選択の余地(後編)

 

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娯楽施設の一角で食事を済ませ、外に出ると既に日は傾き、西の空は橙色に染まっていた。冬の太陽はあっという間に西の彼方に姿を消してしまう。しかしオラクルベリーの町を楽しむ人々は、これからの時間を待っている。夜にこそこの町は、本来の輝きを持っている。
大通りを歩いていると、町の中心地に聳える娯楽施設に向かう人々の姿が多くなっていることに気づく。それはこの町を訪れた旅人であったり、一日の仕事を終えてからの楽しいひと時を過ごすために向かう町の人だったりと、人々はひと時の夢を見るためにあの煌びやかで閉ざされた世界へ足を延ばす。
「本当にもう、宿に戻ってもいいのか?」
大通りの端を歩く二人は、今では当然のように手を繋いでいる。互いの手の感触や温かさを享受し合うことにも、昨日、今日の二日間で大分慣れてきた。いざ手が離れると、それだけで胸の中に氷を一つ落とされるような冷たさが広がるくらい、二人は互いの熱を必要としていた。
「とても楽しかったです。もう、十分ですから。本当に夢みたいな時間をありがとうございました」
橙色の夕日を浴びながら、マリアは本心から礼を述べた。これほどの幸せを感じられるのだと、彼女は今の自分の境遇がまだ信じられなかった。一緒に町を歩き、食事をし、贈り物を身につけ、演劇を見て言葉を交わし合う。まるで普通の恋する町娘になったかのような時間は、今までの人生の中では考えられない至上の経験だった。
「この町、楽しかったか?」
「ええ、とても。私、こういう町を歩くなんてしたことがなかったから……もし歩いたことがあったとしても、覚えていなくて……」
マリアが言葉を探しながら話すのを、ヘンリーは黙って聞いていた。修道院での彼女とは全く違う表情を、彼はこの町で見ることができた。明らかに表情豊かに、素直に喜んだり、嬉しそうに微笑んだり、困ったように目を泳がせたり、感動の涙を流したり、恥ずかしそうに俯いたりと、その表情は目まぐるしく動いた。海辺の修道院での慎ましやかな生活を否定するわけではないが、彼女の幸せのためにはこのような普通の町の中で暮らすのが良いのではと、彼は彼女の横顔を見ながらそんなことを考える。
「教会に行った時にさ、神父のおじさんがあの修道院からこの町に移り住んだ人もいるって言ってたな」
「そうですね。この町で良い方と出会って、幸せに暮らしていると。とても喜ばしいことですよね」
「マリアも……そうする権利はあるんだ」
ヘンリーがぽつりと落とすその言葉に、マリアは分からないというように首を傾げる。ヘンリーは真っすぐに伸びる大通りの遥か先を見やりながら、言葉を続ける。
「俺から求婚しておいてなんだけど、マリアは今、自由なんだよ。何にも縛られることなんてない。自分の思うように生きればいいんだ」
「自由、ですか」
「今日、このまま宿に泊まって、明日になれば俺はお前をラインハットに連れて行く。実はさ、俺、ラインハットにひとっ飛びできる道具を持ってるんだ」
そう言いながら、ヘンリーはマントの内側に手を入れると、手の平ほどの大きさの白い鳥の羽をマリアに見せる。旅人の必需品の一つ、キメラの翼と呼ばれる道具だった。
ヘンリーは初め、マリアが求婚を受け入れてくれたら、彼女の心が変わらない内にすぐにでもラインハットへ連れて行ってしまおうかと考えていた。多少、強引にでもラインハットへ連れて行き、王兄であるヘンリーの婚約者として彼女を国の者たちに紹介してしまえば、マリアはもうヘンリーから逃れることができない。ヘンリーの立場と言うのは、そういうものだった。国の中で彼個人は優先されず、彼の身分が優先される面が少なからずある。
彼がそのような行動に出なかったのは、町歩きをしたことのないマリアに、普通の町娘の様に町を楽しんでもらいたかったため、このオラクルベリーの町に寄り道をしようと思っていたと言う理由がある。彼女の人生には恐らく、楽しんだ時間があまりにも少ない。普通の女の子としての楽しみを、彼女にも経験して欲しかった。
しかしそれよりも、マリアの兄ヨシュアの顔が頭から離れなかった。妹の幸せを心から願うヨシュアの表情が、ヘンリーの脳裏に焼き付いている。恐らくヨシュアは、妹のマリアをあの高い高い山の頂に連れて行ってしまったことを心底悔やんでいただろう。
自分のせいで大事な人を不幸に陥れてしまったという自責の念を、ヘンリー自身痛く理解している。彼自身もまた、同じような自責の念を、今は西の大陸に旅立ってしまった十年来の親友に持ち続けている。
大事な人には、人に流されることなく、自分の人生を生きていて欲しい。人間はいつ死ぬか分からない。生きている間は自分の思う道を進んで欲しい。大事な人が望むことならば、それを支える力は惜しまない。
もしマリアが『この町で暮らし、良い人を見つけ、その人と共に人生を歩んでいきたい』と言えば、ヘンリーはそれを支える。自身が感じた一生に一度の恋心にはしっかりと蓋をして、彼女の幸せを一番に考えなければならないと、彼は今もあの山の頂に残されたマリアの兄に対し心の中で誓いを立てる。
「俺と結婚すれば、マリアはラインハット王兄妃殿下だ。色々と、不自由な生活になる。こんな自由に街歩きができるような身分じゃなくなる。デールや俺と一緒に人々の前に立たなくちゃならない立場になるんだ」
