笛の音

 

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細く開けた窓から入る夜風が涼しく心地よい。サラボナの町には至る所に花が咲き誇り、町中に甘やかな花の香りが漂っている。町の南東に位置する住宅街でも、家々で花壇や鉢に花を咲かせ、世話をする人々の優しさが色とりどりの花に現れている。ただ、今は夜の月に照らされ、花々は一様に青白く静かに眠っているかのようだった。
ベッドの上に身を起こし、体勢を変えようとすれば全身に痛みが走る。手当てが少しでも遅れていれば死に直面していたような火傷が、今も身体の至る所で熱を発し、熱の痛みに思わず顔をしかめて呻き声が漏れてしまう。これからはこの痛みと共に、一人で生きて行かねばならないと、アンディは窓の外に広がる墨を塗りたくったような暗闇に目を凝らす。
周りの家々に灯っていた明かりは既になく、本来ならば町は寝静まっているような夜遅い時間帯だ。しかし、今日は違う。町の中心部からは今も俄かに明かりが漏れている。そこにはサラボナの大富豪の娘が結婚するという華々しい話題を肴に、酒を飲み騒いでいるような町の人がまだいるのだろう。時計が指す時間を見れば、酒場でさえも店を閉めているような時間帯だが、今日は特別なのだと人々の興奮冷めやらぬ心情の捌け口を提供するかの如く、町の中心部にはまだ眠らない人々の音が夜風に乗って届く。
アンディに人々の話し声が聞こえるわけではない。しかし人々の声が明るいことだけは感じられる。恐らく彼女は結婚するのだろう。町の人々の弾むような雰囲気に、彼女の結婚を祝うような空気すら既に感じられるが、ベッドから身を起こすのがやっとのアンディにはどうすることもできない。
本当ならば誰にも渡したくないと思っていた。だからルドマンが無茶な条件を提示した時にも、一も二もなく町を飛び出した。勝算など微塵もない。ただの衝動だ。碌に町を出たこともないアンディには、旅支度を調えることもままならなかった。ただ生きるのに必要なものとして、水と少しの食糧と、常に手放さない笛を手にしていただけだ。外には魔物がいると言うのに、武器を持たずに町を出たことを人々が知れば、皆が揃ってアンディを馬鹿にしていただろう。
彼女が結婚する相手は、彼に間違いない。死の火山でアンディの身を案じた旅人がいた。彼が連れていた仲間を見て腰を抜かしそうになったが、彼自身は紛れもなく一人の人間の男だった。不思議に優しい漆黒の瞳を持ち、旅慣れた肌は浅黒く焼け、あの洞窟内を勇み進んでいく彼の背中を見て、焦りが募った。彼ならば難なく彼女を攫って行ってしまうと、どうにかたどり着いたマグマ滾るような洞窟の中で震えていた身体を自ら鼓舞した。
彼ならば彼女を任せられるなどと言う、一人の幼馴染としての感情などなかった。フローラが遠くの修道院からこの町に戻って来た時に、ただの幼馴染としての関係などあっさりと終わったのだ。幼馴染の関係を飛び越えて、これからもずっと彼女の傍にいたいと、太陽の光を照り返す青い髪を揺らす彼女の、輝くような笑顔を見て一息に恋に落ちた。
好きだという気持ちだけでどうにかなるものではない、そんなことは分かっていた。現に今は、旅人の彼はフローラの結婚相手として認められ、自分は無様にベッドの上で火傷の痛みに呻いている。完敗、というやつだ。溜め息をついても、喉から出る息が熱くて敵わない。自分の無力さに、情けなさに涙が出るが、泣いただけ水分が失われて余計に辛い。しかし身体的な痛みよりも今は、この恋を失わなければならないことが何よりも心を痛めつけている。
ルドマンの屋敷を訪れ、結婚相手として立候補した男は数多いる。アンディはその内の一人に過ぎない。世界を股にかける大富豪であるルドマンの一人娘が、サラボナの町の片隅に住むちっぽけな一人の男をどう見ていたのかなど、今はもう分からない。大怪我をして身体を動かすこともままならない自分には、彼女に告白する機会さえなかった。
