一つのグラスに水を注いでテーブルの上に置いた。そして部屋のドアを開けると、「ちょっと用足し」と言って部屋を出て行ってしまった。残されたマリアはしばらく閉じられたドアを見つめていたが、ベッドを離れるとヘンリーが注いで置いて行ったグラスの水を一口飲む。寒いだけではなく、思いの外喉が渇いていたことに気づき、残りの水も飲んでしまった。
昨夜は食事から戻り、そのまま寝付いてしまったため修道服の姿のままだった。厚手の布地で作られた修道服は皺にもなりにくく、少し手で撫でつければ元通りの状態になる。修道院から持ってきた数少ない荷の中から一枚の布を取り出すと、水差しの冷たい水を布に含ませて顔を拭いた。昨夜、悪夢に涙を流したため目が重たかった。せっかくこれから町を歩けるというのに、目が腫れているような状態で彼の隣を歩くのは申し訳ない。両目にじっと濡れた布を押しつけていると、扉が開けられヘンリーが戻ってきた。
「あ、おかえりなさい」
「うん……目、どうかしたのか?」
「いえ、ただ腫れているだろうからみっともないと思いまして」
「別に、そんなこと気にならなかったけど」
「そうですか? 鏡がないので確かめてはいなかったですが、いつもこうなると酷い顔をしているので」
「俺、マリアの酷い顔って見たことないけど。いつも可愛いし。気にしないで平気だろ」
ヘンリーは青丹色のマントを羽織ったまま椅子の背もたれを跨ぐように座ると、もう一つの椅子に腰かけるマリアの顔を覗き込むように見つめた。一時、絡んだ視線だったが、窓から差し込む朝日の力は強く、すぐに絡みは解れた。
「身支度が終わったら、朝食を食べに行こう。宿の一階に食堂があったよ」
「ではすぐに済ませますので」
「いいよ、ゆっくりで。何でもかんでも真面目だなぁ」
ヘンリーは気にしてないように笑いながらそう言うが、人を待たせるのは忍びないとマリアは身支度を早々に済ませた。癖のある長い髪は手櫛でおおよそ整え、濡れた布は広げて、椅子の背にかけて乾かしておくことにした。
部屋を出るとパンを焼く香ばしい匂いが漂っていた。食堂では既に朝食を取っている旅人が数人おり、穏やかで和やかな雰囲気だ。二人は適当な席について、焼き立てのパンといくつかのチーズを朝食に取りつつ、宿の人間に町で行われる演劇について教えてもらった。演劇は不定期に行われるもので、今日は昼下がりの時間に一つの演目が行われる予定だという。
教会の場所についても、念の為場所を確認した。ヘンリーは以前、リュカとこの町を訪れた時に教会に行ったことがあったが、記憶が曖昧だった。教会はここから大通りを渡り、商店街を北に抜けた裏通りにあると聞いて、おぼろげに思い出す程度の記憶しかなかった。演劇が始まるまでの時間に教会を訪れてみようと、二人は宿を出るとまず大通りを目指して歩いて行った。
雲一つない青空の下、大通りに出る人の数はまばらだった。日差しのお陰で、寒さもさほど辛くはない。街中を走る馬車が数台行き来しており、人を乗せたり荷を運んだりしている。その多くは町の中心部に聳え立つ娯楽施設に行くものだ。ヘンリーは巨大な娯楽施設の中に人々が熱狂する魔物の闘技場や目が回るようなレバー式の大きな機械、施設の奥に位置する舞台、それに人々が飲み食いできるバーが併設されているのを思い出す。連日の様に多くの人々が訪れるあの場所にはそれなりの物資も必要なのだろうと、娯楽施設に向かって走る馬車を何とはなしに目で追っていた。
大通りを渡ると、商店の立ち並ぶ一角に入り込む。宿の近くにも飲食店が立ち並んでいるが、商店街の中には主に酒類を出す店が多く立ち並んでいるようだった。昼前のまだ早い時間である今は店の準備も始まっておらず、ひっそりとしている。辺りには染みついた酒の匂いが立ち込め、酒に弱いヘンリーは思わず顔をしかめる。見ればマリアも同じように感じているのか、少々眉をひそめている。
「これって、お酒の匂いでしょうか」
「この辺りは酒場が多いから、匂いが取れないんだろうな。道にも壁にも染みついている感じがする」
「匂いだけで、何だか酔ってしまいそうですね」
「大人になれば誰でも飲めるもんだと思ってたけど、そういうわけじゃないってここで初めて知った……」
話している途中でヘンリーは、以前リュカと共にこの町に訪れた時のことを思い出し、一層顔をしかめた。娯楽施設で知らずに飲んだ初めての酒で酩酊し、リュカに背負われてとある宿に泊まったことがあった。その時の気まずさを思い出すと、今すぐにでもリュカの頭を思い切り叩いてやりたくなった。