演劇で見た少女と王子は、互いに思いを通じ合わせ、幸せの表情で見つめ合った。二人の口付けには、愛が溢れていた。しかし彼らの物語は、本当はあそこからが始まりなのだ。王子と結ばれた後の少女が幸せに暮らすには、様々な障害があったのかも知れないが、美しい物語にはその場面は描かれない。ヘンリーはマリアの人生をもらう責任を持つと共に、彼女自身にもう一度その意思を問いかけている。
「修道院で俺が結婚を申し込んだのも、急だったよな。マリアが頷いてくれた時は、俺、すっごい嬉しかったけど、後で落ち着いて考えてみたらちょっと強引に返事をもらってたかなって思って」
ヘンリーの言葉は尻つぼみになるが、話を途切れさせることはない。
「だっていきなり修道院に俺が行って、いきなり結婚してくれって言って、それが一国の王子で……なんかお前の優しさにつけこむような卑怯な真似をしたかなって思ったんだ」
西の空が赤く染まる。大通りから宿へ続く小道に入る。建物の隙間から覗く西日は暑いほどで、ヘンリーはその眩しさに顔をしかめた。じきに日が暮れる。空には雲がいくつか浮かぶだけで、おおむね晴れ渡っている。今夜は月も星も望むことができるだろう。
「だからもう一度、じっくり考えて、明日また返事をくれないか?」
ヘンリーは立ち止まると、マリアの正面に立ちその両手を手に取り、真剣な眼差しでそう告げた。彼の覚悟を決めた顔つきを見て、マリアは今すぐに何かしらの返事をしてしまうのは違うのだと感じた。明日の朝と言う期限を設けてくれている彼の言葉に従い、マリアは一つ小さく頷いて意思を示す。
「分かりました。もう一度あなたとのことを、考えてみます」
「うん。……俺がこんな身分じゃなけりゃ、こんなややこしいことはしないんだけどな。ごめんな」
マリアは王族であることを謝る人がいるとは思わなかった。王子と言えば、世の女性が憧れる、皆がその隣を求めているような存在だ。その立場にある者は、数多いる女性の中からただ一人を自由に選ぶことができるというのが、世の人々の一般的な感覚だろう。先ほど見たばかりの演劇に出ていた王子も、多くの女性の中からガラスの靴の少女だけを選ぶ権利を持っていた。世の中の人々が思う王子像の代表のようなものだ。
「あなただけでしょうね、そんなことで謝るのは」
「王族だってこと?」
「そうですよ。だって王様のお兄様ですよ。女の人なら誰だって喜んでついて行くんじゃありませんか?」
「でもお前は違うだろ」
間髪を入れずに言葉を返してくるヘンリーに、マリアは口を噤む。マリアは相手が王子であれば、むしろ恐れ多いと言わんばかりに身を引いてしまうような少女だ。ヘンリーがいくらラインハットから手紙を寄越しても、ラインハットの王兄である彼に一体どのような返事を出せばいいのかと逡巡し、結局返事の手紙を出せないまま音信不通になりかけていたのだ。
「それじゃあ俺にとっては王族であることなんて大した意味はないよ。マリアと一緒になれなけりゃ、こんな肩書に意味はない」
ヘンリーはそう言いながら、思わずマリアの手を握る自分の手に力をこめる。本当ならこの手をもう離したくはない。しかし彼女の幸せを先ず考えなければならない。命の恩人である彼女の兄ヨシュアへの誓いと共に、ヘンリーはマリアの気持ちを待つ覚悟を持った。彼はまだ彼女の心の奥底に眠っている本当の心を見極めていない気がしていた。
宿に着くと、ヘンリーは先ず預けてある馬の様子を見に行った。宿の厩に移動されていた白馬は宿の人の世話を受け、今は桶の中にある干し草を食んでいた。近くに行って様子を窺うと、白馬は首を上げ、主人と認めるヘンリーを見て頭を寄せた。ヘンリーは白馬の首を擦りながら、「もうちょっと待っててくれよな」と声をかける。
「ラインハットへお戻りになる時には、先ほどの道具でこちらのお馬さんも一緒に帰るのですか」
「そういうことになる。ま、本当にひとっ飛びだからな。あっという間に国に着く。便利な道具だよ、こいつは」
そう言いながらヘンリーは自信の左胸の辺りを手で叩く。彼自身、キメラの翼を既に何度か使ったことがあった。この道具を空に放り投げれば、まるで自分に大きな翼が生えたかのような感覚になって宙に高く舞い上がり、獲物を狙う鷹のごとき速度で目的地への移動を始める。ヘンリーが持っているキメラの翼は、ラインハットの教会での神父の祈祷により、向かう場所はラインハットに限定されているものだった。
宿の部屋に着いた頃には、夕日が西の彼方に沈みかけている時間だった。日中、窓から日差しが入り込んでいたためか、部屋の中はほんのりと暖かい。昨日は夜遅くに宿に入り、寒さに身を震わせながらすぐさまベッドに入り込んだが、今日はまだ部屋の暖かさを感じながら残りの時間を過ごせそうだった。
ヘンリーは青丹色のマントを外すと、ベッドの上に無造作に置き、詰襟のホックを外して襟元を広げた。
「あ~涼しい」
「今日は少し暖かかったですよね。特に演劇を見たあの場所は暑いくらいでした」
「そうだったよなぁ。おかげで汗かいた。でも部屋には浴室もないし、宿で大浴場があってもあんまり入りたくはないんだよなぁ」
「そう、ですね」
何気ない二人の会話だが、彼らは互いにその理由を知っている。
彼らの体には奴隷生活で負った傷跡が今も残っている。特にヘンリーは背中に無数の傷跡を残していた。奴隷を鞭打つ看守らは決まって奴隷たちの背中に鞭を振るうのだ。当たる範囲が広く、最も鞭を振るいやすく、その後の労働にも最も影響がなかったのだろう。リュカと言う治癒呪文が使える友がいたため、彼の呪文で傷跡を残さずに済んだ箇所も多くあるが、常に彼と共に行動していたわけではない。痛みに耐え、そのまま自然治癒した傷跡は今も痛々しく体中に残っている。