アンディはベッド脇にある小さなテーブルの上に手を伸ばした。そこには水差しがあり、空になったコップが一つと、幼い頃から手放さない小さな笛がある。まだ彼女が遠くの修道院に行ってしまう前、アンディの笛の音を上手だ上手だと手を叩いて喜んでくれていた。あれはまだ二人が五歳くらいの時だった。
水差しに伸ばしかけていた手を止め、アンディは笛を手に取った。腕を伸ばすだけで火傷の痛みがひりひりと腕にまとわりつくが、今この時に笛を手に取らなければならないのだとアンディは震える手に持つ笛に口をつける。
息が笛を素通りする。音が出ない。笛を吹くにも、全身の力が必要だと言うことを思い知らされる。指も前ほどに滑らかには動かない。アンディは一度笛をかけ布の上に落としたが、今のこの時しかないのだともう一度笛を手に取る。
明日、彼女は正式に結婚相手を決める。それは自分ではない。失恋は決定的だ。しかしまだこの想いを確かに伝えてもいない。笛の音を通じて想いを伝えるくらいは許されるだろう。
吹き口に息を吐く。短い音が鳴った。喉が熱く、胸が熱く、全身が熱い。火傷の熱さなのか、恋に破れて身を焦がす熱さなのか分からないまま、アンディは笛を吹く。音色が部屋に響き、細く開けた窓から流れ出て行く。それはやがて旋律となり、彼は全身全霊を込めるように美しい音色をサラボナの町に緩やかに響かせた。
どこからか流れて来る物悲しくも狂おしいほどの想いを乗せる音色に、サラボナの町の人々は眠りを誘われるように静かになった。酒を飲み騒いでいた者たちも、夜の闇に溶け込んでしまうような笛の調べに耳を傾け、じきに彼らのささやかな前夜祭はお開きとなり、各々帰る場所へと足を向けた。
ただその中で一人だけ、笛の音に呼ばれるように、街中を駆けて行く娘がいたことなど、誰も気づかなかった。娘の青く輝く髪を、月が青く美しく照らしていた。



ルドマンの屋敷の裏手には広大な丘がある。町の中心部からは遠く、サラボナの町の人々がこの場所を好き好んで訪れることはない。手入れをされているわけでもなく、丈高い草が伸び放題の場所もあれば、好き好きに咲き乱れる花畑の様相を呈した場所もある。
その広い丘の一角から、フローラはサラボナの町を眺めていた。足元には小花をつける草が繁り、そこだけは人が難なく歩けるほどの場所があった。歩行練習にちょうど良い場所があると彼を誘い、連れてきた場所だった。
彼女は毎日のようにアンディの家を訪れては、彼の全身を痛めている火傷の具合を看たり、身体の具合を確かめていた。回復呪文が火傷に功を奏しているのかどうかは分からないが、彼女は毎回アンディの火傷に回復呪文を施していた。そうしなければならないという気持ちが彼女の中にあった。父と母も娘が足繫くアンディの家を訪れていることを容認している。
しかしある時、アンディが彼女の親切を断った時があった。相手はこの町を、世界を代表するようなルドマンの大事な一人娘なのだ。そんな彼女が、幼い時に一時共に過ごしたからと言って、何も持たない一人の男を気遣い、怪我を負わせてしまったのだと気負って生きて行く必要はないとアンディは彼女を諭そうとした。しかしフローラはアンディの言葉など意に介さず、少し動けるようになったのなら歩く練習をした方が良いなどと言い、ルドマンの屋敷裏の丘へと連れ出すようになった。
丘への送り迎えに、フローラは惜しみなく馬車を出した。アンディの家からルドマンの屋敷の裏に行くまでにはかなりの距離がある。その距離をアンディに歩かせることはできないと、フローラは一台の馬車を用意したが、これもアンディには苦しくなるような気遣いだった。何故それほどまでに特別扱いを受けるのかとフローラに問えば、彼女は自分がそうしたいからだと、それだけを理由に述べた。しかし彼女の甲斐甲斐しい世話もあって、アンディの歩行は杖をついて丘の平らな場所を行き来できるほどには回復していた。
「今頃、リュカさんたちはどの辺りにいるのかしらね」
フローラの長く青い髪が丘を滑る風に流され、靡いている。まるで一枚の絵画のような景色に、アンディは未だ慣れずに目を瞬く。