「どうかされたのですか、ヘンリー様」
「いや、何でもない。……あ、ところでさ、その『ヘンリー様』っての、今はナシ」
酒場の立ち並ぶ一角を通り過ぎながらヘンリーがそう言うと、マリアは隣を歩く彼を不思議そうに見つめるが、その意図をすぐに理解する。
「もしかしたらこの町にもあなたのことを知っている人がいるかも知れない、ということでしょうか」
「そういうこと。俺のこと見たことはなくても、名前ぐらいは知られてるかも知れないからなぁ。ラインハットにいなきゃいけない俺がさ、ここで可愛い女の子とデートしてることがバレるのってあんまり良い話じゃないだろ?」
「あの、それではどうやってお呼びしたら良いでしょう」
「え? 今みたいに言ってくれればいいよ」
「今みたいに……今、私、あなたのことを何てお呼びしましたか?」
「うん、だから、それだよ。『あなた』でいいよ」
「あなた」
その言葉だけを口にしたマリアを見て、ヘンリーは思わず顔に血を上らせた。人を指し示す普通の言葉だと思っていたが、彼女が口にすればそれは途端に意味合いの濃いものとなる。今はまだ太陽の光が燦燦と降り注ぐ日中の時間。暗がりに紛れて互いの表情を隠すこともできない。顔を真っ赤にしながら歩いている彼を見て、マリアも思わず顔を赤くする。
「まあ、いや、あれだな。今だけだから。うん。無理に付き合わせてごめんな」
「い、いえ、そんな、無理にだなんて……」
「あ! ほら、あっちの方は何だか賑やかそうだぞ。商店街って言ってたから、何か色々と面白いものが売ってるのかも」
酒場が立ち並ぶ一角を抜けたところには、様々な商店が立ち並ぶ区画に入る。そこには町に住む人々が利用する食材を扱う店がこぞって市場を開いており、色とりどりの野菜や果物、魚に肉などがまるで芸術品のごとく棚に並べられている。この大きな町では飲食店などを営む者も多く、彼らはこの市場に毎朝仕入れに来ているようだった。活気ある話し声がそこかしこに飛び交っている。
市場と別の場所には旅人が訪れるような道具屋もあり、店の軒先には旅の必需品が陳列されている。日用品を売る店も軒を並べ、調理器具に掃除のための箒や塵取り、食料を保存しておくための壺や瓶、手や体を清めるための石鹸など、この商店街に来れば一通りにものが揃うようだった。衣料品を扱う店もあり、今はこの寒い季節に防寒具が売れているようだ。
その中でマリアはふと、一つの小間物屋に目を止めた。店の前には商品を陳列する棚が置かれ、そこには女性用の装身具が様々並べられていた。ちょうど太陽の光を浴びてきらきらと光る金や銀の装身具は、それだけで女性の目を引く。
今までの人生の中で、女性らしい装飾品を身につけたことはない。特別な憧れもなかった。何故、この小間物屋の前で立ち止まってしまったのかはマリア自身にも分からなかった。しかし初めて目にした輝くような装飾品は、まだ少女であるマリアの心を惹きつけるには十分な輝きを持っている。
「どれが欲しい?」
後ろから言葉をかけられた瞬間、マリアは夢見心地になっていた自分を心の中で叱った。女性用の装飾品に大した憧れも持っていないはずだと、胡桃色のマントの下に来ている修道服のごわつきを感じる。
「いえ、決して欲しいわけでは……」
「マリアは修道院にいる時、ちょくちょく髪をまとめてたよな。お務めする時に邪魔だったんだろ」
「え? ええ、そうですね」
マリアの髪は癖が強く、まとめていないとふわふわとあちこち乱れてしまうのだ。今も歩いている内に空気を含んだ髪は落ち着きなくあちこちにふわふわと浮いているようだった。修道院にいる時には紐で一つに結わえ、背中に垂らしていることが多かった。お務めの邪魔にならなければそれでよかった。
「これなんか、どう?」
隣に並ぶヘンリーが商品棚から手に取ったのは、一つの髪留めだ。銀で細かな花の模様が描かれ、群青色と透明の小さな宝石が散りばめられている。ヘンリーの手の平に乗る髪留めに目を落とし、しばし見つめている間、マリアは散りばめられている宝石の中に気持ちが吸い込まれそうになる。しかし髪留めの置かれていた場所につけられた値札を見て、突如寒気を覚えるほどに身を震わせる。
「とっ、とんでもないことです。きれいだなとは思いましたけど、私、こんな高価なものだなんて知らなくて……」