奴隷として過ごした時間は短いマリアでも、やはり背中にいくつかの傷跡を残してしまっている。ヘンリーは実際に彼女の背中を目にしたわけではないが、あの場所で少しでも生きていたなら確実に身体のどこかには鞭の傷跡が残っているだろうと分かっていた。
「宿の人に頼んで湯をもらってくるよ。それと身体を拭く布を貸してもらえれば平気だろう」
「私も一緒に行きます。それとあなたは着替えを借りた方が良いかもしれませんね」
「マリアは?」
「私は荷の中に一つ着替えがありますので、大丈夫です」
「あ、そうなんだ。俺、なーんも持ってきてないからな。もし借りられれば借りてくるか」
部屋を出て宿の主人のいる一階のロビーに出る。ロビーに居合せた宿客らが一斉に二人に視線を向ける。マントを部屋に置いてきた二人の姿は、他の宿客らからは珍しい組み合わせに思えたのだろう。どこかの王侯貴族のような鮮やかな青色の正装に身を包む青年の隣には、黒の修道服に身を包む少女が付き添う。ヘンリーは宿客らの異様な視線を感じると、面倒なことに巻き込まれないうちにと宿の主人に手早く話をつけて、手頃な布を二枚と部屋着となる服を一着借りた。湯は食堂で分けてもらうように言われ、食堂の厨房に入り、調理用に沸かしていた湯をポットに分けてもらった。周囲の視線には気づかないふりをして、ヘンリーは湯の入ったポットを右手に持ち、左手には手頃な器を、マリアは二枚の布と着替えを両手に抱えたまま二階の部屋へ早足に戻る。
部屋の扉を後ろ手に閉め、ヘンリーは大きく肩で息をつく。
「今度は変な汗かいた。やっぱこの格好は目立つよなぁ」
「そうですね。とても立派な衣装ですものね。それこそ今日舞台で見た王子様よりも良いものですもの」
「でもマリアももしラインハットに来てくれることになれば、毎日それらしい格好をしなくちゃならないんだぜ」
ヘンリーにそう言われて、マリアは初めてその状況に考えが及ぶ。彼の妻となれば、今彼女が身につけている修道服を脱ぎ、彼の隣に立つ女性としてドレスや装飾品を身につけることになる。修道服に身を包むことに慣れ、常に規律の中にいることが心地よくなっていたマリアにとって、果たしてその煌びやかな世界で生きていくことは可能なのだろうかと改めて不安を抱く。
「私なんかがそんな、それらしい格好をしても、皆さんに笑われてしまいそうですね。背だって低いし、子供が背伸びをしてきれいな服を着ている、なんて言われてしまいそうです」
「なーに言ってんだよ。元がこんなに可愛いんだから、何を着たって可愛いに決まってるよ」
ヘンリーは笑いながらそう言うと、部屋のテーブルの上に湯の入ったポットを置いた。湯気が忙しなく立つポットの湯は調理用に沸かしていたため、そのまま布を浸すには熱すぎる。湯を器に注ぎ、テーブルの上に置かれた水差しの水を器に少し注ぐと、湯に手を触れられるくらいの温度にする。
「少し部屋が暗くなってきたな」
そう言うとヘンリーはテーブルの上に乗るランプに火を灯す。彼の指先から生み出される小さな火を、マリアは憧れるように見つめる。彼は一国の王子であり、今では王兄であり、国を動かしまとめる立場の人間で、立派な正装に身を包み、腰には細身の剣を差し、いくつかの呪文を使うこともでき、おごり高ぶることもなくその心根は優しさに満ちている。そのような男性の隣に立つのが自分なのかもしれないと考えると、それだけで身を縮こまらせて消えてしまいたくなる。
「じゃあ、俺はちょっと外に出てるから。先に身体を清めて終わったら、呼んで」
「え?」
「え?」
「……ああ、そうですよね。分かりました。すぐに済ませますね。お湯が冷めてしまいますものね」
「あ、うん……。あっ、カーテンは閉めておいた方がいいだろうな」
窓のカーテンを引くと、部屋の中は途端に暗さを増す。テーブルの上のランプが仄かに部屋の一角を照らすだけで、更に暗くなればランプの明かりは部屋の隅には届かなくなるだろう。ランプの揺れる明かりの中で、マリアが伏し目がちに白い襟掛を外しているのを見て、ヘンリーは小さく息を吸い込んだ。呼吸を忘れたまま、ベッドの上に置いてあったマントをひっつかんで彼は足早に部屋を出て行った。



二人が交代で清拭を済ませた頃には、部屋の中はすっかり暗くなっていた。明かりが一つでは乏しいと、ヘンリーは宿の主人に頼んでもう一つのランプを借りて来ていた。宿の主人は「暗い方が都合がいいと思うけどねぇ」などと聞こえよがしに呟いていたが、ヘンリーはその呟きには気づかないふりをして、マリアがまだ部屋の中で身体を清めている間にランプを借りていたのだった。
「本当に便利ですよね。火の呪文が使えるのは」
「まあ、そうだよな。これはこっちに置いておこうか」
新しく借りてきたランプを、ヘンリーはベッドの脇の棚の上に乗せた。二つのベッドの間にある棚が橙色の明かりに揺れ、二つのベッドの枕元にまで明かりが届く。夜は部屋が冷えて来て、夜着だけでは心許ない。二人は夜着の上にそれぞれマントを羽織り、部屋の寒さを凌いでいた。
「食事を中途半端な時間に済ませたから、今頃になってちょっと腹が空いてきた」
「あら、では修道院から持ってきたお菓子をお出ししましょう」
「え? なんか持ってきたの?」