「お二人へのお父様の結婚祝いが船なんですって。ポートセルミに一隻、贈るのにちょうど良い船があるからって、すぐに決めちゃったらしいわ。ふふっ、お父様らしいわよね」
フローラの父ルドマンは世界を股にかける大富豪と言うだけあって、全てにおいて豪快な人物だった。フローラの結婚相手に提示した条件にも面食らわされたが、その条件を全て達成した旅人が、フローラではない女性を伴侶に選んだことにも特別怒りを見せることもなく、それこそ結婚式も何もかもを一手に受けて二人を祝ってしまったと言うのだから、懐の深さが知れない。普通であれば、自分の自慢の娘を袖にされたと憤慨していてもおかしくはない事態だったはずだ。
「その船にはもしかしたら……君が乗っていたかも知れないね」
そう口にしたら、アンディは疲れたように杖にもたれかかり、そのまま膝を折って小花が咲き誇る草地に腰を下ろした。アンディに背中を見せているフローラは振り返ることなく、まだ丘から町の景色を見渡している。その手には小さな手提げ籠があり、中にはアンディの喉の渇きを潤すための水が入るガラスの容器が収められている。大火傷を負ってからというもの、アンディは常に喉の渇きに苦しんでいるのをフローラは当然知っている。
「でも私は今、ここにいるのよ」
「どうしてここにいるんだろうね」
「……どうしてだと思う?」
「さあ……僕には分からないよ」
ルドマンの提示した結婚の条件を達成しようと無茶をした男の面倒を見る羽目になり、そのためにこの場所に留められているのだと、そんな言葉がアンディの口から出かかったが、それは全て飲み込んだ。飲み込めばやはり、喉がひりつくように痛い。アンディの様子を目敏く見たフローラが、手提げ籠の中からガラス瓶に入った水を取り出して彼に差し出す。
「お水、一口飲んだ方がいいわ」
「うん、ごめん、ありがとう」
「ありがとう、だけでいいのよ。ごめん、だなんておかしいもの」
「そうかもね。……ごめん」
「また言ってる」
目の前で屈んで笑う彼女の顔から目が離せなくなりそうになるが、無理にでも視線を引き剥がせばその先には草地に咲く小花が映る。小花は丘を吹く風に気持ちよさそうに揺れている。
彼女と結婚するはずだった旅人が、伴侶となった他の女性を連れてこの町を旅立ってから既にひと月以上の月日が経っていた。アンディは彼が伴侶とした女性とは一度も会っていなかった。フローラから語られるビアンカと言う女性は世話好きの人で、気さくで明るく、きっとリュカは彼女の尻に敷かれるに決まっていると笑って話す。その話にアンディはビアンカと言う女性が横恋慕をしてリュカを奪ってしまったのかと勘繰ったが、フローラに言わせれば『二人はずっと前から結ばれると決まっていたのよ』と朗らかに笑うだけだった。
彼らもまた、幼馴染の二人だった。一度別れ、時を経て再会し、恋に落ちた。まるで自分と同じではないかと、アンディはぼんやりと丘を流れる涼やかな風を頬に感じる。涼風が全身に心地よい。この場所にいる間は身体の中に籠る火傷の熱を忘れることができる。
そして彼らは互いの想いを通じ合わせ、結ばれた。一方で、今もまだ片想いの心に縛られ動けない自分がいる。一度は恋に破れ、完全に諦めるつもりだった想いは尚、アンディの胸の中で今も絶えず燃え続けている。
フローラには今も毎日のように、求婚する者が屋敷を訪れたり、手紙が届いたりしている。決まりかけていた結婚が破談になった途端、我こそはと名乗りを上げる男たちがそこここから現れ、彼女の隣の座を狙っているのだ。その中には当然のように、ルドマンの財産を狙う者、フローラの可憐さに心奪われる者、サラボナでの地位を築きたい者など、私利私欲に塗れた者たちが後を絶たない。
その全ての者たちと堂々と面会し、手紙を読み、フローラはただ断っていた。まだ時期尚早だとか、他に想い人がいるとか、そのような理由など何も述べずに、彼女は全ての申し出を保留にすることもなく、すっぱりと断っているのだ。