修道女として過ごしてきたマリアだが、物の相場というものは修道院長の話や、それまでは町で暮らしていた修道女らからの話で耳にしていた。彼女らから聞く話は主に日常生活のことで、目の前にある装飾品に及ぶものではないが、それでも彼が手にしている小さな髪留め一つがそれほどの値になることにマリアは驚きを隠せなかった。
マリアの反応を見て、ヘンリーは髪留めを手に乗せながら店先で二人を見ていた店主に話しかける。にこやかに話す店主の話に納得するように一つ頷くと、彼は懐から財布を取り出す。さっさと髪留めの代金を払ってしまう彼の手を、マリアは声も出せずにただぽかんと見つめていた。
「はい、どうぞ」
手渡された髪留めを、マリアは両手で恭しく受け取る。一般の町の人がそうやすやすと手に入れられる髪留めではない。特別な日に大事な人に贈り物をするときなどにじっくりと検討するような代物だろう。
「どうして、そんな……」
「好きな子に贈り物をしたいのは男の性ってもんだ。結婚の申込みをしたのに、花一つだって渡してなかったしな。……あ、それとも他のが良かったか?」
「いえ、そんなことは……この髪留めが綺麗だなって、見てました……」
手の上に乗る髪留めをマリアは目を細めて見る。髪留めの美しさもさることながら、この美しい髪留めを贈ってくれた彼の心に胸を温める。自分なんかがこれほどの幸せを感じても良いのだろうかと戸惑う心もある。
マリアはふわふわとまとまらない髪を左肩から胸へと下げるように集めると、ゆるくまとめた状態で髪留めを身につけた。左胸に髪留めの微かな重みを感じると、それは彼が常に傍にいてくれるような緊張感と安心感も伴った。そしてじわりと幸福感が胸の内に広がる。装飾品一つで、これほど心が騒がしく動き回るとは思ってもいなかった。
「ありがとうございます……あなた」
先ほどヘンリーを名前で呼ばないようにと決めた二人だ。マリアはただ感謝の気持ちと、先ほどの決まりを守らねばとそれだけで呼びかけたつもりだったが、マリアに「あなた」と呼ばれるヘンリーはまるで心臓をわしづかみされるような強烈な一撃を胸に受ける。
「ぐっ、い、いや、いいんだ。俺が贈りたかっただけだから。じゃあ、行こうか」
照れ笑いを隠し切れないまま、ヘンリーは商店街を抜ける道を歩き出す。マリアも俯きながら、半歩斜め後ろの辺りを歩いてついていく、そんな二人の後姿を、店の店主は「初々しいねぇ」とニヤつく顔で眺めていた。



町の裏通りに入ったところにある教会と言うのは珍しい。通常、教会と言う場所は町の中心的な役割を担っている。旅人は旅の無事を祈り、神の加護を得るために必ず教会で祈りを捧げる。町の人々も困りごとがあれば教会に寄り、神父やシスターに話を聞いてもらい問題の解決を試みる。怪我をした時や病気になった時も教会に足を運び、怪我の手当てや病気の治癒を祈願してもらう。その他にも人々の心の拠り所として教会は存在し、おおよそでは町の中心に存在するか、町の入口近くにその建物を構えることが多い。
ちょうど巨大娯楽施設の真裏に、昼間でも人のまばらな通りがある。その通り沿いにオラクルベリーの教会はあった。お世辞にも町の中心的な場所とは言い難い、ひっそりとした場所だった。しかし教会の建物としては規模も大きい。それでも目立たないのは、圧倒的に娯楽施設が巨大だからというだけだ。
教会の扉を開けて中を覗けば、人通りの少なかった通りからは想像できないほどの人々がそこにいた。オラクルベリーの町の教会にはこの町に似つかわしい少々派手なステンドグラスが教会を彩っていた。夜になれば娯楽施設の様にピカピカと光り出しかねないほど、色彩豊かなステンドグラスだ。今は太陽の光を浴びて、教会内に幻想的な彩を映し出している。
町を歩いていた時とは違い、教会内に足を踏み入れたマリアはようやく自分の居場所を見つけたように落ち着いていた。修道院で数か月を過ごした彼女にとっては、厳かな雰囲気漂う教会こそが帰るべき場所のように思えてしまう。オラクルベリーの町を歩いて回るのも好奇心をくすぐられ楽しいことだが、やはり心落ち着くのは教会や修道院などの神の御許と感じられる場所なのかも知れない。そんな彼女の横顔を見ながら、ヘンリーは彼女に気づかれないように静かに一つ溜め息を零した。