「ええ。ヘンリー様が修道院でお休みなっている間に、修道院の皆さんと焼き菓子を作ってきたんです」
「ああ、あの焼き菓子。素朴だけど、美味いんだよなぁ」
修道院では月に一度、焼き菓子を作る日があった。お菓子が嫌いな女の子はおらず、月に一度のお菓子作りを修道女らは皆楽しみにしていた。ヘンリーが修道院に現れ、マリアに求婚したことは当然、修道院に住まう彼女らには一人残らず知れている。本来ならばお菓子作りの日にはまだ日にちがあったようだが、マリアへのお祝いの意味も込めて特別に修道院長がお菓子作りの日を設けたのだった。
「私、本当にあの場所にいられて良かったと思います。皆さん、本当に優しい方たちばかりで、何でも話を聞いてくださって、色々と教えていただいて……命を、助けていただきました」
「そうだな。もしあの修道院にたどり着いてなければ、俺たちは……。本当に修道院の方々には感謝してもしきれないよ」
マリアはテーブルの上に置いてあった荷の紐を解くと、中から両手に乗るほどの紙の包みを出す。丁寧に折りたたまれていた包みを開けると、いくつかの焼き菓子がランプの明かりに照らされた。ヘンリーは二つのグラスに水を注ぐと、一つをマリアの方へと押して寄せる。
「こうしてお菓子をこっそり食べるのって、何だか楽しいですね」
そう言うと、マリアはいつものように両手を組み合わせて祈りの言葉を述べた後に、焼き菓子に手を伸ばす。微笑みを浮かべながら菓子をかじるマリアを、ヘンリーは時を忘れたようにしばらく見つめていた。マリアは今も銀の髪留めを身に着けている。左肩で緩やかに留められている金色の髪は、先ほど身体を清めた時に櫛を通したのか、昼に見た時よりもまとまっているようだった。ランプの橙色の光を集め、彼女の髪が艶めているように見える。
ヘンリーはようやく菓子に手を伸ばし、一口で一つ食べてしまうと、口の中に残る菓子を流し込んでしまうように水を一口飲む。
「どうして部屋を一部屋にするなんて言ったんだ?」
唐突に問いかけるヘンリーの言葉に、マリアは視線を宙に留めた。齧った焼き菓子の欠片がテーブルに落ちる。
「一人になるのが怖かったのか?」
昨夜、マリアは悪夢にうなされ、夜中に目を覚ました。ヘンリーは修道院にいる頃から彼女が度々悪夢にうなされていたことを知っていた。
修道院の生活では、修道女たちは広い部屋で数人が生活を共にしているため、部屋で一人になることはほとんどない。マリアにとってその環境は、非常に有難かった。誰かが近くにいてくれれば、会話をし、話す相手のことを気にして、一人で物事に思い悩む時間はない。
一人になると、嫌でも考えたくない思考に頭を支配されてしまう。誰かがいてくれれば、自分の中にある深い海に沈むことはない。悪夢に悩まされるのは、自分の力ではどうにもならないが、起きている間にも色々と考えても仕方のないことを考えてしまうのは、避けておきたかったのだ。
「ごめんなさい、無理を言って……」
「おかしいと思ったんだよ。だって修道院にいる時も、俺たちの部屋にマリアが来るときは必ずドアを開けておいただろ。あれは修道院長から言われてたんだ。男のいる部屋に誰か修道女が入る時には、必ず扉を開けておいてくださいって」
海辺の修道院は本来、女性だけを受け入れ住まわせている。たとえ男性が修道院を尋ねてきても、院内に招き入れることはまずないのだ。例外的にオラクルベリーの町から物資を運んでくる商人などは修道院長が対応し、修道院での宿を一晩のみ提供することがあったが、用が済めば早々に修道院を立ち去ってもらっていた。
一方で海に流され、意識のない状態で浜辺に投げ出されたヘンリーとリュカ、そしてマリアを修道院は迷いなく保護した。目の前で消えかけている命を放っておくような人間は、修道院にはいない。彼女らは献身的に三人の世話をし、命を繋いだ。彼らがもし罪人だったとしても、救える命は救わねばならないという精神が修道女らには備わっている。そして彼らが息を吹き返し、体力を回復させ、再び外の世界に出られるまではと、特例中の特例としてリュカとヘンリーと言う男性二人をひと月以上修道院に置いてくれたのだ。
ただ彼らがいる間、修道院内には特別な規則が設けられていた。修道女が男性と部屋にいる時は必ず部屋の扉は開けておくこと。この規則に従い、修道院に住まう修道女のみならず、洗礼を受けたばかりのマリアも、リュカやヘンリーと部屋で過ごす時には必ず部屋の扉を開けるようにしていた。
「はしたないことをしているって、自分でも思っています。でも、やっぱり、一人になるのがどうしても怖くて……」
「いや、分かるよ。一人になるとどうしても色々と考えるもんな。忙しくしていたり、誰かと話していたりすれば、落ち込む気分も紛れる。そういうもんだよ」
ヘンリーはそう言いながら、ラインハットに戻ってからの自身の生活をふと振り返る。
国の復興に向けて動き出したラインハットで、ヘンリーは弟王デールと共に日々忙しなく今の国の情勢を確かめた。最も困窮している貧困層には真っ先に国からの財政を当てて拾い上げ、魔物に骨抜きにされかけていた兵たちを取りまとめて国の防備を固め、国民の生活を掬い上げるためにまずは農業を中心に仕事を生み出し、仕事のない民には農作物を作ることに従事してもらっている。手に職のある者は出来上がった製品を国に納品してもらい、対価を支払う。