彼女が断る理由を問いただそうとする男もいた。熱心に食い下がり、想いを伝え続ければ振り向いてくれるのではないかと一縷の望みをかけて口説こうとする男も、フローラはきっぱりと断った。そこには彼女の確固たる信念が見えるようだと、人々は噂し始めていた。
彼女は一生、アンディの怪我を看てやらなくてはならない責任を負ってしまったのだと、彼女の今後の身を案じる噂が流れている。それも無理からぬことで、フローラはアンディの家にほぼ毎日訪れており、その姿は確かに町の人々の目に留まっている。フローラはただでさえ目立つ容姿をしている。海の色を映したような腰まで伸びる長い髪は、世界広しと言えども類を見ない特徴だろう。淑やかながらも質の良い生地で作られたドレスに身を包み、桃色の大きなリボンも当然のように人目を引く。そして彼女自身は人目など気にしないと言わんばかりに堂々とアンディの家の戸をノックし、家に引きこもりがちなアンディを外に連れ出す。実際、彼女が外に連れ出さなければアンディは日がな一日家で過ごし、足も今のような回復は見せなかったに違いない。
ただサラボナの町の一角に住むしがない自分が、大富豪の娘の一生を左右させることなどあってたまるかと、アンディは一度頑なに家から出ないようにした時があった。彼の父母は町を代表するお嬢様を待たせるなどとんでもないことだとオロオロしていたが、一度頑固に彼女の親切を拒めば、もう二度と家に来ることもないだろうと思っての行動だった。
その日、フローラは夕方になるまでずっと、昼食を取ることもなくずっと、アンディの家の前で待ち続けていた。彼女の海のような青い髪が夕日の橙に染められているのを二階の窓の下に見た時、アンディの顔はみるみる青ざめた。彼女の貴重な一日を、こんな町はずれの家の前で過ごさせてしまった強烈な罪悪感に、アンディは転げるように階段を降りて玄関の扉を開けた。扉を開けた時にアンディの目に飛び込んできたのは、フローラの大きな目が見開かれた表情だった。アンディが階段から落ちてしまったのかと心配しての表情だった。しかし彼が無事であることを認めると、彼女は心から安堵したように柔らかく笑った。またその瞬間に、アンディは彼女に恋をした。
「アンディ、私、あなたの笛の音が聞きたいわ」
丘の草地を滑る風は涼しく、喉に吸い込む空気も気持ちが良い。風になびく青い髪を手で押さえる彼女に一瞬見惚れてから、アンディは草地に座ったまま懐から小さな笛を取り出す。試しに一度、息を入れれば小さく短く音が鳴る。そして何の曲を奏でようかと束の間思案し、アンディは明るく弾むような曲を吹き始めた。テンポが速く、徐々に息切れがしてくるのにも構わず、彼女が楽しそうにリズムを取って笑顔を見せてくれるから、少々の辛さなど問題ないと吹き続けた。
しかし演奏の途中でフローラが身体を寄せ合うように隣に座ったことに動揺し、アンディの笛の音は止んでしまった。一度止んだ曲に再び楽しく弾むような気持ちを乗せられず、アンディは思いの外疲れていた喉を休めるように細く溜め息をついた。
「疲れた?」
「いいや、大丈夫だよ」
「無理はしなくていいのよ」
「無理はしてないよ。ただ、今度は大人しい曲がいいかも」
「じゃあ、あの曲を吹いて欲しいな」
「あの曲?」
「そう。あの曲」
アンディが頭を悩ませる前に、フローラが思い出すように曲の旋律をぎこちなく鼻歌で奏でる。その曲をアンディは彼女の前で吹いたことはなかった。ただあの夜、一度だけベッドの上で一人で、奏でただけだった。
驚いたような顔をしているアンディを横に見て、フローラは果たしてこれ以上世の中に美しいものがあるだろうかと思うほどの笑顔でアンディを見上げる。
「聞こえたのよ、あの晩」
「でも僕の家から君の屋敷まではかなり離れてるよ」
「それでも聞こえたのよ。だから私、あなたが目を覚ましたんだと思って、居ても立ってもいられなくて……」