教会内にいる人々は長椅子に腰かけたり、祭壇前にまで足を運んだりして、各々祈りを捧げていた。マリアが最前列の席に腰かけ祈りを捧げ始めると、ヘンリーも隣に腰かけて同じように両手を組み合わせて目を閉じた。子供の頃はこんな祈りなどに何の意味があるものかと思い、祈りを捧げることもおざなりにしていたヘンリーだが、今はそれなりに意味のあることだと思っていた。彼は神に祈りを捧げるというよりも、自分自身の心に向き合い、落ち着かない心を落ち着かせるべく教会の厳粛な空気に身を浸すことがある程度必要なのだと感じている。マリアにそんな自分の心根を話したことはないが、恐らく彼女ならば理解してくれるだろうとヘンリーは彼女を信じている。
マリアが目を開け、教会の祭壇に目を向けると、ちょうど神父と目が合った。どうやら神父はマリアが祈りを捧げている時から彼女を見ていたようで、目が合うと穏やかな笑みを浮かべて、マリアが座る最前列の席まで歩いてきた。マリアが慌てて席を立つ。
「あなたはお見受けしたところ修道女のようですが、どちらからおいでになったのですか?」
神父はマリアの胡桃色のマントから覗く黒の長衣を見つけて、彼女が修道女であると気づいていた。神父に直接話しかけられ、マリアは緊張した様子を隠すこともなく上ずった声で答える。
「あ、あの、南の海辺の修道院から参りました」
「おや、あの修道院からいらしたのですか。修道院長様は年に何度かこちらに来てくださいますが、修道女の方が直接この町に来られるのは久しぶりですね」
マリアたちが海辺の修道院で世話になる前には、海辺の修道院から時折、修道院長自ら修道女らを引き連れてこの町を訪れることがあったという。最近はその頻度も減っていると言うが、その時がくればまた同じように修道女を連れて町を訪れてくれるでしょうと、神父は至って穏やかな顔で話す。
修道女らは生まれながらの修道女ではない。それぞれ理由があって修道女としての洗礼を受け、海辺の修道院で暮らしている。修道女になる前は彼女らも町や村で暮らす少女だったのだ。彼女らの幸せを後押しするべく、修道院長は頃合いを見計らい、彼女らの意思を問い、修道院から最も近いこのオラクルベリーの町を目指す。それと言うのも彼女らの人生を、修道女と言う身分に縛り付けることなく、自由に羽ばたかせるためだという。
「要は誰か良い人と一緒になって、この町で暮らすのも悪くないって、そういうことか?」
「そうですね、仰る通りです。実際、この町で暮らす元修道女の女性は何人かいるんですよ。今では良き伴侶にも恵まれ、幸せな家庭を築いている方もいらっしゃいます」
「そうなのですか……それはとても良いことですね。幸せを見つけられたということですものね」
「この町は元々、移民ばかりで作られた町なので、外から人が来るのは歓迎されます。旅する方もこの町の居心地が気に入って留まり続けることもあります。……まあ、理由は様々ありますがね」
神父の言葉には少々の困惑があった。恐らくこの町のシンボルでもある娯楽施設の魔力にはまり、抜け出せなくなった旅人が何人もいるのだろう。以前、リュカと共にこの町を訪れた際、娯楽施設で少々賭博に興じたことがあるヘンリーは、あの場所で一喜一憂する人間を思い出した。あの場所には夢が詰まっている。しかし夢を夢のまま見続けるか、夢から覚めるかは本人次第だ。
ステンドグラスの輝きが弱まったと感じる。陽光の位置は徐々に変化するため、ステンドグラスから差し込む光の位置も移動する。今は窓近くの床を赤、青、黄、緑などの色とりどりの光が照らし、教会を訪れた子供が床にしゃがみこんでその光を手にしようとしていた。そんな子供の姿を微笑ましく見る神父が「そろそろ昼になりますね」と口にする。教会内を移動する光の位置で、時間の経過を把握しているようだ。
「マリア、そろそろ行こう。昼飯も済ませておきたいし」
ヘンリーはやはり教会があまり好きではないと感じる。厳かで慎ましく、心落ち着く場所のはずだが、過去の自分の罪を全て晒されるようで、居心地が悪い。己のこれまでを遡れば、生まれたこと自体が罪だったのではないかと思えるほどに遡ってしまうため、やりきれなくなってしまう。
「そうですね。では神父様、失礼いたします」
「はい。またどうぞいつでもおいでください。あなた方に神のご加護があらんことを……」
柔和な笑みを浮かべる神父は、生きていればヘンリーの父ほどの年齢の男性だった。彼がいつからこの町に住み、神父として町の人々に寄り添っているのかは知らない。もしかしたら悪政に苦しむラインハットから逃げ出してきた一人なのかも知れないなどと、ヘンリーは考えても仕方のないことを頭の中に巡らせていた。