不幸中の幸い、魔物が牛耳っていたラインハットの王宮自体には、それまでに魔物が貯め込んだ金品が宝物庫に山積みにされていた。それらでオラクルベリーの町と取引し、金銭として得て、ラインハットの国内に流通させている。今後は更に範囲を広げ、西の大陸にまで国の産物の取引相手を探し、おおよその目星をつけているところだ。
ラインハットを十年以上も離れ、無事に戻れた故郷にヘンリーは一生を賭けて尽くしていくつもりだ。この国をこれほどの危機に陥れたのは、紛れもなく自分だとヘンリーは認めている。
自分が生まれるや否や、元々身体も小さく、決して体も強くなかった実の母は体調を崩し、彼の記憶に残らないほど幼いうちにこの世を去った。彼が国から失踪してから一年も経たない内に、前王であるヘンリーの父もこの世を去ったと聞いた。噂に聞けば、毒殺されたのではないかと言うことだった。ラインハットを狙う魔物に徐々に身体を弱らせられていたと聞いている。
自分が生かされているのに、両親を早くに亡くし、そして大事な友の父の命までも奪ってしまった。
その上、彼はマリアの兄ヨシュアの手によって、一度死にかけた世界から「生きろ」と背中を押され、光のある外の世界に放り出された。幸か不幸か、今もヘンリーは生き続けている。自分の力で生きているのではない。生かされた命を全うしなくてはと、ヘンリーは国の仕事に忙殺されることを自ら望んでいた。
「俺は色んな人たちに助けられた。ヨシュアさんにも、命を助けられた」
兄の名を口にするヘンリーに、マリアは膝の上で両手を握りしめる。
「助けられた命を、精一杯生きなくちゃいけないって思う。だからマリアのことも諦めたくなかった」
「それは……同情ではないのでしょうか」
「同情?」
「兄があなたを助けたから、だから、私のことまで面倒を見なくちゃいけないって、そんな、同情ではないのでしょうか」
俯くマリアの目はランプの光を取り込んで、静かに揺れている。
「ヘンリー様は今、ラインハットの国にご尽力されています。それもあなたの強い責任感からですよね。私に結婚を申し込んでくださったのも、そんな、責任感からなのではないでしょうか」
ヘンリーに視線を向けた彼女の瞳は、意志の強い、しかし儚げな雰囲気に満ちたものだった。ヘンリーは彼女の問いかけに真剣に応えるために、彼女との出会いを思い出す。
奴隷の彼女は足に怪我をして、冷たい地面に座り込んでいた。そのことにいち早く気づいたのは、ヘンリーではなくリュカだった。友は治癒呪文が使えるため、奴隷として生きていたあの場所でも、多くの人々の傷を癒していた。分け隔てのない優しさを持つ友は、当然のようにマリアの足の怪我を治した。その時ヘンリーはただマリアのことを、年端も行かない小さな女の子がこんなところで働かされて可哀そうだと、紛れもない同情の気持ちで見ていた。
看守の罠にかかり、彼女が背中に鞭を受け、下品な笑みを浮かべる看守がマリアを奥へ連れ去ろうとしているのを見て、訳の分からない怒りが込み上げた。後先のことも考えずに、看守に殴りかかった。あの時の気持ちは、今考えても何だかよく分からない。とにかくマリアの腕を掴む看守の非道な顔つきが許せなかった。どうしてお前みたいなやつが生きていて、大事な人は死んでしまうんだと、世の不条理が心底嫌になった。
マリアの兄ヨシュアが彼らを逃がそうと連れて行かれた樽が山積みになる場所で、ヘンリーはヨシュアが命を賭けているのをその表情から知り、その役目を代わろうと申し出た。マリアとヨシュアの兄妹、そして最も守らなければならなかったリュカを助けることができるのなら、ここで自分の命が尽きてもそれは意味のあることなのだと思っていた。ようやくリュカに償うことができるのだと、心のどこかで安心していたというのに、ヨシュアはそれを許してくれなかった。彼の眠りの呪文で眠らされ、ヘンリーは意識のないままリュカとマリアと共に樽の中に入れられ、マリアは唯一の肉親である兄ヨシュアとあの場で別れ別れになってしまった。
修道院で笑みを浮かべるようになったマリアを見ても、ヘンリーはそれが彼女の本当の笑顔ではないと分かっていた。彼女はもう恐らく、本当の笑顔を取り戻すことができない。
自分を身代わりにして大事な人を助けるヨシュアは、リュカの父パパスに似ていると思った。それは残される者の悲しみを深くすることもヘンリーは知っている。ヘンリーはマリアの悲しみを和らげるのが自分の役目だと、新たに負った罪を感じながら、修道院にいる間は彼女の傍で彼女の様子を常に窺っていた。
リュカと共に修道院を去った後、自分が原因でリュカの故郷が焼き払われている現実を見た。そんな状況でも、リュカはヘンリーが悪いわけじゃないと言い切った。明らかに幼い頃のヘンリーの馬鹿な行動のせいで一つの村が滅ぼされたというのに、ヘンリーという人間を十年以上に渡り知ってしまったリュカには彼を責めることができなかった。
魔物に滅ぼされかけている故郷を救うために必要な鏡が南の塔にあると、ヘンリーはリュカと共に再び海辺の修道院を訪れる。そこで再会したマリアの声を聞いて、ヘンリーは喉の奥が一瞬熱くなるのを感じた。可憐な少女がリュカとヘンリーに微笑みかける。相変わらずその微笑みの中には悲しみが滲んでいたが、もしできることなら他の誰でもなく自分がその悲しみを取り除いてやりたいと思った。
一度気になり始めれば、想いは止める間もなく深まって行くだけだった。神の塔への旅路でも、ラインハットへ向かう時にも、彼女がラインハットでしばらく滞在していた時も、彼女を見れば胸が疼いた。