あれほどの遅い時間に、一人で屋敷を飛び出すような不良な真似など、フローラは一度たりともしたことはなかった。修道院では女性としての嗜みを身に着け、貞淑に過ごすことが当然と言う環境で育った。ルドマンの娘として恥じない行動をと、常に人目を気にする人生を送って来た。それはこれからも続き、その人生を生きて行けることに感謝の念も持ち合わせている。しかしあの晩だけは、彼女の身に着く常識を一切捨ててでも、屋敷を抜け出し、笛の音に応えなければならないと感じた。
「あなたに会って、話をしたいって思ったの。今しかないって思ったのよ」
「じゃあ君はあんな遅い時間に、一人で町に出たってこと? いくらサラボナの町が治安が良いからって、そんな危険なことを……」
「そうしたらね、屋敷を出たところでリュカさんに会ったの」
アンディに叱られる前にと、フローラは彼の言葉を遮って話を続ける。
「屋敷を出たところでよ? おかしいでしょう。だってリュカさんは町の宿に泊まっているはずだったんだから」
まるで秘密の話を徐々に明らかにしていくような楽しさを感じているフローラに、アンディは怪訝な顔で隣に座る彼女の手を見つめる。彼女の顔を見る勇気はなかった。もしかしたら今、彼女の顔は旅立ってしまった彼を想うものかもしれないと思えば、彼女の手からも目を逸らしたいほどだった。
「それでね、事も無げに言うのよ。ビアンカさんと会ってたって」
「……は?」
「ふふっ、そんな顔になっちゃうわよね。私もびっくりしちゃった」
ルドマン家の娘フローラは、普段これほど砕けた口調で話すことはない。屋敷を訪れる人々には常々礼儀正しく、街中で人々とすれ違う時にも自身はルドマンの娘なのだと気を張る態度が自ずと出てしまう。決して嫌味のある態度ではなく、人々が期待するルドマンの娘を演じなくてはならないと、彼女は無意識にも一人の女優のような仕草をしてしまうのだ。
しかしアンディに対しては無意識にも口調が砕けてしまう。彼はフローラをルドマンの娘と見ているのではない。彼は彼女をフローラとして見ている。幼い頃に、自分が唯一自信を持っていた笛を何の衒いもなく手を叩いて褒めて喜んでくれた素敵な女の子の友達という距離感が、アンディとフローラの間にはある。
「でもね、多分、びっくりしてたのはリュカさんの方だったと思うの」
「え? ……あっ……」
「だってそうでしょう? ルドマンの一人娘が夜中に一人で屋敷を抜け出してるんだもの。私が逆の立場だったら、『この娘、実はとんでもない不良娘なんじゃないのか』って思っちゃうかも」
「ははっ、リュカさんはそんなこと思わないよ、きっと。そういう人じゃないと思うよ」
リュカの名を口にして平静を保っていられるほどには気持ちも落ち着いてきたのだと、アンディはかつて自分の身を案じてくれた心優しき旅人を思う。彼と話す機会はほとんどなかった。しかし自身がサラボナの町の家で意識を失っている間、彼はアンディの家にも足を運んでくれたらしい。直接礼を述べることもできないまま、彼はこの町を去ってしまったため、彼のことを知ったのはフローラからの話であったり、アンディの父母からの話だったりする。
「アンディ。あの曲を吹いてくれる?」
「あの曲……ああ、さっきの」
「うん。もう一度、聞きたいの、隣で」
フローラは目を閉じて音が鳴るのを待っている。アンディはしばし躊躇した。あの曲は彼女を想って奏でた曲だった。先ほどの弾むようなリズムの曲とは反対に、落ち着いた曲調だが、その音に込める想いはこれ以上ないほどに深い。直接言葉で想いを告げるわけではないからと、アンディは音色に秘めた想いを全て乗せるように、笛の音を響かせる。丘の上を吹く風に音が乗る。まだ昼前の陽光が明るく丘を照らしている。しかしアンディもフローラも、周りの世界があの時の夜の闇に包まれているかのような錯覚に陥っていた。
一音一音の長い旋律が続く。物悲しい中にも情熱がこもる音がフローラにも伝わる。言葉以上の想いが笛の音に乗り、まるで隣の彼に愛を告げられているようだと、目を閉じて耳を澄ますフローラが静かに鼻をすする。愛の旋律を奏でるアンディは、彼女の閉じた目に涙が溜まっていることに気付かない。