オラクルベリーの町がここまで発展した理由として、かつて魔物に乗っ取られていたラインハットの事情が関わっていないとは考えられない。一体この町にはラインハットからの移住者がどれだけいるのだろうかと、ヘンリーは難しい顔をしながらそんなことを考えて道を歩く。
「……どうかなさいましたか?」
不安に揺れるマリアの声に、ヘンリーの思考はぷつりと切断された。彼女と歩いている時にも、こうして国のことを考え始め、その考えの中に落ち込んで行く意識を止められないのは、既に自分がラインハットの一部となっているからに他ならない。彼女が髪につけてくれている髪留めを見れば嬉しさに胸が熱くなるが、ラインハットに負う自信の責務はまた別の次元にある。そしてそこからは逃れられないし、逃れる気もない。
「いや、何でもないよ」
素っ気なくそう言った拍子に、隣を歩く二人の手がぶつかった。マリアが謝る前にヘンリーはその手を取り、手を繋いだまま歩き続ける。互いの手は冷えていたが、歩いて何気ない会話を続けるうちに、徐々に温かさを取り戻して行った。



娯楽施設に一度足を踏み入れると、そこはオラクルベリーの町とは隔絶された世界が広がっている。マリアがまず驚いたのは、建物の天井が異様に高いことだった。先ほど訪れた教会も天井の高い建物だったが、この娯楽施設はその比ではない。外からの光を取り込むための窓がほとんどなく、施設内を照らす明かりは魔力を利用した色とりどりの明かりが天井からいくつも吊るされている。それらは不思議に明滅したり色を変えたりと、マリアにとっては目の眩むような光景が広がっていた。
そして施設内は予想以上の賑やかさだった。窓がほとんどないため、全ての音がこの施設内にこもり、賑やかさに拍車をかけている。左手からは人々の熱狂する声が響く。そこには施設内だというのにまた他の建物があるかのように円形の壁が大きく視界を遮り、その壁の中から人々の悲喜こもごもの声が聞こえる。右手にはマリアが見たこともないような大きな四角い機械が並び、その前に立つ人々が四角い機械に真剣に向かっているのが見える。機械は人の手に合わせて動き、ガシャンガシャンとけたたましい音を鳴らしている。全体的に赤く塗られた四角い機械は、その色が人間の闘争本能を呼び起こすかのように人々を虜にしている。
「な、何だかとても賑やかなところなんですね」
「ん? ああ、そうだな。おおよそ修道女が来るような場所じゃあないと思う」
「えっ? でも修道院長様はこちらで演劇を鑑賞したと……」
「演劇の舞台って、もっと奥の方だったっけなぁ」
そう言いながらヘンリーが辺りを見渡していると、カジノ施設内の入口付近で案内係を務める女性が一人、彼らに歩み寄ってきた。女性の姿にマリアは思わず目を丸くする。修道女として数か月を過ごしたマリアにとっては対極の場所にいるような女性だった。下着にしか見えないような露出の高い服を身につけているため、胸元も脚もほとんど露になっている。頭にはウサギの耳のような飾りをつけ、顔にも当然化粧を施し、口紅の赤がやたらと目に映る。手にはトレイを持ち、その上には飲み物が注がれたグラスがいくつか置かれている。
「あら、カッコイイお兄さん、こちらは初めて?」
スラリと高い背は踵の高い靴を履いているせいもあるが、そのせいで頭上で交わされるヘンリーと女性の会話にマリアは思わず俯いてしまう。
「いや、初めてじゃないんだけどさ。今日、午後に演劇が行われるって聞いてるんだけど、場所はどこだっけ」
「舞台は闘技場の奥よ。ここを真っすぐ進んで左手にあるわ。今日は確か、女性に人気の演目だったわよ」
「あ、そうなんだ。じゃあちょうど良かった」
「そちらの可愛らしい彼女と一緒に見に行くのね」
「ああ、まあね」
「そろそろ始まると思うから、少し急いだほうがいいかも。立ち見になったら、彼女さん、見辛いんじゃないかしら」
背の低いマリアを心配して女性が顔を覗き込むが、マリアはその視線にも恥ずかしくて顔を上げられなかった。施設内の空気が熱いこともあり、体中から汗が噴き出しそうだった。
「じゃあ食事は後になっちゃうな……。それでも平気か、マリア」
話しかけられたことにも気づかず、マリアはしばらく自分の足元を見つめるだけだった。しかしヘンリーに目の前で手を振られて、ようやく我に返る。
「えっ? はい、何でしょうか」
「大丈夫か? どこか具合でも悪い?」
「い、いえ、そんなことはありません。大丈夫です。元気です」
「ここってあんまり空気も良くないものね。飲み物をお一ついかが? さっぱりするわよ」
そう言いながらトレイを差し出す女性に、ヘンリーが怪訝な目でトレイの上に乗るグラスを睨む。