初めは同情から始まったのかも知れない。しかし時を過ごすうちに、それはみるみる恋情に取って代わってしまった。今では同情や責任だけだった時の気持ちには戻れない。
「同情も、あるのかも知れない。ないとは言えない。だけど俺は……」
「あなたが兄の代わりになろうとしていてくれている……私、そんな気がして……。あなたはとても優しいから、私の人生をまるごと救わなければと、そんなことを思っているんじゃないかって……」
そう言う内にマリアの声が震え、彼女はランプのか細い明りを受けながら俯いてしまう。その姿に彼女が今、自分から離れて行こうとしているのを感じる。彼女の思う自分と、自分が考える自分の違いに、ヘンリーは怒りにも似た感情が込み上げた。
何故、分かってくれないんだ。要らない壁を作るなよ。きっと言葉じゃ伝えきれない。
ヘンリーは椅子を立つと、向かいの席に座っていたマリアの傍に歩み寄り、彼女の腕を掴んだ。驚いたように目を丸くする彼女を席から立たせると、その目を射るように上から見つめる。そして橙色のランプの明かりが揺れる頬に右手を添え、顔を寄せると、唇を触れ合わせた。一度、離れた唇から小さな吐息を感じると、その吐息ごと飲み込んでしまうようにすぐにまた唇に触れる。全身が熱の塊になり、全身が痺れる。その状況に得体の知れない危険を感じつつも、ヘンリーはしばらく彼女を離すことができなかった。
ようやく離れた二人の間には、白い息が浮かび上がる。部屋が冷えていることに気づくが、まだ身体は涙が込み上げそうなほどに熱い。手をそのまま背中に回す。強く抱きしめれば、互いの表情を見なくて済むとヘンリーは腕に力を込める。
「……ごめん。俺はヨシュアさんの代わりになろうとしてるわけじゃないよ。なれるわけがない」
抱きしめるマリアの小さな身体は少し震えていた。突然の口付けに、もしかしたら恐怖を感じたのかも知れない。嫌悪感を抱いたかも知れない。しかしそんな彼女の気持ちを想像することはできても、ヘンリーは抱きしめる腕を緩めない。口付けたことで、相手を思いやることよりも、抑えられない自分の思いが溢れてしまう。
「……ごめんなさい。本当は私なんかがあなたと一緒になれるわけなんてないのに。あなたの人生の邪魔をして……」
「どうしてそんなことを言うんだよ。何なんだよ、人生の邪魔って。なんでそんな悲しいこと言うんだよ」
「それに、私と一緒になったら、あなたにずっと兄のことを思い出させてしまいます」
「忘れるわけないだろ、命の恩人だぞ。たとえお前と一緒になれなくたって、俺はずっとヨシュアさんの無事を祈り続ける。この先、ずっと、無事に戻ってきてくれるまで」
「兄のことで、私のことで、あなたの人生を縛り付けたくない」
「違う。俺がそうしたいだけだよ」
「でも……でも……あなたには自由な人生を送って欲しい。これまでずっと、苦しい思いをしてきたのでしょう。だから……」
「自由な人生とか、これまで苦しかったからとか、そんなのは今、どうでもいい。俺はマリアのことが好きなんだよ。どうしたって一緒にいたいんだよ」
抱きしめるマリアの柔らかい髪に頬を寄せる。マリアの体の震えは止まっていた。今はただヘンリーの腕の中でじっと身体を縮こまらせている。
ふと彼女の背に回していた手を肩に置くと、ヘンリーは間近に彼女の顔を見つめた。伏し目がちにしていたマリアの視線がゆっくりと上がり、ヘンリーの瞳に出会う。互いの瞳の中に、ランプの明かりが小さく映り込んで揺れている。今は二人の瞳の色は同じ、橙色に染まる。
「マリアこそ、どうして俺の求婚を受けてくれたんだ。それこそ……同情じゃないのか?」
ヘンリーの言葉に、マリアは目を瞬く。思いもよらぬ彼の言葉に、マリアは目を泳がせながらその言葉の意味を考える。そんな彼女の態度に、ヘンリーは思わず顔を歪めるが、場を茶化すことなく真剣に向き合う。
「もし、同情だけなら、結婚するのは間違ってると思う。俺だけがこんなに好きで、お前は同情でなんて、そんなのお互いに辛すぎるだろ」
彼の言葉と、両肩に感じる彼の温かい手に、マリアは落ち着いて考えをまとめることができなかった。彼への同情は確かにある。十年以上もあの場所で辛い生活を強いられていた彼に、同情しない者もいないだろう。しかし決してそれだけではない。同情だけならば、両肩に乗る彼の手に胸が苦しくなることはない。
「マリアはさ……俺じゃないヤツが好きなんじゃないのか」
彼女の沈黙に耐えられないヘンリーは、聞きたくもないことを口にする。光に透かして見た葡萄ジュースの色に彼女が思い出した、かつて共に旅をした友。彼の隣ではいつも柔らかく微笑んでいた彼女が嫌でも思い出される。
「お前はさ……リュカのことが好きだった?」
ヘンリーは自分でも馬鹿なことを聞いていると思っていた。もしこれで彼女がそれを認めれば、優しくも義理堅く真面目な彼女は、ヘンリーの求婚を断るのかも知れない。そしてその確率は高いと感じた。
彼女は友の隣にいる時はいつでも、自分には向けない柔らかな笑みを浮かべ、会話をしている時も互いの心を許したような親密な雰囲気があった。それだからこそ、ヘンリーはいつも彼女の隣にいようとした。たとえ自分の人生を賭けて償い続けるべき友でも、彼女だけは譲れないと心のどこかで思っていた。
マリアは西に旅立ったリュカのことを脳裏に思い浮かべ、彼の全てを包み込むような独特の笑顔を思い浮かべ、それに呼応するようにふっと自分も笑みを浮かべる。魔物をも魅了し、仲間にしてしまう彼は恐らく様々な人間をも魅了してしまう力を持っている。それは彼の心根が誰にも等しく優しさに満ちているからだとマリアは思う。その等しい優しさの一部を、マリアも分けてもらったのだ。