音色が尾を引くように細く長く響き、終わった。ゆっくりと目を開けたフローラは、目から涙が零れないように顔を上向かせると、両膝を抱えるようにして座り直して小さく拍手をした。その様子にアンディはようやくフローラが泣きそうな顔をしていることに気付く。
「どうしたの、フローラ? 大丈夫?」
「平気よ。とっても素晴らしい演奏だから、感動したのよ」
「そう言ってくれるなら嬉しいよ」
「……あの晩、結局、あなたのところには行けなかったの」
アンディが切ない愛の旋律を奏でたその夜、フローラは町の途中まで一人、夜を駆けて行った。しかし旋律が止むと同時に、町を包む真っ暗な夜の景色に途端に怯えた。そしてこのままアンディのところへ行って、自分は彼に何を伝えようとしているのかが分からなくなった。
リュカには「お別れを言いに行く」と伝えたが、恐らくあのまま町を走り、アンディの元へとたどり着いてしまえば、冷静に別れを言うことなどできないと感じた。彼の元に近づくにつれて膨らむ想いは、彼の元にたどり着いた時に弾けて、全てを正直に素直に伝えてしまうに違いなかった。
それと言うのも全て、リュカに見透かされていた。彼はフローラの言葉に対して、『ただ会いたいだけじゃないのか』と、まるで彼自身の想いと重ねるようにそう問いかけてきたのだ。笛の音が聞こえて、居ても立ってもいられなくなって、屋敷を飛び出して、アンディに会いに行くのは、ただの恋心だった。大火傷を負って目を覚まさなかったアンディが、身体も辛いだろうに笛を奏でる姿を想像して、彼が生きてくれているというそれだけで感動して身体が震えた。早く会いたい、会って一言でもいいから言葉を交わしたい、その時フローラの胸にあった想いは本当にそれだけだった。
だから会いに行けなかった。あの時、あのタイミングで言葉を伝えていれば、全ての歯車が狂ってしまうのだと感じた。彼女はやはり、世界を股にかける大富豪の娘だった。父を、母を、町の人々を裏切るような真似をするべきではない。第一、自身の身勝手な想いを今のアンディに伝えれば、恐らくその時の彼は彼女の想いをはっきりと拒んだだろう。フローラが決して身勝手が許される立場の人間ではないことを、アンディが諭していたかもしれない。
「本当に……綺麗な曲ね」
「……そう言ってもらえると嬉しいよ」
「とっても心がこもってる」
「そう、かもね」
「ねえ、また吹いてくれる?」
「うん、いいよ。あ、でもその前に少し水をもらっても……」
「これからもずっと、私の隣で笛を吹いてくれる?」
草地の上に置かれた手提げ籠に伸ばしたアンディの手を、フローラが両手で包み込んだ。アンディの火傷はほぼ全身に渡っており、手にも火傷の痕が痛々しく残っている。回復呪文を施しても尚、痕だけは残り、彼の壮絶な経験をその身体にこれからも残して行く。フローラが目を伏せながら手を労わるように擦る姿に、アンディはただ彼女の嫋やかな両手を見つめる。
「手、痛そう。大丈夫?」
「うん、もうそんなに痛くはないんだ。ただ見た目が酷いだけでね。フローラのお陰だよ、毎日回復呪文をかけてくれたんだろう?」
「私に出来ることはそれくらいだもの」
「もう大丈夫だから、君は、君の人生を歩んで欲しい。僕は君の足枷になりたくはないんだ」
そう言うとアンディはフローラの手を静かに外し、横に転がしてあった杖を手に取った。歩行練習用に用意された杖もまた、フローラが道具屋の主人に頼み込んで作ってもらったものだ。長身のアンディに合うようにと長さを調整し、その杖をアンディは毎日のように使い外を歩いている。
「僕の身体はもうこんな風になっちゃってさ、とてもじゃないけど君の隣を歩けないよ」
「そんな風に言わないで。そんな風に言うのは悲しいわ。私はこれからもあなたを……」
「ははっ、好きな女の子に同情されて生きるのは辛いよ」
「同情なんかじゃないわ。私もアンディのことが好きなのよ」
口をついて出たような彼女の言葉に、アンディはいつの間にか頭一つ分小さくなってしまったフローラを見つめた。彼女は今まで見たこともないような表情をしていた。顔を真っ赤に染め、瞳を潤ませ、眉間にわずかに皺を寄せ、薄く紅を引いている口元に力が入り、真一文字に引き結んでいる。ルドマンの娘と言う肩書を失い、今は年頃の恋する一人の娘でしかなかった。