「あっ、でもそれって酒じゃないのか? 俺、一回それでヒドイ目に遭ったんだけど」
「昼間はあまりお酒を出していないの。これは葡萄ジュース。美味しいわよ」
はい、と渡されたグラスをヘンリーが受け取る。「俺もちょうど喉が渇いてたから」と言って、一度グラスの中の飲み物の匂いを嗅いでから、一気に飲み干してしまった。
「これは美味いな。マリアも一つ、もらって飲んでおけよ」
「演劇を鑑賞する時にも飲食は自由だから、一つ持って行く?」
「じゃあせっかくだから、一つもらっておくよ。ありがとう」
「どういたしまして。じゃあ楽しんで来てね」
マリアと同じように癖のある金色の髪をした女性だったが、その華やかさは自分とは別次元のものだとマリアはどこか恥じ入るような気持ちがした。俯く自分とは違い、ラインハットの王兄という立場にあるヘンリーは至って普通に女性に接していた。このような時にマリアは、彼とは違う世界に住んでいることを嫌でも実感してしまう。彼はどのような状況でも物怖じすることなく、堂々とした対応をする。
街中でもずっと繋いでいた手を、マリアは離した。途端に予想していた以上の胸の痛みを感じる。しかしそれは彼も同じで、微かに眉をひそめてマリアの顔を遠慮がちに覗き込む。
「あの、葡萄ジュースを少し、いただけますか」
「あ、ああ、どうぞ。ここって喉が渇くよなぁ。外と違って暑いから、本当はマントだって外したいところだけどさ」
彼から受け取ったグラスに口をつけ、マリアは一口葡萄ジュースを飲んだ。喉から全身に、さわやかな甘みと酸味が行き渡る。小さく息をつくマリアを、ヘンリーはどこか不安そうに見つめる。
「本当に美味しいですね」
「ああ。ここにいる間はいくらでも飲み物をくれるんだから、そういう意味ではいい場所だよな、ここ」
「このジュースの色を見ていると」
「うん」
「リュカさんを思い出します」
葡萄ジュースの入ったグラスを少し高く持ち、施設の光に晒すと、その色はかつて共に旅をしたリュカの旅装を思い起こさせた。特徴的な濃紫色のマントにターバンは、傍にいる時には常にマリアに安心感を与えてくれていた。まるでもう一人の兄ができたかのように、彼が隣にいる時は心が自然と凪いだ。グラスを見つめるマリアの顔を、ヘンリーは無意識の中で、どこか射るように見つめる。
「今頃リュカさんは、どの辺りを旅されているのでしょうね。ビスタの港から西に向かわれたのですよね。船旅も危険と隣り合わせで、とても心配ですけれど……」
「マリアはさ」
彼女の話を遮るように言葉をかけたヘンリーだったが、続く言葉はなかった。言いたいことがまとまらないまま話しかけ、結局言いたいことが何なのか分からないまま口を噤んでしまった。
マリアが持つグラスに水滴が浮かび上がる。葡萄ジュースはまだ半分以上残っている。ヘンリーは彼女の手からグラスを無言で取ると、そのまま施設の奥へと歩き出した。マリアには彼が苛立っているように感じられた。そしてそのことに、胸が軋むように痛む。二人は手を繋がないまま、ただ隣を歩き進んでいく。
演劇の舞台は他の施設とは大きな幕で区切られており、区切られた空間には多くの観客が既に集まっていた。演劇を行う時にはこうして大きな幕で舞台の周りを囲み、他の施設とは隔絶された世界観を作り出すようだ。幕の中の空間は更に熱のこもった空気がある。
「少し前の方に行ってみようか」
そう言うと、ヘンリーはグラスを片手にしながら人の群れをかき分けて進む。マリアはその後をどうにかついて行くが、一瞬彼の背中を見失いかけ、咄嗟に彼の手を掴むように握った。後ろを振り返らないまま、彼も固く手を握り返す。それだけでマリアの心の中にあった一つの氷は、みるみる解けていくようだった。
舞台を取り囲むように椅子とテーブルがあちらこちらに置かれ、席に着けた人々はそこで飲み食いをしながら演劇を鑑賞する。しかしその数は限られており、二人は席に着くことは叶わず、立ち見となってしまった。女性に人気の演目なのか、舞台を囲む観客には女性が多い。しかし同時に、女性を連れる男性もその半数ほどはいるようだった。その中でヘンリーはなるべく舞台の正面に近い場所を選び、マリアを誘導するように手を引いて連れて行く。
「ここからで見えるか?」
「ええ、ありがとうございます。大丈夫です」
彼らが場所を決めるや否や、舞台を照らす明かりが灯った。楽器の演奏が幕の張られた舞台の中に響く。初めての観劇に、マリアは思わず顔を明るくした。楽器の演奏を聞くだけで、まるで異世界に飛び込んできたかのような感覚に陥る。