それが果たして恋や愛だったのかと考えると、答えはすぐには見つからない。一体彼に抱く感情はどのようなものだったのか。
ただリュカには自分の様々な感情をぶつけても、全てを受け入れてくれる気がしていた。どんな不安や悩みを口にしても、彼は恐らく全てを掬い上げて、穏やかに落ち着いた様子で頭を撫でてくれそうな、そんな優しさがある。ただ与えられるばかりの優しさだ。
それはまるで、マリアが求める「兄」の存在に似ている。
「私はきっとリュカさんに……兄を見ていたのだと思います」
はっきりと見えた答えに、マリアは納得したように話し始める。
「あなたを思う気持ちとは違う」
リュカには安心があった。隣を歩き、話をしていても、リュカの反応を気にせずにマリアも言葉を紡ぐことができた。彼はマリアがどんな言葉を口にしても、静かに聞き入れ、決して否定することはない。一方的に寄りかかれるようなその関係に、恐らく恋愛感情はない。リュカと話をしている時には、常に心は穏やかだった。目が合っても、互いに微笑み合うことができた。
ヘンリーには緊張がある。彼と話をする時は、胸の中が落ち着かなかった。どんな言葉をかけるのが正解なのか。こんな言葉をかけて彼は怒ったりしないだろうか、悲しんだりしないだろうか。どうすれば彼が喜んでくれるのか、たまに見せる彼の子供のような笑顔が見たい。勝手に妹のような扱いをしないで欲しい。目が合っても、すぐに逸らしてしまうのは、目を合わせる嬉しさよりも、目が合う恋の緊張が勝っていたからだった。
「私はやっぱり……ヘンリーさんのことが好きなんです」
分かっていたはずの気持ちだったが、彼を取り巻く特別な環境や、それに見合わない自分の自信のなさが、しぶとく彼女の心を迷わせる。修道院で彼からの求婚を受け入れた時に、一度その覚悟をしたはずだったが、彼とのこれからを考える度にこうしてまた心が惑う。親のない、唯一の身寄りである兄の安否も分からず、そんな素性の知れない娘が王宮に入ることが許されるのか。それは彼を困らせることにはならないか。ラインハットの国に一つの傷をつけてしまうことにならないか。様々な外的な不安が、マリアの胸には渦巻く。
しかしそれとは全く別の世界で、マリアはヘンリーに恋情を抱く。彼からの口付けに、その思いの箍が外れそうになった。自身のなさから生まれる不安は、彼への想いさえあれば大丈夫だなどと、根拠のない理由をつけたりする。
マリアはヘンリーを見上げると、両手を彼の両頬に添えた。彼が戸惑うようにマリアの瞳を覗き込む。背伸びをしてようやく届く彼の唇に唇を触れると、すぐに離れて再び彼を見上げた。口を薄く開いたまま呆然としているヘンリーを見て、マリアは顔を赤くしながらも、真剣な表情で彼に告げる。
「私はずっと、兄の無事を祈り続けます。その思いを、許してくれますか」
「さっきも言っただろ。俺も一緒にヨシュアさんの無事を祈り続けるって」
「私、また昨日みたいに悪夢を見て、あなたに迷惑をかけてしまうかも知れません」
「悪夢を見ないように、隣で俺が子守歌でも歌おうか」
「慣れないお城での生活に、あなたに色々なご迷惑をおかけするかも……」
「あー、もういいよ! お前が不安に思うことは、俺が何とかしてやる! 絶対だ、絶対に何とかするから。迷惑とか、そういうのはもう考えるな。俺が確かめておきたいのは、マリアが俺のことを好きかどうかってことだけなんだから」
「……大好きです」
「それだけでいいよ」
マリアの一言にヘンリーは嬉しさに顔を綻ばせると、そのまま彼女を抱きしめた。マント越しの抱擁でも十分に互いの温もりを感じる。彼女の手が自分の背に回るのを感じると、ヘンリーは少し腕の力を緩めて彼女の顔を間近に覗き込み、三度目になる口づけを交わした。互いの不安も壁もない口付けに息苦しさを覚えても、離れられない二人は時間を忘れて互いの唇の温かさを確かめ合った。



カーテン越しに見える朝の光は鈍い。まだ夜明けからそれほど時間が経っていない頃だが、昨日のような良い天気に恵まれているようには見えない。朝日の見えない朝は寒い。自分一人だったら、朝の寒さに布団の中にすっぽりと潜り込んでいただろう。
繋がれていたままの彼の手を、マリアは自分の頬に寄せた。布団の中ですっかり温まっている彼の手が思いの外軽いと思ったら、その手が彼女の頬を撫でた。
「起きていたんですか」
「うん。少し前に」
「おはようございます」
「うん……おはよう」
決して広くはない窓側のベッドに、二人は肩を寄せ合うようにして眠っていた。窓に引いたカーテンを開ければ外の様子が分かると思いつつも、ベッドから出られないのは寒さのせいよりも、隣の温もりをまだ感じていたいからだ。
昨夜は修道院で作られた菓子を食べ終わると、そのまま二人は一つのベッドに横になった。想いを伝えあい、離れがたくなった二人が別の場所で眠ることもないと、ただ抱きしめ合ってそのまま眠った。相手の温かさに涙が滲んだ。恋する相手に思いが伝わり、互いにその身を委ねることができるということがどれほど幸せな事なのかを、生まれて初めて実感した。
仰向けに寝ていたヘンリーが布団の中で体勢を変え、彼女の方に身体を向けてその身を両腕に抱く。ベッドの上に広がるふわふわとした彼女の髪に鼻をうずめる。それだけで全身を貫くような幸福が訪れる。