「私にはアンディしかいないのよ」
「そんなことないだろ。君には沢山の求婚者が……」
「それはルドマンの娘への求婚者だわ。アンディはあの時、ルドマンの娘と結婚したかったから屋敷に来てくれたの?」
「……違うよ。僕はフローラと一緒になりたかったんだ。君を誰にも渡したくないって思った」
「もうその気持ちは、なくなった?」
「死んだって無くならないよ」
「だから、私にはあなたしかいないのよ」
彼女の顔は相変わらず真っ赤で、年相応と言うには幼い様子でしゃくりあげ始めた。修道院から戻って来たフローラはすっかり大きくなり、教養も身に着け、落ち着いた女性に成長していた。しかしアンディの記憶に残る小さな女の子は、事あるごとに泣き顔を見せていたことを思い出す。元々、フローラは泣き虫なのだ。感受性豊かな彼女は小さな虫一匹が寿命を迎えたとしても、その一生に思いを馳せて泣いてしまうような心優しい女の子だ。成長と共にその泣き虫を押さえる術を身に着け、今となっては泣き虫フローラの姿を見ることはないが、唯一アンディの前ではその押えが外れてしまうことを、たった今二人とも知った。
アンディは幼い頃のように、フローラを慰めようと両手を伸ばそうとした。左手にしていた杖が草地に倒れ、転がった。左に重心をかけていたアンディの長身がぐらつく。膝を折り、柔らかな草地に尻餅をついたアンディを見て、フローラは慌てたように正面にしゃがみこむ。
「アンディ、大丈夫?」
「うん、大丈夫。フローラこそ、大丈夫?」
「……大丈夫じゃなわけ、ないじゃない」
「えっ? どこか痛む? 転んだようには見えなかったけど」
「アンディがちゃんとお返事してくれるまで、きっと私、泣き続けるわ」
そう言って笑って涙を零すフローラを見て、アンディはつい先ほどの彼女からの告白を思う。想い人からの告白を受ければ、答えは是しかないのだが、驚きに身を硬くしているアンディは混乱した脳内でばらつく考えをまとめるのに必死だ。
「あ、あの、少しだけ時間をもらってもいいかな。覚悟を決めるのにちょっと時間が必要と言うか……」
「あら、私はまたお返事を待たされるのね。また袖にされたらどうしたらいいのかしら」
「袖になんてしないよ! だって、でも、やっぱりほんの少し、ちゃんと考える時間が欲しいかな」
「何を考える時間が欲しいの?」
「プロポーズの言葉を考える時間……」
「どうしようかな」
フローラはそう言って涙の止まった目を擦り、手提げ籠の中からガラス瓶を取り出した。アンディがそれを受け取ると、蓋を開けて一口水を飲む。求婚したわけでもないのに、既にアンディの喉はカラカラに乾いていた。しかし火傷の熱に苛まれる不快な渇きではない。この喉の渇きの先には、命尽きるまで彼女と共にいられる時間が続く幸せが待っている。喉を通る水の冷たさはあっという間に消え、すぐに全身を熱が駆け巡るが、アンディは初めてその熱に歓喜しそうになった。
「もう一度、あの曲を吹ける?」
フローラの声はまだ涙声だった。しかし彼女の海のような青い瞳は陽光を受けてきらきらと輝き、そこに悲しみはない。
「うん。この曲はね、実は君を想って吹いていた曲なんだ」
「……うん。そうだったらいいなって、思ってた」
草地に座ったまま、アンディは再び彼女のために笛を吹き鳴らした。一つ一つの音がフローラの胸の奥にまで染みわたる。明日に伸ばしたプロポーズなど問題ではないと、今この場で奏でられる愛の旋律を、アンディは隣の彼女を想いながら、フローラは隣の彼を想いながら、静かに耳を澄ませ聴き入っていた。フローラが横で身体を軽くもたれかけても、もうアンディは動揺したりせずに、最後まで旋律を奏で切ることができた。そうして顔を見合わせ合った二人の周りには、既に求婚をして、求婚を受け入れたも同然の甘やかで温かな空気が包んでいた。

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