どこか物悲しい曲に合わせ、舞台の上ではみすぼらしい格好をした少女が床に這いつくばるような格好で掃除をしている。彼女の後ろには、美しいドレスを着飾り、互いを褒め合う二人の女性の姿。今度、お城で開かれる舞踏会に参加することに胸を躍らせる着飾った女性二人に対し、床を雑巾がけしている少女はそのような華やかな世界と自分は全く無関係だと言った様子でただ床を見つめる。始まりのこの場面だけで、ヘンリーもマリアもこの話が一つの有名な童話であることに気づいた。
しかし絵本の中で見るお伽噺とは違う世界が、舞台の上で繰り広げられる。実際に舞台で役者が役柄になりきり演じ、演者の表情や動きは人々の想像上でしかなかった世界を現実のものとして見せてくれる。舞台の上では、お伽噺が現実のものとなる感覚に、マリアの心はすっかり舞台の上に吸い込まれていった。
不幸にも見える少女は、日々真面目に仕事に精を出していた。母や姉がお城の舞踏会を心待ちに弾む会話をしている傍でも、不満を抱くことなくただひたむきに己のやるべきことだけに目を向ける。自分は母や姉とは違うのだと、初めから諦めている世界に彼女はいる。諦めてしまえば、その世界は意外にも住み心地が良い。憧れなど抱かなければ、夢を見なければ、そこには決まりきった安定があるのだ。
一人の魔女に会うことで、少女の心の奥底に眠る憧れが暴かれる。母や姉が着飾る姿を、本心では羨ましいと思っていたこと。一度でいいから、自分も綺麗に着飾ってみたい。お城の舞踏会というものがどのようなものなのか見てみたい。日々を真面目にひたむきに生きてきた少女へのご褒美と言い、魔女は少女の姿を一人のお姫様のごとく美しい娘の姿に変える。ただし夜の鐘が鳴るまでに魔女のところへ戻ってくるのが条件。少女は魔女の魔法の中で一時の夢を見る。
お城に向かう少女の美しさは、周りの人々の視線を集めた。城の舞踏会は、王子の結婚相手を見つけるために開かれたものだ。舞踏会に参加する娘たちは皆、王子の気を惹こうと抜かりなく様子を窺い、王子に近づき話しかける。ダンスの相手をする。そうして王子の心を射止めようとする。
数多いる女性の中から、王子は少女を見つける。王子が少女をダンスに誘う。周囲からは嫉妬と羨望の眼差し。少女は初め、周囲の目を気にして遠慮がちにしていたが、これは魔法が見せてくれている夢だと割り切り、この瞬間を自分らしく過ごしたいと王子の目を見つめる。見つめ合う二人が恋に落ちている雰囲気が舞台の上に溢れる。恋に落ちている間は、相手のことしか考えられないのだと、二人の役者が演じ切っている。夢のような幸せな世界を演出する音楽にも、観客席から女性の溜息が漏れる。
城の鐘が鳴る。その鐘の音が、マリアには修道院で聞いていた鐘の音のように聞こえた。この鐘の音と共に、再び修道院でのお務めが始まる。現実はそこにあるのだと、教えてくれる音だ。ラインハットから海辺の修道院に戻った後、何度も何度もこの鐘の音を耳にし、現実の中を生きていた。
舞台の少女は王子の手を離し、魔女のもとへ向かう。夢の時間は終わった。この夢を糧に、少女はこれからも今までと同じように生き続けられるのだと、マリアは舞台の上では演じられていないことを一人想像していた。幸せな結末を知っているのに、マリアはここで物語は終わるような錯覚に襲われた。
駆ける少女が転んで残したガラスの靴を、王子が拾い上げる。魔法が解かれても尚、ガラスの靴がそのまま残ったのは、魔女の好奇心か善意か悪戯か。すっかり少女に心を奪われた王子は、ガラスの靴を頼りに、少女を探し求め続ける。
少女は初めから夢と思い、全てを諦めていたが、王子は現実の中で出会った美しい少女を諦めることができなかった。名前も聞かずに去ってしまった少女を、国中捜し回る。その噂を聞き、こぞって女性たちが名乗りを上げるように王子の下へ参り、ガラスの靴を履くが誰一人として靴に認められる者はいない。
少女は元の生活に戻り、初めの場面と同じように床を磨くように雑巾がけをしている。衣服は所々ほつれ、頭には埃を被っても良いようにと三角巾を身につける。袖が汚れないように腕まくりをし、冷たい水で雑巾を洗い絞れば、手は真っ赤に染まる。
少女の家の近くにも、王子一行が訪れる。少女の母と姉が扉を出て、あわよくば王子の妻にと母が姉にガラスの靴を履かせる。姉は懸命に足を縮めてガラスの靴にぎゅうぎゅうと足を押しつけるが、靴が割れてしまうとお付きの者に止められる。