「あ~~~、幸せ」
頭の上でそう呟く彼の声を聞いて、マリアは小さく笑った。そして自らも彼の背中に手を回して、とんとんとその背をあやすように叩く。
「私も、幸せです」
朝の気配のする薄暗い部屋で、口付ける。夜とは違い、間近に互いの顔がしっかりと見える状況に、二人は途端に羞恥し目を逸らす。ヘンリーは一度彼女を固く抱きしめた後、離れてベッドを出た。夜着だけでは身体が一気に冷えるほど寒い。枕元に投げ置いておいたマントを手に取るとさっと羽織り、窓に向かう。カーテンを開ければ、空一面に雲が広がっている景色があった。
「雨も雪も降ってないみたいだな。良かった」
「この雲だと、恐らく降らないでしょうね」
マリアもベッドの上に起き上がり、足首まである裾の長い夜着の上に自分のマントを羽織った。ベッドの脇にある引き出しの棚の上には、昨夜油切れを起こしたランプが一つと、マリアの髪留めが置かれていた。彼女は髪留めを手に取ると、ふわふわと落ち着かない癖のある金髪を撫でつけ、髪留めで昨日の様に一つにまとめる。
「俺、一つ気になってるんだけど、聞いてもいいかな?」
「良いか悪いかは、聞いてみないと分かりませんよ」
マリアの言葉に「それもそうか」と笑いながら、ヘンリーは照れた顔を隠し切れない様子で問いかける。
「マリアはさ、俺のこと……いつから好きだったの?」
彼の問いかけにマリアはふと考え込むように俯く。ベッドの端に座り、視線を宙に彷徨わせる。
思い出されるのは、奴隷の服を身に着けたヘンリーの後姿。それと、到底王子とは思えぬような暴言だ。マリアを鞭打つ看守に向かって彼は、『うるせえ。このクソ野郎』などと吐き捨て、容赦なく殴りかかったのだ。あの時のあの行動は、間違いなく彼自身の身を亡ぼすものだった。日頃から看守らに目をつけられていたというヘンリーが、あの場でマリアを助ける行動に出るのは自殺行為だ。その後すぐにリュカも応戦し、二人は多勢に無勢の中、暴れに暴れた。目の前で繰り広げられる乱闘に、マリアは思わず彼女の傍を離れないヘンリーの足にすがり、止めてと叫んだが、彼は自身の信念の下、行動を止めようとはしなかった。もし兄のヨシュアが乱闘騒ぎを納めなければ、彼らはあの場ですぐに殺されていただろう。
「ヘンリー様は本当に行動力のある方ですよね」
彼があの時、一歩を踏み出さなければ、全ての奇跡は起こらなかった。
「あの日、看守の鞭から真っ先に守ってくださったこと……私、一生忘れません」
遡れば恐らく、あの時既にマリアは彼に対して小さな恋に落ちていた。兄との離別があり、修道院での新しい生活が始まり、人生が目まぐるしく変化する中でも、気づかない内に彼への恋情は育っていたのだろう。
「私は多分、初めからあなたのことが好きだったんです」
ヘンリーがマリアを気にし始めるよりもずっと前から、彼女は彼への想いをゆっくりとした歩みの中で育てていった。ラインハットから送られる彼からの手紙に胸が苦しくなり、彼からの求婚を受けてその想いはいよいよ明らかになった。そして今では、後戻りができないほどに彼への恋情は高まってしまっている。彼女が抱く恋情にはそもそも、選択の余地などどこにもなかった。
「俺……あの時さ、何が何だか分からないまま飛び出したんだ。で、看守の野郎を殴った瞬間に『あ、終わったな』って思った。だけど、すぐにあいつが来たんだよ。信じられねぇよな、あいつ」
「ふふ、リュカさんですね」
「引っ込んでろって言ったんだけどさ、涼やかな顔して『好きにさせてよ』なんて言うんだぜ。怖いヤツだよなぁ。どっかネジが外れてんだよ、きっと」
「大事なお友達を放ってはおけなかったんでしょう」
「どうかな。ただ暴れたかっただけかも知れねぇぜ」
「まさか」
「ま、おかげで助かったけど。悔しいけど、あいつの方が俺より強いし。一個年下のクセに、身体だって俺よりデカくなりやがってさ」
ヘンリーがリュカのことを語る時はいつも饒舌だ。それほど語るものがあるのだろう。彼らの絆は深い。しかしそれだけに、ヘンリーがリュカに対して嫉妬を抱いていたということを、昨夜マリアは知った。
「またリュカさんに会えるといいですね」
「……俺たちの結婚式に呼んでやろうか。びっくりするぜ、リュカの奴」
そう言いながらヘンリーはベッドの脇まで歩いてくると、マリアの隣に座って肩を抱く。マリアが自分に向ける恋情をはっきりと知ったヘンリーは、もう彼女に遠慮することなくすんなりと身を寄せる。マリアも同じような気持ちで、彼の肩に寄りかかる。
「これからもよろしくな、マリア」
「こちらこそ。末永くよろしくお願いします」
「末永くか……あ~~~なんて言うかなぁ、ホントに幸せだよ、俺」
そう言うとヘンリーは隣に座るマリアの身体を抱きしめる。互いに大事な人に救われた命だ。そして今は、互いに大事だと認め合う存在を目の前にして、簡単には命を諦められない気持ちになった。愛する者のために、生き続けなければならない。簡単に自分の命を投げ出すようなことは、もう考えられない。
ヘンリーはマリアの髪に顔をうずめながら、温かな幸せと、命に対する責任に、こっそりと一筋の涙を流す。そしてマリアもまた、彼のためにこれからも生きて行こうと、胸の中に湧き起こる熱い思いと共に同じように涙を流した。彼らの恋愛物語はまだこれからもずっと続いて行く。

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