扉の隙間からその様子を見ていた少女を、王子が見つけた。少女はすぐに目を逸らし、再び掃除に戻る。一国の王子が床の拭き掃除をする少女になど興味はないだろうと、少女は床を見つめる。その横顔には悲哀が満ちている。俯く少女の横顔を見た王子は、扉を自ら開けて彼女に呼びかける。
『この靴は、貴方の落し物かも知れません。履いてみていただけませんか』
一国の王子の願い事を断る術など持たない少女は、手にしていた雑巾を水の張った樽の中に入れると、汚れた前掛けで両手を拭いて開かれた扉の外に出た。そんな少女に母と姉は汚らわしい者を見るような視線を向ける。彼女が靴を履けるわけがないのにと、表情で語る。少女自身も、ガラスの靴が履けることを望んでいるわけではないと、思い込んでいた。しかし王子と目が合った瞬間、少女の心に再び明るい火が灯る。王子は少女を愛し気に見つめていた。彼はガラスの靴がなくとも、少女に気づいていた。
少女がガラスの靴を履くと、王子は彼女の手を取った。
『私には貴方しかいません。私と結婚してくださいますか』
そうして物語は幸せな結末に終わる。二人は口付けを交わす。観客席からはあちらこちらから溜息が漏れ、すすり泣く声も聞こえる。子供に聞かせるようなお伽噺の一つだというのに、舞台で役者が演じるそれは美しい夢の世界に浸らせてくれる特別な空間だった。マリアも知らずに頬に涙を流していたが、それは決して幸せな結末に涙しただけではないと感じていた。
舞台に幕が下りてからもしばらく拍手が鳴りやまなかった。人気の演目というのも頷ける。周囲の話に耳を傾ければ、少女と王子を演じていた役者は実際にも恋仲にあるという。二人の本当の心が役の中に溶け込み、一層観客の心を虜にしているのかも知れなかった。
舞台が終わり、人々が移動を始める。騒がしくなってきた周囲に乗じて、二人もずっと離さなかった手を繋いだまま、観客席を離れた。
「どうだった、舞台は? 楽しめたか?」
ヘンリーが前を向きながらマリアにそう問いかける。歩いている方向には、施設内に併設されている食事処がある。昼時を過ぎ、少しすれば夕方近くになるこの時間帯、食事をするための席はぽつぽつと空いている。
「はい、楽しめました。連れて来てくださり、ありがとうございます」
「そっか。それなら良かったよ」
「あの、ヘンリー……」
「あ、名前は禁止な」
「ああ、そうでした。それで……あなたはどうでしたか?」
「うん、まあ、良かったんじゃないかな。……ただ、何となく、こう、むず痒いというか何と言うかさ……」
先ほどの舞台のお伽噺は女性に人気のお話だ。男性には少々退屈な内容だったのかも知れないと、マリアは思わず演劇を見てみたいと言ったことを謝る。
「ごめんなさい。私が演劇を見たいだなんて、無理なことをお願いしてしまって」
「いや、別にそういうことじゃなくってさ。なんかさ、王子ってあんなにカッコつけないといけないのかねぇ、なんて思って。ほら、一応、俺も王子をやってるから、なんか、こう、俺とは違うなぁって、あんなカッコつけ野郎にはなれないなぁって……あ、ところでこれ、まだ残ってるけど飲む?」
ヘンリーは目を細めて不快感を表しながら、手にしていた葡萄ジュースをマリアに差し出す。喉の渇きを思い出したマリアはグラスを受け取ると、こくこくと小さく喉を鳴らしながら半分ほど飲むと、一息ついた。残りを持て余していると、ヘンリーがグラスを取って残りを一気に飲んでしまった。そして近くを歩いていたウサギの耳をつけた女性に空のグラスを渡す。
「ま、メシでも食いながらゆっくり話そう。ずっと立ちっぱなしで疲れただろ」
「いえ、大丈夫です。演劇を見ていただけですもの。疲れているということは……」
「マリアの『大丈夫』は信用できないから、やっぱり席についてゆっくり食事でもしようぜ」
そう言いながら、ヘンリーはずっと離さないままのマリアの手を掴んで歩いて行く。マリアはヘンリーがカッコつけている王子だなどと言うことは思ったことはないが、彼は誰に対してもさりげなく優しいと思っている。たとえ強い口調で何かを訴える時でも、それは大抵誰かを思ってのことだ。その優しさは舞台の上の王子よりも深いものがあるのではないかと密かに感じながら、マリアは彼の隣を寄り添うように歩いて行った。

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